リュネ村を発つ朝。
空は薄い雲に覆われ、畑の上には白い霧が残っていた。
山羊の鈴。
井戸から水を汲む音。
窯へ薪を入れる音。
小さな村は、昨日と変わらない朝を迎えている。
だが。
治療所の中には、確かな変化があった。
「お姉ちゃん」
寝台の上から、ミナが手を振る。
熱はまだ残っている。
頬も赤い。
それでも、昨日のような苦しそうな呼吸ではなくなっていた。
「手を下ろせ」
アルフィアが言う。
「どうして?」
「疲れる」
「これくらい平気」
「病人の平気は信用しない」
ミナは渋々、手を毛布の上へ戻した。
隣の寝台では、兄のルイが柔らかく煮た麦粥を食べている。
喉の痛みは残っているものの、昨日より匙を運ぶ速度が上がっていた。
「山羊肉は?」
ルイがバンへ尋ねる。
「まだ早ぇな」
「治ったらって言った」
「ああ。だから治ってからだ」
「いつ?」
「それはアルフィアに聞け」
ルイが銀髪の女を見る。
「いつ治る?」
「知らん」
「分からないの?」
「病は予定どおりには動かない」
「じゃあ、治らないかもしれない?」
母親の表情が僅かに曇る。
アルフィアはルイの額へ触れた。
「昨日より熱は下がっている。食事も取れている」
「うん」
「薬を飲み、水を飲み、寝ろ。治すために必要なことを続けろ」
「そうしたら山羊肉?」
「それを食うのは勝手だ」
「やった」
ルイが笑う。
バンも口元を上げた。
「約束だからな。いつか会ったら、でっけぇの焼いてやる」
「バンが焼くのか」
ザルドが言った。
「何だよ」
「焦がす」
「その時までに教わるよ」
「本当か?」
「多分」
「信用できん」
「焼くのはザルドでもいいぞ」
「最初から俺へ押しつけるな」
治療所の奥。
ガルドは上半身を起こした姿勢で、温かい汁を飲んでいた。
昨夜より顔色は良い。
完全に楽になったわけではないが、咳き込む間隔は長くなっている。
「もう行くのか」
老人が尋ねる。
「ああ」
ザルドが答えた。
「俺たちはオラリオへ向かう」
「遠いな」
「まだしばらく掛かる」
「道中、軍に捕まるなよ」
ガルドが笑う。
「この国じゃ、でかい男を見ると兵にしたがる」
「俺をか?」
「将軍より強そうだ」
「実際、将軍より強いぞ」
バンが言った。
「バン」
アルフィアの声が飛ぶ。
「事実だろ?」
「余計なことを言うな」
ガルドはザルドを眺めた。
「やはり、ただの旅人ではないらしい」
「今は旅人だ」
「昔は?」
「昔の話だ」
「そうか」
老人は深く聞かなかった。
代わりに、アルフィアへ視線を移す。
「厳しい姉ちゃん」
「何だ」
「薬は言われたとおりに飲む」
「当然だ」
「だから、あんたも自分の薬を忘れるなよ」
アルフィアの目が細くなる。
室内の空気が一瞬だけ静まった。
「余計なことを言うなと、昨日も言ったはずだ」
「年寄りは同じことを何度も言うものだ」
「次はない」
「また会えれば、その時も言うさ」
ガルドは笑い。
軽く咳き込んだ。
アルフィアは何も返さず、薬の置かれた棚を確認した。
「咳止めは夜だけだ。苦しいからと昼に増やすな」
「分かっている」
「酒と一緒に飲むな」
「少しくらい――」
「飲むな」
「厳しいな」
「死にたくなければ従え」
「はいはい」
「返事は一度だ」
バンが吹き出す。
「オレと同じこと言われてんな」
「お前も従っていないだろ」
「酒は薬じゃねぇからな」
「お前には毒と同じだ」
「そんなに弱くねぇよ」
治療所へ、小さな笑いが広がった。
◇
村の入口には。
四人を見送るため、多くの村人が集まっていた。
老人。
女性。
子供。
畑仕事へ出る前の者たち。
薬を届けたのは小さな出来事かもしれない。
ラキアの軍を止めたわけでも。
村を豊かにしたわけでもない。
それでも。
薬を待っていた三人へ、確かに届いた。
村人たちは、そのことへ何度も礼を述べた。
「これを持っていってくれ」
村長が、大きな籠をザルドへ差し出す。
中には。
平たいパン。
乾燥させた豆。
山羊乳のチーズ。
