今回は、リオードを出て砂栗船で砂漠へ向かう旅の回です。
砂漠の飯、砂漠の魔物、砂漠の掟、そして黒い砂嵐の噂が少しずつ近づいてきます。
砂漠の朝は、思ったより冷たかった。
リオードの空はまだ薄暗く、東の端だけが白くにじんでいる。昼の熱を溜め込んでいたはずの石畳は冷え、吐く息にほんの少しだけ白さが混じった。
バンは肩に聖棍クレシューズを担ぎ、砂の港へ向かって歩いていた。
昨日まで迷子になっていた相棒の重みが、肩にある。
それだけで、足取りは軽かった。
「戻ったばっかで悪いが、働いてもらうぜ」
クレシューズは何も答えない。
だが、手の中の感触はいつも通りだった。
砂の港には、すでに何隻もの砂栗船が並んでいた。
船、と呼ぶには奇妙な形をしている。
底は平たく、左右に大きな砂蹴り板がついている。帆は普通の帆船より低く、厚い布を幾重にも重ねたような作りだ。船腹には魔石を埋め込んだ金属の輪があり、砂を噛むための骨組みがぎしぎしと音を立てていた。
水の上ではなく、砂の上を走る船。
バンはその船体を眺め、口の端を上げた。
「変な船だな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
声をかけてきたのは、日に焼けた大柄な男だった。
黒い髭を短く整え、頭に布を巻いている。腕は太く、背中は広い。目つきは鋭いが、笑うと豪快だった。
「俺はガラム。この砂栗船《砂走りの栗鼠号》の船長だ」
「栗鼠?」
「砂の上を走るには、でかい獣より小回りの利く栗鼠の方がいいんだよ」
「食ったことはねぇな」
「船の名前を食うな」
ガラムは笑い、バンの肩にあるクレシューズを見た。
「そいつが噂の妙な棍か」
「ああ。迷子が戻った」
「武器に迷子も何もあるかよ」
「あるんだよ」
バンがそう言うと、ガラムは深く聞かなかった。
砂漠の船乗りは、旅人の事情を根掘り葉掘り聞かない。聞いたところで水は増えず、砂嵐は止まらないからだ。
船の周りでは、若い船員たちが荷を積んでいた。
水袋、干し肉、豆の袋、香辛料、布、修理用の木材、魔石灯、縄、そしてリオードで仕入れた酒樽。
そのうちの一人が、大きな袋を抱えてよろめいた。
「おっとと!」
「足元見ろ、ニロ!」
ガラムが怒鳴る。
ニロと呼ばれた若い船員は、慌てて袋を抱え直した。まだ少年と言ってもいい年頃だ。日に焼けてはいるが、目の奥に砂漠慣れしていない明るさが残っている。
「す、すみません船長!」
バンはその袋を片手で持ち上げ、荷台へ放った。
「重てぇな。豆か」
「え、片手で……?」
ニロが目を丸くする。
「豆は腹に溜まるからな。悪くねぇ」
「いや、そこじゃなくて」
「ニロ、驚く暇があったら積め!」
「はい!」
船の横には、もう一人、目立つ男が立っていた。
褐色の肌に、白い外套。腰には湾曲した剣を下げている。目は細く、笑っていない。護衛らしい。
「ラシードだ。サバハの出だ」
男は短く名乗った。
「バンだ」
「赤い旅人の噂は聞いた。リーヴァで川蛇を引きずり出したとか」
「魚の邪魔だったからな」
「理由がそれか」
「大事だろ」
ラシードは少しだけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。
やがてラドも荷をまとめてやってきた。
商人らしく、日除け布を何枚も重ね、革袋を大事そうに抱えている。
「バンさん、水袋は持ちましたか?」
「酒なら持った」
「水です」
「酒じゃ駄目か」
「駄目です。砂漠では水の方が命です」
「つまんねぇな」
ガラムが船の縁を叩いた。
「乗る前に言っておく。砂漠には三つの鉄則がある」
船員たちも、商人たちも、少しだけ黙った。
ガラムの声が、朝の港に低く響く。
「一つ。水は命より重い。こぼすな、盗むな、軽く見るな」
ニロが真面目な顔で頷く。
「二つ。動く光には近づくな。砂漠の夜に揺れる灯りを見ても、追うな。魔物か、蜃気楼か、死んだ商隊の残り火だ」
ラドが喉を鳴らした。
「三つ。黒い風を見たら、祈る前に逃げろ」
