翌朝。
雨の名残が、荒野のあちこちに残っていた。
街道の窪みには浅い水溜まり。
乾いていた草の葉には小さな雫。
土は昨日までより濃い色へ変わり、風が吹くたび、湿った匂いが立ち上る。
三人は日の出と共に野営地を片づけ、前日と同じ街道を進んでいた。
「今日は追いつけるか?」
バンが遠くへ目を凝らす。
「何度聞く」
アルフィアが冷たく答えた。
「まだ隊商が見えねぇからだよ」
「見えないものは、何度聞いても見えない」
「ザルドなら足跡で分かるだろ」
ザルドは街道へ刻まれた車輪の跡を見下ろした。
昨日の雨で土が柔らかくなったため、四台分の車輪がはっきり残っている。
蹄の跡。
人間の靴跡。
荷車の脇を歩いていた護衛らしき者の足跡。
「向こうも朝早く出ている」
「距離は?」
「昨日より近い。昼までには見えるだろう」
「飯の時間には間に合うか」
「なぜ隊商が、お前へ飯を出す前提なんだ」
「旅人同士、仲良くすりゃいいだろ」
アルフィアがバンの背負い袋を見る。
「金もないのに、何を差し出す」
「話」
「価値がない」
「力仕事」
「それなら使える」
「オレの話より荷物運びの方が上かよ」
「当然だ」
バンは不満そうに口を尖らせながら歩き続けた。
修繕された赤いコート。
その背には、丈夫な革製の袋。
クレシューズと名もない結晶は、今日も内部で分けて固定されている。
雨の後でも革に湿りはなく、歩くたびに中身がぶつかる音もしない。
前日から続く街道は、少しずつ広くなっていた。
左右には荷車が避けるための踏み固められた場所があり、人の手で積まれた道標も増えている。
街や村が近い証拠ではない。
この先を行き来する旅人が、それだけ多いということだ。
「なあ」
バンが前を向いたまま口を開く。
「次の町まで、どれくらいだ?」
「順調なら三日ほどだ」
ザルドが答える。
「遠ぇな」
「昨日も聞いた」
「昨日より一日近くなってるだろ」
「なら二日ほどだ」
「最初からそう言えよ」
「自分で考えろ」
アルフィアが小さく息を吐く。
「町に着けば、また酒を探すつもりか」
「その土地の名物ならな」
「所持金は?」
「少しある」
「銅貨が数枚だ」
「知ってんのかよ」
「昨日、数えていただろう」
「見てたのか?」
「嫌でも目に入った」
「貸してくれてもいいぞ」
「断る」
「まだ頼んでねぇ」
「頼む前に断った」
「冷てぇなぁ」
会話を続けながら、一行は緩やかな丘を越えた。
その先。
街道の彼方に、複数の影が見えた。
四台の荷車。
六頭の荷獣。
その周囲を歩く人々。
「いたな」
バンの口元が上がる。
「走るな」
アルフィアが言った。
「まだ走ってねぇよ」
「顔が走ろうとしている」
「顔だけで分かんの?」
「分かる」
「相変わらず便利だな」
隊商は、街道の中央で止まっていた。
休憩を取っているようには見えない。
数人が一台目の荷車へ集まり、地面を覗き込んでいる。
荷獣の一頭が落ち着かない様子で首を振り、鈴を鳴らしていた。
「何かあったみてぇだな」
バンが歩調を速める。
アルフィアも今度は止めなかった。
三人が近づくにつれ、荷車の状態が見えてくる。
前輪の片方が、街道脇の泥へ深く沈んでいた。
昨日の雨で柔らかくなった地面へ車輪が嵌まり、荷車全体が大きく傾いている。
無理に引き出そうとしたのだろう。
車輪の周囲には、さらに深い溝ができていた。
「押せ!」
「せーの!」
男たちが荷車の後ろから押す。
御者が荷獣を前へ進ませる。
車輪が泥の中で回り、黒い土を跳ね上げた。
だが、荷車は動かない。
むしろ沈んだ車輪が、さらに深く潜った。
「止めろ!」
年配の男が叫ぶ。
「これ以上やれば軸が折れる!」
男たちは手を止めた。
その一人が、近づいてくる三人に気づく。
「誰だ?」
声と共に、護衛らしき者たちが武器へ手を伸ばした。
剣。
槍。
弓。
人数は五人。
装備から見て、熟練者ではない。
だが、街道を旅する商人を守る程度の経験はあるようだった。
先頭に立った若い男が、バンの背負い袋とザルドの巨体を交互に見る。