香草。
干した葡萄。
小さな壺へ入った葡萄酒。
「多すぎる」
ザルドが言った。
「村の食料を減らす気はない」
「薬を運んでもらった礼だ」
「対価は受け取っていないが、食料を奪うつもりもない」
「奪うなんて誰も思ってないよ」
煮込みを作った中年の女が口を挟む。
「軍へ納める分とは別に取ってある。旅人へ食べさせるくらいは残ってるさ」
「それでもだ」
「でかい身体で細かいねぇ」
女は籠からチーズを一つ取り出す。
「じゃあ、これは昨日あんたが教えてくれた料理の代金」
「俺は何も教えていない」
「骨を焼いてから煮込むのは正しいって言ってくれた」
「確認しただけだ」
「それなら、確認料だ」
「無理があるな」
バンが笑う。
「貰っとけばいいだろ」
「お前は酒を見ているだけだ」
「壺、小さいな」
「十分だ」
アルフィアが言う。
「旅の途中で一杯ずつ飲めるくらいか?」
「お前には渡さない」
「何で?」
「私が持つ」
「酒飲まねぇだろ」
「お前に管理させないためだ」
「またかよ」
村長は笑いながら、籠をザルドへ押しつけた。
「全部受け取れとは言わん。持てる分だけでいい」
ザルドは少し考え。
パンを二枚。
乾燥豆。
香草。
チーズを一つ受け取った。
アルフィアは葡萄酒の壺を取る。
「何で酒だけ?」
バンが尋ねる。
「お前に渡さないためだ」
「同じこと言ってるぞ」
「必要だからだ」
セラは村人から、足に合った新しい杖を受け取っていた。
右足には、アルフィアが巻き直した包帯。
腫れは完全には引いていない。
「セラは残るのか?」
バンが尋ねる。
「はい」
「足が治るまで?」
「それもあります。でも、マラさんの手伝いをしようと思います」
セラは治療所を見る。
「薬の量も、飲ませ方も、覚えないといけないから」
「セルバへ戻らなくていいのか」
「薬師への報告は、村から行く商人に頼みます」
「なら安心だな」
「皆さんは、本当に今日出るんですか?」
「ああ」
ザルドが答える。
「ここから街道へ戻り、北西へ進む」
「ラキアの国境までは、二日ほどです」
村長が言う。
「その先からオラリオへ向かう街道へ合流できる。ただ、国境の検問は少し厳しくなっている」
「戦の影響か」
「兵の脱走を警戒しているらしい」
「オレら兵士に見える?」
バンが自分とアルフィアを見る。
「お前は見えない」
アルフィアが答える。
「ザルドは?」
「見えるかもしれん」
ザルドが眉を寄せる。
「なぜ俺だけだ」
「その身体だ」
「顔も怖いしな」
「お前に言われたくない」
「オレ、話しやすい顔だぞ」
「盗賊の顔だ」
「元な」
セラが小さく笑い。
その後、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「もう礼は聞いた」
アルフィアが言う。
「足が治るまで無理に歩くな」
「はい」
「薬箱を落とすな」
「はい」
「病人の薬を勝手に増やすな」
「はい」
「睡眠を取れ」
「はい」
「食事もだ」
「アルフィア」
バンが口を挟む。
「何だ」
「母親みてぇになってるぞ」
澄んだ鐘の音。
「福音《ゴスペル》」
不可視の衝撃が、バンの足元を掠めた。
村の外にある石が一つ、きれいに割れる。
「村の入口で撃つなよ!」
「射線は見た」
「そういう問題じゃねぇ!」
村人たちが驚いた後。
ガルドの笑い声が、治療所の窓から聞こえてきた。
「厳しい母ちゃんだな!」
「次はお前に当てる」
「病人に撃つなよ!」
バンが叫ぶ。
アルフィアの額に、青筋が浮かんだ。
セラは涙を浮かべながら笑っていた。
◇
リュネ村を離れ。
三人は再び街道へ戻った。
畑。
石垣。
山羊の群れ。
小さな家々。
少しずつ。
村の姿が後ろへ遠ざかっていく。
バンは何度か振り返った。
「気になるのか」
ザルドが尋ねる。
「別に」
「ミナとルイか」
「薬効いてたし、大丈夫だろ」
「断定するな」
アルフィアが言う。
「分かってるよ」
「病は、一度熱が下がっても戻ることがある」
