強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第63話 それぞれの帰る場所

オラリオの門を抜けてから、しばらく歩いたところで道は大きく二つに分かれた。

 

中央にそびえるバベルへ続く大通り。

 

そこから北側へ伸びる、広く整えられた道。

 

行き交う冒険者の数は多く、荷車や露店の呼び込みまで加わり、門前以上の喧騒が渦巻いている。

 

「私はここで別れる」

 

アルフィアが足を止めた。

 

「ヘラ・ファミリアへ戻るのか?」

 

バンが尋ねる。

 

「ああ。帰還の報告がある」

 

「長ぇこと留守にしてたもんな」

 

「原因の一部はお前だ」

 

「オレ?」

 

「遺跡へ寄り、隊商へ付き合い、ラキアで畑を耕した」

 

「全部意味あっただろ」

 

「旅程が延びた」

 

「楽しかったんだからいいじゃねぇか」

 

「お前と一緒にするな」

 

アルフィアは冷たく言い切った。

 

だが、すぐに立ち去ろうとはしない。

 

バンの背負い袋へ視線を向ける。

 

ガネーシャ・ファミリアの封蝋が施された、クレシューズと結晶の包み。

 

「封を勝手に破るな」

 

「分かってるよ」

 

「酒を飲んだ後もだ」

 

「酒飲んだくらいで忘れねぇぞ」

 

「お前は酔っていなくても余計なことをする」

 

「信用ねぇな」

 

「積み重ねた結果だ」

 

ザルドがバンの肩へ手を置いた。

 

「こいつは俺が連れていく」

 

「逃がすな」

 

「子供じゃねぇぞ」

 

「子供の方がまだ言うことを聞く」

 

「言いすぎじゃねぇか?」

 

アルフィアは答えず、ザルドを見る。

 

「明日、素材を確認する」

 

「ああ」

 

「専門家へ見せる前に、状態をもう一度整理しておけ」

 

「分かっている」

 

バンが二人を見比べた。

 

「オレの相棒の話なのに、オレ抜きで進めんなよ」

 

「お前が余計な判断をするからだ」

 

「ちゃんと話聞くって」

 

「その言葉を信じるほど愚かではない」

 

アルフィアは身を翻した。

 

灰色の長髪が、人波の中で揺れる。

 

数歩進んだところで、足を止めた。

 

「バン」

 

「何だ?」

 

「勝手に野垂れ死ぬな」

 

振り返らないまま、それだけを告げる。

 

バンは一瞬、目を丸くした。

 

やがて口元を上げる。

 

「分かってるよ」

 

「返事だけで終わらせるな」

 

「お前、耳いいな」

 

アルフィアは今度こそ人混みの中へ消えていった。

 

バンはその背中が見えなくなるまで眺める。

 

「心配されてんな」

 

「監視だと言うだろう」

 

ザルドが歩き出した。

 

「同じようなもんだろ」

 

「本人の前で言うな。都市が壊れる」

 

「そんなにか?」

 

「そんなにだ」

 

 

       ◇

 

 

ザルドに案内され、北側の街路を進む。

 

中央の大通りから離れても、人通りは途切れなかった。

 

武器を運ぶ者。

 

鎧を身につけたまま帰還する冒険者。

 

門の外へ向かう遠征隊。

 

酒樽を転がす店員。

 

道の両側には、石造りの大きな建物が並んでいる。

 

「お前の家、まだ先か?」

 

「俺の家ではない」

 

「ファミリアの本拠だろ。似たようなもんじゃねぇか」

 

「主神と団員の拠点だ」

 

「それを家って言うんだろ」

 

ザルドは少し黙った。

 

「……そう呼ぶ者もいる」

 

「お前も帰ってきたって感じか?」

 

「ああ」

 

短い答えだった。

 

だが、その声には旅の途中では聞かなかった重みがあった。

 

バンは何も言わず、隣を歩く。

 

やがて前方に、大きな門構えの屋敷が見えてきた。

 

華美ではない。

 

だが壁も扉も分厚く、広大な敷地を囲む塀には、長い歴史を思わせる傷が残っている。

 

門前に立っていた二人の団員が、ザルドの姿を見つけた。

 

「ザルドさん……?」

 

一人が目を見開く。

 

次の瞬間。

 

「ザルドさんが帰ったぞ!」

 

門が開かれた。

 

