セルバを出たのは、朝日が川面へ差し込み始めた頃だった。
宿場町の門は、すでに兵士と商人で混み合っている。
北へ向かう軍用荷車。
南から来た隊商。
槍を担いだ若い兵士たち。
穀物袋を満載した荷車が、赤い獅子の旗の下を次々と通り抜けていく。
三人の先頭を歩くザルドは、大きな荷袋を背負っていた。
水。
保存食。
調理道具。
包帯。
セルバの市場で買った川魚の干物と硬いチーズ。
その横を歩くバンの背には、傷ついたクレシューズと名もない結晶を収めた背負い袋がある。
いつもより慎重に革紐を締め。
歩くたびに中身がぶつからないよう、仕切りも増やしていた。
アルフィアは薬箱を持っている。
割れずに残った薬瓶を布で包み直し、歩いても中で動かないよう詰め物まで整えていた。
「なあ」
バンが横目で薬箱を見る。
「何だ」
「それ、オレが持ってもいいぞ」
「不要だ」
「でも、アルフィアの荷物増えてんだろ」
「この程度は荷物にも入らない」
「重い?」
「軽い」
「じゃあオレが持っても変わらねぇだろ」
「お前は自分の背中だけ気にしていろ」
アルフィアの視線が、バンの背負い袋へ向く。
「走るな。飛ぶな。転ぶな。戦うな」
「最後は無理じゃねぇ?」
「戦う必要のある事態を起こすな」
「向こうから来たら?」
「ザルドが処理する」
「俺へ任せるな」
ザルドが振り返らずに言った。
「じゃあアルフィア」
「薬を持っている」
「結局オレじゃねぇか」
「避けろ」
「それだけ?」
「お前なら十分だ」
「信用されてんのか、雑に扱われてんのか分かんねぇな」
「後者だ」
「即答かよ」
その少し後ろを、セラが歩いていた。
小さな荷袋を肩へ掛け、杖代わりの木の棒を右手に持っている。
足取りは昨日より安定している。
だが、右足を地面へ着くたび、僅かに表情が強張っていた。
バンは歩幅を落とし、セラの隣へ並ぶ。
「痛む?」
「少しだけです」
「少しって顔じゃねぇぞ」
「歩けます」
「まだ町の外出たばっかだぞ」
「村まで行かないと」
「薬はオレらが持ってる」
「でも、私が引き受けた仕事ですから」
セラは前を向いたまま答えた。
「最後まで自分で届けたいんです」
「真面目だな」
「バンさんが適当すぎるんです」
「ひでぇ」
「昨日、宿代より先にお酒を買おうとしていたと聞きました」
「誰から?」
「アルフィアさんから」
「何で言ったんだよ」
「事実だからだ」
前を歩くアルフィアが、振り返らずに答えた。
「お前、セラに余計なこと教えんなよ」
「余計ではない。信用してはいけない理由を説明した」
「薬運んでる仲間だぞ」
「薬を酒と交換されては困る」
「そこまでしねぇよ!」
「酒樽一つなら?」
「……少し考える」
「バンさん」
セラが呆れた目を向ける。
「冗談だって」
「間が長かったぞ」
ザルドの声が飛んできた。
「本当に考えていたな」
「珍しい酒だったら気になるだろ」
「薬は人の命だ」
アルフィアの声が低くなる。
バンの表情から、ふざけた色が消えた。
「ああ。分かってる」
短い返事。
それ以上は何も言わなかった。
アルフィアも振り返らず、薬箱を抱え直す。
四人はセルバの門を抜け、川沿いの街道へ出た。
◇
セルバを離れると、景色は急速に農村のものへ変わっていった。
街道の右側には、大きな川。
左側には葡萄畑。
整然と並べられた葡萄の木には、まだ小さな実がついている。
その向こうには麦畑。
豆畑。
放牧された山羊や羊。
カイオス砂漠の乾いた大地を長く歩いてきた三人にとって、緑の多い景色は久しぶりだった。
