強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第64話 白い髪の訪問者

朝の第七区画は、迷宮都市の中心部とは別の街のように静かだった。

 

バベルから放射状に延びる大通りを外れ、古い石造りの建物が並ぶ一角。

 

商人の呼び声も、武具を鳴らす冒険者たちの足音も遠い。

 

長い年月に削られた石畳の上を、二人の男女がゆっくりと歩いていた。

 

一人は、細い杖を手にした白髪の女性。

 

雪のような髪が、朝の淡い光を受けて揺れている。

 

顔色は白く、華奢な身体は一歩進むだけでも壊れてしまいそうだった。

 

隣を歩く白髪の青年が、彼女の腕と腰を支えている。

 

青年の身体つきは細い。

 

腰には短剣があるものの、第一級冒険者のような圧力はない。

 

だが、人の少ない道を進みながらも、何度も背後を確認していた。

 

そのたびに足の位置を細かく変え、いつでも走り出せる姿勢を取っている。

 

「本当に、ここまで来る必要あった?」

 

青年が小声で尋ねた。

 

「ええ。久しぶりに見ておきたかったんです」

 

「見ておきたい気持ちは分かるよ? でもさ、アルフィアさんに知られたら、俺、今度こそ死ぬじゃん?」

 

「姉さんには、私から説明します」

 

「それ、毎回言うよね」

 

青年はまた後ろを振り返った。

 

「説明が始まる前に、俺が消し炭になるんすよ。前なんて、見つかった瞬間に詠唱を始めたからね?」

 

「アルは逃げ切ったではありませんか」

 

「逃げ切れたから、またやっていいって話じゃないんだよ?」

 

白髪の女性――メーテリアは、小さく笑った。

 

「それに、今日は私からお願いしました」

 

「そうなんだけどさぁ……」

 

「嫌でしたか?」

 

「嫌なわけないじゃん」

 

青年は即座に答えた。

 

軽かった声が、その一言だけは真っ直ぐになる。

 

「メーテリアちゃんが行きたいって言うなら、俺はどこへでも連れてくよ。ただ、できればアルフィアさんのいない場所がいいなって」

 

「姉さんも、アルのことを嫌っているわけではありませんよ」

 

「それ、本気で言ってる?」

 

「ええ」

 

「俺を見るたびに殺意向けてくるけど?」

 

「照れているのかもしれません」

 

「絶対違うよね!?」

 

メーテリアは楽しそうに笑った。

 

その直後。

 

「……っ」

 

細い身体が揺れる。

 

杖の先が石畳を滑りかけた。

 

「メーテリアちゃん」

 

青年の腕が、すぐに彼女を抱き止める。

 

先ほどまでの軽薄な様子は消えていた。

 

「休もう。無理しすぎだって」

 

「もう少しです」

 

「もう少しでも駄目。ほら、息を整えて」

 

青年は道端にあった低い石壁へ、メーテリアをゆっくり座らせた。

 

腰の小袋から水筒を取り出し、蓋を開ける。

 

「少しだけ飲んで」

 

「ありがとうございます、アル」

 

「礼なんていいって。俺が勝手にやってるんだから」

 

アルと呼ばれた青年は、メーテリアが水を飲む間も周囲を見回していた。

 

逃げ道を探しているようにも見える。

 

だが、今すぐ何かが現れても、彼女だけは置いていかない。

 

そんなことが、立ち位置から伝わってきた。

 

しばらく休んだあと。

 

二人は再び歩き始めた。

 

細い道の先に、蔦の絡んだ尖塔が見えてくる。

 

ひび割れた石段。

 

風雨に削られた外壁。

 

割れた窓。

 

扉の上に残る、形の崩れた彫刻。

 

古い廃教会だった。

 

メーテリアはその姿を見つめ、穏やかに目を細める。

 

「変わっていませんね」

 

「俺には、前より崩れそうに見えるけど」

 

「昔から、こういう場所です」

 

「もっと安全なところを好きにならない?」

 

「ここがいいんです」

 

メーテリアは杖をつき、石段へ足をかけた。

 

アルが隣から身体を支える。

 

一段。

 

また一段。

 

普通の者なら数歩で上がれる石段を、二人は時間をかけて進んだ。

 

