強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第4話です。
赤い旅人の続きになります。


第4話 川魚と濁り酒

ミーネ村を出てから、二日が過ぎた。

 

バンは街道を歩いていた。

 

肩には小さな布袋。

中には、村人たちが持たせてくれた硬いパン、干し肉、塩の袋。

懐には、ロッソからもらった古い地図。

 

そして、相変わらず聖棍クレシューズはない。

 

「……やっぱ不便だな」

 

バンはそうぼやきながら、道端の枝を拾った。

 

長さは足りない。

重さも軽い。

しなりも悪い。

 

武器として使えなくはないが、あくまで棒切れだ。

 

クレシューズとは比べものにならない。

 

「どこ行きやがったんだ、あいつ」

 

呟きながら、枝を肩に担ぐ。

 

空は高い。

 

草原の道は、やがて細い林へ入り、林を抜けると川沿いへ出た。

 

水音が聞こえる。

 

きれいな川だった。

 

浅瀬には小魚が走り、少し深い場所では銀色の影が跳ねている。

川辺には水車小屋らしき建物があり、その向こうには小さな町が見えた。

 

木造の家々。

煙突から上がる煙。

川にかかった低い橋。

橋のそばには、魚を干すための木枠が並んでいる。

 

バンは鼻を鳴らした。

 

魚の匂い。

焼けた皮の匂い。

それから、少し酸味のある酒の匂い。

 

「いい町じゃねぇか」

 

地図によれば、そこはリーヴァという町だった。

 

大きな町ではない。

だが、川沿いの交易路にあり、旅人や行商人が足を止める場所らしい。

 

バンは町へ入る前に、川辺で顔を洗った。

 

冷たい水が肌を打つ。

 

水面に映る自分を見る。

 

赤いロングコートは、転移時の土と、旅の埃で少し汚れている。

スタッズ付きの赤いレザーパンツも、森を抜けたせいで細かい傷が増えた。

太い茶革のベルトと銀のバックルだけは、まだそれなりに形を保っている。

 

顔色は悪くない。

 

ただ、身体の奥にわずかな違和感は残っている。

 

混沌の裂け目を抜けた時から続く、魔力のズレ。

 

強奪《スナッチ》の感覚は、少しずつ慣れてきてはいる。

地上の魔物相手なら、勢いの端を盗るくらいはできる。

相手の動きをずらすこともできる。

 

だが、元の世界にいた頃のようにはいかない。

 

力の芯に指が届く前に、何か薄い膜のようなものに邪魔される。

 

この世界の理。

 

神の恩恵。

魔石。

ダンジョン。

地上の魔物。

 

まだ分からないことは多い。

 

「ま、腹減ったら考えるか」

 

バンは顔を拭き、町へ向かった。

 

リーヴァの入口には、簡単な木柵と見張り台があった。

 

門番らしき男が、バンを見て少し目を細める。

 

「旅人か?」

 

「ああ」

 

「どこから?」

 

「東の方」

 

「目的は?」

 

「飯と酒」

 

門番は数秒、無言でバンを見た。

 

それから、肩の力を抜いた。

 

「分かりやすいな」

 

「よく言われる」

 

「武器は?」

 

「今はこれ」

 

バンは肩の枝を見せた。

 

門番はさらに微妙な顔をした。

 

「枝だな」

 

「枝だ」

 

「それで旅をしているのか?」

 

「大事な棒が迷子でな」

 

「……そうか」

 

門番は深く聞かないことにしたらしい。

 

「町で騒ぎを起こすなよ」

 

「飯と酒がまずくなる騒ぎは嫌いだ」

 

「ならいい」

 

バンは町へ入った。

 

リーヴァは、川の匂いがする町だった。

 

魚を焼く煙。

濡れた木材。

水車の回る音。

川辺で網を直す男たち。

桶を運ぶ女たち。

走り回る子どもたち。

 

オラリオのような大都市ではない。

だが、人の暮らしの匂いが濃い。

 

