翌朝。
セルバの町は、日の出より先に目を覚ました。
川の流れる音。
水車が軋む音。
宿の前を通り過ぎていく荷車。
そして。
「一、二! 一、二!」
規則正しい掛け声が、大通りから三階の部屋まで響いてくる。
寝台の上で毛布に包まれていたバンが、片目だけを開いた。
「……朝からうるせぇな」
「起きろ」
アルフィアはすでに身支度を終えていた。
窓際に立ち、通りを見下ろしている。
薄い朝靄の中。
赤い布を肩へ掛けたラキア兵たちが、槍を担いで走っていた。
人数は三十人ほど。
先頭の兵士が声を張り上げ、それに合わせて若い兵たちが足を動かしている。
隊列は揃っているようで、ところどころ乱れていた。
一人が遅れ。
後ろの者が踵を踏み。
槍の柄が隣の兵士の頭へ当たる。
「痛っ!」
「隊列を崩すな!」
「すみません!」
「声が小さい!」
バンは寝台から身体を起こした。
「随分楽しそうじゃねぇか」
「どこがだ」
「朝から走って、棒振り回してる」
「兵士の訓練だ」
「オレなら寝てる方がいいな」
「お前は見張りの最中でも寝そうだ」
「必要なら起きてるぞ」
「いびきをかきながらか?」
「まだ言うのかよ」
反対側の寝台では、ザルドが旅道具を整理していた。
水袋。
保存食。
包帯。
革紐。
残っている量を確かめ、足りないものを小さな木札へ書き出している。
「今日は市場へ行く」
ザルドが言った。
「昨日も言ってたな」
「川魚と乳製品。それに、旅へ持っていける食料を確認する」
「酒も?」
「食料が先だ」
「見るだけならいいだろ」
「お前の『見るだけ』は、最後に飲むところまで含まれている」
アルフィアが窓を閉める。
「所持金は?」
バンは貸し出し用の上着の内側へ手を入れた。
銅貨が数枚。
取り出し。
掌の上で数える。
「……少しある」
「昨夜と変わっていないな」
「寝てる間に増えたら怖ぇだろ」
「酒一杯にも足りん」
「試飲なら無料かもしれねぇぞ」
「店へ迷惑を掛けるな」
「飲んで気に入ったら、今度買う」
「いつだ」
「金ができた時」
「信用されない客の典型だな」
ザルドは木札を荷袋へ入れた。
「まず朝食だ」
「宿で食うのか?」
「ああ。宿代に含まれている」
「なら食えるだけ食おうぜ」
「一人分だ」
「お代わりは?」
「食堂で聞け」
バンは寝台から飛び降りた。
「早く行こうぜ」
「現金な奴だな」
アルフィアが呆れたように言う。
部屋の隅。
厚い毛布の上には、クレシューズと名もない結晶が離して置かれている。
昨夜、二つが同時に反応してから、目立った変化はない。
銀色の光は元の明るさへ戻り。
クレシューズも沈黙していた。
アルフィアは外側から状態を確かめる。
「異常なし」
「今日は見ねぇの?」
バンが尋ねる。
「市場から戻ってからだ」
「少しだけ開けても――」
「駄目だ」
「まだ最後まで言ってねぇぞ」
「聞く必要がない」
ザルドが部屋の鍵を取る。
「行くぞ」
三人は食堂へ下りた。
◇
朝食は、兵士や旅人向けの簡素なものだった。
硬めに焼いた丸いパン。
白い山羊乳のチーズ。
薄く切った燻製肉。
豆と玉葱の汁物。
そして、小さな川魚を塩漬けにして焼いたもの。
「朝から魚か」
バンが皿を覗き込む。
「川の町だからな」
ザルドは小魚を一尾持ち上げた。
頭から尾まで、掌に収まるほどの大きさ。
骨ごと食べられるよう、表面が硬く焼かれている。
「これなら骨を取る必要はない」
