ヘラ・ファミリアの本拠へ戻ると、メーテリアはすぐに自室へ運ばれた。
寝台へ身体を横たえられ、厚い布を肩まで掛けられる。
薬湯の入った杯。
冷たい水。
呼吸を楽にするための香草。
女性団員たちが慣れた手つきで準備を整えていく中、部屋の隅にはアルフィアが立っていた。
長い灰色の髪。
閉ざされた瞼。
腕を組んだまま、妹の呼吸が落ち着くまで一言も発しない。
「姉さん」
「何だ」
「それほど怖い顔をしなくても大丈夫です」
「誰のせいだと思っている」
「私でしょうか」
「分かっているなら、二度とするな」
メーテリアは困ったように笑った。
「ですが、教会へ行けてよかったです」
「よくない」
「バンさんにも会えました」
「なお悪い」
「姉さんが長く一緒に旅をしていた方ですから、以前からお会いしてみたかったのです」
「会う必要はない」
「姉さん」
「何だ」
「バンさんのことを嫌っているのですか?」
「騒がしい。無遠慮。酒と食べ物への執着が異常。人の話を聞かず、放置すれば必ず問題を起こす」
「嫌いなのですか?」
「……質問を変えるな」
アルフィアの眉間に僅かな皺が寄る。
そこへ、部屋の扉が開いた。
「随分と楽しそうな話をしているわね」
姿を現したのは、ヘラだった。
女神が入室した瞬間、部屋にいた団員たちの背筋が伸びる。
彼女たちは一礼すると、薬や水を残して静かに退出した。
ヘラは寝台の脇へ腰を下ろし、メーテリアの顔を覗き込む。
「私の許可もなく、外へ出たそうね」
「申し訳ありません、ヘラ様」
「謝れば済むと思っているのかしら」
「姉さんにも叱られました」
「アルフィアの説教で足りるものですか。あなたは自分の身体がどれほど弱いのか、少しも理解していないのね」
「理解はしています」
「理解していて、あの男に連れ出させたの?」
ヘラの目が細くなる。
「ゼウスのところの、生意気で、不愉快で、無粋な下っ端に」
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)だ」
アルフィアが訂正する。
「長いわね」
「適切な呼称だ」
「アルは私のお願いを聞いてくれただけです」
メーテリアが静かに言った。
「ですから、アルだけを責めないでください」
「あなたが庇うから、あの男は何度でも調子に乗るのよ」
「頼らなければ、教会へ行けませんでしたから」
「私に言えばいいでしょう」
ヘラの言葉に、メーテリアは首を傾げた。
「許可してくださいましたか?」
「もちろん許可しないわ」
「では、アルにお願いして正解でした」
「メーテリア?」
ヘラの頬が僅かに引きつる。
アルフィアが小さく息を吐いた。
「トロ子に正論を返されているぞ、ヘラ」
「誰の眷族だと思っているの、あなたたちは」
「ヘラ様の眷族です」
メーテリアが素直に答える。
ヘラは何か言い返そうとしたが、結局口を閉じた。
「それで」
女神は話題を切り替える。
「教会にいたという旅人は、何者なの?」
「バンさんです」
「名前を聞いているのではないわ」
「ベヒーモス討伐に参加した赤い旅人だ」
アルフィアが答えた。
「ああ、あの男」
ヘラは顎へ指を添える。
「ゼウスの眷族にも、私の眷族にもならず、神の恩恵すら持っていないという変わり者ね」
「本人に所属する意思はない」
「それで、どうして私たちが管理する教会にいるの?」
「寝床として選んだそうです」
メーテリアが答える。
「勝手に?」
「昨夜、偶然見つけたそうです」
「追い出しなさい」
「ヘラ様」
「駄目よ」
「まだ何もお願いしていません」
「これからお願いする顔をしているもの」
メーテリアは小さく微笑んだ。
「バンさんに、しばらくあの教会を使っていただくことはできませんか?」
「できません」
「誰も使っていない場所です」
「私のファミリアが管理しているわ」