「食いもんだらけだな」
バンが言う。
「畑を見て最初にそれか」
アルフィアが返す。
「葡萄は酒になる。麦はパンと酒。山羊は肉とチーズ」
「お前の世界には、酒以外の用途がないのか」
「肉とチーズも言っただろ」
「ほとんど食事ではないか」
「畑は食うために作ってんだろ?」
「否定はしない」
ザルドは街道脇の葡萄畑を見た。
木の間では、老人と女性たちが枝を整えている。
若い男の姿は少ない。
代わりに。
畑の端には、赤い肩布をつけたラキア兵が二人立っていた。
農作業を手伝っているわけではない。
木箱の数。
葡萄の木の本数。
収穫量の見込み。
板へ何かを書き込んでいる。
「税の確認か」
ザルドが言った。
セラが頷く。
「この辺りでは、穀物や葡萄をお金の代わりに納めることもあります」
「どれくらい持ってかれる?」
バンが尋ねる。
「年や村によって違います。戦が続くと増えます」
「今は?」
「増えています」
セラの声が少し小さくなった。
「北の国境へ兵を送るために、食料が必要だから」
「自分たちが食う分は残るのか」
「残るようには決められています」
「実際は?」
「……足りない村もあります」
アルフィアの目が、畑の端に積まれた木箱へ向く。
兵士の一人が、数を数えている。
老人が何かを頼むように話していた。
「今年は実りが少ない」
「決められた量だ」
「冬を越せなくなる」
「俺たちに言われても困る」
「せめて一箱――」
「補給官の命令だ」
風に乗って、会話が聞こえてくる。
アルフィアの足が僅かに止まった。
「アルフィア?」
バンが呼ぶ。
「何でもない」
再び歩き始める。
だが、その視線はしばらく畑から離れなかった。
「アレス本人が、どの村から何箱取るか決めてんの?」
バンが尋ねる。
「そこまで細かいことを、あの馬鹿が考えるはずがない」
アルフィアが答える。
「戦を始める。兵を増やす。食料が足りなくなる。あとは下へ丸投げだ」
「ひどい神様だな」
「今さらだ」
ザルドは低く息を吐いた。
「上が愚かでも、命令は下へ届く。負担を受けるのは畑に立つ者だ」
「オラリオへ攻めてくるより、自分の国をちゃんとした方がよくねぇ?」
「それが理解できれば、何度も攻めてこない」
「納得した」
街道の向こうから、軍用荷車が近づいてきた。
六台。
荷台には、穀物袋とワイン樽。
周囲を十数人の兵士が護衛している。
四人は道の端へ寄った。
すれ違う瞬間。
一台の荷車から、袋が落ちた。
麦の詰まった大袋。
地面へ落ち、口を縛っていた紐が緩む。
若い兵士が慌てて駆け寄った。
「止めろ!」
「列を止めるな!」
「ですが、袋が!」
「拾って後から追え!」
荷車は止まらない。
若い兵士は一人で袋を抱えようとする。
だが、持ち上がらない。
「手伝う?」
バンが尋ねる。
「結構だ!」
「でも無理だろ」
「軍の荷に触るな!」
「じゃあ頑張れ」
バンが歩き出そうとする。
若い兵士は歯を食いしばり、袋へ腕を回した。
腰が震える。
顔が赤くなる。
僅かに浮く。
また落ちる。
「やっぱ無理じゃねぇか」
バンは背負い袋を揺らさないよう、ゆっくり近づいた。
「触るなと言った!」
「じゃあ、触らねぇよ」
右手を向ける。
「強奪《スナッチ》」
地面にあった麦袋が、ふわりと浮いた。
「なっ……」
袋はバンの手元へ飛ばず。
若い兵士の肩の高さで止まる。
「ほら。支えろ」
兵士が慌てて両腕で抱える。
バンは力を緩め。
袋の重さを少しずつ兵士へ戻した。
