強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第5話です。
赤い旅人の続きになります。


第5話 迷子の神器

リーヴァの朝は、川の音と魚の匂いで始まった。

 

窓の外では、水車がゆっくりと回っている。

川辺では、漁師たちが網を広げ、女たちが昨日干した魚を裏返していた。

酒場の一階からは、焼いたパンと魚の骨で取った汁の匂いが上がってくる。

 

バンは二階の小部屋で目を覚まし、しばらく天井を眺めていた。

 

肩が少し痛む。

 

マッドサーペントにかすめられた傷だ。

 

薬草のおかげで熱は引いている。

だが、傷そのものはまだ残っている。

 

不死身だった頃なら、目が覚める前に消えていたような傷。

 

今は違う。

 

痛みは痛みとして残る。

傷は傷として残る。

 

バンは肩を軽く回した。

 

「……ま、腕が動くなら問題ねぇか」

 

上体を起こし、寝台の脇に置いていた枝を手に取る。

 

昨日の戦いで使った枝は、マッドサーペントの喉を突いた時に折れた。

これは、町の子どもが「代わりに」と持ってきた少し太めの棒だ。

 

悪くはない。

 

だが、やはり違う。

 

手に馴染まない。

しなりも足りない。

重心も軽すぎる。

 

聖棍クレシューズ。

 

ただの武器ではない。

バンにとっては、長く使い込んだ相棒のようなものだった。

 

混沌の裂け目に飲まれた時、手から離れた。

あれがこの世界のどこかに落ちているのか、誰かに拾われたのか、それとも別の場所へ飛ばされたのか。

 

分からない。

 

ただ、バンはどこかで確信していた。

 

あれは壊れていない。

 

そして、どこかで妙なことになっている。

 

「変な奴に拾われてなきゃいいけどな」

 

そう言って、バンは立ち上がった。

 

一階へ下りると、店主が朝飯を用意していた。

 

黒だれを薄く塗った焼き魚。

硬いパン。

魚の骨と野菜を煮た汁。

それから、水で割った薄い濁り酒。

 

バンは席につき、当然のように杯を取る。

 

店主が眉を上げた。

 

「朝から飲むのか?」

 

「薄いだろ」

 

「酒は酒だ」

 

「なら、朝からいい酒が飲める町だな」

 

「物は言いようだな」

 

店主は呆れながらも、少し笑った。

 

バンは焼き魚をかじる。

 

昨日の少女が焼いた焦げた魚より、ずっと美味い。

皮は香ばしく、身はしっとりしている。

 

魚の汁も悪くない。

 

川魚特有の泥臭さを、香草と塩でうまく抑えている。

 

「飯はうまい。酒も悪くねぇ。いい町だ」

 

「それ、何回目だ」

 

「いい町は何回言ってもいいだろ」

 

店主は笑った。

 

その時、酒場の扉が開いた。

 

入ってきたのは、昨日リーヴァに来ていた行商人だった。

 

背負い袋を肩に掛け、腰には小さな帳面。

昨日、黒背狼の皮や牙を買った男とは別の者だが、同じように旅慣れた雰囲気がある。

 

行商人は店主に軽く挨拶し、バンの赤い姿を見て目を止めた。

 

「あんたが、昨日マッドサーペントを倒した赤い旅人かい?」

 

「飯食ってる赤い旅人だ」

 

「それは見れば分かる」

 

行商人は向かいの席に座った。

 

「名前は?」

 

「バン」

 

「俺はサイモン。砂漠方面とオラリオ周辺を行き来してる商人だ」

 

「砂漠?」

 

「ああ。カイオス砂漠の西側、リオードまで行く」

 

バンは魚を食べる手を止めた。

 

「リオードってのは?」

 

「イスラファンの北端にあるオアシス交易都市だよ。城壁があって、砂漠船の港もある。砂漠へ入る商人はよく寄る」

 

「へぇ」

 

砂漠。

 

オアシス。

 

交易都市。

 

飯と酒の匂いがする言葉だった。

 

だが、それだけなら、バンは聞き流していたかもしれない。

 

サイモンは水を飲んでから、続けた。

 

「そのリオードの古道具屋でな、妙な武器を見たんだ」

 

バンの目が少しだけ細くなる。

 

「妙な武器?」

 

「ああ。三つに分かれた棒みたいなやつだ。鎖でもないのに妙にしなる。持ち主は『ただの変わった護身具』だって言ってたが、俺にはどうにも普通の品には見えなかった」

 

