翌朝。
共同野営地を出た一行は、さらに西へ向かって街道を進んだ。
道幅は昨日よりも広い。
地面には、幾重にも重なった車輪の跡。
オラリオへ向かう荷車だけでなく、都市から各地へ商品を運ぶ隊商とも、何度もすれ違った。
武器。
薬。
衣服。
香辛料。
乾燥させた食料。
空になった木箱。
魔石灯の部品らしき金属製品。
迷宮都市から外へ運ばれていく品もあれば、反対に都市へ集められていく品もある。
「街一つに、随分いろんなもんが集まるんだな」
バンは、すれ違った荷車を振り返った。
荷台には、大きな酒樽が六つ積まれている。
「前を見ろ」
アルフィアが言った。
「見てるぞ」
「後ろを向いている」
「酒樽も見てる」
「それを前とは言わない」
「オラリオ行きだったな」
「だから何だ」
「オレたちより先に着くかもしれねぇ」
「酒樽と競うな」
バンは名残惜しそうに荷車を見送った。
その横を、昨日出会った若者たちが歩いている。
カイル。
リナ。
テオ。
三人は共同野営地を出たあとも、同じ街道を進んでいた。
目的地が同じ以上、無理に別れる理由もない。
ただし昨日までと違い、カイルはアルフィアから教えられたことを意識しているらしく、道行く旅人の武器や荷物を眺めながらも、不用意に所属を尋ねることはなくなっていた。
「あの人たちも冒険者でしょうか」
カイルが、小声で尋ねた。
少し前を歩く四人組。
全員が武器を持ち、防具にも傷がある。
「可能性は高い」
ザルドが答えた。
「どのファミリアか分かりますか?」
「分からん」
「装備だけでは?」
「統一された紋章もない。都市の外で活動する傭兵かもしれん」
「冒険者でも、全員が同じような格好をしているわけではないんですね」
「当然だ」
アルフィアが言う。
「武器も役割も違う。装備だけを見て、相手の能力まで決めつけるな」
「はい」
「ただし、何を使うかは見ておけ。剣、槍、弓、杖。それだけでも、距離の取り方は推測できる」
「戦うつもりで見るんですか?」
リナが尋ねた。
「戦わないために見る」
アルフィアは前を向いたまま答える。
「相手の力量も武器も知らずに近づく方が、余計な争いを招く」
「お前、ずっとそんなふうに人を見てんのか?」
バンが聞いた。
「ああ」
「疲れねぇ?」
「お前を見張るよりは楽だ」
「オレ、武器より危険扱いされてねぇか?」
「今さら気づいたのか」
リナが笑いを堪えた。
カイルも笑いそうになったが、アルフィアの横顔を見て口を閉じる。
本人は冗談を言ったつもりがないらしい。
◇
昼を過ぎた頃。
道の先に、長い木柵と複数の建物が見えてきた。
街というほど大きくはない。
だが、普通の村よりは明らかに人が多い。
鍛冶場。
馬小屋。
荷車の修理場。
食料品店。
旅具を扱う露店。
そして街道に面して、いくつもの宿が並んでいる。
「宿場ですか?」
リナが尋ねた。
「ああ」
ザルドが答えた。
「オラリオへ入る前、最後に大勢が泊まる場所だ」
「ここからなら、あとどれくらい?」
バンが聞く。
「明日一日歩けば、都市の近くまで行ける」
「酒場あんのか?」
「宿場だ。ない方がおかしい」
「先にそれ言えよ」
「今言った」
バンの足が僅かに速くなる。
「走るな」
アルフィアが言った。
「走ってねぇよ」
「歩幅が伸びた」
「早く宿取らねぇと埋まるだろ」
「酒場へ行きたいだけだ」
「飯も食いたい」
「訂正になっていない」
宿場の中央に入ると、周囲の喧騒が一気に大きくなった。
馬のいななき。
荷車を誘導する声。
値段を交渉する商人。
宿を探す旅人。
武具の傷を確認する鍛冶師。
外の卓で昼間から酒を飲む冒険者たち。
遠く離れたオラリオの城壁は、まだ見えない。
しかし、この宿場にはすでに迷宮都市の熱気が流れ込んでいた。
「すごい人ですね」
カイルが辺りを見回す。
「オラリオは、これより多い」
アルフィアが言う。
「これより?」
「比べる価値もない」
「迷子になりそう……」
