朝の第七区画は、迷宮都市の中心部とは別の街のように静かだった。
バベルから放射状に延びる大通りを外れ、古い石造りの建物が並ぶ一角。
商人の呼び声も、武具を鳴らす冒険者たちの足音も遠い。
長い年月に削られた石畳の上を、二人の男女がゆっくりと歩いていた。
一人は、細い杖を手にした白髪の女性。
雪のような髪が、朝の淡い光を受けて揺れている。
顔色は白く、華奢な身体は一歩進むだけでも壊れてしまいそうだった。
隣を歩く白髪の青年が、彼女の腕と腰を支えている。
青年の身体つきは細い。
腰には短剣があるものの、第一級冒険者のような圧力はない。
だが、人の少ない道を進みながらも、何度も背後を確認していた。
そのたびに足の位置を細かく変え、いつでも走り出せる姿勢を取っている。
「本当に、ここまで来る必要あった?」
青年が小声で尋ねた。
「ええ。久しぶりに見ておきたかったんです」
「見ておきたい気持ちは分かるよ? でもさ、アルフィアさんに知られたら、俺、今度こそ死ぬじゃん?」
「姉さんには、私から説明します」
「それ、毎回言うよね」
青年はまた後ろを振り返った。
「説明が始まる前に、俺が消し炭になるんすよ。前なんて、見つかった瞬間に詠唱を始めたからね?」
「アルは逃げ切ったではありませんか」
「逃げ切れたから、またやっていいって話じゃないんだよ?」
白髪の女性――メーテリアは、小さく笑った。
「それに、今日は私からお願いしました」
「そうなんだけどさぁ……」
「嫌でしたか?」
「嫌なわけないじゃん」
青年は即座に答えた。
軽かった声が、その一言だけは真っ直ぐになる。
「メーテリアちゃんが行きたいって言うなら、俺はどこへでも連れてくよ。ただ、できればアルフィアさんのいない場所がいいなって」
「姉さんも、アルのことを嫌っているわけではありませんよ」
「それ、本気で言ってる?」
「ええ」
「俺を見るたびに殺意向けてくるけど?」
「照れているのかもしれません」
「絶対違うよね!?」
メーテリアは楽しそうに笑った。
その直後。
「……っ」
細い身体が揺れる。
杖の先が石畳を滑りかけた。
「メーテリアちゃん」
青年の腕が、すぐに彼女を抱き止める。
先ほどまでの軽薄な様子は消えていた。
「休もう。無理しすぎだって」
「もう少しです」
「もう少しでも駄目。ほら、息を整えて」
青年は道端にあった低い石壁へ、メーテリアをゆっくり座らせた。
腰の小袋から水筒を取り出し、蓋を開ける。
「少しだけ飲んで」
「ありがとうございます、アル」
「礼なんていいって。俺が勝手にやってるんだから」
アルと呼ばれた青年は、メーテリアが水を飲む間も周囲を見回していた。
逃げ道を探しているようにも見える。
だが、今すぐ何かが現れても、彼女だけは置いていかない。
そんなことが、立ち位置から伝わってきた。
しばらく休んだあと。
二人は再び歩き始めた。
細い道の先に、蔦の絡んだ尖塔が見えてくる。
ひび割れた石段。
風雨に削られた外壁。
割れた窓。
扉の上に残る、形の崩れた彫刻。
古い廃教会だった。
メーテリアはその姿を見つめ、穏やかに目を細める。
「変わっていませんね」
「俺には、前より崩れそうに見えるけど」
「昔から、こういう場所です」
「もっと安全なところを好きにならない?」
「ここがいいんです」
メーテリアは杖をつき、石段へ足をかけた。
アルが隣から身体を支える。
一段。
また一段。
普通の者なら数歩で上がれる石段を、二人は時間をかけて進んだ。
「中に誰もいなければいいけど」
「この時間なら、誰もいないと思います」
「闇派閥とか、変な浮浪者とかいたら、すぐ帰ろうね」
「はい」
「約束だよ?」
「はい」
「何で二回目の返事の方が信用できないんだろう……」
アルが扉へ手をかける。
古い蝶番が、低い軋みを上げた。
◇
教会の中へ、朝の光が差し込んだ。
舞い上がる埃。
朽ちかけた長椅子。
ひび割れた壁。
何も置かれていない祭壇。
そして。
中央付近の長椅子に、赤い長衣を掛けた男が寝転がっていた。
「……いるじゃん」
アルが小声で言った。
