第47話 砂漠の終わり
朝。
バンが目を覚ました時、焚き火はすでに消えかけていた。
赤く残った炭の上で、細い煙だけが揺れている。
岩場の向こうから差し込む朝日が、砂混じりの地面を斜めに照らしていた。
「……寒ぃな」
バンは身体を起こし、肩に掛けていた毛布を落とす。
昼間は肌を焼くほど暑かった砂漠も、夜から明け方にかけては冷える。
煉獄を越えたバンにとって、耐えられない寒さではない。
だが、寒いものは寒い。
「ようやく起きたか」
少し離れた場所で、ザルドが小鍋を火へ掛けていた。
いつの間にか焚き火も起こし直されている。
鍋からは、湯気と共に香草の匂いが立ち上っていた。
「朝飯か?」
「湯だ」
「飯じゃねぇのかよ」
「起きて最初の言葉がそれか」
「腹減ったからな」
「昨夜、俺たちの倍は食っていただろう」
「寝たら減った」
「便利な腹だな」
バンは立ち上がり、背伸びをした。
骨が軽く鳴る。
腕も脇腹も、昨日までの傷が嘘のように動く。
視線は自然と、岩壁のそばに置かれた背負い袋へ向いた。
クレシューズと名もない結晶。
二つとも、昨夜と同じ位置にある。
「夜は何もなかったか?」
「お前のいびき以外はな」
岩へ背を預けていたアルフィアが目を開いた。
「オレ、いびきなんてかいてねぇだろ」
「かいていた」
「嘘だな」
「なぜ私がお前のいびきについて嘘をつく」
「嫌がらせ」
「そんなものを考える時間が惜しい」
アルフィアは立ち上がり、服についた細かな砂を払う。
「お前のいびきで、小型の獣が逃げた」
「魔物除けになったならいいじゃねぇか」
「誇るな」
ザルドが湯を三つの器へ分ける。
干した柑橘の皮が一欠片ずつ浮いていた。
ただの湯ではなく、香りをつけたものらしい。
「酒の方が温まるぞ」
「朝から飲むな」
「言ってみただけだ」
「昨夜と同じ言い訳だな」
アルフィアは器を受け取り、ゆっくり口をつけた。
バンも湯を飲む。
柑橘の苦味。
僅かな酸味。
冷えた身体へ、熱がゆっくりと広がっていく。
「悪くねぇな」
「酒よりはましだろう」
「比べるもんじゃねぇよ」
朝食は、硬いパンと干し肉。
それに、昨日リオードの子供たちから受け取った干し果物だった。
ザルドが包みを開き、三種類の果物を均等に分けていく。
薄く切った柑橘。
甘い棗椰子。
酸味の強い赤い実。
「それだけか?」
バンが尋ねる。
「朝は軽くする」
「昨日は重い煮込み食っただろ」
「昨日は旅立ちの日だった」
「今日は?」
「歩く日だ」
「毎日歩くだろ」
「黙って食え」
バンは干し肉をパンへ挟み、大きく齧った。
硬い。
しばらく噛まなければ飲み込めない。
「顎鍛える食いもんだな」
「保存食に柔らかさを求めるな」
「ザルドなら、もうちょっとうまくできるだろ」
「街を出て一日で贅沢を言うな」
アルフィアは棗椰子を一つ取った。
小さく口へ運ぶ。
バンはすぐに気づいた。
「やっぱ、それから食うんだな」
「何がだ」
「甘い奴」
「偶然だ」
「昨日も最初に食ってたぞ」
「覚えていない」
「オレは覚えてる」
「忘れろ」
「そんな気に入ったなら、もっと買えばよかったな」
「必要ない」
「まだ三つ残ってるぞ」
「保存食だ」
「はいはい」
アルフィアの視線が鋭くなる。
バンは笑いながら、自分の赤い実を口へ入れた。
次の瞬間。
「酸っぱ……!」
顔が歪む。
ザルドがこちらを見る。
「大げさだ」
「食ってみろよ」
ザルドは赤い実を一つ口へ入れる。
表情は変わらない。
「酸味は強いが、食えないほどではない」
「舌まで頑丈なのかよ」
「お前が弱いだけだ」
アルフィアも赤い実を食べる。
僅かに眉が動いた。
それだけだった。
「お前も酸っぱいと思っただろ」
「思っていない」
「今、顔動いたぞ」
「砂が目に入った」
「目、閉じてるじゃねぇか」
「雑音だ」
食事を終え、三人は野営跡を片づけた。
火へ砂を掛け。
使った器を布で拭き。
毛布を畳む。
バンは背負い袋を慎重に持ち上げた。
肩へ掛ける前に、外側から中身の位置を確かめる。
「毎回やるのか?」
ザルドが尋ねる。
「悪いかよ」
「いや」
「また笑ってんな」
「お前が慎重にしていると、妙な気分になるだけだ」
「オレだって大事なもんくらい丁寧に扱う」
「自分の身体は?」
アルフィアが言った。
「それは丈夫だからな」
「クレシューズも丈夫だった」
「……それは言うなよ」
バンの手が一瞬止まった。
アルフィアも、それ以上は言わなかった。
袋を背負う。
胸の帯。
腰の帯。
しっかりと固定する。
「行くか」
「ああ」
三人は岩場を離れた。
◇
