赤い旅人の続きになります。
ミーネ村を出てから、二日が過ぎた。
バンは街道を歩いていた。
肩には小さな布袋。
中には、村人たちが持たせてくれた硬いパン、干し肉、塩の袋。
懐には、ロッソからもらった古い地図。
そして、相変わらず聖棍クレシューズはない。
「……やっぱ不便だな」
バンはそうぼやきながら、道端の枝を拾った。
長さは足りない。
重さも軽い。
しなりも悪い。
武器として使えなくはないが、あくまで棒切れだ。
クレシューズとは比べものにならない。
「どこ行きやがったんだ、あいつ」
呟きながら、枝を肩に担ぐ。
空は高い。
草原の道は、やがて細い林へ入り、林を抜けると川沿いへ出た。
水音が聞こえる。
きれいな川だった。
浅瀬には小魚が走り、少し深い場所では銀色の影が跳ねている。
川辺には水車小屋らしき建物があり、その向こうには小さな町が見えた。
木造の家々。
煙突から上がる煙。
川にかかった低い橋。
橋のそばには、魚を干すための木枠が並んでいる。
バンは鼻を鳴らした。
魚の匂い。
焼けた皮の匂い。
それから、少し酸味のある酒の匂い。
「いい町じゃねぇか」
地図によれば、そこはリーヴァという町だった。
大きな町ではない。
だが、川沿いの交易路にあり、旅人や行商人が足を止める場所らしい。
バンは町へ入る前に、川辺で顔を洗った。
冷たい水が肌を打つ。
水面に映る自分を見る。
赤いロングコートは、転移時の土と、旅の埃で少し汚れている。
スタッズ付きの赤いレザーパンツも、森を抜けたせいで細かい傷が増えた。
太い茶革のベルトと銀のバックルだけは、まだそれなりに形を保っている。
顔色は悪くない。
ただ、身体の奥にわずかな違和感は残っている。
混沌の裂け目を抜けた時から続く、魔力のズレ。
強奪《スナッチ》の感覚は、少しずつ慣れてきてはいる。
地上の魔物相手なら、勢いの端を盗るくらいはできる。
相手の動きをずらすこともできる。
だが、元の世界にいた頃のようにはいかない。
力の芯に指が届く前に、何か薄い膜のようなものに邪魔される。
この世界の理。
神の恩恵。
魔石。
ダンジョン。
地上の魔物。
まだ分からないことは多い。
「ま、腹減ったら考えるか」
バンは顔を拭き、町へ向かった。
リーヴァの入口には、簡単な木柵と見張り台があった。
門番らしき男が、バンを見て少し目を細める。
「旅人か?」
「ああ」
「どこから?」
「東の方」
「目的は?」
「飯と酒」
門番は数秒、無言でバンを見た。
それから、肩の力を抜いた。
「分かりやすいな」
「よく言われる」
「武器は?」
「今はこれ」
バンは肩の枝を見せた。
門番はさらに微妙な顔をした。
「枝だな」
「枝だ」
「それで旅をしているのか?」
「大事な棒が迷子でな」
「……そうか」
門番は深く聞かないことにしたらしい。
「町で騒ぎを起こすなよ」
「飯と酒がまずくなる騒ぎは嫌いだ」
「ならいい」
バンは町へ入った。
リーヴァは、川の匂いがする町だった。
魚を焼く煙。
濡れた木材。
水車の回る音。
川辺で網を直す男たち。
桶を運ぶ女たち。
走り回る子どもたち。
オラリオのような大都市ではない。
だが、人の暮らしの匂いが濃い。
バンはまず、酒場を探した。
探すまでもなかった。
橋の近くに、木の看板が揺れている。
看板には、魚と杯の絵。
「分かりやすくていいな」
扉を開ける。
中は昼前だというのに、そこそこ賑わっていた。
漁師。
水車小屋の職人。
荷運び。
旅人。
行商人。
粗い木の卓に、焼き魚と黒っぽいタレの匂い。
酸味のある酒。
薄い麦酒。
川魚の煮込み。
バンは空いている席に座った。
店主らしい太った男が声をかける。
「何にする?」
「うまい飯と酒」
「雑だな」
「おすすめでいい」