声を聞いた団員たちが、屋敷の中から次々と姿を現す。

 

「本当にザルドさんだ!」

 

「長期任務から戻った!」

 

「怪我はありませんか!」

 

「報告は後だ。まず中へ入れ!」

 

屈強な男たち。

 

軽装の斥候。

 

治療道具を抱えた団員。

 

女性の姿も混じっている。

 

全員がザルドの帰還を喜びながら、その隣にいる赤い長衣の男へ視線を向けた。

 

「その人は……」

 

「バンだ」

 

ザルドが紹介する。

 

「今回の旅とベヒーモス討伐で、最も大きな働きをした男の一人だ」

 

「一人って、ザルドもだろ」

 

「俺のことは今はいい」

 

団員たちの目つきが変わる。

 

好奇。

 

驚き。

 

そして敬意。

 

黒い砂漠での戦いを知る者は多いらしい。

 

「赤い旅人……」

 

「噂の男か」

 

「もっと巨大な男だと聞いていたが」

 

「角が生えているという話も」

 

「どんな噂流れてんだよ」

 

バンが眉をひそめた。

 

屋敷の奥から、杖をついた老人が姿を見せる。

 

「おお、ようやく帰ったか!」

 

「じじい」

 

ザルドの声が一段低くなった。

 

「久しいのう、ザルド! 儂は毎日、お主らの帰還を――」

 

「報告書を読まずに酒を飲んでいたと聞いたぞ」

 

「帰還を信じて宴の練習をしておったのじゃ!」

 

「ただ飲みたかっただけだろう」

 

「細かいことを気にするでない!」

 

ゼウスはザルドの横を抜け、バンの前に立った。

 

「お主も無事だったか、赤い旅人」

 

「相変わらず元気そうだな、じじい」

 

「久方ぶりに会った大神へ、その言い方は何じゃ!」

 

「前に会った時と変わってねぇから、安心したぞ」

 

「お主も相変わらず礼儀というものがないのう!」

 

「今さらだろ」

 

ゼウスは呆れたように息を吐いたあと、すぐに笑みを浮かべた。

 

「ともあれ、よく戻った。今日からここを帰る場所にしても構わんぞ!」

 

「遠慮しとく」

 

「即答!?」

 

「お前のとこ、騒がしそうだからな」

 

「静かすぎるより楽しいぞい!」

 

「主神」

 

ザルドが低く呼ぶ。

 

「分かっておる。まずは働きに報いねばならんな」

 

ゼウスの表情から、ふざけた色が少し消える。

 

「ついてくるがよい。お主へ渡すものがある」

 

 

       ◇

 

 

案内されたのは、屋敷の奥にある広い倉庫だった。

 

分厚い扉。

 

頑丈な錠。

 

中には武器や防具だけでなく、大型モンスターの素材が厳重に保管されている。

 

壁際の台へ、細長い箱が置かれていた。

 

その隣には、革張りの大きな金庫。

 

「これが、丘で言っていた物か?」

 

バンが箱を見る。

 

「ああ」

 

ザルドが蓋を開ける。

 

内部に収められていたのは、黒く密度の高い巨大な角の芯だった。

 

周囲の表層は削られている。

 

それでも大人の腕ほどの太さがあり、石とも金属とも異なる光沢を帯びていた。

 

バンが手を伸ばしかける。

 

「触れても構わん」

 

ザルドが言った。

 

「封印されてねぇのか?」

 

「こちらは危険物として扱われていない」

 

バンは角芯を持ち上げる。

 

見た目以上に重い。

 

それでも、バンの腕はほとんど下がらなかった。

 

「ベヒーモスの角か」

 

「その中心部だ」

 

「外側より硬ぇな」

 

「角の中で、最も強度と衝撃への耐性が高い部分だ」

 

バンは角芯を軽く叩く。

 

鈍く澄んだ音が倉庫へ響いた。

 

背負い袋の中。

 

封じられたクレシューズが、かすかに震えた。

 

「……反応したな」

 

ザルドが目を細める。

 

「ああ」

 

バンは角芯を箱へ戻す。

 

「相棒も気に入ったみてぇだ」

 

「まだ決めつけるな」

 

「アルフィアみてぇなこと言うなよ」

 

「必要な警告だ」

 

ゼウスが隣の棚を示した。

 

「ほかにも、お主の取り分となる素材がある」

 

