セルバで迎える二度目の朝。
川沿いの大通りでは、今日も日の出と同時に兵士たちの掛け声が響いていた。
「一、二! 一、二!」
「隊列を乱すな!」
「遅れているぞ!」
三階の部屋まで届く声を聞きながら、バンは毛布の中で眉を寄せた。
「昨日より増えてねぇか……」
「起きろ」
アルフィアの声が、すぐ近くから落ちる。
「市場、昼からじゃなかった?」
「もう昼前だ」
「嘘だろ」
バンは毛布から顔だけを出し、窓を見る。
差し込む光は、すでに高い。
反対側の寝台は空になっており、ザルドの姿もない。
「ザルドは?」
「市場だ」
「置いてかれたのかよ」
「起こした」
「覚えてねぇぞ」
「返事もした」
「何て?」
「あと少し寝る、と」
「じゃあ起きてたな」
「寝言だ」
バンは身体を起こした。
昨日洗ってもらった赤いコートは、寝台の脇へ畳まれている。
袖を通しながら、部屋の机を見る。
小さな紙包みが置かれていた。
「何これ?」
「触るな」
アルフィアの返事が早い。
バンの指が包みの寸前で止まる。
「食いもん?」
「違う」
「甘い匂いするぞ」
「気のせいだ」
「蜂蜜チーズだろ」
「……」
「昨日、明日も買うって言ってたもんな」
アルフィアが本から顔を上げる。
「店ごとの差を確認すると言った」
「昨日と同じ店じゃねぇの?」
「材料の状態は日によって変わる」
「何個買った?」
「関係ない」
バンは机の上の包みを見る。
昨日より明らかに大きい。
「三つじゃねぇな」
「雑音だ」
「六つくらい?」
アルフィアの周囲で空気が僅かに震えた。
「朝から《福音》はやめろよ」
「なら黙れ」
「一個くれたら黙るぞ」
「自分で買え」
「金ない」
「昨日使い切ったからだ」
「酒と煮込みはうまかった」
「反省しろ」
バンが寝台から立ち上がったところで、部屋の扉が開いた。
ザルドが大きな荷袋を抱えて戻ってくる。
中には、厚い布。
陶器の板。
鉄製の火挟み。
小さな木箱。
細い縄。
それから、昼食用らしいパンと燻製肉が入っていた。
「起きたか」
「遅ぇぞ」
バンが言う。
「寝ていた者が言うな」
「何買ってきたんだ?」
「確認に必要なものだ」
ザルドは荷物を床へ置いた。
部屋の隅には、傷ついたクレシューズと名もない結晶。
二つは昨夜から十分な距離を空け、別々の布に包まれている。
「今日は見るだけじゃなかったのか?」
バンが尋ねる。
「見るための準備だ」
アルフィアは本を閉じた。
「昨夜の反応が偶然かどうか確かめる」
「ほら。オレが言ったとおりだろ」
「まだ何も分かっていない」
「二回鳴ったぞ」
「鳴った理由が問題だ」
ザルドが窓を閉める。
厚いカーテンを引き。
扉の鍵を掛ける。
さらに、扉の下へ布を詰めた。
「そこまでする?」
「結晶の光を外から見られないためだ」
「兵士に見つかったら面倒だしな」
「この町へ入る際、危険物として記録されている」
アルフィアが答える。
「異常を起こせば、衛兵が来る」
「来ても追い返せばいいだろ」
「ラキア軍を宿へ集める気か」
「数だけ多いんだろ?」
「倒せるかどうかの話ではない」
「分かってるって」
バンは部屋の中央へ座った。
◇
床には、陶器の板が二枚置かれた。
一枚にはクレシューズ。
もう一枚には、名もない結晶が入った木箱。
二つの間隔は、最初に置かれていた時より広い。
部屋の端と端。
ザルドがクレシューズの包みを開く。
現れたのは、傷ついた四節棍。
歪んだ棍。
亀裂。
損傷した接続部。
鎖の一部も擦れ、鈍い色に変わっている。
完全に砕けてはいない。
だが、神器として戦闘へ使える状態ではなかった。
「昨日から変化はない」
ザルドが言う。
「勝手に直ってたりしねぇか」
