強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第49話 街道の隊商

翌朝。

 

雨の名残が、荒野のあちこちに残っていた。

 

街道の窪みには浅い水溜まり。

 

乾いていた草の葉には小さな雫。

 

土は昨日までより濃い色へ変わり、風が吹くたび、湿った匂いが立ち上る。

 

三人は日の出と共に野営地を片づけ、前日と同じ街道を進んでいた。

 

「今日は追いつけるか?」

 

バンが遠くへ目を凝らす。

 

「何度聞く」

 

アルフィアが冷たく答えた。

 

「まだ隊商が見えねぇからだよ」

 

「見えないものは、何度聞いても見えない」

 

「ザルドなら足跡で分かるだろ」

 

ザルドは街道へ刻まれた車輪の跡を見下ろした。

 

昨日の雨で土が柔らかくなったため、四台分の車輪がはっきり残っている。

 

蹄の跡。

 

人間の靴跡。

 

荷車の脇を歩いていた護衛らしき者の足跡。

 

「向こうも朝早く出ている」

 

「距離は?」

 

「昨日より近い。昼までには見えるだろう」

 

「飯の時間には間に合うか」

 

「なぜ隊商が、お前へ飯を出す前提なんだ」

 

「旅人同士、仲良くすりゃいいだろ」

 

アルフィアがバンの背負い袋を見る。

 

「金もないのに、何を差し出す」

 

「話」

 

「価値がない」

 

「力仕事」

 

「それなら使える」

 

「オレの話より荷物運びの方が上かよ」

 

「当然だ」

 

バンは不満そうに口を尖らせながら歩き続けた。

 

修繕された赤いコート。

 

その背には、丈夫な革製の袋。

 

クレシューズと名もない結晶は、今日も内部で分けて固定されている。

 

雨の後でも革に湿りはなく、歩くたびに中身がぶつかる音もしない。

 

前日から続く街道は、少しずつ広くなっていた。

 

左右には荷車が避けるための踏み固められた場所があり、人の手で積まれた道標も増えている。

 

街や村が近い証拠ではない。

 

この先を行き来する旅人が、それだけ多いということだ。

 

「なあ」

 

バンが前を向いたまま口を開く。

 

「次の町まで、どれくらいだ?」

 

「順調なら三日ほどだ」

 

ザルドが答える。

 

「遠ぇな」

 

「昨日も聞いた」

 

「昨日より一日近くなってるだろ」

 

「なら二日ほどだ」

 

「最初からそう言えよ」

 

「自分で考えろ」

 

アルフィアが小さく息を吐く。

 

「町に着けば、また酒を探すつもりか」

 

「その土地の名物ならな」

 

「所持金は?」

 

「少しある」

 

「銅貨が数枚だ」

 

「知ってんのかよ」

 

「昨日、数えていただろう」

 

「見てたのか?」

 

「嫌でも目に入った」

 

「貸してくれてもいいぞ」

 

「断る」

 

「まだ頼んでねぇ」

 

「頼む前に断った」

 

「冷てぇなぁ」

 

会話を続けながら、一行は緩やかな丘を越えた。

 

その先。

 

街道の彼方に、複数の影が見えた。

 

四台の荷車。

 

六頭の荷獣。

 

その周囲を歩く人々。

 

「いたな」

 

バンの口元が上がる。

 

「走るな」

 

アルフィアが言った。

 

「まだ走ってねぇよ」

 

「顔が走ろうとしている」

 

「顔だけで分かんの?」

 

「分かる」

 

「相変わらず便利だな」

 

隊商は、街道の中央で止まっていた。

 

休憩を取っているようには見えない。

 

数人が一台目の荷車へ集まり、地面を覗き込んでいる。

 

荷獣の一頭が落ち着かない様子で首を振り、鈴を鳴らしていた。

 

「何かあったみてぇだな」

 

バンが歩調を速める。

 

アルフィアも今度は止めなかった。

 

三人が近づくにつれ、荷車の状態が見えてくる。

 

前輪の片方が、街道脇の泥へ深く沈んでいた。

 

昨日の雨で柔らかくなった地面へ車輪が嵌まり、荷車全体が大きく傾いている。

 

無理に引き出そうとしたのだろう。

 

車輪の周囲には、さらに深い溝ができていた。

 

「押せ!」

 

「せーの!」

 

男たちが荷車の後ろから押す。

 

御者が荷獣を前へ進ませる。

 