外殻の一部。

 

毒に蝕まれながらも形を保った骨片。

 

加工用に切り分けられた角の表層。

 

巨大な牙の欠片。

 

「すべて持っていけってか?」

 

「欲しいならな」

 

「重さは問題ねぇけど、邪魔だな」

 

「必要な分以外は、ここで保管しておく」

 

ザルドが言った。

 

「角芯だけは、修復の候補として確保する。残りは後で用途を決めればいい」

 

「じゃあ、預けとく」

 

「所有権はお前にある」

 

「随分きっちりしてんな」

 

「当然だ」

 

ゼウスが金庫の錠を開ける。

 

中から出てきたのは、大きな革袋と一冊の帳簿だった。

 

革袋を台へ置いた瞬間。

 

重い金属音が鳴る。

 

「何だ、これ?」

 

「金じゃ」

 

「見りゃ分かる」

 

「お主の討伐報酬と、売却したベヒーモス素材の取り分じゃよ」

 

バンが革袋を開く。

 

中には、これまでの旅で見たことがない量の硬貨が詰まっていた。

 

バンは一枚を摘まみ。

 

袋の奥を見る。

 

帳簿を見る。

 

もう一度、硬貨を見る。

 

「これで全部か?」

 

「それは当面使うために渡す三百万ヴァリスじゃ」

 

「三百万?」

 

「残りはギルドと、ゼウス・ファミリアの管理下で保管しておる」

 

「残りって、いくらあんだ?」

 

ゼウスが胸を張った。

 

「総額、一億ヴァリスじゃ!」

 

倉庫が静まり返る。

 

バンは帳簿を見下ろす。

 

「一、十、百……」

 

「数える気か?」

 

ザルドが言った。

 

「多すぎて分かんねぇ」

 

「一億だと言っただろう」

 

「酒、何杯飲める?」

 

「最初に考えることがそれか」

 

「飯も食えるな」

 

「全部使うな」

 

「使い切る方が難しいだろ」

 

「お前なら可能だ」

 

「信用ねぇな」

 

「昨日まで硬貨を数枚しか持っていなかった男だぞ」

 

「だから、これからは困らねぇだろ」

 

バンは革袋を持ち上げる。

 

重みを確かめ。

 

満足そうに笑った。

 

「一気に金持ちになったな」

 

「元から王ではなかったのか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「こっちじゃ国の金使えねぇだろ」

 

「自分の国でも、国庫へ手を出すな」

 

「出さねぇよ」

 

ゼウスが帳簿を閉じる。

 

「必要な時は申し出るがよい。預かっている分から渡そう」

 

「面倒だな。全部持ってくか?」

 

「やめろ」

 

ザルドが即座に止めた。

 

「それだけの金を持って酒場へ行けば、翌朝には何割か消えている」

 

「オレを何だと思ってんだ?」

 

「酒と飯へ金を惜しまない男だ」

 

「合ってるな」

 

「だから止めている」

 

 

       ◇

 

 

帰還を祝う宴は、日が傾く前から始まった。

 

大広間には長い卓が並べられ、次々と料理が運ばれてくる。

 

香草を詰めた丸焼きの鳥。

 

厚く切られた牛肉。

 

魚介と豆の煮込み。

 

乳酪を使った焼き料理。

 

新鮮な野菜。

 

果物。

 

白いパン。

 

各地から集められた酒。

 

「多いな」

 

バンが卓を見渡す。

 

「お前とザルドがいるからな」

 

団員の一人が答えた。

 

「普段の三倍は用意した」

 

「足りるか?」

 

「……五倍にするべきだったか?」

 

「冗談だよ」

 

「お前が言うと冗談に聞こえん」

 

ザルドが席へ着く。

 

「食べれば分かる」

 

「結局食うんじゃねぇか」

 

バンも隣へ腰を下ろした。

 

ゼウスが杯を持ち上げる。

 

「ザルドの帰還と、赤い旅人バンの武勲を祝して!」

 

「乾杯!」

 

声が大広間に響く。

 

バンは出された酒を口へ運んだ。

 

葡萄の香り。

 

樽の深み。

 

雑味のない、上等な酒だ。

 

「うまいか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「ああ。いい酒だな」

 

「不満そうだぞ」

 

「不満じゃねぇよ」

 

バンは杯を傾け、中の赤い液体を見る。

 