バンは杯を置いた。

 

「色は?」

 

「深い色だったな。黒っぽいというか、赤みがあるというか。金属とも木ともつかない」

 

「古道具屋の名前は」

 

「え?」

 

「名前」

 

サイモンは少し驚いた顔をした。

 

「リオードの南門近くにある店だ。看板は『砂鼠の箱』だったかな。主人はギドって爺さんだ」

 

バンは立ち上がった。

 

店主が眉をひそめる。

 

「おい、飯は?」

 

「食う」

 

バンは魚を一気に平らげ、汁を飲み、薄い濁り酒を流し込む。

 

そして、サイモンの方を向いた。

 

「そのリオード、どう行く」

 

「いや、待て。あんた、オラリオに行くんじゃないのか?」

 

「オラリオは逃げねぇだろ」

 

「まあ、逃げはしないが」

 

「棒が先だ」

 

サイモンは数秒、考え込んだ。

 

そして、にやりと笑った。

 

「なるほど。あの妙な棒、あんたのか」

 

「たぶんな」

 

「たぶんで砂漠まで行くのか?」

 

「大事な棒だからな」

 

「棒って言い方でいいのか、それ」

 

「俺がいいならいいだろ」

 

サイモンは肩をすくめた。

 

「ちょうど俺もリオードへ戻るところだ。途中まで一緒に来るか?」

 

「飯は出るか」

 

「護衛代わりに来てくれるなら、道中の食事くらいは出す」

 

「酒は」

 

「少しなら」

 

「行く」

 

即答だった。

 

店主が呆れたように笑う。

 

「本当に飯と酒で動くんだな」

 

「分かりやすくていいだろ」

 

「否定はしない」

 

バンは旅支度を整えた。

 

といっても、大した荷物はない。

 

ミーネ村でもらった古い地図。

リーヴァの店主が持たせてくれた魚の干物。

硬いパン。

少量の塩。

薬師が押しつけてきた肩用の薬草。

 

そして、借り物の棒。

 

店主は袋を渡した。

 

「干し魚だ。道中で食え」

 

「いいのか」

 

「町を助けた礼だ」

 

「リーヴァはいい町だな」

 

「だから何回目だ、それ」

 

店主は笑いながら言った。

 

バンも少し笑って、袋を受け取る。

 

橋の近くでは、昨日助けた少女ミーナが母親と一緒に立っていた。

 

ミーナは小さな包みを差し出す。

 

「これ、焼いた魚です。焦げないようにしました」

 

「そうか」

 

バンは包みを開けて、一切れだけその場で食べた。

 

皮は少ししなびていたが、塩加減は悪くない。

 

「前よりうまい」

 

ミーナの顔がぱっと明るくなった。

 

「本当?」

 

「ああ。焦げてねぇ」

 

「そこだけ?」

 

「そこ、大事だろ」

 

母親が苦笑する。

 

バンは残りを袋に入れた。

 

「また焦がしたら、火から離せ」

 

「うん!」

 

ミーナは大きく頷いた。

 

バンは軽く手を振り、サイモンの荷馬車に並んで歩き出した。

 

リーヴァの町が少しずつ遠ざかる。

 

川の音が背後へ流れていく。

 

バンはちらりと振り返った。

 

魚と濁り酒の匂いがする町。

 

悪くない場所だった。

 

ただ、今はそれよりも気になるものがある。

 

迷子の神器。

 

聖棍クレシューズ。

 

もし本当にリオードにあるなら、迎えに行く必要がある。

 

「砂漠か」

 

バンは呟く。

 

「飯、うまいといいな」

 

サイモンが横で笑った。

 

「あんた、砂漠に何を期待してるんだ」

 

「うまい肉と酒」

 

「あるにはある。癖は強いがな」

 

「癖がある方が面白い」

 

サイモンの荷馬車は、川沿いの道を離れ、南西へ向かう交易路へ入った。

 

道は少しずつ乾いていった。

 

草は低くなり、土は硬く、風には砂の匂いが混じるようになる。

 

途中、宿場町をいくつか抜けた。

 

旅人。

行商人。

護衛。

砂漠へ向かう荷馬車。

オラリオへ向かう冒険者らしき若者たち。

 

バンはその中で、神の恩恵を受けた者たちを何人か見た。

 