「そこで止まれ」
バンが足を止めた。
「別に襲いに来たんじゃねぇよ」
「目的は?」
「同じ道を歩いてただけだ」
若い護衛は警戒を解かない。
アルフィアが一歩前へ出る。
ただそれだけで、護衛たちの表情が強張った。
彼女から意図的に威圧を放ったわけではない。
それでも、歴戦の第一級冒険者が持つ空気は隠しきれない。
「武器を下ろせ」
アルフィアが言った。
静かな声だった。
だが、逆らえば何が起こるかを想像させるには十分だった。
「待て、ルーカ」
荷車のそばにいた年配の男が、若い護衛を止めた。
灰色の髪。
日に焼けた顔。
砂埃に汚れた厚手の外套。
腰には短剣を下げているが、戦う者の身体ではない。
男は三人を慎重に見回した。
「旅人か?」
「ああ」
ザルドが答える。
「オラリオ方面へ向かっている」
「三人だけで?」
「問題があるか」
「いや……」
男の目がザルドの腕へ向く。
服の上からでも分かる太さ。
次にアルフィア。
最後に、笑みを浮かべているバン。
「問題があるようには見えんな」
「見る目あるじゃねぇか」
「お前は黙れ」
アルフィアが言う。
「何でだよ」
年配の男は僅かに警戒を緩めた。
「俺はドーマ。この隊商をまとめている」
「ザルドだ」
ザルドが名乗る。
「こいつはバン。こちらはアルフィア」
「よろしくな」
バンが軽く手を上げる。
アルフィアは何も言わなかった。
ドーマは三人の名前を聞き、何か引っかかったように眉を動かした。
だが、すぐに荷車へ目を戻す。
「見てのとおり、車輪が嵌まった。道の中央を避けたのが悪かった」
「昨日の雨か」
「ああ。表面は乾いていたが、下が泥だったらしい」
ザルドが荷車へ近づく。
護衛たちは一瞬身構えたが、ドーマが手で制した。
ザルドは沈んだ車輪の前へしゃがみ込む。
泥の深さ。
車輪の角度。
荷台に積まれた木箱の量。
車軸の状態。
「荷物を下ろせば動く」
「分かっている」
ドーマが苦い顔をした。
「だが、半分以上を下ろす必要がある。中身は陶器と香油だ。泥の上へ置けん」
「布を敷けばいいだろ」
「雨除けの布は、荷台の底だ。荷物を出さなければ取れない」
「順番が悪いな」
バンが笑った。
「笑い事じゃない」
若い護衛――ルーカが睨む。
「このままでは日暮れまでに次の野営地へ着けない」
「なら、持ち上げりゃいいだろ」
バンが荷車の後ろへ回った。
ルーカが目を細める。
「男五人で動かなかった」
「五人だろ?」
「何だと?」
「こっちはオレとザルドがいる」
バンが荷車の底へ手を掛ける。
ザルドは沈んだ車輪側へ立った。
「バン。背中の荷物を下ろせ」
「ああ」
背負い袋を外し、街道の固い場所へ置く。
アルフィアがその横へ立った。
「揺らすな」
「分かってるよ」
「車ごと投げるな」
「投げねぇよ」
「お前ならやりかねない」
ドーマが困惑した顔で三人を見る。
「本当に二人で持ち上げる気か?」
「荷獣には前へ進ませろ」
ザルドが答える。
「俺たちが車輪を浮かせる」
「軸が耐えられん」
「真上へ持ち上げるだけだ。捻らん」
ドーマは迷った。
だが、このままでは何も変わらない。
「分かった。荷獣を進ませる。ゆっくりだぞ」
「オレに言ってる?」
「主にお前へだ」
「初対面なのに信用ねぇな」
「当然だ」
アルフィアの声が重なった。
「お前まで言うかよ」
御者が手綱を握る。
ルーカたちは荷車の後方へ集まる。
「せーので行くぞ!」
「必要ねぇよ」
バンは荷車の底を掴んだ。
ザルドが車輪の近くへ両手を添える。
「持ち上げる」
「ああ」
二人が同時に力を込めた。
ぎしり。
荷車全体が軋む。
次の瞬間。
泥へ深く沈んでいた車輪が、ゆっくりと浮き上がった。
「な……」
ルーカたちが動きを止める。
木箱を満載した荷車が、二人の腕だけで持ち上がっている。
バンは片手を離しても余裕がありそうな顔をしていた。
「前へ出せ」
ザルドが言う。
「は、はい!」
御者が慌てて手綱を動かす。
荷獣が一歩進む。
荷車が泥の穴を越えた。
「もう少し」
二歩。
三歩。