「確かにうめぇ。でも、砂漠で喉焼きながら飲んだ霧酒の方が、今でも味を思い出せるな」

 

「酒の味ではなく、飲んだ時の記憶を味わっているだけだ」

 

ザルドが肉を切り分けながら言った。

 

バンが笑う。

 

「飯と酒なんて、そういうもんだろ」

 

黒い砂漠。

 

リオードの夜市。

 

冷たい井戸水を落とした瞬間、乳白色へ変わった酒。

 

アルフィアの呆れた顔。

 

ザルドの料理。

 

暑い夜。

 

旅の途中でしか味わえなかった一杯。

 

「なら、今日の味も覚えておけ」

 

ザルドが言う。

 

「お前が初めてオラリオへ入った日の酒だ」

 

「そうだな」

 

バンは杯を合わせる。

 

澄んだ音が鳴った。

 

 

        ◇

 

 

宴が一段落すると。

 

ザルドはバンを客室へ案内した。

 

寝台。

 

机。

 

衣装棚。

 

窓からは屋敷の中庭が見える。

 

「ここを使え」

 

「広いな」

 

「長期滞在も可能だ」

 

「気ぃ遣わなくていいぞ」

 

「気遣いではない。お前を放置したくないだけだ」

 

「アルフィアと同じこと言ってんな」

 

「同じ理由だからな」

 

バンは寝台へ腰を下ろす。

 

柔らかさを確かめ。

 

すぐに立ち上がった。

 

「やっぱ、いいや」

 

「何がだ」

 

「ここには泊まらねぇ」

 

「なぜだ」

 

「落ち着かねぇ」

 

「十分な部屋だろう」

 

「だからだよ」

 

バンは革袋から、必要な分だけ硬貨を小袋へ移す。

 

残りは机の上へ置いた。

 

「神様に気ぃ遣いながら飲む酒は、酔った気がしねぇ」

 

「誰が気遣えと言ったかのう!」

 

開いた扉からゼウスが顔を出した。

 

「聞いてたのかよ」

 

「儂の屋敷じゃぞ!」

 

「じゃあ、なおさら外で寝る」

 

「待て待て!美しい女神との出会いを手配することも――」

 

「主神」

 

ザルドの声で、ゼウスが口を閉じる。

 

「冗談じゃ」

 

「目が本気だったぞ」

 

バンが言う。

 

「男同士、分かるじゃろ?」

 

「分かるけど、面倒そうだからいい」

 

「なんじゃと!」

 

ザルドがゼウスを廊下へ押し戻す。

 

「じじいは放っておけ」

 

「面白い神だな」

 

「面白さだけなら否定せん」

 

「宿を取るのか?」

 

「街見ながら決める」

 

「高級宿へ泊まれる金はある」

 

「金あるからって、好きでもねぇ場所で寝る必要はねぇだろ」

 

ザルドはしばらくバンを見る。

 

「好きにしろ」

 

「止めねぇのか?」

 

「止めても行くだろう」

 

「分かってきたな」

 

「ただし、明日までには戻れ。角芯と結晶を専門家へ見せる相談をする」

 

「分かった」

 

「封を破るな」

 

「分かってるよ」

 

「酒場で喧嘩をするな」

 

「オレからは売らねぇよ」

 

「買うな」

 

「相手次第だな」

 

「今のうちに縛っておくべきか」

 

「冗談だって」

 

ザルドの目は、冗談を聞いた顔ではなかった。

 

 

       ◇

 

 

屋敷を出たバンは、夕暮れのオラリオを一人で歩いた。

 

手元には、これまでとは比べものにならない金がある。

 

道の両側には、誘惑するように店が並んでいた。

 

肉を焼く煙。

 

魚介を煮る香り。

 

甘い焼き菓子。

 

果実酒。

 

麦酒。

 

香辛料。

 

バンは最初の屋台で、肉の串焼きを十本買った。

 

次の店では、香草を塗った鳥肉の串。

 

その次では、甘辛いタレを絡めた内臓焼き。

 

両手に串を持ち、食べながら歩く。

 

「金あるっていいな」

 

一本を食べ終え。

 

次の串へ手を伸ばす。

 

その時。

 

狭い路地の奥から、複数の視線を感じた。

 

子供が四人。

 

年齢は、幼い者で七歳ほど。

 

最も年上でも十二歳には届かない。

 