「はい。ですから、教会をバンさんへ差し上げたいわけではありません」
「当然よ」
「管理は、これまでどおりヘラ・ファミリアのままで構いません。ただ、空いている間だけ滞在を認めていただきたいのです」
ヘラはすぐには答えなかった。
寝台に横たわるメーテリアを見る。
体調を悪くしてまで訪れた場所。
メーテリアが数少ない外出先として愛してきた教会だった。
「どうして、あの男なの?」
「荒らしていませんでした」
「一晩では分からないでしょう」
「祭壇や神像にも触れず、寝る場所の埃を払っただけでした」
「当たり前よ」
「誰も来ないまま朽ちていくより、誰かが過ごしてくださる方が、私は嬉しいのです」
メーテリアの声は穏やかだった。
だが、その言葉を引っ込めるつもりがないことを、ヘラもアルフィアも知っている。
「……条件付きよ」
やがて、ヘラが言った。
「ありがとうございます、ヘラ様」
「まだ条件を聞いていないでしょう」
「ヘラ様が、無理な条件を出すとは思っていませんから」
「それは信頼なのかしら。それとも圧力?」
「信頼です」
ヘラは片手で額を押さえた。
「教会の管理権は、これまでどおり私たちが持つ。土地も建物も、あの男へ渡すつもりはないわ」
「はい」
「滞在は当面の間だけ。壁や床を勝手に壊さない。増築しない。祭壇や残されたものを捨てない。商売の拠点にしない」
ヘラは一つずつ条件を並べる。
「酒場にするのも禁止よ」
「本人は少し考えていたようだ」
アルフィアが言った。
「今すぐ追い出しなさい」
「冗談だと言っていた」
「信用できないわね」
「同感だ」
メーテリアが小さく笑った。
「定期的に団員を確認へ向かわせるわ。ギルドへの届け出はこちらから行う。問題を起こしたら、即刻追い出す。それでいいなら、滞在を認めます」
「十分だと思います」
「アルフィア」
「何だ」
「あの男へ伝えなさい」
「なぜ私が」
「あなたが長く一緒に旅をしていたのでしょう?」
「連れてきたわけではない」
「それでも、一番話が早いわ」
アルフィアは露骨に嫌そうな顔をした。
「それから」
ヘラの視線が冷たくなる。
「あの生意気で不愉快で無粋な男を見つけたら、ここへ連れてきなさい」
「生意気不愉快無粋男(ゴミカス)だ」
「だから長いのよ」
「殺してからでいいか」
「生きたまま連れてきなさい。メーテリアが悲しむでしょう」
「手足は残す」
「五体満足でよ」
「注文が多い」
メーテリアが寝台の上で、二人の会話を聞きながら微笑んでいた。
◇
同じ頃。
ゼウス・ファミリアの本拠では、一人の白髪の青年が大男の背後に隠れていた。
「ザルドさん。今日だけ俺の存在を忘れてくれません?」
「断る」
「即答!?」
「アルフィアから逃げてきた時点で、お前が何をしたかは想像できる」
ザルドは卓上の書類から目を上げない。
「俺は何もしてないっすよ!」
「毎回それを言うな」
「今回は本当ですって!メーテリアちゃんが教会へ行きたいって言うから、連れていっただけで!」
「十分に何かしている」
「だって断れないじゃないですか!」
「断れ」
「無理っすよ!あんな顔でお願いされたら、世界中の男が断れないって!」
「自分の意思の弱さを世界中の男へ押しつけるな」
少し離れた椅子で、ゼウスが腹を抱えて笑っている。
「愛する女の願いに命を懸ける!見上げた男ではないか!」
「ですよね、主神!」
「だがアルフィアが来たら、お主を差し出すぞ」
「最低だ、この主神!」
「儂まで巻き込まれたくないからのう」
アルはザルドの背後へさらに身を縮めた。
「ザルドさんだけが頼りなんです」
「俺もお前を差し出す」
「このファミリアに仲間はいないの!?」
「自業自得だ」
「メーテリアちゃんは無事なんです!」
「当然だ。お前が無事に連れ帰れないなら、逃げる前に俺が殴っている」