車輪が泥の中で回り、黒い土を跳ね上げた。

 

だが、荷車は動かない。

 

むしろ沈んだ車輪が、さらに深く潜った。

 

「止めろ!」

 

年配の男が叫ぶ。

 

「これ以上やれば軸が折れる!」

 

男たちは手を止めた。

 

その一人が、近づいてくる三人に気づく。

 

「誰だ?」

 

声と共に、護衛らしき者たちが武器へ手を伸ばした。

 

剣。

 

槍。

 

弓。

 

人数は五人。

 

装備から見て、熟練者ではない。

 

だが、街道を旅する商人を守る程度の経験はあるようだった。

 

先頭に立った若い男が、バンの背負い袋とザルドの巨体を交互に見る。

 

「そこで止まれ」

 

バンが足を止めた。

 

「別に襲いに来たんじゃねぇよ」

 

「目的は?」

 

「同じ道を歩いてただけだ」

 

若い護衛は警戒を解かない。

 

アルフィアが一歩前へ出る。

 

ただそれだけで、護衛たちの表情が強張った。

 

彼女から意図的に威圧を放ったわけではない。

 

それでも、歴戦の第一級冒険者が持つ空気は隠しきれない。

 

「武器を下ろせ」

 

アルフィアが言った。

 

静かな声だった。

 

だが、逆らえば何が起こるかを想像させるには十分だった。

 

「待て、ルーカ」

 

荷車のそばにいた年配の男が、若い護衛を止めた。

 

灰色の髪。

 

日に焼けた顔。

 

砂埃に汚れた厚手の外套。

 

腰には短剣を下げているが、戦う者の身体ではない。

 

男は三人を慎重に見回した。

 

「旅人か?」

 

「ああ」

 

ザルドが答える。

 

「オラリオ方面へ向かっている」

 

「三人だけで?」

 

「問題があるか」

 

「いや……」

 

男の目がザルドの腕へ向く。

 

服の上からでも分かる太さ。

 

次にアルフィア。

 

最後に、笑みを浮かべているバン。

 

「問題があるようには見えんな」

 

「見る目あるじゃねぇか」

 

「お前は黙れ」

 

アルフィアが言う。

 

「何でだよ」

 

年配の男は僅かに警戒を緩めた。

 

「俺はドーマ。この隊商をまとめている」

 

「ザルドだ」

 

ザルドが名乗る。

 

「こいつはバン。こちらはアルフィア」

 

「よろしくな」

 

バンが軽く手を上げる。

 

アルフィアは何も言わなかった。

 

ドーマは三人の名前を聞き、何か引っかかったように眉を動かした。

 

だが、すぐに荷車へ目を戻す。

 

「見てのとおり、車輪が嵌まった。道の中央を避けたのが悪かった」

 

「昨日の雨か」

 

「ああ。表面は乾いていたが、下が泥だったらしい」

 

ザルドが荷車へ近づく。

 

護衛たちは一瞬身構えたが、ドーマが手で制した。

 

ザルドは沈んだ車輪の前へしゃがみ込む。

 

泥の深さ。

 

車輪の角度。

 

荷台に積まれた木箱の量。

 

車軸の状態。

 

「荷物を下ろせば動く」

 

「分かっている」

 

ドーマが苦い顔をした。

 

「だが、半分以上を下ろす必要がある。中身は陶器と香油だ。泥の上へ置けん」

 

「布を敷けばいいだろ」

 

「雨除けの布は、荷台の底だ。荷物を出さなければ取れない」

 

「順番が悪いな」

 

バンが笑った。

 

「笑い事じゃない」

 

若い護衛――ルーカが睨む。

 

「このままでは日暮れまでに次の野営地へ着けない」

 

「なら、持ち上げりゃいいだろ」

 

バンが荷車の後ろへ回った。

 

ルーカが目を細める。

 

「男五人で動かなかった」

 

「五人だろ?」

 

「何だと?」

 

「こっちはオレとザルドがいる」

 

バンが荷車の底へ手を掛ける。

 

ザルドは沈んだ車輪側へ立った。

 

「バン。背中の荷物を下ろせ」

 

「ああ」

 

背負い袋を外し、街道の固い場所へ置く。

 

アルフィアがその横へ立った。

 

「揺らすな」

 

「分かってるよ」

 

「車ごと投げるな」

 

「投げねぇよ」

 

「お前ならやりかねない」

 