「外見上はな」
次に、アルフィアが木箱を開く。
何重にも巻かれた布。
乾燥させた葉。
魔石を保管するための薄い鉱石板。
その中央に、黒紫色の結晶があった。
結晶の奥では、禍々しい色がゆっくりと渦を巻いている。
それを押さえ込むように。
細い銀色の光が、内部を巡っていた。
「黒い方、昨日より強くなってねぇ?」
バンが尋ねる。
「同じだ」
アルフィアが答える。
「銀色の力が抑えているため、外側からは変化して見えることがある」
「その銀色が、クレシューズに反応してんだろ?」
「それを確かめる」
アルフィアはバンへ視線を向けた。
「まず、お前は何もするな」
「触るのも?」
「私が許可するまで触るな」
「《強奪》も?」
「使うな」
「《贈与》も?」
「絶対に使うな」
「分かってるよ」
「信用していない」
「何で聞いたんだよ」
「確認だ」
ザルドがクレシューズの横へ座った。
「最初は、俺が触れる」
大きな手が、棍の一本へ添えられる。
何も起きない。
金属音も。
結晶の光の変化もない。
「次は私だ」
アルフィアがザルドと入れ替わる。
細い指が、傷ついた接続部へ触れた。
目を閉じ。
音。
魔力の流れ。
内部の微細な振動を探る。
だが。
何も起こらない。
「反応なし」
「じゃあオレだな」
「まだだ」
「二人終わっただろ」
「座っていろ」
「へいへい」
「返事は一度だ」
「へい」
アルフィアはクレシューズから離れた。
次に、ザルドが鉄製の火挟みで、結晶の木箱を僅かに動かす。
クレシューズとの距離を、指一本分ほど縮める。
変化なし。
さらに一つ。
さらに一つ。
少しずつ。
急がず。
二つの距離を詰めていく。
部屋の中には、川の流れる音さえ届かなかった。
「止めろ」
アルフィアが言った。
クレシューズと結晶の間は、まだザルドの腕一本分以上空いている。
「何かあった?」
「銀色の光が動いた」
バンが結晶を見る。
内部を巡っていた銀色の筋。
その一部が、クレシューズのある方向へ偏っている。
「本当だ」
「黒紫色の力に変化はない」
「銀色だけか」
ザルドが尋ねる。
「ああ」
アルフィアは床へ細い縄を置き、現在の距離を記録した。
「もう少し近づける」
ザルドが木箱を動かす。
一度。
二度。
ちり。
傷ついたクレシューズから、小さな金属音が鳴った。
「鳴ったな」
バンの口元が上がる。
「触れていないのに」
ザルドがクレシューズを見る。
結晶の銀色の光は、先ほどより明るくなっていた。
黒紫色の渦は変わらない。
外へ漏れようともしていない。
「銀色の力が先に反応した」
アルフィアが言う。
「その後でクレシューズが鳴った」
「やっぱ、こいつを直そうとしてんじゃねぇ?」
「断定するな」
「でも悪い反応じゃねぇだろ」
「それも分からない」
アルフィアがクレシューズへ手を近づける。
触れない。
微かな熱だけを確かめる。
「接続部の温度が上がっている」
ザルドも手をかざした。
「僅かだな」
「直ってる?」
バンが身を乗り出す。
「見た目は変わらない」
「じゃあ、もっと近づければ――」
「待て」
アルフィアの声が鋭くなる。
「まだお前が触れていない」
「それが必要?」
「昨夜は、お前がクレシューズへ触れた直後に二つが反応した」
「じゃあ触っていい?」
「片手だけだ」
「細かいな」
「《贈与》を使うな」
「使わねぇよ」
「魔力も流すな」
「オレ、魔力って感じじゃねぇけどな」
「力を意識するな。持つだけだ」
バンはクレシューズの前へ座る。
右手を伸ばし。
傷の少ない棍の一本を、静かに握った。
その瞬間。
ちりん。
これまでより明瞭な音が鳴った。
銀色の光が強くなる。