バンはまず、酒場を探した。

 

探すまでもなかった。

 

橋の近くに、木の看板が揺れている。

 

看板には、魚と杯の絵。

 

「分かりやすくていいな」

 

扉を開ける。

 

中は昼前だというのに、そこそこ賑わっていた。

 

漁師。

水車小屋の職人。

荷運び。

旅人。

行商人。

 

粗い木の卓に、焼き魚と黒っぽいタレの匂い。

酸味のある酒。

薄い麦酒。

川魚の煮込み。

 

バンは空いている席に座った。

 

店主らしい太った男が声をかける。

 

「何にする?」

 

「うまい飯と酒」

 

「雑だな」

 

「おすすめでいい」

 

「なら、リーヴァ大鱒の黒だれ焼きと濁り酒だ」

 

「それで」

 

しばらくして、皿が出てきた。

 

川魚を開き、炭火で皮を強く焼いたもの。

上には黒っぽいタレが塗られている。

焦げた醤油にも似ているが、もっと甘みが強く、川魚の脂と合っていた。

 

隣には、粗く潰した豆と麦の粥。

それから、木の杯に注がれた濁り酒。

 

バンはまず酒を飲んだ。

 

濁っている。

酸味がある。

少しぬるい。

だが、喉を通った後に米とも麦ともつかない甘みが残る。

 

「悪くねぇ」

 

次に魚を食べる。

 

皮はぱりっと焼けている。

身は柔らかい。

黒だれの甘辛さと、川魚の少し泥臭い脂がよく合っていた。

 

バンの目が少し細くなる。

 

「……いいな、これ」

 

店主がにやりと笑う。

 

「うちの名物だ」

 

「タレがいい。魚の臭みを殺しすぎてねぇ」

 

「分かるのか」

 

「魚が死んでんのに、味まで殺したらもったいねぇだろ」

 

店主は一瞬きょとんとした後、豪快に笑った。

 

「変な褒め方だな!」

 

「褒めてるぞ」

 

「ならよし!」

 

バンは魚を食べ、濁り酒を飲む。

 

旅の途中で食う飯としては、かなり当たりだった。

 

村の素朴な粥も悪くなかったが、町の飯には町の工夫がある。

 

川魚の泥臭さをどう旨味に変えるか。

保存しやすいタレをどう作るか。

安い酒をどう飲ませるか。

 

それは、それぞれの土地で生きる人間が積み重ねた技術だ。

 

バンはそういうものが嫌いではない。

 

食べ終わる頃、酒場の扉が勢いよく開いた。

 

「店主!また出た!」

 

若い男が飛び込んできた。

 

息を切らし、顔は青い。

 

店内の空気が変わる。

 

店主が眉をひそめた。

 

「どこだ」

 

「下流の水門だ!マッドサーペントが網を破った!子どもが一人、川辺に残ってる!」

 

酒場の客たちが一斉に立ち上がる。

 

バンは杯を口に運んだまま、目だけを動かした。

 

「マッドサーペント?」

 

近くの漁師が答える。

 

「泥蛇だ。川に出る地上魔物だよ。普段は沼地にいるが、最近水門のあたりに出る。魔石はねぇが、皮が硬いし、噛まれると傷が腐る」

 

「食えるのか?」

 

漁師はバンを見た。

 

「……そこか?」

 

「大事だろ」

 

「身は臭くて食えたもんじゃねぇ。肝は薬になるが、扱いを間違えると腹を壊す」

 

「面倒な蛇だな」

 

店主が壁にかけていた銛を取った。

 

「行くぞ!」

 

漁師たちが動く。

 

だが、焦りがある。

 

マッドサーペントは強敵というより、厄介な魔物らしい。

水中に潜り、泥に隠れ、噛みついた後に逃げる。

皮が硬く、普通の刃が通りにくい。

 

バンは皿を見た。

 

