強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第55話 銀色の脈動

セルバで迎える二度目の朝。

 

川沿いの大通りでは、今日も日の出と同時に兵士たちの掛け声が響いていた。

 

「一、二! 一、二!」

 

「隊列を乱すな!」

 

「遅れているぞ!」

 

三階の部屋まで届く声を聞きながら、バンは毛布の中で眉を寄せた。

 

「昨日より増えてねぇか……」

 

「起きろ」

 

アルフィアの声が、すぐ近くから落ちる。

 

「市場、昼からじゃなかった?」

 

「もう昼前だ」

 

「嘘だろ」

 

バンは毛布から顔だけを出し、窓を見る。

 

差し込む光は、すでに高い。

 

反対側の寝台は空になっており、ザルドの姿もない。

 

「ザルドは?」

 

「市場だ」

 

「置いてかれたのかよ」

 

「起こした」

 

「覚えてねぇぞ」

 

「返事もした」

 

「何て?」

 

「あと少し寝る、と」

 

「じゃあ起きてたな」

 

「寝言だ」

 

バンは身体を起こした。

 

昨日洗ってもらった赤いコートは、寝台の脇へ畳まれている。

 

袖を通しながら、部屋の机を見る。

 

小さな紙包みが置かれていた。

 

「何これ?」

 

「触るな」

 

アルフィアの返事が早い。

 

バンの指が包みの寸前で止まる。

 

「食いもん?」

 

「違う」

 

「甘い匂いするぞ」

 

「気のせいだ」

 

「蜂蜜チーズだろ」

 

「……」

 

「昨日、明日も買うって言ってたもんな」

 

アルフィアが本から顔を上げる。

 

「店ごとの差を確認すると言った」

 

「昨日と同じ店じゃねぇの?」

 

「材料の状態は日によって変わる」

 

「何個買った?」

 

「関係ない」

 

バンは机の上の包みを見る。

 

昨日より明らかに大きい。

 

「三つじゃねぇな」

 

「雑音だ」

 

「六つくらい?」

 

アルフィアの周囲で空気が僅かに震えた。

 

「朝から《福音》はやめろよ」

 

「なら黙れ」

 

「一個くれたら黙るぞ」

 

「自分で買え」

 

「金ない」

 

「昨日使い切ったからだ」

 

「酒と煮込みはうまかった」

 

「反省しろ」

 

バンが寝台から立ち上がったところで、部屋の扉が開いた。

 

ザルドが大きな荷袋を抱えて戻ってくる。

 

中には、厚い布。

 

陶器の板。

 

鉄製の火挟み。

 

小さな木箱。

 

細い縄。

 

それから、昼食用らしいパンと燻製肉が入っていた。

 

「起きたか」

 

「遅ぇぞ」

 

バンが言う。

 

「寝ていた者が言うな」

 

「何買ってきたんだ?」

 

「確認に必要なものだ」

 

ザルドは荷物を床へ置いた。

 

部屋の隅には、傷ついたクレシューズと名もない結晶。

 

二つは昨夜から十分な距離を空け、別々の布に包まれている。

 

「今日は見るだけじゃなかったのか?」

 

バンが尋ねる。

 

「見るための準備だ」

 

アルフィアは本を閉じた。

 

「昨夜の反応が偶然かどうか確かめる」

 

「ほら。オレが言ったとおりだろ」

 

「まだ何も分かっていない」

 

「二回鳴ったぞ」

 

「鳴った理由が問題だ」

 

ザルドが窓を閉める。

 

厚いカーテンを引き。

 

扉の鍵を掛ける。

 

さらに、扉の下へ布を詰めた。

 

「そこまでする?」

 

「結晶の光を外から見られないためだ」

 

「兵士に見つかったら面倒だしな」

 

「この町へ入る際、危険物として記録されている」

 

アルフィアが答える。

 

「異常を起こせば、衛兵が来る」

 

「来ても追い返せばいいだろ」

 

「ラキア軍を宿へ集める気か」

 

「数だけ多いんだろ?」

 

