強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第60話 旅人たちの宿

翌朝。

 

共同野営地を出た一行は、さらに西へ向かって街道を進んだ。

 

道幅は昨日よりも広い。

 

地面には、幾重にも重なった車輪の跡。

 

オラリオへ向かう荷車だけでなく、都市から各地へ商品を運ぶ隊商とも、何度もすれ違った。

 

武器。

 

薬。

 

衣服。

 

香辛料。

 

乾燥させた食料。

 

空になった木箱。

 

魔石灯の部品らしき金属製品。

 

迷宮都市から外へ運ばれていく品もあれば、反対に都市へ集められていく品もある。

 

「街一つに、随分いろんなもんが集まるんだな」

 

バンは、すれ違った荷車を振り返った。

 

荷台には、大きな酒樽が六つ積まれている。

 

「前を見ろ」

 

アルフィアが言った。

 

「見てるぞ」

 

「後ろを向いている」

 

「酒樽も見てる」

 

「それを前とは言わない」

 

「オラリオ行きだったな」

 

「だから何だ」

 

「オレたちより先に着くかもしれねぇ」

 

「酒樽と競うな」

 

バンは名残惜しそうに荷車を見送った。

 

その横を、昨日出会った若者たちが歩いている。

 

カイル。

 

リナ。

 

テオ。

 

三人は共同野営地を出たあとも、同じ街道を進んでいた。

 

目的地が同じ以上、無理に別れる理由もない。

 

ただし昨日までと違い、カイルはアルフィアから教えられたことを意識しているらしく、道行く旅人の武器や荷物を眺めながらも、不用意に所属を尋ねることはなくなっていた。

 

「あの人たちも冒険者でしょうか」

 

カイルが、小声で尋ねた。

 

少し前を歩く四人組。

 

全員が武器を持ち、防具にも傷がある。

 

「可能性は高い」

 

ザルドが答えた。

 

「どのファミリアか分かりますか?」

 

「分からん」

 

「装備だけでは?」

 

「統一された紋章もない。都市の外で活動する傭兵かもしれん」

 

「冒険者でも、全員が同じような格好をしているわけではないんですね」

 

「当然だ」

 

アルフィアが言う。

 

「武器も役割も違う。装備だけを見て、相手の能力まで決めつけるな」

 

「はい」

 

「ただし、何を使うかは見ておけ。剣、槍、弓、杖。それだけでも、距離の取り方は推測できる」

 

「戦うつもりで見るんですか?」

 

リナが尋ねた。

 

「戦わないために見る」

 

アルフィアは前を向いたまま答える。

 

「相手の力量も武器も知らずに近づく方が、余計な争いを招く」

 

「お前、ずっとそんなふうに人を見てんのか?」

 

バンが聞いた。

 

「ああ」

 

「疲れねぇ?」

 

「お前を見張るよりは楽だ」

 

「オレ、武器より危険扱いされてねぇか?」

 

「今さら気づいたのか」

 

リナが笑いを堪えた。

 

カイルも笑いそうになったが、アルフィアの横顔を見て口を閉じる。

 

本人は冗談を言ったつもりがないらしい。

 

 

 

 

昼を過ぎた頃。

 

道の先に、長い木柵と複数の建物が見えてきた。

 

街というほど大きくはない。

 

だが、普通の村よりは明らかに人が多い。

 

鍛冶場。

 

馬小屋。

 

荷車の修理場。

 

食料品店。

 

旅具を扱う露店。

 

そして街道に面して、いくつもの宿が並んでいる。

 

「宿場ですか?」

 

リナが尋ねた。

 

「ああ」

 

ザルドが答えた。

 

「オラリオへ入る前、最後に大勢が泊まる場所だ」

 

「ここからなら、あとどれくらい?」

 

バンが聞く。

 

「明日一日歩けば、都市の近くまで行ける」

 

「酒場あんのか?」

 

「宿場だ。ない方がおかしい」

 

「先にそれ言えよ」

 

「今言った」

 

バンの足が僅かに速くなる。

 

「走るな」

 

アルフィアが言った。

 

「走ってねぇよ」

 

「歩幅が伸びた」

 

「早く宿取らねぇと埋まるだろ」

 

「酒場へ行きたいだけだ」

 

「飯も食いたい」

 

「訂正になっていない」

 

宿場の中央に入ると、周囲の喧騒が一気に大きくなった。

 

