朝日が宿場の屋根を照らし始めるより早く、〈渡り鳥の止まり木〉の一階には旅支度を整えた者たちが集まっていた。
荷を背負う旅人。
馬車の車輪を確かめる商人。
眠そうな子供を抱えた母親。
武器の留め具を何度も触る、冒険者志望の若者たち。
誰もが同じ方向を意識している。
西。
迷宮都市オラリオ。
「バンさん、起きてください」
カイルの声が、二階の個室に響いた。
返事はない。
「もう朝ですよ」
扉を叩く。
やはり返事はない。
カイルが困ったようにリナを見る。
「昨日、あれだけ飲んでたから」
「でも、酒には強いって言ってたよね」
「強いことと、朝起きられることは別じゃないか」
テオが静かに言った。
「扉、開いてる」
リナが取っ手へ手をかける。
鍵は掛かっていなかった。
三人が恐る恐る中を覗く。
寝台の一つには、ザルド。
窓際の椅子には、目を閉じたアルフィア。
そして床には、毛布に包まれたバンが転がっていた。
正確には、毛布の上半分だけを身体に掛け、下半分は完全にはみ出している。
枕代わりにしているのは、自分の荷物だった。
「寝てますね」
カイルが小声で言う。
「見れば分かる」
アルフィアの目が開いた。
三人の背筋が揃って伸びる。
「す、すみません!」
「何をしに来た」
「出発の時間かと思って」
「分かっている」
アルフィアは立ち上がる。
すでに髪も衣服も整っている。
眠っていたというより、周囲の音を避けるために目を閉じていただけらしい。
「こいつを起こせ」
「俺たちがですか?」
「起こしに来たのだろう」
カイルが床のバンを見る。
「どうやって?」
「普通に声をかければいいんじゃない?」
リナが言う。
「さっき反応しなかった」
「肩を揺らすとか」
「やめておけ」
ザルドが寝台から上体を起こした。
大男が動いたことで、寝台が大きく軋む。
「寝ている戦士へ不用意に触るな」
「攻撃されるんですか?」
「可能性はある」
カイルが一歩下がる。
「じゃあ、どうすれば」
「食い物だ」
ザルドは卓上に残されていた紙包みを取った。
昨夜、バンが厨房を手伝った礼として女将から渡された焼き肉と黒パン。
包みを少し開く。
香草と肉の匂いが広がった。
「……朝飯?」
床から声がした。
バンの目が開く。
「起きた!」
カイルが驚く。
バンは寝転んだまま鼻を動かした。
「肉の匂いすんな」
「起きろ」
ザルドが言った。
「まだ朝早ぇだろ」
「出発する」
「塔は逃げねぇぞ」
「都市も逃げない」
「じゃあ、もう少し寝ててもいいだろ」
「朝食がなくなる」
バンが起き上がった。
「それは駄目だな」
「早いですね……」
リナが呟く。
バンは大きく伸びをする。
「おはよ」
「おはようございます」
「三人とも早ぇな」
「バンさんが遅いんです」
カイルが言う。
「オレも今起きたから早いだろ」
「どういう理屈ですか」
「朝のうちに起きた」
「雑すぎるよ」
リナが笑う。
アルフィアはすでに荷物を持ち上げていた。
「五分で支度しろ」
「飯は?」
「歩きながら食べろ」
「行儀悪くねぇか?」
「お前が言うな」
バンは黒パンへ焼き肉を挟み、口へくわえた。
「準備できたぞ」
「まだ靴を履いていない」
アルフィアが冷たく指摘した。
◇
宿場を出ると、街道は緩やかな上り坂になっていた。
昨日までよりも、人の流れはさらに濃い。
幌付きの大型馬車。
武具を積んだ荷車。
薬品を運ぶ商人。
遠征帰りらしい、傷ついた冒険者の一団。
反対側から来る者の多くは、オラリオを出た者たちだ。
大きな袋を背負う者もいれば、ほとんど荷物を持たず、俯いて歩く者もいる。
「冒険者を辞めた人でしょうか」
リナが、すれ違った青年を見送った。
剣は持っている。
だが、鞘の先が地面を擦っていた。
「分からん」
ザルドが答える。
「怪我もしていないように見えました」
「身体に傷がなくとも、戦えなくなる者はいる」
「怖くなったから?」