固い地面へ車輪が乗る。
「下ろすぞ」
二人は同時に力を抜いた。
荷車が地面へ戻る。
車軸は壊れていない。
荷物も大きく揺れていなかった。
しばらく。
誰も声を出さなかった。
「これでいいか?」
バンが手についた泥を払う。
ルーカが荷車とバンを交互に見る。
「お前たち……何者だ?」
「旅人」
「旅人は、満載の荷車を持ち上げない」
「旅人にも色々いるだろ」
「そういう問題か?」
ザルドが沈んでいた車輪を確認する。
「車輪は無事だ。だが、縁が少し欠けている。このまま速度を出せば割れる可能性がある」
ドーマが車輪へ近づいた。
「修理できるか?」
「予備の板は?」
「荷台にある」
「鉄帯は?」
「工具箱に」
「なら応急処置はできる」
ザルドが腕を捲る。
「手を貸す」
「まだ手伝ってくれるのか?」
「同じ道を進むなら、ここで止まられても邪魔になる」
アルフィアが淡々と言った。
「もう少し言い方があるだろ」
バンが小声で言う。
「事実だ」
ドーマは一度アルフィアを見た。
それから笑う。
「理由は何でもいい。助かる」
「飯もらえる?」
バンが尋ねる。
ドーマの笑みが止まる。
「……飯?」
「手伝い代」
「お前はそれしかないのか」
アルフィアが呆れたように言う。
「金ねぇからな」
「堂々と言うな」
ドーマは再び笑った。
「分かった。修理が終わったら、昼を出そう」
「酒は?」
「バン」
ザルドの低い声。
「聞いただけだって」
「昼から飲ませる酒はない」
ドーマが答える。
「残念だな」
「本当にそればかりだな、お前は」
ルーカが呆れた顔をした。
「酒と飯は大事だぞ」
「命よりか?」
「時と場合による」
「こいつの話を真面目に聞くな」
アルフィアが言った。
修理が始まった。
◇
欠けた車輪の外側へ、予備の木板を合わせる。
ザルドが小刀で形を整え。
隊商の職人が鉄帯を外す。
バンは荷車を僅かに持ち上げ、車輪を回せる状態で支えていた。
「まだか?」
「動くな」
ザルドが言う。
「動いてねぇよ」
「口が動いている」
「腕には関係ないだろ」
「集中しろ」
「この程度、目ぇ閉じてもできるぞ」
「閉じるな」
車輪の周囲では、ルーカたちが作業を手伝っている。
先ほどまで警戒していた護衛たちも、今ではバンの腕へ興味を隠せなくなっていた。
「それ、重くないのか?」
一人が尋ねる。
「荷車か?」
「ああ」
「軽くはねぇけど、持てる」
「レベルはいくつだ?」
「知らねぇ」
「知らない?」
「ねぇからな」
「ステイタスがないのか?」
護衛たちの手が止まる。
バンは気にせず荷車を支えている。
「神から恩恵を受けていないってことか?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「その辺はよく分かんねぇ」
ルーカが信じられないものを見る目を向ける。
「恩恵なしで、これを?」
「元から丈夫なんだよ」
「元からで済む身体じゃないだろ」
「細けぇな」
アルフィアが背負い袋のそばから口を開く。
「そいつの常識を問いただすだけ無駄だ」
「お前が言う?」
「私だから言っている」
護衛たちはバンとアルフィアを交互に見た。
何か質問したそうだったが、彼女の目を見て口を閉じる。
「よし」
ザルドが木板を固定した。
「ゆっくり下ろせ」
バンが荷車を地面へ戻す。
職人が車輪を回し、歪みがないことを確かめた。
「これなら次の宿場までは持つ」
「助かった」
ドーマが頭を下げる。
「このまま立ち往生するところだった」
「飯」
バンが手を差し出す。
「お前は余韻というものを知らないのか」
アルフィアが言った。
「腹減ってんだよ」
「朝からそればかりだな」
「歩いて、荷車持ち上げたからな」
ドーマは笑いながら、荷車の一台を指した。
「すぐ用意させよう。ただし豪華な物ではないぞ」
「干し肉と硬いパン以外なら、何でもいい」
「昨日も食った」
ザルドが言う。
「昨日も、その前もだ」
「旅の保存食とはそういうものだろ」
ドーマは隊商の者たちへ声を掛けた。
◇