正確には、背中の文字を見たわけではない。

 

だが、身体の動きが普通とは違う。

 

力の流れが、地上の人間より整っている。

何か外側から形を与えられているような感覚がある。

 

神の恩恵。

 

この世界の人間が強くなるための仕組み。

 

バンはそれを面白そうに眺めた。

 

サイモンが聞く。

 

「冒険者が気になるのか?」

 

「変な流れしてんなと思ってな」

 

「流れ?」

 

「身体の中の力だよ。神様に整えられてる感じがする」

 

「そんなことまで分かるのか」

 

「なんとなくだ」

 

「やっぱり、あんた普通じゃないな」

 

「よく言われる」

 

夜には、小さな宿場で野営した。

 

サイモンの仲間たちは、乾いた豆と塩漬け肉を鍋に入れて煮た。

 

だが、味は単調だった。

 

バンは黙って見ていられず、途中から手を出した。

 

「肉、先に焼け」

 

「またか?」

 

「煮る前に焼いた方が匂いが出る。豆は潰すな。半分だけ潰せ。あと干し魚を少し入れろ」

 

「魚を?」

 

「塩気と旨味が出る」

 

商人たちは半信半疑だったが、従った。

 

結果、ただの豆と肉の煮込みは、ずいぶんましになった。

 

サイモンが目を丸くする。

 

「あんた、料理人か?」

 

「昔、酒場やってた」

 

「旅人で、盗賊で、料理人で、魔物を素手で倒すのか」

 

「肩書きが多いと面倒だな」

 

「面倒なのはこっちだ」

 

商人たちは笑った。

 

その夜、バンは星空の下で横になった。

 

砂混じりの風が吹く。

 

リーヴァの湿った川風とは違う。

乾いていて、肌から水分を奪う風。

 

バンは右手を開く。

 

強奪《スナッチ》の感覚は、まだ完全には戻らない。

 

だが、少しずつこの世界の流れに慣れてきた。

 

地上の獣。

黒背狼。

マッドサーペント。

神の恩恵を受けた冒険者。

魔石を持たない魔物。

肉体を残す魔物。

 

それぞれ、力の流れ方が違う。

 

なら、奪い方も変えればいい。

 

力を無理に根こそぎ盗るのではなく、必要なところだけを盗る。

 

勢い。

呼吸。

足運び。

尾の振り。

攻撃へ移る直前の一瞬。

 

今のバンには、その方が合っているのかもしれない。

 

「ま、取り戻すってより、盗み方を変えるってことか」

 

バンは小さく笑った。

 

砂漠へ近づくほど、魔物の気配も変わった。

 

湿った川の魔物とは違う。

乾いた土と熱を抱いた獣。

 

昼過ぎ、荷馬車の前方の砂地が盛り上がった。

 

サイモンが手綱を引く。

 

「止まれ!」

 

砂の中から、細長い影が飛び出した。

 

大きなトカゲのような魔物だった。

 

全身が砂色で、背中には小さな棘。

口は横に広く、目はぎょろりとしている。

四肢は短いが、砂の上を滑るように走る。

 

「サンドスキッパーだ!」

 

商人の一人が叫ぶ。

 

「荷の匂いにつられたか!」

 

二匹、三匹。

 

砂の中から次々に現れる。

 

地上の魔物だ。

 

これまで倒した地上の魔物とよく似た気配だ。

 

身体の奥に、村で聞いた魔石らしい硬い力の塊も感じない。

 

砂地でなければ大したことはないのかもしれない。

しかし、この足場では厄介だ。

 

バンは借り物の棒を構えた。

 

「食えるか?」

 

サイモンが叫ぶ。

 

「尻尾は焼けば食える!でも今はそれどころじゃない!」

 

「食えるなら十分だ」

 

サンドスキッパーが荷馬車の車輪へ向かう。

 

狙いは馬か、積み荷か。

 

バンは前へ出た。

 

一匹が低く跳ぶ。

 

足元を狙う動き。

 

バンは右手を伸ばす。

 

砂の上を滑る勢い。

腹の筋肉に乗った力。

着地から次の跳躍へ移る流れ。

 

その端を盗る。

 

「強奪《スナッチ》」

 

サンドスキッパーの身体が砂に引っかかったように鈍る。

 

バンは棒で頭部を叩いた。

 

骨が砕ける。

 

だが、棒もひび割れた。

 