カイルが尋ねる。
「それもある」
ザルドは青年の背中を見ない。
「仲間を失った。金を失った。自信を失った。理由はいくらでもある」
「一度オラリオへ行ったのに、戻る人もいるんですね」
「当たり前だ」
アルフィアが言った。
「迷宮都市へ来た者すべてが、望んだものを得られるわけではない」
「でも、帰る場所があるなら、戻るのも悪くないんじゃねぇか」
バンが黒パンの最後を飲み込む。
リナがバンを見る。
「バンさんにも、帰る場所があるんですか?」
「ああ」
「遠いんですか?」
「かなりな」
「この旅が終わったら帰るんですか?」
バンの足が、ほんの僅かに緩んだ。
赤い長衣の裾が、朝風に揺れる。
「さあな」
「帰り方が分からないんでしたっけ」
「そういうこと」
答えは軽い。
だが、それ以上は話さなかった。
アルフィアが横目を向ける。
ザルドも何も言わない。
カイルは空気の変化を感じたらしく、別の話題を探すように前を向いた。
「オラリオへ着いたら、最初に何をすればいいんでしょう」
「宿を決めろ」
ザルドが答える。
「ファミリアを探す前に?」
「荷物を持ったまま歩き回るつもりか」
「安い宿でいいんですか?」
「最初はそれでいい。ただし、客室に鍵がある場所を選べ」
「荷物を盗まれるから?」
「ああ」
「オラリオって、治安が悪いんですか」
「場所による」
アルフィアが言う。
「都市の治安はガネーシャ・ファミリアが維持している。だが、全ての路地へ常に目が届くわけではない」
「神様の街でも盗人はいるんですね」
「神がいようと、人間の性質は変わらない」
バンが笑う。
「財布には気をつけろよ」
「バンさんが言うと、妙に説得力がありますね」
テオが言った。
「何でだ?」
「手つきがそれっぽい」
「見る目あんな」
「褒められていない」
アルフィアが即座に返した。
「昔はちょっと手癖悪かっただけだぞ」
「ちょっと?」
リナが聞き返す。
「他人の財布を見つけるのが得意だった」
「それは盗んでますよね」
「見つけただけだ」
「持っていったんですよね」
「落とした奴が悪い」
「落としてないと思います」
カイルたちは呆れたような顔をする。
ザルドが低く笑った。
「お前たちも気をつけろ。オラリオには、こいつより腕の悪い盗人が大勢いる」
「何でオレが基準なんだよ」
「腕がいいからだ」
「褒めてんのか?」
「事実を言っただけだ」
「最近それ好きだな」
「便利な言葉だ」
ザルドは平然と答えた。
◇
街道は徐々に高くなり。
周囲の木々も低くなっていった。
丘陵地帯。
道の両側には、旅人向けの小さな祠や石碑が並んでいる。
無事に都市へ辿り着けるよう願うもの。
迷宮へ入った家族の帰還を祈るもの。
名前だけが刻まれたもの。
花が供えられた石もあれば、長く放置され、苔に覆われた石もあった。
リナがその一つの前で足を止める。
「これ、墓ですか?」
「墓ではない」
ザルドが言った。
「オラリオへ向かったまま戻らなかった者のための祈念碑だ」
「遺体がないから?」
「ああ」
カイルの顔が少し強張る。
昨日までなら、すぐに「俺たちは大丈夫だ」と言っていただろう。
だが今は、何も言わない。
テオが石碑の表面を見る。
刻まれた名は、雨風に削られ、半分ほど読めなくなっていた。
「怖くなったか?」
バンが尋ねる。
カイルは少し迷ってから答えた。
「少し」
「そりゃよかった」
「よかった?」
「怖くねぇって言ったら、アルフィアに愚か者って言われんぞ」
「言う」
アルフィアが答える。
「ほらな」
「でも、怖いままで進んでもいいんですか?」
カイルが聞く。
「足が動くならな」
バンは石碑の横を通り過ぎる。
「逃げたくなったら逃げりゃいい。進みたきゃ進めばいい」
「簡単に言いますね」
「難しく言っても、やることは変わらねぇだろ」
カイルは石碑へもう一度目を向け。
それから、三人の仲間と一緒に歩き出した。
◇
昼近く。