「旅人でしょうか」
「旅人が廃教会で寝る?」
「眠る場所がなかったのかもしれません」
「普通、宿に行かない?」
二人が話している間も、男は動かない。
片腕を頭の下に置き、もう片方の手を腹の上に乗せている。
壁際には、大きな背負い袋。
その隣には、ガネーシャ・ファミリアの封蝋が施された二つの細長い包みが置かれていた。
教会を荒らした形跡はない。
酒瓶も。
食べ残しも。
焚き火の跡もなかった。
寝るために使った長椅子の埃だけが払われている。
「起こさずに帰ろう」
アルが囁いた。
「ここまで来たのですから、少し休ませてもらいましょう」
「いやいや、知らない男が寝てるんだよ?」
「起きているようですよ」
「え?」
長椅子の男が、片目を開いた。
「さっきからうるせぇぞ」
「起きてた!?」
アルが反射的に一歩下がる。
だが、メーテリアの身体から手は離さない。
男――バンは、上半身を起こした。
乱れた明るい銀色の短髪を、片手でかき。
教会へ入ってきた二人を見る。
白い髪の女。
細い杖。
蒼い瞳。
立っているだけでも苦しそうな身体を、同じ白髪の男が支えている。
男の方は、強者には見えない。
だが、ただの素人でもなかった。
荷物を運ぶことに慣れた肩。
足裏へ重心を置かない、独特の立ち方。
戦うためではなく、逃げるために研ぎ澄まされた足運び。
何か起きれば。
誰より早く逃げ出しそうな男だった。
「ここ、あんたの家?」
アルが警戒しながら尋ねた。
「昨日からな」
「昨日から?」
「寝床探してたら見つけた」
「それ、家って言わないよね?」
「寝られりゃ同じだろ」
バンは長椅子から足を下ろす。
そして、メーテリアの顔を改めて見た。
白い髪。
顔立ち。
目の色こそ違う。
だが、見覚えのある女とよく似ていた。
「お前……誰かに似てんな」
「私に似ている方でしたら、おそらく双子の姉だと思います」
「双子?」
「姉の名は、アルフィアといいます」
「……お前、メーテリアか」
メーテリアの目が僅かに開かれる。
「姉が、私のことを話してくれたのですね」
「名前だけだ。あいつが自分から話すなんて、ほとんどねぇから覚えてた」
「それでも十分です」
メーテリアは嬉しそうに微笑んだ。
その隣で。
アルがバンの顔とメーテリアを交互に見る。
「ちょっと待って。アルフィアさんを知ってるの?」
「ああ」
「どこで?」
「しばらく一緒に旅してた」
「一緒に?」
「ああ」
「どれくらい?」
「結構長ぇぞ」
アルの目が、少しずつ見開かれていく。
「……よく生きてるね」
「お前、あいつに何かしたのか?」
「俺は何もしてないって」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶん?」
「心当たりが多すぎて、どれで怒られてるのか分からないんだよ」
「それ、何もしてねぇ奴の言い方じゃねぇぞ」
「俺だって好きで怒られてるわけじゃないって!」
アルは声を抑えながら訴える。
「俺はアル・クラネル。ゼウス・ファミリアのサポーター。こう見えてLv.2だからね?」
「強さより逃げ足の方がありそうだな」
「分かる?」
「否定しねぇのかよ」
「逃げるのだって技術だからね。化け物みたいな連中の荷物持って、生きて帰るのが俺の仕事なんだから」
「オラリオ一、逃げ足だけは速い方なのですよ」
メーテリアが付け加える。
「だけって言わないでよ、メーテリアちゃん」
「では、逃げ足が一番速い方です」
「そういう問題じゃないんだけど……」
バンは笑った。
「面白ぇ奴だな」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「情けねぇ」
「初対面でひどくない!?」
アルの声が教会へ響く。
メーテリアが小さく笑い。
続けて、わずかに咳をした。
「メーテリアちゃん」
アルの表情が変わる。
近くの長椅子へ彼女を座らせ、背中へ丸めた布を当てた。
バンも立ち上がる。
「水いるか?」
「持ってる」
「それ、もう少ししかねぇだろ」
アルが水筒を見る。