「やっぱ軽いな」

 

二匹目が横から来る。

 

バンは壊れかけの棒を投げる。

棒はサンドスキッパーの口に挟まり、動きを止めた。

 

その隙に踏み込み、首を蹴り折る。

 

三匹目は荷馬車の下へ潜り込もうとしていた。

 

バンは足元の砂を蹴り、視界を奪う。

そして、尾を掴んで引きずり出した。

 

「おらよ」

 

そのまま、地面へ叩きつける。

 

砂が舞う。

 

残った数匹は、バンの動きを見て逃げようとした。

 

だが、商人たちの護衛も遅れて動き出していた。

槍で牽制し、弓で追い払う。

 

数分後、砂地には倒れたサンドスキッパーが三匹残った。

 

どれも灰にはならない。

 

肉体が残っている。

 

サイモンが汗を拭う。

 

「助かった。車輪をやられたら、砂漠の手前で立ち往生だった」

 

「飯代だろ」

 

「あんたの飯代、高いな」

 

「尻尾は食えるんだろ」

 

「本気で食うのか?」

 

「食えるって言っただろ」

 

その日の夕食は、サンドスキッパーの尻尾焼きになった。

 

皮を剥ぐと、白っぽい肉が出てくる。

臭みは少ないが、乾いた匂いがある。

 

バンは塩を振り、強めの火で炙った。

 

脂は少ない。

だが、噛むと鶏肉に似た弾力があった。

 

「悪くねぇ」

 

サイモンも恐る恐る食べる。

 

「……意外とうまいな」

 

「火を入れすぎると硬くなる。早めに食え」

 

「本当に料理人だな」

 

「旅人だ」

 

「もう何でもいいよ」

 

商人たちは笑った。

 

さらに二日進むと、景色は完全に変わった。

 

草は消え、地面は乾き、空気は熱を帯びる。

 

遠くに砂の波が見えた。

 

カイオス砂漠。

 

その西部に広がる乾いた大地。

 

そして、その手前に、城壁を持つ町が見えた。

 

リオード。

 

三メートルほどの城壁に囲まれたオアシス交易都市。

南側には、砂漠船と呼ばれる平底の船のような乗り物が並ぶ港がある。

町の中心には、水をたたえたオアシス。

その周囲に、商館、酒場、宿屋、古道具屋、市場がひしめいていた。

 

砂漠の乾いた空気の中で、その町だけが水と人の匂いを放っている。

 

バンは城門の前で、口元を上げた。

 

「いい匂いがするな」

 

サイモンが笑う。

 

「水と香辛料と金の匂いだ」

 

「酒は?」

 

「もちろんある」

 

「いい町だな」

 

「まだ入ってもいないぞ」

 

「匂いで分かる」

 

城門を抜けると、リオードの熱気が押し寄せた。

 

市場には、色鮮やかな布。

乾燥果物。

香辛料。

焼いた肉。

壺に入った酒。

砂漠の民が使う水袋。

獣の皮。

骨細工。

奇妙な魔物素材。

 

バンはあちこちに目を向ける。

 

肉の焼ける匂い。

香辛料の刺激。

甘い果物酒。

酸っぱい乳酒。

砂漠の硬いパン。

 

全部気になる。

 

だが、まずは目的がある。

 

「砂鼠の箱、だっけか」

 

サイモンが頷く。

 

「南門の近くだ。案内する」

 

市場の喧騒を抜け、細い路地へ入る。

 

そこに、小さな古道具屋があった。

 

看板には、砂色の鼠が箱を抱えている絵。

 

店内は薄暗い。

 

壺、古びた短剣、割れた盾、異国の杯、古い楽器、折れた槍、魔物の骨らしきもの。

よく分からないものが所狭しと並んでいる。

 

奥には、白髭の老人が座っていた。

 

「いらっしゃい」

 

しわがれた声。

 

サイモンが声をかける。

 

「ギド爺さん、前に見せてもらった変な三節の棒、まだあるかい?」

 

老人――ギドは片目を細めた。

 

「ああ、あれか。売れてはおらんよ。誰も使い方が分からんからな」

 

バンは店の奥へ歩いた。

 

棚の隅。

 

布に巻かれ、他の古びた武器と一緒に置かれているもの。

 

見えた瞬間、バンの足が止まった。

 

深い赤みを帯びた、独特の質感。

三つに分かれた節。

手に馴染む重さを、見ただけで思い出す。

 

