第一部の締めになります。
今回は、黒い砂漠そのものとの初遭遇。ベヒーモス本体との戦闘にはまだ入りません。
飯と酒を求める旅人が、なぜ災厄の入口へ踏み込むのか。その理由を描く回です。
砂漠の朝は、音が少ない。
風が砂を撫でる音。
砂栗船の船底が軋む音。
帆布が乾いた空気を受けて鳴る音。
それ以外は、ほとんど何もない。
鳥の声もない。
川の音もない。
人の暮らしの匂いも、遠い。
バンは船首に腰を下ろし、肩に聖棍クレシューズを担いでいた。
リオードで取り戻した相棒は、相変わらず手によく馴染む。
砂栗船が砂丘を越えるたび、クレシューズの節がかすかに揺れた。
「なあ、ガラム」
「何だ、赤コート」
「砂漠ってのは、どこまで行っても砂なのか」
舵を握るガラムが、片目だけでバンを見た。
「そりゃ砂漠だからな」
「つまんねぇな」
「砂漠に面白さを求めるな。生きて抜けられりゃ、それで上等だ」
「飯は?」
「豆と干し肉」
「酒は?」
「夜まで待て」
「景色も飯も酒も代わり映えしねぇのは、ちょっとな」
ガラムは呆れたように笑った。
「お前、砂漠を何だと思ってる」
「酒の道」
「間違っちゃいねぇのが腹立つな」
船員たちが小さく笑った。
だが、その笑いは昨日よりも短い。
砂栗船は、サバハへ向かう街道筋から外れつつあった。
正確には、街道そのものが途切れていた。
砂に埋もれた古い標識。
倒れた道標。
半分だけ砂に沈んだ荷車の車輪。
風に裂かれた布切れ。
人が行き来していた跡はある。
だが最近ではない。
ラドは荷台の影で帳簿を閉じ、落ち着かない様子で周囲を見ていた。
「本来なら、この辺りからサバハ行きの商隊が増えるはずなのですが」
「見当たらねぇな」
「ええ。嫌な静けさです」
ラシードは船縁に立ち、遠くの砂丘を見ていた。
表情は硬い。
「サバハからこちらへ来る船もない。戻る船もない。噂より悪いかもしれん」
「黒い風か」
「ああ」
ラシードの声は低かった。
「黒い風が吹いた土地は、砂が変わる。水が腐る。獣が逃げる。人の喉が焼ける。ひどい時は、魔石灯さえ光を失う」
「魔石も使えねぇのか」
「そう聞いている」
「酒は?」
ラシードがバンを見た。
「……酒も駄目になる」
バンの目が細くなった。
「それはまずいな」
「そこか」
「酒が駄目になる土地なんざ、ろくでもねぇだろ」
ラシードは否定しなかった。
昼前、砂栗船は一度止まった。
前方の砂地に、半壊した小さな船があった。
砂栗船だ。船体の半分が砂に埋まり、帆は黒ずみ、砂蹴り板は折れている。周囲には荷物の残骸が散らばっていた。
ガラムが顔をしかめる。
「サバハの船だ」
船を降りたラシードが、黒ずんだ帆に触れる。
指先についた黒い粉を見て、さらに表情が険しくなった。
「焼けたのではないな。腐っている」
「布がか?」
「ああ。砂にやられた」
バンも近づき、黒ずんだ帆を摘んだ。
指の間で、布がぱらりと崩れる。
燃えた匂いはしない。
湿った腐敗臭でもない。
何か、もっと乾いた嫌な匂いだった。
命から水気を奪い、残った殻だけを砕いたような匂い。
「……飯が不味くなる匂いだな」
バンはそう言って、布を放した。
ニロが船内を覗く。
「誰もいません。荷もほとんど残ってないです」
「逃げたか、連れて行かれたか」
ガラムは砂を見た。
足跡は残っていない。
砂漠では、風がすぐにすべてを消す。
ただ、船体の影に小さなものが落ちていた。
木の杯だ。
割れている。
内側に黒い染みがある。
ラシードがそれを見て、苦々しく呟いた。
「サバハの酒杯だ」
「酒は?」
バンが聞くと、ラシードは首を振った。
「ない。染みだけだ。……黒くなっている」
バンは割れた杯を見下ろした。
乾いた木の杯。
飲み干される前に、何かに汚されたような黒い跡。
酒を飲もうとした誰かがいたのか。
飲めなかったのか。
それとも、飲む前に逃げたのか。
バンは何も言わず、杯を砂の上へ戻した。
午後になると、砂の色が変わり始めた。
最初は、ただ影が濃くなっただけに見えた。
砂丘の稜線の向こう、陽の当たり方が違う場所に、灰色の帯がある。
だが近づくほど、それが影ではないことが分かった。
砂そのものが、灰色に変わっている。
さらに先は、黒い。
金色の砂漠が、そこだけ病のように色を失っていた。
ガラムが舵を止めた。
「ここまでだ」
砂栗船が低く軋み、止まる。
前方に、小さな集落があった。
ハルファ。
サバハへ向かう最後の補給地。
