強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第58話 軍神の国をあとに

リュネ村を発つ朝。

 

空は薄い雲に覆われ、畑の上には白い霧が残っていた。

 

山羊の鈴。

 

井戸から水を汲む音。

 

窯へ薪を入れる音。

 

小さな村は、昨日と変わらない朝を迎えている。

 

だが。

 

治療所の中には、確かな変化があった。

 

「お姉ちゃん」

 

寝台の上から、ミナが手を振る。

 

熱はまだ残っている。

 

頬も赤い。

 

それでも、昨日のような苦しそうな呼吸ではなくなっていた。

 

「手を下ろせ」

 

アルフィアが言う。

 

「どうして?」

 

「疲れる」

 

「これくらい平気」

 

「病人の平気は信用しない」

 

ミナは渋々、手を毛布の上へ戻した。

 

隣の寝台では、兄のルイが柔らかく煮た麦粥を食べている。

 

喉の痛みは残っているものの、昨日より匙を運ぶ速度が上がっていた。

 

「山羊肉は?」

 

ルイがバンへ尋ねる。

 

「まだ早ぇな」

 

「治ったらって言った」

 

「ああ。だから治ってからだ」

 

「いつ?」

 

「それはアルフィアに聞け」

 

ルイが銀髪の女を見る。

 

「いつ治る?」

 

「知らん」

 

「分からないの?」

 

「病は予定どおりには動かない」

 

「じゃあ、治らないかもしれない?」

 

母親の表情が僅かに曇る。

 

アルフィアはルイの額へ触れた。

 

「昨日より熱は下がっている。食事も取れている」

 

「うん」

 

「薬を飲み、水を飲み、寝ろ。治すために必要なことを続けろ」

 

「そうしたら山羊肉?」

 

「それを食うのは勝手だ」

 

「やった」

 

ルイが笑う。

 

バンも口元を上げた。

 

「約束だからな。いつか会ったら、でっけぇの焼いてやる」

 

「バンが焼くのか」

 

ザルドが言った。

 

「何だよ」

 

「焦がす」

 

「その時までに教わるよ」

 

「本当か?」

 

「多分」

 

「信用できん」

 

「焼くのはザルドでもいいぞ」

 

「最初から俺へ押しつけるな」

 

治療所の奥。

 

ガルドは上半身を起こした姿勢で、温かい汁を飲んでいた。

 

昨夜より顔色は良い。

 

完全に楽になったわけではないが、咳き込む間隔は長くなっている。

 

「もう行くのか」

 

老人が尋ねる。

 

「ああ」

 

ザルドが答えた。

 

「俺たちはオラリオへ向かう」

 

「遠いな」

 

「まだしばらく掛かる」

 

「道中、軍に捕まるなよ」

 

ガルドが笑う。

 

「この国じゃ、でかい男を見ると兵にしたがる」

 

「俺をか?」

 

「将軍より強そうだ」

 

「実際、将軍より強いぞ」

 

バンが言った。

 

「バン」

 

アルフィアの声が飛ぶ。

 

「事実だろ?」

 

「余計なことを言うな」

 

ガルドはザルドを眺めた。

 

「やはり、ただの旅人ではないらしい」

 

「今は旅人だ」

 

「昔は?」

 

「昔の話だ」

 

「そうか」

 

老人は深く聞かなかった。

 

代わりに、アルフィアへ視線を移す。

 

「厳しい姉ちゃん」

 

「何だ」

 

「薬は言われたとおりに飲む」

 

「当然だ」

 

「だから、あんたも自分の薬を忘れるなよ」

 

アルフィアの目が細くなる。

 

室内の空気が一瞬だけ静まった。

 

「余計なことを言うなと、昨日も言ったはずだ」

 

「年寄りは同じことを何度も言うものだ」

 

「次はない」

 

「また会えれば、その時も言うさ」

 

ガルドは笑い。

 