「理不尽!」
ザルドはようやく書類を置いた。
「それで、教会には誰かいたのか」
「ああ、いましたよ。銀髪で赤い服の、態度がでかい男」
「バンか」
「知ってるんですか?」
「旅の同行者だ」
「ザルドさんも一緒だったんすか?」
「ああ」
「よく耐えましたね」
「何にだ」
「アルフィアさんと長期間一緒にいることに」
ザルドは無言でアルの頭を掴んだ。
「痛い痛い痛い!何で俺が殴られるの!?」
「余計なことを言うからだ」
「まだ殴られてない!頭が潰されてる!」
ゼウスがさらに笑い声を上げた。
「バンは、あの教会を寝床にするつもりなのか」
「本人はそう言ってましたけど」
「そうか」
ザルドは立ち上がる。
「様子を見てくる」
「俺も行った方がいいですか?」
「死にたいなら来い」
「ここで待ってます」
アルは迷うことなく答えた。
◇
廃教会の地上階には、朝よりも多くの光が差し込んでいた。
壁の一部が崩れ、外から伸びた蔦が石の隙間へ入り込んでいる。
屋根には小さな穴がいくつも開き、そこから細い光の柱が落ちていた。
礼拝堂の床には雑草が生え、雨風に運ばれた土が積もっている。
破損した神像。
半分崩れた祭壇。
脚の折れた長椅子。
無事に形を残しているものは少ない。
昨夜バンが眠った長椅子も、よく見れば背もたれの一部が欠けていた。
「寝られりゃ十分だと思ったが」
バンは屋根の穴を見上げた。
「雨降ったら終わりだな」
明るい銀色の短髪へ落ちてきた埃を、片手で払う。
教会そのものを直すつもりはない。
所有者でもない男が、勝手に壁を組み直すわけにもいかない。
それでも、足の踏み場くらいは必要だった。
バンは崩れた長椅子を持ち上げ、壁際へ寄せる。
散らばった石材。
朽ちた板。
割れた神像の一部。
捨てずに、種類ごとに端へ集めていく。
祭壇には触れない。
メーテリアが大切にしている場所だと聞いた以上、壊れたものにも意味があるかもしれなかった。
瓦礫を動かしている途中。
バンの足が、一枚の石板を踏んだ。
鈍い音。
周囲とは明らかに違う。
「……下に何かあんな」
バンは屈み、石板の周囲に積もった土を手で払った。
端に金属の輪が埋まっている。
その上には割れた板や小さな石材が積もり、遠目からでは床の一部にしか見えない。
輪を掴んで引き上げる。
重い石板が僅かに浮き。
下から、古い空気が漏れ出した。
「隠し部屋か」
石板の下には、狭い階段が続いていた。
灯りはない。
だがバンの目には、それほど問題ではない。
壁へ手を触れながら、石段を下りる。
十数段ほど進むと、一枚の木製扉が現れた。
鍵はかかっていない。
扉を押すと、古い蝶番が低く軋んだ。
地下にあったのは、狭い一部屋だけだった。
地上の礼拝堂とは違い、雨風は入っていない。
部屋の片隅には、古びたソファベッド。
中央には小さな木製テーブルと、形の違う椅子が二脚。
壁際には棚があり、何冊かの傷んだ本と、用途の分からない古道具が残されていた。
調理場はない。
水場も。
風呂もない。
それでも、屋根に穴の開いた地上よりは、生活する場所としては遥かにまともだった。
「こっちが本命か」
バンはソファベッドの表面へ手を滑らせる。
厚い埃。
指の跡が一本残った。
「掃除はいるな」
古い布を見つけ、水筒の水で軽く湿らせる。
テーブル。
棚。
椅子。
ソファベッド。
最低限、使う場所だけを拭いていく。
テーブルは少しぐらついたが、倒れるほどではない。
棚の下段へ、持っていた荷物を移す。
クレシューズ。
アンタレスの結晶。
その他の道具。
どれも目につかない位置へ置いた。
掃除を終えたバンは、ソファベッドへ身体を倒す。
古い軋み。
だが、壊れない。
「悪くねぇな」
その直後。
舞い上がった埃が鼻へ入り、バンは顔をしかめた。
「……まだ駄目か」