「倒せるかどうかの話ではない」

 

「分かってるって」

 

バンは部屋の中央へ座った。

 

 

       ◇

 

 

床には、陶器の板が二枚置かれた。

 

一枚にはクレシューズ。

 

もう一枚には、名もない結晶が入った木箱。

 

二つの間隔は、最初に置かれていた時より広い。

 

部屋の端と端。

 

ザルドがクレシューズの包みを開く。

 

現れたのは、傷ついた四節棍。

 

歪んだ棍。

 

亀裂。

 

損傷した接続部。

 

鎖の一部も擦れ、鈍い色に変わっている。

 

完全に砕けてはいない。

 

だが、神器として戦闘へ使える状態ではなかった。

 

「昨日から変化はない」

 

ザルドが言う。

 

「勝手に直ってたりしねぇか」

 

「外見上はな」

 

次に、アルフィアが木箱を開く。

 

何重にも巻かれた布。

 

乾燥させた葉。

 

魔石を保管するための薄い鉱石板。

 

その中央に、黒紫色の結晶があった。

 

結晶の奥では、禍々しい色がゆっくりと渦を巻いている。

 

それを押さえ込むように。

 

細い銀色の光が、内部を巡っていた。

 

「黒い方、昨日より強くなってねぇ?」

 

バンが尋ねる。

 

「同じだ」

 

アルフィアが答える。

 

「銀色の力が抑えているため、外側からは変化して見えることがある」

 

「その銀色が、クレシューズに反応してんだろ?」

 

「それを確かめる」

 

アルフィアはバンへ視線を向けた。

 

「まず、お前は何もするな」

 

「触るのも?」

 

「私が許可するまで触るな」

 

「《強奪》も?」

 

「使うな」

 

「《贈与》も?」

 

「絶対に使うな」

 

「分かってるよ」

 

「信用していない」

 

「何で聞いたんだよ」

 

「確認だ」

 

ザルドがクレシューズの横へ座った。

 

「最初は、俺が触れる」

 

大きな手が、棍の一本へ添えられる。

 

何も起きない。

 

金属音も。

 

結晶の光の変化もない。

 

「次は私だ」

 

アルフィアがザルドと入れ替わる。

 

細い指が、傷ついた接続部へ触れた。

 

目を閉じ。

 

音。

 

魔力の流れ。

 

内部の微細な振動を探る。

 

だが。

 

何も起こらない。

 

「反応なし」

 

「じゃあオレだな」

 

「まだだ」

 

「二人終わっただろ」

 

「座っていろ」

 

「へいへい」

 

「返事は一度だ」

 

「へい」

 

アルフィアはクレシューズから離れた。

 

次に、ザルドが鉄製の火挟みで、結晶の木箱を僅かに動かす。

 

クレシューズとの距離を、指一本分ほど縮める。

 

変化なし。

 

さらに一つ。

 

さらに一つ。

 

少しずつ。

 

急がず。

 

二つの距離を詰めていく。

 

部屋の中には、川の流れる音さえ届かなかった。

 

「止めろ」

 

アルフィアが言った。

 

クレシューズと結晶の間は、まだザルドの腕一本分以上空いている。

 

「何かあった?」

 

「銀色の光が動いた」

 

バンが結晶を見る。

 

内部を巡っていた銀色の筋。

 

その一部が、クレシューズのある方向へ偏っている。

 

「本当だ」

 

「黒紫色の力に変化はない」

 

「銀色だけか」

 

ザルドが尋ねる。

 

「ああ」

 

アルフィアは床へ細い縄を置き、現在の距離を記録した。

 

「もう少し近づける」

 

ザルドが木箱を動かす。

 

一度。

 

二度。

 

ちり。

 

傷ついたクレシューズから、小さな金属音が鳴った。

 

「鳴ったな」

 

バンの口元が上がる。

 

「触れていないのに」

 

ザルドがクレシューズを見る。

 

結晶の銀色の光は、先ほどより明るくなっていた。

 