「でも、昨日より元気だった」
「ああ」
「なら、今はそれでいいだろ」
アルフィアは答えない。
薬箱を持っていた手は。
今は空いている。
代わりに、小さな葡萄酒の壺を腰の荷袋へ入れていた。
「それ、いつ飲む?」
バンが尋ねる。
「お前には関係ない」
「オレのために持ってんだろ?」
「違う」
「ザルドは赤い酒飲むぞ」
「料理にも使える」
「村の酒、料理に入れんの?」
「悪くない」
ザルドが答える。
「肉や豆を煮る時に使える」
「そのまま飲んだ方がうまいぞ」
「少量残せばいい」
「ほら」
「お前へ渡すとは言っていない」
「二人とも冷てぇな」
「自業自得だ」
道は緩やかな丘へ続いていた。
ラキア南部の農村地帯。
見渡す限りの畑。
葡萄の木。
遠くには、軍用の街道を進む荷車の列が見える。
赤い獅子の旗。
兵士。
集められた食料。
それらはすべて。
軍神アレスが続ける戦へ向かっていた。
「結局、アレス本人には会わなかったな」
バンが言う。
「会う必要はない」
アルフィアが即答する。
「少し見てみたかったけどな」
「やめておけ」
ザルドも言う。
「何で?」
「お前とアレスを同じ場所へ置けば、話が進まん」
「気が合うかもしれねぇぞ」
「それが最悪だ」
アルフィアの声がさらに冷たくなる。
「勝手に酒を飲み、勝手に戦いを始め、後始末を他人へ押しつける男が二人になる」
「オレ、戦争は始めねぇよ」
「喧嘩は始める」
「向こうから来た時だけだ」
「一人で遺跡へ行った」
「またその話?」
「忘れない」
「一生言われるんだろ」
「当然だ」
ザルドが低く笑う。
「アレスよりは学習しているだけましだ」
「比較対象が低すぎねぇ?」
「同程度だ」
「ひでぇな」
三人の声は。
風に乗り。
広い畑の中へ消えていった。
◇
一日目の夜は。
街道沿いにある古い石小屋で休んだ。
旅人や兵士が使うために建てられた簡素な避難所。
屋根はある。
壁もある。
炉も残っている。
だが、扉は半分壊れていた。
「これくらいなら十分だな」
バンが言う。
「宿よりは劣る」
アルフィアが答える。
「無料だぞ」
「お前は金を使い切っただけだ」
「村でも酒貰っただろ」
「共有の物だ」
「オレの分ある?」
「働き次第だ」
「何すればいい?」
「薪を集めろ」
「すぐ行ってくる」
バンは背負い袋を下ろそうとする。
「待て」
アルフィアが止めた。
「何だよ」
「荷物を先に置け。雑に下ろすな」
「分かってるって」
厚い布を敷き。
傷ついたクレシューズと結晶を別々に置く。
反応はない。
結晶内部の銀色の光も。
クレシューズの金属音も静かなままだ。
アルフィアが状態を確認し。
ようやくバンは薪を集めに出た。
戻ってきた時。
両腕には大量の枯れ枝。
さらに。
片手には、野兎が一羽ぶら下がっていた。
「獲ってきたぞ」
「背負い袋を置いていったからといって、狩りへ行けとは言っていない」
アルフィアが言う。
「走ってねぇよ」
「どうやって捕らえた」
「普通に」
「《強奪》か」
「少しだけ」
「力を使うなとは言っていない」
「じゃあいいだろ」
「遠くへ行くな」
「小屋見える場所だったぞ」
ザルドが野兎を受け取る。
「状態は悪くない」
「褒めていいぞ」
「一度獲物を持ち帰っただけだ」
「厳しいな」
「解体を手伝え」
「料理教室?」
「昨日、覚えると言っただろう」
「オラリオ着いてからじゃなかった?」
「今からだ」
バンは野兎を見る。
次にザルド。
「食うまで長そうだな」
「自分で作れば、食事のありがたさが分かる」
「食うだけでも分かるぞ」
「黙って来い」
ザルドは短い刃物をバンへ渡した。
皮の外し方。
内臓を傷つけない切り方。
食べられる部位。
香草で匂いを抑える方法。
バンは最初こそ面倒そうにしていたが。
肉が形になっていくにつれ、少しずつ真剣になっていった。
「ここ切る?」
「浅くな」
「これくらい?」
「深い」
「まだ切ってねぇぞ」
「手の角度が深い」