細い光の筋が、結晶内部からクレシューズの方向へ伸びた。
結晶の外へ出てはいない。
それでも、二つの間へ何か見えない繋がりが生まれたようだった。
「どうだ?」
アルフィアが尋ねる。
「少し温かい」
「ほかには?」
「何か……引っ張られてる」
「手を?」
「違う」
バンは目を細めた。
「こいつの中が、空っぽになってる場所へ何かが来ようとしてる感じだ」
「損傷した部分か」
ザルドが言う。
「多分な」
「痛みは?」
「ない」
「力を奪われている感覚は?」
「それもない」
「結晶へ引かれているのは、クレシューズか。お前か」
「分かんねぇ」
バンは目を閉じる。
手の中にある神器。
長い間、共に戦ってきた相棒。
かつて自分の世界で、巨人族の名工ダブズが作り上げたもの。
歪み。
亀裂。
途切れかけた鎖。
それらの奥に。
今も失われていない何かがある。
「もう少し……」
バンの右手に、僅かな力が集まり始めた。
エルソスの遺跡。
消えかけた月のような存在へ与えたもの。
自らの生命力。
《贈与》。
その力を、ほんの僅かに――。
手首が掴まれた。
「使うなと言った」
アルフィアの声は低い。
バンは目を開く。
「まだ使ってねぇよ」
「使おうとした」
「少しだけなら」
「少しで何が起こるか分かるのか?」
「分かんねぇけど」
「なら使うな」
アルフィアはバンの手を、クレシューズから離そうとする。
その時。
結晶内部の黒紫色の力が。
大きく蠢いた。
「離せ!」
アルフィアが叫ぶ。
バンがすぐに手を放す。
同時にザルドが木箱を掴み、クレシューズから一気に遠ざけた。
銀色の光が激しく明滅する。
黒紫色の渦が内側から膨らみ。
結晶の表面に、細い黒い亀裂のような影が走る。
「割れるのか!?」
「違う。内側の力だ!」
アルフィアは木箱の前へ立つ。
魔法は使わない。
外側へ漏れ出す気配だけを見極める。
黒紫色の影は、結晶の表面寸前で止まった。
銀色の光がそれへ絡みつく。
一本。
二本。
何重にも巻きつき。
押し戻していく。
やがて。
黒紫色の力は、再び結晶の奥へ沈んだ。
部屋に静寂が戻る。
クレシューズも鳴らない。
バンは自分の右手を見る。
「今の、オレが力を使おうとしたから?」
「可能性はある」
アルフィアは結晶から目を離さない。
「お前の力に銀色が反応した。銀色が動いたことで、抑えられていた黒紫色の力も刺激された」
「じゃあ、《贈与》と銀色の力は似てる?」
「断定できない」
「でも、反応はした」
「ああ」
ザルドがクレシューズを確認する。
亀裂。
鎖。
接続部。
「損傷は広がっていない」
「直ってもいないか」
「見た限りではな」
バンはクレシューズへ手を伸ばしかけ。
途中で止めた。
「触らねぇ方がいい?」
「今はな」
アルフィアが答える。
「少なくとも、三つが関係している」
「三つ?」
「クレシューズ。結晶の銀色の力。そしてお前だ」
アルフィアは床に置いた縄を見た。
「クレシューズと結晶だけでも、一定の距離で反応する。だが、お前が触れれば反応は明確になる」
「オレが《贈与》を使おうとすると、もっと強くなる」
「ああ。だが、黒紫色の力まで動く」
「危ねぇな」
「最初から言っている」
「オレ、まだ何もしてねぇぞ」
「止めなければしていた」
「結果は分かっただろ」
「結果を得るために壊していいものではない」
アルフィアの声が、少しだけ強くなる。
「クレシューズも。結晶も。お前もだ」
最後の言葉だけが、僅かに遅れた。
バンはアルフィアを見る。
だが。
いつものように、茶化さなかった。
「ああ」
短く答える。
「オラリオまで待つよ」
「本当か?」
「今度は本当だ」
「信用できん」
「でも待つ」