ドーマが困惑した顔で三人を見る。

 

「本当に二人で持ち上げる気か?」

 

「荷獣には前へ進ませろ」

 

ザルドが答える。

 

「俺たちが車輪を浮かせる」

 

「軸が耐えられん」

 

「真上へ持ち上げるだけだ。捻らん」

 

ドーマは迷った。

 

だが、このままでは何も変わらない。

 

「分かった。荷獣を進ませる。ゆっくりだぞ」

 

「オレに言ってる?」

 

「主にお前へだ」

 

「初対面なのに信用ねぇな」

 

「当然だ」

 

アルフィアの声が重なった。

 

「お前まで言うかよ」

 

御者が手綱を握る。

 

ルーカたちは荷車の後方へ集まる。

 

「せーので行くぞ!」

 

「必要ねぇよ」

 

バンは荷車の底を掴んだ。

 

ザルドが車輪の近くへ両手を添える。

 

「持ち上げる」

 

「ああ」

 

二人が同時に力を込めた。

 

ぎしり。

 

荷車全体が軋む。

 

次の瞬間。

 

泥へ深く沈んでいた車輪が、ゆっくりと浮き上がった。

 

「な……」

 

ルーカたちが動きを止める。

 

木箱を満載した荷車が、二人の腕だけで持ち上がっている。

 

バンは片手を離しても余裕がありそうな顔をしていた。

 

「前へ出せ」

 

ザルドが言う。

 

「は、はい!」

 

御者が慌てて手綱を動かす。

 

荷獣が一歩進む。

 

荷車が泥の穴を越えた。

 

「もう少し」

 

二歩。

 

三歩。

 

固い地面へ車輪が乗る。

 

「下ろすぞ」

 

二人は同時に力を抜いた。

 

荷車が地面へ戻る。

 

車軸は壊れていない。

 

荷物も大きく揺れていなかった。

 

しばらく。

 

誰も声を出さなかった。

 

「これでいいか?」

 

バンが手についた泥を払う。

 

ルーカが荷車とバンを交互に見る。

 

「お前たち……何者だ?」

 

「旅人」

 

「旅人は、満載の荷車を持ち上げない」

 

「旅人にも色々いるだろ」

 

「そういう問題か?」

 

ザルドが沈んでいた車輪を確認する。

 

「車輪は無事だ。だが、縁が少し欠けている。このまま速度を出せば割れる可能性がある」

 

ドーマが車輪へ近づいた。

 

「修理できるか?」

 

「予備の板は?」

 

「荷台にある」

 

「鉄帯は?」

 

「工具箱に」

 

「なら応急処置はできる」

 

ザルドが腕を捲る。

 

「手を貸す」

 

「まだ手伝ってくれるのか?」

 

「同じ道を進むなら、ここで止まられても邪魔になる」

 

アルフィアが淡々と言った。

 

「もう少し言い方があるだろ」

 

バンが小声で言う。

 

「事実だ」

 

ドーマは一度アルフィアを見た。

 

それから笑う。

 

「理由は何でもいい。助かる」

 

「飯もらえる?」

 

バンが尋ねる。

 

ドーマの笑みが止まる。

 

「……飯?」

 

「手伝い代」

 

「お前はそれしかないのか」

 

アルフィアが呆れたように言う。

 

「金ねぇからな」

 

「堂々と言うな」

 

ドーマは再び笑った。

 

「分かった。修理が終わったら、昼を出そう」

 

「酒は?」

 

「バン」

 

ザルドの低い声。

 

「聞いただけだって」

 

「昼から飲ませる酒はない」

 

ドーマが答える。

 

「残念だな」

 

「本当にそればかりだな、お前は」

 

ルーカが呆れた顔をした。

 

「酒と飯は大事だぞ」

 

「命よりか?」

 

「時と場合による」

 

「こいつの話を真面目に聞くな」

 

アルフィアが言った。

 

修理が始まった。

 

 

       ◇

 

 

欠けた車輪の外側へ、予備の木板を合わせる。

 

ザルドが小刀で形を整え。

 

隊商の職人が鉄帯を外す。

 

バンは荷車を僅かに持ち上げ、車輪を回せる状態で支えていた。

 

「まだか?」

 

「動くな」

 

ザルドが言う。

 

「動いてねぇよ」

 

「口が動いている」

 

「腕には関係ないだろ」

 

「集中しろ」

 

「この程度、目ぇ閉じてもできるぞ」

 

