第53話 ラキアの宿場町
宿場町セルバの門前は、朝からひどく騒がしかった。
荒野を横切る川のほとり。
土と石を混ぜて築かれた高い外壁。
その外側には、入門を待つ荷車や旅人たちが長い列を作っている。
荷獣の鳴き声。
車輪の軋み。
商人たちの怒鳴り声。
そこへ、三十人を超える野盗を縛りつけた隊商が現れたのだから、騒ぎにならないはずがなかった。
「何だ、これは!」
「全員、野盗か!?」
「詰所から人を呼べ!」
門を守っていた兵士たちが、一斉に槍を構える。
胸元には、赤い盾を象った金属飾り。
その中央には、金色の獅子が刻まれていた。
兵士の多くは揃いの革鎧を着込み、赤い布を肩から垂らしている。
統一された装備。
統一された紋章。
辺境の宿場町にしては、随分と軍人の数が多い。
「隊商長は誰だ!」
「俺だ」
ドーマが荷車の先頭から手を上げた。
「街道沿いのクルバ廃村を拠点にしていた野盗だ。頭目も捕らえている。奪われた荷と、人質三人も連れてきた」
「クルバだと?」
兵士の表情が変わる。
「バルガの一味か」
「ああ」
「本当に捕らえたのか?」
兵士が荷車へ近づく。
両手と足を縛られたバルガは、荷台の隅へ転がされていた。
バンに奪われた力はすでに戻り始めているが、逃げられる状態ではない。
顔を上げたバルガが、兵士へ唾を吐こうとする。
その前に。
「動くんじゃないよ」
料理係の女が、大きな鉄鍋を持ち上げた。
バルガは口を閉じる。
「随分と大人しいな」
バンが言った。
「あの鍋が怖いんだろ」
「お前もだろう」
アルフィアが冷たく返す。
「オレは怖いんじゃなくて、当たったら痛そうだから避けてるだけだ」
「それを怖がっていると言う」
「お前の《福音》より避けやすいぞ」
アルフィアの周囲で、僅かに空気が震えた。
「冗談だって」
バンはすぐに両手を上げる。
「ここ、町の入口だからな。壁壊すなよ」
「お前だけを消せば済む」
「物騒だなぁ」
三人のやり取りを聞いていた兵士が、不審そうに目を細めた。
「そちらの三人は?」
「護衛として力を貸してくれた旅人だ」
ドーマが答える。
「野盗の大半を捕らえ、人質を救出したのも彼らだ」
「三人で?」
「隊商の護衛も戦った」
「ほとんど、この三人だったよ」
料理係の女が付け加える。
「赤い兄さんが武器を全部取り上げて、でかい旦那が連中を投げ飛ばして、銀髪のお嬢さんが地面に穴を開けた」
「穴ではない。警告だ」
アルフィアが訂正した。
「人間に当てなかっただけ優しいだろう?」
「お前がそれを言うと怖ぇよ」
バンが小声で言う。
兵士たちは三人を見回した。
特に、ザルドの巨体へ視線が集まる。
二メートルを大きく超える身体。
太い腕。
静かに立っているだけで、門前の兵士たちより遥かに強いことが伝わってくる。
「名を聞いても?」
兵士が尋ねた。
「ザルドだ」
「アルフィア」
「バン」
三人が名乗る。
兵士は一瞬、ザルドの名前に反応したように見えた。
だが、すぐに首を傾げる。
聞き覚えはある。
しかし、目の前の男と結びつけるほどの知識はないらしい。
「所属するファミリアは?」
「今はない」
ザルドが答えた。
兵士の眉が寄る。
「恩恵を受けていないのか?」
「詳しい話は必要か?」
アルフィアの視線が向く。
「い、いや。野盗の件と関係がないなら構わない」
兵士はすぐに目を逸らした。
その横で、バンが門の上を見上げている。
風に揺れる旗。
赤い地に、金の獅子。
「なあ」