「なら、リーヴァ大鱒の黒だれ焼きと濁り酒だ」
「それで」
しばらくして、皿が出てきた。
川魚を開き、炭火で皮を強く焼いたもの。
上には黒っぽいタレが塗られている。
焦げた醤油にも似ているが、もっと甘みが強く、川魚の脂と合っていた。
隣には、粗く潰した豆と麦の粥。
それから、木の杯に注がれた濁り酒。
バンはまず酒を飲んだ。
濁っている。
酸味がある。
少しぬるい。
だが、喉を通った後に米とも麦ともつかない甘みが残る。
「悪くねぇ」
次に魚を食べる。
皮はぱりっと焼けている。
身は柔らかい。
黒だれの甘辛さと、川魚の少し泥臭い脂がよく合っていた。
バンの目が少し細くなる。
「……いいな、これ」
店主がにやりと笑う。
「うちの名物だ」
「タレがいい。魚の臭みを殺しすぎてねぇ」
「分かるのか」
「魚が死んでんのに、味まで殺したらもったいねぇだろ」
店主は一瞬きょとんとした後、豪快に笑った。
「変な褒め方だな!」
「褒めてるぞ」
「ならよし!」
バンは魚を食べ、濁り酒を飲む。
旅の途中で食う飯としては、かなり当たりだった。
村の素朴な粥も悪くなかったが、町の飯には町の工夫がある。
川魚の泥臭さをどう旨味に変えるか。
保存しやすいタレをどう作るか。
安い酒をどう飲ませるか。
それは、それぞれの土地で生きる人間が積み重ねた技術だ。
バンはそういうものが嫌いではない。
食べ終わる頃、酒場の扉が勢いよく開いた。
「店主!また出た!」
若い男が飛び込んできた。
息を切らし、顔は青い。
店内の空気が変わる。
店主が眉をひそめた。
「どこだ」
「下流の水門だ!マッドサーペントが網を破った!子どもが一人、川辺に残ってる!」
酒場の客たちが一斉に立ち上がる。
バンは杯を口に運んだまま、目だけを動かした。
「マッドサーペント?」
近くの漁師が答える。
「泥蛇だ。川に出る地上魔物だよ。普段は沼地にいるが、最近水門のあたりに出る。魔石はねぇが、皮が硬いし、噛まれると傷が腐る」
「食えるのか?」
漁師はバンを見た。
「……そこか?」
「大事だろ」
「身は臭くて食えたもんじゃねぇ。肝は薬になるが、扱いを間違えると腹を壊す」
「面倒な蛇だな」
店主が壁にかけていた銛を取った。
「行くぞ!」
漁師たちが動く。
だが、焦りがある。
マッドサーペントは強敵というより、厄介な魔物らしい。
水中に潜り、泥に隠れ、噛みついた後に逃げる。
皮が硬く、普通の刃が通りにくい。
バンは皿を見た。
魚は食い終わっている。
酒は少し残っている。
それを飲み干す。
「飯の後に騒がしいな」
立ち上がる。
店主が振り返った。
「あんたも来るのか?」
「濁り酒、もう一杯飲むつもりだったんだよ」
「それが理由か」
「飲みかけの酒をまずくされんのは嫌いでな」
バンは肩の枝を持ち、外へ出た。
下流の水門には、すでに人が集まっていた。
水車へ送る水量を調整するための木組み。
そこに、破れた網が絡まっている。
川の水は濁っていた。
泥が巻き上がり、底が見えない。
岸辺では女が泣いていた。
「ミーナ!動くんじゃないよ!」
水門の近く、細い木の足場に、小さな少女が取り残されている。
足場の板が壊れかけている。
下には濁った川。
そして、その川面に、ぬるりと長い影が動いた。
マッドサーペント。
体長は六、七メートルほど。
太い泥色の蛇。
背には石のような硬い鱗が並び、頭部は平たく、目は小さい。
口元からは黒い涎が垂れていた。
魔力はある。
だが、村で聞いた「魔石を持つダンジョンの魔物」とは、どうも性質が違うように感じられた。
地上の川と泥に馴染んだ、湿った魔物の気配だった。
バンは目を細める。
「こいつも体が残るやつか」
漁師たちが銛を構える。
「引きつけろ!」
「足場に近づけるな!」
