強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第54話 川魚と兵士の酒

翌朝。

 

セルバの町は、日の出より先に目を覚ました。

 

川の流れる音。

 

水車が軋む音。

 

宿の前を通り過ぎていく荷車。

 

そして。

 

「一、二! 一、二!」

 

規則正しい掛け声が、大通りから三階の部屋まで響いてくる。

 

寝台の上で毛布に包まれていたバンが、片目だけを開いた。

 

「……朝からうるせぇな」

 

「起きろ」

 

アルフィアはすでに身支度を終えていた。

 

窓際に立ち、通りを見下ろしている。

 

薄い朝靄の中。

 

赤い布を肩へ掛けたラキア兵たちが、槍を担いで走っていた。

 

人数は三十人ほど。

 

先頭の兵士が声を張り上げ、それに合わせて若い兵たちが足を動かしている。

 

隊列は揃っているようで、ところどころ乱れていた。

 

一人が遅れ。

 

後ろの者が踵を踏み。

 

槍の柄が隣の兵士の頭へ当たる。

 

「痛っ!」

 

「隊列を崩すな!」

 

「すみません!」

 

「声が小さい!」

 

バンは寝台から身体を起こした。

 

「随分楽しそうじゃねぇか」

 

「どこがだ」

 

「朝から走って、棒振り回してる」

 

「兵士の訓練だ」

 

「オレなら寝てる方がいいな」

 

「お前は見張りの最中でも寝そうだ」

 

「必要なら起きてるぞ」

 

「いびきをかきながらか?」

 

「まだ言うのかよ」

 

反対側の寝台では、ザルドが旅道具を整理していた。

 

水袋。

 

保存食。

 

包帯。

 

革紐。

 

残っている量を確かめ、足りないものを小さな木札へ書き出している。

 

「今日は市場へ行く」

 

ザルドが言った。

 

「昨日も言ってたな」

 

「川魚と乳製品。それに、旅へ持っていける食料を確認する」

 

「酒も?」

 

「食料が先だ」

 

「見るだけならいいだろ」

 

「お前の『見るだけ』は、最後に飲むところまで含まれている」

 

アルフィアが窓を閉める。

 

「所持金は?」

 

バンは貸し出し用の上着の内側へ手を入れた。

 

銅貨が数枚。

 

取り出し。

 

掌の上で数える。

 

「……少しある」

 

「昨夜と変わっていないな」

 

「寝てる間に増えたら怖ぇだろ」

 

「酒一杯にも足りん」

 

「試飲なら無料かもしれねぇぞ」

 

「店へ迷惑を掛けるな」

 

「飲んで気に入ったら、今度買う」

 

「いつだ」

 

「金ができた時」

 

「信用されない客の典型だな」

 

ザルドは木札を荷袋へ入れた。

 

「まず朝食だ」

 

「宿で食うのか?」

 

「ああ。宿代に含まれている」

 

「なら食えるだけ食おうぜ」

 

「一人分だ」

 

「お代わりは?」

 

「食堂で聞け」

 

バンは寝台から飛び降りた。

 

「早く行こうぜ」

 

「現金な奴だな」

 

アルフィアが呆れたように言う。

 

部屋の隅。

 

厚い毛布の上には、クレシューズと名もない結晶が離して置かれている。

 

昨夜、二つが同時に反応してから、目立った変化はない。

 

銀色の光は元の明るさへ戻り。

 

クレシューズも沈黙していた。

 

アルフィアは外側から状態を確かめる。

 

「異常なし」

 

「今日は見ねぇの?」

 

バンが尋ねる。

 

「市場から戻ってからだ」

 

「少しだけ開けても――」

 

「駄目だ」

 

「まだ最後まで言ってねぇぞ」

 

「聞く必要がない」

 

ザルドが部屋の鍵を取る。

 

「行くぞ」

 

三人は食堂へ下りた。

 

 

       ◇

 

 

朝食は、兵士や旅人向けの簡素なものだった。

 

硬めに焼いた丸いパン。

 

白い山羊乳のチーズ。

 

薄く切った燻製肉。

 

豆と玉葱の汁物。

 

そして、小さな川魚を塩漬けにして焼いたもの。

 

「朝から魚か」

 

バンが皿を覗き込む。

 

「川の町だからな」

 

ザルドは小魚を一尾持ち上げた。

 

頭から尾まで、掌に収まるほどの大きさ。

 

骨ごと食べられるよう、表面が硬く焼かれている。

 

「これなら骨を取る必要はない」

 

「昨日は取れって言ったじゃねぇか」

 

