夜明け前。
リオードの空は、まだ群青色に沈んでいた。
東の砂丘だけが薄く白み、街の建物は長い影のように静まり返っている。
昼間は商人の声と荷車の音で満ちている大通りにも、今は人影が少ない。
聞こえるのは、オアシスから引かれた水路の音。
遠くで鳴く荷獣。
出発の準備を始めた隊商が、木箱を積み直す小さな物音だけだった。
宿の食堂では、三人が最後の朝食を取っていた。
昨夜、ザルドが作った羊肉と豆の煮込み。
一晩置いたことで肉と豆へ香辛料の味が馴染み、昨日よりも濃くなっている。
平たいパンを千切り、煮汁へ浸す。
湯気と共に立ち上る肉の香りが、まだ冷たい朝の空気を押し退けていた。
「朝から重くねぇか?」
そう言いながら、バンは二杯目を器へよそっていた。
「食ってから言うな」
ザルドが答える。
「うまいから食ってんだよ」
「なら黙って食え」
バンはパンを煮込みへ沈め、口へ放り込む。
正面に座るアルフィアは、小さく切ったパンと煮込みを静かに食べていた。
昨夜の霧酒はすでに荷物の中だ。
瓶の中身は、約束どおり半分ほど残されている。
アルフィアが保管しているため、バンが勝手に飲むこともできない。
「なあ」
「駄目だ」
「まだ何も言ってねぇぞ」
「酒なら駄目だ」
「朝から飲むとは言ってねぇよ」
「では何だ」
「瓶、オレが持ってもいいだろ」
「駄目だ」
「結局同じじゃねぇか」
アルフィアは返事をせず、器へ視線を戻した。
バンがザルドを見る。
「信用されてねぇな」
「昨日の夜、残りを飲もうとしていただろう」
「眺めてただけだ」
「栓へ手を掛けていた」
「開けるか確認しただけだ」
「開くに決まっている」
「確かめねぇと分かんねぇだろ」
「分かる」
ザルドは煮込みの残りを木製の容器へ移した。
容器の口へ布を被せ、さらに革紐で縛る。
昼までなら問題なく持つだろう。
「これは昼に食う」
「また同じか?」
「嫌なら保存食を食え」
「煮込みでいい」
「なら文句を言うな」
朝食を終える頃には、東の空が橙色へ変わり始めていた。
宿の主人が奥から現れ、三人の机へ冷たい水を置く。
「今日、出るんだったな」
「ああ」
ザルドが答えた。
「オラリオまで?」
「そのつもりだ」
「長い旅になる。街道は使えるが、途中から荒れた道も増えるぞ」
「何かあったのか?」
「大きな話じゃない。砂嵐で道標が埋まったり、野盗が出たり、その程度だ」
「十分面倒じゃねぇか」
バンは水を飲みながら言った。
宿の主人は笑う。
「あんたたちなら、野盗の方が運が悪いだろうよ」
「違いねぇな」
「お前は武器を使うな」
アルフィアが即座に釘を刺した。
「分かってるよ」
「本当に?」
「クレシューズは背負ってるだけだ」
「《強奪》も必要以上に使うな」
「何でだよ」
「街道ごと何かを奪いかねない」
「そんな雑な使い方しねぇよ」
「お前ならやる」
宿の主人は三人のやり取りを眺め、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、食堂を出る前に、小さな包みを差し出した。
「道中で食え」
中には、硬く焼いた平たいパンと、薄く切った干し肉が入っていた。
「いいのか?」
「何日も泊まってもらったからな。それに、あの子供たちが朝から宿の前をうろついてる」
「子供?」
「見送りたいらしい」
バンは少しだけ目を丸くした。
「大げさだな」
「助けられた方は、そう思ってないんだろうさ」
バンは包みを受け取り、軽く持ち上げた。
「ありがとな」
「ああ。また来い」
「生きてりゃな」
「縁起でもないことを言うな」
アルフィアの声が飛ぶ。
「分かってるって」
三人は宿を出た。
◇
リオードの朝市は、ようやく目を覚まし始めたところだった。
天幕を広げる商人。
香辛料の箱を並べる若者。
井戸水を汲み、店先へ撒く女。
昨日まで見慣れていた光景が、今日は少し違って見える。