その言葉だけ、空気が少し重くなった。
バンはガラムを見る。
「黒い風?」
「黒い砂嵐だ。普通の砂嵐じゃない。飲まれた船は戻らねぇ。水は腐り、魔石灯は鈍り、砂が黒く染まる」
「その先に砂葡萄酒があるんだろ」
「噂じゃな」
「なら、まあ行くしかねぇな」
ガラムはしばらくバンを見ていた。
そして、豪快に笑った。
「気に入った。死にたがりじゃなくて、酒飲みの馬鹿か」
「馬鹿は余計だ」
「酒飲みは否定しねぇのか」
「事実だからな」
砂栗船は、朝日が顔を出すころに出発した。
船底が砂を噛む。
魔石機構が低く唸り、砂蹴り板が左右に開く。帆が熱い風を受け、船体が一度大きく軋んだ。
次の瞬間、船は砂の上を滑り出した。
水面を行く船とは違う。
波はない。だが、砂の起伏が船体を揺らす。細かい粒が船腹を叩き、帆が乾いた音を立てる。砂丘を越えるたびに、身体がふわりと浮く。
バンは船首近くに座り、流れていく砂漠を眺めた。
「悪くねぇな」
どこまでも砂。
金色の海。
遠くの砂丘は、朝日を受けて赤く光っている。
風は乾いていた。
喉がすぐに渇く。唇が割れそうになる。目の端に砂が入る。
だが、空は広い。
地平線も広い。
世界が余計なものを全部削ぎ落としたような景色だった。
昼が近づくにつれ、暑さは急激に増した。
リオードの朝の冷たさが嘘のように、砂が熱を吐き始める。船の木材まで熱くなり、布の影に入っていても汗が出る。水袋の水はぬるい。空気は乾いているのに、身体の内側から水が抜けていくようだった。
バンは水を一口飲み、顔をしかめた。
「ぬるい」
「文句を言うな。水は命より重い」
ラシードが言う。
「酒は?」
「もっと重い場合もある」
「分かってんじゃねぇか」
「だが昼には飲むな。倒れるぞ」
「倒れねぇよ」
「倒れなくても喉が焼ける。砂漠で酒に頼る者は、砂になる」
バンは少しだけ肩をすくめた。
砂漠には砂漠の理屈がある。飯と酒にも、その土地の飲み方がある。そこは無視しすぎると飯が不味くなる。
昼過ぎ、船は小さな岩陰で止まった。
休憩だ。
船員たちは手際よく日除け布を張り、水袋を確認し、簡単な食事の準備を始めた。
鍋に入るのは、乾燥肉、豆、刻んだ根菜、赤い香辛料。水は少ない。煮るというより、少ない水分で蒸し煮にするような作り方だった。
バンは横から覗き込む。
「辛そうだな」
「汗を出して、身体を慣らすんだ」
ニロが得意げに言った。
「汗出したら水が減るだろ」
「えっと……船長がそう言ってました」
「分かってねぇじゃねぇか」
ガラムが笑った。
「少しの辛みは食欲を落とさねぇ。塩も取れる。豆で腹も膨れる。砂漠飯ってのは、うまいだけじゃなくて動くための飯だ」
「いいじゃねぇか」
バンは自分の香辛料の袋を取り出した。
「これ、足していいか」
「何だ?」
「昨日、酒場の女にもらった」
ガラムが匂いを嗅ぐ。
「悪くねぇ。少しだけだぞ」
「少しな」
バンは本当に少しだけ加えた。
香りが変わる。赤い辛みの奥に、焦げた黒だれのような深みと、干した草の香りが加わった。
ラシードが鍋を見て言う。
「リオードの香辛料に、リーヴァの癖が混じっているな」
「分かるのか」
「サバハには、もっと強い香辛料がある。舌が鈍いと砂漠では飯を楽しめん」
「いいこと言うじゃねぇか」
薄焼きパンに、豆と乾燥肉の煮込みを乗せて食べる。
肉は硬い。豆は柔らかい。香辛料は強いが、嫌な強さではない。噛むほどに塩気と脂が出て、パンの粉っぽさがそれを受け止める。
バンは頷いた。
「悪くねぇ」
ニロが嬉しそうに笑う。
「砂漠飯、いけますか?」
「ああ。水がもっと冷えてりゃな」
「それは無理です」
「なら夜の酒に期待だな」
ラドがため息をつく。
「結局、酒ですか」
「飯の次にな」
休憩のあと、砂栗船は再び走り出した。
午後の砂漠は、朝よりずっと厳しかった。
空気が揺れる。
遠くに水面のようなものが見えるが、近づくと消える。砂丘は同じ形に見えて、少しずつ違う。風向きが変わるたび、足跡も船跡もすぐに消えていく。
バンは船首に座り、目を細めていた。