軽く咳き込んだ。

 

アルフィアは何も返さず、薬の置かれた棚を確認した。

 

「咳止めは夜だけだ。苦しいからと昼に増やすな」

 

「分かっている」

 

「酒と一緒に飲むな」

 

「少しくらい――」

 

「飲むな」

 

「厳しいな」

 

「死にたくなければ従え」

 

「はいはい」

 

「返事は一度だ」

 

バンが吹き出す。

 

「オレと同じこと言われてんな」

 

「お前も従っていないだろ」

 

「酒は薬じゃねぇからな」

 

「お前には毒と同じだ」

 

「そんなに弱くねぇよ」

 

治療所へ、小さな笑いが広がった。

 

 

       ◇

 

 

村の入口には。

 

四人を見送るため、多くの村人が集まっていた。

 

老人。

 

女性。

 

子供。

 

畑仕事へ出る前の者たち。

 

薬を届けたのは小さな出来事かもしれない。

 

ラキアの軍を止めたわけでも。

 

村を豊かにしたわけでもない。

 

それでも。

 

薬を待っていた三人へ、確かに届いた。

 

村人たちは、そのことへ何度も礼を述べた。

 

「これを持っていってくれ」

 

村長が、大きな籠をザルドへ差し出す。

 

中には。

 

平たいパン。

 

乾燥させた豆。

 

山羊乳のチーズ。

 

香草。

 

干した葡萄。

 

小さな壺へ入った葡萄酒。

 

「多すぎる」

 

ザルドが言った。

 

「村の食料を減らす気はない」

 

「薬を運んでもらった礼だ」

 

「対価は受け取っていないが、食料を奪うつもりもない」

 

「奪うなんて誰も思ってないよ」

 

煮込みを作った中年の女が口を挟む。

 

「軍へ納める分とは別に取ってある。旅人へ食べさせるくらいは残ってるさ」

 

「それでもだ」

 

「でかい身体で細かいねぇ」

 

女は籠からチーズを一つ取り出す。

 

「じゃあ、これは昨日あんたが教えてくれた料理の代金」

 

「俺は何も教えていない」

 

「骨を焼いてから煮込むのは正しいって言ってくれた」

 

「確認しただけだ」

 

「それなら、確認料だ」

 

「無理があるな」

 

バンが笑う。

 

「貰っとけばいいだろ」

 

「お前は酒を見ているだけだ」

 

「壺、小さいな」

 

「十分だ」

 

アルフィアが言う。

 

「旅の途中で一杯ずつ飲めるくらいか?」

 

「お前には渡さない」

 

「何で?」

 

「私が持つ」

 

「酒飲まねぇだろ」

 

「お前に管理させないためだ」

 

「またかよ」

 

村長は笑いながら、籠をザルドへ押しつけた。

 

「全部受け取れとは言わん。持てる分だけでいい」

 

ザルドは少し考え。

 

パンを二枚。

 

乾燥豆。

 

香草。

 

チーズを一つ受け取った。

 

アルフィアは葡萄酒の壺を取る。

 

「何で酒だけ?」

 

バンが尋ねる。

 

「お前に渡さないためだ」

 

「同じこと言ってるぞ」

 

「必要だからだ」

 

セラは村人から、足に合った新しい杖を受け取っていた。

 

右足には、アルフィアが巻き直した包帯。

 

腫れは完全には引いていない。

 

「セラは残るのか?」

 

バンが尋ねる。

 

「はい」

 

「足が治るまで?」

 

「それもあります。でも、マラさんの手伝いをしようと思います」

 

セラは治療所を見る。

 

「薬の量も、飲ませ方も、覚えないといけないから」

 

「セルバへ戻らなくていいのか」

 

「薬師への報告は、村から行く商人に頼みます」

 

「なら安心だな」

 

「皆さんは、本当に今日出るんですか?」

 

「ああ」

 

ザルドが答える。

 