リナが呟いた。
「お前たちは三人で動け」
ザルドが言う。
「宿を探す時も、ファミリアを訪ねる時も、勝手に別れるな」
「はい」
「特にカイルから目を離すな」
アルフィアが続ける。
「何で俺だけなんですか」
「最初に余計なことをする顔をしている」
「顔で分かるんですか?」
「分かる」
「オレと同じだな」
バンがカイルの肩へ腕を回そうとする。
「一緒にするな」
アルフィアの声が飛んだ。
「まだ何もしてねぇだろ」
「する前に止めた」
カイルは、バンとアルフィアを交互に見た。
「バンさんも、昔はよく注意されたんですか?」
「今もされてんだろ」
リナが即座に言った。
「確かに」
「納得すんなよ」
三人が笑う。
バンは頭をかきながら、宿の看板を見上げた。
木製の看板には、羽を休める鳥の絵。
その下に、〈渡り鳥の止まり木〉と書かれている。
「ここにするか」
ザルドが言った。
「酒ある?」
「看板の横に樽が描かれている」
「決まりだな」
「宿の良し悪しを酒樽で決めるな」
「分かりやすいだろ」
一行が扉を開ける。
中は、すでに多くの客で埋まっていた。
◇
「部屋は二つしか空いてないよ!」
受付にいた女将が、大きな声で言った。
四十代ほどの、腕の太い女性だ。
片手で帳簿をめくりながら、もう片方の手で厨房へ指示を飛ばしている。
「個室が一つ。大部屋が一つ。馬小屋ならまだ余裕がある!」
「大部屋は何人入れるんですか?」
リナが尋ねる。
「あと五人!」
若者三人には十分だ。
ザルドが個室を一つ。
若者たちが大部屋を取る。
アルフィアは個室の鍵を受け取り、バンを見る。
「お前はどうする」
「何でオレに聞く?」
「個室は一つだ」
「三人で寝りゃいいだろ」
「断る」
「即答かよ」
「ザルドとお前で馬小屋へ行け」
「なぜ俺まで巻き込む」
ザルドが言った。
「なら、お前がバンと寝ろ」
「断る」
「お前ら仲いいな」
「どこを見てそう判断した」
アルフィアとザルドの声が重なった。
女将が吹き出す。
「個室は寝台が二つあるよ。床にも一人くらいなら寝られる」
「じゃあ、それでいいだろ」
バンが言う。
「お前が床だ」
アルフィアが鍵を持ったまま告げる。
「まだ決まってねぇだろ」
「決めた」
「横暴だな」
「嫌なら馬小屋へ行け」
「床でいいです」
「切り替えが早いな」
ザルドが言った。
宿代を払う段階になり。
バンは腰の小袋を開いた。
中から出てきたのは、数枚の硬貨。
金属同士が触れ合う音も、寂しい。
「……減ったな」
バンが呟く。
「使ったからだ」
アルフィアが言う。
「酒と飯くらいしか買ってねぇぞ」
「十分だ」
「あと服と、旅道具と、食材と」
「十分使っている」
バンは硬貨を指先で数える。
宿代を払えば、食事と酒の両方を頼むには少し足りない。
「飯か酒か……」
「飯にしろ」
ザルドが言った。
「決めるの早くねぇ?」
「空腹のまま飲めば酔いが回る」
「それがいいんだろ」
「倒れたお前を運ぶ気はない」
「オレが酒で倒れると思うか?」
「倒れなくても面倒になる」
「信用ねぇな」
バンが硬貨を見つめていると、厨房の奥から怒鳴り声が響いた。
「鍋が焦げるよ!」
「分かってる!」
「肉を切る手が足りない!」
「今やってる!」
「そっちの皿を先に出して!」
扉が開くたび、厨房から熱気と煙が流れてくる。
大勢の客が一度に入ったらしく、中は完全に手が回っていない。
バンの鼻が動く。
「焦げてんな」
「この人数だ。仕方ない」
ザルドが厨房を見る。
「まだ食える程度だ」
「今ならな」
バンは小袋を閉じた。
「ちょっと稼いでくるか」
「何をする気だ」
アルフィアが睨む。
「飯作るだけだ」
「盗むな」
「料理と盗みを一緒にすんなよ」
「お前なら厨房から酒を盗む」
「飲む前に聞くって」
「飲むことは確定しているのか」
バンは受付の女将へ近づいた。
「なあ」
「何だい。部屋ならもう決めただろ!」