「中に誰もいなければいいけど」

 

「この時間なら、誰もいないと思います」

 

「闇派閥とか、変な浮浪者とかいたら、すぐ帰ろうね」

 

「はい」

 

「約束だよ?」

 

「はい」

 

「何で二回目の返事の方が信用できないんだろう……」

 

アルが扉へ手をかける。

 

古い蝶番が、低い軋みを上げた。

 

 

       ◇

 

 

教会の中へ、朝の光が差し込んだ。

 

舞い上がる埃。

 

朽ちかけた長椅子。

 

ひび割れた壁。

 

何も置かれていない祭壇。

 

そして。

 

中央付近の長椅子に、赤い長衣を掛けた男が寝転がっていた。

 

「……いるじゃん」

 

アルが小声で言った。

 

「旅人でしょうか」

 

「旅人が廃教会で寝る?」

 

「眠る場所がなかったのかもしれません」

 

「普通、宿に行かない?」

 

二人が話している間も、男は動かない。

 

片腕を頭の下に置き、もう片方の手を腹の上に乗せている。

 

壁際には、大きな背負い袋。

 

その隣には、ガネーシャ・ファミリアの封蝋が施された二つの細長い包みが置かれていた。

 

教会を荒らした形跡はない。

 

酒瓶も。

 

食べ残しも。

 

焚き火の跡もなかった。

 

寝るために使った長椅子の埃だけが払われている。

 

「起こさずに帰ろう」

 

アルが囁いた。

 

「ここまで来たのですから、少し休ませてもらいましょう」

 

「いやいや、知らない男が寝てるんだよ?」

 

「起きているようですよ」

 

「え?」

 

長椅子の男が、片目を開いた。

 

「さっきからうるせぇぞ」

 

「起きてた!?」

 

アルが反射的に一歩下がる。

 

だが、メーテリアの身体から手は離さない。

 

男――バンは、上半身を起こした。

 

乱れた明るい銀色の短髪を、片手でかき。

 

教会へ入ってきた二人を見る。

 

白い髪の女。

 

細い杖。

 

蒼い瞳。

 

立っているだけでも苦しそうな身体を、同じ白髪の男が支えている。

 

男の方は、強者には見えない。

 

だが、ただの素人でもなかった。

 

荷物を運ぶことに慣れた肩。

 

足裏へ重心を置かない、独特の立ち方。

 

戦うためではなく、逃げるために研ぎ澄まされた足運び。

 

何か起きれば。

 

誰より早く逃げ出しそうな男だった。

 

「ここ、あんたの家?」

 

アルが警戒しながら尋ねた。

 

「昨日からな」

 

「昨日から?」

 

「寝床探してたら見つけた」

 

「それ、家って言わないよね?」

 

「寝られりゃ同じだろ」

 

バンは長椅子から足を下ろす。

 

そして、メーテリアの顔を改めて見た。

 

白い髪。

 

顔立ち。

 

目の色こそ違う。

 

だが、見覚えのある女とよく似ていた。

 

「お前……誰かに似てんな」

 

「私に似ている方でしたら、おそらく双子の姉だと思います」

 

「双子?」

 

「姉の名は、アルフィアといいます」

 

「……お前、メーテリアか」

 

メーテリアの目が僅かに開かれる。

 

「姉が、私のことを話してくれたのですね」

 

「名前だけだ。あいつが自分から話すなんて、ほとんどねぇから覚えてた」

 

「それでも十分です」

 

メーテリアは嬉しそうに微笑んだ。

 

その隣で。

 

アルがバンの顔とメーテリアを交互に見る。

 

「ちょっと待って。アルフィアさんを知ってるの?」

 

「ああ」

 

「どこで?」

 

「しばらく一緒に旅してた」

 

「一緒に?」

 

「ああ」

 

「どれくらい?」

 

「結構長ぇぞ」

 

アルの目が、少しずつ見開かれていく。

 

「……よく生きてるね」

 

「お前、あいつに何かしたのか?」

 

「俺は何もしてないって」

 

「本当か?」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「心当たりが多すぎて、どれで怒られてるのか分からないんだよ」

 

「それ、何もしてねぇ奴の言い方じゃねぇぞ」

 