壁際へ座り、バンの串焼きを見ている。

 

バンが足を止める。

 

「食いてぇのか?」

 

「……別に」

 

年長の少年が答えた。

 

「そうか。じゃあいらねぇな」

 

バンは串を口へ運ぼうとする。

 

「いる!」

 

一番小さな少女が声を上げた。

 

年長の少年が慌てて少女の口を塞ぐ。

 

「何すんだよ!」

 

「知らない大人から食べ物を貰うなって言われてるだろ!」

 

「じゃあ、貰うんじゃなくて取引にするか」

 

バンは路地へ入った。

 

子供たちと同じ目線になるよう、壁際へしゃがむ。

 

「この街に詳しいか?」

 

「ここで生まれた」

 

少年が警戒しながら答える。

 

「なら、うまい飯と酒の店。それから、静かに寝られる場所を教えろ」

 

「教えたら、それくれる?」

 

少女が串焼きを指す。

 

「ああ」

 

「全部?」

 

「情報次第だな」

 

バンは串を一本差し出した。

 

「ギブ・アンド・テイク♪」

 

子供たちは顔を見合わせる。

 

最初に口を開いたのは、別の少年だった。

 

「西の大通りなら酒場が多い」

 

「冒険者が行く店は高いよ」

 

「安い店なら、もう一つ向こうの通り」

 

「北西の古い区画は静かだよ」

 

「古い建物がいっぱいある」

 

「古代の建物も残ってるけど、崩れそうなのもあるから気をつけろ」

 

バンは串焼きを一本ずつ渡していく。

 

「寝られる場所は?」

 

「宿なら大通り」

 

「宿じゃなくてもいい」

 

「北西へ行けば、空いてる古い建物はあると思う」

 

「誰か住んでるところもあるぞ」

 

「先客がいたら別を探すさ」

 

小さな少女が串焼きを頬張る。

 

「おいしい!」

 

「だろ?」

 

「おじさんも旅人?」

 

「おじさんじゃねぇ」

 

「赤いおじさん」

 

「さらに悪くなったぞ」

 

年長の少年が笑う。

 

「酒場なら、角を二つ曲がったところの〈黄金鹿〉が有名だ」

 

「高いけど、強い冒険者が多い」

 

「喧嘩も多い」

 

「それは面白そうだな」

 

「喧嘩しに行くの?」

 

「酒飲みに行くだけだ」

 

子供たちは、揃って疑わしそうな顔をした。

 

「何だよ、その顔」

 

「喧嘩する顔してる」

 

「どんな顔だよ」

 

バンは残っていた串焼きを、まとめて子供たちへ渡す。

 

「こんなに?」

 

「情報が役に立った分だ」

 

「まだ役に立つか分からないだろ」

 

「細けぇこと気にすんな」

 

立ち上がり。

 

路地を出る前に振り返る。

 

「財布は見えるところに出すなよ。この街、盗人が多いらしいぞ」

 

「おじさんも?」

 

「昔はな」

 

子供たちが慌てて腰元を押さえる。

 

バンは笑いながら、大通りへ戻った。

 

 

       ◇

 

 

酒場〈黄金鹿〉は、外からでも分かるほど騒がしかった。

 

扉を開ければ、酒と肉と汗の匂い。

 

鎧姿の冒険者たちが、いくつもの卓を囲んでいる。

 

壁には剣や盾。

 

店の奥では、楽器を持った男が陽気な曲を奏でていた。

 

バンは空いていたカウンター席へ座る。

 

「麦酒。でかい杯で」

 

「銅貨六枚だ」

 

「安いな」

 

「冒険者向けの酒場だからな」

 

店主が大きな木杯を置く。

 

バンは硬貨を払い、一口飲んだ。

 

「悪くねぇ」

 

ようやく一人になった。

 

気を遣う相手もいない。

 

口うるさい銀髪も。

 

食事に厳しい大男も。

 

問題を起こしそうな主神もいない。

 

バンは杯を傾け、酒場の喧騒を聞き流した。

 

その背後。

 

三人の男が、酔った足取りで近づいてくる。

 

鎧と武器には、それなりの傷がある。

 

駆け出しではない。

 

「見ねぇ顔だな」

 

一人がバンの肩へ手を置いた。

 

バンは杯から口を離さない。

 

「旅人か?」

 

「そうだ」

 

