礼拝堂の地下へ続く石段は、狭く、湿っていた。
壁から滲み出した水が苔を濡らし、踏み込むたびに靴の裏が僅かに滑る。
先頭を進むバンの手には、地上で奪った短剣。
武器として使うためではない。
壁や床に仕掛けがないかを探るため、刃先で石の隙間を軽く叩いていた。
その後ろをアルフィア。
最後尾にはザルド。
三人分の足音が、地下通路へ低く反響している。
「止まれ」
アルフィアの声が落ちた。
バンは上げかけていた足を、その場で止める。
「何かある?」
「糸だ」
「見えねぇぞ」
「膝の高さ。壁から壁へ張られている」
バンが目を凝らす。
暗闇の中。
湿った石壁の間に、細い糸が一本。
灯りの角度が変わった瞬間だけ、僅かに光を返した。
「踏んだら?」
「右上から音がする」
アルフィアが壁の上部を見る。
不自然に積まれた石。
その奥に、何か重いものが置かれているらしい。
「崩れるか」
ザルドが言った。
「おそらくな」
「分かりやすい罠だな」
「お前には見えていなかった」
「アルフィアが見つけたからいいだろ」
「私をお前の目にするな」
バンは糸へ指を向ける。
「強奪《スナッチ》」
張りつめていた糸が、両端の留め具ごと壁から抜けた。
罠は作動しない。
バンの手へ細い糸が収まる。
「便利だな」
ザルドが言った。
「褒めても何も出ねぇぞ」
「褒めてはいない」
「二人とも冷てぇな」
バンは糸を地面へ置き、再び進み始める。
通路は少しずつ下へ傾いていた。
地下の奥から、複数の音が聞こえる。
足音。
鎖。
誰かの荒い呼吸。
そして、女の小さな呻き声。
「近い」
アルフィアが言う。
「バルガ以外にもいるか?」
「三人」
「逃げた野盗か?」
「一人は人質。残り二人は男だ」
「バルガと、もう一人か」
ザルドが拳を握る。
「挟まれる可能性は?」
「後ろにはいない」
「なら前だけだな」
バンは短剣を逆手に持ち替えた。
通路の先には、揺れる橙色の光。
松明だ。
光は一つではない。
二つ。
左右の壁へ差し込まれている。
その間に、鉄格子があった。
格子の奥。
一人の男が、若い女の首へ短剣を当てている。
バルガ。
その隣には、見張り台から逃げた黒布の男。
男の手には、小型の弩が握られていた。
狭い地下では、弓より扱いやすい。
「止まれ!」
バルガが叫ぶ。
三人は鉄格子の手前で足を止めた。
「そこから動くな」
「また同じことすんのか?」
バンが呆れたように言う。
「何度やっても、お前じゃオレらを止められねぇぞ」
「黙れ!」
バルガが女の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
年齢は二十歳前後。
淡い茶色の髪。
旅装は破れ、頬には殴られた痕がある。
意識はある。
だが、長く拘束されていたのか、足元が震えていた。
「こいつが死んでもいいのか?」
「よくねぇな」
バンが答える。
「なら武器を捨てろ!」
「これ?」
バンは短剣を見た。
指を開く。
短剣が石の床へ落ち、乾いた音を立てた。
「次はその女だ!」
バルガがアルフィアを見る。
「魔法を使うな。少しでも口を動かせば、首を切る」
「……」
アルフィアは何も答えなかった。
ただ、バルガと黒布の男を静かに見ている。
「でかい男もだ!」
「俺は武器を持っていない」
ザルドが両手を僅かに広げる。
「その場へ膝をつけ!」
「断る」
「人質を殺すぞ!」
「お前は殺せない」
「何だと?」
ザルドの声には、迷いがなかった。
「殺せば、お前を守るものがなくなる」
「試してみるか?」
「できるなら、すでにやっている」
バルガの短剣が、女の首へさらに強く押し当てられる。
薄く血が滲んだ。
女が息を呑む。
「ザルド」
バンが低く呼ぶ。