丘の斜面を登り切る直前。
前方を歩いていた旅人たちの足が、次々と止まり始めた。
「見えたぞ!」
誰かが叫ぶ。
「オラリオだ!」
街道に、ざわめきが広がった。
馬車の御者が立ち上がる。
子供が荷台から身を乗り出す。
冒険者志望の若者たちが、一斉に丘の頂上へ駆けていく。
「俺たちも行こう!」
カイルが走り出しかける。
「走るな」
アルフィアの声で止まった。
「転べば、都市へ入る前に怪我人になる」
「でも!」
「塔は逃げない」
「昨日、バンさんも同じこと言ってましたよね」
「オレは正しかったな」
「お前は起きなかっただけだ」
バンたちも、丘の頂上へ向かう。
最後の斜面を登る。
空が広がる。
視界を遮っていた丘が途切れ。
その先に。
一本の塔が立っていた。
「……でけぇ」
バンの口から、素直な声が漏れた。
地平の向こう。
巨大な城壁に囲まれた円形都市。
幾重にも重なる建物。
遠くからでも分かる、人と馬車の流れ。
その中央。
天を突き刺すように、白亜の摩天楼がそびえている。
バベル。
都市のどこからでも見上げられる、迷宮の蓋。
丘の上に立つ旅人たちの中から、いくつもの歓声が上がる。
「すごい……」
リナが呟いた。
「本当に、空まで届きそうだ」
テオも目を細める。
カイルは言葉もなく、塔を見上げていた。
故郷の小さな村では、最も高い建物でも二階建てだった。
石造りの城さえ、遠くから一度見ただけ。
その少年の前に、街そのものを見下ろす巨大な塔が立っている。
「俺、あそこへ行くんだ」
震えるような声だった。
「そうだ」
ザルドが答える。
「迷宮都市オラリオ」
カイルが拳を握る。
「冒険者になるんだ」
リナが隣に並ぶ。
「私たち三人でね」
テオも頷いた。
三人の顔には、不安も残っている。
だが今は、それ以上に期待があった。
バンは彼らから視線を外し。
遠くの都市を見る。
「お前、初めて見た顔をしているな」
アルフィアが言った。
「初めて見たからな」
「感想は」
「塔は馬鹿みてぇにでかい」
「それだけか」
「街もでけぇ」
「見れば分かる」
「酒場何軒あんだろうな」
「結局それか」
ザルドが低く笑う。
「都市中の酒を飲むつもりか」
「うまいのだけでいい」
「選べるだけの金があるのか」
バンが腰の小袋へ手を伸ばす。
鳴った硬貨は少ない。
「……何とかなる」
「何ともならん」
「オラリオ着いたら稼ぐって」
「その前にお前へ渡すものがある」
ザルドが言った。
バンが振り返る。
「何だ?」
「着いてから話す」
「気になるだろ」
「なら早く来い」
「今話せよ」
「都市へ着いてからだ」
「二人とも知ってんのか?」
バンがアルフィアを見る。
「知っている」
「教えろよ」
「断る」
「何でだよ」
「ザルドが着いてから話すと言った」
「素直だな」
「お前に教える義務がないだけだ」
バンは二人を交互に見る。
「変なもんじゃねぇだろうな」
「お前の物だ」
ザルドが答える。
「オレの?」
「ああ」
「オレ、何か預けてたか?」
「預けたわけではない」
「余計分かんなくなったぞ」
「考えながら歩け」
ザルドは街道を下り始めた。
バンは納得していない顔のまま、その背中を追う。
「おい、ヒントくらい寄越せよ」
「大きい」
「何が?」
「重い」
「食える?」
「一部はな」
「ベヒーモスか?」
ザルドの足が僅かに止まる。
バンが笑った。
「当たりだな」
「無駄に勘がいい」
「食えるって言ったら分かるだろ」
「ザルドが食べられるものは多すぎる」
アルフィアが言った。
「確かにな」
「納得するな」
丘を下る街道の先。
オラリオは、少しずつ大きくなっていく。
城壁。
門。
都市を囲む農地。
荷車の列。
武器を持った者たち。
神々の街へ吸い込まれるように、人の流れが続いていた。
◇
丘を半分ほど下った場所に、街道沿いの休憩所があった。
一行はそこで昼食を取ることにした。
昨日、宿で受け取った黒パン。