「お、重い!」
「半分くらい持ってやってるぞ」
「半分でこれか……」
「荷車追わなくていいの?」
「そうだった!」
兵士は袋を背負い、ふらつきながら走り出した。
しばらく進んだ後。
一度振り返る。
「助かった!」
「転ぶなよ!」
バンが手を上げる。
「お前もな!」
「オレは転ばねぇよ!」
兵士は荷車の列へ追いついていった。
アルフィアがバンを見る。
「珍しく、問題を起こさなかったな」
「人助けしたのに、その言い方?」
「軍用物資を奪うかと思った」
「麦袋いらねぇよ」
「酒樽なら?」
「……」
「考えるな」
「見るだけなら」
「駄目だ」
セラが小さく笑った。
「皆さん、いつもこうなんですか?」
「こいつが雑音を出す」
アルフィアが答える。
「アルフィアがすぐ怒る」
バンが返す。
「二人ともだ」
ザルドが言った。
「お前は料理の話になると長ぇぞ」
「必要な説明だ」
「みんな同じですね」
セラの言葉に。
三人が同時に彼女を見る。
「違う」
「一緒にするな」
「オレはもっと話しやすいぞ」
ほとんど同時だった。
セラはまた笑った。
◇
昼前。
街道は川から少し離れ、低い丘の間へ入った。
道の脇に、大きな木が一本。
枝が広く伸び、旅人が休める影を作っている。
「ここで休む」
ザルドが言った。
セラの歩みは、朝より明らかに遅くなっていた。
右足を庇い。
額には薄く汗が浮かんでいる。
「まだ歩けます」
「誰も歩けないとは言っていない」
ザルドは荷物を下ろす。
「昼だ。食う」
「それなら……」
セラは木の根元へ腰を下ろした。
杖を横へ置き、右足へそっと触れる。
アルフィアは薬箱を地面へ直接置かず、布を敷いてから下ろした。
続いてセラの前へしゃがむ。
「足を出せ」
「え?」
「確認する」
「大丈夫です」
「お前の判断は聞いていない」
セラは戸惑いながら、右足を前へ伸ばした。
靴を脱ぐ。
足首には、地下で鎖に繋がれていた時の傷。
腫れは昨日より少し強くなっている。
アルフィアの指が、傷の周囲へ触れた。
「痛い場所は?」
「そこです」
「ここは?」
「少し」
「骨は問題ない。だが、歩き続ければ腫れが増す」
「村までは行けます」
「その後、歩けなくなる」
「でも――」
「薬を届けた後、村の者へ看病されるつもりか?」
セラは口を閉じた。
「自分が新しい患者になれば、薬と手間を減らす」
アルフィアは荷物から包帯を取り出す。
足首が動きすぎないよう、布を巻く。
強すぎず。
緩すぎず。
「午後は歩幅を落とす。痛みが増したら言え」
「はい」
「隠すな」
「……はい」
バンが二人を見ていた。
「何だ」
アルフィアが視線だけを向ける。
「いや」
「また黙るのか」
「喋ったら怒るだろ」
「内容による」
「優しいなって」
「福音《ゴスペル》」
「褒めただけだろ!」
澄んだ鐘の音は鳴らない。
アルフィアは薬箱の横へ置いてあった小石を拾い、バンへ投げた。
バンが首を傾けて避ける。
「魔法じゃねぇのかよ」
「薬の近くで使うか」
「ちゃんと考えてんだな」
「当たり前だ」
石は後ろの木へ当たり、乾いた音を立てた。
ザルドはそのやり取りを無視し、昼食を用意していた。
硬い黒パンを切る。
白いチーズ。
燻製肉。
酢漬けの玉葱。
そこへ、昨日買った川魚の干物を火で軽く炙る。
「火を使うのか?」
バンが尋ねる。
「干物は温めた方が脂が戻る」
「そのままでも食えるだろ」
「食えることと、うまいことは別だ」
小さな火。
干物の皮から脂が滲む。
香ばしい匂い。