魚は食い終わっている。

酒は少し残っている。

 

それを飲み干す。

 

「飯の後に騒がしいな」

 

立ち上がる。

 

店主が振り返った。

 

「あんたも来るのか?」

 

「濁り酒、もう一杯飲むつもりだったんだよ」

 

「それが理由か」

 

「飲みかけの酒をまずくされんのは嫌いでな」

 

バンは肩の枝を持ち、外へ出た。

 

下流の水門には、すでに人が集まっていた。

 

水車へ送る水量を調整するための木組み。

そこに、破れた網が絡まっている。

 

川の水は濁っていた。

 

泥が巻き上がり、底が見えない。

 

岸辺では女が泣いていた。

 

「ミーナ!動くんじゃないよ!」

 

水門の近く、細い木の足場に、小さな少女が取り残されている。

 

足場の板が壊れかけている。

下には濁った川。

 

そして、その川面に、ぬるりと長い影が動いた。

 

マッドサーペント。

 

体長は六、七メートルほど。

太い泥色の蛇。

背には石のような硬い鱗が並び、頭部は平たく、目は小さい。

口元からは黒い涎が垂れていた。

 

魔力はある。

 

だが、村で聞いた「魔石を持つダンジョンの魔物」とは、どうも性質が違うように感じられた。

地上の川と泥に馴染んだ、湿った魔物の気配だった。

 

バンは目を細める。

 

「こいつも体が残るやつか」

 

漁師たちが銛を構える。

 

「引きつけろ!」

 

「足場に近づけるな!」

 

「ミーナ、動くな!」

 

マッドサーペントが水を割った。

 

銛が飛ぶ。

 

一本は鱗に弾かれた。

もう一本は浅く刺さったが、深くは入らない。

 

蛇が暴れ、水が跳ねる。

 

足場が大きく揺れた。

 

少女が悲鳴を上げる。

 

バンは舌打ちした。

 

「飯がまずくなる声だな」

 

走る。

 

足場へ向かって。

 

漁師が叫ぶ。

 

「おい!そこは危ねぇ!」

 

「だろうな」

 

バンは壊れかけの板を踏み、少女の元へ近づく。

 

板が軋む。

 

下では蛇が大口を開けていた。

 

マッドサーペントが跳び上がる。

 

水中から、泥と水をまとって一気に噛みついてきた。

 

バンは少女の襟を掴み、後ろへ投げる。

 

「きゃっ!」

 

少女は岸辺の漁師たちの方へ飛ばされ、受け止められた。

 

同時に、蛇の顎がバンへ迫る。

 

バンは右手を伸ばした。

 

噛みつきの勢い。

 

水中から跳び上がる力。

 

泥を巻き上げる流れ。

 

その端を、盗る。

 

「強奪《スナッチ》」

 

だが、重い。

 

水を含んだ魔物の力は、昨日までの黒背狼とは違った。

肉体の勢いだけではない。

川の流れ、泥の抵抗、水面の跳ね返りまで絡んでいる。

 

バンの指先に、ぬるりとした抵抗がまとわりつく。

 

「……っ、やっぱ面倒くせぇな、この世界」

 

完全には止められない。

 

だが、わずかにずらせた。

 

マッドサーペントの牙は、バンの肩をかすめるだけで外れる。

 

赤いロングコートが裂けた。

 

肩から血がにじむ。

 

不死身なら気にも留めなかった傷。

 

だが、今は違う。

 

痛みが走る。

 

バンは顔をしかめた。

 

「おい、服まで噛むなよ」

 

蛇は水面へ落ちる。

 

バンも足場の上で体勢を崩した。

 

板が割れる。

 

その瞬間、バンは折れた板を蹴り、岸へ飛ぶ。

 

着地。

 

肩の血を指で拭う。

 

漁師たちが驚愕の目で見る。

 

「あんた、今何をした!?」

 

「ちょっと盗っただけだ」

 

「何を!?」

 

「勢い」

 