「昨日は取れって言ったじゃねぇか」
「魚の大きさが違う」
「全部噛めば同じだろ」
「食べ方を覚えろ」
バンは小魚をそのまま口へ入れた。
ぱり、と。
香ばしい皮が割れる。
強い塩気。
僅かな苦味。
噛むほどに魚の旨味が出てきた。
「酒欲しくなる味だな」
「朝だ」
アルフィアが言う。
「朝から飲むとは言ってねぇよ」
「顔が飲みたがっている」
「顔で何でも分かるな」
「お前は分かりやすい」
アルフィアはパンを小さく千切り、チーズを載せて食べていた。
白いチーズは柔らかく、少し酸味がある。
「それ、うまい?」
バンが尋ねる。
「自分の皿にもあるだろ」
「お前が食ってる方がうまそうに見える」
「同じものだ」
「一口くれよ」
「断る」
「昨日、棗椰子は半分くれたぞ」
「あれは黙らせるためだ」
「今も黙るかもしれねぇぞ」
「お前は食べ終われば、また喋る」
「よく分かってんじゃねぇか」
アルフィアは返事の代わりに、バンの皿へ置かれていたチーズを指した。
「自分のものを食え」
「へいへい」
「返事は一度だ」
「へい」
ザルドは汁物を飲みながら、厨房の方へ視線を向けていた。
「何見てんだ?」
「この汁には、魚の骨から取った出汁が入っている」
「分かるのか?」
「ああ。肉だけより軽いが、味は薄くない」
「宿の奴に聞いてくる?」
「後でな」
「料理教えてもらうのかよ」
「土地の調理法を知って損はない」
「オレは食えりゃいいけどな」
「お前は少し覚えろ」
「料理できるぞ」
「何が作れる」
「焼いた肉」
「火へ置いただけだろう」
「塩も振る」
「料理と呼ぶには足りん」
「アルフィアよりは上じゃねぇ?」
バンが言った瞬間。
アルフィアの匙が止まった。
「何だ」
「昨日聞いたけど、湯と薬草しか作れねぇんだろ?」
「必要なものは作れる」
「飯は?」
「空腹を満たせればいい」
「それ、ザルドの前で言っていいの?」
ザルドがゆっくりとアルフィアを見る。
「食事は、身体を維持するためだけのものではない」
「朝から始まったな」
バンが笑う。
「味、温度、香り、食感。それらを整えることで、同じ材料でも食べる量と吸収は変わる。長い遠征では士気にも関わる」
「聞いたか、アルフィア」
「私は遠征で困ったことはない」
「周りが困ってたんじゃねぇ?」
アルフィアの周囲で、空気が僅かに震えた。
バンは自分のパンを口へ押し込む。
「冗談だって」
「口へ物を入れたまま喋るな」
「今入れたんだよ」
朝食を終える頃。
宿の者が、洗い終えた赤いコートを持ってきた。
臙脂色の継ぎ当て。
古い傷。
新しい傷。
乾いた布からは、石鹸と川風の匂いがした。
バンはすぐに袖へ腕を通す。
「やっぱ、こっちの方が落ち着くな」
「貸し服よりは似合っている」
アルフィアが言った。
バンが目を細める。
「今、褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「もう一回言ってくれ」
「黙れ」
「聞き間違いじゃなかったな」
赤いコートの裾を揺らしながら、バンは食堂を出た。
◇
川辺の市場は、大通りとは違う活気に満ちていた。
石造りの階段を下りた先。
川沿いには長い屋根が設けられ、その下へ魚屋が並んでいる。
大きな籠。
水を張った桶。
銀色の魚。
黒い斑点を持つ魚。
細長い魚。
甲殻に覆われた川海老。
殻の厚い貝。
威勢のいい声が、あちこちから飛んでいた。
「今朝獲れたばかりだ!」
