リュネ村の治療所は、村の中央にある小さな石造りの家だった。
治療所と呼ばれてはいるが、立派な設備があるわけではない。
寝台が四つ。
薬草を乾燥させる棚。
湯を沸かす炉。
包帯や木の器を収めた戸棚。
窓は二つしかなく、室内には薬草と汗の匂いが混ざっていた。
「薬が届いたよ!」
セラが扉を開ける。
奥から、年老いた女が駆け寄ってきた。
背は低く。
灰色の髪を後ろで束ね。
腰には、いくつもの薬草袋を吊るしている。
「セラ……!」
「遅くなって、ごめんなさい」
「無事だったのかい」
「野盗に捕まって……でも、この人たちが助けてくれたの」
老女の視線が。
バン。
ザルド。
アルフィアへ移る。
最後に。
アルフィアが抱えている薬箱へ止まった。
「残っている薬は、これだけだ」
アルフィアが箱を差し出す。
「瓶が二本割れている。残りは確認した」
老女は震える手で箱を受け取った。
「十分だよ。これだけ残っていれば……」
「十分かどうかは、病人を見てから決める」
「え?」
「治療師はお前か」
「ああ。マラという」
「患者は三人と聞いた」
「奥だ」
「案内しろ」
アルフィアは挨拶もそこそこに、治療所の奥へ進んだ。
マラが慌てて後を追う。
バンはザルドを見る。
「いつも以上に早ぇな」
「薬を待っていた者がいる」
「分かってるけどよ」
「邪魔をするな」
先を歩くアルフィアの声が飛んできた。
「聞こえてんのかよ」
「お前の声が大きい」
「普通だろ」
「雑音だ」
バンは肩を竦め。
ザルドとセラとともに奥へ入った。
◇
窓際の寝台には、二人の子供が横になっていた。
兄は十歳ほど。
妹は七歳ほどだろう。
二人とも頬が赤く。
額には汗が滲み。
浅い呼吸を繰り返している。
兄の方は意識があり、入ってきた者たちへ弱々しく目を向けた。
妹は眠ったまま。
時折。
苦しそうに眉を寄せていた。
「いつから熱がある」
アルフィアが尋ねる。
「兄のルイは十一日前。妹のミナは九日前だ」
マラが答える。
「最初は喉の痛みと咳だけだった。三日ほどで熱が上がった」
「食事は」
「薄い粥を少し。ミナは昨日から、ほとんど口にしていない」
「水は」
「飲ませている」
「量は」
「木杯で、一日に四、五杯ほど」
アルフィアの眉が寄る。
「少ない」
「吐くことがあるんだよ」
「一度に飲ませるからだ。少量を何度も与えろ」
アルフィアはミナの寝台へ近づく。
額へ手を置き。
次に首筋。
呼吸の音を聞くため、顔を僅かに近づけた。
「胸の音は重くない」
「肺へ入ってはいないのかい?」
「今のところはな」
続いて。
乾いた唇。
爪。
目元。
汗の量。
一つずつ確認していく。
「水分が足りない。薬を飲ませる前に、塩を少し入れた薄い汁を与えろ」
「塩を?」
「水だけより身体へ残る。濃くするな。吐かせれば意味がない」
「分かった」
「解熱薬は半量からだ」
マラが薬箱の札を見る。
「でも、町の薬師は一包を――」
「この子には多い」
アルフィアはミナの細い腕を見た。
「身体が小さい。空腹のまま全量を入れれば、胃が受けつけない可能性がある」
「薬師より詳しいのかい?」
マラが尋ねる。
アルフィアの指が、ほんの僅かに止まった。
「飲み慣れているだけだ」
「え?」
「何でもない」
アルフィアは薬包を半分に分ける。
粉がこぼれないよう。
紙を折り直し。
木杯の横へ置いた。
「先に汁を少し。吐かなければ薬を飲ませろ。熱が下がっても、すぐ立たせるな」
「分かったよ」
次に、兄のルイ。
こちらは熱が少し低い。