馬のいななき。

 

荷車を誘導する声。

 

値段を交渉する商人。

 

宿を探す旅人。

 

武具の傷を確認する鍛冶師。

 

外の卓で昼間から酒を飲む冒険者たち。

 

遠く離れたオラリオの城壁は、まだ見えない。

 

しかし、この宿場にはすでに迷宮都市の熱気が流れ込んでいた。

 

「すごい人ですね」

 

カイルが辺りを見回す。

 

「オラリオは、これより多い」

 

アルフィアが言う。

 

「これより?」

 

「比べる価値もない」

 

「迷子になりそう……」

 

リナが呟いた。

 

「お前たちは三人で動け」

 

ザルドが言う。

 

「宿を探す時も、ファミリアを訪ねる時も、勝手に別れるな」

 

「はい」

 

「特にカイルから目を離すな」

 

アルフィアが続ける。

 

「何で俺だけなんですか」

 

「最初に余計なことをする顔をしている」

 

「顔で分かるんですか?」

 

「分かる」

 

「オレと同じだな」

 

バンがカイルの肩へ腕を回そうとする。

 

「一緒にするな」

 

アルフィアの声が飛んだ。

 

「まだ何もしてねぇだろ」

 

「する前に止めた」

 

カイルは、バンとアルフィアを交互に見た。

 

「バンさんも、昔はよく注意されたんですか?」

 

「今もされてんだろ」

 

リナが即座に言った。

 

「確かに」

 

「納得すんなよ」

 

三人が笑う。

 

バンは頭をかきながら、宿の看板を見上げた。

 

木製の看板には、羽を休める鳥の絵。

 

その下に、〈渡り鳥の止まり木〉と書かれている。

 

「ここにするか」

 

ザルドが言った。

 

「酒ある?」

 

「看板の横に樽が描かれている」

 

「決まりだな」

 

「宿の良し悪しを酒樽で決めるな」

 

「分かりやすいだろ」

 

一行が扉を開ける。

 

中は、すでに多くの客で埋まっていた。

 

 

 

 

「部屋は二つしか空いてないよ!」

 

受付にいた女将が、大きな声で言った。

 

四十代ほどの、腕の太い女性だ。

 

片手で帳簿をめくりながら、もう片方の手で厨房へ指示を飛ばしている。

 

「個室が一つ。大部屋が一つ。馬小屋ならまだ余裕がある!」

 

「大部屋は何人入れるんですか?」

 

リナが尋ねる。

 

「あと五人!」

 

若者三人には十分だ。

 

ザルドが個室を一つ。

 

若者たちが大部屋を取る。

 

アルフィアは個室の鍵を受け取り、バンを見る。

 

「お前はどうする」

 

「何でオレに聞く?」

 

「個室は一つだ」

 

「三人で寝りゃいいだろ」

 

「断る」

 

「即答かよ」

 

「ザルドとお前で馬小屋へ行け」

 

「なぜ俺まで巻き込む」

 

ザルドが言った。

 

「なら、お前がバンと寝ろ」

 

「断る」

 

「お前ら仲いいな」

 

「どこを見てそう判断した」

 

アルフィアとザルドの声が重なった。

 

女将が吹き出す。

 

「個室は寝台が二つあるよ。床にも一人くらいなら寝られる」

 

「じゃあ、それでいいだろ」

 

バンが言う。

 

「お前が床だ」

 

アルフィアが鍵を持ったまま告げる。

 

「まだ決まってねぇだろ」

 

「決めた」

 

「横暴だな」

 

「嫌なら馬小屋へ行け」

 

「床でいいです」

 

「切り替えが早いな」

 

ザルドが言った。

 

宿代を払う段階になり。

 

バンは腰の小袋を開いた。

 

中から出てきたのは、数枚の硬貨。

 

金属同士が触れ合う音も、寂しい。

 

「……減ったな」

 

バンが呟く。

 

「使ったからだ」

 

アルフィアが言う。

 

「酒と飯くらいしか買ってねぇぞ」

 

「十分だ」

 

「あと服と、旅道具と、食材と」

 

「十分使っている」

 

バンは硬貨を指先で数える。

 

宿代を払えば、食事と酒の両方を頼むには少し足りない。

 

「飯か酒か……」

 

「飯にしろ」

 

ザルドが言った。

 

「決めるの早くねぇ?」

 

「空腹のまま飲めば酔いが回る」

 