地下から地上へ戻ったところで、教会の入口に人影が現れた。
「随分と質素な住処を選んだな」
ザルドだった。
「落ち着くだろ」
「屋根に穴が開いている」
「下に部屋があったぞ」
「地下室か」
「知ってたのか?」
「いや」
「じゃあ何で驚かねぇんだよ」
「古い教会なら、地下に倉庫や避難場所があっても不思議ではない」
「狭ぇが、上よりはマシだ」
ザルドは礼拝堂を見回す。
壁際へ整えられた瓦礫。
祭壇や神像には触れず、そのまま残されている。
「お前にしては丁寧だな」
「どういう意味だ」
「もっと勝手に壊すと思っていた」
「オレを何だと思ってんだ?」
「自覚がないのか」
「失礼な奴だな」
ザルドは地下室への入口を覗き込む。
「ここで暮らすつもりか」
「追い出されなきゃな」
「部屋なら、ゼウス・ファミリアで用意できる」
「じじいと同じ屋根の下じゃ落ち着かねぇ」
「俺も同じ屋根の下にいる」
「ザルドはいいんだよ」
「どう違う」
「飯がうめぇ」
「俺を料理人としてしか見ていないのか」
「剣も強ぇぞ」
「付け足すな」
もう一つの足音が、教会の外から聞こえた。
バンとザルドが振り返る。
扉の前に、アルフィアが立っている。
「来ていたか」
「ああ」
「何をしに来た」
「お前と同じだ」
「私をお前と一緒にするな」
「誰がお前だ」
「二人ともうるせぇぞ」
アルフィアの眉が僅かに動く。
バンは気づかないふりをした。
「ヘラから許可が出た」
「随分早かったな」
「メーテリアが望んだからだ。お前のためではない」
「分かってる」
「教会そのものを与えるわけではない。管理権はヘラ・ファミリアに残る」
「ああ」
「滞在は当面の間だけだ。勝手に壁や床を壊すな。増築するな。祭壇や神像を捨てるな。商売に使うな」
アルフィアは一度言葉を切る。
「酒場にもするな」
「少し考えてた」
「今すぐ出ていけ」
「冗談だよ」
「お前の冗談は信用できない」
「神経質だな」
「メーテリアが大切にしている場所だ」
アルフィアの声が低くなる。
「汚した場合は殺す」
「分かったよ」
「返事が軽い」
「じゃあ、誓えばいいのか?」
「お前の誓いに価値はない」
「面倒くせぇな」
「団員が定期的に確認へ来る。拒否するな。ギルドへの届け出は、ヘラ・ファミリアから行う」
「寝られりゃ十分だ」
「風呂も調理場もないぞ」
「飯は外で食う。風呂はじじいのところ借りる」
ザルドが腕を組む。
「最初から、そのつもりだったのか」
「今決めた」
「宿代も払わず、風呂だけ使う気か」
「飯も出るなら食ってくぞ」
「図々しいな」
「家族みたいなもんだろ」
「誰がだ」
アルフィアの声が鋭くなる。
「今のはザルドに言ったんだよ」
「俺も認めていない」
「冷てぇ奴らだな」
バンは地下室の入口へ石板を戻した。
完全には閉めず、場所が分かる程度にずらしておく。
「話は終わりか?」
「許可の伝達は終わった」
「なら、飯行こうぜ」
「なぜそうなる」
「腹減っただろ」
「減っていない」
「オレは減った」
「一人で行け」
アルフィアが背を向ける。
「メーテリアに、オレがちゃんと暮らせそうだったか聞かれんじゃねぇのか?」
足が止まった。
「飯食いながら、教えてやるぞ」
「脅しているのか」
「誘ってんだよ」
ザルドが教会の外へ向かう。
「近くに酒場がある」
「ザルド」
「メーテリアへ報告するなら、もう少し様子を見た方がいい」
「お前まで何を言っている」
「腹が減った」
「お前たちは、それしかないのか」
アルフィアは深く息を吐いた。
◇
三人が入ったのは、第七区画の古い大衆酒場だった。
石壁に囲まれた小さな店。
床板は長年の酒と油を吸い、黒く光っている。
夕方にはまだ早い時間だったが、何人かの冒険者や職人が卓を囲んでいた。
バンたちは奥の席へ座る。
卓に並んだのは、肉と豆を煮込んだ濃い色の料理。