「厨房、手ぇ足りてねぇんだろ」
「見れば分かるだろ!」
「手伝う代わりに、飯と酒つけてくれ」
女将の手が止まる。
バンの姿を上から下まで見る。
赤い長衣。
細身の身体。
料理人らしい格好には見えない。
「あんた、料理できるのかい?」
「できるぞ」
「包丁を持ったことは?」
「酒場の厨房を任されてた」
「どこの酒場だい」
「遠いとこ」
「曖昧だね」
「焦げるぞ」
バンが厨房を指さした。
直後。
「女将!鍋が!」
「分かったよ!」
女将は頭をかき。
バンへ布の前掛けを投げつけた。
「使えなかったら酒はなしだ!」
「飯は?」
「それもなし!」
「厳しいな」
「働き次第だよ!」
「成立」
バンは前掛けを腰へ巻き、厨房へ入っていった。
◇
厨房は戦場だった。
二つの大鍋。
三つの鉄鍋。
積み上がった皿。
切られていない根菜。
下処理の終わっていない山鳥。
客へ出すための黒パン。
香草。
塩。
干した茸。
料理人は二人。
手伝いの少年が一人。
誰もが目の前の作業で精一杯になっている。
「誰だ!」
腕まくりをした料理人が怒鳴る。
「手伝い」
「包丁を持てるのか!」
「どれ切る?」
「山鳥を二羽!骨を外して一口大だ!」
「二羽で足りんのか?」
「何?」
バンは客席の数。
残っている鍋。
盛りつけられた皿。
食材の量を一度見回した。
「あと三十人は飯待ってるだろ」
「……分かるのか?」
「肉が足りねぇ。山鳥四羽。根菜も倍」
「鍋に入らない!」
「二つに分けろ。片方は煮込み。片方は焼く」
「勝手に――」
「焦げるぞ」
料理人が振り返る。
鉄鍋の底から煙が上がっていた。
バンは横から柄を掴み、火から外す。
焦げ始めた肉を皿へ移し。
鍋底に残った旨味へ、少量の酒と水を入れる。
立ち上った蒸気が、焦げ臭さを押し流した。
香草。
塩。
刻んだ茸。
バンは迷わず加えていく。
「おい、その酒は客に出す――」
「焦がした肉を捨てるより安いだろ」
「……」
「味見」
木匙を料理人へ渡す。
相手は警戒しながら口へ入れた。
目を見開く。
「焦げ臭くない……」
「焦げる前に止めたからな」
バンは包丁を取る。
山鳥をまな板へ置き。
刃を滑らせた。
皮。
肉。
関節。
骨。
ほとんど止まることなく、四羽が次々と解体されていく。
無駄な肉は残らない。
骨は別の鍋へ。
皮は細く切り。
脂を出すため鉄鍋へ入れる。
「速っ……」
手伝いの少年が呟いた。
「見てねぇで根菜洗え」
「は、はい!」
「皮は厚く剥くな。泥だけ落とせ」
「はい!」
バンは山鳥の肉へ塩を振る。
香草を揉み込み。
脂の出た鉄鍋へ、皮目から並べていく。
肉が焼ける音。
香草の香り。
山鳥の脂。
それまで厨房にこもっていた焦げ臭さが、食欲を誘う匂いへ変わっていった。
客席から声が上がる。
「何だ、この匂い!」
「さっきと違うぞ!」
「まだか!」
「うるせぇ。今作ってる!」
バンが厨房から怒鳴り返す。
客席が一瞬静まり。
すぐに笑い声が起こった。
料理人は、焼き上がった肉を見つめている。
「本当に料理人だったのか」
「だから言っただろ」
「どれくらいやってた」
「結構長いぞ」
「店の名は?」
「言っても知らねぇよ」
バンは焼いた山鳥を切り分ける。
鍋へ入れた方には、骨から取った出汁。
根菜。
茸。
固くなった黒パンを細かくちぎって加え、とろみをつける。
「古いパンまで使うのか」
「腹に入れば同じって意味じゃねぇぞ」
バンが鍋を混ぜる。
「固くなったパンは汁を吸わせた方がうまい」
「味は?」
「これから整える」
一口。
塩を少し。
香草を一つまみ。
火を弱める。
「できた」
「早すぎるだろ」
「客を待たせてんだから急ぐに決まってんだろ」
バンは器を並べ始めた。
◇
しばらくして。
ザルドたちの卓にも料理が運ばれてきた。
山鳥と根菜の煮込み。
香草で焼いた肉。
黒パン。
そして、バンの前には大きな木杯に入った麦酒が置かれている。
「勝ち取ったぞ」