ザルドは炙った魚をほぐし、骨を外した。
チーズと玉葱と一緒に、切った黒パンへ挟む。
「兵士の飯みてぇだな」
バンが受け取る。
「行軍食を少し整えただけだ」
一口。
硬いパン。
塩気の強い干物。
酸味のある玉葱。
濃いチーズ。
噛むほどに味が混ざる。
「うまい」
「水を飲め。塩が強い」
セラもパンを受け取る。
「こんな食べ方があるんですね」
「この辺りの材料なら、村でも作れる」
ザルドが答える。
「魚がなければ、豆を潰して香草と混ぜてもいい」
「リュネ村では山羊を飼っています。チーズも作っています」
「なら、塩漬け肉と野菜を合わせれば十分だ」
「村の人たちにも教えていいですか?」
「好きにしろ」
ザルドは何でもないことのように言う。
バンが笑う。
「料理教室始まったな」
「お前も覚えろ」
「今食って覚えてる」
「作り方をだ」
「ザルドがいればいいだろ」
「いつまでも俺がいるとは限らん」
バンの動きが一瞬だけ止まる。
ザルドも。
アルフィアも。
誰も、先のことを口にしなかった。
この旅がどこまで続くのか。
三人がいつまで同じ道を歩くのか。
決めている者はいない。
バンはパンをもう一口齧った。
「じゃあ、今度教えてくれよ」
「ああ」
ザルドは短く答えた。
「まずは肉を焦がさないところからだ」
「塩振るのはできるぞ」
「振りすぎる」
「食えるだろ」
「お前の基準は捨てろ」
「厳しい先生だな」
アルフィアは静かに水を飲む。
その口元が、ほんの僅かに緩んでいた。
◇
午後。
街道から外れ、北西へ続く細い道へ入った。
ここから先は、荷車が一台通れる程度の幅しかない。
両側には低い石垣。
畑と牧草地。
時折、小さな農家が見える。
子供たちが山羊を追い。
老人が畑を耕し。
女性たちが井戸から水を運んでいた。
やはり。
働き盛りの男は少ない。
「みんな兵隊に?」
バンが尋ねる。
セラが頷いた。
「全員ではありません。でも、村ごとに一定の人数を出すよう求められます」
「断れねぇの?」
「軍務はラキアの民の義務だと言われています」
「恩恵も受けるんだろ」
「兵へ入れば、アレス様の恩恵を受けます」
「強くなれる?」
「普通の人よりは」
ザルドが周囲の農家を見ながら言う。
「恩恵を刻まれても、経験がなければ大きくは伸びない」
「ダンジョンがないから?」
「ああ。畑仕事と訓練だけで、冒険者と同じ速度で成長することはできん」
「じゃあ、あんな若い奴らを集めても弱ぇままか」
「多くはな」
アルフィアが答える。
「だから数を増やす。数が増えれば食料が要る。食料を集めれば、村が苦しむ」
「ぐるぐる回ってんな」
「愚か者の思考は、同じ場所を回る」
街道の先。
一軒の農家の前で、人が集まっていた。
赤い布を肩へ掛けた兵士が三人。
農家の家族。
十五、六歳ほどの少年。
少年の母親らしい女が、その腕を掴んでいる。
「この子はまだ十六です」
「登録年齢に達している」
「父親も兄も兵へ行っています。この子まで取られたら畑を守れません」
「命令だ」
「せめて収穫が終わるまで――」
「集合日は明日だ」
少年は俯き。
母親の手をそっと外した。
「母さん。行くよ」
「でも……」
「兄さんたちが戻るまで、俺が行かないと」
「戻っていないからこそ、お前まで――」
声が震える。
三人の兵士の中で、一番若い男が目を逸らした。
だが、年長の兵士は表情を変えない。
「準備をしろ。夕方に迎えが来る」
兵士たちは去っていく。
四人は少し離れた道から、その様子を見ていた。