「焼くならこっちだ!」
「煮込みには脂の多い腹を使いな!」
バンは桶の中を覗き込む。
大きな魚が水を跳ねた。
「おっと」
飛沫が赤いコートへ掛かる。
アルフィアの眉が寄った。
「洗った直後だぞ」
「魚に言えよ」
「近づきすぎだ」
「新鮮か見てたんだよ」
「お前に分かるのか」
「動いてるから新鮮だろ」
「それだけか」
ザルドは魚屋の前へ立ち、一尾ずつ見比べていた。
鱗。
目。
腹の張り。
鰓の色。
店主が興味深そうに腕を組む。
「でかい旦那、魚を見る目があるな」
「この黒い斑点のものは?」
「岩場にいる川鱒だ。流れが速い場所で育つから、身が締まってる。焼くなら一番だ」
「こちらは?」
「泥の底にいる魚だ。匂いは強いが、香草と葡萄酒で煮込めばうまい」
「骨は多いか」
「細い骨が多い。裏ごしして団子にする家もある」
ザルドの目が僅かに輝く。
「面白いな」
「買うの?」
バンが尋ねる。
「今夜、宿の厨房を借りる」
「また作るのか」
「市場へ来た意味があるだろう」
「店で食えば楽じゃねぇ?」
「自分で試したい」
「料理人だなぁ」
ザルドは川鱒を二尾。
泥魚を一尾。
小さな川海老を一籠購入した。
店主が魚を布と葉で包む。
「海老はどうすんの?」
バンが覗き込む。
「殻ごと炒る」
「酒に合いそうだな」
「何でも酒へ繋げるな」
アルフィアが言った。
「合いそうなもんは仕方ねぇだろ」
魚市場の先には、乳製品を扱う店が並んでいた。
白いチーズ。
黄色く熟成した硬いチーズ。
布袋から水分を抜いている柔らかな乳酪。
山羊乳。
発酵乳。
香草を練り込んだもの。
胡椒をまぶしたもの。
「種類多いな」
バンが丸いチーズを指で押そうとする。
店主の女が、その手を叩いた。
「買わないなら触るんじゃないよ」
「見るだけ」
「指で見るな」
「昨日も似たこと言われたな」
「どこへ行っても同じことをしているからだ」
アルフィアは棚の端へ置かれた小さな菓子を見ていた。
柔らかい白チーズへ蜂蜜をかけ。
砕いた木の実をまぶしたもの。
薄い葉で包まれ、一口ほどの大きさにまとめられている。
バンはすぐに気づいた。
「それ、保存食?」
「違う」
アルフィアが答える。
「珍しく認めたな」
「保存には向かない」
「じゃあ甘いから見てんの?」
「見ているだけだ」
「食ってみればいいだろ」
「必要ない」
店主の女が小さな木皿を差し出した。
「試食だよ」
白チーズと蜂蜜。
アルフィアは木皿を見る。
次に店主。
「無料だ」
「そうか」
受け取る。
バンがにやつく。
「食うんじゃねぇか」
「味を確認するだけだ」
「何のために?」
「土地の食文化を知るためだ」
「ザルドみてぇなこと言い始めたぞ」
アルフィアは一口食べた。
酸味のある柔らかなチーズ。
濃い蜂蜜。
木の実の香ばしさ。
表情はほとんど変わらない。
だが。
皿へ残った半分も、続けて口へ運んだ。
「どう?」
店主が尋ねる。
「悪くない」
「気に入った顔だね」
「顔には出していない」
「長く商売してりゃ分かるよ」
店主は笑い、同じ菓子を三つ包んだ。
「旅人なら、今日中に食べな」
「買うとは――」
「俺が買う」
ザルドが代金を払った。
アルフィアが振り返る。
「余計なことをするな」
「俺も味を見る」
「オレも?」
バンが尋ねる。
「一つずつだ」
「やった」
「お前は子供か」
「甘いもん嫌いじゃねぇぞ」
「酒ほどではないだろ」
「比べる必要ある?」