「魚の大きさが違う」

 

「全部噛めば同じだろ」

 

「食べ方を覚えろ」

 

バンは小魚をそのまま口へ入れた。

 

ぱり、と。

 

香ばしい皮が割れる。

 

強い塩気。

 

僅かな苦味。

 

噛むほどに魚の旨味が出てきた。

 

「酒欲しくなる味だな」

 

「朝だ」

 

アルフィアが言う。

 

「朝から飲むとは言ってねぇよ」

 

「顔が飲みたがっている」

 

「顔で何でも分かるな」

 

「お前は分かりやすい」

 

アルフィアはパンを小さく千切り、チーズを載せて食べていた。

 

白いチーズは柔らかく、少し酸味がある。

 

「それ、うまい?」

 

バンが尋ねる。

 

「自分の皿にもあるだろ」

 

「お前が食ってる方がうまそうに見える」

 

「同じものだ」

 

「一口くれよ」

 

「断る」

 

「昨日、棗椰子は半分くれたぞ」

 

「あれは黙らせるためだ」

 

「今も黙るかもしれねぇぞ」

 

「お前は食べ終われば、また喋る」

 

「よく分かってんじゃねぇか」

 

アルフィアは返事の代わりに、バンの皿へ置かれていたチーズを指した。

 

「自分のものを食え」

 

「へいへい」

 

「返事は一度だ」

 

「へい」

 

ザルドは汁物を飲みながら、厨房の方へ視線を向けていた。

 

「何見てんだ?」

 

「この汁には、魚の骨から取った出汁が入っている」

 

「分かるのか?」

 

「ああ。肉だけより軽いが、味は薄くない」

 

「宿の奴に聞いてくる?」

 

「後でな」

 

「料理教えてもらうのかよ」

 

「土地の調理法を知って損はない」

 

「オレは食えりゃいいけどな」

 

「お前は少し覚えろ」

 

「料理できるぞ」

 

「何が作れる」

 

「焼いた肉」

 

「火へ置いただけだろう」

 

「塩も振る」

 

「料理と呼ぶには足りん」

 

「アルフィアよりは上じゃねぇ?」

 

バンが言った瞬間。

 

アルフィアの匙が止まった。

 

「何だ」

 

「昨日聞いたけど、湯と薬草しか作れねぇんだろ?」

 

「必要なものは作れる」

 

「飯は?」

 

「空腹を満たせればいい」

 

「それ、ザルドの前で言っていいの?」

 

ザルドがゆっくりとアルフィアを見る。

 

「食事は、身体を維持するためだけのものではない」

 

「朝から始まったな」

 

バンが笑う。

 

「味、温度、香り、食感。それらを整えることで、同じ材料でも食べる量と吸収は変わる。長い遠征では士気にも関わる」

 

「聞いたか、アルフィア」

 

「私は遠征で困ったことはない」

 

「周りが困ってたんじゃねぇ?」

 

アルフィアの周囲で、空気が僅かに震えた。

 

バンは自分のパンを口へ押し込む。

 

「冗談だって」

 

「口へ物を入れたまま喋るな」

 

「今入れたんだよ」

 

朝食を終える頃。

 

宿の者が、洗い終えた赤いコートを持ってきた。

 

臙脂色の継ぎ当て。

 

古い傷。

 

新しい傷。

 

乾いた布からは、石鹸と川風の匂いがした。

 

バンはすぐに袖へ腕を通す。

 

「やっぱ、こっちの方が落ち着くな」

 

「貸し服よりは似合っている」

 

アルフィアが言った。

 

バンが目を細める。

 

「今、褒めた?」

 

「事実を言っただけだ」

 

「もう一回言ってくれ」

 

「黙れ」

 

「聞き間違いじゃなかったな」

 

赤いコートの裾を揺らしながら、バンは食堂を出た。

 

 

       ◇

 

 

川辺の市場は、大通りとは違う活気に満ちていた。

 

石造りの階段を下りた先。

 

川沿いには長い屋根が設けられ、その下へ魚屋が並んでいる。

 

大きな籠。

 

水を張った桶。

 

銀色の魚。

 

黒い斑点を持つ魚。

 

細長い魚。

 

甲殻に覆われた川海老。

 

殻の厚い貝。

 

威勢のいい声が、あちこちから飛んでいた。

 

「今朝獲れたばかりだ!」

 

「焼くならこっちだ!」

 

「煮込みには脂の多い腹を使いな!」

 

バンは桶の中を覗き込む。

 

大きな魚が水を跳ねた。

 

「おっと」

 