だが、喉の痛みが強く。
水を飲むたびに顔を歪めている。
「口を開けろ」
アルフィアが言う。
ルイは怯えたように母親を見る。
寝台の横にいた若い女が、少年の肩へ手を置いた。
「大丈夫よ」
「このお姉ちゃん、怖い」
「聞こえている」
アルフィアの目が細くなる。
ルイはさらに母親の方へ寄った。
バンが後ろから口を挟む。
「怖ぇけど、悪い奴じゃねぇぞ」
「余計なことを言うな」
「安心させてんだよ」
「逆効果だ」
「ほら、口開けてみろ」
バンが自分の口を大きく開く。
「あー」
「お前がする必要はない」
「見本だ」
ルイが、小さく笑った。
そのまま。
少しだけ口を開ける。
アルフィアが喉の奥を確認する。
「腫れている。咳止めより、先に痛みを抑えろ」
「咳の薬は要らないのかい?」
「夜、眠れないほどなら使う。日中は必要以上に抑えるな」
「どうして?」
「異物を外へ出すための咳まで止める」
マラが何度も頷く。
「分かった。記録するよ」
「それと、この部屋は暑すぎる」
アルフィアが窓を見る。
閉め切られた室内。
炉では湯が沸き続け。
湿った熱が籠もっている。
「でも、身体を冷やしてはいけないだろう?」
「冷たい風を直接当てるな。だが、空気は入れ替えろ」
アルフィアが窓を少し開ける。
村の外から、柔らかな風が入ってきた。
薬草と汗の濃い匂いが、ゆっくりと薄まっていく。
「冷えすぎれば閉めろ。極端にするな」
「……あんた、本当に冒険者なのかい?」
「今は違う」
「治療師でもない?」
「違う」
「それで、どうして――」
「マラ」
アルフィアの声が僅かに低くなる。
「聞く暇があるなら手を動かせ」
「あ、ああ」
マラはすぐに薬を準備し始めた。
バンは何も言わず。
アルフィアの横顔を見ていた。
◇
三人目の患者は。
治療所の一番奥にいた。
名はガルド。
六十を過ぎた老人で。
長く肺を患っているという。
痩せた身体。
落ちくぼんだ頬。
呼吸をするたび、胸の奥から湿った音が聞こえる。
寝台へ横になることができず。
背へ毛布を重ね、上半身を起こした姿勢で座っていた。
「薬が来たのか」
老人が掠れた声で尋ねる。
「ああ」
マラが答える。
「セラが戻ってきてくれたよ」
「遅かったな」
「ごめんなさい」
セラが老人のそばへ膝をつく。
「謝るな」
ガルドは短く笑い。
すぐに激しく咳き込んだ。
身体が折れる。
胸を押さえ。
息を吸おうとしても、うまく入らない。
アルフィアがすぐに前へ出た。
「無理に深く吸うな」
老人の肩を支え。
少し前へ傾ける。
「吐け」
「ぐっ……」
「先に吐き切れ。吸おうとするな」
ガルドは何度か浅く息を吐く。
呼吸の音が少しずつ整う。
「そうだ。そのまま」
アルフィアは背中へ耳を近づけた。
右。
左。
呼吸の音を聞き分ける。
「片側だけではない。長く続いているな」
「もう何年もだ」
「血は出るか」
「たまにな」
「量は」
「少し」
「最近増えたか」
「昨日、一度だけ多かった」
マラが答える。
アルフィアの瞳が細くなる。
「咳止めは、夜だけにしろ」
「薬を飲めば治るんだろう?」
セラが尋ねる。
アルフィアはすぐに答えなかった。
薬箱。
老人。
マラ。
集まった村人たち。
全員の期待が、自分へ向いている。
「治るとは言えない」
冷静な声だった。
「この薬は苦しさを和らげる。眠れる時間を増やす。だが、長く患った肺を元へ戻すものではない」
セラの表情が曇る。
「そんな……」
「嘘を言っても病は消えない」
アルフィアは薬瓶を一本取る。