黒紫色の渦は変わらない。

 

外へ漏れようともしていない。

 

「銀色の力が先に反応した」

 

アルフィアが言う。

 

「その後でクレシューズが鳴った」

 

「やっぱ、こいつを直そうとしてんじゃねぇ?」

 

「断定するな」

 

「でも悪い反応じゃねぇだろ」

 

「それも分からない」

 

アルフィアがクレシューズへ手を近づける。

 

触れない。

 

微かな熱だけを確かめる。

 

「接続部の温度が上がっている」

 

ザルドも手をかざした。

 

「僅かだな」

 

「直ってる?」

 

バンが身を乗り出す。

 

「見た目は変わらない」

 

「じゃあ、もっと近づければ――」

 

「待て」

 

アルフィアの声が鋭くなる。

 

「まだお前が触れていない」

 

「それが必要?」

 

「昨夜は、お前がクレシューズへ触れた直後に二つが反応した」

 

「じゃあ触っていい?」

 

「片手だけだ」

 

「細かいな」

 

「《贈与》を使うな」

 

「使わねぇよ」

 

「魔力も流すな」

 

「オレ、魔力って感じじゃねぇけどな」

 

「力を意識するな。持つだけだ」

 

バンはクレシューズの前へ座る。

 

右手を伸ばし。

 

傷の少ない棍の一本を、静かに握った。

 

その瞬間。

 

ちりん。

 

これまでより明瞭な音が鳴った。

 

銀色の光が強くなる。

 

細い光の筋が、結晶内部からクレシューズの方向へ伸びた。

 

結晶の外へ出てはいない。

 

それでも、二つの間へ何か見えない繋がりが生まれたようだった。

 

「どうだ?」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「少し温かい」

 

「ほかには?」

 

「何か……引っ張られてる」

 

「手を?」

 

「違う」

 

バンは目を細めた。

 

「こいつの中が、空っぽになってる場所へ何かが来ようとしてる感じだ」

 

「損傷した部分か」

 

ザルドが言う。

 

「多分な」

 

「痛みは?」

 

「ない」

 

「力を奪われている感覚は?」

 

「それもない」

 

「結晶へ引かれているのは、クレシューズか。お前か」

 

「分かんねぇ」

 

バンは目を閉じる。

 

手の中にある神器。

 

長い間、共に戦ってきた相棒。

 

かつて自分の世界で、巨人族の名工ダブズが作り上げたもの。

 

歪み。

 

亀裂。

 

途切れかけた鎖。

 

それらの奥に。

 

今も失われていない何かがある。

 

「もう少し……」

 

バンの右手に、僅かな力が集まり始めた。

 

エルソスの遺跡。

 

消えかけた月のような存在へ与えたもの。

 

自らの生命力。

 

《贈与》。

 

その力を、ほんの僅かに――。

 

手首が掴まれた。

 

「使うなと言った」

 

アルフィアの声は低い。

 

バンは目を開く。

 

「まだ使ってねぇよ」

 

「使おうとした」

 

「少しだけなら」

 

「少しで何が起こるか分かるのか?」

 

「分かんねぇけど」

 

「なら使うな」

 

アルフィアはバンの手を、クレシューズから離そうとする。

 

その時。

 

結晶内部の黒紫色の力が。

 

大きく蠢いた。

 

「離せ!」

 

アルフィアが叫ぶ。

 

バンがすぐに手を放す。

 

同時にザルドが木箱を掴み、クレシューズから一気に遠ざけた。

 

銀色の光が激しく明滅する。

 

黒紫色の渦が内側から膨らみ。

 

結晶の表面に、細い黒い亀裂のような影が走る。

 

「割れるのか!?」

 

「違う。内側の力だ!」

 

アルフィアは木箱の前へ立つ。

 

魔法は使わない。

 

外側へ漏れ出す気配だけを見極める。

 

黒紫色の影は、結晶の表面寸前で止まった。

 

銀色の光がそれへ絡みつく。

 

一本。

 

二本。

 

何重にも巻きつき。

 