飛沫が赤いコートへ掛かる。

 

アルフィアの眉が寄った。

 

「洗った直後だぞ」

 

「魚に言えよ」

 

「近づきすぎだ」

 

「新鮮か見てたんだよ」

 

「お前に分かるのか」

 

「動いてるから新鮮だろ」

 

「それだけか」

 

ザルドは魚屋の前へ立ち、一尾ずつ見比べていた。

 

鱗。

 

目。

 

腹の張り。

 

鰓の色。

 

店主が興味深そうに腕を組む。

 

「でかい旦那、魚を見る目があるな」

 

「この黒い斑点のものは?」

 

「岩場にいる川鱒だ。流れが速い場所で育つから、身が締まってる。焼くなら一番だ」

 

「こちらは?」

 

「泥の底にいる魚だ。匂いは強いが、香草と葡萄酒で煮込めばうまい」

 

「骨は多いか」

 

「細い骨が多い。裏ごしして団子にする家もある」

 

ザルドの目が僅かに輝く。

 

「面白いな」

 

「買うの?」

 

バンが尋ねる。

 

「今夜、宿の厨房を借りる」

 

「また作るのか」

 

「市場へ来た意味があるだろう」

 

「店で食えば楽じゃねぇ?」

 

「自分で試したい」

 

「料理人だなぁ」

 

ザルドは川鱒を二尾。

 

泥魚を一尾。

 

小さな川海老を一籠購入した。

 

店主が魚を布と葉で包む。

 

「海老はどうすんの?」

 

バンが覗き込む。

 

「殻ごと炒る」

 

「酒に合いそうだな」

 

「何でも酒へ繋げるな」

 

アルフィアが言った。

 

「合いそうなもんは仕方ねぇだろ」

 

魚市場の先には、乳製品を扱う店が並んでいた。

 

白いチーズ。

 

黄色く熟成した硬いチーズ。

 

布袋から水分を抜いている柔らかな乳酪。

 

山羊乳。

 

発酵乳。

 

香草を練り込んだもの。

 

胡椒をまぶしたもの。

 

「種類多いな」

 

バンが丸いチーズを指で押そうとする。

 

店主の女が、その手を叩いた。

 

「買わないなら触るんじゃないよ」

 

「見るだけ」

 

「指で見るな」

 

「昨日も似たこと言われたな」

 

「どこへ行っても同じことをしているからだ」

 

アルフィアは棚の端へ置かれた小さな菓子を見ていた。

 

柔らかい白チーズへ蜂蜜をかけ。

 

砕いた木の実をまぶしたもの。

 

薄い葉で包まれ、一口ほどの大きさにまとめられている。

 

バンはすぐに気づいた。

 

「それ、保存食?」

 

「違う」

 

アルフィアが答える。

 

「珍しく認めたな」

 

「保存には向かない」

 

「じゃあ甘いから見てんの?」

 

「見ているだけだ」

 

「食ってみればいいだろ」

 

「必要ない」

 

店主の女が小さな木皿を差し出した。

 

「試食だよ」

 

白チーズと蜂蜜。

 

アルフィアは木皿を見る。

 

次に店主。

 

「無料だ」

 

「そうか」

 

受け取る。

 

バンがにやつく。

 

「食うんじゃねぇか」

 

「味を確認するだけだ」

 

「何のために?」

 

「土地の食文化を知るためだ」

 

「ザルドみてぇなこと言い始めたぞ」

 

アルフィアは一口食べた。

 

酸味のある柔らかなチーズ。

 

濃い蜂蜜。

 

木の実の香ばしさ。

 

表情はほとんど変わらない。

 

だが。

 

皿へ残った半分も、続けて口へ運んだ。

 

「どう?」

 

店主が尋ねる。

 

「悪くない」

 

「気に入った顔だね」

 

「顔には出していない」

 

「長く商売してりゃ分かるよ」

 

店主は笑い、同じ菓子を三つ包んだ。

 

「旅人なら、今日中に食べな」

 

「買うとは――」

 

「俺が買う」

 

ザルドが代金を払った。

 

アルフィアが振り返る。

 

「余計なことをするな」

 

「俺も味を見る」

 

「オレも?」

 

バンが尋ねる。

 

「一つずつだ」

 

「やった」

 

「お前は子供か」

 

「甘いもん嫌いじゃねぇぞ」

 

「酒ほどではないだろ」

 

「比べる必要ある?」

 

アルフィアは包みを受け取った。

 

自分の荷物へ入れようとする。

 

「何でお前が持つんだ?」

 

「ザルドが料理の材料を持っている」

 