「ああ」
バルガが顔を歪める。
「余裕ぶりやがって……!」
「お前、逃げる道を知ってんだろ」
バンが言った。
「この奥から丘へ出られる。人質連れて逃げるつもりだった」
「だった?」
「もう無理だろ」
黒布の男の肩が僅かに動いた。
アルフィアの目が細くなる。
「奥に何かある」
バルガが反射的に通路の奥へ視線を向けた。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「強奪《スナッチ》」
バルガの手から、短剣が消えた。
「なっ――」
同時に。
黒布の男が弩の引き金を引く。
矢はバンではない。
アルフィアへ向けられていた。
「雑音だ」
アルフィアは首を僅かに傾けた。
短い矢が頬の横を通り抜ける。
「福音《ゴスペル》」
澄んだ鐘の音。
不可視の衝撃が鉄格子の隙間を抜け、黒布の男の手元だけを撃ち抜く。
弩が砕けた。
「ぐあっ!」
男の手から血が散る。
指は残っている。
だが、武器を握ることはできない。
バルガは人質を突き飛ばし、奥へ走ろうとした。
「逃がすかよ」
バンが右手を引く。
「強奪《スナッチ》」
今度は、バルガの腰に巻かれていた革帯が引かれた。
「うおっ!?」
身体が後ろへ浮く。
鉄格子へ背中から叩きつけられた。
鍵束が腰から飛び出し、バンの手へ収まる。
「これか」
複数の鍵。
バンは鉄格子の錠へ順番に差し込む。
「急げ」
ザルドが言う。
「分かってるって」
「一本ずつ試すな。錠の形を見ろ」
「細けぇな」
三本目。
鍵が回る。
鉄格子が開いた。
ザルドが中へ入る。
黒布の男は傷ついた手を押さえながら、腰の剣へ反対の手を伸ばした。
ザルドの掌が、その胸へ当たる。
「寝ていろ」
僅かに押す。
男の身体が壁へ叩きつけられ、その場へ崩れ落ちた。
バルガは立ち上がり、通路の奥へ走る。
「待て!」
バンが追おうとする。
「人質を先にしろ」
アルフィアの声が止めた。
バンの足が止まる。
「……ああ」
地面へ倒れた女へ駆け寄る。
両手は背中側で縄に縛られていた。
足首にも鎖。
バンが縄へ触れる。
「切るぞ」
女は怯えた目でバンを見る。
「だ、大丈夫……」
「無理すんな」
バンは指先だけで縄を引き千切った。
次に足の鎖。
「強奪《スナッチ》」
錠が鎖から抜ける。
女の脚が自由になった。
立ち上がろうとしたが、すぐに膝が崩れる。
バンが腕を掴んで支えた。
「歩ける?」
「少しなら……」
「ザルド」
「ああ」
ザルドが女を軽々と抱き上げる。
「待っていろ」
「でも、あの男が……」
「逃がさない」
ザルドの声は穏やかだった。
「もう大丈夫だ」
女はしばらくザルドの顔を見た後、力が抜けたように目を閉じた。
「気を失っただけだ」
アルフィアが言う。
「命に別状はない」
「なら追うぞ」
バンが奥の通路を見る。
バルガの足音はまだ聞こえている。
遠ざかってはいない。
むしろ。
何か重いものを動かす音がした。
「止まれ」
アルフィアが再び言った。
「また罠か?」
「違う」
地下全体が、僅かに震えた。
天井から砂が落ちる。
通路の奥。
低い轟音。
「崩す気だ」
ザルドが女を壁際へ横たえる。
「退路ごと塞ぐつもりか」
「自分も埋まるぞ」
バンが言う。
「別の出口がある」
アルフィアは耳を澄ませた。
「右奥。風の音がする」
「丘へ出る道か」
「ああ」
再び地面が揺れた。
今度は先ほどより大きい。
奥の天井に亀裂が走る。
「女を連れて戻れ」
ザルドが言う。
「誰が?」
「アルフィアだ」
「私が?」
「バルガは俺たちで追う」
アルフィアの目が鋭くなる。
「命令するな」
「最も速く地上へ戻せるのはお前だ」
「……」
数秒。
アルフィアは女へ視線を落とした。