「俺だって好きで怒られてるわけじゃないって!」

 

アルは声を抑えながら訴える。

 

「俺はアル・クラネル。ゼウス・ファミリアのサポーター。こう見えてLv.2だからね?」

 

「強さより逃げ足の方がありそうだな」

 

「分かる?」

 

「否定しねぇのかよ」

 

「逃げるのだって技術だからね。化け物みたいな連中の荷物持って、生きて帰るのが俺の仕事なんだから」

 

「オラリオ一、逃げ足だけは速い方なのですよ」

 

メーテリアが付け加える。

 

「だけって言わないでよ、メーテリアちゃん」

 

「では、逃げ足が一番速い方です」

 

「そういう問題じゃないんだけど……」

 

バンは笑った。

 

「面白ぇ奴だな」

 

「それ、褒めてる?」

 

「半分くらい」

 

「残り半分は?」

 

「情けねぇ」

 

「初対面でひどくない!?」

 

アルの声が教会へ響く。

 

メーテリアが小さく笑い。

 

続けて、わずかに咳をした。

 

「メーテリアちゃん」

 

アルの表情が変わる。

 

近くの長椅子へ彼女を座らせ、背中へ丸めた布を当てた。

 

バンも立ち上がる。

 

「水いるか?」

 

「持ってる」

 

「それ、もう少ししかねぇだろ」

 

アルが水筒を見る。

 

確かに、残りは僅かだった。

 

バンは自分の荷物から別の水筒を出す。

 

「昨日買ったやつだ。まだ口つけてねぇぞ」

 

「いいのですか?」

 

「ああ。倒れられたら面倒だからな」

 

メーテリアは両手で水筒を受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいらねぇ」

 

「では、何かお返しを」

 

「この教会のこと教えろ。それでいい」

 

「取引ですか?」

 

「ただでやると、気ぃ遣うだろ」

 

メーテリアは一瞬驚いたあと、穏やかに微笑んだ。

 

「では、お話しします」

 

 

       ◇

 

 

メーテリアにとって、その教会は昔から特別な場所だった。

 

ヘラ・ファミリアが管理している建物ではある。

 

だが、神殿として使われなくなってから長く、普段は誰も訪れない。

 

祭事も。

 

礼拝も。

 

眷族の集会も行われていない。

 

管理する団員が、ときおり崩れていないか確認するだけ。

 

メーテリアは体調の良い日に限り、誰かに連れてきてもらい、ここで静かに過ごしていた。

 

「誰もいない場所ですけれど、不思議と寂しいとは思わないんです」

 

「そうか?」

 

「ここには、誰かが残していった願いが、まだ残っているような気がしますから」

 

割れたステンドグラスから差し込む光を、メーテリアは見上げる。

 

「長い間、たくさんの方が祈ったのでしょう。何を願ったのかは分かりません。それでも、その方々が真剣だったことだけは分かる気がするんです」

 

「願いで腹は膨れねぇぞ」

 

バンが言った。

 

「おい」

 

アルが横から口を挟む。

 

「もう少し雰囲気ってものを――」

 

「ふふ」

 

メーテリアが笑った。

 

「姉さんから聞いていた通りの方ですね」

 

「何て聞いた?」

 

「騒がしくて、放っておくと問題を起こす方だと」

 

「悪いとこしか聞いてねぇな」

 

「食べ物やお酒に目がないとも」

 

「そこは合ってる」

 

「否定しないんだ……」

 

アルが呆れる。

 

「姉は、旅の間も元気でしたか?」

 

メーテリアが尋ねた。

 

バンは少し考える。

 

「ああ。毎日のようにオレへ黙れって言ってたぞ」

 

「それなら、元気だったのですね」

 

「それで分かんのか?」

 

「姉さんは、具合が悪い時ほど何も言わなくなりますから」

 

メーテリアの指が、杖の柄をゆっくり撫でる。

 

「咳は増えていませんでしたか?」

 

「旅の最初よりは減ったと思うぞ。無茶するとまだ出るけどな」

 

「そうですか」

 

安心したように、メーテリアは息を吐く。

 

「食事は?」

 

「ザルドが作ってた。オレも何度か作ったぞ」

 

「姉さんは、きちんと食べていましたか?」

 