「意味が分からん!」

 

「俺も説明が面倒だ」

 

マッドサーペントが再び水中を動く。

 

水門の下へ潜り、姿を消した。

 

バンは川面を見た。

 

気配はある。

 

だが、水と泥が混じって読みにくい。

 

ゼロサインで自分の気配を消して誘うか。

それとも、力の流れを奪って浮かせるか。

 

バンは肩を回す。

 

まだ傷は浅い。

 

なら問題ない。

 

店主が銛を渡そうとする。

 

「使え!」

 

バンはそれを見て、首を横に振った。

 

「長さが足りねぇ」

 

「枝よりはマシだろ!」

 

「俺の棒じゃねぇからな」

 

そう言いながら、バンは自分の枝を見た。

 

やはり軽い。

 

だが、ないよりはいい。

 

バンは川辺へ歩く。

 

水面が静かになった。

 

周囲の誰もが息を潜める。

 

バンは目を閉じた。

 

音を聞く。

 

水の流れ。

泥の動き。

蛇の鱗が水草を擦る音。

その奥にある、わずかな魔力の流れ。

 

この世界の魔力は盗りづらい。

 

だが、二日分よりは分かる。

 

地上の魔物。

肉体が残り、魔石を持たないことが多い存在。

なら、狙うべきは見たこともない核ではない。

 

血の流れ。

 

筋肉の収縮。

 

心臓。

 

確実にそこにある肉体の動きだ。

 

「そこか」

 

バンは目を開けた。

 

マッドサーペントが、真下から跳んだ。

 

水柱が上がる。

 

大口が開く。

 

漁師たちの悲鳴。

 

バンは一歩も退かなかった。

 

右手を伸ばす。

 

今度は、噛みつきの勢いではない。

 

蛇の身体が水中で作った回転。

泥を蹴り、尾で水を叩き、頭部へ力を集める流れ。

 

その一番端。

 

尾の動きに乗っていた力を、盗る。

 

「身体狩り《フィジカルハント》」

 

奪えたのは少しだけ。

 

だが、尾の一振りが鈍った。

 

頭部へ集まる力が乱れる。

 

マッドサーペントの身体が、空中でわずかに横へ傾いた。

 

そこへ、バンの枝が入った。

 

枝はただの枝だ。

 

だが、狙いは鱗ではない。

 

鱗と鱗の隙間。

 

喉元の柔らかい場所。

 

バンは枝を突き込み、全身の力で押し込んだ。

 

鈍い音。

 

枝が折れる。

 

だが、その前に蛇の喉が潰れた。

 

マッドサーペントが水面へ落ち、暴れる。

 

バンは飛び退き、落ちていた銛を拾った。

 

「借りるぞ」

 

店主が叫ぶ。

 

「使え!」

 

蛇が最後の力で頭を上げる。

 

バンは銛を逆手に持ち、踏み込んだ。

 

喉を潰され、力の流れを乱された蛇は、もう先ほどほど速くない。

 

銛が目の下へ入り、頭蓋を貫いた。

 

蛇の身体が大きく痙攣する。

 

そして、動かなくなった。

 

川の水が赤く濁る。

 

少しずつ、流れていく。

 

マッドサーペントの体は、灰にならなかった。

 

泥色の長い身体が、そのまま川辺に横たわっている。

 

村人たちが歓声を上げた。

 

「倒した!」

 

「ミーナも無事だ!」

 

「赤い兄ちゃんがやったぞ!」

 

バンは肩の傷を押さえながら、川辺へ上がった。

 

少女が母親に抱きしめられて泣いている。

 

泣き声だ。

 

だが、さっきより悪くない。

 

助かった後の泣き声は、飯をまずくしない。

 

バンはそう思った。

 

店主が駆け寄る。

 

「おい、肩!」

 

「かすっただけだ」

 

「血が出てるぞ!」

 

「出るだろ。噛まれたんだから」

 