「仕方がない」
「素直じゃねぇな」
バンが言った。
「福音《ゴスペル》」
「今、地面崩れかけてるぞ!」
「黙れ」
アルフィアは女の身体を支え、片腕を自分の肩へ回した。
細身の身体とは思えない安定した動きで立ち上がらせる。
「ザルド」
「ああ」
「埋まるな」
「誰に言っている」
「バン」
「何だ?」
「勝手に先へ行くな」
「今度は一緒だろ」
「それを忘れるな」
「分かってるって」
アルフィアは女を連れ、来た道を戻っていく。
ザルドとバンは、崩れ始めた通路の奥へ進んだ。
◇
通路の先は、二つに分かれていた。
左は古い貯蔵庫。
壊れた樽と空の木箱が積まれている。
右は、さらに狭い地下道。
冷たい風が吹いていた。
「こっちだな」
バンが右へ入る。
ザルドも続く。
天井は低い。
ザルドは身体を屈めなければ進めない。
「お前には狭そうだな」
「余計なことを言うな」
「頭ぶつけんなよ」
直後。
ザルドの頭上へ小さな石が落ちる。
石は額に当たり、砕けた。
「……」
「大丈夫?」
「問題ない」
「天井の方が負けたな」
「前を見ろ」
足元には、急いで掘られた跡。
木材で支えられた壁。
古い地下道へ、野盗が後から手を加えたのだろう。
正面から、松明の光が見えた。
バルガ。
肩へ大きな革袋を掛けている。
「逃げ足速ぇな!」
バンが叫ぶ。
バルガが振り返る。
「来るな!」
「またそれかよ」
バルガは壁際に置かれた油壺へ松明を投げた。
火が広がる。
乾いた木製の支柱が燃え始めた。
「燃やして通路を崩す気か」
ザルドが走る。
「バン、火を奪え!」
「強奪《スナッチ》!」
燃えていた油が、地面から引き剥がされる。
炎そのものを奪うのではない。
火のついた油と布をまとめて引き寄せ、後方の石床へ移す。
ザルドが足で踏み消した。
「消えた……?」
バルガの顔が引きつる。
「お前、何なんだ!」
「さっきから聞かれるけど、旅人だって」
「ふざけるな!」
バルガは革袋を地面へ捨て、湾曲した短刀を抜いた。
先ほどバンに奪われたものとは別の武器。
袖の内側へ隠していたらしい。
「まだ持ってたのか」
「これ以上近づくな!」
「もう人質いねぇぞ」
「俺には金がある!」
「それがどうした」
「欲しいんだろ!?」
バルガは革袋を蹴った。
口が開き、中身が地面へ散らばる。
銀貨。
宝石。
指輪。
商人の印が入った小さな証書。
「全部やる!」
「へぇ」
バンは散らばった銀貨を見る。
少しだけ目が輝いた。
「バン」
ザルドの声が低くなる。
「分かってるよ」
バンは銀貨から視線を外した。
「それ、お前の金じゃねぇだろ」
「持ってる奴の物だ!」
「盗った奴が言うと説得力あるな」
「お前も盗賊だろ!」
バルガの叫びに、バンの目が僅かに細くなる。
「ああ」
「なら分かるはずだ!奪った奴が勝つ!弱い奴から取る!それの何が悪い!」
「別に、奪うことが全部悪いとは言わねぇよ」
バンはゆっくり歩く。
「止まれ!」
「オレだって、欲しいもんは奪ってきた」
「なら――」
「でもな」
赤いコートの裾が、地下の風に揺れる。
「奪う相手くらい選べよ」
バルガが短刀を振り上げた。
「強奪《スナッチ》!」
短刀が手から飛ぶ。
同時に。
バルガの身体から、力が抜けた。
「な……」
膝が崩れる。
呼吸が乱れる。
身体狩り《フィジカルハント》。
バンが奪ったのは、バルガの腕力と脚力。
すべてではない。
立てなくなる程度。
逃げられなくなる程度だけだ。
「身体が……動かねぇ……」
「これが、奪われるってことだ」
バンはバルガの前へ立つ。
「お前が弱い奴らにしてきたことより、ずっと軽いけどな」
「返せ……!」
「嫌だね」
バルガが地面を這い、銀貨へ手を伸ばす。