「それがいいんだろ」

 

「倒れたお前を運ぶ気はない」

 

「オレが酒で倒れると思うか?」

 

「倒れなくても面倒になる」

 

「信用ねぇな」

 

バンが硬貨を見つめていると、厨房の奥から怒鳴り声が響いた。

 

「鍋が焦げるよ!」

 

「分かってる!」

 

「肉を切る手が足りない!」

 

「今やってる!」

 

「そっちの皿を先に出して!」

 

扉が開くたび、厨房から熱気と煙が流れてくる。

 

大勢の客が一度に入ったらしく、中は完全に手が回っていない。

 

バンの鼻が動く。

 

「焦げてんな」

 

「この人数だ。仕方ない」

 

ザルドが厨房を見る。

 

「まだ食える程度だ」

 

「今ならな」

 

バンは小袋を閉じた。

 

「ちょっと稼いでくるか」

 

「何をする気だ」

 

アルフィアが睨む。

 

「飯作るだけだ」

 

「盗むな」

 

「料理と盗みを一緒にすんなよ」

 

「お前なら厨房から酒を盗む」

 

「飲む前に聞くって」

 

「飲むことは確定しているのか」

 

バンは受付の女将へ近づいた。

 

「なあ」

 

「何だい。部屋ならもう決めただろ!」

 

「厨房、手ぇ足りてねぇんだろ」

 

「見れば分かるだろ!」

 

「手伝う代わりに、飯と酒つけてくれ」

 

女将の手が止まる。

 

バンの姿を上から下まで見る。

 

赤い長衣。

 

細身の身体。

 

料理人らしい格好には見えない。

 

「あんた、料理できるのかい?」

 

「できるぞ」

 

「包丁を持ったことは?」

 

「酒場の厨房を任されてた」

 

「どこの酒場だい」

 

「遠いとこ」

 

「曖昧だね」

 

「焦げるぞ」

 

バンが厨房を指さした。

 

直後。

 

「女将!鍋が!」

 

「分かったよ!」

 

女将は頭をかき。

 

バンへ布の前掛けを投げつけた。

 

「使えなかったら酒はなしだ!」

 

「飯は?」

 

「それもなし!」

 

「厳しいな」

 

「働き次第だよ!」

 

「成立」

 

バンは前掛けを腰へ巻き、厨房へ入っていった。

 

 

 

 

厨房は戦場だった。

 

二つの大鍋。

 

三つの鉄鍋。

 

積み上がった皿。

 

切られていない根菜。

 

下処理の終わっていない山鳥。

 

客へ出すための黒パン。

 

香草。

 

塩。

 

干した茸。

 

料理人は二人。

 

手伝いの少年が一人。

 

誰もが目の前の作業で精一杯になっている。

 

「誰だ!」

 

腕まくりをした料理人が怒鳴る。

 

「手伝い」

 

「包丁を持てるのか!」

 

「どれ切る?」

 

「山鳥を二羽!骨を外して一口大だ!」

 

「二羽で足りんのか?」

 

「何?」

 

バンは客席の数。

 

残っている鍋。

 

盛りつけられた皿。

 

食材の量を一度見回した。

 

「あと三十人は飯待ってるだろ」

 

「……分かるのか?」

 

「肉が足りねぇ。山鳥四羽。根菜も倍」

 

「鍋に入らない!」

 

「二つに分けろ。片方は煮込み。片方は焼く」

 

「勝手に――」

 

「焦げるぞ」

 

料理人が振り返る。

 

鉄鍋の底から煙が上がっていた。

 

バンは横から柄を掴み、火から外す。

 

焦げ始めた肉を皿へ移し。

 

鍋底に残った旨味へ、少量の酒と水を入れる。

 

立ち上った蒸気が、焦げ臭さを押し流した。

 

香草。

 

塩。

 

刻んだ茸。

 

バンは迷わず加えていく。

 

「おい、その酒は客に出す――」

 

「焦がした肉を捨てるより安いだろ」

 

「……」

 

「味見」

 

木匙を料理人へ渡す。

 

相手は警戒しながら口へ入れた。

 

目を見開く。

 

「焦げ臭くない……」

 

「焦げる前に止めたからな」

 

バンは包丁を取る。

 

山鳥をまな板へ置き。

 

刃を滑らせた。

 

皮。

 

肉。

 

関節。

 

骨。

 