ザルドは二つを再び別々に包み始めた。
「ヘファイストスなら、少なくとも俺たちより構造を正確に見られる」
「神様なんだろ?」
バンが言う。
「神器のことも、巨人族のことも知ってんのかな」
「概念は知っているだろう」
ザルドが答える。
「だが、ダブズという鍛冶師を知っているとは限らん」
「見れば分かるかもな」
「期待しすぎるな」
アルフィアが言った。
「ヘファイストスは鍛冶神だ。万能ではない」
「分かってるよ」
「直せないと言われる可能性もある」
バンは少し黙った。
傷ついたクレシューズを見る。
「それでも見せる」
「ああ」
「こいつが無理だって言うまでは、オレも諦めねぇよ」
「武器は喋らない」
「鳴ってるだろ」
「金属音だ」
「オレには返事に聞こえる」
「勝手な男だな」
「今さらだろ」
アルフィアは否定しなかった。
◇
検査を終えた頃には、すでに昼を過ぎていた。
三人は床へ敷いていた布を片づけ。
窓を開け。
部屋へ溜まっていた緊張を、川風とともに外へ逃がした。
ザルドが市場で買ってきたパンと燻製肉を机へ並べる。
白いチーズ。
酢漬けの野菜。
それから。
アルフィアが買った蜂蜜チーズの包みも、机の端へ置かれた。
「やっぱ六つあるじゃねぇか」
バンが言う。
「数えるな」
「一人二つ?」
「一つだ」
「残り三つは?」
「明日だ」
「保存に向かねぇって言われてたぞ」
「夜までなら問題ない」
「じゃあ、夜にもう一個食う気だな」
「雑音だ」
ザルドがパンを切る。
「食べるなら今にしろ」
「ザルドまで何言ってんだ」
「乳製品は傷む。室温も高い」
アルフィアは包みを見る。
少しだけ考え。
「なら、一つずつ追加だ」
「最初から食う気だっただろ」
「傷ませないためだ」
「そういうことにしとくか」
バンは蜂蜜チーズを一つ取る。
アルフィアの視線が動いた。
「何?」
「大きい方を取ったな」
「同じだろ」
「僅かに違う」
「見てたのかよ」
「返せ」
「もう触ったぞ」
「なら食え」
「優しいじゃねぇか」
「次は選ばせない」
ザルドは自分の分を半分に切り、アルフィアの皿へ置いた。
「何だ」
「俺には少し甘すぎる」
「ならバンへ渡せ」
「こいつはもう二つ食った」
「まだ一個半だぞ」
「黙れ」
アルフィアはザルドの半分を見た。
返すことはせず。
静かに口へ運ぶ。
「市場、明日も行く?」
バンが尋ねる。
「必要な食料は揃った」
ザルドが答える。
「菓子の確認は?」
「必要ない」
アルフィアが即答する。
「でも店ごとの差――」
「同じ店だと言ったのはお前だろう」
「覚えてたのか」
「黙って食え」
三人が昼食を終えた直後。
部屋の扉が叩かれた。
「衛兵だ」
外から男の声がする。
三人の視線が、クレシューズと結晶の置かれた部屋の隅へ向く。
「異常、外まで漏れた?」
バンが小声で尋ねる。
「漏れていない」
アルフィアが答える。
「では、別件だ」
ザルドが扉へ向かう。
開けると。
廊下には、赤い肩布を付けた中年兵と、記録板を持つ若い兵士が立っていた。
「昨日、正体不明の魔物由来の結晶を持ち込んだ三人だな」
「ああ」
「宿から異常の報告はない。念のため確認に来た」
「問題はない」
ザルドが答える。
「中を見せてもらえるか?」
「断る」
アルフィアの声が、ザルドの背後から届いた。
中年兵の表情が硬くなる。
「危険物だ。軍として確認する義務がある」
「門では、開封すれば危険だと説明した」
「外から状態を見るだけだ」
「今は封じている。近づける必要はない」
「しかし――」
アルフィアが一歩前へ出る。
「異常が起きていないことは、宿の者も確認している。匂いも。音も。周囲の植物にも変化はない」