「何だ」
ザルドが答える。
「あの旗、リオードじゃ見なかったよな」
「当然だ」
「この町、どこの国なんだ?」
ドーマが振り返った。
「知らずに来たのか?」
「道についてきただけだからな」
「ここはラキア王国領だ。セルバは南東部の国境に近い宿場町になる」
その瞬間。
ザルドの眉間へ、深い皺が刻まれた。
アルフィアの目も細くなる。
「よりによって、ラキアか」
ザルドが低く呟く。
「何だよ」
バンは二人を交互に見る。
「知ってんの?」
「アレスの国だ」
ザルドが答えた。
「誰だ、それ」
「馬鹿だ」
「神だ」
アルフィアが続ける。
「どっちなんだよ」
「馬鹿な神だ」
二人の声が、ほとんど同時に重なった。
バンが数秒黙る。
「そこまで言われる奴、逆に気になるな」
「興味を持つな」
アルフィアが言う。
「会えば疲れる」
「会ったことあんのか?」
「ある」
「どんな奴?」
「軍を動かす前に考えることができない」
ザルドが答えた。
「負けても次は勝てると信じて、同じことを繰り返す」
「それだけ聞くと、前向きな奴にも聞こえるな」
「学習能力がないだけだ」
アルフィアが切り捨てる。
「容姿だけは無駄に整っている。黙って立っていれば軍神らしく見える」
「喋ると?」
「雑音になる」
「ひでぇ評価だな」
「事実だ」
門番の兵士たちが、聞こえないふりをしている。
だが、頬が引きつっていた。
自分たちの主神を目の前で馬鹿呼ばわりされているのだ。
それでも反論しない。
ザルドとアルフィアの雰囲気を前に、口を挟む勇気がないらしい。
バンは兵士たちへ視線を向ける。
「お前らの神なんだろ?」
「……軍神アレス様は、勇猛果敢なお方だ」
一人が絞り出すように答えた。
「考えるより先に行動されることもあるが」
「言い方を選んだな」
バンが笑う。
「黙れ、バン」
ザルドが言った。
「これ以上、門前で話すことではない」
「先に馬鹿って言ったの、お前だぞ」
「事実と、口にしていい場所は別だ」
「意外と気を遣うんだな」
「ラキア兵にではない。入町が遅れることにだ」
「そっちかよ」
野盗の引き渡しには、さらに時間がかかった。
衛兵の詰所から増援が呼ばれ。
捕らえた人数を確認し。
武器と盗品を記録し。
救出された三人の証言を取る。
ドーマとルーカは事情説明のため詰所へ残ることになった。
「俺たちはここまでだな」
ドーマが三人へ言う。
「ああ」
ザルドが答えた。
「報酬は受け取った。契約は終わりだ」
「本当に助かった。お前たちがいなければ、荷だけでなく命まで失っていた」
「飯もうまかったぞ」
バンが言う。
「チーズもな」
「盗み食いした分は除くよ」
料理係の女が睨む。
「まだ言うのかよ」
「忘れるわけないだろう」
女は大きな包みをバンへ差し出した。
「これは?」
「香草パンと燻製肉。それから、あんたが盗み食いしようとしたチーズだ」
「くれんの?」
「残り物だよ。三人で食べな」
「優しいじゃねぇか」
「次に盗れば鍋で殴る」
「やっぱ怖ぇな」
バンは包みを受け取り、背負い袋とは別の小さな荷袋へ入れた。
クレシューズと名もない結晶が入った背負い袋は、今も背中にある。
町の中へ入る前に、アルフィアが外側から状態を確かめる。
「問題ない」
「毎回やるな」
「人の多い場所へ入る。結晶の力が漏れれば面倒だ」
「銀色の光が抑えてんだろ?」
「絶対ではない」
「分かってるよ」
門の検査では、背負い袋の中身を見せるよう求められた。