アルフィアは包みを受け取った。
自分の荷物へ入れようとする。
「何でお前が持つんだ?」
「ザルドが料理の材料を持っている」
「オレは空いてるぞ」
「途中で食う」
「一個だけだろ」
「二人の分も確認する」
「信用ねぇな」
「当然だ」
さらに市場を進む。
葡萄。
林檎。
玉葱。
豆。
根菜。
香草。
畑で採れた作物が、木箱や籠へ山積みになっていた。
だが。
店先に並ぶ量とは別に、通りの中央を大きな荷車が何台も進んでいる。
荷台には穀物袋。
樽。
乾燥肉。
同じ大きさに焼かれた黒いパン。
いずれも、赤い獅子の印が押されていた。
「軍の食料か」
ザルドが言う。
「ああ」
近くの商人が答えた。
「この辺りの村から集めた分を、北の兵営へ運ぶ。今月は数が多い」
「戦が近いのか?」
「国境で揉めているらしい。俺たちには詳しいことは分からん」
荷車の横を、若い兵士たちが歩いている。
昨日の食堂にいた者たちとは違う。
まだ少年と呼べる年齢の者も多い。
一人が大きな穀物袋を背負い、よろけた。
隣の兵士が支える。
「しっかりしろ!」
「すみません!」
「これくらいで音を上げるな!」
指導役の兵士が怒鳴る。
アルフィアの視線が、僅かに冷たくなった。
「恩恵を与えれば、誰でも兵になると思っている」
「アレスが?」
バンが尋ねる。
「あの馬鹿神と、その命令へ従う者たちだ」
「若いな」
「ああ」
ザルドが荷車を見る。
「数を揃えるためだろう」
「強ぇ奴集めた方が早くねぇ?」
「強者は簡単には育たない」
「だから数か」
「そして、その数を無駄にする」
アルフィアは吐き捨てるように言った。
バンは兵士たちを眺める。
少しだけ目を細めた。
「飯はちゃんと食わせてんのかな」
「そこか」
アルフィアが言う。
「大事だろ」
「珍しく、酒ではないのだな」
「腹減ったまま戦わせんのは、さすがに可哀想だろ」
ザルドは、軍用の荷車の後ろへ並んでいる一団を見た。
木製の屋台。
大きな鍋。
兵士たちが器を持って列を作っている。
「ちょうど配給の時間らしい」
「食える?」
「兵士用だ」
「金払えば?」
「聞くだけ聞いてみるか」
アルフィアが呆れたように二人を見る。
「お前まで乗るな、ザルド」
「軍の食事を知る機会は少ない」
「料理の話になると、バンと同じだな」
「一緒にするな」
「今、同じ顔してるぞ」
「黙れ」
三人は配給所へ向かった。
◇
大鍋の中には、濃い色の煮込みが入っていた。
豆。
麦。
玉葱。
細かく刻んだ塩漬け肉。
油。
香草。
長時間煮込まれた食材が、ほとんど形を失うほど混ざっている。
兵士一人につき。
煮込み一杯。
黒いパン一個。
硬いチーズ一片。
そして、薄く濁った飲み物。
「酒か?」
バンが木樽を見る。
「白葡萄酒を水で割ったものだ」
配給を担当している中年兵が答えた。
「水で割んの?」
「そのまま飲ませれば、午後の訓練にならん」
「じゃあ酒じゃねぇだろ」
「酒だ」
「薄いぞ」
「兵士へ酔うための酒を配ると思うか?」
「夜は?」
「自分の金で飲め」
「厳しいな」
ザルドは鍋の中を見る。
「豆と麦が中心か」
「腹へ溜まる。肉を増やすと金が掛かる」
「塩は強めだな」
「保存肉を使うからな。水分も取らせる」
「理には適っている」
中年兵はザルドを見る。
「料理人か?」
「少しな」
「少しの身体じゃないが」
「身体と料理は関係ない」
「食う量には関係ありそうだ」
バンが笑う。