「普通はもっと慌てるんだよ!」

 

バンは肩を見た。

 

傷は浅い。

ただ、牙に毒か汚れがあったのか、少し熱を持っている。

 

マッドサーペントの噛み傷は腐る。

 

さっき漁師がそう言っていた。

 

バンは舌打ちする。

 

「面倒な蛇だな」

 

店主が薬師を呼ぶ。

 

その間に、バンは自分の生命力をほんの少し肩へ寄せた。

 

贈物《ギフト》とは少し違う。

 

他者へ渡すのではなく、自分の身体の内側で、傷口から命がこぼれすぎないように流れを整える。

 

不死身だった頃の再生ではない。

 

傷は塞がらない。

痛みも消えない。

 

ただ、毒が回りすぎないよう、身体を支える。

 

「……便利じゃねぇな」

 

バンはぼやく。

 

便利ではない。

だが、ないよりはましだ。

 

薬師が来て、傷を洗い、苦い匂いの薬草を貼った。

 

「しばらく無茶をするな」

 

「無理だな」

 

「即答するな」

 

薬師は怒った。

 

店主は大笑いした。

 

その後、マッドサーペントは町の者たちによって引き上げられた。

 

皮は硬く、防具や水除けの革に使える。

牙は針や細工物になる。

肝は薬になるが、扱いが難しい。

肉は臭く、普通は食べない。

 

バンはその説明を聞いて、少し残念そうにした。

 

「食えねぇのか」

 

「食う気だったのか?」

 

漁師が本気で引いていた。

 

「蛇だろ」

 

「泥蛇だぞ」

 

「処理すりゃいけるかもしれねぇ」

 

「やめとけ。腹を壊す」

 

「腹壊す飯は飯じゃねぇな」

 

「そこは分かるんだな」

 

結局、肉は食用にはされず、薬師と革職人が必要な部位を取ることになった。

 

バンは少し不満そうだったが、代わりに店主が言った。

 

「今夜の飯と酒は、うちが出す」

 

「本当か」

 

「町を助けた礼だ」

 

「いい町だな」

 

「さっきも聞いたぞ、その言葉」

 

「飯と酒が出る町はいい町だ」

 

夕方、リーヴァの酒場は昼よりも賑わっていた。

 

水門の魔物が倒された話は、あっという間に町中へ広がったらしい。

 

バンが席に着くと、次々に皿が運ばれてきた。

 

リーヴァ大鱒の黒だれ焼き。

小魚の唐揚げ。

川海老の塩焼き。

豆と干し肉の煮込み。

硬いパン。

そして、濁り酒。

 

店主は大きな杯を置いた。

 

「飲め」

 

「いいのか?」

 

「今日は町のおごりだ」

 

「最高だな」

 

バンは杯を持ち上げた。

 

周囲の客たちも杯を上げる。

 

「赤い旅人に!」

 

「マッドサーペント退治に!」

 

「ミーナが無事でよかった!」

 

バンは少しだけ面倒そうにした。

 

英雄扱いされるのは好きではない。

 

だが、酒が出るなら悪くない。

 

杯を鳴らし、濁り酒を飲む。

 

酸味。

甘み。

少し粗い喉越し。

 

昼よりもうまい気がした。

 

たぶん、飯がうまくなる空気だった。

 

ミーナと呼ばれていた少女が、母親に連れられて近づいてきた。

 

小さな手に、焼き魚の皿を持っている。

 

「あの……ありがとう」

 

声はまだ震えていた。

 

バンは皿を受け取る。

 

「おう」

 

「これ、私が焼きました」

 

「焦げてんな」

 

少女の顔が固まる。

 

母親が慌てる。

 

だが、バンはその焦げた魚をかじった。

 

「でも、悪くねぇ」

 

少女の顔がぱっと明るくなる。

 

「本当?」

 

「焦げは苦いが、皮はぱりっとしてる。次はもうちょい火から離せ」

 

「うん!」

 