「閉じるな」

 

車輪の周囲では、ルーカたちが作業を手伝っている。

 

先ほどまで警戒していた護衛たちも、今ではバンの腕へ興味を隠せなくなっていた。

 

「それ、重くないのか?」

 

一人が尋ねる。

 

「荷車か?」

 

「ああ」

 

「軽くはねぇけど、持てる」

 

「レベルはいくつだ?」

 

「知らねぇ」

 

「知らない?」

 

「ねぇからな」

 

「ステイタスがないのか?」

 

護衛たちの手が止まる。

 

バンは気にせず荷車を支えている。

 

「神から恩恵を受けていないってことか?」

 

「たぶんな」

 

「たぶん?」

 

「その辺はよく分かんねぇ」

 

ルーカが信じられないものを見る目を向ける。

 

「恩恵なしで、これを?」

 

「元から丈夫なんだよ」

 

「元からで済む身体じゃないだろ」

 

「細けぇな」

 

アルフィアが背負い袋のそばから口を開く。

 

「そいつの常識を問いただすだけ無駄だ」

 

「お前が言う?」

 

「私だから言っている」

 

護衛たちはバンとアルフィアを交互に見た。

 

何か質問したそうだったが、彼女の目を見て口を閉じる。

 

「よし」

 

ザルドが木板を固定した。

 

「ゆっくり下ろせ」

 

バンが荷車を地面へ戻す。

 

職人が車輪を回し、歪みがないことを確かめた。

 

「これなら次の宿場までは持つ」

 

「助かった」

 

ドーマが頭を下げる。

 

「このまま立ち往生するところだった」

 

「飯」

 

バンが手を差し出す。

 

「お前は余韻というものを知らないのか」

 

アルフィアが言った。

 

「腹減ってんだよ」

 

「朝からそればかりだな」

 

「歩いて、荷車持ち上げたからな」

 

ドーマは笑いながら、荷車の一台を指した。

 

「すぐ用意させよう。ただし豪華な物ではないぞ」

 

「干し肉と硬いパン以外なら、何でもいい」

 

「昨日も食った」

 

ザルドが言う。

 

「昨日も、その前もだ」

 

「旅の保存食とはそういうものだろ」

 

ドーマは隊商の者たちへ声を掛けた。

 

 

       ◇

 

 

昼食は、荷車を囲むようにして取ることになった。

 

隊商が用意したのは、薄く切った燻製肉。

 

丸い形の硬いチーズ。

 

香草を練り込んだパン。

 

乾燥させた豆と野菜の汁物。

 

そして、革袋に入れられた白い飲み物。

 

バンが器を覗き込む。

 

「酒か?」

 

「発酵させた山羊の乳だ」

 

隊商の料理を担当している中年の女が答えた。

 

「酒じゃねぇのか」

 

「少し酸っぱいが、酒ではない」

 

「乳を腐らせたのか?」

 

「発酵だ」

 

ザルドが器を受け取り、匂いを確かめる。

 

「悪くない」

 

「飲んだことあるのか?」

 

「似たものはある」

 

バンも恐る恐る口をつけた。

 

濃い乳の味。

 

強い酸味。

 

僅かな塩気。

 

喉を通った後に、独特の香りが残る。

 

「酸っぱ」

 

「嫌なら飲むな」

 

アルフィアが言う。

 

彼女も一口飲んでいた。

 

「お前は平気なのか?」

 

「この程度ならな」

 

「赤い干し果物の時も強がってたよな」

 

「福音《ゴスペル》」

 

「冗談だって!」

 

澄んだ鐘の音が鳴る直前。

 

バンは器を持ったまま素早く横へ退いた。

 

隊商の者たちが、一斉に身体を強張らせる。

 

アルフィアはバンを睨んだまま、魔法を放たなかった。

 

「食事中だ」

 

ザルドが言う。

 

「分かっている」

 

「じゃあ何で詠唱したんだよ」

 

「警告だ」

 

「心臓に悪ぃな」

 

「次は撃つ」

 

周囲は静まり返っていた。

 

ルーカが恐る恐るバンへ尋ねる。

 

「今のは……魔法か?」

 

「ああ。避けねぇと岩に穴が開くぞ」

 

「そんなものを食事中に使うな!」

 

「オレに言うなよ」

 

「お前が余計なことを言ったからだろ!」

 

「もう分かったのか。慣れるのが早いな」

 