「こいつ、かなり食うぞ」
「お前もだろう」
「オレは普通」
「お前の普通は信用できない」
配給を受け取っていた昨夜の若い兵士が、三人に気づいた。
「あんたたち!」
「昨日の奴だな」
バンが手を上げる。
「何しに来た?」
「飯」
「兵士用だぞ」
「分かってる。金払うから食わせてくれよ」
「軍の配給を観光客へ売るわけないだろ」
「うまいか知りてぇんだよ」
「うまいものじゃない」
「お前、昨日はラキアの飯を誇ってたじゃねぇか」
「あれは宿の料理だ。こっちは毎日食う兵糧だ」
「じゃあ余計に気になる」
若い兵士は困ったように配給係を見る。
中年兵は三人を見回した。
ザルド。
アルフィア。
そしてバン。
「余りが出たら、一杯だけだ」
「三人分?」
「一杯だ」
「少なくねぇ?」
「嫌なら帰れ」
「一杯でいい」
ザルドが即答した。
「お前、食う気だな」
「味を見るだけだ」
「アルフィアも?」
「いらない」
「じゃあオレとザルドで半分か」
「お前が食う前提にするな」
兵士たちへの配給が終わった後。
大鍋の底へ残っていた煮込みが、木の器へ一杯だけよそわれた。
黒いパン。
小さなチーズ。
水で割った白葡萄酒も、三つの小さな杯へ少量ずつ注がれる。
「飲むんじゃねぇか」
バンがアルフィアを見る。
「味を確認するだけだ」
「市場の菓子と同じこと言ってるぞ」
「雑音だ」
三人は配給所の端にある木箱へ腰を下ろした。
まず煮込み。
ザルドが一口。
続いてバン。
「薄いな」
「塩は強いが、出汁が弱い」
ザルドが言う。
「肉の量が少ない。豆と麦で腹を満たす料理だ」
「不味くはねぇけど、毎日は飽きるな」
「兵士は味を楽しむために食うわけではない」
アルフィアが言った。
「それでも、もう少しどうにかできる」
ザルドは鍋の方を見る。
「骨か干し魚を加えれば、金を掛けずに味を増やせる。香草も最初ではなく最後に入れた方が香りが残る」
「聞いたか?」
バンが若い兵士へ言う。
「料理人からの助言だぞ」
「配給係へ言ってくれ」
「本人いるだろ」
中年兵は苦笑する。
「上から決められた材料で作っている。勝手には変えられん」
「アレスが献立まで決めてんの?」
「まさか。補給官だ」
「そいつも馬鹿か?」
「バン」
アルフィアが低く呼ぶ。
「冗談だって」
「ここで軍人全員を敵に回すな」
「アレスは馬鹿って言うのに?」
「それは事実だ」
周囲の兵士たちが、聞こえないふりをした。
次に。
薄く濁った白葡萄酒。
バンが杯へ口をつける。
酸味。
少しの渋み。
水で割っているため、酒精は弱い。
「薄い」
「最初から言っただろ」
若い兵士が答える。
「酒の味する水だな」
「行軍中は、それでいい」
ザルドも飲む。
「水だけより傷みにくく、食事の脂と塩気も流せる。酔わせる目的ではない」
「兵士の酒っていうから、もっと強ぇの想像してたぞ」
「夜の酒場へ行け」
「どこ?」
「川沿いに〈折れた槍〉って店がある」
「名前が縁起悪くねぇ?」
「退役兵が始めた店だ。酒は強い」
バンの目が輝く。
「行こうぜ」
「行かない」
アルフィアが即答する。
「まだ昼だぞ」
「夜ならいい?」
「宿へ戻る」
「市場の魚、料理するんだろ?」
バンがザルドを見る。
「ああ」
「酒あった方がいいよな?」
「料理用の白葡萄酒は必要だ」
「ほら」
「飲むためではない」
「多めに買えば余るだろ」
「余らせない」
「料理人って融通利かねぇな」
「お前が酒に執着しすぎだ」