その手を、ザルドの足が止めた。
「終わりだ」
「殺せ……」
バルガが吐き捨てる。
「捕まったら、どうせ縛り首だ」
「それを決めるのは俺たちではない」
ザルドはバルガの襟を掴み、持ち上げた。
「自分のしたことを、すべて話せ」
「誰が――」
「話すまで寝かせん」
ザルドの声に、バルガの顔から血の気が引く。
「拷問する気か?」
バンが尋ねる。
「質問するだけだ」
「顔が怖ぇぞ」
「元からだ」
バンは地面へ散らばった銀貨と宝石を拾い、革袋へ戻していく。
「盗むなよ」
「回収してんだよ」
「一枚、袖へ入れたな」
「気のせいだ」
「出せ」
「見てたのかよ」
バンは銀貨を一枚、渋々袋へ戻した。
「報奨金あるんだからいいだろ」
「勝手に先払いするな」
「細けぇな」
ザルドはバルガを片腕で抱え直す。
「戻るぞ」
「ああ」
バンは革袋を持ち上げた。
その時。
地下道の奥から、低い音が聞こえた。
風。
外の空気。
丘へ出る出口は近い。
「どうする?」
バンが尋ねる。
「出口を確認する」
「戻るんじゃねぇの?」
「逃げ道を塞ぐ」
「真面目だな」
「後で野盗が再利用する」
二人はバルガを連れ、地下道の先へ進んだ。
◇
出口は、丘の北側にあった。
茂みと岩で隠された、小さな穴。
人一人が屈んで通れる程度。
外へ出ると、廃村全体を見下ろせる位置だった。
村の中央では、隊商の護衛たちが残った野盗を集めている。
礼拝堂の前には、アルフィア。
その隣で、救出された女が毛布を掛けられて座っていた。
ニルもいる。
捕まっていた二人の御者へ水を渡していた。
「終わったみてぇだな」
バンが言う。
「出口を埋める」
ザルドは入口を支えていた木材を見る。
「崩すぞ」
「中に誰もいねぇ?」
「音はない」
遠く離れたアルフィアも、こちらを見て頷いた。
「福音《ゴスペル》」
澄んだ鐘の音。
丘の斜面。
地下道の入口を支えていた岩だけが砕けた。
「こっちまで届くのかよ」
崩れた土と石が、穴を完全に塞ぐ。
ザルドはバルガを抱えたまま、村へ下り始めた。
バンも続く。
「歩けねぇのか?」
「お前が力を奪ったからだろう」
「少ししたら戻るよ」
「どれくらいだ」
「さあな」
「分からないのか」
「適当に取ったからな」
「雑だな」
「死なねぇ程度にはしてる」
「それを雑と言う」
村へ戻ると、ドーマたちも林から移動してきていた。
荷車は村の外へ並べられている。
護衛たちは武器を構えたままだが、戦いは終わっている。
捕らえられた野盗は三十人以上。
逃げた者もいる。
だが、拠点として使われていた廃村は制圧された。
「その男がバルガか」
ドーマが尋ねる。
「ああ」
ザルドが地面へ下ろす。
バルガは立てず、その場へ座り込んだ。
「人質は?」
「三人とも無事だ」
アルフィアが答えた。
「女は衰弱している。だが、休ませれば歩ける」
救出された女が、毛布を押さえながら立ち上がろうとする。
「無理をするな」
アルフィアが言った。
「でも……お礼を」
「不要だ。座っていろ」
冷たい口調。
だが、女の肩へ手を添え、倒れないよう支えている。
バンがにやつく。
「優しいじゃねぇか」
「福音《ゴスペル》」
「今、怪我人の隣だぞ!」
「お前だけを狙える」
「物騒だな!」
女は驚いた後、僅かに笑った。
アルフィアはバンを睨み、女を再び座らせる。
「こいつらは、あなたたちが?」
女が尋ねた。
「ああ」
バンが答える。
「オレらと、隊商の連中でな」
「ありがとう……」
「気にすんな」
「あなたの名前は?」
「バン」
「私はセラ」
「一人で旅してたんだって?」
「北の村へ薬を届ける途中だった」
セラは俯く。
「荷物は全部、あいつらに奪われた」
「倉庫にあるかもしれねぇな」