バンが眉を寄せる。
「開けねぇと駄目?」
「武器や危険物を持ち込む場合は確認する」
兵士が答えた。
「武器は壊れてる。石は……ちょっと危ねぇかもな」
「危険なのか!?」
「だから開けたくねぇんだよ」
兵士たちが槍を構えかける。
「落ち着け」
ザルドが間へ入った。
「正体不明の魔物由来の結晶だ。現在は封じている。オラリオで専門家に見せるために運んでいる」
「魔物の結晶……」
「ここで開けば、かえって危険だ」
アルフィアが言う。
「外側から害が漏れていないことは、私が保証する」
「あなたが?」
「私の言葉では足りないか?」
アルフィアの銀色の瞳が、兵士を真っ直ぐ捉えた。
兵士は無意識に一歩下がる。
「……隊商長の証言もある。今回は通そう」
「話が分かるじゃねぇか」
「ただし、町の中で開封するな。異常があればすぐに衛兵へ知らせろ」
「ああ」
「それと、宿の場所は記録させてもらう」
「面倒だな」
「正体不明の危険物を持ち込む者へ当然の対応だ」
ザルドが言った。
「従え」
「へいへい」
「返事は一度だ」
「へい」
ようやく。
三人は宿場町セルバへ足を踏み入れた。
◇
セルバの大通りは、軍事国家の辺境らしい風景と、商人の町らしい活気が混ざっていた。
街道沿いには宿。
食堂。
鍛冶屋。
革製品の店。
荷獣を預ける厩舎。
川へ近い場所には、水車と倉庫が並んでいる。
通りを歩く者の半分近くが兵士だった。
赤い布を肩へ掛けた正規兵。
槍を背負った若者。
荷車へ食料を積み込む補給兵。
同じ形の盾や鎧が、店先へ大量に並べられている。
「兵士だらけだな」
バンが言う。
「ラキアでは珍しくない」
ザルドが答えた。
「国王の軍であると同時に、全員がアレス・ファミリアの団員だ」
「国全体が一つのファミリアなのか?」
「ああ。国家系ファミリアと呼ばれる」
「何人いる?」
「時期によるが、数万」
「多いな」
「数だけだ」
アルフィアが冷たく言った。
「ダンジョンを持たない以上、兵の大半は低級だ。恩恵を受けていても、鍛え方には限界がある」
「数で押すのか」
「そして押し返される」
ザルドが続ける。
「主にオラリオにな」
「何度も攻めてんの?」
「懲りずにな」
「楽しそうな国じゃねぇか」
「どこがだ」
「何度負けてもまた行くんだろ?根性はある」
「馬鹿と根性を混同するな」
アルフィアは通りの先を睨むように見た。
「死ぬのはアレスではない。命令された兵だ」
その声に、僅かな冷たさとは別のものが混じった。
バンは横目でアルフィアを見る。
だが、何も言わなかった。
通りを歩く若い兵士たち。
十代半ばほどに見える者もいる。
まだ鎧が身体に馴染まず、槍の重さに振り回されている少年。
傷だらけの装備を補修している中年兵。
徴兵されたばかりなのか、不安そうに家族と別れを告げる者。
「腹減ったな」
バンが言った。
話を変えるような、いつもの軽い声だった。
「まず宿だ」
アルフィアが答える。
「飯が先でもいいだろ」
「荷物を安全な場所へ置く」
「酒場見えてるぞ」
「見るな」
「いい匂いすんだけど」
「宿だ」
ザルドもアルフィアに同意する。
「部屋を決めてから食う」
「二対一かよ」
「お前に決定権はない」
「報酬あるぞ」
バンはコートの内側から、銀貨四枚を取り出した。
「オレの金だ」
「そのうち何枚を宿へ使う」
「一枚?」
「足りない」
「じゃあ二枚」
「食費は?」
「残り二枚」
「次の町までの食料は?」
「ザルドが何とかする」