歩き始めて二時間ほど。
景色は、少しずつ変わり始めていた。
背後には、まだ砂丘が続いている。
だが前方には、砂よりも石の方が多い土地が広がっていた。
低い岩。
ひび割れた地面。
乾いた草。
ところどころに、背の低い灌木。
カイオス砂漠の果て。
砂だけの世界が、ようやく終わろうとしている。
「まだ砂漠なのか?」
バンが足元を見ながら尋ねた。
「境目だ」
ザルドが答える。
「地図に線が引いてあるわけではない。砂が減り、荒野が増える」
「分かりやすく門でも建てりゃいいのにな」
「誰が建てる」
「近くの国」
「この辺りを管理する国などない」
「じゃあ、勝手に建ててもいいのか?」
「何のために?」
「砂漠の終わりって書いとく」
「旅人が迷う」
「分かりやすいだろ」
「砂が風で移動したら、門の位置と境目が合わなくなる」
「細けぇな」
「お前が何も考えていないだけだ」
アルフィアは前を向いたまま言った。
風の匂いも変わっていた。
これまでの乾いた砂の匂いに、土と植物の匂いが混じっている。
ほんの僅か。
それでも、砂漠を長く歩いた後でははっきりと分かった。
「草の匂いだな」
バンが鼻を鳴らす。
「ああ」
「久しぶりな気がする」
「エルソスの森にいただろう」
「戦ってばっかで、匂い楽しんでる暇なかったからな」
「自業自得だ」
乾いた草の間から、小さな動物が飛び出した。
灰色の毛。
長い耳。
兎に似ているが、後ろ脚が長く、尾の先が黒い。
動物は三人を見ると、岩陰へ逃げていった。
「食えるか?」
バンがザルドへ尋ねる。
「開口一番それか」
「兎っぽかったぞ」
「地上の野生動物だ。食えるだろうが、今は追う必要がない」
「逃げ足速そうだったな」
「追うな」
アルフィアが言う。
「追わねぇよ」
「お前は目で追っている」
「見るくらいいいだろ」
「背負っているものを忘れるな」
「忘れてねぇって」
バンは背負い袋の肩紐を軽く引いた。
袋はほとんど揺れない。
クレシューズから音も聞こえない。
名もない結晶にも変化はなかった。
それでも、バンは時折、背中を気にしていた。
武器を使えないからではない。
クレシューズが傷ついたまま、声もなく運ばれていることが落ち着かないのだろう。
「止まるか?」
ザルドが尋ねた。
「何で?」
「さっきから後ろを気にしている」
「中身が動いてねぇか見てただけだ」
「音はしていない」
「ああ」
「なら問題ない」
「分かってるよ」
バンは前へ向き直った。
少しだけ歩調を速める。
ザルドとアルフィアは、何も言わずそれに合わせた。
◇
正午。
三人は、風に削られた大岩の陰で休憩を取った。
砂漠を抜けたとはいえ、日差しはまだ強い。
岩陰へ入るだけで、体感する暑さが大きく変わる。
バンは背負い袋を下ろし、平らな地面へ置いた。
まずクレシューズ側。
次に結晶側。
外から触れて確認する。
「どうだ」
アルフィアが尋ねた。
「変わってねぇ」
「結晶は?」
「冷たいままだ」
「黒紫色の力は漏れていない」
アルフィアも袋の外側へ手を添える。
魔力は使わない。
僅かな温度と気配だけを探る。
「問題ない」
「毎回二人で確認すんのか?」
「お前一人では信用できない」
「オレが先に確認してんだろ」
「その確認を信用していない」
「ひでぇな」
ザルドが食料を出した。
昼は硬いパンと干し肉。
朝とほとんど変わらない。
違うのは、リオードでもらった塩と香草を、干し肉へ少し振ったことだけだった。
「お」
バンが一口齧る。
「朝よりうまいな」
「あの子供たちの家の味だ」
「肉焼く時に使うって言ってたけど、干し肉でも合うな」
「塩と香草だからな」
「何でもザルドに渡しときゃ、うまくなるんじゃねぇか?」
「限度はある」
「アルフィアの料理は?」
ザルドの手が止まった。
アルフィアの顔が、ゆっくりとバンへ向く。
「何だ」
「いや。お前が作った飯も、ザルドならうまくできるかなって」
「喧嘩を売っているのか?」
「料理できんの?」
「できる」
「何が作れる?」
「必要なものは作れる」
「具体的には?」
「湯を沸かす」
「料理じゃねぇだろ」
「薬草を煮る」
「薬じゃねぇか」
「食べられる」
「食えるかどうかの話じゃねぇよ」
ザルドが低く笑った。
「何がおかしい」
「いや。以前、お前が作ったものを思い出しただけだ」
「余計なことを言うな」
「何作ったんだ?」
バンが身を乗り出す。
「黙れ」
「気になるだろ」
「雑音だ」
アルフィアは干し肉を口へ運び、それ以上は答えなかった。
ザルドも、珍しく話題を続けなかった。
バンだけが二人を交互に見る。