ザルドが倉庫を確認しているドーマへ声を掛ける。
「薬の荷は?」
「探させよう」
しばらくして。
商人の一人が、小さな木箱を抱えて戻ってきた。
箱には、セラの名前と、北の村の印。
「これ……!」
セラは木箱へ手を伸ばした。
蓋を開ける。
中には薬瓶と乾燥した薬草。
いくつか割れている。
だが、大半は無事だった。
「よかった……」
セラの目に涙が浮かぶ。
バンはその様子を見て、静かに笑った。
「間に合うといいな」
「うん」
ニルは少し離れた場所で、二人の御者と話していた。
その表情は暗い。
バンが近づく。
「何してんだ?」
「謝ってた」
「許してもらえた?」
「そんな簡単な話じゃねぇよ」
「だろうな」
「俺も連れてかれるんだろ」
「ああ」
「衛兵に渡されたら、どうなる?」
「知らねぇ」
「死刑かもしれない」
「かもな」
ニルが俯く。
「怖くないのか、とか言わないのか?」
「怖いだろ」
「……ああ」
「じゃあ、ちゃんと話せよ」
バンは廃村を見回す。
「何をしたか。誰に何をしたか。知ってること全部」
「それで軽くなるのか?」
「さあな」
「無責任だな」
「オレが決めることじゃねぇからな」
バンはニルの頭を軽く小突いた。
「でも、逃げてまた同じことするよりはましだろ」
「……そうだな」
ニルは小さく頷いた。
◇
その日は、クルバ廃村で一泊することになった。
野盗を縛り。
盗品を分類し。
持ち主が分かるものと、分からないものを分ける。
食料と水も倉庫から見つかった。
多くは襲われた隊商から奪ったもの。
ドーマは勝手に使うことを避け、必要最低限だけを記録した上で分けた。
「肉ある?」
バンが尋ねる。
「あるが、盗品だ」
「腹減った」
「隊商の食料を出す」
「そっちは食っていいの?」
「俺たちの物だからな」
「難しいな」
「勝手に食えば、お前も野盗と同じだ」
アルフィアが言った。
「それは嫌だな」
「盗賊ではあるだろう」
「盗賊と野盗は違ぇよ」
「何がだ」
「格好よさ?」
「同じだ」
「ひでぇな」
夕食は、隊商の豆と野菜の煮込み。
倉庫から見つかった陶器の器は使わず、自分たちの食器を使う。
燻製肉。
硬いチーズ。
香草パン。
前日と似た内容だった。
「また同じか」
バンが言う。
「嫌なら食うな」
料理係の女が鍋を持ち上げる。
「食います」
「素直でよろしい」
「お前、あの鍋に弱いな」
ルーカが笑う。
「アルフィアの魔法より、近くて避けにくいんだよ」
「福音《ゴスペル》」
「冗談だって!」
隊商の者たちから笑いが上がる。
戦いの後。
捕虜。
盗品。
これから衛兵へ説明しなければならないことは山ほどある。
それでも、全員が生きている。
隊商の荷も。
救出された三人も。
バンの背負い袋の中にある、傷ついたクレシューズと名もない結晶も無事だった。
夜。
見張りは隊商の護衛と三人で交代することになった。
バンは礼拝堂の外壁へ背を預け、隣に背負い袋を置いていた。
廃村の上には、雲のない星空。
風が草を揺らしている。
「終わったな」
バンが袋へ話しかける。
「武器に報告するな」
少し離れた場所から、アルフィアの声がした。
「起きてたのか」
「見張りだ」
「もう野盗いねぇぞ」
「逃げた者がいる」
「戻ってくると思う?」
「可能性は低い。だが、ないとは言えない」
アルフィアはバンの隣ではなく、少し離れた石へ腰を下ろした。
「お前、今日はちゃんと指示を聞いたな」
「何だよ急に」
「一人で地下へ行かなかった」
「ザルドも一緒だっただろ」
「だから言っている」
「褒めてんの?」
「事実を確認しただけだ」
「素直じゃねぇな」
「福音《ゴスペル》」
「褒め言葉だったのに!」
「雑音だ」
バンは笑い、背負い袋へ手を置いた。