「オレは空いてるぞ」

 

「途中で食う」

 

「一個だけだろ」

 

「二人の分も確認する」

 

「信用ねぇな」

 

「当然だ」

 

さらに市場を進む。

 

葡萄。

 

林檎。

 

玉葱。

 

豆。

 

根菜。

 

香草。

 

畑で採れた作物が、木箱や籠へ山積みになっていた。

 

だが。

 

店先に並ぶ量とは別に、通りの中央を大きな荷車が何台も進んでいる。

 

荷台には穀物袋。

 

樽。

 

乾燥肉。

 

同じ大きさに焼かれた黒いパン。

 

いずれも、赤い獅子の印が押されていた。

 

「軍の食料か」

 

ザルドが言う。

 

「ああ」

 

近くの商人が答えた。

 

「この辺りの村から集めた分を、北の兵営へ運ぶ。今月は数が多い」

 

「戦が近いのか?」

 

「国境で揉めているらしい。俺たちには詳しいことは分からん」

 

荷車の横を、若い兵士たちが歩いている。

 

昨日の食堂にいた者たちとは違う。

 

まだ少年と呼べる年齢の者も多い。

 

一人が大きな穀物袋を背負い、よろけた。

 

隣の兵士が支える。

 

「しっかりしろ!」

 

「すみません!」

 

「これくらいで音を上げるな!」

 

指導役の兵士が怒鳴る。

 

アルフィアの視線が、僅かに冷たくなった。

 

「恩恵を与えれば、誰でも兵になると思っている」

 

「アレスが?」

 

バンが尋ねる。

 

「あの馬鹿神と、その命令へ従う者たちだ」

 

「若いな」

 

「ああ」

 

ザルドが荷車を見る。

 

「数を揃えるためだろう」

 

「強ぇ奴集めた方が早くねぇ?」

 

「強者は簡単には育たない」

 

「だから数か」

 

「そして、その数を無駄にする」

 

アルフィアは吐き捨てるように言った。

 

バンは兵士たちを眺める。

 

少しだけ目を細めた。

 

「飯はちゃんと食わせてんのかな」

 

「そこか」

 

アルフィアが言う。

 

「大事だろ」

 

「珍しく、酒ではないのだな」

 

「腹減ったまま戦わせんのは、さすがに可哀想だろ」

 

ザルドは、軍用の荷車の後ろへ並んでいる一団を見た。

 

木製の屋台。

 

大きな鍋。

 

兵士たちが器を持って列を作っている。

 

「ちょうど配給の時間らしい」

 

「食える?」

 

「兵士用だ」

 

「金払えば?」

 

「聞くだけ聞いてみるか」

 

アルフィアが呆れたように二人を見る。

 

「お前まで乗るな、ザルド」

 

「軍の食事を知る機会は少ない」

 

「料理の話になると、バンと同じだな」

 

「一緒にするな」

 

「今、同じ顔してるぞ」

 

「黙れ」

 

三人は配給所へ向かった。

 

 

       ◇

 

 

大鍋の中には、濃い色の煮込みが入っていた。

 

豆。

 

麦。

 

玉葱。

 

細かく刻んだ塩漬け肉。

 

油。

 

香草。

 

長時間煮込まれた食材が、ほとんど形を失うほど混ざっている。

 

兵士一人につき。

 

煮込み一杯。

 

黒いパン一個。

 

硬いチーズ一片。

 

そして、薄く濁った飲み物。

 

「酒か?」

 

バンが木樽を見る。

 

「白葡萄酒を水で割ったものだ」

 

配給を担当している中年兵が答えた。

 

「水で割んの?」

 

「そのまま飲ませれば、午後の訓練にならん」

 

「じゃあ酒じゃねぇだろ」

 

「酒だ」

 

「薄いぞ」

 

「兵士へ酔うための酒を配ると思うか?」

 

「夜は?」

 

「自分の金で飲め」

 

「厳しいな」

 

ザルドは鍋の中を見る。

 

「豆と麦が中心か」

 

「腹へ溜まる。肉を増やすと金が掛かる」

 

「塩は強めだな」

 

「保存肉を使うからな。水分も取らせる」

 

「理には適っている」

 

中年兵はザルドを見る。

 

「料理人か?」

 

「少しな」

 

「少しの身体じゃないが」

 

「身体と料理は関係ない」

 

「食う量には関係ありそうだ」

 

バンが笑う。

 

「こいつ、かなり食うぞ」

 

「お前もだろう」

 

「オレは普通」

 

「お前の普通は信用できない」

 