バンの背には、新しい旅用の背負い袋。
片側には、布で包まれたクレシューズ。
反対側には、木箱と布で固定された名もない結晶。
二つの間には厚い仕切りがあり、歩いてもぶつかることはない。
修繕された赤いコートの裾が、朝の風に揺れていた。
「重くないか?」
ザルドが尋ねる。
「全然」
「強がるな」
「この程度で強がるかよ」
バンは軽く肩を上下させる。
中身が動く音はしない。
昨日、何度も調整しただけはあった。
腰の革帯が重さを支え、肩へ負担が集中しない。
「走るなよ」
アルフィアが言う。
「走らねぇよ」
「飛ぶな」
「飛ばねぇよ」
「戦うな」
「それは状況によるだろ」
「戦うなら素手でやれ」
「結局戦っていいのかよ」
「クレシューズを使うなと言っている」
「分かってる」
大通りの先。
街門の近くに、獣人の少年たちが立っていた。
昨日、干し果物を渡してくれた子供たちだ。
少年はバンの姿を見つけると、すぐに手を振った。
「兄ちゃん!」
「朝から元気だな」
「本当に行くんだな」
「ああ」
「今日?」
「今からだ」
少年たちは、背負い袋を見上げる。
「それ、武器?」
「半分はな」
「もう半分は?」
「面倒な石」
「宝石?」
「たぶん、違ぇな」
「売らないの?」
「売るなと言われてる」
バンがアルフィアを指す。
子供たちは彼女の方を見て、すぐにバンへ視線を戻した。
「……売らない方がいいと思う」
「だろ?」
「怖いから」
「聞こえている」
アルフィアが言った。
少年たちの背筋が同時に伸びる。
ザルドが喉の奥で笑った。
「ほら」
少年が、小さな布袋を差し出した。
昨日とは別の包みだった。
「またか?」
「母ちゃんが、これも持ってけって」
「何が入ってる?」
「塩と香草。肉焼く時に使うと、うまいって」
バンは包みを受け取り、ザルドへ渡した。
「料理人用だな」
「預かろう」
ザルドは匂いを確かめる。
「悪くない。砂漠を抜けた後でも使える」
「母ちゃんに言っとく」
「礼もな」
「うん」
別の少女がアルフィアを見上げる。
「お姉ちゃんも行くの?」
「そうだ」
「兄ちゃんが怪我しないように見ててね」
数秒。
アルフィアは答えなかった。
バンが横で笑いを堪える。
「聞いたか?」
「黙れ」
「頼まれたぞ」
「お前が勝手なことをしなければ済む」
少女は真剣な顔で頷いた。
「兄ちゃん、言うこと聞いてね」
「何でオレだけ怒られてんだよ」
「怪我したから」
「治ったぞ」
「またするから」
バンは言葉を失った。
ザルドが肩を揺らす。
「子供にも見抜かれているな」
「うるせぇよ」
街門の前。
門番が三人へ手を上げる。
「道中、気をつけろ」
「そっちもな」
バンが答える。
門を抜ける。
白い街壁の外には、乾いた街道が伸びていた。
朝日に照らされた砂丘。
遠くに続く隊商の列。
荷獣の足跡。
風に削られた道標。
三人はしばらく歩き、街から少し離れたところで足を止めた。
バンが振り返る。
リオードの街壁。
その向こうから覗く建物の屋根。
オアシスの木々。
市場から上がる煙。
街門の近くでは、子供たちがまだ手を振っている。
「何だ?」
アルフィアが尋ねる。
「別に」
「忘れ物か?」
「ねぇよ」
「酒か?」
「それは持ってる」
「私がな」
「分かってるって」
バンは片手を上げ、子供たちへ振り返した。
声は届かない。
それでも、向こうの手がさらに大きく動いた。
「行こうぜ」
三人は再び街道へ向き直った。
リオードが、少しずつ遠ざかっていく。
◇
午前の街道は、まだ歩きやすかった。
砂は朝の冷気を残し、風も弱い。
街道沿いには、一定の間隔で石を積んだ道標が立っている。
行き交う隊商も多い。
リオードへ向かう者。
別の都市へ進む者。
短い挨拶だけを交わし、互いに道を譲る。
バンは普段より、僅かに歩幅を抑えていた。
背負い袋の中身を気にしているのだろう。
段差を越える時も。
砂が深い場所を歩く時も。