若い兵士が笑う。
「今夜、〈折れた槍〉へ来いよ」
「お」
「強いと言ったのが本当か、自分で確かめろ」
「お前も来んの?」
「勤務が終わったらな」
「腕相撲でもする?」
「なぜそうなる」
「酒場だろ?」
「酒場なら何でも腕相撲すると思うな」
近くにいた兵士が口を挟む。
「こいつは腕に自信あるぞ」
「余計なことを言うな!」
「じゃあ決まりだな」
バンが笑う。
アルフィアの目が細くなる。
「勝手に予定を決めるな」
「飯食った後ならいいだろ」
「駄目だ」
「一杯だけ」
「昨日も飲んだ」
「昨日は赤。今日は白かもしれねぇ」
「同じ葡萄酒だ」
「全然違うぞ」
「私には関係ない」
「アルフィアには蜂蜜チーズ買っただろ」
「あれはザルドが買った」
「じゃあザルド、頼む」
「俺を使うな」
「三人で行った方が楽しいぞ」
「お前だけで行けば問題を起こす」
アルフィアが言った。
「じゃあ一緒に来る?」
「監視する」
「結局来んじゃねぇか」
「違う」
バンの笑い声が、兵士たちの間へ響いた。
◇
夕方。
宿の厨房には、川魚と香草の匂いが満ちていた。
ザルドが店主へ頼み、一角を借りている。
大きな川鱒は腹を開かれ。
塩。
香草。
薄く切った玉葱。
柔らかな白チーズを詰められていた。
表面へ油を塗り、炭火の上へ置く。
泥魚は骨を外し、身を細かく叩く。
麦粉。
卵。
刻んだ香草。
少量のチーズを混ぜ、丸い団子へする。
それを、川魚の骨と野菜で取った汁へ落とした。
小さな川海老は、殻ごと鉄鍋へ。
塩。
香辛料。
白葡萄酒。
強い火で一気に炒める。
「酒使ってんじゃねぇか」
バンが厨房の入口から覗く。
「料理用だ」
「少し飲ませろよ」
「駄目だ」
「味見」
「酒だけを味見するな」
「ケチだな」
「お前は皿を用意しろ」
「料理手伝っていいの?」
「皿を並べるだけだ」
「信用ねぇな」
「お前に包丁を持たせると、切る前に食う」
「よく分かってんじゃねぇか」
バンは木皿を三枚。
器を三つ。
机へ運んだ。
アルフィアは窓際の席で、昨日買った本を読んでいる。
「手伝わねぇの?」
バンが尋ねる。
「邪魔になる」
「自覚あるんだな」
本から視線が上がる。
「福音《ゴスペル》」
「冗談だって!」
「厨房で撃つな」
ザルドが言う。
「撃っていない」
「詠唱もするな。魚が落ち着かん」
「魚はもう死んでいるぞ」
「そういう問題ではない」
バンが声を上げて笑った。
料理が並ぶ。
白チーズと香草を詰めた川鱒の炭火焼き。
泥魚の団子と野菜の汁。
川海老の白葡萄酒炒め。
黒いパン。
酢漬けの玉葱。
市場で買った蜂蜜チーズの菓子。
「昼より豪華だな」
バンが席へつく。
「まず魚を食え」
ザルドは川鱒の皮を切った。
中から湯気。
溶けた白チーズ。
香草。
魚の脂。
バンが大きな一切れを口へ入れる。
「熱っ」
「急いで食うな」
「でも、うまい」
川鱒の引き締まった身。
チーズの酸味。
玉葱の甘さ。
香草の青い香り。
炭火で焼けた皮の香ばしさ。
「昨日の宿の魚より、こっちの方がうまいな」
「素材は同じでも、調理法が違う」
ザルドが答える。
「チーズを中へ入れたのがいい」
アルフィアも一口食べる。
よく噛み。
飲み込む。
「火の入り方は悪くない」
「それ、かなり褒めてるよな」
バンが言う。
「お前には聞いていない」
「素直にうまいでいいだろ」
「味の評価をしただけだ」
次は魚団子の汁。
団子は柔らかい。