配給を受け取っていた昨夜の若い兵士が、三人に気づいた。

 

「あんたたち!」

 

「昨日の奴だな」

 

バンが手を上げる。

 

「何しに来た?」

 

「飯」

 

「兵士用だぞ」

 

「分かってる。金払うから食わせてくれよ」

 

「軍の配給を観光客へ売るわけないだろ」

 

「うまいか知りてぇんだよ」

 

「うまいものじゃない」

 

「お前、昨日はラキアの飯を誇ってたじゃねぇか」

 

「あれは宿の料理だ。こっちは毎日食う兵糧だ」

 

「じゃあ余計に気になる」

 

若い兵士は困ったように配給係を見る。

 

中年兵は三人を見回した。

 

ザルド。

 

アルフィア。

 

そしてバン。

 

「余りが出たら、一杯だけだ」

 

「三人分?」

 

「一杯だ」

 

「少なくねぇ?」

 

「嫌なら帰れ」

 

「一杯でいい」

 

ザルドが即答した。

 

「お前、食う気だな」

 

「味を見るだけだ」

 

「アルフィアも?」

 

「いらない」

 

「じゃあオレとザルドで半分か」

 

「お前が食う前提にするな」

 

兵士たちへの配給が終わった後。

 

大鍋の底へ残っていた煮込みが、木の器へ一杯だけよそわれた。

 

黒いパン。

 

小さなチーズ。

 

水で割った白葡萄酒も、三つの小さな杯へ少量ずつ注がれる。

 

「飲むんじゃねぇか」

 

バンがアルフィアを見る。

 

「味を確認するだけだ」

 

「市場の菓子と同じこと言ってるぞ」

 

「雑音だ」

 

三人は配給所の端にある木箱へ腰を下ろした。

 

まず煮込み。

 

ザルドが一口。

 

続いてバン。

 

「薄いな」

 

「塩は強いが、出汁が弱い」

 

ザルドが言う。

 

「肉の量が少ない。豆と麦で腹を満たす料理だ」

 

「不味くはねぇけど、毎日は飽きるな」

 

「兵士は味を楽しむために食うわけではない」

 

アルフィアが言った。

 

「それでも、もう少しどうにかできる」

 

ザルドは鍋の方を見る。

 

「骨か干し魚を加えれば、金を掛けずに味を増やせる。香草も最初ではなく最後に入れた方が香りが残る」

 

「聞いたか?」

 

バンが若い兵士へ言う。

 

「料理人からの助言だぞ」

 

「配給係へ言ってくれ」

 

「本人いるだろ」

 

中年兵は苦笑する。

 

「上から決められた材料で作っている。勝手には変えられん」

 

「アレスが献立まで決めてんの?」

 

「まさか。補給官だ」

 

「そいつも馬鹿か?」

 

「バン」

 

アルフィアが低く呼ぶ。

 

「冗談だって」

 

「ここで軍人全員を敵に回すな」

 

「アレスは馬鹿って言うのに?」

 

「それは事実だ」

 

周囲の兵士たちが、聞こえないふりをした。

 

次に。

 

薄く濁った白葡萄酒。

 

バンが杯へ口をつける。

 

酸味。

 

少しの渋み。

 

水で割っているため、酒精は弱い。

 

「薄い」

 

「最初から言っただろ」

 

若い兵士が答える。

 

「酒の味する水だな」

 

「行軍中は、それでいい」

 

ザルドも飲む。

 

「水だけより傷みにくく、食事の脂と塩気も流せる。酔わせる目的ではない」

 

「兵士の酒っていうから、もっと強ぇの想像してたぞ」

 

「夜の酒場へ行け」

 

「どこ?」

 

「川沿いに〈折れた槍〉って店がある」

 

「名前が縁起悪くねぇ?」

 

「退役兵が始めた店だ。酒は強い」

 

バンの目が輝く。

 

「行こうぜ」

 

「行かない」

 

アルフィアが即答する。

 

「まだ昼だぞ」

 

「夜ならいい?」

 

「宿へ戻る」

 

「市場の魚、料理するんだろ?」

 

バンがザルドを見る。

 

「ああ」

 

「酒あった方がいいよな?」

 

「料理用の白葡萄酒は必要だ」

 

「ほら」

 

「飲むためではない」

 

「多めに買えば余るだろ」

 

「余らせない」

 

「料理人って融通利かねぇな」

 

「お前が酒に執着しすぎだ」

 

若い兵士が笑う。

 

「今夜、〈折れた槍〉へ来いよ」

 

「お」

 

「強いと言ったのが本当か、自分で確かめろ」

 