「それでも、使う意味はある」
ガルドへ視線を向ける。
「眠れず。食えず。身体がさらに弱れば、今より悪くなる」
「なら飲むさ」
老人が笑う。
「少しでも楽になるなら、十分だ」
「勝手に量を増やすな」
「年寄り扱いするな」
「病人扱いだ」
「厳しい姉ちゃんだな」
「お前が従わない顔をしている」
「顔で分かるのか」
「分かる」
バンが小さく笑う。
「アルフィアは、そういうの得意だぞ」
「お前は黙れ」
「ほらな」
「雑音を増やすな」
ガルドの口元が僅かに上がった。
「賑やかな連中だ」
アルフィアは薬瓶をマラへ渡す。
「最初は一番少ない量だ。効かないからとすぐ追加するな。呼吸が浅くなりすぎれば止めろ」
「分かった」
「寝かせる時も、上半身は起こしたままにしろ」
「ああ」
「湯気を吸わせるなら熱くしすぎるな。咳き込んだ時に倒れないよう、誰か一人は近くにいろ」
マラはすべて木札へ書き込んでいく。
「こんな辺境まで薬を運んでもらえたことだけでも、ありがたいよ」
「礼はセラへ言え」
アルフィアが答えた。
「私たちは途中から運んだだけだ」
「それでもだ」
ガルドはアルフィアを見た。
「病人の扱いに慣れているな」
「……」
「自分も長く病んでいるのか?」
治療所の空気が、静かになった。
バンの目がガルドへ向く。
ザルドは何も言わない。
アルフィアの銀色の瞳は。
老人を真っ直ぐに見ていた。
「余計なことを聞くな」
それだけだった。
「そうか」
ガルドも、それ以上は聞かなかった。
「なら、薬を飲むとしよう。あんたに怒鳴られたくない」
「怒鳴っていない」
「十分怖いぞ」
「聞こえている」
老人がまた笑い。
今度は、先ほどより弱い咳だけで済んだ。
◇
薬を飲ませた後も。
三人はすぐに治療所を出なかった。
ミナが汁を吐かないか。
ルイの喉の痛みが少しでも和らぐか。
ガルドの呼吸が薬で不自然に浅くならないか。
アルフィアは一つずつ確認した。
奇跡は起きない。
薬を飲んだからといって。
熱が一瞬で消えるわけではない。
荒かった呼吸が。
突然、健康なものへ戻るわけでもない。
それでも。
夕方になる頃。
ミナは木杯の汁を、少しずつ飲めるようになった。
「もう一口」
母親が杯を近づける。
ミナが顔を背ける。
「嫌……」
「飲まないと」
「無理に入れるな」
アルフィアが止める。
「少し休ませろ」
「でも、さっき一口しか」
「一口飲めた。次は少し後でいい」
母親が頷く。
ミナは薄く目を開け。
アルフィアを見る。
「銀色……」
「何だ」
「髪、きれい」
一瞬。
アルフィアの表情が止まった。
バンの口元が上がる。
だが。
何も言わない。
アルフィアはミナの額へ新しい布を載せた。
「喋る力があるなら、もう一口飲め」
「今は休ませるんじゃないの?」
「気が変わった」
「厳しい……」
「飲め」
ミナは小さく笑い。
木杯へ口をつけた。
隣の寝台。
ルイは、痛みを抑える薬が効いたのか、少しだけパンを食べられるようになっていた。
「固い……」
「汁へ浸せ」
ザルドが言う。
治療所の台所を借り。
豆と根菜の薄い汁を作っていた。
油は控えめ。
香草も少ない。
病人が飲み込みやすいよう、野菜は柔らかくなるまで煮込んでいる。
「ザルドさんは、治療師なんですか?」
ルイの母親が尋ねる。
「料理をしているだけだ」
「でも、病人の食事まで」
「胃へ負担を掛けず、食えるものを作る。難しいことではない」
「俺が作ったら肉入れすぎるな」
バンが言う。
「お前には作らせん」
「少しくらい肉あった方が元気出るだろ」