バンは笑いながら元の場所へ戻る。

 

アルフィアの隣ではなく、少し離れた位置へ座った。

 

「そこまで離れなくてもいい」

 

「撃たねぇ?」

 

「黙っていればな」

 

「善処する」

 

「信用できない」

 

緊張していた隊商の者たちも、ドーマが笑い始めたことで、少しずつ肩の力を抜いた。

 

「変わった三人だな」

 

「オレは普通だぞ」

 

「一番普通ではない」

 

ルーカが即座に返した。

 

「さっき会ったばっかだろ」

 

「もう十分分かった」

 

「見る目あるじゃねぇか」

 

「褒めてない」

 

バンは硬いチーズを手に取った。

 

ナイフで切ろうとする。

 

刃が表面で止まる。

 

「硬ぇな」

 

「そのまま齧るものじゃない」

 

料理を担当する女が言った。

 

「薄く削って、パンへ載せる」

 

ザルドは言われる前にチーズを薄く削り、燻製肉と共にパンへ挟んでいた。

 

「こうか」

 

「そうそう」

 

バンも真似をする。

 

一口。

 

燻製肉の香り。

 

チーズの濃い塩気と旨味。

 

香草を練り込んだパン。

 

「うまいな」

 

「保存食でも組み合わせれば味は変わる」

 

ザルドが言う。

 

「じゃあ、今までの干し肉もチーズと食えばよかったじゃねぇか」

 

「持っていなかった」

 

「買っとけばよかったな」

 

「お前は酒を買った」

 

「それはそれで必要だった」

 

アルフィアが黙ってパンを食べる。

 

バンが彼女の手元を見る。

 

「今度はチーズから食うんだな」

 

「何が言いたい」

 

「別に」

 

「言え」

 

「甘いもんじゃないから、どこから食うのかなって」

 

「消すぞ」

 

「食事中だぞ」

 

「お前が言うな」

 

ドーマは楽しそうに三人を眺めていた。

 

食事が進み、最初の警戒はほとんど消えている。

 

「お前たちは、どこから来た?」

 

「リオードだ」

 

ザルドが答える。

 

「その前は?」

 

「カイオス砂漠を越えてきた」

 

「東からか?」

 

「色々とな」

 

バンが曖昧に答えた。

 

ドーマは深く追及しなかった。

 

旅人が過去を話したがらないことは珍しくない。

 

「リオードでは何日か?」

 

「少し長くいたな」

 

「最近は、随分騒がしかっただろう」

 

「何かあったのか?」

 

バンが何気なく尋ねる。

 

ドーマは驚いたように目を見開いた。

 

「知らないのか?ベヒーモスの話だ」

 

ザルドとアルフィアの視線が、僅かに動いた。

 

バンは燻製肉を齧りながら首を傾げる。

 

「聞いたことはある」

 

「少し前まで、砂漠の外まで商人が逃げてきていた。街道が黒い毒に覆われたとも、国を一つ呑み込む巨大な獣が現れたとも言われている」

 

「へぇ」

 

「だが、突然いなくなった」

 

「逃げたんじゃねぇの?」

 

「それが、倒されたらしい」

 

周囲の商人たちも話へ加わる。

 

「俺が聞いた話では、山ほどもある剣を持った巨人が斬ったそうだ」

 

「違う。空から落ちた星が頭を砕いたんだ」

 

「赤い悪魔が、一人で腹の中へ入って殺したって話もあるぞ」

 

「いや、ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアが総出で――」

 

「両方とも壊滅したって聞いた」

 

バンの口元が少しずつ上がっていく。

 

ザルドの顔が険しくなる。

 

アルフィアの目が冷たく細められた。

 

「赤い悪魔だってよ」

 

バンが小声で言う。

 

「黙れ」

 

「お前の服も赤いな」

 

ルーカがバンを見る。

 

「偶然だ」

 

「腹の中へ入ったのか?」

 

「入ってねぇよ」

 

「本当に?」

 

「口から入るほど馬鹿じゃねぇ」

 

「入れる大きさだったのか……」

 

「そこを気にすんのかよ」

 

ドーマは笑いながら首を振る。

 

「噂など、街を三つ越えれば別の話になる。正しいことは誰にも分からん」

 

「じゃあ、どれが一番人気なんだ?」

 

バンが尋ねる。

 

「赤い悪魔だな」

 

「何で?」

 