「お前も来んの?」

 

「勤務が終わったらな」

 

「腕相撲でもする?」

 

「なぜそうなる」

 

「酒場だろ?」

 

「酒場なら何でも腕相撲すると思うな」

 

近くにいた兵士が口を挟む。

 

「こいつは腕に自信あるぞ」

 

「余計なことを言うな!」

 

「じゃあ決まりだな」

 

バンが笑う。

 

アルフィアの目が細くなる。

 

「勝手に予定を決めるな」

 

「飯食った後ならいいだろ」

 

「駄目だ」

 

「一杯だけ」

 

「昨日も飲んだ」

 

「昨日は赤。今日は白かもしれねぇ」

 

「同じ葡萄酒だ」

 

「全然違うぞ」

 

「私には関係ない」

 

「アルフィアには蜂蜜チーズ買っただろ」

 

「あれはザルドが買った」

 

「じゃあザルド、頼む」

 

「俺を使うな」

 

「三人で行った方が楽しいぞ」

 

「お前だけで行けば問題を起こす」

 

アルフィアが言った。

 

「じゃあ一緒に来る?」

 

「監視する」

 

「結局来んじゃねぇか」

 

「違う」

 

バンの笑い声が、兵士たちの間へ響いた。

 

 

       ◇

 

 

夕方。

 

宿の厨房には、川魚と香草の匂いが満ちていた。

 

ザルドが店主へ頼み、一角を借りている。

 

大きな川鱒は腹を開かれ。

 

塩。

 

香草。

 

薄く切った玉葱。

 

柔らかな白チーズを詰められていた。

 

表面へ油を塗り、炭火の上へ置く。

 

泥魚は骨を外し、身を細かく叩く。

 

麦粉。

 

卵。

 

刻んだ香草。

 

少量のチーズを混ぜ、丸い団子へする。

 

それを、川魚の骨と野菜で取った汁へ落とした。

 

小さな川海老は、殻ごと鉄鍋へ。

 

塩。

 

香辛料。

 

白葡萄酒。

 

強い火で一気に炒める。

 

「酒使ってんじゃねぇか」

 

バンが厨房の入口から覗く。

 

「料理用だ」

 

「少し飲ませろよ」

 

「駄目だ」

 

「味見」

 

「酒だけを味見するな」

 

「ケチだな」

 

「お前は皿を用意しろ」

 

「料理手伝っていいの?」

 

「皿を並べるだけだ」

 

「信用ねぇな」

 

「お前に包丁を持たせると、切る前に食う」

 

「よく分かってんじゃねぇか」

 

バンは木皿を三枚。

 

器を三つ。

 

机へ運んだ。

 

アルフィアは窓際の席で、昨日買った本を読んでいる。

 

「手伝わねぇの?」

 

バンが尋ねる。

 

「邪魔になる」

 

「自覚あるんだな」

 

本から視線が上がる。

 

「福音《ゴスペル》」

 

「冗談だって!」

 

「厨房で撃つな」

 

ザルドが言う。

 

「撃っていない」

 

「詠唱もするな。魚が落ち着かん」

 

「魚はもう死んでいるぞ」

 

「そういう問題ではない」

 

バンが声を上げて笑った。

 

料理が並ぶ。

 

白チーズと香草を詰めた川鱒の炭火焼き。

 

泥魚の団子と野菜の汁。

 

川海老の白葡萄酒炒め。

 

黒いパン。

 

酢漬けの玉葱。

 

市場で買った蜂蜜チーズの菓子。

 

「昼より豪華だな」

 

バンが席へつく。

 

「まず魚を食え」

 

ザルドは川鱒の皮を切った。

 

中から湯気。

 

溶けた白チーズ。

 

香草。

 

魚の脂。

 

バンが大きな一切れを口へ入れる。

 

「熱っ」

 

「急いで食うな」

 

「でも、うまい」

 

川鱒の引き締まった身。

 

チーズの酸味。

 

玉葱の甘さ。

 

香草の青い香り。

 

炭火で焼けた皮の香ばしさ。

 

「昨日の宿の魚より、こっちの方がうまいな」

 

「素材は同じでも、調理法が違う」

 

ザルドが答える。

 

「チーズを中へ入れたのがいい」

 

アルフィアも一口食べる。

 

よく噛み。

 

飲み込む。

 

「火の入り方は悪くない」

 

「それ、かなり褒めてるよな」

 

バンが言う。

 

「お前には聞いていない」

 

「素直にうまいでいいだろ」

 

「味の評価をしただけだ」

 