「ここから街道へ戻り、北西へ進む」

 

「ラキアの国境までは、二日ほどです」

 

村長が言う。

 

「その先からオラリオへ向かう街道へ合流できる。ただ、国境の検問は少し厳しくなっている」

 

「戦の影響か」

 

「兵の脱走を警戒しているらしい」

 

「オレら兵士に見える?」

 

バンが自分とアルフィアを見る。

 

「お前は見えない」

 

アルフィアが答える。

 

「ザルドは?」

 

「見えるかもしれん」

 

ザルドが眉を寄せる。

 

「なぜ俺だけだ」

 

「その身体だ」

 

「顔も怖いしな」

 

「お前に言われたくない」

 

「オレ、話しやすい顔だぞ」

 

「盗賊の顔だ」

 

「元な」

 

セラが小さく笑い。

 

その後、深く頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「もう礼は聞いた」

 

アルフィアが言う。

 

「足が治るまで無理に歩くな」

 

「はい」

 

「薬箱を落とすな」

 

「はい」

 

「病人の薬を勝手に増やすな」

 

「はい」

 

「睡眠を取れ」

 

「はい」

 

「食事もだ」

 

「アルフィア」

 

バンが口を挟む。

 

「何だ」

 

「母親みてぇになってるぞ」

 

澄んだ鐘の音。

 

「福音《ゴスペル》」

 

不可視の衝撃が、バンの足元を掠めた。

 

村の外にある石が一つ、きれいに割れる。

 

「村の入口で撃つなよ!」

 

「射線は見た」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

村人たちが驚いた後。

 

ガルドの笑い声が、治療所の窓から聞こえてきた。

 

「厳しい母ちゃんだな!」

 

「次はお前に当てる」

 

「病人に撃つなよ!」

 

バンが叫ぶ。

 

アルフィアの額に、青筋が浮かんだ。

 

セラは涙を浮かべながら笑っていた。

 

 

       ◇

 

 

リュネ村を離れ。

 

三人は再び街道へ戻った。

 

畑。

 

石垣。

 

山羊の群れ。

 

小さな家々。

 

少しずつ。

 

村の姿が後ろへ遠ざかっていく。

 

バンは何度か振り返った。

 

「気になるのか」

 

ザルドが尋ねる。

 

「別に」

 

「ミナとルイか」

 

「薬効いてたし、大丈夫だろ」

 

「断定するな」

 

アルフィアが言う。

 

「分かってるよ」

 

「病は、一度熱が下がっても戻ることがある」

 

「でも、昨日より元気だった」

 

「ああ」

 

「なら、今はそれでいいだろ」

 

アルフィアは答えない。

 

薬箱を持っていた手は。

 

今は空いている。

 

代わりに、小さな葡萄酒の壺を腰の荷袋へ入れていた。

 

「それ、いつ飲む?」

 

バンが尋ねる。

 

「お前には関係ない」

 

「オレのために持ってんだろ?」

 

「違う」

 

「ザルドは赤い酒飲むぞ」

 

「料理にも使える」

 

「村の酒、料理に入れんの?」

 

「悪くない」

 

ザルドが答える。

 

「肉や豆を煮る時に使える」

 

「そのまま飲んだ方がうまいぞ」

 

「少量残せばいい」

 

「ほら」

 

「お前へ渡すとは言っていない」

 

「二人とも冷てぇな」

 

「自業自得だ」

 

道は緩やかな丘へ続いていた。

 

ラキア南部の農村地帯。

 

見渡す限りの畑。

 

葡萄の木。

 

遠くには、軍用の街道を進む荷車の列が見える。

 

赤い獅子の旗。

 

兵士。

 

集められた食料。

 

それらはすべて。

 

軍神アレスが続ける戦へ向かっていた。

 

「結局、アレス本人には会わなかったな」

 

バンが言う。

 

「会う必要はない」

 

アルフィアが即答する。

 