確かに、残りは僅かだった。
バンは自分の荷物から別の水筒を出す。
「昨日買ったやつだ。まだ口つけてねぇぞ」
「いいのですか?」
「ああ。倒れられたら面倒だからな」
メーテリアは両手で水筒を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいらねぇ」
「では、何かお返しを」
「この教会のこと教えろ。それでいい」
「取引ですか?」
「ただでやると、気ぃ遣うだろ」
メーテリアは一瞬驚いたあと、穏やかに微笑んだ。
「では、お話しします」
◇
メーテリアにとって、その教会は昔から特別な場所だった。
ヘラ・ファミリアが管理している建物ではある。
だが、神殿として使われなくなってから長く、普段は誰も訪れない。
祭事も。
礼拝も。
眷族の集会も行われていない。
管理する団員が、ときおり崩れていないか確認するだけ。
メーテリアは体調の良い日に限り、誰かに連れてきてもらい、ここで静かに過ごしていた。
「誰もいない場所ですけれど、不思議と寂しいとは思わないんです」
「そうか?」
「ここには、誰かが残していった願いが、まだ残っているような気がしますから」
割れたステンドグラスから差し込む光を、メーテリアは見上げる。
「長い間、たくさんの方が祈ったのでしょう。何を願ったのかは分かりません。それでも、その方々が真剣だったことだけは分かる気がするんです」
「願いで腹は膨れねぇぞ」
バンが言った。
「おい」
アルが横から口を挟む。
「もう少し雰囲気ってものを――」
「ふふ」
メーテリアが笑った。
「姉さんから聞いていた通りの方ですね」
「何て聞いた?」
「騒がしくて、放っておくと問題を起こす方だと」
「悪いとこしか聞いてねぇな」
「食べ物やお酒に目がないとも」
「そこは合ってる」
「否定しないんだ……」
アルが呆れる。
「姉は、旅の間も元気でしたか?」
メーテリアが尋ねた。
バンは少し考える。
「ああ。毎日のようにオレへ黙れって言ってたぞ」
「それなら、元気だったのですね」
「それで分かんのか?」
「姉さんは、具合が悪い時ほど何も言わなくなりますから」
メーテリアの指が、杖の柄をゆっくり撫でる。
「咳は増えていませんでしたか?」
「旅の最初よりは減ったと思うぞ。無茶するとまだ出るけどな」
「そうですか」
安心したように、メーテリアは息を吐く。
「食事は?」
「ザルドが作ってた。オレも何度か作ったぞ」
「姉さんは、きちんと食べていましたか?」
「オレとザルドに囲まれてたら、食わねぇ方が難しいだろ」
「それもそうですね」
「どういう意味?」
アルが首を傾げる。
「ザルドさんとバンさんは、たくさん召し上がるそうです」
「ザルドさんと同じ量食べるの?」
「種類によっちゃ負けねぇぞ」
「それ、人間の量じゃないよね?」
「お前、ザルドと同じファミリアだろ」
「同じファミリアだからこそ分かるんだよ。あの人の食事量を基準にしたら駄目だって」
三人の間に、穏やかな時間が流れる。
メーテリアはアルフィアの旅について尋ね。
バンは砂漠やオアシスの街での出来事を、少しずつ話した。
毒酒のように強い霧酒。
巨大なサソリ。
アルフィアが騒音に苛立っていたこと。
ザルドが旅先の食材で料理を作ったこと。
メーテリアは、一つひとつを大切そうに聞いていた。
「姉さんが誰かと長く旅をするなんて、珍しいですね」
「オレも何度か置いていかれそうになったぞ」
「それでも一緒だったのでしょう?」
「ああ」
「なら、姉さんはバンさんを気に入っているのですね」
「どこをどう聞いたらそうなんだよ」
「嫌いな方と、姉さんは同じ道を歩きませんから」
バンは返事をせず。
祭壇のない正面へ目を向けた。
「それで、バンさんはなぜここへ?」
「寝床探して歩いてたら、たまたま見つけた」
「宿には泊まらなかったのですか?」
「金はある」
バンは腰の小袋を軽く叩く。
「でも、ここが一番落ち着いた」
「廃教会が?」
アルが聞き返す。
「中心の方は、神様の視線が多すぎる」
「感じるの?」
「ああ。暇そうな目で見てきやがる」