焼いた腸詰め。
硬い黒パン。
塩を振った根菜。
そして、三つの杯。
アルフィアの前に置かれたものだけは、酒ではなく薄い果実水だった。
「勝手に頼むな」
「酒飲まねぇだろ」
「だからといって、お前が決めるな」
「嫌ならザルドが飲むぞ」
「俺を処理係にするな」
バンは杯を持ち上げる。
「オラリオでの寝床に」
「まだ仮の滞在だ」
「細けぇな」
一人で酒を飲み。
煮込みへ黒パンを浸して口へ運ぶ。
「うめぇな」
「普通だ」
「普通でうめぇのが一番だろ」
ザルドも煮込みを口へ運び、味を確かめる。
「煮込み時間が足りん」
「店で言うなよ」
「聞こえていない」
「聞こえてるぞ」
厨房から店主の声が飛んできた。
ザルドは何事もなかったように食事を続ける。
「それで」
しばらくして、ザルドが口を開いた。
「ゼウス・ファミリアへ来る気はないのか」
「ねぇな」
「即答か」
「前にも言っただろ。誰かの下に入る気はねぇ」
「ゼウスの下に入るという感覚でいる者は少ないがな」
「じじいの世話すんのも面倒そうだ」
「否定はできん」
「ヘラ・ファミリアには必要ない」
アルフィアが言う。
「誘われてもねぇよ」
「お前のような騒音を増やす理由がない」
「でも教会は貸すんだな」
「メーテリアのためだ」
「分かってるって」
バンは腸詰めを一口で半分食べた。
ザルドが杯を置く。
「二つのファミリアに世話を焼かれながら、どちらにも入らんつもりか」
「ファミリアって、家族って意味なんだろ」
「ああ」
「なら、オレにはもういる」
バンの返答に、アルフィアが僅かに顔を向けた。
「以前、妻と息子がいるとは聞いた」
「ああ」
「それだけではないのか」
「昔、一緒に戦ってた連中がいる」
「どのような者たちだ」
「全員、ろくでもねぇ奴らだった」
ザルドが黙ってバンを見る。
「お前が言うのか」
「オレも含めてな」
「何人だ」
「七人」
「七人で何をしていた」
「国を守ったり、国に追われたり、世界を救ったりだな」
「話が飛びすぎだ」
「色々あったんだよ」
「その集団に名前はあるのか」
アルフィアが尋ねた。
バンは杯の中の酒を揺らす。
「〈七つの大罪〉」
「罪人の集団か」
「全員、罪を背負ってた」
「お前もか」
「ああ」
「何の罪だ」
「強欲」
バンは口元を上げる。
「そのままだろ?」
「否定はしない」
アルフィアは果実水へ口をつける。
「罪人が国を守り、世界を救ったのか」
「英雄なんて、そんなもんだろ。見る奴が変われば、罪人にも英雄にもなる」
ザルドの目が僅かに細くなる。
「他の六人も、お前と同じような性格なのか」
「そんな連中が七人もいたら、三日で国が滅びるぞ」
「自覚はあるのだな」
「失礼だな。まあ、どいつも普通じゃなかったけどな」
「例えば?」
「一人は、酒場のマスターもやってた団長だ。作る料理は見た目だけなら最高なのに、口に入れたら吐き出すくらいまずい」
「それを客に出していたのか」
「ああ。だから厨房は、ほとんどオレが仕切ってた」
「店として成立していたことが不思議だな」
「酒はうまかったからな」
バンは腸詰めへ手を伸ばす。
「それから、普段は優しいくせに、太ったおっさんみてぇな姿になると途端に口が悪くなる妖精王」
「妖精王?」
「その話はあとだ」
アルフィアが目を細める。
「他には」
「恋だの虫だのになると、乙女みてぇに騒いで怖がるくせに、仲間を守る戦いじゃ誰より勇敢な、身体のでけぇ巨人の女」
「随分と差があるな」
「そこがあいつのいいところだ」
「お前が素直に褒めるとは珍しい」
「事実だからな」
バンは酒を一口飲んだ。
「あとは、人の心や記憶を勝手に覗いて、平気な顔で秘密をばらす、空気の読めねぇ人形」
「人形が動くのか」
「喋るし、飯も食うぞ。人の嫌がることを理解しねぇ時があるだけで、悪い奴じゃねぇ」