「オレとザルドに囲まれてたら、食わねぇ方が難しいだろ」

 

「それもそうですね」

 

「どういう意味?」

 

アルが首を傾げる。

 

「ザルドさんとバンさんは、たくさん召し上がるそうです」

 

「ザルドさんと同じ量食べるの?」

 

「種類によっちゃ負けねぇぞ」

 

「それ、人間の量じゃないよね?」

 

「お前、ザルドと同じファミリアだろ」

 

「同じファミリアだからこそ分かるんだよ。あの人の食事量を基準にしたら駄目だって」

 

三人の間に、穏やかな時間が流れる。

 

メーテリアはアルフィアの旅について尋ね。

 

バンは砂漠やオアシスの街での出来事を、少しずつ話した。

 

毒酒のように強い霧酒。

 

巨大なサソリ。

 

アルフィアが騒音に苛立っていたこと。

 

ザルドが旅先の食材で料理を作ったこと。

 

メーテリアは、一つひとつを大切そうに聞いていた。

 

「姉さんが誰かと長く旅をするなんて、珍しいですね」

 

「オレも何度か置いていかれそうになったぞ」

 

「それでも一緒だったのでしょう?」

 

「ああ」

 

「なら、姉さんはバンさんを気に入っているのですね」

 

「どこをどう聞いたらそうなんだよ」

 

「嫌いな方と、姉さんは同じ道を歩きませんから」

 

バンは返事をせず。

 

祭壇のない正面へ目を向けた。

 

「それで、バンさんはなぜここへ?」

 

「寝床探して歩いてたら、たまたま見つけた」

 

「宿には泊まらなかったのですか?」

 

「金はある」

 

バンは腰の小袋を軽く叩く。

 

「でも、ここが一番落ち着いた」

 

「廃教会が?」

 

アルが聞き返す。

 

「中心の方は、神様の視線が多すぎる」

 

「感じるの?」

 

「ああ。暇そうな目で見てきやがる」

 

「それ、絶対面倒なやつじゃん」

 

「だから、ここに来た」

 

バンは教会を見回す。

 

「神様だらけの街で、神様のいねぇ教会ってのも悪くねぇだろ」

 

メーテリアは少し驚いた顔をし。

 

やがて、柔らかく微笑んだ。

 

「私は、その言い方が好きです」

 

「変わってんな」

 

「よく言われます」

 

「姉妹だな」

 

「姉さんと私は、かなり違うと思いますけれど」

 

「似てるとこもあんだろ」

 

メーテリアは答えず。

 

どこか嬉しそうに、杖を抱いた。

 

 

       ◇

 

 

その頃。

 

ヘラ・ファミリアの本拠では。

 

「メーテリアはどこだ」

 

アルフィアの低い声が、廊下へ響いていた。

 

尋ねられた女性団員は、顔を強張らせる。

 

「お部屋にいらっしゃるはずですが……」

 

「いない」

 

「医務室では?」

 

「確認した」

 

「庭園へ出られた可能性は――」

 

「今日、外出の許可を出した者はいるか」

 

「い、いいえ」

 

アルフィアの周囲から、音が消えていく。

 

騒いでいた団員たちが口を閉じ。

 

廊下を歩く者たちも、壁際へ退いた。

 

「付き添いは」

 

「担当の者は、朝食を運んだあと、少し席を外したと……」

 

「その間に消えたのか」

 

「申し訳ありません!」

 

「謝罪は後だ。捜せ」

 

「はい!」

 

団員たちが一斉に動き出す。

 

アルフィアは、メーテリアの部屋へ入った。

 

寝台。

 

机。

 

薬。

 

いつも使っている外套がない。

 

杖も一本減っている。

 

誰かに連れ出された。

 

それも、メーテリアが自分の意思で同行する相手に。

 

「ゼウス・ファミリアのアル・クラネルも、今朝から姿が見えないそうです」

 

扉の外から、団員が告げた。

 

アルフィアの瞼が開く。

 

灰色と翠色。

 

二つの瞳に、冷たい殺意が宿った。

 

「……あの生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」

 

小さな声だった。

 

だが。

 

報告へ来た団員の顔から血の気が引いた。

 

「心当たりは?」

 