昼食は、荷車を囲むようにして取ることになった。
隊商が用意したのは、薄く切った燻製肉。
丸い形の硬いチーズ。
香草を練り込んだパン。
乾燥させた豆と野菜の汁物。
そして、革袋に入れられた白い飲み物。
バンが器を覗き込む。
「酒か?」
「発酵させた山羊の乳だ」
隊商の料理を担当している中年の女が答えた。
「酒じゃねぇのか」
「少し酸っぱいが、酒ではない」
「乳を腐らせたのか?」
「発酵だ」
ザルドが器を受け取り、匂いを確かめる。
「悪くない」
「飲んだことあるのか?」
「似たものはある」
バンも恐る恐る口をつけた。
濃い乳の味。
強い酸味。
僅かな塩気。
喉を通った後に、独特の香りが残る。
「酸っぱ」
「嫌なら飲むな」
アルフィアが言う。
彼女も一口飲んでいた。
「お前は平気なのか?」
「この程度ならな」
「赤い干し果物の時も強がってたよな」
「福音《ゴスペル》」
「冗談だって!」
澄んだ鐘の音が鳴る直前。
バンは器を持ったまま素早く横へ退いた。
隊商の者たちが、一斉に身体を強張らせる。
アルフィアはバンを睨んだまま、魔法を放たなかった。
「食事中だ」
ザルドが言う。
「分かっている」
「じゃあ何で詠唱したんだよ」
「警告だ」
「心臓に悪ぃな」
「次は撃つ」
周囲は静まり返っていた。
ルーカが恐る恐るバンへ尋ねる。
「今のは……魔法か?」
「ああ。避けねぇと岩に穴が開くぞ」
「そんなものを食事中に使うな!」
「オレに言うなよ」
「お前が余計なことを言ったからだろ!」
「もう分かったのか。慣れるのが早いな」
バンは笑いながら元の場所へ戻る。
アルフィアの隣ではなく、少し離れた位置へ座った。
「そこまで離れなくてもいい」
「撃たねぇ?」
「黙っていればな」
「善処する」
「信用できない」
緊張していた隊商の者たちも、ドーマが笑い始めたことで、少しずつ肩の力を抜いた。
「変わった三人だな」
「オレは普通だぞ」
「一番普通ではない」
ルーカが即座に返した。
「さっき会ったばっかだろ」
「もう十分分かった」
「見る目あるじゃねぇか」
「褒めてない」
バンは硬いチーズを手に取った。
ナイフで切ろうとする。
刃が表面で止まる。
「硬ぇな」
「そのまま齧るものじゃない」
料理を担当する女が言った。
「薄く削って、パンへ載せる」
ザルドは言われる前にチーズを薄く削り、燻製肉と共にパンへ挟んでいた。
「こうか」
「そうそう」
バンも真似をする。
一口。
燻製肉の香り。
チーズの濃い塩気と旨味。
香草を練り込んだパン。
「うまいな」
「保存食でも組み合わせれば味は変わる」
ザルドが言う。
「じゃあ、今までの干し肉もチーズと食えばよかったじゃねぇか」
「持っていなかった」
「買っとけばよかったな」
「お前は酒を買った」
「それはそれで必要だった」
アルフィアが黙ってパンを食べる。
バンが彼女の手元を見る。
「今度はチーズから食うんだな」
「何が言いたい」
「別に」
「言え」
「甘いもんじゃないから、どこから食うのかなって」
「消すぞ」
「食事中だぞ」
「お前が言うな」
ドーマは楽しそうに三人を眺めていた。
食事が進み、最初の警戒はほとんど消えている。
「お前たちは、どこから来た?」
「リオードだ」
ザルドが答える。
「その前は?」
「カイオス砂漠を越えてきた」
「東からか?」
「色々とな」
バンが曖昧に答えた。
ドーマは深く追及しなかった。
旅人が過去を話したがらないことは珍しくない。
「リオードでは何日か?」
「少し長くいたな」
「最近は、随分騒がしかっただろう」
「何かあったのか?」
バンが何気なく尋ねる。
ドーマは驚いたように目を見開いた。
「知らないのか?ベヒーモスの話だ」
ザルドとアルフィアの視線が、僅かに動いた。
バンは燻製肉を齧りながら首を傾げる。
「聞いたことはある」
「少し前まで、砂漠の外まで商人が逃げてきていた。街道が黒い毒に覆われたとも、国を一つ呑み込む巨大な獣が現れたとも言われている」
「へぇ」
「だが、突然いなくなった」
「逃げたんじゃねぇの?」