その直後。
布と革の奥から。
ちり、と。
小さな金属音。
二人の視線が袋へ向く。
「また鳴ったな」
「ああ」
アルフィアは外側へ手を添えた。
クレシューズ側。
次に結晶側。
「結晶に変化はない」
「じゃあ、こいつだ」
「断定するな」
「何度も鳴ってんだろ」
「偶然は続く」
「棗椰子と同じだな」
空気が震える。
「冗談だって」
バンはすぐに両手を上げた。
「それにしても」
アルフィアは背負い袋を見つめた。
「以前より、音が明確になっている」
「そう思う?」
「ああ」
「直りたがってんのかもな」
「武器に意思があるとは限らない」
「なくても、オレには分かる」
「何がだ」
「まだ終わってねぇってこと」
バンは袋へ軽く手を置く。
「オラリオまで、ちゃんと連れてく」
今度は金属音が鳴らなかった。
それでもバンは、満足したように笑う。
廃村の戦いは終わった。
隊商は守られ。
人質は救われ。
野盗の拠点も失われた。
明日。
三人と隊商は、次の宿場町へ向かう。
砂漠を越えて始まった新しい旅。
その最初の依頼は、間もなく終わろうとしていた。
◇
二日後。
街道の先に、高い木柵が見えた。
荒野を横切る川。
そのそばに造られた宿場町。
荷車が何台も並び、旅人や商人が門を出入りしている。
「あそこか?」
バンが尋ねる。
「ああ」
ドーマが答えた。
「宿場町セルバ。衛兵の詰所もある」
「やっと酒が買えるな」
「報酬を受け取る前から使うな」
アルフィアが言う。
「銀貨四枚だろ?」
「食料を先に買え」
「酒も食料みてぇな――」
空気が澄む。
「冗談だって」
「聞き飽きた」
荷車が町の門へ近づく。
衛兵たちは、後方の荷車へ縛られた大量の野盗を見て、慌てて詰所から飛び出してきた。
「何があった!」
「説明すると長い」
ドーマが苦笑する。
「まず、人と荷を確認してくれ」
バルガを含む野盗たち。
取り戻された盗品。
救出された人質。
ニルの証言。
すべてが衛兵へ引き渡された。
ドーマは約束どおり、三人へ銀貨十二枚を渡す。
四枚ずつ。
バンは掌の銀貨を見つめた。
「久しぶりの金だな」
「酒へ使うなよ」
ザルドが言う。
「一枚くらいならいいだろ」
「飯が先だ」
「宿もだ」
アルフィアが続ける。
「残ったら酒にする」
「残らないよう管理する」
「オレの金だぞ」
「お前に管理能力がないからだ」
少し離れた場所。
ドーマと隊商の者たちが、三人へ手を振っている。
「世話になった!」
ルーカが叫ぶ。
「次に会った時は、もう少しましな護衛になってる!」
「死なねぇようにな!」
バンが手を上げる。
「お前もな!」
「オレは平気だよ!」
「また怪我する顔をしている!」
「どんな顔だよ!」
隊商の者たちが笑う。
セラは薬箱を抱え、深く頭を下げた。
ニルは衛兵に連れられる前、一度だけバンを振り返った。
バンは何も言わず、軽く手を上げる。
ニルも小さく頷いた。
三人と隊商は、ここで別れる。
「宿を探すぞ」
ザルドが言った。
「先に飯」
バンが答える。
「荷物を置いてからだ」
アルフィアが言う。
「酒屋見るだけなら?」
「駄目だ」
「一軒だけ」
「駄目だ」
「匂いだけ」
「黙れ」
三人は宿場町の通りへ歩き出した。
傷ついたクレシューズ。
名もない結晶。
新しく得た僅かな報酬。
そして、街道で出会った者たちとの短い縁。
三人と隊商の短い旅は、宿場町セルバでひとまず終わった。
だが。
オラリオまでは、まだ遠い。
三人の前には、次の土地と、次の道が待っていた。
今回は、礼拝堂の地下で人質を救出し、野盗の頭目バルガを捕らえるまでを描きました。
これで第8部は終了です。三人は隊商との短い旅を終え、新たな宿場町へ到着しました。