次は魚団子の汁。

 

団子は柔らかい。

 

細い骨も残っていない。

 

魚の出汁。

 

野菜の甘味。

 

香草。

 

「兵士の煮込みより全然うまい」

 

バンが言う。

 

「材料の量が違う」

 

「同じ値段でできねぇ?」

 

「大量に作る場合は手間が増える。だが、魚の骨や端材を使えば改善はできる」

 

「配給係に教えてやれば?」

 

「機会があればな」

 

川海老は殻まで香ばしく。

 

白葡萄酒の酸味と香辛料が、殻の甘さを引き立てていた。

 

「こりゃ本当に酒欲しくなるな」

 

バンが言う。

 

アルフィアは食事用の水を飲む。

 

「今から酒場へ行くつもりか」

 

「ああ」

 

「一杯だけだ」

 

「分かってる」

 

「腕相撲をするな」

 

「それは相手次第だろ」

 

「するな」

 

「勝てば酒奢ってくれるかもしれねぇぞ」

 

「また問題を増やす気か」

 

「負けなきゃ問題ねぇだろ」

 

「相手の腕を折る」

 

「折らねぇよ」

 

「力加減を誤る」

 

「野盗にも手加減できてたぞ」

 

「酒が入れば信用できない」

 

「じゃあ飲む前にやる」

 

「そういう問題ではない」

 

ザルドが食事を続けながら言った。

 

「俺も行く」

 

「ザルドまで?」

 

アルフィアが見る。

 

「兵士の酒とやらには興味がある」

 

「やっぱ料理と酒になると、バンと同じだな」

 

「一緒にするな」

 

「二回目だぞ、それ」

 

食事の最後。

 

蜂蜜チーズの菓子が一つずつ配られる。

 

アルフィアは自分の分をすぐに取った。

 

バンがその手を見る。

 

「今日は最初から食う気だな」

 

「食後だ」

 

「そういう意味じゃねぇよ」

 

「黙って食え」

 

柔らかなチーズ。

 

蜂蜜。

 

木の実。

 

塩気の残る料理の後に、甘さが心地よかった。

 

「もう一個買えばよかったな」

 

バンが言う。

 

「明日買う」

 

アルフィアが答えた。

 

一瞬。

 

食卓が静かになる。

 

アルフィア自身も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。

 

バンの口元が上がった。

 

「好きなんじゃねぇか」

 

「保存性の確認だ」

 

「今日中に食えって言われたぞ」

 

「店ごとの差を調べる」

 

「同じ店だろ」

 

「雑音だ」

 

「明日も買うんだろ?」

 

「福音《ゴスペル》」

 

「食後に撃つなよ!」

 

ザルドは何も言わず、僅かに口元を上げていた。

 

 

       ◇

 

 

夜。

 

川沿いの酒場〈折れた槍〉は、店名のとおり、入口の上へ折れた槍が飾られていた。

 

中には退役兵。

 

現役兵。

 

旅人。

 

商人。

 

大声。

 

笑い。

 

杯が机へ叩きつけられる音。

 

昼間の配給所で会った若い兵士も、仲間たちと奥の机へ座っていた。

 

「本当に来たのか!」

 

「約束しただろ」

 

バンが手を上げる。

 

「銀髪の姉さんまで」

 

「監視だ」

 

アルフィアが答える。

 

周囲の兵士たちが、一斉に姿勢を正した。

 

「こ、怖いな」

 

「聞こえている」

 

「すみません」

 

ザルドは店の酒棚を見ていた。

 

樽。

 

瓶。

 

葡萄酒。

 

果実酒。

 

麦酒。

 

透明に近い強い蒸留酒。

 

「兵士の酒はどれだ?」

 

ザルドが尋ねる。

 

店主の老人が笑う。

 

「どれを指して兵士の酒と呼ぶかによるな」

 

「強い奴」

 

バンが言う。

 

「なら、これだ」

 

老人が出したのは、白く濁った酒だった。

 

昼間に飲んだ薄い葡萄酒とは違う。

 

麦と葡萄の搾り滓を発酵させ、蒸留したものらしい。

 

香りは強く。

 

喉を焼く。

 

安価で。

 

少量でも身体が温まる。

 

「兵営帰りの連中が好む」

 

「いいな」

 

「一杯だけだ」

 

アルフィアが言う。

 

「分かってる」

 

三つの杯。

 

アルフィアは水。

 

バンとザルドは白く濁った酒。

 

バンが口へ運ぶ。

 

「強ぇな」

 

舌を刺し。

 

喉を焼き。

 