「分かりやすいからだ。酒場では、一本角の魔王や、不死身の盗賊という話までついている」

 

「不死身の盗賊」

 

アルフィアが繰り返す。

 

バンは視線を逸らした。

 

「似た奴もいるもんだな」

 

「お前だろう」

 

アルフィアが即座に言った。

 

隊商の者たちが、一斉にバンを見る。

 

「冗談だ」

 

バンは笑った。

 

「こいつは何でもオレのせいにする」

 

「違うのか?」

 

ルーカが尋ねる。

 

「違う違う」

 

「目が泳いでいる」

 

「泳いでねぇよ」

 

ザルドが器を机代わりの木箱へ置く。

 

「噂話はその程度にしておけ」

 

その低い声に、バンもそれ以上は続けなかった。

 

ドーマは三人を見回した。

 

何かを察したようにも見えたが、問いただすことはしない。

 

「この街道も、ベヒーモス騒ぎのせいで隊商が減った」

 

ドーマは話題を変えた。

 

「ようやく人が戻り始めたところだ」

 

「野盗が出ると聞いた」

 

ザルドが言う。

 

「ああ。隊商が減った間に、街道沿いへ居着いた連中がいる」

 

ルーカが剣の柄へ手を置く。

 

「俺たちも、そのために雇われた」

 

「何人くらいだ?」

 

「分からない。十人とも、三十人とも言われている」

 

「随分曖昧だな」

 

「一つの集団とは限らないからな」

 

ドーマは街道の先を見る。

 

「次の宿場町まで、あと二日。途中に廃村が一つある。奴らがそこを使っているという話もある」

 

「避けられねぇの?」

 

バンが尋ねる。

 

「大きく迂回すれば一日は余計にかかる。荷車では水も食料も厳しい」

 

「なら進むしかないな」

 

「ああ」

 

ドーマは少し迷った後、三人へ向き直った。

 

「一つ頼みがある」

 

「飯のお代わり?」

 

「違う」

 

「酒?」

 

「違う」

 

「何だよ」

 

「俺たちと、しばらく一緒に進んでもらえないか」

 

ルーカが驚いてドーマを見る。

 

「隊商長」

 

「この三人が敵なら、俺たちでは最初からどうにもならん」

 

ドーマは静かに言った。

 

「だが、荷車を助けてくれた。飯だけで返せる働きではない」

 

「護衛をしろってことか?」

 

バンが尋ねる。

 

「正式な依頼ではない。同じ道を行くだけでいい」

 

「報酬は?」

 

アルフィアが聞く。

 

「食事と、次の宿場町までの道案内。必要なら、町で使える程度の金も払う」

 

バンの目が輝く。

 

「金?」

 

「お前は黙れ」

 

「大事だろ」

 

「正式な護衛なら、契約内容を決める必要がある」

 

アルフィアはドーマを見る。

 

「襲撃時に守る対象。期間。報酬。こちらが従う範囲」

 

「さすがに細かいな」

 

バンが言う。

 

「お前に任せれば、飯一食で何日も使われる」

 

「うまけりゃいいぞ」

 

「黙れ」

 

ドーマは頷いた。

 

「もっともだ。次の宿場町へ着くまで。荷車と人命を、可能な範囲で守ってほしい。こちらの指揮へ無条件に従う必要はない」

 

「報酬は?」

 

「三人で銀貨十二枚。食事はこちらが出す」

 

「酒は?」

 

「自分で買え」

 

「銀貨十二枚あれば買えるな」

 

「お前の分は四枚だ」

 

ザルドが言う。

 

「全部オレでもよくねぇ?」

 

「なぜだ」

 

「荷車持ち上げたの、オレだぞ」

 

「俺もだ」

 

「アルフィアは見てただけだろ」

 

「お前の荷物を守っていた」

 

「じゃあ一枚くらいで」

 

アルフィアの周囲で、空気が僅かに震えた。

 

「四枚でいいです」

 

バンが素早く言い直す。

 

ルーカが目を見開く。

 

「敬語を使えるのか」

 

「命が危ねぇ時はな」

 

「誰のせいだ」

 

アルフィアは冷たく言った。

 

ザルドはドーマへ向き直る。

 

「受けよう」

 

「いいのか?」

 

「ああ。同じ道だ。食料を節約できるなら悪くない」

 

「決まりだな」

 

ドーマが手を差し出した。

 

ザルドがその手を握る。

 

バンは食事の残りへ手を伸ばした。

 

