砂漠を抜けた翌日。
三人の前には、乾いた荒野がどこまでも続いていた。
砂丘はもう見えない。
地面を覆うのは、固く乾いた土と、風に削られた小石。
ところどころに背の低い草が生え、その間を細い獣道が縫うように伸びている。
空は高く、雲は少ない。
遮るもののない風が、バンの赤いコートを大きく揺らしていた。
「砂漠より歩きやすいな」
バンが言う。
足元が沈まない。
靴の裏が地面を踏むたび、乾いた音が返ってくる。
「砂に足を取られない分だけな」
ザルドが答えた。
「ただし、隠れる場所が少ない。雨や風が強くなれば面倒だ」
「雨なんて降りそうにねぇぞ」
「今の空だけを見て判断するな」
アルフィアが前を向いたまま言う。
「砂漠へ入る前も、お前は似たようなことを言っていた」
「何か言ったか?」
「覚えていないことが問題だ」
「細かいことまで覚えてられっかよ」
「お前は必要なことまで忘れる」
「お前が覚えてるならいいだろ」
「私をお前の記録係にするな」
バンは笑いながら、背負い袋の肩紐を握り直した。
昨日と同じように、片側にはクレシューズ。
もう片側には、名もない結晶。
荒野へ入ってからも、二つに変化はない。
金属音も。
黒紫色の力が漏れる気配もなかった。
それでも、道が大きく窪んでいる場所では、バンは歩幅を狭めて進んでいる。
ザルドが横目で見る。
「以前より慎重になったな」
「何度も言うなよ」
「事実だ」
「落としたら、アルフィアがうるせぇからな」
「私のせいにするな」
「じゃあ、落としていいか?」
「殺すぞ」
「ほらな」
「脅されなければ大切に扱えないのか」
「大事にしてるって」
バンは背中へ手を回し、袋を軽く叩こうとする。
「叩くな」
アルフィアの声が飛んだ。
手が止まる。
「軽くだぞ」
「軽くても駄目だ」
「中身が動いてねぇか確かめようとしただけだ」
「手で叩いて確かめるな」
「難しい奴だな」
「お前が雑なだけだ」
朝から同じようなやり取りを繰り返しながら、三人は街道を進んでいた。
街道と言っても、石が敷かれているわけではない。
荷車が何度も通り、草が生えなくなった幅広い土の道。
ところどころに車輪の跡が残り、蹄の形が重なっている。
昨日見つけた跡より、新しいものもあった。
ザルドが足を止め、地面を見る。
「今朝通ったようだな」
「隊商か?」
バンが尋ねる。
「荷車は四台ほど。荷獣もいる」
「追いつくか?」
「向こうの速度次第だ」
「走る?」
「走らない」
アルフィアが即座に答えた。
「オレ一人なら、すぐ追いつけるぞ」
「追いついてどうする」
「道を聞く」
「道は続いている」
「飯を分けてもらう」
「保存食がある」
「酒を持ってるか聞く」
「必要ない」
「一つくらい理由を認めろよ」
「全て不要だ」
バンは不満そうに口を尖らせた。
「まあ、今日中に会えるだろう」
ザルドが言う。
「荷車を引いているなら、俺たちより遅い」
「じゃあ急がなくていいか」
「ああ」
バンは歩調を戻した。
道の左右には、少しずつ植物が増えている。
黄色く乾いた草。
細い葉を持つ低木。
地面へ張りつくように広がる肉厚な植物。
砂漠では見なかった、小さな白い花も咲いていた。
バンがその前で足を止める。
「食えるか?」
「花を見るたびにそれを聞くな」
アルフィアが言う。
「腹減ったからな」
「朝食を食べてから、まだ二時間だ」
「歩いたから減った」
ザルドが白い花の葉を摘み、指で潰した。
青い匂いが風へ混じる。
「食用ではない」
「毒か?」
「弱い薬草だ。煮出せば、喉や腹の痛みに使える」
「じゃあ持ってくか?」
「必要な分だけな」
ザルドは根を傷つけないよう、葉だけを数枚摘んだ。
布へ包み、薬草を入れている小袋へ収める。
「料理にも使える?」
「苦い」
「アルフィアに食わせるか」
「福音《ゴスペル》」
場違いなほど澄んだ鐘の音が鳴った。
次の瞬間。
目に見えない衝撃が、バンの顔面へ真っ直ぐ放たれる。
「おっと」
バンは首を傾けるようにして、それを避けた。
不可視の砲撃が銀色の髪を掠め、背後にあった岩の表面を大きく抉る。
「冗談だって」
「次は当てる」
「苦いもん食わせるだけで殺す気かよ」
「雑音を消そうとしただけだ」
「相変わらず物騒だな」