押し戻していく。

 

やがて。

 

黒紫色の力は、再び結晶の奥へ沈んだ。

 

部屋に静寂が戻る。

 

クレシューズも鳴らない。

 

バンは自分の右手を見る。

 

「今の、オレが力を使おうとしたから?」

 

「可能性はある」

 

アルフィアは結晶から目を離さない。

 

「お前の力に銀色が反応した。銀色が動いたことで、抑えられていた黒紫色の力も刺激された」

 

「じゃあ、《贈与》と銀色の力は似てる?」

 

「断定できない」

 

「でも、反応はした」

 

「ああ」

 

ザルドがクレシューズを確認する。

 

亀裂。

 

鎖。

 

接続部。

 

「損傷は広がっていない」

 

「直ってもいないか」

 

「見た限りではな」

 

バンはクレシューズへ手を伸ばしかけ。

 

途中で止めた。

 

「触らねぇ方がいい?」

 

「今はな」

 

アルフィアが答える。

 

「少なくとも、三つが関係している」

 

「三つ?」

 

「クレシューズ。結晶の銀色の力。そしてお前だ」

 

アルフィアは床に置いた縄を見た。

 

「クレシューズと結晶だけでも、一定の距離で反応する。だが、お前が触れれば反応は明確になる」

 

「オレが《贈与》を使おうとすると、もっと強くなる」

 

「ああ。だが、黒紫色の力まで動く」

 

「危ねぇな」

 

「最初から言っている」

 

「オレ、まだ何もしてねぇぞ」

 

「止めなければしていた」

 

「結果は分かっただろ」

 

「結果を得るために壊していいものではない」

 

アルフィアの声が、少しだけ強くなる。

 

「クレシューズも。結晶も。お前もだ」

 

最後の言葉だけが、僅かに遅れた。

 

バンはアルフィアを見る。

 

だが。

 

いつものように、茶化さなかった。

 

「ああ」

 

短く答える。

 

「オラリオまで待つよ」

 

「本当か?」

 

「今度は本当だ」

 

「信用できん」

 

「でも待つ」

 

ザルドは二つを再び別々に包み始めた。

 

「ヘファイストスなら、少なくとも俺たちより構造を正確に見られる」

 

「神様なんだろ?」

 

バンが言う。

 

「神器のことも、巨人族のことも知ってんのかな」

 

「概念は知っているだろう」

 

ザルドが答える。

 

「だが、ダブズという鍛冶師を知っているとは限らん」

 

「見れば分かるかもな」

 

「期待しすぎるな」

 

アルフィアが言った。

 

「ヘファイストスは鍛冶神だ。万能ではない」

 

「分かってるよ」

 

「直せないと言われる可能性もある」

 

バンは少し黙った。

 

傷ついたクレシューズを見る。

 

「それでも見せる」

 

「ああ」

 

「こいつが無理だって言うまでは、オレも諦めねぇよ」

 

「武器は喋らない」

 

「鳴ってるだろ」

 

「金属音だ」

 

「オレには返事に聞こえる」

 

「勝手な男だな」

 

「今さらだろ」

 

アルフィアは否定しなかった。

 

 

       ◇

 

 

検査を終えた頃には、すでに昼を過ぎていた。

 

三人は床へ敷いていた布を片づけ。

 

窓を開け。

 

部屋へ溜まっていた緊張を、川風とともに外へ逃がした。

 

ザルドが市場で買ってきたパンと燻製肉を机へ並べる。

 

白いチーズ。

 

酢漬けの野菜。

 

それから。

 

アルフィアが買った蜂蜜チーズの包みも、机の端へ置かれた。

 

「やっぱ六つあるじゃねぇか」

 

バンが言う。

 

「数えるな」

 

「一人二つ?」

 

「一つだ」

 

「残り三つは?」

 

「明日だ」

 

「保存に向かねぇって言われてたぞ」

 

「夜までなら問題ない」

 

「じゃあ、夜にもう一個食う気だな」

 

「雑音だ」

 