「ミーナ、動くな!」
マッドサーペントが水を割った。
銛が飛ぶ。
一本は鱗に弾かれた。
もう一本は浅く刺さったが、深くは入らない。
蛇が暴れ、水が跳ねる。
足場が大きく揺れた。
少女が悲鳴を上げる。
バンは舌打ちした。
「飯がまずくなる声だな」
走る。
足場へ向かって。
漁師が叫ぶ。
「おい!そこは危ねぇ!」
「だろうな」
バンは壊れかけの板を踏み、少女の元へ近づく。
板が軋む。
下では蛇が大口を開けていた。
マッドサーペントが跳び上がる。
水中から、泥と水をまとって一気に噛みついてきた。
バンは少女の襟を掴み、後ろへ投げる。
「きゃっ!」
少女は岸辺の漁師たちの方へ飛ばされ、受け止められた。
同時に、蛇の顎がバンへ迫る。
バンは右手を伸ばした。
噛みつきの勢い。
水中から跳び上がる力。
泥を巻き上げる流れ。
その端を、盗る。
「強奪《スナッチ》」
だが、重い。
水を含んだ魔物の力は、昨日までの黒背狼とは違った。
肉体の勢いだけではない。
川の流れ、泥の抵抗、水面の跳ね返りまで絡んでいる。
バンの指先に、ぬるりとした抵抗がまとわりつく。
「……っ、やっぱ面倒くせぇな、この世界」
完全には止められない。
だが、わずかにずらせた。
マッドサーペントの牙は、バンの肩をかすめるだけで外れる。
赤いロングコートが裂けた。
肩から血がにじむ。
不死身なら気にも留めなかった傷。
だが、今は違う。
痛みが走る。
バンは顔をしかめた。
「おい、服まで噛むなよ」
蛇は水面へ落ちる。
バンも足場の上で体勢を崩した。
板が割れる。
その瞬間、バンは折れた板を蹴り、岸へ飛ぶ。
着地。
肩の血を指で拭う。
漁師たちが驚愕の目で見る。
「あんた、今何をした!?」
「ちょっと盗っただけだ」
「何を!?」
「勢い」
「意味が分からん!」
「俺も説明が面倒だ」
マッドサーペントが再び水中を動く。
水門の下へ潜り、姿を消した。
バンは川面を見た。
気配はある。
だが、水と泥が混じって読みにくい。
ゼロサインで自分の気配を消して誘うか。
それとも、力の流れを奪って浮かせるか。
バンは肩を回す。
まだ傷は浅い。
なら問題ない。
店主が銛を渡そうとする。
「使え!」
バンはそれを見て、首を横に振った。
「長さが足りねぇ」
「枝よりはマシだろ!」
「俺の棒じゃねぇからな」
そう言いながら、バンは自分の枝を見た。
やはり軽い。
だが、ないよりはいい。
バンは川辺へ歩く。
水面が静かになった。
周囲の誰もが息を潜める。
バンは目を閉じた。
音を聞く。
水の流れ。
泥の動き。
蛇の鱗が水草を擦る音。
その奥にある、わずかな魔力の流れ。
この世界の魔力は盗りづらい。
だが、二日分よりは分かる。
地上の魔物。
肉体が残り、魔石を持たないことが多い存在。
なら、狙うべきは見たこともない核ではない。
血の流れ。
筋肉の収縮。
心臓。
確実にそこにある肉体の動きだ。
「そこか」
バンは目を開けた。
マッドサーペントが、真下から跳んだ。
水柱が上がる。
大口が開く。
漁師たちの悲鳴。
バンは一歩も退かなかった。
右手を伸ばす。
今度は、噛みつきの勢いではない。
蛇の身体が水中で作った回転。
泥を蹴り、尾で水を叩き、頭部へ力を集める流れ。
その一番端。
尾の動きに乗っていた力を、盗る。
「身体狩り《フィジカルハント》」
奪えたのは少しだけ。
だが、尾の一振りが鈍った。
頭部へ集まる力が乱れる。
マッドサーペントの身体が、空中でわずかに横へ傾いた。
そこへ、バンの枝が入った。
枝はただの枝だ。
だが、狙いは鱗ではない。
鱗と鱗の隙間。
喉元の柔らかい場所。
バンは枝を突き込み、全身の力で押し込んだ。
鈍い音。
枝が折れる。
だが、その前に蛇の喉が潰れた。