「それ、絶対面倒なやつじゃん」
「だから、ここに来た」
バンは教会を見回す。
「神様だらけの街で、神様のいねぇ教会ってのも悪くねぇだろ」
メーテリアは少し驚いた顔をし。
やがて、柔らかく微笑んだ。
「私は、その言い方が好きです」
「変わってんな」
「よく言われます」
「姉妹だな」
「姉さんと私は、かなり違うと思いますけれど」
「似てるとこもあんだろ」
メーテリアは答えず。
どこか嬉しそうに、杖を抱いた。
◇
その頃。
ヘラ・ファミリアの本拠では。
「メーテリアはどこだ」
アルフィアの低い声が、廊下へ響いていた。
尋ねられた女性団員は、顔を強張らせる。
「お部屋にいらっしゃるはずですが……」
「いない」
「医務室では?」
「確認した」
「庭園へ出られた可能性は――」
「今日、外出の許可を出した者はいるか」
「い、いいえ」
アルフィアの周囲から、音が消えていく。
騒いでいた団員たちが口を閉じ。
廊下を歩く者たちも、壁際へ退いた。
「付き添いは」
「担当の者は、朝食を運んだあと、少し席を外したと……」
「その間に消えたのか」
「申し訳ありません!」
「謝罪は後だ。捜せ」
「はい!」
団員たちが一斉に動き出す。
アルフィアは、メーテリアの部屋へ入った。
寝台。
机。
薬。
いつも使っている外套がない。
杖も一本減っている。
誰かに連れ出された。
それも、メーテリアが自分の意思で同行する相手に。
「ゼウス・ファミリアのアル・クラネルも、今朝から姿が見えないそうです」
扉の外から、団員が告げた。
アルフィアの瞼が開く。
灰色と翠色。
二つの瞳に、冷たい殺意が宿った。
「……あの生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
小さな声だった。
だが。
報告へ来た団員の顔から血の気が引いた。
「心当たりは?」
「あります」
アルフィアは踵を返す。
メーテリアが好んでいた場所。
外へ出られるほど体調が良い日に、訪れたがる場所。
古い廃教会。
「姉様、護衛を――」
「要らない」
「ですが」
「あの生意気不愉快無粋男(ゴミカス)を殺すだけだ」
アルフィアは歩き出した。
廊下へ響く足音は、小さい。
それなのに。
彼女が一歩進むたび、周囲の空気が震えていた。
◇
廃教会で。
アル・クラネルの肩が突然跳ねた。
「……まずい」
「どうした?」
バンが尋ねる。
「何か来る」
「何か?」
「俺の生存本能が、全力で逃げろって叫んでる」
「まだ何も聞こえねぇぞ」
「聞こえてからじゃ遅いんだよ!」
アルは立ち上がり、窓を見る。
扉。
奥の小部屋。
崩れた壁。
逃走経路を素早く確認する。
「姉さんでしょうか」
メーテリアが穏やかに尋ねた。
「その可能性を考えたくないけど、たぶんそう!」
「では、説明しなければなりませんね」
「俺が生きてるうちにお願いね!?」
次の瞬間。
教会の扉が開いた。
風はない。
それでも、床に積もった埃が外側へ吹き飛んだ。
入口に、灰色の髪を持つ女が立っている。
アルフィア。
彼女が一歩、教会へ入っただけで、室内の空気が冷えた。
「姉さん」
メーテリアが呼ぶ。
アルフィアの視線が、真っ先に妹へ向かう。
長椅子へ座っている。
顔色は普段より僅かに悪い。
だが、怪我はない。
傍らに杖もある。
次に。
赤い長衣の男を見る。
「……なぜ、お前がここにいる」
「オレの寝床だから」
「昨日まで違っただろう」
「昨日見つけた」
「勝手に決めるな」
「別に、教会寄越せって言ってるわけじゃねぇぞ」
アルフィアは教会の内部を見回した。
ゴミはない。
酒瓶もない。
祭壇は荒らされていない。
火を焚いた跡もない。
長椅子の埃を払っただけ。
壁際の荷物も整理され、クレシューズと結晶の封蝋はそのまま残っている。
最後に。
アルフィアの視線が、白髪の青年へ向いた。
アルは、教会の奥へ少しずつ下がっていた。
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」
「はいっ!」