焼いた山鳥。
干した果物。
バンが朝のうちに簡単な香草ソースを作り、肉へ塗ってある。
カイルが一口食べ、驚いた顔をした。
「冷めてるのにうまい」
「冷めても食えるように作ったからな」
バンが答える。
「温かい料理と同じ味つけにすると、冷めた時にぼやける」
「何が違うんですか?」
「塩と香草を少し強めにする。脂も落としすぎねぇ」
「そんなことまで考えてるんですね」
「料理だからな」
「昨日まで、ザルドさんに作ってもらってばかりだったのに」
「任せられる奴がいる時は任せりゃいいんだよ」
「怠けていただけだ」
アルフィアが言う。
「旅の途中じゃ、ちゃんと働いただろ」
「食べ物を探すことだけは熱心だった」
「大事な仕事だぞ」
「半分は酒だった」
「酒も旅には必要だ」
「お前にだけな」
リナが笑う。
しばらくは和やかに食事が進んだ。
だが、食べ終わる頃。
カイルが都市を見ながら尋ねた。
「ザルドさんとアルフィアさんは、帰ったら何をするんですか?」
「報告だ」
ザルドが答える。
「長く都市を離れていた。主神と団員へ戻ったことを知らせる」
「ファミリアのみんな、待ってるんですね」
「ああ」
カイルはアルフィアを見る。
「アルフィアさんも?」
「当然だ」
「家族みたいなものですか?」
アルフィアの目が僅かに細くなる。
「ファミリアは、神と眷族の集まりだ」
「家族とは違う?」
「同じではない」
冷たい答え。
だが、その後に続いた声は、僅かに低かった。
「それでも、帰る場所ではある」
バンがアルフィアを見る。
彼女は都市から目を逸らさない。
ザルドにも。
アルフィアにも。
城壁の向こうに待つ者がいる。
長く空けた席がある。
戻れば、帰還を迎える声がある。
「バンさんは?」
リナが尋ねた。
「オラリオで、どこへ帰るんですか?」
バンは答えず、遠くの街を眺める。
ザルドが口を開く。
「ゼウス・ファミリアへ来ればいい」
「ヘラ側でも、滞在場所くらいは用意できる」
アルフィアも言った。
「お前が余計な騒ぎを起こさないならな」
「二人とも優しいな」
「勘違いするな」
「放置すれば、何をするか分からん」
「心配してんだろ?」
「監視だ」
「同じじゃねぇか」
バンは笑う。
けれど。
都市へ向けた目は、どこか静かだった。
「ま、着いてから考える」
「またそれか」
ザルドが言う。
「まだ街にも入ってねぇだろ」
「宿くらい決めておけ」
「金もあんまねぇしな」
「だから、こちらへ来い」
「考えとく」
バンは立ち上がり、赤い長衣の埃を払った。
「そろそろ行くか」
「まだ早いだろ」
カイルが言う。
「都市は逃げないんですよね?」
バンが笑う。
「でも、ここまで来たら早く入りてぇだろ」
「それは、そうです」
三人の若者も立ち上がる。
荷物を背負う。
武器を確かめる。
目の前には、憧れ続けた迷宮都市。
バンはザルドとアルフィアを見る。
二人にとっては、長い旅の終着点。
そして。
帰る場所。
「じゃあ、帰ろうぜ」
バンが言った。
ザルドが僅かに目を見開く。
アルフィアも、ほんの一瞬だけバンを見る。
「お前の帰る場所ではない」
アルフィアが答えた。
「今はな」
バンは笑った。
赤い長衣を翻し、街道を下っていく。
ザルドがその後を追う。
アルフィアも何も言わず歩き出す。
若者たちも続いた。
丘の上から見えていた巨大な塔は。
一歩進むごとに。
少しずつ近づいてくる。
神々。
冒険者。
迷宮。
酒。
料理。
強者。
そして、まだ誰も知らない出会い。
そのすべてが集まる都市へ。
三人の旅人は、帰っていった。
今回は丘の上から、バンが初めて迷宮都市オラリオとバベルの塔を見る回でした。
帰る場所のあるザルドとアルフィア、まだオラリオに居場所を持たないバン。その違いを描きながら、三人で都市へ向かう場面にしています。
特に、バンが二人へ「じゃあ、帰ろうぜ」と声をかける場面がお気に入りです。