聖棍クレシューズ。

 

「……見つけた」

 

バンは布を解き、手に取った。

 

その瞬間、指先に馴染む感覚が戻る。

 

重さ。

しなり。

節の動き。

手首に返ってくるわずかな反動。

 

間違いない。

 

バンの口元がゆっくりと上がった。

 

「お前、こんなとこで何してんだよ」

 

クレシューズは答えない。

 

だが、手の中で静かに収まっている。

 

ようやく戻った。

 

ギドが興味深そうにバンを見る。

 

「ほう。持ち方が違うな。お前さん、こいつの使い方を知っておるのか」

 

「俺のだ」

 

「そうか」

 

老人は驚くでもなく、頷いた。

 

「なら、買っていけ」

 

バンはギドを見る。

 

「拾い物を売るのか」

 

「拾ったのは砂漠の商人だ。わしは買い取った。店に並べた。なら、ここでは商品だ」

 

「いくらだ」

 

ギドはにやりと笑った。

 

「銀貨五十枚」

 

サイモンが目をむいた。

 

「高い!誰も使えない棒に五十枚!?」

 

「使える者が来た。なら価値は上がる」

 

「商売が汚いな、爺さん」

 

「褒め言葉だ」

 

バンは懐を探った。

 

当然、そんな金はない。

 

リーヴァで持たされたものは、食料と薬草と少しの路銀だけ。

銀貨五十枚にはまるで足りない。

 

バンはクレシューズを手に持ったまま、考える。

 

盗ることはできる。

 

たぶん、簡単に。

 

今の《強奪》の感覚でも、目の前の老人から武器を奪って逃げるくらいなら問題ない。

 

だが、それは飯がまずくなる。

 

ギドは盗んだわけではない。

商売として買ったものを売っているだけだ。

 

バンは舌打ちした。

 

「面倒くせぇな」

 

ギドは笑った。

 

「盗らんのか」

 

「あ?」

 

「目が盗人のそれだった。だが、手は動かんかった」

 

「昔は盗賊だったんでな」

 

「今は?」

 

「旅人」

 

「ふむ。なら旅人らしく、働いて払え」

 

バンは眉を上げる。

 

「働く?」

 

ギドは店の裏手を指さした。

 

「ちょうど困っておる。夜になると、砂鼠が倉庫に入り込んで品をかじる。普通の鼠ではない。小さな地上魔物だ。数が多くてな。捕まえられるなら、代金をまけてやる」

 

「飯になるか?」

 

サイモンが顔をしかめた。

 

「砂鼠を食う気か?」

 

ギドは平然と言う。

 

「食えんことはない。だが、小さくて脂も少ない。干して粉にする地方もある」

 

「粉か」

 

バンは少し興味を持った。

 

そして、クレシューズを軽く回す。

 

空気を切る音がした。

 

手に馴染む。

 

やはり、枝とは違う。

 

「いいぜ。鼠退治で足りるならな」

 

「一匹につき銀貨一枚分まける」

 

「五十匹か」

 

「昨日は六十はいた」

 

「多いな」

 

「だから困っておる」

 

バンは笑った。

 

「いいじゃねぇか。久しぶりに、こいつの慣らしにちょうどいい」

 

その夜、バンは古道具屋の裏倉庫にいた。

 

倉庫には、壺や木箱、古い布、香辛料袋、骨細工などが積まれている。

 

床には小さな穴がいくつもあった。

 

やがて、かさかさと音がする。

 

砂鼠。

 

見た目は鼠だが、普通の鼠より大きい。

背には砂色の硬い毛。

前歯は異様に長く、木箱の角を簡単に削る。

目は赤い。

 

一匹、二匹、五匹。

 

あっという間に床が動き出した。

 

バンはクレシューズを肩に乗せる。

 

「悪いな。俺の棒代だ」

 

砂鼠たちが一斉に飛びかかる。

 

バンは笑った。

 

クレシューズがしなる。

 

一振り。

 

伸びた節が、三匹をまとめて弾き飛ばす。

 

二振り。

 

棚の上を走る二匹の足元を払い、床へ落とす。

 

三振り。

 

木箱の裏に隠れた個体を、角度を変えて叩き出す。

 

枝ではできない動きだった。

 

手首の返しだけで軌道を変え、遠い相手にも届き、近い相手には節を畳んで打つ。

 