「なら黙れ」
三人は再び歩き出した。
◇
正午を少し過ぎた頃。
街道の脇に、細い水の流れが現れた。
低い丘の間から湧き出した水が、浅い溝を通って荒野の先へ流れている。
川と呼ぶには細い。
だが、砂漠を歩き続けた三人にとって、流れる水を見るだけでも新鮮だった。
「水だ」
バンが道を外れる。
「待て」
アルフィアの声に、足を止める。
「飲むつもりか?」
「喉渇いたからな」
「安全か確認していない」
「流れてるぞ」
「流れていれば安全だと思うな」
「砂漠の井戸水は飲んでただろ」
「管理された井戸と同じにするな」
ザルドが水辺へしゃがみ込む。
流れの上流。
泥の色。
周囲の植物。
獣の足跡。
水の中に死骸や異物がないかを確かめる。
指先へ少量取り、匂いを嗅いだ。
「大きな問題はなさそうだ」
「ほらな」
「だが、一度沸かす」
「すぐ飲めねぇのかよ」
「水袋に残っている水を飲め」
「新しい方が冷たそうだぞ」
「腹を壊したいなら勝手にしろ」
アルフィアが言う。
「お前の治療はしない」
「この程度で腹壊す身体じゃねぇよ」
「なら飲めばいい」
「……何か怖ぇな」
「好きにしろ」
バンは水へ伸ばしていた手を引っ込めた。
「沸かすまで待つ」
「最初からそうしろ」
水辺から少し離れた場所に、大きな木が一本立っていた。
枝は横へ広がり、荒野の中へ濃い影を落としている。
三人は木陰へ入り、昼の休憩を取ることにした。
ザルドが小鍋へ水を入れ、火へ掛ける。
バンは背負い袋をゆっくり下ろし、幹へ立てかけた。
「確認する」
アルフィアが言う。
「毎回やるな」
「当然だ」
クレシューズ側へ触れる。
結晶側へ触れる。
温度。
包みの位置。
外へ漏れる気配。
「変化なし」
「オレもそう思う」
「聞いていない」
「ひでぇな」
昼食は、干し肉と硬いパン。
昨日とほとんど同じだった。
バンがパンを見下ろす。
「そろそろ違うもん食いたくならねぇ?」
「二日目だぞ」
ザルドが言う。
「二日も同じだ」
「街へ着けば変わる」
「今日着く?」
「分からん」
「隊商に追いついたら何か売ってもらうか」
「食料を積んでいればな」
「酒も?」
「お前はそればかりだな」
「酒は土地ごとに味が違うからな」
「食事より熱心だ」
「飯も大事だぞ」
バンは干し肉を齧る。
硬さに眉を寄せる。
「でも、これはそろそろ飽きた」
ザルドは何も言わず、周囲を見た。
水辺の近く。
木の根元。
風が運んできた匂い。
少し離れた草むらへ歩いていく。
「何だ?」
「食えるものを探す」
「あるのか?」
「水がある場所には植物も動物も集まる」
ザルドは草をかき分けた。
しばらくして、小さな葉を束にして戻ってくる。
丸みのある緑色の葉。
赤紫色の細い茎。
「それ食えんの?」
「若い葉はな。少し苦いが、火を通せば食える」
「肉は?」
「見つからん」
「残念だな」
「十分だろう」
ザルドは葉を水で洗い、細く刻んだ。
干し肉も小さく切り分け、小鍋へ入れる。
湧き水。
干し肉。
野草。
塩。
リオードの子供たちからもらった香草。
簡単な汁物が作られていく。
「さっき昼飯食い始めてなかったか?」
「パンは残しておけ」
「汁につけるのか」
「ああ」
「最初からそうしろよ」
「お前が急いで肉を齧った」
「腹減ってたからな」
湯気と共に、肉と香草の匂いが広がる。
アルフィアが鍋を見る。
「野草は安全なのか」
「似た毒草はあるが、茎の色と葉の形が違う」
「確実か?」
「俺が食う」
「毒見にならねぇだろ」
バンが言った。
「お前、毒でも普通に食いそうだし」
「毒の有無は分かる」
「味で?」
「ああ」
「便利だな」
ザルドは汁を一口飲む。
少し考え、塩を足した。
「できたぞ」
三つの器へ分けられる。
バンは硬いパンを千切り、汁へ浸した。
一口。
干し肉の塩気。
野草の僅かな苦味。
香草の匂い。
「うまい」
「朝と昼の干し肉が同じとは思えねぇな」
「調理すれば変わる」
「毎回やってくれよ」
「薪と水と時間があればな」
アルフィアも汁を口へ運ぶ。
「苦味が残る」
「嫌か?」
ザルドが尋ねる。
「悪くない」
「甘い菓子ばっかよりいいだろ」
バンが言った。
「お前の分へ苦い薬草を入れてやる」
「まだ根に持ってんのかよ」