「十分に厄介だ」
「それと、世界中のことを何でも知ってるような顔して、どんなピンチでも不敵に笑ってる魔術師」
「実際に何でも知っているのか」
「知らねぇことを探すのが趣味みてぇな奴だ。だから、知りたいと思ったことは最後には大抵突き止める」
「最後は?」
「夜は自分を最弱だと思ってるくらい謙虚で、声も小せぇ男だ」
「それだけなら普通だな」
「昼になると、世界で自分が一番偉いと思ってる傲慢な化け物に変わる」
「同一人物か?」
「ああ。しかも、昼のあいつは本当に強ぇ」
「ますます普通ではないな」
「言っただろ。全員、ろくでもねぇ奴らだったって」
「だが、嫌っているようには聞こえない」
「嫌いなら、一緒に世界なんか救わねぇよ」
「それで全員か?」
ザルドが尋ねた。
バンは酒へ伸ばしかけた手を止める。
「いや。もう一匹いたな」
「一匹?」
「人の言葉を喋る豚だ」
ザルドとアルフィアが、揃ってバンを見る。
「豚が喋るのか」
「ああ。残飯処理騎士団の団長を名乗ってた」
「残飯を処理する騎士団?」
「団員は、ほとんどあいつ一匹だったけどな。オレの師匠でもある」
「お前の師匠が豚なのか」
「口だけは達者で、普段は偉そうなくせに怖がりでな。でも、仲間が危ねぇ時は必ず前に出る」
バンは懐かしそうに笑った。
「一度は団長を守るために、魔神王の攻撃へ飛び込んで死んだ」
「死んだのか」
「そのあと、煉獄の力で生き返ったけどな」
「お前の世界では、豚まで死から戻るのか」
「普通の豚と一緒にすんな。あいつは世界一男気のある豚だぞ」
バンの声には、いつもの軽さがあった。
だが、その奥に僅かな懐かしさが混じっている。
「妻の名は」
アルフィアが尋ねた。
アルフィアが尋ねた。
「エレイン」
「人間か」
「妖精だ」
ザルドとアルフィアが、同時に黙った。
「エルフか」
ザルドが聞く。
「エルフじゃねぇぞ」
「では、精霊か」
今度はアルフィアが尋ねる。
「それとも違ぇな」
「なら、何だ」
「妖精族って種族だ。大抵は人間より小せぇ。背中に羽があって、空を飛ぶ」
「羽の生えた小人か」
「そう思えば近い。中には、人間と変わらねぇくらいの背の奴もいるぞ」
「精霊ではないのか」
「こっちの精霊がどういうもんなのか、オレはよく知らねぇ。けど、妖精は普通に飯食って、寝て、喧嘩して、子供も作る。最初からそういう種族だ」
「エルフとも精霊とも違う種族か」
「ああ」
「妻も小さいのか」
ザルドの質問に、バンは頷く。
「小せぇぞ。背中に羽もある」
「お前と並ぶと、かなりの差になるな」
「抱き上げんのにちょうどいい」
「余計な説明はいらない」
アルフィアが切り捨てる。
「お前が聞いたんだろ」
「そこまでは聞いていない」
「息子は、人間と妖精の間に生まれたのか」
「ランスロットっていう」
「混血か」
「ああ。強ぇし、頭も回る。顔はオレに似てる」
「最後だけは疑わしい」
「何でだよ」
「お前の自己評価は信用できない」
「本当だって。女にももてるぞ」
「父親として止めるべきではないのか」
「本人の好きにすりゃいい。オレだって人のこと言えねぇしな」
ザルドが黒パンをちぎる。
「その妻と息子がいる国が、ベンウィックか」
「そうだ」
「どんな国だ」
「人間と妖精が一緒に暮らしてる」
「人間と妖精の共生国家か」
「ああ。オレが人間で、エレインが妖精。オレたちが王と王妃だから、どっちも普通に暮らしてる」
「妖精族の領域にあるのか」
「いや。人間の住む土地だ」
バンは酒を一口飲む。
「妖精族には、妖精王の森っていう本来の領域がある。結界もあるし、空気に混ざってる力も人間にはきつい。普通の人間が簡単に入れる場所じゃねぇ」
「ベンウィックは違うのか」
「ああ。人間の土地に作った国だからな。旅人も商人も来る。気に入って、そのまま住み着く奴もいるぞ」