ほとんど止まることなく、四羽が次々と解体されていく。

 

無駄な肉は残らない。

 

骨は別の鍋へ。

 

皮は細く切り。

 

脂を出すため鉄鍋へ入れる。

 

「速っ……」

 

手伝いの少年が呟いた。

 

「見てねぇで根菜洗え」

 

「は、はい!」

 

「皮は厚く剥くな。泥だけ落とせ」

 

「はい!」

 

バンは山鳥の肉へ塩を振る。

 

香草を揉み込み。

 

脂の出た鉄鍋へ、皮目から並べていく。

 

肉が焼ける音。

 

香草の香り。

 

山鳥の脂。

 

それまで厨房にこもっていた焦げ臭さが、食欲を誘う匂いへ変わっていった。

 

客席から声が上がる。

 

「何だ、この匂い!」

 

「さっきと違うぞ!」

 

「まだか!」

 

「うるせぇ。今作ってる!」

 

バンが厨房から怒鳴り返す。

 

客席が一瞬静まり。

 

すぐに笑い声が起こった。

 

料理人は、焼き上がった肉を見つめている。

 

「本当に料理人だったのか」

 

「だから言っただろ」

 

「どれくらいやってた」

 

「結構長いぞ」

 

「店の名は?」

 

「言っても知らねぇよ」

 

バンは焼いた山鳥を切り分ける。

 

鍋へ入れた方には、骨から取った出汁。

 

根菜。

 

茸。

 

固くなった黒パンを細かくちぎって加え、とろみをつける。

 

「古いパンまで使うのか」

 

「腹に入れば同じって意味じゃねぇぞ」

 

バンが鍋を混ぜる。

 

「固くなったパンは汁を吸わせた方がうまい」

 

「味は?」

 

「これから整える」

 

一口。

 

塩を少し。

 

香草を一つまみ。

 

火を弱める。

 

「できた」

 

「早すぎるだろ」

 

「客を待たせてんだから急ぐに決まってんだろ」

 

バンは器を並べ始めた。

 

 

 

 

しばらくして。

 

ザルドたちの卓にも料理が運ばれてきた。

 

山鳥と根菜の煮込み。

 

香草で焼いた肉。

 

黒パン。

 

そして、バンの前には大きな木杯に入った麦酒が置かれている。

 

「勝ち取ったぞ」

 

バンが杯を持ち上げた。

 

「厨房で酒を飲まなかったことだけは評価する」

 

アルフィアが言った。

 

「飲もうとしたら女将に包丁向けられた」

 

「当然だ」

 

カイルが煮込みを食べる。

 

目を大きく見開いた。

 

「うまい!」

 

「さっきまでの匂いと全然違う」

 

リナも匙を動かす。

 

「肉も柔らかい」

 

テオは黙ったまま二口、三口と食べ。

 

「パンが入ってる」

 

「分かるのか」

 

バンが聞いた。

 

「少しだけ」

 

「固くなったやつを煮崩した。腹にも溜まるぞ」

 

「バンさんが全部作ったんですか?」

 

「途中からな。元の料理人も作ってる」

 

「本当に酒場の料理人だったんですね」

 

カイルが感心したように言う。

 

「疑ってたのかよ」

 

「少しだけ」

 

「正直だな」

 

「バンさん、いつもザルドさんの料理を食べてたから」

 

「ザルドの飯がうまいから任せてただけだ」

 

バンは麦酒を飲む。

 

「作れる奴が二人いるなら、毎回同じ奴が作る必要ねぇだろ」

 

「腕は確かだ」

 

ザルドが煮込みを食べながら言った。

 

バンが杯を止める。

 

「何だよ。珍しく素直に褒めんじゃねぇか」

 

「事実を言っただけだ」

 

「じゃあ、次の飯はオレが作るか」

 

「食材を使い切るな」

 

「信用ねぇな」

 

「お前は三人分のつもりで十人分作る」

 

アルフィアが続ける。

 

「余ったら食えばいいだろ」

 

「お前が一人でな」

 

「ザルドも食うだろ」

 

「食うが、限度はある」

 

「暴喰が限度とか言うのかよ」

 

ザルドの眉が動いた。

 

「量と無駄は別だ」

 

「分かってるって」

 

「分かっている者は、干し肉を一晩で半分食わん」

 

「あれは腹減ってたからだ」

 

「お前は常に腹が減っている」

 

「健康ってことだろ」

 