ザルドがパンを切る。

 

「食べるなら今にしろ」

 

「ザルドまで何言ってんだ」

 

「乳製品は傷む。室温も高い」

 

アルフィアは包みを見る。

 

少しだけ考え。

 

「なら、一つずつ追加だ」

 

「最初から食う気だっただろ」

 

「傷ませないためだ」

 

「そういうことにしとくか」

 

バンは蜂蜜チーズを一つ取る。

 

アルフィアの視線が動いた。

 

「何?」

 

「大きい方を取ったな」

 

「同じだろ」

 

「僅かに違う」

 

「見てたのかよ」

 

「返せ」

 

「もう触ったぞ」

 

「なら食え」

 

「優しいじゃねぇか」

 

「次は選ばせない」

 

ザルドは自分の分を半分に切り、アルフィアの皿へ置いた。

 

「何だ」

 

「俺には少し甘すぎる」

 

「ならバンへ渡せ」

 

「こいつはもう二つ食った」

 

「まだ一個半だぞ」

 

「黙れ」

 

アルフィアはザルドの半分を見た。

 

返すことはせず。

 

静かに口へ運ぶ。

 

「市場、明日も行く?」

 

バンが尋ねる。

 

「必要な食料は揃った」

 

ザルドが答える。

 

「菓子の確認は?」

 

「必要ない」

 

アルフィアが即答する。

 

「でも店ごとの差――」

 

「同じ店だと言ったのはお前だろう」

 

「覚えてたのか」

 

「黙って食え」

 

三人が昼食を終えた直後。

 

部屋の扉が叩かれた。

 

「衛兵だ」

 

外から男の声がする。

 

三人の視線が、クレシューズと結晶の置かれた部屋の隅へ向く。

 

「異常、外まで漏れた?」

 

バンが小声で尋ねる。

 

「漏れていない」

 

アルフィアが答える。

 

「では、別件だ」

 

ザルドが扉へ向かう。

 

開けると。

 

廊下には、赤い肩布を付けた中年兵と、記録板を持つ若い兵士が立っていた。

 

「昨日、正体不明の魔物由来の結晶を持ち込んだ三人だな」

 

「ああ」

 

「宿から異常の報告はない。念のため確認に来た」

 

「問題はない」

 

ザルドが答える。

 

「中を見せてもらえるか?」

 

「断る」

 

アルフィアの声が、ザルドの背後から届いた。

 

中年兵の表情が硬くなる。

 

「危険物だ。軍として確認する義務がある」

 

「門では、開封すれば危険だと説明した」

 

「外から状態を見るだけだ」

 

「今は封じている。近づける必要はない」

 

「しかし――」

 

アルフィアが一歩前へ出る。

 

「異常が起きていないことは、宿の者も確認している。匂いも。音も。周囲の植物にも変化はない」

 

「それでも規則がある」

 

「お前が見て何が分かる」

 

若い兵士が息を呑む。

 

中年兵も言葉に詰まった。

 

「魔石や呪物を扱う部署へ連絡することはできる」

 

「この町に、あれを理解できる者がいるのか?」

 

「……専門の者は王都か、北部の軍施設にいる」

 

「なら無意味だ」

 

アルフィアは冷たく言い切った。

 

「オラリオへ運び、鍛冶神へ見せる。それまでは誰にも触れさせない」

 

「鍛冶神……ヘファイストスか?」

 

「ああ」

 

「そこまでの品なのか」

 

「だから見せないと言っている」

 

中年兵は部屋の奥へ目を向けようとした。

 

その前へ、ザルドの巨体が立つ。

 

「異常があればこちらから知らせる」

 

「……分かった」

 

兵士はしばらく迷った後、記録板へ何かを書き込んだ。

 

「明日まで町にいるのか?」

 

「その予定だ」

 

「宿を移る場合は詰所へ知らせろ」

 

「ああ」

 

「それと」

 

中年兵は、ザルドの顔をもう一度見上げた。

 

「以前、オラリオにいたことがあるか?」

 