細い骨も残っていない。
魚の出汁。
野菜の甘味。
香草。
「兵士の煮込みより全然うまい」
バンが言う。
「材料の量が違う」
「同じ値段でできねぇ?」
「大量に作る場合は手間が増える。だが、魚の骨や端材を使えば改善はできる」
「配給係に教えてやれば?」
「機会があればな」
川海老は殻まで香ばしく。
白葡萄酒の酸味と香辛料が、殻の甘さを引き立てていた。
「こりゃ本当に酒欲しくなるな」
バンが言う。
アルフィアは食事用の水を飲む。
「今から酒場へ行くつもりか」
「ああ」
「一杯だけだ」
「分かってる」
「腕相撲をするな」
「それは相手次第だろ」
「するな」
「勝てば酒奢ってくれるかもしれねぇぞ」
「また問題を増やす気か」
「負けなきゃ問題ねぇだろ」
「相手の腕を折る」
「折らねぇよ」
「力加減を誤る」
「野盗にも手加減できてたぞ」
「酒が入れば信用できない」
「じゃあ飲む前にやる」
「そういう問題ではない」
ザルドが食事を続けながら言った。
「俺も行く」
「ザルドまで?」
アルフィアが見る。
「兵士の酒とやらには興味がある」
「やっぱ料理と酒になると、バンと同じだな」
「一緒にするな」
「二回目だぞ、それ」
食事の最後。
蜂蜜チーズの菓子が一つずつ配られる。
アルフィアは自分の分をすぐに取った。
バンがその手を見る。
「今日は最初から食う気だな」
「食後だ」
「そういう意味じゃねぇよ」
「黙って食え」
柔らかなチーズ。
蜂蜜。
木の実。
塩気の残る料理の後に、甘さが心地よかった。
「もう一個買えばよかったな」
バンが言う。
「明日買う」
アルフィアが答えた。
一瞬。
食卓が静かになる。
アルフィア自身も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
バンの口元が上がった。
「好きなんじゃねぇか」
「保存性の確認だ」
「今日中に食えって言われたぞ」
「店ごとの差を調べる」
「同じ店だろ」
「雑音だ」
「明日も買うんだろ?」
「福音《ゴスペル》」
「食後に撃つなよ!」
ザルドは何も言わず、僅かに口元を上げていた。
◇
夜。
川沿いの酒場〈折れた槍〉は、店名のとおり、入口の上へ折れた槍が飾られていた。
中には退役兵。
現役兵。
旅人。
商人。
大声。
笑い。
杯が机へ叩きつけられる音。
昼間の配給所で会った若い兵士も、仲間たちと奥の机へ座っていた。
「本当に来たのか!」
「約束しただろ」
バンが手を上げる。
「銀髪の姉さんまで」
「監視だ」
アルフィアが答える。
周囲の兵士たちが、一斉に姿勢を正した。
「こ、怖いな」
「聞こえている」
「すみません」
ザルドは店の酒棚を見ていた。
樽。
瓶。
葡萄酒。
果実酒。
麦酒。
透明に近い強い蒸留酒。
「兵士の酒はどれだ?」
ザルドが尋ねる。
店主の老人が笑う。
「どれを指して兵士の酒と呼ぶかによるな」
「強い奴」
バンが言う。
「なら、これだ」
老人が出したのは、白く濁った酒だった。
昼間に飲んだ薄い葡萄酒とは違う。
麦と葡萄の搾り滓を発酵させ、蒸留したものらしい。
香りは強く。
喉を焼く。
安価で。
少量でも身体が温まる。
「兵営帰りの連中が好む」
「いいな」
「一杯だけだ」
アルフィアが言う。
「分かってる」
三つの杯。
アルフィアは水。
バンとザルドは白く濁った酒。
バンが口へ運ぶ。
「強ぇな」
舌を刺し。
喉を焼き。
腹へ熱が落ちる。