アルの背筋が伸びる。
「そこを動くな」
「いや、それ絶対動かないと死ぬやつじゃん!?」
「なぜ、メーテリアを連れ出した」
「違う違う!俺が誘拐したみたいに言わないで!メーテリアちゃんが行きたいって――」
「黙れ」
アルフィアが、アルへ指先を向ける。
「福――」
その一言を言い切るより早く、アルの姿が消えた。
メーテリアの身体を長椅子の背へしっかり預け、杖と水筒を手の届く位置へ置く。
そこまでを一瞬で済ませた直後には、すでに教会の横窓へ足をかけていた。
「待って待って待って!俺はメーテリアちゃんに頼まれただけだからね!あとの説明は任せた!」
「アル?」
「生きてたら迎えに来るから!」
「止まれ」
「止まったら死ぬので断ります!」
アルは窓枠を蹴り、細い路地へ飛び出した。
壊れかけた壁を蹴り。
細い路地へ飛び出す。
迷いのない逃走。
Lv.2の身体能力すべてを、ただ生き残るためだけに使った動きだった。
「逃がすか」
アルフィアが身を翻す。
だが。
「……姉さん」
背後から、細い声がした。
続けて。
小さな咳。
アルフィアの足が止まる。
窓の外へ向いていた殺意が、瞬時に消えた。
彼女はメーテリアの前へ戻り、膝をつく。
「メーテリア」
「大丈夫です、姉さん」
「大丈夫な者は、そのような咳をしない」
「少し歩きすぎただけです」
「なぜ外へ出た」
「この教会へ来たかったのです」
「私に言え」
「言えば、許してくださったのですか?」
「許可はしない」
「ですから、アルにお願いしました」
アルフィアの眉間に深い皺が寄る。
「選ぶ相手を間違えている」
「アルは、きちんと私を支えてくれました」
「当然だ。できなければ、すでに殺している」
「まだ殺すつもりなのですね」
「次に見つけた時にな」
バンが窓の外を見る。
アルの姿は、すでにどこにもない。
「追わなくていいのか?」
「次に見つけた時に殺す」
「逃げ足だけは速そうだったぞ」
「知っている」
アルフィアは短く吐き捨てる。
そして、メーテリアの呼吸を確かめた。
「帰るぞ」
「もう少しだけ、バンさんとお話を」
「駄目だ」
「姉さん」
「駄目だ」
即答だった。
メーテリアは困ったように笑う。
「バンさんは、旅の間の姉さんについて、たくさん教えてくださいました」
「余計なことを話すな」
「悪いことは話してねぇぞ」
「お前の基準は信用できない」
「毎日黙れって言われた話くらいだ」
「それを話す必要がどこにある」
「メーテリアが聞いたからな」
アルフィアはバンを睨む。
「ここを汚したのか」
「寝る場所の埃払っただけだ」
「祭壇には触れていないな」
「触る理由ねぇだろ」
「酒は」
「ここじゃ飲んでねぇ」
「食べ残しは」
「ねぇよ」
「火は」
「焚いてねぇ」
アルフィアは、もう一度教会内を見回した。
バンの言葉に嘘はない。
最低限の寝床として利用しただけ。
教会そのものを壊したり、汚したりはしていなかった。
「バンさんは、この場所を大切に扱ってくださいました」
メーテリアが言う。
「一晩寝ただけで何が分かる」
「少なくとも、踏み荒らしてはいません」
「当たり前だ」
アルフィアは冷たく返す。
「この教会は、ヘラ・ファミリアの管理下にある。誰であろうと、勝手な使用は認められない」
「なら、出てけってか?」
バンが尋ねる。
「まだそうは言っていない」
「どっちだよ」
「黙れ」
メーテリアが姉の手へ、自分の手を重ねた。
「姉さん」
「何だ」
「バンさんに、しばらくここを使っていただくことはできませんか?」
アルフィアの目が細くなる。
「お前が決めることではない」
「分かっています。ですから、ヘラにお願いしたいのです」
「こいつのためにか」
「私のためでもあります」
メーテリアは教会を見回した。
「誰も来ないまま、少しずつ朽ちていくのは寂しいです。バンさんがここで過ごしてくださるなら、この場所にも人の気配が戻ります」
「私が定期的に団員を寄越している」
「確認するためだけでしょう?」
「それで十分だ」
「私は、そうは思いません」
アルフィアは黙った。