「ある」

 

「やはり……」

 

「何だ」

 

「いや」

 

兵士は首を横へ振った。

 

「どこかで名前を聞いた気がしただけだ」

 

ザルドは何も答えない。

 

中年兵は敬礼し、若い兵士とともに廊下を去っていった。

 

扉を閉じる。

 

バンが笑う。

 

「顔、知られ始めてんじゃねぇ?」

 

「古い噂だろう」

 

「ラキア軍と何したんだよ」

 

「何度か追い返しただけだ」

 

「何人?」

 

「覚えていない」

 

「部隊ごと?」

 

「覚えていないと言った」

 

アルフィアが席へ戻る。

 

「雑兵の数を数える必要はない」

 

「お前ら、本当に何してきたんだよ」

 

「向こうから来ただけだ」

 

ザルドの答えに、バンは声を上げて笑った。

 

 

       ◇

 

 

夕方。

 

川面が赤く染まり始めた頃。

 

再び部屋の扉が叩かれた。

 

今度は、兵士の固い音ではない。

 

控えめで。

 

迷うような、小さな音だった。

 

バンが扉を開ける。

 

廊下には、若い女が立っていた。

 

淡い茶色の髪。

 

まだ頬には薄い痣が残っている。

 

クルバ廃村の地下から救出された旅人。

 

「セラじゃねぇか」

 

「バンさん」

 

「もう歩いて平気なの?」

 

「はい。少し休んだので」

 

セラは両手で、小さな木箱を抱えていた。

 

廃村の倉庫から取り戻した薬箱だ。

 

「何か用か?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「お願いがあって来ました」

 

「入れ」

 

アルフィアが言った。

 

セラは一瞬驚き。

 

頭を下げて部屋へ入る。

 

机の近くへ座ると、抱えていた木箱を膝へ置いた。

 

「この薬を、セルバの北西にあるリュネ村へ届ける予定でした」

 

「北西?」

 

バンが尋ねる。

 

「オラリオへ向かう街道の途中か?」

 

「途中から少し外れます。でも、大きく遠回りする場所ではありません」

 

ザルドが簡素な地図を広げる。

 

セルバ。

 

川沿いの街道。

 

北西へ続く農地。

 

その先。

 

小さな村の印。

 

「徒歩でどれくらいだ」

 

「一日半です」

 

「お前一人で運ぶつもりか?」

 

「その予定でした」

 

セラは右足へ視線を落とす。

 

地下で拘束されていた影響か、まだ踏み込む時に痛みがあるらしい。

 

「でも、今の足では……」

 

「町の荷車は?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「北へ向かう荷車を探しました。でも、軍が馬と荷車を多く徴用していて、次に村の近くを通る便は五日後だそうです」

 

「五日では遅いのか」

 

セラは薬箱を強く抱いた。

 

「村では、病人が薬を待っています」

 

アルフィアの目が、木箱へ向く。

 

「何人だ」

 

「三人です。高い熱が続いている子供が二人と、肺を患っている老人が一人」

 

「症状はいつからだ」

 

「子供たちは十日ほど前から。老人は、もっと前からです」

 

「薬の種類は?」

 

セラは木箱を開ける。

 

乾燥した薬草。

 

小さな硝子瓶。

 

包み紙。

 

服用量を書いた札。

 

アルフィアが席を立ち、箱の前へ来た。

 

一つずつ確認する。

 

「解熱用。咳止め。痛みを抑えるもの。栄養を取れない者へ使う濃縮液……」

 

「町の薬師が調合しました」

 

「瓶が二本割れている」

 

「はい。野盗に奪われた時に」

 

「残りで足りるのか」

 

「決められた量を守れば、ぎりぎり」

 

アルフィアは札へ書かれた文字を読む。

 

「この飲ませ方では、老人の分が先に足りなくなる」

 

「え?」

 

「咳がひどい時だけ使え。決められた回数をそのまま与えれば、三日でなくなる」

 

「でも、薬師は――」

 

「症状を直接見ずに書いた量だろう」

 