カイルたちは笑いながら、煮込みを食べた。

 

周囲の卓でも、料理を褒める声が上がっている。

 

厨房から女将が顔を出し。

 

バンへ硬貨を一枚投げた。

 

「追加だ!」

 

バンが片手で受け取る。

 

「何これ」

 

「働きが良かった分!」

 

「酒、もう一杯でもいいぞ」

 

「硬貨で買いな!」

 

「結局払うのかよ」

 

「当たり前だ!」

 

女将は厨房へ戻っていく。

 

バンは受け取った硬貨を見る。

 

「増えた」

 

「すぐに減る」

 

アルフィアが言った。

 

「まだ使ってねぇだろ」

 

「次の杯を見ている」

 

「よく分かったな」

 

「お前だからな」

 

 

 

 

食事時が一段落すると。

 

宿の中央にある大きな暖炉の前へ、旅人たちが集まり始めた。

 

酒を飲む者。

 

地図を広げる者。

 

荷物の交渉をする商人。

 

明日の天気を気にする御者。

 

オラリオから来た者と、これから向かう者が同じ場所に座り、各地の話を交換している。

 

「東の街道は盗賊が増えたらしい」

 

「ラキアの兵がまた国境を騒がせている」

 

「北の山道は雪解けで崩れたぞ」

 

「オラリオじゃ、新しい神が眷族を探してる」

 

「どこの神だ?」

 

「知らん。降りてきたばかりらしい」

 

話題は次々と移り変わる。

 

やがて。

 

一人の商人が、酒杯を机へ置いた。

 

「そういや、黒い砂漠の話を聞いたか?」

 

ザルドの手が僅かに止まった。

 

アルフィアは表情を変えない。

 

バンは麦酒を飲みながら、商人の方へ目を向けた。

 

「黒い砂漠?」

 

別の旅人が聞き返す。

 

「カイオス砂漠の奥だ。昔から、陸の王者が眠っていた場所だよ」

 

「ベヒーモスか」

 

「そうだ」

 

宿の空気が少し変わる。

 

三大冒険者依頼の一角。

 

名前だけなら、冒険者でなくとも知っている。

 

「討たれたって話だろ?」

 

「ああ。ゼウスとヘラの二大派閥が、ついに仕留めた」

 

「今さらか。何か月前の話だよ」

 

「討伐されたことは知ってる。俺が言ってるのは、その時に現れた赤い男の話だ」

 

「赤い男?」

 

バンの眉が僅かに上がる。

 

カイルたちも、興味深そうに顔を向けた。

 

商人は周囲の視線が集まったことに気をよくし、声を少し大きくした。

 

「赤い長衣を着た、正体不明の男だ。ゼウスとヘラの幹部に混じって、ベヒーモスと戦ったらしい」

 

「どこのファミリアだ?」

 

「それが分からない」

 

「嘘くさいな」

 

「嘘じゃない。砂漠から逃げてきた商人が見たと言っていた」

 

別の男が鼻を鳴らす。

 

「俺が聞いた話じゃ、赤い男は東方の王族だ」

 

「俺は、ゼウスが隠していた眷族だと聞いたぞ」

 

「いや、ファミリアを持たない傭兵だ」

 

「古代の英雄が生き返ったとも聞いた」

 

「話がでかくなってんな」

 

バンが小さく言った。

 

アルフィアが横目で見る。

 

「誰のせいだ」

 

「オレ?」

 

「他に誰がいる」

 

「噂流した覚えねぇぞ」

 

「目立つ行動をした」

 

「ベヒーモス相手に目立つなって方が無理だろ」

 

「黙れ」

 

商人の話は続いている。

 

「赤い男は、ベヒーモスの角を素手でへし折ったらしい」

 

「素手で?」

 

「俺が聞いたのは、妙な棍を使っていたという話だ」

 

「いや、武器なんて持っていなかった。巨獣の力を奪って、自分のものにしたんだ」

 

「魔法か?」

 

「分からん。だが、ベヒーモスが動けなくなった瞬間、赤い男だけが笑っていたそうだ」

 

「お前、笑ってたか?」

 

ザルドが低い声で尋ねる。

 

「覚えてねぇ」

 

「笑っていた」

 

アルフィアが言った。

 

「マジか」

 

「いつも通りだ」

 

「なら仕方ねぇな」

 

「何が仕方ない」

 