「今は消化できない」
「じゃあ、治ったら山羊肉だな」
ルイが弱々しく笑う。
「焼いたやつ?」
「ああ。でっかいの食わせてやる」
「本当に?」
「治ったらな」
「バン」
アルフィアの声が飛ぶ。
「治ると勝手に決めるな」
バンは一瞬黙る。
ルイの母親も、不安そうな顔をした。
「でも」
バンは少年を見る。
「食いたいもん考えるくらい、いいだろ」
アルフィアは何も答えない。
ルイはゆっくり頷いた。
「山羊肉、食べたい」
「じゃあ、まず汁飲め」
「うん」
ザルドが木の匙を渡す。
少年は少しずつ。
温かい汁を口へ運んだ。
◇
治療所の外では。
村人たちが、四人のために夕食を用意していた。
長い木机。
簡素な椅子。
大鍋。
大きな平たいパン。
山羊乳のチーズ。
豆と根菜の煮込み。
香草を詰めた焼き玉葱。
少量の塩漬け肉。
葡萄を搾った果汁。
そして。
薄い赤葡萄酒。
「酒あるぞ」
治療所を出たバンの目が、真っ先に木樽へ向いた。
「見れば分かる」
アルフィアが言う。
「村の人が用意してくれたんだ。飲まねぇと失礼だろ」
「便利な言い訳だな」
「今日は働いたぞ」
「薬を運んだのは私だ」
「オレは荷物守ってた」
「背負っていただけだ」
「大事な仕事だろ」
村長らしい老人が、四人へ頭を下げた。
「大したものは出せんが、せめて食べていってくれ」
「十分だ」
ザルドが答える。
「病人の分は残してあるか」
「もちろんだ」
「なら貰う」
四人とセラ。
マラ。
村人たちも机へ集まる。
徴兵や遠征で男手を失った村は。
賑やかとは言えなかった。
それでも。
薬が届いた夜。
久しぶりに。
人々の顔には、僅かな安堵が浮かんでいる。
豆と根菜の煮込みは。
軍の配給食より薄味だった。
肉も少ない。
だが。
山羊の骨から取った出汁と。
玉葱の甘さ。
乾燥させた香草の香りが、しっかりと残っている。
「うまいな」
バンが言う。
「本当に?」
鍋を作った中年の女が尋ねる。
「ああ。兵士の飯よりずっとうまい」
「比べる相手が悪い」
アルフィアが言った。
「褒めてんだぞ」
「余計な一言を加えるな」
ザルドは煮込みを一口食べる。
「山羊の骨を焼いてから煮たのか」
「分かるのかい?」
「ああ。香りが違う」
「肉を軍へ納めた後、骨が残るからね。捨てるのは惜しいだろう?」
「正しい使い方だ」
ザルドは焼き玉葱も味わう。
「中に詰めたものは?」
「豆とチーズ、それから乾燥した葡萄だよ」
「甘味が入っているのか」
「肉が少なくても、腹へ溜まるようにね」
ザルドと女は。
すぐに調理法の話を始めた。
「また始まったな」
バンが言う。
「お前も聞け」
ザルドが返す。
「食う方が忙しい」
「だから覚えない」
「一緒にいりゃ作ってくれるだろ」
「いつまでも俺がいるとは限らん」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「なら覚えろ」
バンはパンを煮込みへ浸しながら。
少しだけ笑った。
「今度な」
「今度では遅い」
「じゃあ、オラリオ着いたら」
「逃げるなよ」
「料理からは逃げねぇよ」
「酒へ逃げる」
「それは逃げるって言わねぇだろ」
村人から、小さな笑いが起きる。
アルフィアは。
薄い葡萄果汁を飲みながら。
治療所の窓を見ていた。
「気になるなら、戻るか?」
バンが尋ねる。
「何がだ」
「子供たち」
「薬を飲ませた直後に何度も見ても変わらない」
「でも見てんじゃねぇか」
「窓が視界に入るだけだ」