「少し見てみたかったけどな」

 

「やめておけ」

 

ザルドも言う。

 

「何で?」

 

「お前とアレスを同じ場所へ置けば、話が進まん」

 

「気が合うかもしれねぇぞ」

 

「それが最悪だ」

 

アルフィアの声がさらに冷たくなる。

 

「勝手に酒を飲み、勝手に戦いを始め、後始末を他人へ押しつける男が二人になる」

 

「オレ、戦争は始めねぇよ」

 

「喧嘩は始める」

 

「向こうから来た時だけだ」

 

「一人で遺跡へ行った」

 

「またその話?」

 

「忘れない」

 

「一生言われるんだろ」

 

「当然だ」

 

ザルドが低く笑う。

 

「アレスよりは学習しているだけましだ」

 

「比較対象が低すぎねぇ?」

 

「同程度だ」

 

「ひでぇな」

 

三人の声は。

 

風に乗り。

 

広い畑の中へ消えていった。

 

 

       ◇

 

 

一日目の夜は。

 

街道沿いにある古い石小屋で休んだ。

 

旅人や兵士が使うために建てられた簡素な避難所。

 

屋根はある。

 

壁もある。

 

炉も残っている。

 

だが、扉は半分壊れていた。

 

「これくらいなら十分だな」

 

バンが言う。

 

「宿よりは劣る」

 

アルフィアが答える。

 

「無料だぞ」

 

「お前は金を使い切っただけだ」

 

「村でも酒貰っただろ」

 

「共有の物だ」

 

「オレの分ある?」

 

「働き次第だ」

 

「何すればいい?」

 

「薪を集めろ」

 

「すぐ行ってくる」

 

バンは背負い袋を下ろそうとする。

 

「待て」

 

アルフィアが止めた。

 

「何だよ」

 

「荷物を先に置け。雑に下ろすな」

 

「分かってるって」

 

厚い布を敷き。

 

傷ついたクレシューズと結晶を別々に置く。

 

反応はない。

 

結晶内部の銀色の光も。

 

クレシューズの金属音も静かなままだ。

 

アルフィアが状態を確認し。

 

ようやくバンは薪を集めに出た。

 

戻ってきた時。

 

両腕には大量の枯れ枝。

 

さらに。

 

片手には、野兎が一羽ぶら下がっていた。

 

「獲ってきたぞ」

 

「背負い袋を置いていったからといって、狩りへ行けとは言っていない」

 

アルフィアが言う。

 

「走ってねぇよ」

 

「どうやって捕らえた」

 

「普通に」

 

「《強奪》か」

 

「少しだけ」

 

「力を使うなとは言っていない」

 

「じゃあいいだろ」

 

「遠くへ行くな」

 

「小屋見える場所だったぞ」

 

ザルドが野兎を受け取る。

 

「状態は悪くない」

 

「褒めていいぞ」

 

「一度獲物を持ち帰っただけだ」

 

「厳しいな」

 

「解体を手伝え」

 

「料理教室?」

 

「昨日、覚えると言っただろう」

 

「オラリオ着いてからじゃなかった?」

 

「今からだ」

 

バンは野兎を見る。

 

次にザルド。

 

「食うまで長そうだな」

 

「自分で作れば、食事のありがたさが分かる」

 

「食うだけでも分かるぞ」

 

「黙って来い」

 

ザルドは短い刃物をバンへ渡した。

 

皮の外し方。

 

内臓を傷つけない切り方。

 

食べられる部位。

 

香草で匂いを抑える方法。

 

バンは最初こそ面倒そうにしていたが。

 

肉が形になっていくにつれ、少しずつ真剣になっていった。

 

「ここ切る?」

 

「浅くな」

 

「これくらい?」

 

「深い」

 

「まだ切ってねぇぞ」

 

「手の角度が深い」

 

「分かるのかよ」

 

「見ればな」

 