「俺を当てにするな」
「料理うまいだろ」
「材料がなければ作れん」
「その辺の草とか」
「毎日野草を食う気か」
「肉も狩ればいい」
「クレシューズを背負ったまま走るなと言った」
「全部塞がれたな」
アルフィアが手を差し出す。
「銀貨を寄越せ」
「何で?」
「管理する」
「オレの報酬だぞ」
「お前に持たせれば、今夜で酒に変わる」
「全部は使わねぇよ」
「三枚か」
「二枚くらい」
「半分ではないか」
「うまい酒なら仕方ねぇだろ」
「寄越せ」
「嫌だ」
バンは銀貨を握り、コートの内側へ戻そうとする。
アルフィアの唇が動く。
「福――」
「一枚だけ!」
バンが銀貨を一枚だけ残し、三枚を差し出した。
「これでいいだろ」
アルフィアは受け取った銀貨を数える。
「残りの一枚も、無駄に使うな」
「一枚くらい好きにさせろよ」
「酒以外なら構わない」
「何に使えってんだ」
「食料」
「結局飯じゃねぇか」
「必要なものだ」
「酒も――」
アルフィアがバンを見る。
「何でもない」
セルバの大通りには、兵士や旅人向けの大きな宿が何軒も並んでいた。
ザルドが選んだのは、川へ近い三階建ての宿。
入口には荷物を運ぶための広い扉があり、一階には食堂と浴場が併設されている。
看板には、眠る山羊の絵が描かれていた。
「ここにする」
「酒ある?」
バンが看板の下に書かれた文字を見る。
「食堂、浴場、厩舎……葡萄酒」
「最後だけ見つけるな」
アルフィアが言う。
「地元の酒かもしれねぇぞ」
「荷物を置いてからだ」
「飲んでいいの?」
「食事の時に一杯だけだ」
「話が分かるじゃねぇか」
「私が注ぐ」
「また管理されんのかよ」
三人が宿へ入ると、受付にいた太った男が顔を上げた。
「いらっしゃい。三人か?」
「ああ」
ザルドが答える。
「部屋は?」
「大部屋なら安い。個室は少し高い。兵士が多い時期だから、空きは少ないぞ」
「三人部屋はあるか」
「一つだけな。寝台が三つ。窓は川側。浴場と朝食込みで、銀貨三枚と銅貨六枚」
バンがアルフィアを見る。
「三枚で足りるじゃねぇか」
「一泊分だ」
「一日で出る?」
「結晶とクレシューズの状態を確認する。食料も補充する。最低でも二泊だ」
「じゃあ高くねぇ?」
「大部屋なら一人銅貨八枚だ」
宿主が言う。
「そっちでいいだろ」
バンが答える。
「駄目だ」
アルフィアが即座に否定した。
「何で?」
「大勢が出入りする場所へ、あの荷物を置けない」
「ああ」
バンは背負い袋を見る。
「じゃあ三人部屋だな」
「最初からそう言っている」
ザルドとアルフィアが追加の宿代を払い、二泊分の部屋を取った。
バンは残された自分の銀貨一枚を握り締める。
「オレだけ金残ってるな」
「帰るまで残せ」
「今夜の葡萄酒に――」
「残せ」
「一杯くらい宿代に入ってるだろ」
「入っていない」
宿主が答えた。
「商売上手だな」
「酒は別料金だ」
「やっぱオレの銀貨が必要だな」
アルフィアがバンの手元を見る。
「隠すなよ」
「隠してねぇよ」
そう言いながら、バンは銀貨をコートの一番奥へ入れた。
◇
三人部屋は、宿の三階にあった。
窓の外には、セルバの町を横切る川。
雨の影響で水量が増え、茶色がかった水が勢いよく流れている。
川岸には水車。
木造の桟橋。
魚を入れた籠を運ぶ漁師たち。
遠くには畑と葡萄畑らしき列が見えた。
「いい景色だな」
バンが窓を開ける。
湿った風。
川の匂い。
焼いた魚の香り。