マッドサーペントが水面へ落ち、暴れる。
バンは飛び退き、落ちていた銛を拾った。
「借りるぞ」
店主が叫ぶ。
「使え!」
蛇が最後の力で頭を上げる。
バンは銛を逆手に持ち、踏み込んだ。
喉を潰され、力の流れを乱された蛇は、もう先ほどほど速くない。
銛が目の下へ入り、頭蓋を貫いた。
蛇の身体が大きく痙攣する。
そして、動かなくなった。
川の水が赤く濁る。
少しずつ、流れていく。
マッドサーペントの体は、灰にならなかった。
泥色の長い身体が、そのまま川辺に横たわっている。
村人たちが歓声を上げた。
「倒した!」
「ミーナも無事だ!」
「赤い兄ちゃんがやったぞ!」
バンは肩の傷を押さえながら、川辺へ上がった。
少女が母親に抱きしめられて泣いている。
泣き声だ。
だが、さっきより悪くない。
助かった後の泣き声は、飯をまずくしない。
バンはそう思った。
店主が駆け寄る。
「おい、肩!」
「かすっただけだ」
「血が出てるぞ!」
「出るだろ。噛まれたんだから」
「普通はもっと慌てるんだよ!」
バンは肩を見た。
傷は浅い。
ただ、牙に毒か汚れがあったのか、少し熱を持っている。
マッドサーペントの噛み傷は腐る。
さっき漁師がそう言っていた。
バンは舌打ちする。
「面倒な蛇だな」
店主が薬師を呼ぶ。
その間に、バンは自分の生命力をほんの少し肩へ寄せた。
贈物《ギフト》とは少し違う。
他者へ渡すのではなく、自分の身体の内側で、傷口から命がこぼれすぎないように流れを整える。
不死身だった頃の再生ではない。
傷は塞がらない。
痛みも消えない。
ただ、毒が回りすぎないよう、身体を支える。
「……便利じゃねぇな」
バンはぼやく。
便利ではない。
だが、ないよりはましだ。
薬師が来て、傷を洗い、苦い匂いの薬草を貼った。
「しばらく無茶をするな」
「無理だな」
「即答するな」
薬師は怒った。
店主は大笑いした。
その後、マッドサーペントは町の者たちによって引き上げられた。
皮は硬く、防具や水除けの革に使える。
牙は針や細工物になる。
肝は薬になるが、扱いが難しい。
肉は臭く、普通は食べない。
バンはその説明を聞いて、少し残念そうにした。
「食えねぇのか」
「食う気だったのか?」
漁師が本気で引いていた。
「蛇だろ」
「泥蛇だぞ」
「処理すりゃいけるかもしれねぇ」
「やめとけ。腹を壊す」
「腹壊す飯は飯じゃねぇな」
「そこは分かるんだな」
結局、肉は食用にはされず、薬師と革職人が必要な部位を取ることになった。
バンは少し不満そうだったが、代わりに店主が言った。
「今夜の飯と酒は、うちが出す」
「本当か」
「町を助けた礼だ」
「いい町だな」
「さっきも聞いたぞ、その言葉」
「飯と酒が出る町はいい町だ」
夕方、リーヴァの酒場は昼よりも賑わっていた。
水門の魔物が倒された話は、あっという間に町中へ広がったらしい。
バンが席に着くと、次々に皿が運ばれてきた。
リーヴァ大鱒の黒だれ焼き。
小魚の唐揚げ。
川海老の塩焼き。
豆と干し肉の煮込み。
硬いパン。
そして、濁り酒。
店主は大きな杯を置いた。
「飲め」
「いいのか?」
「今日は町のおごりだ」
「最高だな」
バンは杯を持ち上げた。
周囲の客たちも杯を上げる。
「赤い旅人に!」
「マッドサーペント退治に!」
「ミーナが無事でよかった!」
バンは少しだけ面倒そうにした。
英雄扱いされるのは好きではない。
だが、酒が出るなら悪くない。
杯を鳴らし、濁り酒を飲む。
酸味。
甘み。
少し粗い喉越し。
昼よりもうまい気がした。
たぶん、飯がうまくなる空気だった。
ミーナと呼ばれていた少女が、母親に連れられて近づいてきた。
小さな手に、焼き魚の皿を持っている。
「あの……ありがとう」
声はまだ震えていた。