バンが小さく舌打ちする。
「嫌な国だな」
「すべての兵が望んでしているわけではない」
ザルドが言う。
「命令だからって、何でもやんのか」
「拒めば、自分が罰を受ける」
「だからって――」
「バン」
アルフィアが止めた。
「お前がここで兵を殴っても、命令は消えない」
「分かってるよ」
「分かっていない顔だ」
「殴ってねぇだろ」
「今はな」
バンは農家を見る。
少年は母親を家の中へ連れていこうとしている。
畑の端。
積まれた農具。
まだ刈り取られていない麦。
「手伝うか」
「何をだ」
「収穫」
「今日中には終わらない」
「少しでも減るだろ」
アルフィアは答えなかった。
ザルドが空を見る。
日が傾き始めている。
「一刻だけだ」
「村への到着が遅れるぞ」
「今日は街道沿いで野営する予定だ。大きくは変わらん」
ザルドは農家の方へ歩き始めた。
バンが笑う。
「結局、ザルドもやんじゃねぇか」
「口を動かす前に手を動かせ」
「オレ、背中の荷物あるぞ」
「軽い作業だけにしろ」
「麦を《強奪》で集める?」
「畑ごと抜くな」
「そんな雑なことしねぇよ」
「信用できない」
アルフィアも薬箱を抱えたまま、二人の後へ続く。
「アルフィアは何すんの?」
「刈った麦を束ねる」
「できるのか?」
「私を何だと思っている」
「料理はできねぇけど――」
「福音《ゴスペル》」
「畑で撃つなよ!」
「黙って働け」
セラはその光景を見つめ。
小さく笑ってから、四人目として農家へ向かった。
◇
一刻後。
畑の一角だけが、きれいに刈り取られていた。
ザルドは大きな鎌を使い、一振りで何本もの麦を倒した。
力任せではない。
根元を揃え。
後で束ねやすい方向へ置く。
農作業をしていた老人が、感心したように何度も頷いている。
バンは刈られた麦を集めていた。
《強奪》は使わない。
背中の荷物を揺らさないよう、両腕で一束ずつ運ぶ。
「普通に働けんじゃねぇか」
ザルドが言う。
「オレを何だと思ってんだ」
「盗賊だ」
「元な」
「今も酒を盗みそうだ」
「盗ってねぇだろ」
「まだな」
アルフィアは麦を縄で束ねていた。
最初の一つは少し緩かったが。
二つ目。
三つ目と進むうちに、崩れない形へ整っていく。
少年が驚いたように見ている。
「上手いですね」
「見れば分かる」
「俺は何年もやってますけど、最初は全然できませんでした」
「手の使い方が悪かっただけだ」
「厳しいな」
バンが笑う。
「でもアルフィア、一本目ほどけてたぞ」
「見間違いだ」
「オレ拾ったんだけど」
「雑音だ」
少年の母親は、家から水と薄い葡萄酒を持ってきた。
「こんなにしてもらって……」
「通りがかっただけだ」
ザルドが答える。
「大したことではない」
「でも、本当に助かります」
母親は何度も頭を下げた。
「お礼に出せるものが、これくらいしか」
薄い葡萄酒。
山羊乳のチーズ。
焼いたばかりの平たいパン。
バンの目が酒へ向く。
アルフィアの視線がすぐに刺さった。
「何も言ってねぇぞ」
「顔が言っている」
「働いた後の一杯だぞ」
「薄い酒だ」
「だから水みたいなもんだろ」
「なら水を飲め」
「味が違う」
母親が困ったように笑う。
「少しなら、どうぞ」
「ほら」
「一杯だけだ」
「分かってるって」
バンは木の杯を受け取る。
葡萄の酸味。
僅かな甘さ。
酒精は弱い。
畑仕事の後、喉を潤すための酒だった。
「うまいな」
「薄いだろう?」
少年が言う。
「こういうのも悪くねぇよ」