「分かるのかよ」
「見ればな」
アルフィアは炉のそばに座り。
二人を眺めていた。
「下手だな」
「見てるだけの奴に言われたくねぇ」
「少なくとも、肉を破ってはいない」
「何もしてねぇからだろ」
「当然だ」
「アルフィアもやる?」
「断る」
「逃げたな」
アルフィアの手が、小石を探すように床へ伸びる。
だが、小屋の中には投げやすい石がなかった。
「残念だったな」
バンが笑う。
「福音《ゴスペル》」
「小屋壊れるぞ!」
「お前だけを狙う」
「料理中に撃つな」
ザルドが止めた。
結局。
野兎の香草焼き。
豆と玉葱の煮込み。
村でもらったチーズとパン。
そして。
小さな葡萄酒の壺が、三人の前へ置かれた。
アルフィアが木杯へ酒を注ぐ。
バン。
ザルド。
自分。
「お前も飲むの?」
バンが尋ねる。
「少量だ」
「珍しいな」
「村人が用意したものだ。味を確認する」
「何のために?」
「土地の食文化を知るためだ」
「蜂蜜チーズと同じ言い訳じゃねぇか」
「雑音だ」
バンは笑いながら杯を上げた。
「薬が届いたことに」
「酒を飲む理由へ使うな」
「じゃあ、畑の奴らが帰ってくることに」
「それも、酒を飲めば叶うわけではない」
「難しいな」
バンは少し考え。
「無事にオラリオへ着くために」
「まだ遠いぞ」
ザルドが言う。
「だからだろ」
三つの杯が。
小さく触れ合った。
薄い赤葡萄酒。
強い酒ではない。
上等でもない。
それでも。
リュネ村の土と。
葡萄と。
人々の手から生まれた味がした。
「うまいな」
バンが言う。
「昨日と同じだ」
アルフィアが答える。
「場所が違う」
「それで味が変わるのか」
「変わるんだよ」
アルフィアは杯へ口をつけ。
何も言わず。
もう一口だけ飲んだ。
◇
翌日の午後。
三人は、ラキア南西部の関所へ到着した。
丘と丘の間。
高い石壁。
木製の門。
赤い獅子の旗。
街道を通るすべての旅人と荷車が、ここで確認を受ける。
外へ出る者より。
ラキアへ入る者の列の方が長い。
兵士。
商人。
農民。
傭兵。
門の横には。
脱走兵や指名手配者の名前が書かれた板が並んでいた。
「面倒そうだな」
バンが言う。
「問題を起こすな」
アルフィアが答える。
「まだ何もしてねぇぞ」
「先に言っている」
「荷物開けろって言われたら?」
「セルバの詰所が出した証明書を見せる」
ザルドが紙を取り出す。
正体不明の結晶を、オラリオへ運ぶ途中であること。
開封は危険であること。
セルバの衛兵が外部から異常がないと確認したこと。
すべてが記録されていた。
「意外と役に立つな、セルバの兵士」
「職務をしただけだ」
「ラキア兵にしては優秀?」
「他国と同じ程度だ」
「褒めてねぇな」
三人の番が来る。
若い兵士が記録板を持ち、前へ出た。
「氏名と出身を」
「ザルド。出身は答える必要があるか」
「国境を越える者は――」
「バン。出身は遠くだ」
「遠くでは記録できない」
「別の世界」
若い兵士の手が止まる。
「ふざけているのか」
「本当だぞ」
「バン」
アルフィアが低く呼ぶ。
「嘘ついてねぇだろ」
「説明が面倒になる」
「では、出身不明と書け」
ザルドが言う。
若い兵士は不満そうに。
記録板へ文字を書いた。
「女は」
「アルフィア」
「所属は?」
「ない」
「三人とも所属なし?」
「ああ」
「恩恵は」
「質問が多いな」
アルフィアの目が細くなる。
「規則だ」
若い兵士も引かない。
「荷物を確認する」
「断る」
「危険物を隠しているとの記録が――」
「隠していない。証明書を読め」
「外から見るだけだ」
「同じ会話をセルバでもした」
若い兵士が槍へ手を掛ける。
「ここはセルバではない」
「だから何だ」
二人の間の空気が。
一気に張り詰めた。
「アルフィア」
ザルドが呼ぶ。
「抑えろ」
「私は何もしていない」
「顔が怖ぇぞ」
バンが言う。
「お前は黙れ」
若い兵士の背後から。
年老いた兵士が歩いてきた。
白いものが混じった短い髪。