バンが杯を持ち上げた。
「厨房で酒を飲まなかったことだけは評価する」
アルフィアが言った。
「飲もうとしたら女将に包丁向けられた」
「当然だ」
カイルが煮込みを食べる。
目を大きく見開いた。
「うまい!」
「さっきまでの匂いと全然違う」
リナも匙を動かす。
「肉も柔らかい」
テオは黙ったまま二口、三口と食べ。
「パンが入ってる」
「分かるのか」
バンが聞いた。
「少しだけ」
「固くなったやつを煮崩した。腹にも溜まるぞ」
「バンさんが全部作ったんですか?」
「途中からな。元の料理人も作ってる」
「本当に酒場の料理人だったんですね」
カイルが感心したように言う。
「疑ってたのかよ」
「少しだけ」
「正直だな」
「バンさん、いつもザルドさんの料理を食べてたから」
「ザルドの飯がうまいから任せてただけだ」
バンは麦酒を飲む。
「作れる奴が二人いるなら、毎回同じ奴が作る必要ねぇだろ」
「腕は確かだ」
ザルドが煮込みを食べながら言った。
バンが杯を止める。
「何だよ。珍しく素直に褒めんじゃねぇか」
「事実を言っただけだ」
「じゃあ、次の飯はオレが作るか」
「食材を使い切るな」
「信用ねぇな」
「お前は三人分のつもりで十人分作る」
アルフィアが続ける。
「余ったら食えばいいだろ」
「お前が一人でな」
「ザルドも食うだろ」
「食うが、限度はある」
「暴喰が限度とか言うのかよ」
ザルドの眉が動いた。
「量と無駄は別だ」
「分かってるって」
「分かっている者は、干し肉を一晩で半分食わん」
「あれは腹減ってたからだ」
「お前は常に腹が減っている」
「健康ってことだろ」
カイルたちは笑いながら、煮込みを食べた。
周囲の卓でも、料理を褒める声が上がっている。
厨房から女将が顔を出し。
バンへ硬貨を一枚投げた。
「追加だ!」
バンが片手で受け取る。
「何これ」
「働きが良かった分!」
「酒、もう一杯でもいいぞ」
「硬貨で買いな!」
「結局払うのかよ」
「当たり前だ!」
女将は厨房へ戻っていく。
バンは受け取った硬貨を見る。
「増えた」
「すぐに減る」
アルフィアが言った。
「まだ使ってねぇだろ」
「次の杯を見ている」
「よく分かったな」
「お前だからな」
◇
食事時が一段落すると。
宿の中央にある大きな暖炉の前へ、旅人たちが集まり始めた。
酒を飲む者。
地図を広げる者。
荷物の交渉をする商人。
明日の天気を気にする御者。
オラリオから来た者と、これから向かう者が同じ場所に座り、各地の話を交換している。
「東の街道は盗賊が増えたらしい」
「ラキアの兵がまた国境を騒がせている」
「北の山道は雪解けで崩れたぞ」
「オラリオじゃ、新しい神が眷族を探してる」
「どこの神だ?」
「知らん。降りてきたばかりらしい」
話題は次々と移り変わる。
やがて。
一人の商人が、酒杯を机へ置いた。
「そういや、黒い砂漠の話を聞いたか?」
ザルドの手が僅かに止まった。
アルフィアは表情を変えない。
バンは麦酒を飲みながら、商人の方へ目を向けた。
「黒い砂漠?」
別の旅人が聞き返す。
「カイオス砂漠の奥だ。昔から、陸の王者が眠っていた場所だよ」
「ベヒーモスか」
「そうだ」
宿の空気が少し変わる。
三大冒険者依頼の一角。
名前だけなら、冒険者でなくとも知っている。
「討たれたって話だろ?」
「ああ。ゼウスとヘラの二大派閥が、ついに仕留めた」
「今さらか。何か月前の話だよ」
「討伐されたことは知ってる。俺が言ってるのは、その時に現れた赤い男の話だ」
「赤い男?」
バンの眉が僅かに上がる。
カイルたちも、興味深そうに顔を向けた。
商人は周囲の視線が集まったことに気をよくし、声を少し大きくした。
「赤い長衣を着た、正体不明の男だ。ゼウスとヘラの幹部に混じって、ベヒーモスと戦ったらしい」
「どこのファミリアだ?」
「それが分からない」
「嘘くさいな」
「嘘じゃない。砂漠から逃げてきた商人が見たと言っていた」
別の男が鼻を鳴らす。