「さっき、随分でかい金貨を出してたな」

 

「見てたのか?」

 

「景気がいいなら、俺たちにも一杯奢れよ」

 

「嫌だ」

 

「何?」

 

「自分の酒くらい自分で買え」

 

男の顔が歪む。

 

周囲の冒険者たちは、ちらちらと様子を窺っている。

 

店では珍しくない揉め事らしい。

 

「兄ちゃん。俺たちが誰か分かって言ってるのか?」

 

「知らねぇ」

 

「なら教えてやる」

 

「興味ねぇよ」

 

バンはもう一口飲む。

 

肩へ置かれた手に、少し力が入った。

 

「気持ちよく飲んでんだから、邪魔すんなよ」

 

声は軽い。

 

だが、男の手が無意識に離れた。

 

何かを感じ取ったのか。

 

一瞬だけ顔をこわばらせる。

 

しかし、酒と周囲の目が退くことを許さなかった。

 

「調子に乗るな!」

 

男が杯へ手を伸ばす。

 

バンの酒を床へ落とそうとした。

 

その手が、途中で消えた。

 

「……あ?」

 

正確には。

 

バンが手首を掴み、いつの間にか男の腕を背中へ回していた。

 

「酒を粗末にすんなよ」

 

「離せ!」

 

残る二人が動く。

 

一人が拳を振るう。

 

バンは座ったまま上体を傾ける。

 

拳が空を切り。

 

次の瞬間には、殴りかかった男の顔がカウンターへ押しつけられていた。

 

「ぐっ!?」

 

三人目が剣へ手を掛ける。

 

「店ん中で抜くなよ」

 

鞘から半分出た剣が。

 

男の手から滑り落ちた。

 

床へ届く前に、バンの手へ収まる。

 

「なっ……!」

 

「返すぞ」

 

柄を軽く押し返す。

 

剣は鞘へ戻り。

 

その勢いで男の身体が後ろへ飛び、卓の上へ転がった。

 

酒杯と皿が宙へ浮く。

 

バンは空いた手を伸ばし。

 

落ちてきた杯を二つ。

 

皿を一枚。

 

自分の麦酒まで、すべて受け止めた。

 

店内が静まり返る。

 

「食いもんまで粗末にすんな」

 

バンは皿を近くの卓へ戻した。

 

最初の男を床へ下ろす。

 

カウンターへ押しつけていた男も離す。

 

三人は倒れたまま、何が起きたのか理解できていない。

 

「て、てめぇ……」

 

一人が震える腕で身体を起こす。

 

「俺たちはLv.3だぞ……!」

 

「こいつはLv.4だ!」

 

「そうなのか?」

 

バンは麦酒を飲む。

 

「お前、どこのファミリアの何者だ!」

 

酒場中の視線が集まる。

 

誰もがバンの返答を待っていた。

 

バンは不思議そうに眉を上げる。

 

「ファミリアには入ってねぇよ」

 

「……は?」

 

「普通の旅人だ」

 

一瞬。

 

酒場から音が消えた。

 

「無所属?」

 

「Lv.4を座ったまま……」

 

「元第一級冒険者か?」

 

「どこかの派閥を抜けたんじゃないのか?」

 

「ただの旅人なわけがないだろ」

 

ざわめきが一気に広がる。

 

バンは店主を見る。

 

「騒がしくなったな」

 

「あんたのせいだ」

 

「壊したもんあるか?」

 

「卓が一つ。椅子が二脚」

 

「こいつらの分も含めて払う」

 

バンは硬貨を置く。

 

「酒、もう一杯」

 

「まだ飲むのか?」

 

「気持ちよく飲み直す」

 

店主は呆れながらも、新しい杯を出した。

 

倒された三人は仲間に抱えられ、酒場の端へ運ばれていく。

 

「赤い旅人……」

 

誰かが呟いた。

 

「今日、ザルドとアルフィアと門を通った男じゃないか?」

 

バンの耳が僅かに動く。

 

だが、振り返らない。

 

「面倒になりそうだな」

 

そう言いながら。

 

酒は最後まで飲み干した。

 

 

       ◇

 

 

酒場を出た頃には、夜が深くなっていた。

 

子供たちから聞いたとおり、バンは西の大通りを越え、北西側の古い区画へ向かう。

 

中心部の喧騒が、少しずつ遠ざかる。

 

新しい建物が減り。

 