「国民も、全員お前のような性格なのか」
ザルドが真顔で尋ねる。
「そんな国、一年で滅びるぞ」
「自覚はあるのだな」
「何度も言わせんな。オレはちゃんと王やってたぞ」
「今の姿からは想像できん」
「王様だって酒くらい飲むだろ」
「お前の場合、酒を飲んでいる時間の方が長い」
アルフィアが言う。
「仕事が早ぇんだよ」
「国政を何だと思っている」
「面倒事を早めに片づけて、家族と飯食うための仕事」
バンは気軽に答えた。
だがザルドは、しばらく何も言わなかった。
王として何を守るか。
バンにとって、それは難しい言葉ではないらしい。
「帰りたいのか」
ザルドが尋ねる。
バンの手が止まる。
杯の表面に、酒場の灯りが揺れていた。
「帰れるならな」
「方法は」
「一つだけ、心当たりはある」
ザルドとアルフィアが、バンを見る。
「先ほど話した魔術師か」
「察しがいいな」
「世界のことを何でも知っているような顔をしている、と言った女か」
「ああ。時も場所も捻じ曲げるような真似を、平気でやる奴だ。別の世界に飛ばされたオレを見つけて、向こうから手ぇ伸ばせる奴がいるとすりゃ、あいつくらいだろうな」
「では、待っていれば迎えに来るのか」
「さあな」
バンは杯を傾ける。
「あいつが、オレが消えたことに気づいてるかも分かんねぇ。気づいたとしても、ここを見つけられるかは別の話だ」
「期待していないのか」
「期待はしてるぞ。ただ、期待して寝てるだけじゃ腹は膨れねぇだろ」
「だから、この街で暮らすのか」
「帰る場所があるのと、今いる場所で生きるのは別の話だ」
バンは残った酒を飲み干す。
「帰れるまで、道端で寝続けるわけにもいかねぇ。飯も食うし、酒も飲む。面白そうなもんがあれば見に行く」
「欲望に忠実だな」
「強欲だからな」
「開き直るな」
アルフィアはそう言ったが、声には先ほどまでの鋭さがなかった。
「ファミリアには入らない」
バンが続ける。
「けど、飯食ったり、酒飲んだりすんのに、同じ紋章は必要ねぇだろ」
「家族とファミリアを同じにするな」
「似たようなもんじゃねぇか。気に入らねぇ奴がいて、騒がしくて、離れてもまた顔合わせる」
「お前の家族観は歪んでいる」
「お前ら見てたら、間違ってねぇと思うぞ」
ザルドが低く笑った。
「否定はできんな」
「お前まで同意するな」
アルフィアが睨む。
「そういうとこだぞ」
「黙れ」
三人の卓へ、店員が追加の酒と料理を運んできた。
注文した覚えのないアルフィアが、バンを見る。
「オレじゃねぇぞ」
「俺だ」
ザルドが言った。
「話が長くなった。食え」
「私は帰る」
「メーテリアへ報告するのだろう」
「必要な情報は得た」
「地下室を見ていないぞ」
バンが口を挟む。
「見る必要はない」
「本当に住めそうだったか聞かれたらどうすんだ?」
「お前が住めると言った」
「オレの基準、信用できねぇんだろ?」
アルフィアの眉間に皺が寄る。
「食べ終わったら確認する」
「素直じゃねぇな」
「福――」
バンは反射的に身を低くした。
アルフィアは最後まで言わず、果実水を口へ運ぶ。
「今、撃つ気なかっただろ」
「何のことだ」
「性格悪ぃな」
「お前に言われたくない」
ザルドが二杯目の酒を注ぎながら、呆れたように息を吐いた。
◇
酒場を出た時には、空が赤く染まり始めていた。
第七区画の古い建物へ、長い影が伸びている。
三人は廃教会へ戻った。
バンが床のハッチを開き、先に地下へ降りる。
続いてザルド。
最後に、アルフィアが狭い階段を下りた。
「狭いな」
「一人で住むなら十分だろ」
アルフィアは地下室を見回す。
古びたソファベッド。
小さな卓。
椅子。
棚へ整理された荷物。
確かに質素だった。
だが、地上よりは遥かに安全で、雨風も入らない。