足元を確かめてから進んでいる。
「随分慎重だな」
ザルドが言った。
「悪いか?」
「いや」
「笑ってんじゃねぇよ」
「笑っていない」
「口元が上がってんぞ」
「お前でも荷物を大切に扱えるのだと思ってな」
「クレシューズだからな」
バンは肩越しに背負い袋を見る。
「そこらの荷物と一緒にすんな」
「結晶も入っている」
アルフィアが言う。
「そっちは落とさねぇためだよ」
「扱いに差をつけるな」
「相棒と石じゃ違うだろ」
「その石の方が、今は周囲へ害を及ぼす可能性が高い」
「分かってるって」
「本当に分かっているなら、昨日素手で触ろうとはしない」
「またその話かよ」
「一生言うと言った」
昼が近づくにつれ、日差しが強くなった。
三人は大きな岩陰を見つけ、そこで休憩を取る。
ザルドが宿の主人から受け取った包みを開いた。
硬いパン。
干し肉。
子供たちにもらった干し果物。
昨日買った棗椰子の菓子。
「菓子も出すのか?」
バンが尋ねる。
「一つだけだ」
ザルドが答える。
「誰が食う?」
「三つに分ける」
「小さくなるだろ」
「保存食だ」
アルフィアが言った。
「じゃあ、お前はいらねぇな」
「なぜそうなる」
「昨日、保存性を評価してただけって言ってただろ」
「食料として食べる」
「好きなんだろ?」
「雑音だ」
ザルドは菓子を三等分し、それぞれへ渡した。
アルフィアは何も言わず、受け取る。
バンはにやつきながら自分の分を口へ入れた。
「甘ぇな」
「水を飲め」
ザルドが言う。
「酒は?」
「夜だ」
アルフィアが答える。
「夜なら飲んでいいのか?」
「少量だけだ」
「話が分かるじゃねぇか」
「残りを飲み干したら、二度と返さない」
「半分残すよ」
「瓶の半分ではない。今残っている量の半分だ」
「どんどん少なくなってねぇ?」
「当然だ」
休憩を終え、再び歩き始める。
午後になると、街道を行く隊商の数は減った。
砂丘の高さも少しずつ低くなり、遠くに乾いた岩場が見え始める。
リオード周辺の柔らかな砂地から、砂と石の混ざる荒れた土地へ。
カイオス砂漠の端が近づいていた。
「今日中に砂漠を抜けられるか?」
バンが尋ねる。
「完全には無理だ」
ザルドが答える。
「夕方までに、砂の浅い場所へは出られる」
「野営は?」
「岩場の近くを探す」
「魔物は出るか?」
「地上の小型種くらいだ」
「食える?」
「ものによる」
「そこかよ」
「食えないものを倒しても仕方がない」
「襲われたら倒すだろ」
「食えるなら食う」
「悪食だな」
「お前に言われたくない」
大きな戦いは起きなかった。
遠くに小型の爬虫類型モンスターが姿を見せたが、三人の気配を察するとすぐに逃げた。
空を飛ぶ鳥型の魔物も、上空を旋回しただけで降りてこない。
ザルドとアルフィアから漏れる圧だけで、近づくことを諦めたのだろう。
「楽でいいな」
バンが言う。
「お前が余計なものを呼び寄せなければな」
「オレ、そんな体質じゃねぇぞ」
「ベヒーモスを見つけた」
「寝てたからだろ」
「アンタレスも見つけた」
「日記に書いてあったからな」
「十分だ」
「偶然だって」
「二度続けば疑う」
バンは反論しようとした。
だが、二人の視線を受け、諦めたように肩を竦めた。
◇
夕暮れ。
三人は、砂漠の端にある岩場へ辿り着いた。
周囲には低い岩山が連なり、その隙間に風を避けられる窪地がある。
地面にはまだ砂が積もっているが、足を取られるほど深くない。
少し離れた場所には、枯れた低木。
焚き火に使える枝も集められそうだった。
「ここにする」
ザルドが言った。
バンは背負い袋をゆっくりと下ろす。
平らな岩のそばへ置き、胸と腰の帯を外した。
「中身は?」
アルフィアが尋ねる。
「音はしなかった」
「確認する」
「開けるのか?」
「袋の外からだ」
アルフィアはクレシューズ側へ手を当てる。
次に、結晶側。
魔力は流さない。