ザルドはチーズを一口食べる。
「塩が控えめだな」
「軍へ納める分は保存するため、もっと塩を使います」
母親が答える。
「これは家で食べる分です」
「こっちの方がうまい」
バンが言う。
「保存には向かないが、乳の味が残る」
ザルドも頷く。
「パンと野菜に合わせれば十分な食事になる」
「村の食べ物なんて、兵士の酒場より質素ですよ」
少年が言った。
「質素でもうまいもんはうまい」
バンはチーズをパンへ載せる。
「それに、こっちの方が毎日食える」
「昨日、兵士の酒場で騒いでいた男の言葉とは思えないな」
アルフィアが言う。
「見てたなら止めろよ」
「止めただろう」
「腕相撲一回はやったぞ」
「一回で終わらせた」
「勝ったからいいだろ」
少年が目を輝かせる。
「ラキア兵に腕相撲で勝ったんですか?」
「余裕だったぞ」
「相手が弱かっただけだ」
アルフィアが切り捨てる。
「もう少し褒めてもいいだろ」
「必要ない」
少年は少しだけ笑った。
先ほどまでの重い表情が、僅かに和らいでいる。
日が傾き。
そろそろ出発する時間になった。
少年は四人を見送りに、道まで出てきた。
「オラリオへ行くんですか?」
「ああ」
バンが答える。
「俺も、いつか見てみたいです」
「兵役終わったら行けばいい」
「生きて戻れたら」
冗談のように言った。
だが、笑ってはいない。
バンも笑わなかった。
「戻れよ」
「え?」
「兄貴も親父も、お前も。全員」
「そんな簡単に――」
「簡単じゃなくてもだ」
バンは少年の肩へ手を置いた。
「死ぬな。それだけ覚えとけ」
少年はしばらくバンを見た後。
小さく頷いた。
「はい」
三人とセラは、再び村へ続く道を歩き始めた。
◇
その夜。
四人は低い丘の陰へ野営した。
風を避けられ。
近くには小さな水場もある。
ザルドが夕食を作る。
農家から受け取った平たいパン。
柔らかな山羊乳のチーズ。
持ってきた燻製肉。
野草と豆の汁。
豪華ではない。
だが、畑仕事の後の身体には十分だった。
「今日、全然進んでなくねぇ?」
バンがパンを食べながら言う。
「予定より少し遅れただけだ」
ザルドが答える。
「明日の午後には着く」
「セラの足も休ませられた」
アルフィアが言う。
「なら問題ねぇな」
「お前は畑で酒を飲みたかっただけだろう」
「一杯しか飲んでねぇぞ」
「私が見ていたからな」
「見てなくても二杯くらいだ」
「増えている」
「働いた分だ」
セラは焚き火のそばで、包帯を巻き直していた。
昼より腫れは少し落ち着いている。
「足は?」
アルフィアが尋ねる。
「大丈夫です」
「本当に?」
「……少し痛みます」
「最初からそう言え」
「すみません」
「謝るな。隠すなと言った」
アルフィアは薬箱とは別の小袋から、湿布用の葉を取り出した。
水で濡らし。
布へ包み。
セラの足首へ当てる。
「冷たい……」
「腫れを抑える。眠る前に外せ」
「はい」
バンは焚き火の向こうから、静かにその様子を見ていた。
今度は何も言わない。
アルフィアが視線を上げる。
「何だ」
「また黙ってる」
「それを聞いている」
「言ったら怒るだろ」
「言え」
「やっぱ優しいなって」
アルフィアの指が、地面の小石へ伸びる。
「待て。薬の近くだぞ」
「投げるだけだ」
「それも危ねぇだろ」
ザルドが小石を先に拾い、遠くへ放った。
「子供のようなことをするな」
「誰に言っている」
「二人にだ」
「オレ何もしてねぇぞ」
「原因はお前だ」
セラが声を立てて笑った。
「すみません」
「何で謝んの?」