ふと、砂の動きが変わった。
船の右手。砂丘の斜面に、小さな波紋が走る。
風ではない。
砂の下で何かが動いている。
「ガラム」
「ああ、見えてる」
船長の声が低くなる。
「サンドスキッパーだ!」
船員たちが一斉に動いた。
砂の下から飛び出したのは、巨大な魚のような魔物だった。
だが魚ではない。扁平な頭、細長い胴、背中に硬い棘。腹側には砂を蹴るための無数の小さな脚があり、砂面を跳ねるように滑ってくる。
一匹ではない。
三匹。
いや、五匹。
砂を切り裂きながら、砂栗船へ向かってくる。
「船底を狙ってくる! 砂蹴り板を守れ!」
ガラムが怒鳴った。
ニロが魔石機構の調整に走る。ラシードは腰の湾曲剣を抜いた。刃が陽光を受けて赤く光る。
「灼刃シャムシール」
ラシードが呟き、剣を振るう。
刃から熱が走り、近づいてきた一匹の背を裂いた。砂の魔物が跳ね、灰になって崩れる。魔石が砂の上に転がった。
バンはそれを見て言った。
「やっぱ肉は残らねぇか」
「今はそこではない!」
ラドが叫ぶ。
サンドスキッパーの一匹が、船底へ潜った。
船が大きく跳ねる。砂蹴り板に衝撃。木が軋み、ニロが転びかける。
バンは立ち上がった。
「クレシューズ、仕事だ」
聖棍クレシューズが、バンの手でしなる。
バンは船縁を蹴った。
赤い影が砂漠へ飛ぶ。
「バンさん!?」
ラドの悲鳴が背後で響く。
バンは砂の上へ着地した。
足が沈む。普通なら動きづらい。だがバンはそのまま走った。砂を蹴り、沈む前に次の一歩を出す。
サンドスキッパーが砂中から飛び出す。
バンはクレシューズを振るった。
四節の棍がしなり、空中で弧を描く。先端が魔物の横面を叩いた。硬い外殻が砕け、魔物が砂丘へ吹き飛ぶ。
「硬ぇな。骨せんべいにもならねぇか」
別の一匹が背後から跳ぶ。
バンは振り向かず、クレシューズを背中側へ回した。棍が蛇のように曲がり、魔物の首元に絡む。
「よっと」
引く。
魔物の軌道が変わり、そのまま別のサンドスキッパーに衝突した。二匹が砂の上で絡まり、跳ねる。
ラシードが船上から灼刃を振るい、片方を焼き切った。
「合わせるぞ、赤い旅人!」
「勝手に合わせろ!」
バンは笑いながら走る。
サンドスキッパーは砂の中を泳ぐ。
なら、砂に潜る前を叩く。跳ねた瞬間を絡める。船を狙う勢いを奪い、別の方向へ流す。
バンは一匹の突進に手を伸ばした。
「ちょいと借りるぜ」
強奪《スナッチ》。
魔物の突進の勢いが、一瞬だけ抜ける。
砂を蹴る脚の力が鈍り、体勢が崩れた。
そこへクレシューズの一撃。
頭が砕け、魔物が灰になる。
砂の上に魔石だけが残った。
バンはそれを拾う。
「酒代」
ラシードが呆れたように言う。
「戦闘中に拾うな」
「あとで探すの面倒だろ」
最後の一匹が船の前方へ回り込んだ。
船底を正面から狙っている。ガラムが舵を切るが、砂丘の斜面で動きが鈍い。
「ニロ、砂蹴り機構を上げろ!」
「今やってます!」
船が大きく傾く。
バンは砂丘を駆け上がり、上から跳んだ。
クレシューズを長くしならせる。四節の棍が一本の鞭のように伸び、サンドスキッパーの胴へ巻きついた。
「逃がすかよ」
バンは空中で体を捻り、そのまま魔物を引きずり上げる。
砂の中から長い胴体が抜け、宙へ舞った。
ガラムが叫ぶ。
「ラシード!」
「分かっている!」
灼刃シャムシールが赤く走った。
宙に浮いたサンドスキッパーが、真っ二つになる。
灰が風に散り、魔石が船の甲板へ落ちた。
静寂。
砂漠に、船体の軋む音だけが残る。
バンは砂の上に着地し、肩にクレシューズを担いだ。
「やっぱ、こいつがあると楽だな」
船上のニロが、口を開けたまま固まっている。
「す、すごい……」
ガラムが大声で笑った。
「砂の上で船より速く動くやつなんざ初めて見たぞ!」
「沈む前に走りゃいい」
「普通は沈むんだよ!」
バンは魔石を拾いながら船へ戻った。
ラドが顔を青くしている。
「あなたという人は……」
「酒代が増えた」
「命も減りかねませんでした」
「まだ減ってねぇ」
「そういう問題ではありません」