「それが、倒されたらしい」
周囲の商人たちも話へ加わる。
「俺が聞いた話では、山ほどもある剣を持った巨人が斬ったそうだ」
「違う。空から落ちた星が頭を砕いたんだ」
「赤い悪魔が、一人で腹の中へ入って殺したって話もあるぞ」
「いや、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアが総出で――」
「両方とも壊滅したって聞いた」
バンの口元が少しずつ上がっていく。
ザルドの顔が険しくなる。
アルフィアの目が冷たく細められた。
「赤い悪魔だってよ」
バンが小声で言う。
「黙れ」
「お前の服も赤いな」
ルーカがバンを見る。
「偶然だ」
「腹の中へ入ったのか?」
「入ってねぇよ」
「本当に?」
「口から入るほど馬鹿じゃねぇ」
「入れる大きさだったのか……」
「そこを気にすんのかよ」
ドーマは笑いながら首を振る。
「噂など、街を三つ越えれば別の話になる。正しいことは誰にも分からん」
「じゃあ、どれが一番人気なんだ?」
バンが尋ねる。
「赤い悪魔だな」
「何で?」
「分かりやすいからだ。酒場では、一本角の魔王や、不死身の盗賊という話までついている」
「不死身の盗賊」
アルフィアが繰り返す。
バンは視線を逸らした。
「似た奴もいるもんだな」
「お前だろう」
アルフィアが即座に言った。
隊商の者たちが、一斉にバンを見る。
「冗談だ」
バンは笑った。
「こいつは何でもオレのせいにする」
「違うのか?」
ルーカが尋ねる。
「違う違う」
「目が泳いでいる」
「泳いでねぇよ」
ザルドが器を机代わりの木箱へ置く。
「噂話はその程度にしておけ」
その低い声に、バンもそれ以上は続けなかった。
ドーマは三人を見回した。
何かを察したようにも見えたが、問いただすことはしない。
「この街道も、ベヒーモス騒ぎのせいで隊商が減った」
ドーマは話題を変えた。
「ようやく人が戻り始めたところだ」
「野盗が出ると聞いた」
ザルドが言う。
「ああ。隊商が減った間に、街道沿いへ居着いた連中がいる」
ルーカが剣の柄へ手を置く。
「俺たちも、そのために雇われた」
「何人くらいだ?」
「分からない。十人とも、三十人とも言われている」
「随分曖昧だな」
「一つの集団とは限らないからな」
ドーマは街道の先を見る。
「次の宿場町まで、あと二日。途中に廃村が一つある。奴らがそこを使っているという話もある」
「避けられねぇの?」
バンが尋ねる。
「大きく迂回すれば一日は余計にかかる。荷車では水も食料も厳しい」
「なら進むしかないな」
「ああ」
ドーマは少し迷った後、三人へ向き直った。
「一つ頼みがある」
「飯のお代わり?」
「違う」
「酒?」
「違う」
「何だよ」
「俺たちと、しばらく一緒に進んでもらえないか」
ルーカが驚いてドーマを見る。
「隊商長」
「この三人が敵なら、俺たちでは最初からどうにもならん」
ドーマは静かに言った。
「だが、荷車を助けてくれた。飯だけで返せる働きではない」
「護衛をしろってことか?」
バンが尋ねる。
「正式な依頼ではない。同じ道を行くだけでいい」
「報酬は?」
アルフィアが聞く。
「食事と、次の宿場町までの道案内。必要なら、町で使える程度の金も払う」
バンの目が輝く。
「金?」
「お前は黙れ」
「大事だろ」
「正式な護衛なら、契約内容を決める必要がある」
アルフィアはドーマを見る。
「襲撃時に守る対象。期間。報酬。こちらが従う範囲」
「さすがに細かいな」
バンが言う。
「お前に任せれば、飯一食で何日も使われる」
「うまけりゃいいぞ」
「黙れ」
ドーマは頷いた。
「もっともだ。次の宿場町へ着くまで。荷車と人命を、可能な範囲で守ってほしい。こちらの指揮へ無条件に従う必要はない」
「報酬は?」
「三人で銀貨十二枚。食事はこちらが出す」
「酒は?」
「自分で買え」
「銀貨十二枚あれば買えるな」
「お前の分は四枚だ」
ザルドが言う。
「全部オレでもよくねぇ?」
「なぜだ」
「荷車持ち上げたの、オレだぞ」
「俺もだ」