どこかから、葡萄を潰したような甘い匂いも漂ってくる。
「酒の匂いするぞ」
「気のせいだ」
アルフィアが言う。
「いや、絶対する」
「荷物を下ろせ」
「へいへい」
バンは背負い袋を寝台へ置こうとした。
「床だ」
アルフィアが止める。
「寝台の方が柔らかいだろ」
「万が一、結晶の力が漏れれば寝台が枯れる」
「木の床も同じじゃねぇの?」
「床なら周囲へ布を敷ける」
ザルドが部屋の隅へ厚い毛布を広げた。
背負い袋を中央へ置き、壁から少し離す。
アルフィアが扉と窓を閉める。
「開けるぞ」
「ああ」
革紐を外す。
防水布。
仕切り。
まず、クレシューズの包み。
次に、名もない結晶の木箱。
二つは直接触れない距離へ並べられた。
アルフィアが結晶の外側へ手をかざす。
「変化なし」
「銀色の方は?」
「昨日と同じだ。黒紫色の力を抑えている」
ザルドはクレシューズの包みを外から確認する。
「亀裂も広がっていない」
「開けて見なくていいか?」
バンが尋ねる。
「今日は外側だけだ」
「何で?」
「お前が疲れている」
「全然」
「疲れていなくても、町へ着いた直後に余計なことをするな」
「見るだけだぞ」
「触る」
「触るなって言われたら触らねぇよ」
「信用できない」
「毎回それだな」
「積み重ねた結果だ」
バンはクレシューズの包みへ軽く指を置いた。
ちり、と。
布の奥から小さな金属音が鳴る。
「ほら」
「何がだ」
「町に着いたって分かってんだよ」
「偶然だ」
「随分続く偶然だな」
「何度でも起こる」
「棗椰子みてぇに?」
アルフィアの唇が僅かに動く。
「冗談だって」
バンはすぐに手を離した。
「風呂へ行くぞ」
ザルドが言う。
「今?」
「何日、外で寝たと思っている」
「川で洗えばよくねぇ?」
「宿代に浴場が含まれている」
「なら入るか」
アルフィアは結晶とクレシューズを布で覆い直した。
「部屋の鍵は私が持つ」
「何で?」
「お前が先に戻って開けないためだ」
「風呂より早く戻ったりしねぇよ」
「酒場へ先に行く可能性はある」
「それはあるな」
「認めるな」
三人は部屋を出た。
◇
久しぶりの湯だった。
男湯の広い浴槽。
石造りの壁。
川から引いた水を薪で温めているらしい。
兵士や旅人が何人も入っていたが、ザルドが浴場へ入った瞬間、自然と大きな空間が空いた。
「避けられてんな」
バンが言う。
「広く使えていい」
ザルドは気にせず湯へ入る。
大きな身体が沈むと、浴槽の水位が目に見えて上がった。
「こぼれんじゃねぇ?」
「黙って入れ」
バンも湯へ肩まで浸かる。
「生き返るな」
「お前は死なないだろう」
「今は普通に死ぬぞ」
「普通には見えん」
近くにいた兵士が、小声で呟いた。
バンが振り返る。
「何か言った?」
「い、いや」
「ラキア兵?」
「ああ。補給隊だ」
「戦争行くの?」
「北部へ移動するだけだ。国境で小競り合いがあるらしい」
「大変だな」
「軍人だからな」
兵士はザルドを何度も見ている。
「その身体……どこかの将軍か?」
「違う」
「冒険者?」
「今は旅人だ」
「今は?」
ザルドは答えなかった。
兵士もそれ以上聞けず、湯の反対側へ移動した。
「お前、何もしなくても怖がられてんな」
「お前が軽すぎるだけだ」
「話しかけやすいだろ」
「警戒心を持たれないとも言う」
「いいことじゃねぇか」
「盗賊には都合がいいだろうな」
「元な」
湯から上がる頃には、身体へまとわりついていた砂と埃がすべて落ちていた。