アルフィアは炉のそばに座り。

 

二人を眺めていた。

 

「下手だな」

 

「見てるだけの奴に言われたくねぇ」

 

「少なくとも、肉を破ってはいない」

 

「何もしてねぇからだろ」

 

「当然だ」

 

「アルフィアもやる?」

 

「断る」

 

「逃げたな」

 

アルフィアの手が、小石を探すように床へ伸びる。

 

だが、小屋の中には投げやすい石がなかった。

 

「残念だったな」

 

バンが笑う。

 

「福音《ゴスペル》」

 

「小屋壊れるぞ!」

 

「お前だけを狙う」

 

「料理中に撃つな」

 

ザルドが止めた。

 

結局。

 

野兎の香草焼き。

 

豆と玉葱の煮込み。

 

村でもらったチーズとパン。

 

そして。

 

小さな葡萄酒の壺が、三人の前へ置かれた。

 

アルフィアが木杯へ酒を注ぐ。

 

バン。

 

ザルド。

 

自分。

 

「お前も飲むの?」

 

バンが尋ねる。

 

「少量だ」

 

「珍しいな」

 

「村人が用意したものだ。味を確認する」

 

「何のために?」

 

「土地の食文化を知るためだ」

 

「蜂蜜チーズと同じ言い訳じゃねぇか」

 

「雑音だ」

 

バンは笑いながら杯を上げた。

 

「薬が届いたことに」

 

「酒を飲む理由へ使うな」

 

「じゃあ、畑の奴らが帰ってくることに」

 

「それも、酒を飲めば叶うわけではない」

 

「難しいな」

 

バンは少し考え。

 

「無事にオラリオへ着くために」

 

「まだ遠いぞ」

 

ザルドが言う。

 

「だからだろ」

 

三つの杯が。

 

小さく触れ合った。

 

薄い赤葡萄酒。

 

強い酒ではない。

 

上等でもない。

 

それでも。

 

リュネ村の土と。

 

葡萄と。

 

人々の手から生まれた味がした。

 

「うまいな」

 

バンが言う。

 

「昨日と同じだ」

 

アルフィアが答える。

 

「場所が違う」

 

「それで味が変わるのか」

 

「変わるんだよ」

 

アルフィアは杯へ口をつけ。

 

何も言わず。

 

もう一口だけ飲んだ。

 

 

       ◇

 

 

翌日の午後。

 

三人は、ラキア南西部の関所へ到着した。

 

丘と丘の間。

 

高い石壁。

 

木製の門。

 

赤い獅子の旗。

 

街道を通るすべての旅人と荷車が、ここで確認を受ける。

 

外へ出る者より。

 

ラキアへ入る者の列の方が長い。

 

兵士。

 

商人。

 

農民。

 

傭兵。

 

門の横には。

 

脱走兵や指名手配者の名前が書かれた板が並んでいた。

 

「面倒そうだな」

 

バンが言う。

 

「問題を起こすな」

 

アルフィアが答える。

 

「まだ何もしてねぇぞ」

 

「先に言っている」

 

「荷物開けろって言われたら?」

 

「セルバの詰所が出した証明書を見せる」

 

ザルドが紙を取り出す。

 

正体不明の結晶を、オラリオへ運ぶ途中であること。

 

開封は危険であること。

 

セルバの衛兵が外部から異常がないと確認したこと。

 

すべてが記録されていた。

 

「意外と役に立つな、セルバの兵士」

 

「職務をしただけだ」

 

「ラキア兵にしては優秀?」

 

「他国と同じ程度だ」

 

「褒めてねぇな」

 

三人の番が来る。

 

若い兵士が記録板を持ち、前へ出た。

 

「氏名と出身を」

 

「ザルド。出身は答える必要があるか」

 

「国境を越える者は――」

 

「バン。出身は遠くだ」

 

「遠くでは記録できない」

 

「別の世界」

 