バンは皿を受け取る。
「おう」
「これ、私が焼きました」
「焦げてんな」
少女の顔が固まる。
母親が慌てる。
だが、バンはその焦げた魚をかじった。
「でも、悪くねぇ」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「焦げは苦いが、皮はぱりっとしてる。次はもうちょい火から離せ」
「うん!」
少女は笑って走っていった。
店主が呆れたように笑う。
「あんた、褒めるの下手だな」
「褒めただろ」
「下手なんだよ」
「うるせぇな」
バンは魚を食べた。
少し焦げている。
だが、悪くない。
笑い声を聞きながら食う飯は、うまい。
泣き声が笑い声に変わった後の飯は、もっといい。
夜が更けるにつれ、酒場の話題は自然とオラリオへ向いた。
行商人が言う。
「赤い兄ちゃん、オラリオへ行くんだろ?」
「ああ」
「なら、この川沿いを進んで、街道へ戻るといい。途中に小さな宿場がある。そこから先は、旅人も増える」
「オラリオには酒場が多いんだろ」
「多いなんてもんじゃない。神様の眷族も、冒険者も、商人も、鍛冶師も集まる。飯屋も酒場も山ほどある」
「いいな」
「ただし、面倒も山ほどある」
「飯がうまけりゃ我慢する」
「そこか」
別の客が話に入る。
「オラリオに行くなら、ギルドには顔を出した方がいい。冒険者になるなら登録がいる」
「ならねぇよ」
「ならんのか?」
「俺は旅人だ」
「ステイタスなしで魔物を倒す旅人なんて聞いたことねぇぞ」
「今聞いただろ」
客たちは笑った。
だが、その目には少しだけ畏れもあった。
ステイタスなし。
ファミリアなし。
それなのに、マッドサーペントを倒した赤い男。
彼らにとって、バンは分かりやすい英雄ではなく、よく分からない何かだった。
バンはその視線を気にしない。
ただ、杯を空にして言う。
「もう一杯」
店主が笑って注ぐ。
「飲みすぎるなよ」
「このくらい水だろ」
「濁り酒だ」
「じゃあ濁った水だな」
「酒造りに謝れ」
そんなやり取りに、また笑い声が起こった。
深夜。
バンは酒場の二階にある簡素な部屋で横になった。
肩の傷はまだ熱を持っている。
薬草の匂いが鼻につく。
不死身ではない。
その事実を、こういう小さな傷が思い出させる。
だが、悪い気分ではなかった。
痛みがあるから、飯が染みる。
傷があるから、酒がうまい。
死ぬかもしれない身体だから、助かった奴の笑い声が少しだけ重くなる。
バンは天井を見上げる。
この世界の魔物は面倒だ。
地上の魔物は肉体が残る。
ダンジョン産は魔石を持つ。
食えるものもあれば、食えないものもある。
魔力の流れは盗りづらく、力の芯に触れるには慣れがいる。
だが、少しずつ分かってきた。
勢いの端。
尾の流れ。
水と泥に混じる力。
この世界の魔物にも、奪える流れはある。
「慣れりゃ、もうちょい盗れそうだな」
バンは右手を開き、閉じた。
クレシューズはまだない。
神様にはまだ会っていない。
オラリオもまだ遠い。
だが、飯はうまかった。
酒も悪くなかった。
泣いていた子どもは笑っていた。
なら、今日も悪い日ではない。
「川魚と濁り酒、ねぇ」
バンは小さく笑った。
「この世界、案外悪くねぇな」
窓の外では、川の音が静かに続いていた。
第4話でした。
修正版では、リーヴァの町で地上魔物マッドサーペントを登場させ、地上魔物は肉体が残り、皮・牙・肝などが素材として利用される形に整理しました。
また、バンの《強奪(スナッチ)》が少しずつこの世界の魔物の流れに慣れていく一方、不死身ではないため傷や毒の影響を受けることも描写しました。
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