修繕された赤いコートも、宿の者へ洗いと乾燥を頼んでいる。
バンは簡素な貸し出し用の上着を着ていた。
「赤じゃないと変な感じだな」
「その方が目立たない」
「似合わねぇ?」
「普段よりましだ」
「どっちだよ」
女湯から出てきたアルフィアは、濡れた銀髪を布で拭いていた。
長い髪が普段より柔らかく背中へ流れている。
バンが一瞬、彼女を見る。
「何だ」
「別に」
「言え」
「髪下ろしてると、いつもより――」
アルフィアの周囲で空気が震えた。
「何でもない」
「賢明だ」
「最後まで言わせろよ」
「不要だ」
ザルドが食堂へ向かう。
「話は飯を食いながらにしろ」
「飯!」
バンがすぐに後を追う。
「分かりやすい奴だな」
アルフィアも、その後へ続いた。
◇
宿の食堂は、兵士と商人で混み合っていた。
長い木製の机。
大皿。
大きな陶器の杯。
厨房では、何本もの川魚が串へ刺され、炭火の上で焼かれている。
香草。
焦げた皮。
溶けたチーズ。
煮込んだ肉。
そして葡萄酒。
様々な匂いが食堂へ満ちていた。
「ここ、当たりだな」
バンの目が輝く。
「まだ食べていない」
アルフィアが言う。
「匂いで分かる」
「お前に料理の良し悪しが分かるのか?」
「うまそうかどうかは分かるぞ」
三人が頼んだのは、この宿の夕食盛り合わせだった。
川魚の炭火焼き。
豆と玉葱を煮込んだ濃い汁物。
焼いた山羊肉。
硬めの白いチーズ。
香草を練り込んだ丸いパン。
酢漬けの野菜。
料理が机へ並ぶ。
バンは真っ先に川魚へ手を伸ばした。
「待て」
ザルドが止める。
「何で?」
「骨が多い」
「噛めばいいだろ」
「喉へ刺さるぞ」
「オレの喉に?」
「刺さったままでも平気だからといって、食べ方を雑にするな」
ザルドは魚の身を開き、背骨と細かな骨を取り除く。
皮はぱりぱりに焼け。
中の白い身は柔らかい。
刻んだ香草と塩。
酸味のある果汁が掛けられていた。
「ほら」
皿へ分ける。
バンが一口食べる。
「うまっ」
皮の香ばしさ。
川魚特有の僅かな土の匂いを、香草と酸味が消している。
「酒に合いそうだな」
「まず食え」
アルフィアが言う。
「頼んでいい?」
「一杯だけだ」
「赤と白、どっち?」
「知らん」
「地元の酒だぞ」
「好きな方を選べ」
「じゃあ両方」
「一杯だ」
「半分ずつなら一杯だろ」
アルフィアがバンを見る。
「名案じゃねぇ?」
「詭弁だ」
「ザルドは?」
「赤だ」
「分かってるじゃねぇか」
結局。
バンとザルドは、この地方で造られた若い赤葡萄酒。
アルフィアは水を頼んだ。
赤葡萄酒は深い色ではない。
少し濁りがあり、香りも荒い。
酸味が強く、舌の奥へ渋さが残る。
「霧酒とは全然違うな」
バンが言う。
「こちらは食事に合わせる酒だ」
ザルドが山羊肉を食べながら答える。
「脂を流す酸味がある」
「なるほどな」
バンは肉を齧り、酒を飲む。
「確かに合う」
「一気に飲むな」
アルフィアが言う。
「まだ半分だぞ」
「お前の半分は、すぐ空になる」
「自分の銀貨で頼んだんだけどな」
「残りの金額は?」
「……まだある」
「いくらだ」
「銅貨が少し」
「一杯でほとんど使ったのか」
「地元の酒だからな」
「理由にならない」
ザルドは白いチーズを薄く切り、香草パンへ載せた。
その上へ山羊肉。
酢漬けの玉葱。
「食ってみろ」
バンが受け取る。
一口。
濃い乳の味。
肉の脂。
玉葱の酸味。
「うまいな」
「保存しやすい食材を組み合わせている。兵士や旅人向けだ」