若い兵士の手が止まる。

 

「ふざけているのか」

 

「本当だぞ」

 

「バン」

 

アルフィアが低く呼ぶ。

 

「嘘ついてねぇだろ」

 

「説明が面倒になる」

 

「では、出身不明と書け」

 

ザルドが言う。

 

若い兵士は不満そうに。

 

記録板へ文字を書いた。

 

「女は」

 

「アルフィア」

 

「所属は?」

 

「ない」

 

「三人とも所属なし?」

 

「ああ」

 

「恩恵は」

 

「質問が多いな」

 

アルフィアの目が細くなる。

 

「規則だ」

 

若い兵士も引かない。

 

「荷物を確認する」

 

「断る」

 

「危険物を隠しているとの記録が――」

 

「隠していない。証明書を読め」

 

「外から見るだけだ」

 

「同じ会話をセルバでもした」

 

若い兵士が槍へ手を掛ける。

 

「ここはセルバではない」

 

「だから何だ」

 

二人の間の空気が。

 

一気に張り詰めた。

 

「アルフィア」

 

ザルドが呼ぶ。

 

「抑えろ」

 

「私は何もしていない」

 

「顔が怖ぇぞ」

 

バンが言う。

 

「お前は黙れ」

 

若い兵士の背後から。

 

年老いた兵士が歩いてきた。

 

白いものが混じった短い髪。

 

古い傷の残る頬。

 

左足を僅かに引きずっている。

 

「何を揉めている」

 

「隊長。この三人が荷物検査を拒否しています」

 

「証明書は?」

 

「セルバから出ています。ですが――」

 

老兵は紙を受け取った。

 

簡単に目を通す。

 

「鍛冶神へ見せる品か」

 

「ああ」

 

ザルドが答える。

 

「開けば、ここで何が起きるか保証できない」

 

「分かった。通せ」

 

「隊長?」

 

「セルバの責任者が署名している。ここで開ける必要はない」

 

若い兵士は納得できない顔をした。

 

それでも命令には従う。

 

「名前だけ、もう一度お願いします」

 

老兵が言った。

 

「ザルド」

 

「アルフィア」

 

「バン」

 

その瞬間。

 

老兵の顔から、表情が消えた。

 

「……ザルド?」

 

「ああ」

 

「アルフィア……?」

 

銀髪の女を見る。

 

次に。

 

再びザルドを見上げる。

 

顔色が急速に青くなっていった。

 

「隊長?」

 

若い兵士が不審そうに呼ぶ。

 

老兵は一歩。

 

後ろへ下がった。

 

「まさか」

 

「俺を知っているのか」

 

ザルドが尋ねる。

 

「知っているも何も……」

 

老兵の左手が。

 

古傷の残る脚へ触れた。

 

「二十年近く前……オラリオ遠征軍にいた」

 

ザルドの眉が僅かに動く。

 

「第六遠征か」

 

「覚えているのか?」

 

「軍の番号まではな」

 

「では、なぜ」

 

「その頃、何度か来ていた」

 

「何度か……」

 

老兵の顔が引きつる。

 

若い兵士たちは、周囲へ集まり始めていた。

 

「この男たちが何者なんです?」

 

「黙れ」

 

老兵が低く命じる。

 

「だが――」

 

「槍を下ろせ。今すぐだ」

 

兵士たちは困惑しながらも。

 

槍の穂先を下へ向ける。

 

バンは面白そうにザルドを見る。

 

「何したんだよ」

 

「軍を止めただけだ」

 

「だけ?」

 

老兵が震える声で口を開く。

 

「我々の先陣が……あの男一人に止められた」

 

「一人で?」

 

バンの目が輝く。

 

「数千の兵がいた。騎兵も。攻城兵器も」

 

「ザルド一人に?」

 

「最初の一撃で、前列が消えた」

 

「消してはいない」

 

ザルドが訂正する。

 