「はい」

 

「村に薬を扱える者は?」

 

「年老いた治療師が一人います」

 

「なら、その者へ判断させろ。お前が勝手に増減するな」

 

言葉は冷たい。

 

だが。

 

アルフィアは割れていない瓶を、布の中へ一本ずつ包み直していた。

 

歩いた時にぶつからないよう。

 

隙間へ乾燥した草を詰め。

 

箱の中で動かないよう、位置まで整える。

 

「アルフィア」

 

バンが呼ぶ。

 

「何だ」

 

「行くんだろ?」

 

「道が同じなら運ぶ」

 

返事に迷いはなかった。

 

セラが顔を上げる。

 

「本当に……?」

 

「お前の足では一日半で着かない」

 

「でも、皆さんはオラリオへ――」

 

「大きな遠回りではないと言ったな」

 

「はい」

 

「なら問題ない」

 

「ありがとう、ございます……」

 

セラの目に、僅かに涙が浮かぶ。

 

アルフィアはそれを見ず、薬箱の蓋を閉じた。

 

「礼は薬が届いてからにしろ」

 

「はい」

 

ザルドが地図へ道筋を書き込む。

 

「明朝出る」

 

「セラはどうする」

 

バンが尋ねる。

 

「私も行きます」

 

「足、痛ぇんだろ」

 

「薬を届けるのは、私が引き受けた仕事です」

 

「途中で歩けなくなったら?」

 

「その時は――」

 

「背負ってやるよ」

 

バンが軽く言う。

 

セラが目を瞬かせる。

 

「いいんですか?」

 

「荷物一個増えるくらい変わらねぇだろ」

 

「お前が運ぶのはクレシューズと結晶だ」

 

アルフィアが言った。

 

「それ以上は持つな」

 

「じゃあザルド」

 

「俺を便利な荷獣にするな」

 

「でも運べるだろ」

 

「必要ならな」

 

「優しいじゃねぇか」

 

「歩けるところまでは自分で歩け」

 

ザルドがセラへ言う。

 

「無理をして悪化させれば、薬を運ぶ者が増えるだけだ」

 

「分かりました」

 

「食料はこちらで用意する」

 

「代金は――」

 

「村へ着いてから考えればいい」

 

セラは何度も頭を下げた。

 

日が沈む前に宿の自室へ戻り、出発の準備をすることになった。

 

扉の前。

 

セラがもう一度振り返る。

 

「本当に、ありがとうございます」

 

「早く休め」

 

アルフィアが答えた。

 

「明日は歩く」

 

「はい」

 

扉が閉じる。

 

部屋へ静けさが戻る。

 

バンはアルフィアを見る。

 

「何だ」

 

「別に」

 

「言いたいことがあるなら言え」

 

「薬の量とか、詳しいんだな」

 

「最低限だ」

 

「子供の症状まで聞いてたぞ」

 

「必要だから聞いた」

 

「そうか」

 

バンはそれ以上、何も言わなかった。

 

からかいも。

 

笑いもない。

 

アルフィアは少しだけ眉を寄せる。

 

「気味が悪いな」

 

「何が?」

 

「お前が黙っている」

 

「黙れっていつも言うだろ」

 

「今は喋れ」

 

「難しい奴だな」

 

ザルドが地図を畳む。

 

「明日は早い。準備をするぞ」

 

薬箱。

 

水。

 

食料。

 

傷ついた神器。

 

名もない結晶。

 

三人が運ぶものに、新たな荷が加わった。

 

それは小さく。

 

戦いに使う武器でもなければ。

 

高価な宝でもない。

 

だが。

 

ラキアの辺境で、薬を待つ者たちにとっては。

 

何よりも重い箱だった。




今回は、クレシューズと名もない結晶の反応を慎重に確かめ、三者の間に何らかの繋がりがある可能性が見えた回でした。

特に、薬箱を前にしたアルフィアが自然に服用量や症状を確認し、迷わず村へ届けると決める場面がお気に入りです。
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