祭壇や神像を壊して作られた部屋でもない。
「掃除が足りない」
「今日はこれで終わりだ」
「明日までに済ませろ」
「お前が住むわけじゃねぇだろ」
「メーテリアが来る可能性がある」
「来んのか?」
「体調が良ければな」
「なら、もう少しやっとくか」
バンがあっさり答える。
アルフィアは何も言わず、棚へ目を向けた。
そこに置かれた、二つの包み。
傷ついたクレシューズ。
アンタレスの結晶。
「明日、それを持ってゼウス・ファミリアの本拠へ来い」
「じじいのところ?」
バンの目が僅かに鋭くなる。
「帰還した日に、俺から相談した」
ザルドが答えた。
「クレシューズの修復について、ゼウスからヘファイストスへ話を通してある」
「じじいにしちゃ仕事が早ぇな」
「お前の報酬と武器に関わる話だからな」
「ヘファイストスの工房へ行くのか?」
「ああ。ゼウスも同行する」
「じじいも?」
「話を持ち込んだのはゼウスだ。鍛冶神本人へ取り次いでもらうには、その方が早い」
「面倒な話になってんな」
「お前の神器を直すためだ。黙って来い」
アルフィアが、棚へ置かれた傷ついた四節棍を見る。
「結晶も忘れるな」
「忘れるわけねぇだろ」
「ベヒーモスの角芯は、俺が保管場所から運ぶ」
ザルドが続けた。
「角芯と結晶。二つとも、クレシューズの修復に使える可能性がある」
バンは棚の前へ立った。
そこには、ひび割れ、傷ついた相棒と、アンタレスの体内から持ち帰った結晶が置かれている。
ベヒーモスの角芯は、ザルドが管理する保管場所にある。
異なる二つの災害が残した素材。
その二つを使っても、クレシューズが元に戻る保証はなかった。
「直ると思うか?」
バンが尋ねた。
「分からない」
アルフィアは即答した。
「ヘファイストスにも直せない可能性はある」
「正直だな」
「期待だけを与える趣味はない」
「だが、試す価値はある」
ザルドが言う。
「角芯は、お前が討ったベヒーモスの一部だ。結晶も、お前とクレシューズがアンタレスから得たもの。どちらも、お前たちと無関係な素材ではない」
「そうだな」
「それに」
アルフィアが、傷ついたクレシューズを見る。
「直すのが鍛冶神だけとは限らない」
「どういう意味だ?」
「結晶は、お前とクレシューズが揃った時に反応を強めた」
「前に確かめたやつか」
「そうだ。そして、お前が《贈与》を使おうとした時は、さらに強く反応した」
バンは棚の結晶へ目を向ける。
黒紫色の力を、銀色の光が内側から押さえ込んでいる。
「《贈与》が修復に使えるってのか?」
「まだ分からない」
「またそれかよ」
「確証のないことを断言する気はない。ヘファイストスに実物を見せてから判断する」
「気になる言い方すんなよ」
「今夜は掃除をしろ」
「話逸らしたな」
アルフィアは答えない。
狭い階段へ足を向ける。
ザルドもその後に続いた。
「明日の朝、迎えに来る」
「寝てたら起こせ」
「起きろ」
「朝は弱ぇんだよ」
「知るか」
二人が地上へ戻る。
バンは地下室に一人残った。
棚の上には、帰れない世界から持ってきた傷ついた相棒。
その隣には、この世界で手に入れたアンタレスの結晶。
そして明日、ザルドが持ってくるベヒーモスの角芯。
遠く離れた家族。
今いる街で、何かと世話を焼いてくる二つのファミリア。
そのどちらにも属さず。
それでも、一人きりというわけでもない。
「家族、か」
バンは小さく呟く。
それから古い布を手に取り、再び棚の埃を拭き始めた。
今回は、バンが廃教会の地下室を見つけ、オラリオでの生活拠点を得る回でした。
また、ザルドとアルフィアとの食事を通して、〈七つの大罪〉、エレイン、ランスロット、そしてベンウィックについて少しだけ描いています。
特に「帰る場所があるのと、今いる場所で生きるのは別の話だろ」というバンの言葉がお気に入りです。