「吹き飛ばしただけだ」

 

「同じだ!」

 

老兵の声が裏返る。

 

「地面ごと砕けた!馬も兵も何十人も宙を飛んだ!あの時、俺は後列にいたから生きている!」

 

「派手だなぁ」

 

バンが笑う。

 

「お前、オレより盗賊っぽいことしてねぇ?」

 

「向こうから攻めてきた」

 

「便利な言葉だな」

 

「事実だ」

 

老兵の視線が。

 

今度はアルフィアへ向く。

 

「それに……あの鐘」

 

アルフィアの目が細くなる。

 

「覚えているのか」

 

「忘れるものか」

 

老兵の身体が震えた。

 

「攻城兵器を並べた丘へ、澄んだ鐘の音が一度響いた。次の瞬間、すべて砕けていた」

 

「人間へ当てなかった」

 

「それでも、全軍が逃げた!」

 

「賢明な判断だ」

 

「お前ら、本当に何してきたんだよ」

 

バンが声を上げて笑う。

 

若い兵士たちは。

 

ザルドとアルフィアを見ながら、無言で後退している。

 

「この二人が……」

 

「オラリオの怪物……」

 

「声が大きい」

 

アルフィアが言った。

 

それだけで。

 

兵士たちの口が一斉に閉じた。

 

バンが肩を震わせる。

 

「笑うな」

 

アルフィアが睨む。

 

「だってよ」

 

「雑音だ」

 

「お前らの方が、オレより全然有名じゃねぇか」

 

「昔の話だ」

 

ザルドが言う。

 

「兵士の顔など覚えていない」

 

アルフィアも続ける。

 

「聞いたか、隊長。顔覚えられてねぇぞ」

 

「覚えられていなくて幸運だと思っている!」

 

老兵は即答した。

 

「正しいな」

 

ザルドが頷く。

 

バンはさらに笑った。

 

老兵は部下へ向き直る。

 

「通行許可を出せ。荷物へ触れるな。質問もするな」

 

「しかし、規則が――」

 

「この二人へ規則を押しつけたいなら、お前がやれ」

 

若い兵士は。

 

ザルドの巨体。

 

アルフィアの銀色の瞳。

 

そして、二人の間で楽しそうに笑うバンを見た。

 

「……すぐに許可を出します」

 

「素直でよろしい」

 

バンが言う。

 

「お前は何者なんだ」

 

老兵が尋ねた。

 

「オレ?」

 

「あの二人と一緒に歩き、平然と笑っている」

 

「友達?」

 

ザルドとアルフィアが。

 

同時にバンを見る。

 

「何だよ」

 

「勝手に決めるな」

 

アルフィアが言う。

 

「違うの?」

 

「旅の同行者だ」

 

ザルドが答える。

 

「ほとんど同じだろ」

 

「違う」

 

「冷てぇなぁ」

 

老兵は三人を見回した。

 

「今度は、ラキアへ何をしに来た」

 

「通り道だ」

 

ザルドが答える。

 

「薬を村へ届けただけだ」

 

「戦うつもりは?」

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「アレスが来なければな」

 

アルフィアが言った。

 

老兵の顔がさらに青くなる。

 

「絶対に知らせるな」

 

部下へ命じる。

 

「アレス様が知れば、必ず会いに来る!」

 

「やっぱ会ってみたいな」

 

バンが言う。

 

「やめろ!」

 

老兵。

 

ザルド。

 

アルフィア。

 

三人の声が重なった。

 

「そこまで?」

 

「頼むから、すぐ国を出てくれ」

 

「追い出されてんぞ」

 

バンが笑う。

 

「望むところだ」

 

アルフィアが答えた。

 

 

       ◇

 

 

許可証は。

 

驚くほど早く発行された。

 

荷物は開けられず。

 

追加の税も。

 

質問もなかった。

 

門の前にいた兵士たちは。

 

三人が通るため、道の左右へ整列している。

 