「ラキアって、戦争ばっかしてる割に飯は悪くねぇな」
近くの机にいた兵士たちが、一斉にバンを見る。
「何だよ」
「よそ者が、ラキアを馬鹿にするな」
若い兵士が立ち上がった。
顔が赤い。
すでに葡萄酒を何杯か飲んでいるらしい。
「馬鹿にしてねぇよ。飯うまいって言ったんだぞ」
「戦争ばかりとは何だ!」
「実際そうなんだろ?」
「我らは軍神アレス様の御下で、ラキアの栄光を――」
「座れ」
別の中年兵が若者の肩を掴む。
「食事中に騒ぐな」
「ですが!」
「相手を見ろ」
中年兵は、ザルドへ僅かに視線を向けた。
若い兵士も見る。
ザルドはパンを食べているだけだ。
それでも若者の勢いが少し弱まる。
「別に喧嘩売ってねぇぞ」
バンが言う。
「飯がうまいって褒めてんだ」
「なら余計な言葉をつけるな」
アルフィアが冷たく言った。
「ラキアが戦争ばかりしているのは事実だがな」
「お前の方がひでぇだろ」
中年兵の口元が引きつる。
だが、反論はしなかった。
「アレス様は……勇敢なお方だ」
「またその言い方か」
バンが笑う。
「他に言いようがないのか?」
「バン」
ザルドが低く呼ぶ。
「分かってるよ」
バンは若い兵士へ自分の魚の皿を軽く示した。
「とにかく、ここの飯はうまい。それでいいだろ」
若い兵士はしばらくバンを睨んでいた。
やがて。
「……その魚より、山羊肉の煮込みを食え」
「何で?」
「この宿なら、そっちの方がうまい」
「本当か?」
「ああ。赤葡萄酒にも合う」
バンの目が輝く。
「店員!煮込み追加!」
「金は?」
アルフィアが尋ねる。
バンの動きが止まる。
「……少し貸して?」
「断る」
「一口やるから」
「いらない」
「ザルド」
「俺も断る」
「冷てぇなぁ」
中年兵が吹き出した。
「俺が出してやる」
「いいの?」
「うちの国の飯を褒めた礼だ。ただし、アレス様を馬鹿にするな」
「馬鹿って言ったのはザルドとアルフィアだぞ」
「バン」
「分かってるって」
山羊肉の煮込みが運ばれてくる。
大きく切った肉。
豆。
根菜。
赤葡萄酒を使った濃い煮汁。
バンは一口食べ、すぐに笑った。
「こりゃうまい」
「だろう」
若い兵士が、なぜか誇らしげに胸を張る。
「戦争より、これ売った方が儲かるんじゃねぇ?」
「余計なことを言うな!」
食堂に笑い声が広がった。
アルフィアは呆れたように息を吐く。
ザルドは煮込みを一口味見し、使われている香草を考えていた。
バンは肉を食い。
葡萄酒を飲み。
ラキア兵と、どの料理が一番酒に合うかで言い争っている。
つい先ほどまで野盗と戦い。
人質を救い。
廃村の地下を走っていたとは思えない光景だった。
◇
夜。
三人は宿の部屋へ戻った。
洗われた赤いコートは、明日の朝まで乾燥させるため一階へ預けたままだ。
バンは貸し出し用の上着姿で、自分の寝台へ横になる。
「久しぶりの寝台だな」
「すぐに寝るな」
アルフィアが言う。
「何で?」
「荷物を確認する」
「さっき見ただろ」
「食事へ行く前だ」
「数時間しか経ってねぇぞ」
「確認する」
結晶の木箱。
クレシューズの包み。
二つを再び並べる。
黒紫色の結晶内部には、銀色の光。
昨夜までと変わらず、暗い力を内側へ押し留めている。
「異常なし」
アルフィアが言う。
ザルドもクレシューズの外側を確かめる。
「こちらも同じだ」
「なら寝ようぜ」
バンはクレシューズの包みへ手を伸ばした。
「触るな」
「相棒におやすみ言うだけだ」