バンの身体が、ようやく馴染んだ武器を思い出していく。

 

砂鼠が群れで散る。

 

普通なら面倒な数。

 

だが、クレシューズがあれば話が違う。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

大きく踏み込む。

 

魔力を広げすぎない。

 

この世界では、広く深く奪おうとすると反動が来る。

 

だから、狭く、浅く、必要な分だけ。

 

砂鼠たちの跳ぶ勢い。

足に乗る力。

逃げるための一歩。

 

その端を、まとめて盗る。

 

動きが鈍った瞬間、クレシューズが倉庫の中を走った。

 

打つ。

払う。

落とす。

絡める。

弾く。

 

数分後、倉庫の床には動かなくなった砂鼠が山になっていた。

 

ギドが入口から覗く。

 

「……五十を越えたな」

 

「足りたか?」

 

「十分だ」

 

「じゃあ、こいつは返してもらうぞ」

 

「売った、だ。正確には」

 

「細けぇな」

 

「商売人なのでな」

 

ギドは小さな紙を渡した。

 

「領収書だ」

 

「いらねぇ」

 

「いる。後から盗品扱いされても困るだろう」

 

バンは少し考え、紙を受け取った。

 

「意外と親切だな」

 

「商売は信用が命だ」

 

「盗賊とは違うな」

 

「今は旅人なのだろう?」

 

ギドはにやりと笑った。

 

バンも笑った。

 

「そうだったな」

 

翌朝、バンはリオードの市場にいた。

 

腰には戻ってきたクレシューズ。

 

手に馴染む重みがあるだけで、旅の足取りが少し違う。

 

サイモンは市場で荷を売り、バンには礼として小さな革袋を渡した。

 

「少ないが、護衛代だ」

 

「飯代か」

 

「そう思ってくれ」

 

「ならもらう」

 

革袋には、銀貨と銅貨が少し。

それから、サイモンが勧めた砂葡萄の干し実。

 

市場の屋台では、砂漠の肉串が焼かれていた。

 

香辛料をまぶした羊肉。

薄い平焼きパン。

酸味のある乳酒。

砂葡萄を潰して作った甘い酒。

 

バンは肉串を買い、かじる。

 

強い香辛料。

脂の甘み。

乾いた風。

 

「悪くねぇ」

 

次に、砂葡萄酒を飲む。

 

甘い。

少し渋い。

喉に残る熱がある。

 

「これもいいな」

 

リオードの人々は忙しなく動いている。

 

商人が叫び、砂漠船の船頭が荷を積み、旅人が水袋を買い、異国の言葉が飛び交う。

 

リーヴァとは違う。

ミーネ村とも違う。

 

水と砂と金と香辛料の町。

 

バンはクレシューズを軽く叩いた。

 

「見つかったし、飯もうまい。悪くねぇ寄り道だったな」

 

サイモンが聞く。

 

「これからどうする?」

 

「オラリオ」

 

「今度こそ?」

 

「ああ。神様が歩いて、ダンジョンが口開けて、酒場が山ほどある街なんだろ」

 

「そうだな」

 

「なら行く」

 

「理由が軽いな」

 

「重い理由で歩くと疲れんだろ」

 

バンは笑い、肉串の最後を食べた。

 

クレシューズは戻った。

 

強奪《スナッチ》の感覚も、少しずつこの世界に馴染み始めている。

 

まだ完全ではない。

 

だが、武器が手に戻っただけで、盗り方の幅は大きく変わる。

 

遠くのものを盗る。

敵の核を抜く。

流れの端を引っかける。

数を相手に乱獲する。

 

ようやく、赤い旅人らしい戦い方が戻ってきた。

 

バンはリオードの南門近くで振り返る。

 

砂漠の町が朝日に照らされていた。

 

市場の匂い。

香辛料。

砂葡萄酒。

焼けた肉。

水の匂い。

 

「リオードも、いい町だな」

 

そう言って、バンは歩き出した。

 

次に目指すのは、迷宮都市オラリオ。

 

神の恩恵を受けない赤い旅人は、迷子の神器を腰に戻し、再び道へ出た。




第5話でした。
修正版では、リーヴァで得た手がかりから、バンが砂漠の交易都市リオードへ向かい、古道具屋で聖棍クレシューズを取り戻す流れにしました。

また、クレシューズを取り戻したことで、バンの戦い方が少し本来の形に近づく描写を入れました。

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