「皆さんを見ていると、安心してしまって」
笑いながら。
少しだけ目元を拭う。
「野盗に捕まった時は、薬も奪われて、もう村へ届けられないと思いました」
焚き火が小さく爆ぜる。
「私のせいで、待っている人たちが死んだらどうしようって」
「お前のせいではない」
アルフィアが即座に言った。
「でも――」
「お前は薬を運んだ。襲ったのは野盗だ。責任を混同するな」
「……はい」
「まだ届いていない。安心するのは明日だ」
「はい」
セラは、今度ははっきりと頷いた。
夜が深まる。
見張りは三人で交代する。
セラは焚き火から少し離れた毛布の上で眠り始めた。
バンは自分の背負い袋を隣へ置き、夜空を見上げる。
星。
風。
遠くの山羊の鳴き声。
「クレシューズ、今日は鳴らねぇな」
「毎晩話しかけるな」
アルフィアが隣の岩へ座っていた。
「起きてたのか」
「見張りだ」
「結晶も平気?」
「ああ。昨日の反応から変化はない」
「村に着いたら、また見る?」
「薬を届けるのが先だ」
「分かってる」
バンは背負い袋へ手を置く。
力は流さない。
触れるだけ。
「今日さ」
「何だ」
「畑の奴、ちゃんと帰ってくるといいな」
「保証はできない」
「分かってるよ」
「ラキアは兵を使い潰す」
アルフィアの声が冷たく落ちる。
「個人の命より、数を優先する。あの馬鹿は何度見ても理解しなかった」
「お前らが追い返した時も?」
「ああ」
「ザルドとアルフィアが軍を倒す。アレスはまた兵集めて来る?」
「同じだった」
「本当に馬鹿だな」
「だから言っただろう」
アルフィアは夜空ではなく。
眠っているセラの横に置かれた薬箱を見た。
「戦で死ぬ者だけではない」
「村に残った奴らも苦しむ」
「ああ」
「なら、せめて薬くらいは届けねぇとな」
「当然だ」
二人の会話は、それで終わった。
◇
翌日。
昼を少し過ぎた頃。
道の先に、小さな石垣が見えた。
山羊の群れ。
畑。
木と石で造られた家々。
中央からは、細い煙が上がっている。
大きな町ではない。
外壁も。
兵舎も。
立派な門もない。
ただ、街道脇に古い木の標識が立っていた。
消えかけた文字。
リュネ村。
「あそこです」
セラの声が震える。
「着いたのか」
バンが言う。
「はい」
セラは歩みを速めようとした。
右足が痛み。
身体が傾く。
ザルドが背後から肩を支えた。
「走るな」
「でも――」
「村は逃げん」
「はい」
村の入口。
一人の少女が、四人へ気づいた。
次に。
セラの姿を見つける。
「セラさん!」
声を上げ、村の奥へ走っていく。
「セラさんが戻った!」
「薬が来た!」
その叫びが。
静かな村へ、次々と広がっていった。
家の扉が開く。
老人。
女性。
子供たち。
村人たちが道へ集まってくる。
セラは薬箱を抱えていない。
それを持っているのは、アルフィアだ。
銀髪の女は、集まる村人たちを静かに見た。
「治療師はどこだ」
最初に口にしたのは、それだけだった。
「こちらです!」
年老いた女性が、一軒の家を指す。
「病人は三人とも中に!」
「案内しろ」
アルフィアは迷わず歩き出す。
ザルドがセラを支え。
バンが二人の後へ続く。
村人たちの期待と不安が。
四人へ集まっていた。
薬を待つ村へ。
ようやく。
小さな木箱が届いた。
今回は、セルバを出発し、ラキアの農村や徴兵の現実に触れながら、リュネ村へ向かう旅を描きました。
特に、畑仕事を手伝った後、バンが徴兵される少年へ「死ぬな」と告げる場面がお気に入りです。