「不要だ」
「オレには必要なんだよ」
バンの指先が、布へ触れる。
その瞬間。
ちり。
小さな金属音。
続けて。
これまでより僅かに長く。
ちり、ちり、と。
二度。
布の奥で、四つの棍を繋ぐ鎖が震えた。
三人の表情が変わる。
「今のは……」
ザルドが包みを見る。
「二回鳴ったな」
バンが笑う。
アルフィアはすぐに結晶へ手をかざした。
魔力は流さない。
外へ漏れる力だけを探る。
銀色の光が。
ほんの僅かに。
先ほどより明るくなっていた。
「結晶も反応している」
「クレシューズに?」
「断定はできない」
「でも同時だろ」
「ああ」
アルフィアはクレシューズと結晶の距離を見る。
二つは、部屋の中で十分に離して置かれている。
触れてはいない。
それでも。
クレシューズが鳴った直後。
結晶の銀色の光が強まった。
「近づけてみるか?」
バンが尋ねる。
「駄目だ」
アルフィアが即答する。
「少しだけ」
「駄目だ」
「触れさせねぇよ」
「何が起こるか分からない」
「《贈与》で――」
「使うな」
声が一段低くなる。
バンはアルフィアを見る。
「まだ何もしてねぇぞ」
「考えるな」
「力を少し流せば、反応が――」
「お前はエルソスで、消えかけた存在へ《贈与》を使った。その結果と、この銀色の力の関係さえ分かっていない」
「でも、悪いもんじゃねぇだろ」
「お前の感覚だけで決めるな」
アルフィアはバンの手首を掴み、クレシューズから離した。
「ヘファイストスへ見せるまで、勝手に力を流すな」
「……分かったよ」
「本当に?」
「ああ」
バンは珍しく、すぐに頷いた。
クレシューズを見る。
結晶を見る。
「今は、壊したくねぇからな」
アルフィアは手を放した。
「なら待て」
「ああ」
銀色の光は、少しずつ元の明るさへ戻っていく。
クレシューズも、それ以上は鳴らなかった。
ザルドが二つの荷物を再び別々に包む。
「明日、改めて状態を見る」
「町も見たいんだけどな」
バンが言う。
「昼からでいい」
ザルドが答える。
「市場には川魚、乳製品、葡萄酒がある」
「行く」
返事が早い。
「酒は買うな」
アルフィアが言った。
「見るだけ」
「今日、一杯飲んだ」
「明日は明日だろ」
「残った銀貨は?」
「葡萄酒と煮込みで、銅貨だけになった」
「一日で使い切ったのか」
「酒だけじゃねぇぞ。煮込みもだ」
「兵士に奢られていただろう」
「最初の一皿は自分で頼もうとした」
「頼もうとしただけだ」
「気持ちは払った」
「金を払え」
バンは毛布を頭まで被った。
「もう寝る」
「逃げるな」
「明日、市場行くんだろ。早く寝ねぇとな」
「都合のいい時だけ早いな」
部屋の灯りが消される。
窓の外からは、川の流れる音。
遠くの兵舎から、夜番を交代する鐘。
宿の一階からは、まだ兵士たちの笑い声が聞こえていた。
軍神アレスが治める国。
数多の兵を抱え。
何度負けても戦を繰り返す、ラキア王国。
その辺境の宿場町で。
三人は久しぶりに湯へ入り。
温かい料理を食べ。
柔らかな寝台で夜を迎えた。
そして。
傷ついたクレシューズと名もない結晶は。
初めて、同じ夜に応えるような光と音を返していた。
第9部が始まりました。
今回は、セルバがラキア王国の辺境にある宿場町だと判明し、三人が久しぶりに風呂と温かい食事を楽しむ回でした。
特に、ラキア兵と揉めかけたバンが、最後には郷土料理を教えてもらい、一緒に食事の話で盛り上がる場面がお気に入りです。