見送りというより。

 

一刻も早く外へ出すための道だった。

 

「待遇よくねぇ?」

 

バンが言う。

 

「恐れられているだけだ」

 

ザルドが答える。

 

「顔が怖いから?」

 

「お前が聞いた話を忘れたのか」

 

「冗談だって」

 

門の向こう。

 

街道が、ラキアの外へ続いている。

 

赤い獅子の旗。

 

石壁。

 

兵士たち。

 

三人は、それらを背にして歩き始めた。

 

バンが振り返る。

 

老兵は今も。

 

門の下で三人を見送っている。

 

「なあ!」

 

バンが声を上げる。

 

老兵の肩が跳ねた。

 

「何だ!」

 

「畑の若い兵士たち、死なせんなよ!」

 

「……」

 

「アレスが馬鹿やっても、止められる奴は止めろ!」

 

老兵はしばらく黙り。

 

やがて。

 

右手を胸へ当てた。

 

「努力する」

 

「頼んだぞ!」

 

バンが手を振る。

 

三人は再び前を向いた。

 

街道の両側から。

 

少しずつ葡萄畑が減っていく。

 

赤い旗も。

 

軍用の荷車も。

 

兵士の姿も遠ざかる。

 

丘を一つ越えた時。

 

ラキア王国の関所は、完全に見えなくなった。

 

「終わったな」

 

バンが言う。

 

「何がだ」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「馬鹿神の国」

 

「アレス本人とは会っていない」

 

「十分分かったぞ」

 

「何がだ」

 

「見た目は知らねぇけど、相当な馬鹿だって」

 

「それだけ分かればいい」

 

ザルドが答える。

 

「村の飯はうまかったな」

 

「酒も」

 

「結局それか」

 

「大事だろ」

 

「薬を届けたことを忘れるな」

 

「忘れてねぇよ」

 

バンは背中の袋へ手を回す。

 

クレシューズ。

 

名もない結晶。

 

どちらも静かだった。

 

だが。

 

壊れた神器と。

 

銀色の光を宿す結晶を運ぶ道は。

 

確実に、オラリオへ近づいている。

 

「次の大きな町まで、どれくらい?」

 

バンが尋ねる。

 

「このままなら三日ほどだ」

 

ザルドが答える。

 

「酒ある?」

 

「知らん」

 

「飯は?」

 

「あるだろう」

 

「楽しみだな」

 

「お前はそれしかないのか」

 

アルフィアが言う。

 

「オラリオ着いたら、クレシューズ見てもらうだろ」

 

「ああ」

 

「その後、うまいもん食う」

 

「直ると決まっていない」

 

「分かってる」

 

「期待しすぎるな」

 

「それも分かってるよ」

 

バンは前を見る。

 

遠くへ続く街道。

 

低い丘。

 

そのさらに向こう。

 

まだ見えないオラリオ。

 

「でも、こいつが諦めてねぇからな」

 

背負い袋へ。

 

軽く手を置く。

 

音は鳴らない。

 

それでも。

 

バンは笑っていた。

 

「行こうぜ」

 

「ああ」

 

ザルドが答える。

 

「言われなくても進んでいる」

 

アルフィアも続ける。

 

三人の影が。

 

午後の街道へ長く伸びていく。

 

川辺の宿場町。

 

兵士の酒場。

 

薬を待つ村。

 

徴兵される少年。

 

病と向き合う者たち。

 

そして。

 

かつて二人の名を知った老兵。

 

軍神の国で生まれた短い縁を背に。

 

三人は。

 

再び、オラリオへ続く道を歩き始めた。




今回は、リュネ村を出発し、ラキア王国の関所を越えるまでを描きました。

古参兵がザルドとアルフィアの正体に気づく場面を入れつつ、最後はラキアを離れ、三人が再びオラリオへの旅へ戻る形にしています。

これで第9部は終了です。
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