別の卓から、酒に酔った男が口を挟んだ。

 

「その赤い男なら、ベヒーモスの毒を飲み干したらしいぞ!」

 

「それは違う」

 

バンが思わず言った。

 

周囲の視線が集まる。

 

「何で分かる?」

 

男が尋ねた。

 

バンは一拍置き。

 

ザルドを見る。

 

「飲むより食う方がいそうだからな」

 

ザルドの目が細くなる。

 

「誰のことだ」

 

「さあな」

 

「喧嘩なら外でやれ」

 

アルフィアが言った。

 

カイルは、噂を話す商人とバンたちを交互に見ている。

 

「その赤い男、強いんですかね」

 

「噂が本当ならな」

 

バンが答える。

 

「Lv.はいくつなんだろう」

 

「知らねぇ」

 

「どんな技を使うんでしょう」

 

「さあな」

 

「会ってみたいです」

 

「やめとけ」

 

「どうしてですか?」

 

「性格悪いぞ、たぶん」

 

「バンさん、知ってるんですか?」

 

「知らねぇよ」

 

「今の言い方、絶対知ってますよね」

 

「気のせいだ」

 

リナが目を細める。

 

テオも、バンの赤い長衣を静かに見ている。

 

だが、商人が語る人物と、目の前で厨房に立っていた旅人が同一人物だとは、まだ結びついていないらしい。

 

何より。

 

噂の赤い男は、話されるたびに姿を変えている。

 

巨大な筋肉を持つ大男。

 

東方の剣士。

 

片目を隠した老人。

 

炎を吐く獣人。

 

赤い髪の魔導士。

 

同じなのは、赤い何かを身につけていたという点だけだった。

 

「噂なんてそんなもんだ」

 

バンは杯を傾ける。

 

「見た奴が話して、聞いた奴が足して、次の奴が面白くする」

 

「では、全部嘘なんですか?」

 

リナが尋ねた。

 

「全部が嘘ってわけでもねぇ」

 

バンは酒の表面を見る。

 

「本当のことが残ってるから、話が広がるんだろ」

 

「どこまで本当なんでしょう」

 

「知りたきゃ、実際に見た奴に聞くしかねぇな」

 

「バンさんは、どう思います?」

 

「赤い男についてか?」

 

「はい」

 

バンは少し考えるふりをして。

 

「腹減ってたんじゃねぇか」

 

「そこですか?」

 

「腹減ってる時にでけぇ獲物が出てきたら、倒すだろ」

 

「普通は倒せません」

 

「そうか?」

 

「そうです」

 

カイルが真顔で答える。

 

ザルドは酒杯を置いた。

 

「英雄譚も噂話も、生き残った者が語りやすい形に削ったものだ」

 

低い声が、卓の上へ落ちる。

 

カイルたちがザルドを見る。

 

「強者の一撃は語られる。だが、その一撃へ至るまでに、誰が傷つき、誰が退き、誰が支えたかは忘れられる」

 

「……」

 

「巨大な怪物を討った話だけを聞き、自分にもできると思うな」

 

ザルドの目は、暖炉の炎ではないものを見ていた。

 

「戦いは、酒場で聞く物語ほど綺麗ではない」

 

カイルの顔から、浮ついた興奮が少し消えた。

 

「はい」

 

「ただし」

 

ザルドが続ける。

 

「物語を聞くなとは言わん」

 

「え?」

 

「憧れは、足を前へ出す力になる」

 

その言葉に。

 

アルフィアが僅かに目を開いた。

 

「だが、自分が物語の主役だと思うな。最初は誰もが、死ねば名も残らない一人にすぎん」

 

「厳しいですね」

 

リナが言った。

 

「事実だ」

 

「でも、ザルドさんは有名な冒険者なんですよね」

 

「有名であることと、死なないことは別だ」

 

カイルたちは黙って頷いた。

 

バンは麦酒を一口飲み。

 

「難しく考えすぎだろ」

 

「お前は考えなさすぎる」

 

アルフィアが返す。

 

「夢見て、怖がって、腹減ったら飯食って、生きて帰る。それでいいじゃねぇか」

 

「最後だけは間違っていない」

 

「前も合ってるだろ」

 

「腹が減ることだけはな」

 

「そこかよ」

 

暖炉の周囲に、再び笑いが起こった。

 

 

 

 

夜が深まり。

 

宿の客たちが少しずつ部屋へ戻っていった。

 