「それでも規則がある」
「お前が見て何が分かる」
若い兵士が息を呑む。
中年兵も言葉に詰まった。
「魔石や呪物を扱う部署へ連絡することはできる」
「この町に、あれを理解できる者がいるのか?」
「……専門の者は王都か、北部の軍施設にいる」
「なら無意味だ」
アルフィアは冷たく言い切った。
「オラリオへ運び、鍛冶神へ見せる。それまでは誰にも触れさせない」
「鍛冶神……ヘファイストスか?」
「ああ」
「そこまでの品なのか」
「だから見せないと言っている」
中年兵は部屋の奥へ目を向けようとした。
その前へ、ザルドの巨体が立つ。
「異常があればこちらから知らせる」
「……分かった」
兵士はしばらく迷った後、記録板へ何かを書き込んだ。
「明日まで町にいるのか?」
「その予定だ」
「宿を移る場合は詰所へ知らせろ」
「ああ」
「それと」
中年兵は、ザルドの顔をもう一度見上げた。
「以前、オラリオにいたことがあるか?」
「ある」
「やはり……」
「何だ」
「いや」
兵士は首を横へ振った。
「どこかで名前を聞いた気がしただけだ」
ザルドは何も答えない。
中年兵は敬礼し、若い兵士とともに廊下を去っていった。
扉を閉じる。
バンが笑う。
「顔、知られ始めてんじゃねぇ?」
「古い噂だろう」
「ラキア軍と何したんだよ」
「何度か追い返しただけだ」
「何人?」
「覚えていない」
「部隊ごと?」
「覚えていないと言った」
アルフィアが席へ戻る。
「雑兵の数を数える必要はない」
「お前ら、本当に何してきたんだよ」
「向こうから来ただけだ」
ザルドの答えに、バンは声を上げて笑った。
◇
夕方。
川面が赤く染まり始めた頃。
再び部屋の扉が叩かれた。
今度は、兵士の固い音ではない。
控えめで。
迷うような、小さな音だった。
バンが扉を開ける。
廊下には、若い女が立っていた。
淡い茶色の髪。
まだ頬には薄い痣が残っている。
クルバ廃村の地下から救出された旅人。
「セラじゃねぇか」
「バンさん」
「もう歩いて平気なの?」
「はい。少し休んだので」
セラは両手で、小さな木箱を抱えていた。
廃村の倉庫から取り戻した薬箱だ。
「何か用か?」
ザルドが尋ねる。
「お願いがあって来ました」
「入れ」
アルフィアが言った。
セラは一瞬驚き。
頭を下げて部屋へ入る。
机の近くへ座ると、抱えていた木箱を膝へ置いた。
「この薬を、セルバの北西にあるリュネ村へ届ける予定でした」
「北西?」
バンが尋ねる。
「オラリオへ向かう街道の途中か?」
「途中から少し外れます。でも、大きく遠回りする場所ではありません」
ザルドが簡素な地図を広げる。
セルバ。
川沿いの街道。
北西へ続く農地。
その先。
小さな村の印。
「徒歩でどれくらいだ」
「一日半です」
「お前一人で運ぶつもりか?」
「その予定でした」
セラは右足へ視線を落とす。
地下で拘束されていた影響か、まだ踏み込む時に痛みがあるらしい。
「でも、今の足では……」
「町の荷車は?」
ザルドが尋ねる。
「北へ向かう荷車を探しました。でも、軍が馬と荷車を多く徴用していて、次に村の近くを通る便は五日後だそうです」
「五日では遅いのか」
セラは薬箱を強く抱いた。
「村では、病人が薬を待っています」
アルフィアの目が、木箱へ向く。
「何人だ」
「三人です。高い熱が続いている子供が二人と、肺を患っている老人が一人」
「症状はいつからだ」
「子供たちは十日ほど前から。老人は、もっと前からです」
「薬の種類は?」
セラは木箱を開ける。
乾燥した薬草。
小さな硝子瓶。
包み紙。
服用量を書いた札。
アルフィアが席を立ち、箱の前へ来た。
一つずつ確認する。