少女は笑って走っていった。

 

店主が呆れたように笑う。

 

「あんた、褒めるの下手だな」

 

「褒めただろ」

 

「下手なんだよ」

 

「うるせぇな」

 

バンは魚を食べた。

 

少し焦げている。

だが、悪くない。

 

笑い声を聞きながら食う飯は、うまい。

 

泣き声が笑い声に変わった後の飯は、もっといい。

 

夜が更けるにつれ、酒場の話題は自然とオラリオへ向いた。

 

行商人が言う。

 

「赤い兄ちゃん、オラリオへ行くんだろ?」

 

「ああ」

 

「なら、この川沿いを進んで、街道へ戻るといい。途中に小さな宿場がある。そこから先は、旅人も増える」

 

「オラリオには酒場が多いんだろ」

 

「多いなんてもんじゃない。神様の眷族も、冒険者も、商人も、鍛冶師も集まる。飯屋も酒場も山ほどある」

 

「いいな」

 

「ただし、面倒も山ほどある」

 

「飯がうまけりゃ我慢する」

 

「そこか」

 

別の客が話に入る。

 

「オラリオに行くなら、ギルドには顔を出した方がいい。冒険者になるなら登録がいる」

 

「ならねぇよ」

 

「ならんのか?」

 

「俺は旅人だ」

 

「ステイタスなしで魔物を倒す旅人なんて聞いたことねぇぞ」

 

「今聞いただろ」

 

客たちは笑った。

 

だが、その目には少しだけ畏れもあった。

 

ステイタスなし。

 

ファミリアなし。

 

それなのに、マッドサーペントを倒した赤い男。

 

彼らにとって、バンは分かりやすい英雄ではなく、よく分からない何かだった。

 

バンはその視線を気にしない。

 

ただ、杯を空にして言う。

 

「もう一杯」

 

店主が笑って注ぐ。

 

「飲みすぎるなよ」

 

「このくらい水だろ」

 

「濁り酒だ」

 

「じゃあ濁った水だな」

 

「酒造りに謝れ」

 

そんなやり取りに、また笑い声が起こった。

 

深夜。

 

バンは酒場の二階にある簡素な部屋で横になった。

 

肩の傷はまだ熱を持っている。

薬草の匂いが鼻につく。

 

不死身ではない。

 

その事実を、こういう小さな傷が思い出させる。

 

だが、悪い気分ではなかった。

 

痛みがあるから、飯が染みる。

傷があるから、酒がうまい。

死ぬかもしれない身体だから、助かった奴の笑い声が少しだけ重くなる。

 

バンは天井を見上げる。

 

この世界の魔物は面倒だ。

 

地上の魔物は肉体が残る。

ダンジョン産は魔石を持つ。

食えるものもあれば、食えないものもある。

魔力の流れは盗りづらく、力の芯に触れるには慣れがいる。

 

だが、少しずつ分かってきた。

 

勢いの端。

尾の流れ。

水と泥に混じる力。

この世界の魔物にも、奪える流れはある。

 

「慣れりゃ、もうちょい盗れそうだな」

 

バンは右手を開き、閉じた。

 

クレシューズはまだない。

 

神様にはまだ会っていない。

 

オラリオもまだ遠い。

 

だが、飯はうまかった。

酒も悪くなかった。

泣いていた子どもは笑っていた。

 

なら、今日も悪い日ではない。

 

「川魚と濁り酒、ねぇ」

 

バンは小さく笑った。

 

「この世界、案外悪くねぇな」

 

窓の外では、川の音が静かに続いていた。




第4話でした。
修正版では、リーヴァの町で地上魔物マッドサーペントを登場させ、地上魔物は肉体が残り、皮・牙・肝などが素材として利用される形に整理しました。

また、バンの《強奪(スナッチ)》が少しずつこの世界の魔物の流れに慣れていく一方、不死身ではないため傷や毒の影響を受けることも描写しました。

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