代わりに、古い石造りの家々が増えていく。

 

柱には、見たことのない彫刻。

 

壁には、長い年月で削られた紋様。

 

現在の街路とは向きの違う階段や、途中で途切れた水路。

 

都市が今の形になるより前から存在していた建物が、いくつも残っていた。

 

「古代建築ってやつか」

 

バンは最初に、屋根の半分が落ちた石造住宅を覗いた。

 

「雨降ったら終わりだな」

 

次は、小さな見張り塔。

 

内部の階段が途中で崩れている。

 

「上はよさそうだけど、毎回登るの面倒だな」

 

古い倉庫。

 

扉を開けた瞬間、湿った空気と黴の匂いが流れ出した。

 

「酒がまずくなりそうだ」

 

少し広い空き家には、すでに先客がいた。

 

毛布に包まれた老人が、警戒した目を向ける。

 

「悪い。使ってるなら別探す」

 

バンはすぐに扉を閉めた。

 

古い祠。

 

半壊した集会所。

 

地下へ続くが、水の溜まった階段。

 

いくつもの建物を見て回る。

 

金はある。

 

宿へ行けば、柔らかな寝台で眠れる。

 

それでもバンは、古い町並みの中を歩き続けた。

 

やがて。

 

細い通りの奥に、一つの建物が見えた。

 

高い尖塔。

 

ひび割れた石段。

 

蔦の絡んだ外壁。

 

扉の上には、風雨で形の崩れた彫刻。

 

教会だった。

 

長く使われていないらしい。

 

窓の一部は割れ。

 

扉も僅かに傾いている。

 

バンは石段を上がり。

 

扉を押した。

 

軋む音。

 

舞い上がる埃。

 

内部には、朽ちかけた長椅子が並んでいる。

 

壁にはひびが入り。

 

割れたステンドグラスから、淡い月光が差し込んでいた。

 

祭壇の上には何もない。

 

人の気配も。

 

神の気配もない。

 

バンは中央まで歩く。

 

天井を見る。

 

床を踏む。

 

奥の小部屋。

 

地下へ続く階段。

 

すぐに崩れる危険はなさそうだった。

 

雨風もしのげる。

 

静かだ。

 

都市へ入ってからまとわりついていた、人ならざる視線も遠い。

 

「……ここは、なんかいいな」

 

理由は、自分でも分からない。

 

豪華でもない。

 

清潔でもない。

 

便利でもない。

 

それでも。

 

今日見て回ったどの建物より、落ち着いた。

 

バンは長椅子の埃を手で払い。

 

赤い長衣を敷く。

 

「神様が歩く街で、神様のいない教会か」

 

祭壇のない正面を見る。

 

「皮肉が利いてて悪くねぇな」

 

背負い袋を壁際へ置く。

 

ガネーシャ・ファミリアの封蝋を確認する。

 

異常はない。

 

腰の小袋には、まだ十分すぎる金がある。

 

それでも選んだ寝床は、誰も使っていない古い教会だった。

 

バンは長椅子へ横になる。

 

割れたステンドグラスの向こうには、夜空。

 

遠くから、オラリオの喧騒が聞こえてくる。

 

ザルドは、帰るべきファミリアへ戻った。

 

アルフィアも同じだ。

 

バンには、この街で帰る場所はない。

 

だから。

 

自分で選んだ。

 

「今日から、ここでいいか」

 

答える者はいない。

 

静寂だけが、古い教会を満たしていた。

 

バンは目を閉じる。

 

その頃。

 

西の大通りでは。

 

赤い旅人がLv.3とLv.4の冒険者を一方的に倒したという噂が、酒場から酒場へ広がり始めていた。

 

ザルドとアルフィアと並んで門を通った男。

 

ファミリアへ所属していないと語った男。

 

普通の旅人を名乗る、赤い異邦人。

 

噂が神々の耳へ届くのは。

 

夜が明けるより早かった。




今回はザルドとアルフィアがそれぞれのファミリアへ帰り、バンが自分の居場所を選ぶまでを描きました。

ベヒーモス討伐の報酬を受け取り、大金を持ちながらも高級宿ではなく、古い町並みの中で見つけた教会を選ぶのがバンらしい回になったと思います。

特に、子供たちへ串焼きを渡しながら「ギブ・アンド・テイク♪」と取引する場面がお気に入りです。
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