「解熱用。咳止め。痛みを抑えるもの。栄養を取れない者へ使う濃縮液……」
「町の薬師が調合しました」
「瓶が二本割れている」
「はい。野盗に奪われた時に」
「残りで足りるのか」
「決められた量を守れば、ぎりぎり」
アルフィアは札へ書かれた文字を読む。
「この飲ませ方では、老人の分が先に足りなくなる」
「え?」
「咳がひどい時だけ使え。決められた回数をそのまま与えれば、三日でなくなる」
「でも、薬師は――」
「症状を直接見ずに書いた量だろう」
「はい」
「村に薬を扱える者は?」
「年老いた治療師が一人います」
「なら、その者へ判断させろ。お前が勝手に増減するな」
言葉は冷たい。
だが。
アルフィアは割れていない瓶を、布の中へ一本ずつ包み直していた。
歩いた時にぶつからないよう。
隙間へ乾燥した草を詰め。
箱の中で動かないよう、位置まで整える。
「アルフィア」
バンが呼ぶ。
「何だ」
「行くんだろ?」
「道が同じなら運ぶ」
返事に迷いはなかった。
セラが顔を上げる。
「本当に……?」
「お前の足では一日半で着かない」
「でも、皆さんはオラリオへ――」
「大きな遠回りではないと言ったな」
「はい」
「なら問題ない」
「ありがとう、ございます……」
セラの目に、僅かに涙が浮かぶ。
アルフィアはそれを見ず、薬箱の蓋を閉じた。
「礼は薬が届いてからにしろ」
「はい」
ザルドが地図へ道筋を書き込む。
「明朝出る」
「セラはどうする」
バンが尋ねる。
「私も行きます」
「足、痛ぇんだろ」
「薬を届けるのは、私が引き受けた仕事です」
「途中で歩けなくなったら?」
「その時は――」
「背負ってやるよ」
バンが軽く言う。
セラが目を瞬かせる。
「いいんですか?」
「荷物一個増えるくらい変わらねぇだろ」
「お前が運ぶのはクレシューズと結晶だ」
アルフィアが言った。
「それ以上は持つな」
「じゃあザルド」
「俺を便利な荷獣にするな」
「でも運べるだろ」
「必要ならな」
「優しいじゃねぇか」
「歩けるところまでは自分で歩け」
ザルドがセラへ言う。
「無理をして悪化させれば、薬を運ぶ者が増えるだけだ」
「分かりました」
「食料はこちらで用意する」
「代金は――」
「村へ着いてから考えればいい」
セラは何度も頭を下げた。
日が沈む前に宿の自室へ戻り、出発の準備をすることになった。
扉の前。
セラがもう一度振り返る。
「本当に、ありがとうございます」
「早く休め」
アルフィアが答えた。
「明日は歩く」
「はい」
扉が閉じる。
部屋へ静けさが戻る。
バンはアルフィアを見る。
「何だ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「薬の量とか、詳しいんだな」
「最低限だ」
「子供の症状まで聞いてたぞ」
「必要だから聞いた」
「そうか」
バンはそれ以上、何も言わなかった。
からかいも。
笑いもない。
アルフィアは少しだけ眉を寄せる。
「気味が悪いな」
「何が?」
「お前が黙っている」
「黙れっていつも言うだろ」
「今は喋れ」
「難しい奴だな」
ザルドが地図を畳む。
「明日は早い。準備をするぞ」
薬箱。
水。
食料。
傷ついた神器。
名もない結晶。
三人が運ぶものに、新たな荷が加わった。
それは小さく。
戦いに使う武器でもなければ。
高価な宝でもない。
だが。
ラキアの辺境で、薬を待つ者たちにとっては。
何よりも重い箱だった。
今回は、クレシューズと名もない結晶の反応を慎重に確かめ、三者の間に何らかの繋がりがある可能性が見えた回でした。
特に、薬箱を前にしたアルフィアが自然に服用量や症状を確認し、迷わず村へ届けると決める場面がお気に入りです。