「じゃあ、お代わりも契約に入る?」

 

「一人二杯までだ」

 

料理係の女が答える。

 

「もう二杯食ったぞ」

 

「なら終わりだ」

 

「交渉し直そうぜ」

 

「契約は成立した」

 

アルフィアが言う。

 

「そこだけ早ぇな」

 

隊商の者たちから笑いが上がった。

 

 

       ◇

 

 

午後。

 

三人は隊商と共に街道を進んだ。

 

先頭には、ルーカを含む護衛二人。

 

中央に四台の荷車。

 

後方に残りの護衛。

 

ザルドは荷車の脇。

 

アルフィアは隊列の中央。

 

バンは最後尾を歩いていた。

 

「何でオレが後ろなんだ?」

 

「背後から来た敵へ最初に気づけるだろう」

 

ザルドが答える。

 

「前に行きてぇ」

 

「食料へ近づけるな」

 

料理係の女が荷車から言った。

 

「信用ねぇな」

 

「昼にチーズを三つ隠しただろ」

 

「隠してねぇ。コートの中に入れただけだ」

 

「それを隠したと言う」

 

「後で食おうと思ったんだよ」

 

「返せ」

 

「もう食った」

 

「次の食事を減らすよ」

 

「契約違反だろ」

 

「盗み食いを認めた覚えはない」

 

隊商の空気は、出会った時とは大きく変わっていた。

 

護衛たちもバンへ話しかけ。

 

商人たちはアルフィアを遠巻きにしながらも、時折道や天候について尋ねている。

 

ザルドは荷車の車輪を気にしながら歩き、異音がするたび状態を確かめていた。

 

夕方が近づく。

 

街道の先には、低い丘と崩れた石壁が見え始めた。

 

「あれが廃村か?」

 

バンが尋ねる。

 

ドーマの顔が険しくなる。

 

「いや。廃村は、もっと先だ」

 

「じゃあ何だ?」

 

「昔の見張り台だ。街道を守るために建てられたが、今は使われていない」

 

崩れかけた石造りの塔。

 

半分ほどが失われ、残った壁には蔦が絡んでいる。

 

周囲に人の姿はない。

 

だが。

 

バンは足を止めた。

 

「どうした」

 

ルーカが尋ねる。

 

「見られてる」

 

隊商の空気が一変する。

 

護衛たちが武器へ手を伸ばした。

 

「どこからだ?」

 

「塔の方」

 

ルーカが目を凝らす。

 

「誰もいないぞ」

 

「隠れてんだろ」

 

アルフィアも塔へ視線を向けた。

 

「一人ではない」

 

「分かるのか?」

 

ドーマが尋ねる。

 

「呼吸が複数ある」

 

「何人?」

 

「少なくとも四人」

 

ザルドが静かに周囲を見回す。

 

「街道の左右にもいる」

 

風が吹く。

 

草が揺れる。

 

誰も姿を見せない。

 

隊商は進むべきか、止まるべきか判断できず、街道の中央で立ち尽くした。

 

「野盗か?」

 

ルーカが剣を抜く。

 

「まだ分からねぇ」

 

バンは背負い袋の肩紐を握り直した。

 

クレシューズを使うつもりはない。

 

だが、その顔には恐れも緊張もなかった。

 

「どうする?」

 

ドーマがザルドへ尋ねる。

 

「ここで陣を組む」

 

ザルドが答えた。

 

「荷車を寄せろ。荷獣を内側へ入れる」

 

「バン」

 

アルフィアが呼ぶ。

 

「ああ」

 

「一人で先へ行くな」

 

「まだ何も言ってねぇだろ」

 

「顔を見れば分かる」

 

「ちょっと様子見ようと思っただけだ」

 

「行くな」

 

「へいへい」

 

「返事は一度だ」

 

「へい」

 

バンは笑いながら、街道の先へ目を向けた。

 

崩れた塔。

 

揺れる草。

 

その向こうで、僅かに金属が擦れる音がした。

 

隊商と三人の旅人。

 

初めて共に進む一日の終わり。

 

街道の先には、すでに誰かが待ち構えていた。




今回は、街道で立ち往生していた隊商を助け、三人が次の宿場町まで同行することになる回でした。

特に、バンたち本人の前でベヒーモス討伐の噂が大きく歪められ、「赤い悪魔」や「不死身の盗賊」として語られている場面がお気に入りです。
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