「絶対なんかあっただろ」
「食事中だ」
「後で聞く」
「忘れろ」
「無理だな」
昼食の最後に、ザルドが干し果物を出した。
赤い実。
柑橘。
そして棗椰子。
アルフィアは自然な動きで棗椰子を取る。
バンは何も言わず、その手元を見る。
アルフィアが止まる。
「何だ」
「別に」
「言え」
「また最初に甘いの取ったなって」
「偶然だ」
「三回目だぞ」
「偶然は続く」
「便利だな」
アルフィアは棗椰子を二つに割った。
片方をバンへ投げる。
「食え」
バンは片手で受け取る。
「くれんの?」
「黙らせるためだ」
「優しいじゃねぇか」
「返せ」
「もう食った」
バンはすぐに口へ放り込んだ。
アルフィアは目を細める。
「次は石を投げる」
「それは食えねぇな」
「お前なら食え」
「ザルドじゃねぇんだから」
「俺でも石は食わん」
ザルドが言った。
「昔は食ったことありそうだな」
「ない」
「即答かよ」
乾いた荒野に、三人の声が響く。
砂漠の中では風に消えていた会話が、この場所では岩へ当たり、少しだけ返ってきた。
◇
午後。
砂地はさらに減った。
足元は固い土へ変わり、歩くたびに靴の裏から乾いた音がする。
遠くには、低い丘が連なっていた。
そのさらに向こう。
薄い緑色の帯が見える。
「森か?」
バンが目を細める。
「まだ森ではない」
ザルドが答える。
「草原に近い地域だ。水場も増える」
「やっと水袋気にしなくてよくなるな」
「水場があることと、安全に飲めることは別だ」
アルフィアが言った。
「煮沸すりゃいいだろ」
「お前が湯を沸かすのか?」
「アルフィアが得意らしいぞ」
「消すぞ」
「冗談だって」
道らしきものも見え始めた。
獣や旅人が何度も通ったことで、草の少ない細い線が地面に続いている。
まだ主要街道ではない。
だが、人の往来がある証拠だった。
ザルドがしゃがみ、地面を見る。
「新しい車輪の跡だ」
「隊商か?」
「小規模だな。荷車は二台か三台」
「追いつく?」
「向こうも移動している。今日中は無理だろう」
「明日なら会うかもしれねぇな」
「ああ」
バンは車輪の跡を見下ろした。
リオードを出てから、三人だけで歩いてきた。
だが、これから先は人の行き来が増える。
隊商。
旅人。
村。
宿場町。
砂漠とは違う土地と、違う暮らし。
「飯も変わるか?」
「最初に気にするのがそれか」
アルフィアが呆れたように言う。
「土地が変わりゃ、食いもんも変わるだろ」
「間違ってはいない」
ザルドが答えた。
「砂漠では、保存性と水の消費が重視される。草原や農村部へ入れば、野菜や乳製品が増える」
「酒は?」
「増えるだろう」
「いい土地だな」
「まだ着いていない」
「楽しみは早い方がいいだろ」
アルフィアは小さく息を吐いた。
「お前はどこへ行っても同じだな」
「腹減るのは変わらねぇからな」
歩き続ける。
太陽が西へ傾く。
背後を振り返れば、砂丘はもう遠い。
風に霞み、黄金色の波のように連なっている。
リオードは見えない。
カイオス砂漠も、少しずつ地平線の向こうへ沈んでいく。
「終わりだな」
バンが呟いた。
「何がだ」
「砂漠」
ザルドが背後を見る。
「完全に抜けたわけではない。だが、ここから先は荒野だ」
「じゃあ、砂漠の終わりでいいだろ」
「ああ」
アルフィアも、一度だけ振り返った。
ベヒーモス。
黒い砂。
リオード。
エルソス遺跡。
アンタレス。
この砂漠で起きたことは、あまりにも多い。
バンは傷ついたクレシューズを背負っている。
ザルドの身体には、ベヒーモスの毒が残っている。
アルフィアの身体にも、癒えない病がある。
何一つ、すべてが終わったわけではない。
それでも三人は、砂漠の外へ出た。
「行くぞ」
アルフィアが前を向く。
「今日はどこまで?」
「日が落ちる前に、水場を探す」
「酒は?」
「水場と言った」
「聞いてみただけだ」
ザルドが歩き出す。
バンも、その隣へ並ぶ。
背負い袋の中から、音はしない。
だが、その重さは確かに背中にある。
バンは肩紐を一度だけ握り直した。
「次は荒野か」
風が吹く。
砂の匂いは薄い。
代わりに、乾いた草と土の匂いがした。
三人の前には、細い道が続いている。
どこかの村へ。
どこかの街へ。
そして、遥か遠い迷宮都市オラリオへ。
砂漠を越えた旅人たちは、新しい土地へ足を踏み入れた。
第8部が始まりました。
今回は、カイオス砂漠を抜け、景色や空気が荒野へ変わっていく様子を描いています。
特に、アルフィアが棗椰子を半分バンへ投げ、「黙らせるためだ」と言う場面がお気に入りです。