腹へ熱が落ちる。

 

香りは荒い。

 

上等とは言えない。

 

だが、冷えた夜に飲むには悪くない。

 

「霧酒より雑だな」

 

「香草で整えていないからな」

 

ザルドも飲む。

 

「だが、兵士が好む理由は分かる。安く、早く温まる」

 

「うまい?」

 

若い兵士が尋ねる。

 

「高い酒とは違うけど、嫌いじゃねぇな」

 

「だろ?」

 

「自分で造ったみたいに言うな」

 

仲間が笑う。

 

そこへ。

 

木の机が、店の中央へ運ばれてきた。

 

「腕相撲だ!」

 

「昨日から言ってた赤い旅人だろ!」

 

「ラキア兵を舐めてるって?」

 

「舐めてねぇよ」

 

バンが笑いながら椅子へ座る。

 

「一杯だけって言われてんだ。勝ったら奢ってくれ」

 

「負けたら?」

 

「何が欲しい?」

 

「酒代を払え」

 

「金ねぇぞ」

 

「じゃあ、皿洗いだ!」

 

「いいぜ」

 

「バン」

 

アルフィアの声が低くなる。

 

「腕折らねぇよ」

 

「力を出すな」

 

「普通の人間くらいにする」

 

「お前の普通は信用できない」

 

相手は、昼間の若い兵士だった。

 

腕は太い。

 

恩恵を受けたラキア兵。

 

レベルは高くなくとも、日々鍛えている身体だ。

 

二人が手を組む。

 

「始め!」

 

合図。

 

若い兵士が全力で腕を倒そうとする。

 

バンの腕は動かない。

 

「ぐっ……!」

 

「まだ?」

 

「動かすな!」

 

「オレ、何もしてねぇぞ」

 

「嘘つけ!」

 

兵士の顔が赤くなる。

 

肩。

 

背中。

 

全身の力を使う。

 

それでもバンの手は、机の中央から一寸も動かない。

 

「そろそろいい?」

 

「待て!」

 

「もう一杯飲みてぇんだけど」

 

「まだ――」

 

バンは指先へ僅かに力を込めた。

 

ゆっくり。

 

本当にゆっくり。

 

相手の腕を机へ倒す。

 

どん。

 

「勝ち」

 

「化け物か!」

 

「旅人だって」

 

「旅人はこんな力してない!」

 

店内が笑いに包まれる。

 

若い兵士は悔しそうに腕を押さえた。

 

「折れてねぇ?」

 

「折れてない」

 

「痛いぞ!」

 

「力入れすぎたからだろ」

 

「次は俺だ!」

 

別の兵士が名乗りを上げる。

 

「一杯だけだ」

 

アルフィアが言った。

 

「勝てば酒増えるぞ」

 

「増やすな」

 

「もう一人だけ」

 

「駄目だ」

 

「ザルドとやればいいだろ」

 

バンが巨大な男を指す。

 

兵士たちが一斉にザルドを見る。

 

ザルドは静かに酒を飲んでいた。

 

太い腕。

 

人間の胴ほどもある上腕。

 

「……やめとく」

 

「賢明だな」

 

ザルドが答える。

 

「何もしなくても勝ったぞ」

 

バンが笑う。

 

アルフィアは水の杯へ口をつけ、小さく息を吐いた。

 

「馬鹿ばかりだ」

 

「軍神の国だからな」

 

バンが言う。

 

近くの兵士たちが反応する。

 

「今、アレス様を馬鹿にしたか?」

 

「馬鹿って言ったのはアルフィアだぞ」

 

「お前も言った」

 

「オレは聞いただけ」

 

「全員まとめて表へ出ろ!」

 

「喧嘩?」

 

バンの目が輝く。

 

「するな」

 

アルフィアの声が落ちる。

 

店内が静かになった。

 

「座れ」

 

短い一言。

 

兵士たちは、なぜか逆らえず椅子へ戻った。

 

バンが感心したように見る。

 

「アレスより軍神っぽくねぇ?」

 

澄んだ鐘の音が鳴りかける。

 

「冗談だって!」

 

その夜。

 

酒は一杯だけだった。

 

だが、川魚と兵士の配給。

 

白い酒。

 

腕相撲。

 

軍神を巡る口論。

 

三人は、ラキア王国という国の味と騒がしさを、十分すぎるほど知ることになった。




今回は、セルバの川辺の市場と、ラキア兵の食事や酒を巡る日常回でした。

特に、蜂蜜チーズの菓子について、アルフィアが思わず「明日買う」と口にしてしまう場面がお気に入りです。
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