「俺が聞いた話じゃ、赤い男は東方の王族だ」
「俺は、ゼウスが隠していた眷族だと聞いたぞ」
「いや、ファミリアを持たない傭兵だ」
「古代の英雄が生き返ったとも聞いた」
「話がでかくなってんな」
バンが小さく言った。
アルフィアが横目で見る。
「誰のせいだ」
「オレ?」
「他に誰がいる」
「噂流した覚えねぇぞ」
「目立つ行動をした」
「ベヒーモス相手に目立つなって方が無理だろ」
「黙れ」
商人の話は続いている。
「赤い男は、ベヒーモスの角を素手でへし折ったらしい」
「素手で?」
「俺が聞いたのは、妙な棍を使っていたという話だ」
「いや、武器なんて持っていなかった。巨獣の力を奪って、自分のものにしたんだ」
「魔法か?」
「分からん。だが、ベヒーモスが動けなくなった瞬間、赤い男だけが笑っていたそうだ」
「お前、笑ってたか?」
ザルドが低い声で尋ねる。
「覚えてねぇ」
「笑っていた」
アルフィアが言った。
「マジか」
「いつも通りだ」
「なら仕方ねぇな」
「何が仕方ない」
別の卓から、酒に酔った男が口を挟んだ。
「その赤い男なら、ベヒーモスの毒を飲み干したらしいぞ!」
「それは違う」
バンが思わず言った。
周囲の視線が集まる。
「何で分かる?」
男が尋ねた。
バンは一拍置き。
ザルドを見る。
「飲むより食う方がいそうだからな」
ザルドの目が細くなる。
「誰のことだ」
「さあな」
「喧嘩なら外でやれ」
アルフィアが言った。
カイルは、噂を話す商人とバンたちを交互に見ている。
「その赤い男、強いんですかね」
「噂が本当ならな」
バンが答える。
「Lv.はいくつなんだろう」
「知らねぇ」
「どんな技を使うんでしょう」
「さあな」
「会ってみたいです」
「やめとけ」
「どうしてですか?」
「性格悪いぞ、たぶん」
「バンさん、知ってるんですか?」
「知らねぇよ」
「今の言い方、絶対知ってますよね」
「気のせいだ」
リナが目を細める。
テオも、バンの赤い長衣を静かに見ている。
だが、商人が語る人物と、目の前で厨房に立っていた旅人が同一人物だとは、まだ結びついていないらしい。
何より。
噂の赤い男は、話されるたびに姿を変えている。
巨大な筋肉を持つ大男。
東方の剣士。
片目を隠した老人。
炎を吐く獣人。
赤い髪の魔導士。
同じなのは、赤い何かを身につけていたという点だけだった。
「噂なんてそんなもんだ」
バンは杯を傾ける。
「見た奴が話して、聞いた奴が足して、次の奴が面白くする」
「では、全部嘘なんですか?」
リナが尋ねた。
「全部が嘘ってわけでもねぇ」
バンは酒の表面を見る。
「本当のことが残ってるから、話が広がるんだろ」
「どこまで本当なんでしょう」
「知りたきゃ、実際に見た奴に聞くしかねぇな」
「バンさんは、どう思います?」
「赤い男についてか?」
「はい」
バンは少し考えるふりをして。
「腹減ってたんじゃねぇか」
「そこですか?」
「腹減ってる時にでけぇ獲物が出てきたら、倒すだろ」
「普通は倒せません」
「そうか?」
「そうです」
カイルが真顔で答える。
ザルドは酒杯を置いた。
「英雄譚も噂話も、生き残った者が語りやすい形に削ったものだ」
低い声が、卓の上へ落ちる。
カイルたちがザルドを見る。
「強者の一撃は語られる。だが、その一撃へ至るまでに、誰が傷つき、誰が退き、誰が支えたかは忘れられる」
「……」
「巨大な怪物を討った話だけを聞き、自分にもできると思うな」
ザルドの目は、暖炉の炎ではないものを見ていた。
「戦いは、酒場で聞く物語ほど綺麗ではない」
カイルの顔から、浮ついた興奮が少し消えた。
「はい」
「ただし」
ザルドが続ける。
「物語を聞くなとは言わん」
「え?」
「憧れは、足を前へ出す力になる」
その言葉に。
アルフィアが僅かに目を開いた。
「だが、自分が物語の主役だと思うな。最初は誰もが、死ねば名も残らない一人にすぎん」
「厳しいですね」