「あります」

 

アルフィアは踵を返す。

 

メーテリアが好んでいた場所。

 

外へ出られるほど体調が良い日に、訪れたがる場所。

 

古い廃教会。

 

「姉様、護衛を――」

 

「要らない」

 

「ですが」

 

「あの生意気不愉快無粋男(ゴミカス)を殺すだけだ」

 

アルフィアは歩き出した。

 

廊下へ響く足音は、小さい。

 

それなのに。

 

彼女が一歩進むたび、周囲の空気が震えていた。

 

 

       ◇

 

 

廃教会で。

 

アル・クラネルの肩が突然跳ねた。

 

「……まずい」

 

「どうした?」

 

バンが尋ねる。

 

「何か来る」

 

「何か?」

 

「俺の生存本能が、全力で逃げろって叫んでる」

 

「まだ何も聞こえねぇぞ」

 

「聞こえてからじゃ遅いんだよ!」

 

アルは立ち上がり、窓を見る。

 

扉。

 

奥の小部屋。

 

崩れた壁。

 

逃走経路を素早く確認する。

 

「姉さんでしょうか」

 

メーテリアが穏やかに尋ねた。

 

「その可能性を考えたくないけど、たぶんそう!」

 

「では、説明しなければなりませんね」

 

「俺が生きてるうちにお願いね!?」

 

次の瞬間。

 

教会の扉が開いた。

 

風はない。

 

それでも、床に積もった埃が外側へ吹き飛んだ。

 

入口に、灰色の髪を持つ女が立っている。

 

アルフィア。

 

彼女が一歩、教会へ入っただけで、室内の空気が冷えた。

 

「姉さん」

 

メーテリアが呼ぶ。

 

アルフィアの視線が、真っ先に妹へ向かう。

 

長椅子へ座っている。

 

顔色は普段より僅かに悪い。

 

だが、怪我はない。

 

傍らに杖もある。

 

次に。

 

赤い長衣の男を見る。

 

「……なぜ、お前がここにいる」

 

「オレの寝床だから」

 

「昨日まで違っただろう」

 

「昨日見つけた」

 

「勝手に決めるな」

 

「別に、教会寄越せって言ってるわけじゃねぇぞ」

 

アルフィアは教会の内部を見回した。

 

ゴミはない。

 

酒瓶もない。

 

祭壇は荒らされていない。

 

火を焚いた跡もない。

 

長椅子の埃を払っただけ。

 

壁際の荷物も整理され、クレシューズと結晶の封蝋はそのまま残っている。

 

最後に。

 

アルフィアの視線が、白髪の青年へ向いた。

 

アルは、教会の奥へ少しずつ下がっていた。

 

「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)」

 

「はいっ!」

 

アルの背筋が伸びる。

 

「そこを動くな」

 

「いや、それ絶対動かないと死ぬやつじゃん!?」

 

「なぜ、メーテリアを連れ出した」

 

「違う違う!俺が誘拐したみたいに言わないで!メーテリアちゃんが行きたいって――」

 

「黙れ」

 

アルフィアが、アルへ指先を向ける。

 

「福――」

 

その一言を言い切るより早く、アルの姿が消えた。

 

メーテリアの身体を長椅子の背へしっかり預け、杖と水筒を手の届く位置へ置く。

 

そこまでを一瞬で済ませた直後には、すでに教会の横窓へ足をかけていた。

 

「待って待って待って!俺はメーテリアちゃんに頼まれただけだからね!あとの説明は任せた!」

 

「アル?」

 

「生きてたら迎えに来るから!」

 

「止まれ」

 

「止まったら死ぬので断ります!」

 

アルは窓枠を蹴り、細い路地へ飛び出した。

 

壊れかけた壁を蹴り。

 

細い路地へ飛び出す。

 

迷いのない逃走。

 

Lv.2の身体能力すべてを、ただ生き残るためだけに使った動きだった。

 

「逃がすか」

 

アルフィアが身を翻す。

 

だが。

 

「……姉さん」

 

背後から、細い声がした。

 

続けて。

 

小さな咳。

 

アルフィアの足が止まる。

 

窓の外へ向いていた殺意が、瞬時に消えた。

 

彼女はメーテリアの前へ戻り、膝をつく。

 