古い傷の残る頬。
左足を僅かに引きずっている。
「何を揉めている」
「隊長。この三人が荷物検査を拒否しています」
「証明書は?」
「セルバから出ています。ですが――」
老兵は紙を受け取った。
簡単に目を通す。
「鍛冶神へ見せる品か」
「ああ」
ザルドが答える。
「開けば、ここで何が起きるか保証できない」
「分かった。通せ」
「隊長?」
「セルバの責任者が署名している。ここで開ける必要はない」
若い兵士は納得できない顔をした。
それでも命令には従う。
「名前だけ、もう一度お願いします」
老兵が言った。
「ザルド」
「アルフィア」
「バン」
その瞬間。
老兵の顔から、表情が消えた。
「……ザルド?」
「ああ」
「アルフィア……?」
銀髪の女を見る。
次に。
再びザルドを見上げる。
顔色が急速に青くなっていった。
「隊長?」
若い兵士が不審そうに呼ぶ。
老兵は一歩。
後ろへ下がった。
「まさか」
「俺を知っているのか」
ザルドが尋ねる。
「知っているも何も……」
老兵の左手が。
古傷の残る脚へ触れた。
「二十年近く前……オラリオ遠征軍にいた」
ザルドの眉が僅かに動く。
「第六遠征か」
「覚えているのか?」
「軍の番号まではな」
「では、なぜ」
「その頃、何度か来ていた」
「何度か……」
老兵の顔が引きつる。
若い兵士たちは、周囲へ集まり始めていた。
「この男たちが何者なんです?」
「黙れ」
老兵が低く命じる。
「だが――」
「槍を下ろせ。今すぐだ」
兵士たちは困惑しながらも。
槍の穂先を下へ向ける。
バンは面白そうにザルドを見る。
「何したんだよ」
「軍を止めただけだ」
「だけ?」
老兵が震える声で口を開く。
「我々の先陣が……あの男一人に止められた」
「一人で?」
バンの目が輝く。
「数千の兵がいた。騎兵も。攻城兵器も」
「ザルド一人に?」
「最初の一撃で、前列が消えた」
「消してはいない」
ザルドが訂正する。
「吹き飛ばしただけだ」
「同じだ!」
老兵の声が裏返る。
「地面ごと砕けた!馬も兵も何十人も宙を飛んだ!あの時、俺は後列にいたから生きている!」
「派手だなぁ」
バンが笑う。
「お前、オレより盗賊っぽいことしてねぇ?」
「向こうから攻めてきた」
「便利な言葉だな」
「事実だ」
老兵の視線が。
今度はアルフィアへ向く。
「それに……あの鐘」
アルフィアの目が細くなる。
「覚えているのか」
「忘れるものか」
老兵の身体が震えた。
「攻城兵器を並べた丘へ、澄んだ鐘の音が一度響いた。次の瞬間、すべて砕けていた」
「人間へ当てなかった」
「それでも、全軍が逃げた!」
「賢明な判断だ」
「お前ら、本当に何してきたんだよ」
バンが声を上げて笑う。
若い兵士たちは。
ザルドとアルフィアを見ながら、無言で後退している。
「この二人が……」
「オラリオの怪物……」
「声が大きい」
アルフィアが言った。
それだけで。
兵士たちの口が一斉に閉じた。
バンが肩を震わせる。
「笑うな」
アルフィアが睨む。
「だってよ」
「雑音だ」
「お前らの方が、オレより全然有名じゃねぇか」
「昔の話だ」
ザルドが言う。
「兵士の顔など覚えていない」
アルフィアも続ける。
「聞いたか、隊長。顔覚えられてねぇぞ」
「覚えられていなくて幸運だと思っている!」
老兵は即答した。
「正しいな」
ザルドが頷く。
バンはさらに笑った。
老兵は部下へ向き直る。
「通行許可を出せ。荷物へ触れるな。質問もするな」
「しかし、規則が――」
「この二人へ規則を押しつけたいなら、お前がやれ」
若い兵士は。
ザルドの巨体。
アルフィアの銀色の瞳。
そして、二人の間で楽しそうに笑うバンを見た。
「……すぐに許可を出します」
「素直でよろしい」
バンが言う。
「お前は何者なんだ」
老兵が尋ねた。
「オレ?」
「あの二人と一緒に歩き、平然と笑っている」
「友達?」
ザルドとアルフィアが。
同時にバンを見る。
「何だよ」
「勝手に決めるな」