香りは荒い。
上等とは言えない。
だが、冷えた夜に飲むには悪くない。
「霧酒より雑だな」
「香草で整えていないからな」
ザルドも飲む。
「だが、兵士が好む理由は分かる。安く、早く温まる」
「うまい?」
若い兵士が尋ねる。
「高い酒とは違うけど、嫌いじゃねぇな」
「だろ?」
「自分で造ったみたいに言うな」
仲間が笑う。
そこへ。
木の机が、店の中央へ運ばれてきた。
「腕相撲だ!」
「昨日から言ってた赤い旅人だろ!」
「ラキア兵を舐めてるって?」
「舐めてねぇよ」
バンが笑いながら椅子へ座る。
「一杯だけって言われてんだ。勝ったら奢ってくれ」
「負けたら?」
「何が欲しい?」
「酒代を払え」
「金ねぇぞ」
「じゃあ、皿洗いだ!」
「いいぜ」
「バン」
アルフィアの声が低くなる。
「腕折らねぇよ」
「力を出すな」
「普通の人間くらいにする」
「お前の普通は信用できない」
相手は、昼間の若い兵士だった。
腕は太い。
恩恵を受けたラキア兵。
レベルは高くなくとも、日々鍛えている身体だ。
二人が手を組む。
「始め!」
合図。
若い兵士が全力で腕を倒そうとする。
バンの腕は動かない。
「ぐっ……!」
「まだ?」
「動かすな!」
「オレ、何もしてねぇぞ」
「嘘つけ!」
兵士の顔が赤くなる。
肩。
背中。
全身の力を使う。
それでもバンの手は、机の中央から一寸も動かない。
「そろそろいい?」
「待て!」
「もう一杯飲みてぇんだけど」
「まだ――」
バンは指先へ僅かに力を込めた。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
相手の腕を机へ倒す。
どん。
「勝ち」
「化け物か!」
「旅人だって」
「旅人はこんな力してない!」
店内が笑いに包まれる。
若い兵士は悔しそうに腕を押さえた。
「折れてねぇ?」
「折れてない」
「痛いぞ!」
「力入れすぎたからだろ」
「次は俺だ!」
別の兵士が名乗りを上げる。
「一杯だけだ」
アルフィアが言った。
「勝てば酒増えるぞ」
「増やすな」
「もう一人だけ」
「駄目だ」
「ザルドとやればいいだろ」
バンが巨大な男を指す。
兵士たちが一斉にザルドを見る。
ザルドは静かに酒を飲んでいた。
太い腕。
人間の胴ほどもある上腕。
「……やめとく」
「賢明だな」
ザルドが答える。
「何もしなくても勝ったぞ」
バンが笑う。
アルフィアは水の杯へ口をつけ、小さく息を吐いた。
「馬鹿ばかりだ」
「軍神の国だからな」
バンが言う。
近くの兵士たちが反応する。
「今、アレス様を馬鹿にしたか?」
「馬鹿って言ったのはアルフィアだぞ」
「お前も言った」
「オレは聞いただけ」
「全員まとめて表へ出ろ!」
「喧嘩?」
バンの目が輝く。
「するな」
アルフィアの声が落ちる。
店内が静かになった。
「座れ」
短い一言。
兵士たちは、なぜか逆らえず椅子へ戻った。
バンが感心したように見る。
「アレスより軍神っぽくねぇ?」
澄んだ鐘の音が鳴りかける。
「冗談だって!」
その夜。
酒は一杯だけだった。
だが、川魚と兵士の配給。
白い酒。
腕相撲。
軍神を巡る口論。
三人は、ラキア王国という国の味と騒がしさを、十分すぎるほど知ることになった。
今回は、セルバの川辺の市場と、ラキア兵の食事や酒を巡る日常回でした。
特に、蜂蜜チーズの菓子について、アルフィアが思わず「明日買う」と口にしてしまう場面がお気に入りです。