「そういうことにしとくか」
アルフィアの指が、机の上の木の実へ伸びる。
「投げる?」
「食べる」
「残念」
「なぜ残念なんだ」
「避けようと思ってた」
「病人の近くで騒ぐな」
「分かってるよ」
バンは赤葡萄酒の杯を手に取る。
一口。
酒精は弱い。
酸味も強い。
だが。
畑で作られ。
村人が自分たちで飲むために残した酒だった。
「セルバの酒より、こっちの方が好きかもな」
「安い舌だ」
アルフィアが言う。
「値段じゃねぇよ」
「なら何だ」
「飲んでる場所?」
バンは机を囲む村人たちを見る。
「こういう酒は、ここで飲むからうまいんだろ」
アルフィアは杯へ視線を落とした。
「珍しく、まともなことを言うな」
「今、褒めた?」
「気のせいだ」
「もう一回言ってくれ」
「雑音だ」
バンが笑い。
村の夕食は、静かに続いた。
◇
夜。
村人たちは、使われていない家を四人へ貸してくれた。
石壁。
小さな炉。
寝台は二つしかない。
バンは床でいいと言い。
ザルドも壁際へ毛布を敷いた。
クレシューズと名もない結晶は。
部屋の端へ離して置かれている。
変化はない。
金属音も。
銀色の光の明滅も起きなかった。
「静かだな」
バンが言う。
「薬の方が気になっているのかもしれん」
ザルドが答える。
「武器が?」
「お前が気にしているという意味だ」
「ああ」
アルフィアは。
まだ部屋へ戻っていなかった。
「様子を見てくる」
そう言って。
治療所へ向かったままだ。
「長ぇな」
「放っておけ」
ザルドが目を閉じる。
「でも」
「バン」
「何だよ」
「行くなら静かに行け」
「寝るんじゃねぇのか」
「お前が動けば眠れん」
「行っていいの?」
「許可を求めるような男か」
「それもそうだな」
バンは立ち上がり。
赤いコートを羽織った。
◇
治療所の中は。
昼より静かだった。
マラは椅子で眠っている。
子供たちの母親も。
寝台の横へ座ったまま、船を漕いでいた。
ガルドは薬が効いたのか。
上半身を起こした姿勢のまま。
浅い眠りへ入っている。
咳の回数は減っていた。
ミナの熱は、まだ高い。
それでも。
呼吸は昼より少し落ち着いている。
アルフィアは。
二つの寝台の間に立っていた。
何もせず。
ただ。
子供たちの呼吸へ耳を澄ませている。
「寝ねぇの?」
バンが小声で尋ねる。
「声が大きい」
「小さくしたぞ」
「もっと落とせ」
バンは足音を立てずに近づく。
「どう?」
「熱はまだある」
「薬、効いてねぇ?」
「急ぐな」
アルフィアはミナの額へ触れる。
「最初より僅かに下がっている。吐いてもいない」
「じゃあ大丈夫か」
「まだ分からない」
「そっか」
バンは壁へ背を預けた。
「お前、詳しいな」
「昼にも聞いただろ」
「飲み慣れてるから?」
「ああ」
「ずっと?」
アルフィアの視線が。
バンへ向く。
冷たい。
だが。
追い払うほどではない。
「長い」
短い答えだった。
「薬で治るの?」
「治らない」
バンは何も言わない。
アルフィアは子供たちへ視線を戻す。
「症状を抑えるだけだ」
「ガルドと同じ?」
「同じではない」
「でも、治らねぇんだろ」
「ああ」
静かな治療所。
小さな寝息。
炉の中で薪が崩れる音。
バンは。
いつものように笑わなかった。
「怖くねぇの?」
「何がだ」
「病気」
「今さら恐れるものではない」
「慣れんのか」
「慣れるしかない」
アルフィアの声は変わらない。
強く。
冷たく。
迷いもない。
それでも。
ミナの小さな手が。
毛布の上から、アルフィアの指へ触れた時。