「メーテリア」

 

「大丈夫です、姉さん」

 

「大丈夫な者は、そのような咳をしない」

 

「少し歩きすぎただけです」

 

「なぜ外へ出た」

 

「この教会へ来たかったのです」

 

「私に言え」

 

「言えば、許してくださったのですか?」

 

「許可はしない」

 

「ですから、アルにお願いしました」

 

アルフィアの眉間に深い皺が寄る。

 

「選ぶ相手を間違えている」

 

「アルは、きちんと私を支えてくれました」

 

「当然だ。できなければ、すでに殺している」

 

「まだ殺すつもりなのですね」

 

「次に見つけた時にな」

 

バンが窓の外を見る。

 

アルの姿は、すでにどこにもない。

 

「追わなくていいのか?」

 

「次に見つけた時に殺す」

 

「逃げ足だけは速そうだったぞ」

 

「知っている」

 

アルフィアは短く吐き捨てる。

 

そして、メーテリアの呼吸を確かめた。

 

「帰るぞ」

 

「もう少しだけ、バンさんとお話を」

 

「駄目だ」

 

「姉さん」

 

「駄目だ」

 

即答だった。

 

メーテリアは困ったように笑う。

 

「バンさんは、旅の間の姉さんについて、たくさん教えてくださいました」

 

「余計なことを話すな」

 

「悪いことは話してねぇぞ」

 

「お前の基準は信用できない」

 

「毎日黙れって言われた話くらいだ」

 

「それを話す必要がどこにある」

 

「メーテリアが聞いたからな」

 

アルフィアはバンを睨む。

 

「ここを汚したのか」

 

「寝る場所の埃払っただけだ」

 

「祭壇には触れていないな」

 

「触る理由ねぇだろ」

 

「酒は」

 

「ここじゃ飲んでねぇ」

 

「食べ残しは」

 

「ねぇよ」

 

「火は」

 

「焚いてねぇ」

 

アルフィアは、もう一度教会内を見回した。

 

バンの言葉に嘘はない。

 

最低限の寝床として利用しただけ。

 

教会そのものを壊したり、汚したりはしていなかった。

 

「バンさんは、この場所を大切に扱ってくださいました」

 

メーテリアが言う。

 

「一晩寝ただけで何が分かる」

 

「少なくとも、踏み荒らしてはいません」

 

「当たり前だ」

 

アルフィアは冷たく返す。

 

「この教会は、ヘラ・ファミリアの管理下にある。誰であろうと、勝手な使用は認められない」

 

「なら、出てけってか?」

 

バンが尋ねる。

 

「まだそうは言っていない」

 

「どっちだよ」

 

「黙れ」

 

メーテリアが姉の手へ、自分の手を重ねた。

 

「姉さん」

 

「何だ」

 

「バンさんに、しばらくここを使っていただくことはできませんか?」

 

アルフィアの目が細くなる。

 

「お前が決めることではない」

 

「分かっています。ですから、ヘラにお願いしたいのです」

 

「こいつのためにか」

 

「私のためでもあります」

 

メーテリアは教会を見回した。

 

「誰も来ないまま、少しずつ朽ちていくのは寂しいです。バンさんがここで過ごしてくださるなら、この場所にも人の気配が戻ります」

 

「私が定期的に団員を寄越している」

 

「確認するためだけでしょう?」

 

「それで十分だ」

 

「私は、そうは思いません」

 

アルフィアは黙った。

 

メーテリアの柔らかな声には、拒みにくい強さがある。

 

病弱で。

 

戦う力もなく。

 

神の恩恵さえ持たない。

 

それでも、彼女が本気で望んだ時。

 

アルフィアが最後まで拒み切れたことは、ほとんどなかった。

 

「オレは別に、教会を寄越せって言ってるわけじゃねぇぞ」

 

バンが言う。

 

「当然だ。これはお前のものではない」

 

「寝られりゃ、それでいい」

 

「条件はこちらが決める」

 

「注文多そうだな」

 

「嫌なら出ていけ」

 

「まだ条件聞いてねぇだろ」

 

アルフィアはバンを見る。

 

祭壇へ背を向けて座る赤い旅人。

 

神々の街で、神のいない教会を選んだ男。

 