アルフィアが言う。
「違うの?」
「旅の同行者だ」
ザルドが答える。
「ほとんど同じだろ」
「違う」
「冷てぇなぁ」
老兵は三人を見回した。
「今度は、ラキアへ何をしに来た」
「通り道だ」
ザルドが答える。
「薬を村へ届けただけだ」
「戦うつもりは?」
「ない」
「本当に?」
「アレスが来なければな」
アルフィアが言った。
老兵の顔がさらに青くなる。
「絶対に知らせるな」
部下へ命じる。
「アレス様が知れば、必ず会いに来る!」
「やっぱ会ってみたいな」
バンが言う。
「やめろ!」
老兵。
ザルド。
アルフィア。
三人の声が重なった。
「そこまで?」
「頼むから、すぐ国を出てくれ」
「追い出されてんぞ」
バンが笑う。
「望むところだ」
アルフィアが答えた。
◇
許可証は。
驚くほど早く発行された。
荷物は開けられず。
追加の税も。
質問もなかった。
門の前にいた兵士たちは。
三人が通るため、道の左右へ整列している。
見送りというより。
一刻も早く外へ出すための道だった。
「待遇よくねぇ?」
バンが言う。
「恐れられているだけだ」
ザルドが答える。
「顔が怖いから?」
「お前が聞いた話を忘れたのか」
「冗談だって」
門の向こう。
街道が、ラキアの外へ続いている。
赤い獅子の旗。
石壁。
兵士たち。
三人は、それらを背にして歩き始めた。
バンが振り返る。
老兵は今も。
門の下で三人を見送っている。
「なあ!」
バンが声を上げる。
老兵の肩が跳ねた。
「何だ!」
「畑の若い兵士たち、死なせんなよ!」
「……」
「アレスが馬鹿やっても、止められる奴は止めろ!」
老兵はしばらく黙り。
やがて。
右手を胸へ当てた。
「努力する」
「頼んだぞ!」
バンが手を振る。
三人は再び前を向いた。
街道の両側から。
少しずつ葡萄畑が減っていく。
赤い旗も。
軍用の荷車も。
兵士の姿も遠ざかる。
丘を一つ越えた時。
ラキア王国の関所は、完全に見えなくなった。
「終わったな」
バンが言う。
「何がだ」
アルフィアが尋ねる。
「馬鹿神の国」
「アレス本人とは会っていない」
「十分分かったぞ」
「何がだ」
「見た目は知らねぇけど、相当な馬鹿だって」
「それだけ分かればいい」
ザルドが答える。
「村の飯はうまかったな」
「酒も」
「結局それか」
「大事だろ」
「薬を届けたことを忘れるな」
「忘れてねぇよ」
バンは背中の袋へ手を回す。
クレシューズ。
名もない結晶。
どちらも静かだった。
だが。
壊れた神器と。
銀色の光を宿す結晶を運ぶ道は。
確実に、オラリオへ近づいている。
「次の大きな町まで、どれくらい?」
バンが尋ねる。
「このままなら三日ほどだ」
ザルドが答える。
「酒ある?」
「知らん」
「飯は?」
「あるだろう」
「楽しみだな」
「お前はそれしかないのか」
アルフィアが言う。
「オラリオ着いたら、クレシューズ見てもらうだろ」
「ああ」
「その後、うまいもん食う」
「直ると決まっていない」
「分かってる」
「期待しすぎるな」
「それも分かってるよ」
バンは前を見る。
遠くへ続く街道。
低い丘。
そのさらに向こう。
まだ見えないオラリオ。
「でも、こいつが諦めてねぇからな」
背負い袋へ。
軽く手を置く。
音は鳴らない。
それでも。
バンは笑っていた。
「行こうぜ」
「ああ」
ザルドが答える。
「言われなくても進んでいる」
アルフィアも続ける。
三人の影が。
午後の街道へ長く伸びていく。
川辺の宿場町。
兵士の酒場。
薬を待つ村。
徴兵される少年。
病と向き合う者たち。
そして。
かつて二人の名を知った老兵。
軍神の国で生まれた短い縁を背に。
三人は。
再び、オラリオへ続く道を歩き始めた。
今回は、リュネ村を出発し、ラキア王国の関所を越えるまでを描きました。
古参兵がザルドとアルフィアの正体に気づく場面を入れつつ、最後はラキアを離れ、三人が再びオラリオへの旅へ戻る形にしています。
これで第9部は終了です。