包みの位置と、内部の温度だけを確かめる。
「動いていない」
「結晶は?」
「変化なし」
「なら大丈夫だな」
「今夜も勝手に開けるな」
「分かってるよ」
ザルドが焚き火の準備を始める。
バンは低木の枝を拾い集めた。
アルフィアは周囲を見回し、風の流れと足跡を確認している。
人の足跡はない。
小動物らしき痕跡がいくつか。
危険な魔物の気配もなかった。
日が沈む。
砂丘の向こうへ太陽が消えると、空は一気に暗くなった。
昼の熱が抜け、風が冷たくなる。
焚き火の上では、朝の煮込みが小鍋で温め直されていた。
水を少し加え。
子供たちからもらった塩と香草を足す。
昨日とは違う香りが立ち上る。
「いい匂いだな」
「まだ食うな」
「見てるだけだ」
「匙を持っている」
「味見用だ」
「置け」
バンは仕方なく匙を戻した。
アルフィアが、荷物から霧酒の小瓶を取り出す。
バンの目がすぐに向く。
「お」
「少しだけだ」
「分かってる」
アルフィアは、小さな杯へごく僅かに注いだ。
瓶はすぐに栓をされる。
「少なくねぇ?」
「十分だ」
「ザルドの分は?」
「俺は今日は飲まん」
「何でだよ」
「見張りだ」
「オレも見張れるぞ」
「飲む前から信用がない」
「ひでぇな」
バンは杯へ数滴の水を落とした。
透明な酒が、乳白色へ変わる。
焚き火の光を受け、白い霧のように揺れた。
「最後のリオードだな」
「瓶にはまだ残っている」
アルフィアが言う。
「そういう意味じゃねぇよ」
バンは杯を軽く持ち上げる。
「街で飲むのと、外で飲むのじゃ違うだろ」
一口。
香草の鋭い香り。
喉を焼く熱。
冷え始めた身体の内側へ、火が落ちていく。
「うまい」
「一気に飲むな」
「飲んでねぇよ」
「杯が空だ」
「少なかったからな」
「追加はない」
「分かってるって」
ザルドが煮込みを三つの器へ分けた。
旅の最初の夕食。
特別な料理ではない。
昨日の残り。
硬いパン。
干し果物。
それでも、焚き火の前で食べる煮込みは、宿で食べた時とは違う味がした。
「香草、合うな」
バンが言う。
「あの子供の家で使っている配合だろう」
ザルドが答える。
「リオードの味か」
「ああ」
アルフィアが煮込みを口へ運ぶ。
「悪くない」
「そればっかだな」
「不味くないのだから十分だ」
「うまいでいいだろ」
「雑音だ」
食事を終えた後。
ザルドが最初の見張りを引き受けた。
アルフィアは岩壁へ背を預け、目を閉じる。
バンは背負い袋の隣へ座っていた。
夜空には、無数の星。
リオードの灯りは、もう見えない。
街の喧騒も。
市場の匂いも。
夜市の音楽も届かない。
あるのは、風と焚き火の音だけ。
バンは背負い袋へ手を置く。
「一日目は無事だったな」
「武器へ話しかけるな」
目を閉じたまま、アルフィアが言った。
「起きてんのかよ」
「お前がうるさい」
「小声だろ」
「雑音は大きさではない」
「便利な言葉だな」
バンは笑い、袋から手を離した。
その時。
布と革の奥から。
ちり、と。
小さな金属音が鳴った。
ザルドが焚き火の向こうから視線を向ける。
アルフィアも目を開く。
「今、動かしたか?」
「手を置いただけだ」
「開けるな」
「分かってるよ」
バンは背負い袋を見下ろす。
「元気そうじゃねぇか」
「偶然だ」
アルフィアが言う。
「そうかもな」
バンは否定しなかった。
ただ、僅かに口元を上げる。
「オラリオまで、もう少し付き合えよ」
返事はなかった。
焚き火が小さく弾ける。
砂漠の夜風が、修繕された赤いコートの裾を揺らした。
背後には、オアシス交易都市リオード。
前には、遠い迷宮都市オラリオ。
傷ついた相棒と。
名もない結晶と。
暴食の戦士と、静寂の魔女。
三人の旅は、再び動き始めた。
今回は、リオードを出発し、砂漠の端で最初の野営を迎える回でした。
特に、子供たちから受け取った塩と香草によって、旅先でもリオードの味が残る場面がお気に入りです。