彼女は手を引かなかった。
眠ったままの少女が。
弱い力で。
指先を握っている。
「銀色のお姉ちゃん……」
寝言のような声。
「水……」
アルフィアは片手で木杯を取る。
少女の身体を少しだけ起こし。
一口ずつ飲ませた。
「急ぐな」
ミナが飲み込むのを待つ。
「もう一口だ」
少女は従い。
少量の水を飲んだ。
再び寝台へ横になる。
指はまだ。
アルフィアの手を離していない。
バンが静かに見る。
「何だ」
「何も言ってねぇよ」
「顔が喋っている」
「優しいなって」
「雑音だ」
だが。
声は小さかった。
ミナを起こさないための。
囁くような声だった。
バンは少し笑う。
「お前も、無茶すんなよ」
「私に言うな」
「お前に言ってんだよ」
「不要だ」
「聞くだけ聞いとけ」
「お前が言える立場か」
「オレは頑丈だからな」
「一人で遺跡へ行き、右腕を壊し、神器まで傷つけた男が何を言う」
「まだ怒ってんの?」
「忘れると思ったか」
「一生言われそうだな」
「当然だ」
バンは小さく息を吐く。
「なら、お互い様だな」
「何がだ」
「オレが無茶したら、お前が怒る。お前が無茶したら、オレが怒る」
「勝手に決めるな」
「もう決めた」
「愚か者が」
「知ってる」
二人の声は。
治療所の静けさへ溶けていった。
◇
翌朝。
ミナの熱は。
完全には下がっていなかった。
だが。
前日より明らかに低い。
自分から水を欲しがり。
柔らかく煮た粥を、数口だけ食べることができた。
ルイも喉の痛みが少し和らぎ。
妹へ冗談を言う程度の元気を取り戻している。
ガルドは。
夜中に一度咳き込んだものの。
久しぶりに数時間続けて眠れたという。
「治ったわけではない」
アルフィアは村人たちへ念を押す。
「薬を切らすな。決めた量を守れ。熱が再び上がれば身体を冷やしすぎず、水分を与えろ」
「分かったよ」
マラが頷く。
「全部、記録した」
「老人の呼吸が急に浅くなれば、咳止めを止めろ」
「ああ」
「子供たちを外へ出すな」
「分かっている」
「本当に?」
「何度確認するんだい」
「お前たちは、少し良くなるとすぐ動かす顔をしている」
マラが苦笑する。
「顔で何でも分かるんだね」
「分かる」
ガルドが寝台から声を上げる。
「厳しい姉ちゃんの言うことを聞いておけ」
「お前もだ」
「もう薬は飲んだぞ」
「朝食は」
「これからだ」
「先に食え」
「命令ばかりだな」
「従わないからだ」
村人たちの間に。
小さな笑いが広がった。
薬は届いた。
病は消えていない。
この先、再び悪くなる可能性もある。
それでも。
昨夜までより。
確かに。
生きるための時間が増えていた。
セラは薬箱の残りをマラへ渡し。
深く頭を下げる。
「遅くなって、ごめんなさい」
「戻ってきてくれた。それで十分だよ」
マラはセラを抱きしめた。
「よく運んでくれた」
セラの目から。
ようやく。
抑えていた涙が落ちた。
バンは赤いコートのポケットへ手を入れ。
ザルドは静かに見守る。
アルフィアは。
視線を逸らしたまま。
「泣く暇があるなら、足を休めろ」
いつもどおり。
冷たい言葉を口にした。
だが。
その手には。
セラの足首へ巻き直すための。
新しい包帯が握られていた。
今回は、薬がリュネ村へ届き、病人たちの治療が始まる様子を描きました。薬ですべてが奇跡的に治るのではなく、苦しさを和らげ、生きるための時間をつなぐものとして描いています。
特に、眠ったミナがアルフィアの指を握り、アルフィアがその手を引かなかった場面がお気に入りです。