リナが言った。
「事実だ」
「でも、ザルドさんは有名な冒険者なんですよね」
「有名であることと、死なないことは別だ」
カイルたちは黙って頷いた。
バンは麦酒を一口飲み。
「難しく考えすぎだろ」
「お前は考えなさすぎる」
アルフィアが返す。
「夢見て、怖がって、腹減ったら飯食って、生きて帰る。それでいいじゃねぇか」
「最後だけは間違っていない」
「前も合ってるだろ」
「腹が減ることだけはな」
「そこかよ」
暖炉の周囲に、再び笑いが起こった。
◇
夜が深まり。
宿の客たちが少しずつ部屋へ戻っていった。
バンは宿の外にある長椅子へ座り、最後の麦酒を飲んでいた。
宿場の灯り。
馬小屋から聞こえる寝息。
遠くを進む荷車の車輪。
西へ向かう街道は、夜になっても完全には静まらない。
「まだ飲んでいたのか」
ザルドが宿から出てきた。
「これで最後」
「硬貨もか」
バンは小袋を振る。
かすかな音。
「まだあるぞ」
「数枚だろう」
「オラリオ着くまで持てばいい」
「着いた後はどうする」
「何とかなるだろ」
「お前はそればかりだな」
ザルドが隣へ腰を下ろす。
長椅子が大きく軋んだ。
「壊すなよ」
「俺のせいにするな」
「今、悲鳴上げたぞ」
「古いだけだ」
二人は西の暗闇を見る。
「変な感じだな」
バンが言った。
「何がだ」
「まだ街にも着いてねぇのに、オレの話が先に着いてる」
「お前だと分かる形ではない」
「赤い男ってとこだけ合ってたぞ」
「今後は赤を着るな」
「嫌だ」
「なら諦めろ」
「噂って面倒だな」
「王をしていたなら、慣れているだろう」
「オレの国じゃ、ここまで勝手な話にはならねぇよ」
「お前の国の者は、お前を知っているからだ」
ザルドは静かに言った。
「知らない者ほど、空白を好きな話で埋める」
「神様も同じか?」
「むしろ、神々の方が好む」
「暇なのか」
「暇だ」
「言い切ったな」
「下界へ娯楽を求めて降りてきた者たちだ」
「面倒そうだな」
「ああ」
「ザルドも苦労してんだな」
「大半は、うちの主神のせいでな」
「相変わらずみてぇだな、あのじじい」
「何も変わっていない」
「面白い神なんだろ?」
「面白さだけなら否定せん」
宿の扉が開き。
アルフィアが顔を出した。
「いつまで雑音を続ける気だ」
「聞こえてたのかよ」
「お前の声は無駄に通る」
「またそれか」
「寝ろ。明日は早い」
「床空いてる?」
「空けてある」
「優しいな」
「荷物の横だ」
「扱い悪くねぇか?」
「嫌なら外で寝ろ」
「中で寝ます」
バンは残った麦酒を飲み干し、立ち上がった。
その時。
街道を通りかかった御者が、宿の前で馬を止めた。
「明日、西へ行くのか?」
御者が尋ねる。
「ああ」
ザルドが答える。
「なら、昼前には丘を越える。天気が良ければ、あそこから塔が見えるぞ」
「塔?」
バンが聞いた。
「バベルだよ」
御者は笑った。
「迷宮都市の真ん中に立ってる、馬鹿みたいにでかい塔だ」
「どれくらいでけぇ?」
「見れば分かる」
「何だよ、それ」
「初めて見る奴は、みんな同じ顔をする」
御者は馬を進ませる。
荷車の灯りが、西の街道へ遠ざかっていった。
バンは暗闇の先を見る。
まだ塔は見えない。
城壁も。
都市の灯りも。
だが、その向こうに。
神々と冒険者が集まる街がある。
「明日か」
バンが呟いた。
「そうだ」
ザルドが答える。
「ようやくだな」
アルフィアは何も言わず、先に宿の中へ戻った。
バンも扉へ向かう。
その直前。
もう一度だけ、西の空を見た。
噂だけが先に歩く街道の果て。
まだ見ぬ迷宮都市は。
夜の向こうで、三人を待っていた。
今回はオラリオ直前の宿場で、旅人たちの噂とバンの料理人としての腕を描きました。
英雄の戦いが人から人へ伝わるうちに、少しずつ形を変えていく場面となっています。
特に、厨房へ入ったバンが焦げかけた料理を立て直し、そのまま大勢の食事を仕上げてしまう場面がお気に入りです。