「忘れていないだけだ」
バンは笑いながら、器を空にした。
◇
午後になると、空に雲が増え始めた。
薄い灰色の雲。
日差しは弱まり、風が少し冷たくなる。
「雨か?」
バンが空を見る。
「可能性はある」
ザルドが答える。
「朝、降りそうにないって言った奴がいたな」
アルフィアが言う。
「まだ降ってねぇだろ」
「時間の問題だ」
「少しくらい濡れてもいいじゃねぇか」
「荷物は濡らすな」
「防水布あるだろ」
「雨が降り始める前に使え」
「まだ早ぇよ」
「空を見ろ」
遠くの丘の上。
灰色の雲から、細い筋が地面へ伸びている。
雨だ。
こちらへ向かって、風も変わり始めていた。
「本当に降るな」
「お前の予想は役に立たない」
「たまたまだろ」
三人は街道脇の岩陰へ移動した。
バンは背負い袋を下ろし、購入していた防水布で全体を包む。
革紐を二重に巻き、口を閉じる。
「どうだ?」
「隙間がある」
アルフィアが指摘する。
「これくらい入らねぇよ」
「風で捲れる」
「じゃあ、ここか」
紐を締め直す。
「まだ甘い」
「細けぇな」
「中身を濡らしたくないのはお前だろ」
「分かってるって」
ザルドも手を貸し、袋全体を完全に覆った。
準備が終わった直後。
大粒の雨が地面へ落ち始めた。
一滴。
二滴。
すぐに音が増える。
乾いた土へ黒い染みが広がり、埃の匂いが立ち上る。
「結構降るな」
バンは岩陰から手を伸ばした。
手のひらへ雨粒が当たる。
冷たい。
「砂漠じゃほとんど降らなかったから、久しぶりだな」
「エルソスの森では湿気があっただろう」
アルフィアが言う。
「あそこは地下ばっかだったからな」
雨は長く続かなかった。
空を覆った雲は、強い風に流されていく。
しばらくすると雨脚は弱まり、青い空が覗き始めた。
地面には小さな水溜まり。
草の葉には水滴が残り、荒野の色が少しだけ濃くなっている。
バンは防水布を外す前に、表面の水を払った。
「中は?」
ザルドが尋ねる。
「濡れてねぇ」
アルフィアも縫い目と口を確認する。
「問題ない」
「ほら、ちゃんとできただろ」
「ザルドが直したからだ」
「オレもやったぞ」
「最初は隙間だらけだった」
「結果が良けりゃいいんだよ」
「昨日、同じことを言っていたな」
「便利な考え方だろ」
「愚か者の考え方だ」
再び袋を背負う。
濡れた土の匂いが、風へ混じっている。
雨上がりの空は澄み、遠くまでよく見えた。
街道の先。
丘を越えた向こうに、小さな黒い影が動いている。
「何かいるぞ」
バンが目を細めた。
荷車。
複数の人影。
荷獣。
ゆっくりと街道を進んでいる。
「今朝の隊商か」
ザルドが言う。
「追いついたな」
「向こうが休んでいたのだろう」
「行ってみるか?」
「同じ道を進めば、いずれ近づく」
アルフィアが答えた。
「走る必要はない」
「分かってるよ」
三人は街道へ戻った。
雨で固くなった土の上に、新しい車輪の跡が残っている。
それを辿るように歩き始めた。
◇
日が暮れる頃。
三人は丘の麓に野営場所を見つけた。
雨を避けられる岩の張り出し。
近くには濡れた草と、細い流れ。
先ほど見えた隊商は、さらに先へ進んだらしい。
荷車の影は、もう見えなくなっていた。
「明日には追いつくな」
バンが言う。
「おそらくな」
ザルドが濡れていない枝を探す。
雨の後で火を起こすのは少し手間だったが、岩の下に残っていた枯れ枝は乾いていた。
火打石。
細く裂いた布。
小さな火が生まれ、少しずつ大きくなる。
夕食は、昼に作った汁物と似たものになった。
干し肉。
野草。
豆。
子供たちからもらった香草。
ザルドが鍋を見ながら言う。
「明日、隊商と会えれば食料を補充する」
「違う肉あるかな」
「売ってくれるとは限らん」
「金なら――」
バンは言いかけて止まった。
コートの内側を探る。
銅貨が僅か。
「なかったな」
「ほとんど酒に使ったからだ」
アルフィアが言う。
「必要な出費だ」
「何の役に立った」
「気分が良くなった」
「不要だ」
「今夜も少し飲んでいいか?」
「駄目だ」
「何でだよ。昨日は飲んだだろ」
「昨日飲んだからだ」
「毎日少しずつ飲むために残したんじゃねぇの?」
「違う」
「じゃあ何のために持ってんだよ」
「お前が全部飲まないように管理するためだ」