「なぜ、ここがいい」

 

「さっきメーテリアにも言ったぞ」

 

「私に答えろ」

 

バンは肩をすくめる。

 

「神様だらけの街で、神様のいねぇ教会だからな」

 

「それだけか」

 

「静かだ。雨も防げる。人の目も少ねぇ」

 

「宿の方が安全だ」

 

「落ち着かねぇ」

 

「ゼウス・ファミリアへ泊まればいい」

 

「じじいに気ぃ遣いながら飲む酒は、酔った気がしねぇよ」

 

「お前が神へ気を遣うとは思えない」

 

「気分の話だ」

 

メーテリアが小さく笑う。

 

アルフィアは妹を見る。

 

その表情は、外出している時とは思えないほど穏やかだった。

 

「……正式な判断はヘラがする」

 

アルフィアが言った。

 

「では、お願いしてくださいますか?」

 

「私が話す」

 

「ありがとうございます、姉さん」

 

「まだ許可は出ていない」

 

「それでも、話してくださるのでしょう?」

 

「……ああ」

 

バンが口元を上げる。

 

「優しい姉ちゃんだな」

 

「次に言えば殺す」

 

「今の一回はいいのか?」

 

「黙れ」

 

アルフィアは立ち上がり。

 

メーテリアの身体を支えた。

 

杖を持たせ。

 

外套を整える。

 

「今夜までは、ここにいろ」

 

「許可すんのか?」

 

「正式な判断が出るまで動くなと言っている」

 

「どっか行ったらどうすんだ?」

 

「見つけ出す」

 

「アルより逃げ足速くねぇぞ、オレ」

 

「試してみるか」

 

「冗談だよ」

 

バンは長椅子へ座り直した。

 

アルフィアは教会の出口へ向かう。

 

メーテリアは姉に支えられながら、途中で振り返った。

 

「バンさん」

 

「何だ?」

 

「また、ここへ来てもよろしいですか?」

 

「お前の好きな場所なんだろ。オレに聞くことじゃねぇ」

 

「では、また来ます」

 

「一人じゃ来んなよ」

 

「姉さんと同じことを言うのですね」

 

「倒れられたら面倒だからな」

 

「はい」

 

メーテリアは嬉しそうに頷いた。

 

アルフィアが扉を開く。

 

その直前。

 

窓の外へ一度だけ、冷たい視線を向ける。

 

「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)は、次に見つけた時に殺す」

 

「まだ近くにいるかもしれねぇぞ」

 

「いない」

 

「分かんのか?」

 

「あいつは逃げる時だけは徹底している」

 

「褒めてんのか?」

 

「事実を言っただけだ」

 

二人の白い髪が、朝の光の中へ消えていく。

 

扉が閉じ。

 

教会に再び静寂が戻った。

 

バンは天井を見上げる。

 

昨日までは、誰にも使われていなかった場所。

 

今日。

 

ここを大切に思う女が現れた。

 

その女を連れ出した、逃げ足だけは一流の男。

 

そして。

 

妹のためなら、迷宮都市の端まで殺意を撒き散らしてやってくる姉。

 

「面白ぇ家族だな」

 

バンは小さく笑う。

 

正式な許可は、まだない。

 

この教会は、バンのものでもない。

 

それでも。

 

追い出されるまでは、ここにいていいらしい。

 

バンは赤い長衣を長椅子へ敷き直す。

 

「じゃあ、もう少し寝るか」

 

横になった直後。

 

遠くの路地から。

 

「何でまだ怒ってるんすかぁぁぁ!?」

 

聞き覚えのない青年の叫びが、かすかに響いた。

 

続いて。

 

何かが屋根の上を高速で駆け抜けていく音。

 

バンは片目を開ける。

 

「まだ近くにいたのかよ」

 

答える者はいない。

 

古い廃教会は。

 

昨日より少しだけ、騒がしい場所になっていた。




今回は、メーテリアとアル・クラネルがバンの廃教会を訪れ、アルフィアが二人を探して乗り込んでくる回でした。

メーテリアにとって大切な教会をバンへ譲るのではなく、ヘラ・ファミリアの管理下に置いたまま、当面の滞在許可を検討する形にしています。
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