メーテリアの柔らかな声には、拒みにくい強さがある。
病弱で。
戦う力もなく。
神の恩恵さえ持たない。
それでも、彼女が本気で望んだ時。
アルフィアが最後まで拒み切れたことは、ほとんどなかった。
「オレは別に、教会を寄越せって言ってるわけじゃねぇぞ」
バンが言う。
「当然だ。これはお前のものではない」
「寝られりゃ、それでいい」
「条件はこちらが決める」
「注文多そうだな」
「嫌なら出ていけ」
「まだ条件聞いてねぇだろ」
アルフィアはバンを見る。
祭壇へ背を向けて座る赤い旅人。
神々の街で、神のいない教会を選んだ男。
「なぜ、ここがいい」
「さっきメーテリアにも言ったぞ」
「私に答えろ」
バンは肩をすくめる。
「神様だらけの街で、神様のいねぇ教会だからな」
「それだけか」
「静かだ。雨も防げる。人の目も少ねぇ」
「宿の方が安全だ」
「落ち着かねぇ」
「ゼウス・ファミリアへ泊まればいい」
「じじいに気ぃ遣いながら飲む酒は、酔った気がしねぇよ」
「お前が神へ気を遣うとは思えない」
「気分の話だ」
メーテリアが小さく笑う。
アルフィアは妹を見る。
その表情は、外出している時とは思えないほど穏やかだった。
「……正式な判断はヘラがする」
アルフィアが言った。
「では、お願いしてくださいますか?」
「私が話す」
「ありがとうございます、姉さん」
「まだ許可は出ていない」
「それでも、話してくださるのでしょう?」
「……ああ」
バンが口元を上げる。
「優しい姉ちゃんだな」
「次に言えば殺す」
「今の一回はいいのか?」
「黙れ」
アルフィアは立ち上がり。
メーテリアの身体を支えた。
杖を持たせ。
外套を整える。
「今夜までは、ここにいろ」
「許可すんのか?」
「正式な判断が出るまで動くなと言っている」
「どっか行ったらどうすんだ?」
「見つけ出す」
「アルより逃げ足速くねぇぞ、オレ」
「試してみるか」
「冗談だよ」
バンは長椅子へ座り直した。
アルフィアは教会の出口へ向かう。
メーテリアは姉に支えられながら、途中で振り返った。
「バンさん」
「何だ?」
「また、ここへ来てもよろしいですか?」
「お前の好きな場所なんだろ。オレに聞くことじゃねぇ」
「では、また来ます」
「一人じゃ来んなよ」
「姉さんと同じことを言うのですね」
「倒れられたら面倒だからな」
「はい」
メーテリアは嬉しそうに頷いた。
アルフィアが扉を開く。
その直前。
窓の外へ一度だけ、冷たい視線を向ける。
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)は、次に見つけた時に殺す」
「まだ近くにいるかもしれねぇぞ」
「いない」
「分かんのか?」
「あいつは逃げる時だけは徹底している」
「褒めてんのか?」
「事実を言っただけだ」
二人の白い髪が、朝の光の中へ消えていく。
扉が閉じ。
教会に再び静寂が戻った。
バンは天井を見上げる。
昨日までは、誰にも使われていなかった場所。
今日。
ここを大切に思う女が現れた。
その女を連れ出した、逃げ足だけは一流の男。
そして。
妹のためなら、迷宮都市の端まで殺意を撒き散らしてやってくる姉。
「面白ぇ家族だな」
バンは小さく笑う。
正式な許可は、まだない。
この教会は、バンのものでもない。
それでも。
追い出されるまでは、ここにいていいらしい。
バンは赤い長衣を長椅子へ敷き直す。
「じゃあ、もう少し寝るか」
横になった直後。
遠くの路地から。
「何でまだ怒ってるんすかぁぁぁ!?」
聞き覚えのない青年の叫びが、かすかに響いた。
続いて。
何かが屋根の上を高速で駆け抜けていく音。
バンは片目を開ける。
「まだ近くにいたのかよ」
答える者はいない。
古い廃教会は。
昨日より少しだけ、騒がしい場所になっていた。
今回は、メーテリアとアル・クラネルがバンの廃教会を訪れ、アルフィアが二人を探して乗り込んでくる回でした。
メーテリアにとって大切な教会をバンへ譲るのではなく、ヘラ・ファミリアの管理下に置いたまま、当面の滞在許可を検討する形にしています。