「アルフィアは見てただけだろ」
「お前の荷物を守っていた」
「じゃあ一枚くらいで」
アルフィアの周囲で、空気が僅かに震えた。
「四枚でいいです」
バンが素早く言い直す。
ルーカが目を見開く。
「敬語を使えるのか」
「命が危ねぇ時はな」
「誰のせいだ」
アルフィアは冷たく言った。
ザルドはドーマへ向き直る。
「受けよう」
「いいのか?」
「ああ。同じ道だ。食料を節約できるなら悪くない」
「決まりだな」
ドーマが手を差し出した。
ザルドがその手を握る。
バンは食事の残りへ手を伸ばした。
「じゃあ、お代わりも契約に入る?」
「一人二杯までだ」
料理係の女が答える。
「もう二杯食ったぞ」
「なら終わりだ」
「交渉し直そうぜ」
「契約は成立した」
アルフィアが言う。
「そこだけ早ぇな」
隊商の者たちから笑いが上がった。
◇
午後。
三人は隊商と共に街道を進んだ。
先頭には、ルーカを含む護衛二人。
中央に四台の荷車。
後方に残りの護衛。
ザルドは荷車の脇。
アルフィアは隊列の中央。
バンは最後尾を歩いていた。
「何でオレが後ろなんだ?」
「背後から来た敵へ最初に気づけるだろう」
ザルドが答える。
「前に行きてぇ」
「食料へ近づけるな」
料理係の女が荷車から言った。
「信用ねぇな」
「昼にチーズを三つ隠しただろ」
「隠してねぇ。コートの中に入れただけだ」
「それを隠したと言う」
「後で食おうと思ったんだよ」
「返せ」
「もう食った」
「次の食事を減らすよ」
「契約違反だろ」
「盗み食いを認めた覚えはない」
隊商の空気は、出会った時とは大きく変わっていた。
護衛たちもバンへ話しかけ。
商人たちはアルフィアを遠巻きにしながらも、時折道や天候について尋ねている。
ザルドは荷車の車輪を気にしながら歩き、異音がするたび状態を確かめていた。
夕方が近づく。
街道の先には、低い丘と崩れた石壁が見え始めた。
「あれが廃村か?」
バンが尋ねる。
ドーマの顔が険しくなる。
「いや。廃村は、もっと先だ」
「じゃあ何だ?」
「昔の見張り台だ。街道を守るために建てられたが、今は使われていない」
崩れかけた石造りの塔。
半分ほどが失われ、残った壁には蔦が絡んでいる。
周囲に人の姿はない。
だが。
バンは足を止めた。
「どうした」
ルーカが尋ねる。
「見られてる」
隊商の空気が一変する。
護衛たちが武器へ手を伸ばした。
「どこからだ?」
「塔の方」
ルーカが目を凝らす。
「誰もいないぞ」
「隠れてんだろ」
アルフィアも塔へ視線を向けた。
「一人ではない」
「分かるのか?」
ドーマが尋ねる。
「呼吸が複数ある」
「何人?」
「少なくとも四人」
ザルドが静かに周囲を見回す。
「街道の左右にもいる」
風が吹く。
草が揺れる。
誰も姿を見せない。
隊商は進むべきか、止まるべきか判断できず、街道の中央で立ち尽くした。
「野盗か?」
ルーカが剣を抜く。
「まだ分からねぇ」
バンは背負い袋の肩紐を握り直した。
クレシューズを使うつもりはない。
だが、その顔には恐れも緊張もなかった。
「どうする?」
ドーマがザルドへ尋ねる。
「ここで陣を組む」
ザルドが答えた。
「荷車を寄せろ。荷獣を内側へ入れる」
「バン」
アルフィアが呼ぶ。
「ああ」
「一人で先へ行くな」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「顔を見れば分かる」
「ちょっと様子見ようと思っただけだ」
「行くな」
「へいへい」
「返事は一度だ」
「へい」
バンは笑いながら、街道の先へ目を向けた。
崩れた塔。
揺れる草。
その向こうで、僅かに金属が擦れる音がした。
隊商と三人の旅人。
初めて共に進む一日の終わり。
街道の先には、すでに誰かが待ち構えていた。
今回は、街道で立ち往生していた隊商を助け、三人が次の宿場町まで同行することになる回でした。
特に、バンたち本人の前でベヒーモス討伐の噂が大きく歪められ、「赤い悪魔」や「不死身の盗賊」として語られている場面がお気に入りです。