「目的変わってねぇ?」
ザルドが鍋をかき混ぜながら笑った。
「一杯だけにしておけ」
「ザルドは話が分かるな」
「甘やかすな」
アルフィアが言う。
「歩き続けた後だ。少量なら構わんだろう」
「こいつの少量は信用できない」
「お前が注げばいい」
数秒。
アルフィアは黙ってバンを見た。
やがて荷物から霧酒の瓶を取り出す。
「一杯だけだ」
「分かってる」
「杯から溢れさせるな」
「子供じゃねぇぞ」
「子供より信用できない」
小さな杯へ、透明な酒が注がれる。
バンは冷たい水を数滴落とした。
たちまち乳白色へ変わる。
雨上がりの冷たい風。
焚き火。
荒野の匂い。
白く濁った酒。
「やっぱ外で飲むのも悪くねぇな」
「味は同じだろう」
「景色が違う」
バンは一口だけ飲んだ。
香草の香り。
喉を焼く熱。
身体の内側へ、ゆっくりと温かさが広がる。
今度は、本当に一口で止めた。
アルフィアが少し意外そうに見る。
「何だよ」
「何でもない」
「もっと飲むと思った?」
「思った」
「約束は守るぞ」
「時々な」
「信用ねぇな」
「積み重ねが足りない」
バンは残りをゆっくり飲んだ。
空になった杯を地面へ置く。
「これでいいか?」
「ああ」
アルフィアは瓶を取り戻し、すぐに荷物へしまった。
「まるで宝物だな」
「お前から守る必要がある」
「オレの酒なんだけどな」
夕食を終えた後。
三人は焚き火を囲んでいた。
ザルドは鍋と器を片づける。
アルフィアは岩へ背を預け、目を閉じる。
バンは背負い袋のそばへ座った。
雨で湿った地面の匂い。
焚き火の煙。
遠くで鳴く夜の獣。
砂漠の夜とは、聞こえる音が違う。
虫の声。
草が擦れる音。
小さな水の流れ。
「賑やかだな」
バンが言った。
「砂漠よりはな」
ザルドが答える。
「アルフィアは嫌いそうだ」
「自然の音は雑音ではない」
目を閉じたまま、アルフィアが答えた。
「じゃあ、オレの声も自然みてぇなもんだろ」
「違う」
「即答かよ」
「お前の声は不要だ」
「ひでぇな」
バンは背負い袋へ手を置いた。
「こいつの音は?」
「それも自然ではない」
「雑音か?」
アルフィアは少しだけ黙った。
「……今は違う」
バンが目を細める。
「何だ。気に入ったのか?」
「調子に乗るな」
「クレシューズの話だぞ」
「分かっている」
「なら怒んなよ」
その時。
袋の奥から。
ちり、と。
小さな金属音が響いた。
三人が同時に視線を向ける。
バンは袋へ置いていた手を動かしていない。
「またか」
ザルドが言う。
「ああ」
アルフィアが身体を起こした。
「結晶は?」
「触ってねぇ」
「外から確認する」
アルフィアはまずクレシューズ側へ。
次に結晶側へ手を添えた。
黒紫色の力は漏れていない。
温度にも変化はない。
「異常はない」
「なら、こいつが返事しただけだな」
「決めつけるな」
「毎回、オレが触った時に鳴るぞ」
「偶然だ」
「何回続けば認める?」
「何度でも偶然は起こる」
「棗椰子と同じか」
アルフィアの視線が鋭くなる。
「関係ない話を持ち出すな」
「図星かよ」
「消すぞ」
バンは笑い、袋から手を離した。
「まあ、元気ならいい」
二度目の音は鳴らない。
焚き火の向こう。
街道の先には、先を行く隊商がいる。
明日には追いつくだろう。
砂漠を越えてから初めて出会う、まとまった旅人たち。
どこから来たのか。
どこへ向かうのか。
どんな荷物を運んでいるのか。
そして。
「うまいもん持ってるといいな」
「結局それか」
ザルドが呆れたように言う。
「旅の楽しみだろ」
「酒も探すのか」
アルフィアが尋ねる。
「金があったらな」
「ない」
「少しくらい貸してくれてもいいだろ」
「断る」
「まだ何も言ってねぇぞ」
「聞く必要がない」
バンは焚き火へ枝を一本投げ入れた。
火の粉が夜空へ舞う。
雨雲はすでに消え、頭上には星が戻っていた。
砂漠とは違う夜。
草と水の匂いがする荒野。
そして街道の先を進む、まだ名前も知らない隊商。
三人の旅は、少しずつ人のいる場所へ近づいていた。
今回は、荒野の水場で休み、雨を避けながら野営する一日を描きました。
特に、アルフィアがクレシューズの金属音を「今は雑音ではない」と認める場面がお気に入りです。