バンは宿の外にある長椅子へ座り、最後の麦酒を飲んでいた。

 

宿場の灯り。

 

馬小屋から聞こえる寝息。

 

遠くを進む荷車の車輪。

 

西へ向かう街道は、夜になっても完全には静まらない。

 

「まだ飲んでいたのか」

 

ザルドが宿から出てきた。

 

「これで最後」

 

「硬貨もか」

 

バンは小袋を振る。

 

かすかな音。

 

「まだあるぞ」

 

「数枚だろう」

 

「オラリオ着くまで持てばいい」

 

「着いた後はどうする」

 

「何とかなるだろ」

 

「お前はそればかりだな」

 

ザルドが隣へ腰を下ろす。

 

長椅子が大きく軋んだ。

 

「壊すなよ」

 

「俺のせいにするな」

 

「今、悲鳴上げたぞ」

 

「古いだけだ」

 

二人は西の暗闇を見る。

 

「変な感じだな」

 

バンが言った。

 

「何がだ」

 

「まだ街にも着いてねぇのに、オレの話が先に着いてる」

 

「お前だと分かる形ではない」

 

「赤い男ってとこだけ合ってたぞ」

 

「今後は赤を着るな」

 

「嫌だ」

 

「なら諦めろ」

 

「噂って面倒だな」

 

「王をしていたなら、慣れているだろう」

 

「オレの国じゃ、ここまで勝手な話にはならねぇよ」

 

「お前の国の者は、お前を知っているからだ」

 

ザルドは静かに言った。

 

「知らない者ほど、空白を好きな話で埋める」

 

「神様も同じか?」

 

「むしろ、神々の方が好む」

 

「暇なのか」

 

「暇だ」

 

「言い切ったな」

 

「下界へ娯楽を求めて降りてきた者たちだ」

 

「面倒そうだな」

 

「ああ」

 

「ザルドも苦労してんだな」

 

「大半は、うちの主神のせいでな」

 

「相変わらずみてぇだな、あのじじい」

 

「何も変わっていない」

 

「面白い神なんだろ?」

 

「面白さだけなら否定せん」

 

宿の扉が開き。

 

アルフィアが顔を出した。

 

「いつまで雑音を続ける気だ」

 

「聞こえてたのかよ」

 

「お前の声は無駄に通る」

 

「またそれか」

 

「寝ろ。明日は早い」

 

「床空いてる?」

 

「空けてある」

 

「優しいな」

 

「荷物の横だ」

 

「扱い悪くねぇか?」

 

「嫌なら外で寝ろ」

 

「中で寝ます」

 

バンは残った麦酒を飲み干し、立ち上がった。

 

その時。

 

街道を通りかかった御者が、宿の前で馬を止めた。

 

「明日、西へ行くのか?」

 

御者が尋ねる。

 

「ああ」

 

ザルドが答える。

 

「なら、昼前には丘を越える。天気が良ければ、あそこから塔が見えるぞ」

 

「塔?」

 

バンが聞いた。

 

「バベルだよ」

 

御者は笑った。

 

「迷宮都市の真ん中に立ってる、馬鹿みたいにでかい塔だ」

 

「どれくらいでけぇ?」

 

「見れば分かる」

 

「何だよ、それ」

 

「初めて見る奴は、みんな同じ顔をする」

 

御者は馬を進ませる。

 

荷車の灯りが、西の街道へ遠ざかっていった。

 

バンは暗闇の先を見る。

 

まだ塔は見えない。

 

城壁も。

 

都市の灯りも。

 

だが、その向こうに。

 

神々と冒険者が集まる街がある。

 

「明日か」

 

バンが呟いた。

 

「そうだ」

 

ザルドが答える。

 

「ようやくだな」

 

アルフィアは何も言わず、先に宿の中へ戻った。

 

バンも扉へ向かう。

 

その直前。

 

もう一度だけ、西の空を見た。

 

噂だけが先に歩く街道の果て。

 

まだ見ぬ迷宮都市は。

 

夜の向こうで、三人を待っていた。




今回はオラリオ直前の宿場で、旅人たちの噂とバンの料理人としての腕を描きました。

英雄の戦いが人から人へ伝わるうちに、少しずつ形を変えていく場面となっています。

特に、厨房へ入ったバンが焦げかけた料理を立て直し、そのまま大勢の食事を仕上げてしまう場面がお気に入りです。
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