ラシードは剣を収め、バンを見た。
「恩恵なし、だったな」
「ああ」
「それで今の動きか」
「変か?」
「かなりな」
「そうか」
バンは興味なさそうに答えた。
その後の航行は、しばらく静かだった。
夕方、砂漠の色が変わった。
昼の白い熱が引き、砂丘が赤く染まる。空は濃い橙から紫へ移り、遠くの地平線がゆっくり沈んでいく。
砂栗船は、低い岩場の陰に停泊した。
夜営だ。
船員たちは手際よく布を張り、火を小さく起こす。砂漠では火も目立ちすぎると危ないらしい。魔石灯は布で覆い、光を外へ漏らさない。
夕飯は、薄焼きパンの肉挟みと砂漠茶だった。
昼の残りの乾燥肉を香辛料で炒め、豆の煮込みを少し混ぜ、パンに挟む。茶は苦く、乾いた草の香りがした。口の中の脂を流すにはちょうどいい。
バンは一口食べ、頷く。
「昼よりうまいな」
「戦った後だからだろ」
ガラムが笑う。
「それもあるな」
ラシードは火のそばで、遠くの砂漠を見ていた。
バンは隣に座る。
「サバハってのは、どんなとこだ」
「砂の町だ。水は少ないが、酒と香辛料は悪くない。ローランへ向かう商人が必ず寄る」
「砂葡萄酒は?」
「サバハでも少しは手に入る。だが本物はローランだ」
「うまいのか」
「夜の砂漠で飲むと、喉の奥に月が落ちると言われている」
バンは少し黙った。
「詩人かよ」
「酒を語る時、砂漠の民は少し詩人になる」
「悪くねぇ」
ラシードの表情が少し暗くなる。
「だが、今はローランへの道が閉じている。黒い砂嵐が出た。戻らない商隊が増えた。サバハから先の集落も、いくつか音信が途絶えている」
「黒い風ってやつか」
「ああ。普通の砂嵐ではない。砂が黒くなる。水が濁る。魔石灯が弱る。風の中で、獣の唸りのような音がするとも言う」
火が小さく弾けた。
ガラムも、ニロも、ラドも、誰も軽口を挟まなかった。
砂漠を知る者ほど、その話を笑わない。
バンは砂漠の先を見た。
夜の砂丘は黒い。昼とは違う海のように、静かに広がっている。
その向こうに、黒い砂嵐がある。
そのさらに向こうに、砂葡萄酒がある。
分かりやすい。
「酒の道にしちゃ、ずいぶん物騒だ」
バンはそう言って、肉挟みをもう一口食べた。
ラシードが横目で見る。
「それでも行くのか」
「うまい酒があるんだろ」
「死ぬかもしれん」
「まだ飲んでねぇのに死ぬかよ」
ラシードは少しだけ笑った。
「サバハの者は、そういう馬鹿を嫌いではない」
「馬鹿は余計だ」
「酒飲みは否定しないのだろう?」
「事実だからな」
夜が深くなる。
遠くで何かの影が空を横切った。
サバトか、それとも別の魔物か。魔石灯は布の中で小さく光っている。
ニロが小声で言った。
「動く光、出ませんよね」
ガラムが答える。
「出ても見るな。追うな。呼ぶな」
ラドが水袋を抱きしめる。
「私は平和な商売が好きなのですがね」
「なら何で砂漠にいる」
バンが聞くと、ラドは苦笑した。
「砂漠の向こうに、売れるものと買えるものがあるからです」
「なら俺と同じだな」
「あなたは酒でしょう」
「お前は金だろ」
「否定できませんな」
小さな笑いが起きた。
砂漠の夜は冷える。
昼の熱が嘘のように消え、風が肌を刺す。バンはロングコートの襟を少しだけ立てた。
火のそばでは、豆の鍋が小さく温め直されている。
香辛料と肉の匂いが、冷たい夜風に混じる。
バンはクレシューズを膝の上に置き、空を見上げた。
星が多い。
元の世界と同じ星ではないのかもしれない。
だが、夜空は夜空だった。
腹は満ちている。
酒は少ない。
相棒は戻った。
進む先には、黒い砂嵐と、まだ飲んだことのない酒がある。
十分だった。
「悪くねぇ旅だ」
バンは小さく呟いた。
砂栗船は夜の砂漠に静かに停まり、明日の風を待っている。
その先に何があるのか、まだ誰も知らない。
ただ、砂の向こうで、黒い何かがゆっくりと息をしていた。
第6話は、砂栗船での砂漠旅の始まりでした。
砂漠三鉄則、サンドスキッパー戦、ラシードとの会話、そして黒い砂嵐の噂。
次回は、いよいよ黒い砂漠の入口へ近づいていきます。