あるいは、今となっては黒い砂漠の手前で踏みとどまるための限界地点。
集落は、半分壊れていた。
石と日干し煉瓦で作られた低い家々。
いくつかは屋根が落ち、いくつかは壁に黒い砂がこびりついている。井戸の周りには布が張られ、仮設の天幕が並んでいた。怪我人を寝かせるための場所らしい。
乾いた咳の音が聞こえた。
子どもの咳だ。
バンは船を降りた。
集落の入口には、壊れた交易看板が立っていた。
そこには、かすれた文字と葡萄の絵が描かれている。
おそらく、ローランの砂葡萄酒を運ぶ交易路を示す看板だったのだろう。
その絵の半分が、黒い砂に削られていた。
ハルファの人々は、バンたちを見ても大きく騒がなかった。
騒ぐ元気がないのかもしれない。
布を巻いた男が、ふらつく足で近づいてくる。頬はこけ、唇は乾いている。だが目だけは鋭かった。
「リオードからか」
ガラムが頷く。
「ああ。荷を持ってきた。水と豆と薬も少しある」
「助かる」
男はラシードを見る。
「サバハへ行くのか」
「行くつもりだった」
「やめておけ」
即答だった。
「道はもう道じゃない。黒い砂が広がっている。昼でも暗い。水袋は内側から腐る。獣も鳥も近づかない。サバハへ戻った者はいない」
ラシードの拳がわずかに握られた。
「サバハは」
「まだ生きているかもしれない。だが、分からん。伝令は途絶えた。最後に来た兵は、黒い砂を吐いて死んだ」
ニロが青ざめた。
ラドは何も言わず、水袋を抱え直した。
バンは集落の奥を見ていた。
天幕の下で、子どもが咳き込んでいる。
母親らしい女が背中をさすっているが、その手も細く震えていた。
近くの壺には水が入っている。
だが、誰も勢いよく飲まない。慎重に、少しずつ、口を湿らせるだけ。
バンは鼻を鳴らした。
「水が少ねぇな」
男がバンを見る。
「少ないんじゃない。使える水が減った。井戸の一つは黒く濁った。もう一つも、いつ駄目になるか分からん」
「飯は」
「豆と硬いパン。肉はほとんどない。家畜は逃がした。何頭かは黒い砂を吸って倒れた」
「酒は?」
男は苦く笑った。
「そんなもの、もうない。最後の砂葡萄酒も、病人に少し飲ませて終わった」
バンはしばらく黙った。
酒がない。
飯もない。
水も危うい。
笑い声もない。
つまらない場所だ。
それだけなら、通り過ぎてもよかったかもしれない。
だが、子どもの咳が耳に残った。
乾いた、細い音。
胸の奥に砂が詰まったような咳。
バンは天幕の方へ歩いた。
母親が警戒するように子どもを抱き寄せる。
「何だい」
「飯は食ったか」
突然の問いに、女は戸惑った。
「……少しだけ」
「肉は?」
「あるわけないだろう」
「そうか」
バンは腰の袋を探り、リオードでもらった香辛料と、残っていた干し肉を取り出した。
干し肉は多くない。だが、細かく刻んで豆に混ぜれば、多少は味が出る。
「鍋は?」
女は呆然とした。
「え?」
「鍋だよ。あるだろ」
少しして、集落の中央で小さな鍋が火にかけられた。
水は少ない。
豆も少ない。
干し肉もわずか。
香辛料もほんの少し。
それでも、バンは鍋をかき混ぜた。
乾いた豆を柔らかくし、刻んだ干し肉から塩気と脂を出す。香辛料は入れすぎない。弱った身体には強すぎるからだ。水を足したいところだが、無駄にはできない。鍋底が焦げないよう、火も小さくする。
集落の人々が、不思議そうに見ていた。
赤い服の旅人が、黒い砂漠の入口で豆を煮ている。
ラドが小声で言う。
「バンさんは、どこへ行ってもまず鍋なのですね」
「腹減ってる奴がいるなら、鍋だろ」
「あなたらしいです」
煮込みは豪華ではない。
リーヴァの大鱒のような華やかさも、リオードの黒だれ羊肉のような力強さもない。
だが、湯気が立つ。
肉と豆と香辛料の匂いが、乾いた集落に少しだけ広がる。
子どもに木の器で渡すと、母親はためらった。
「金はないよ」
「いらねぇ」
「何で」
「飯の前でそういう話すんな。不味くなる」
子どもは器を受け取り、少しずつ食べた。
最初は警戒していたが、やがて目を丸くする。
「……あったかい」
「そりゃ鍋だからな」
バンはそう言った。
子どもが、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは小さかった。
すぐに咳に変わった。
それでも、笑った。
バンはそれを見て、鼻で息を吐いた。
「泣いてる奴の横で飲む酒は、うまくねぇんだよ」
誰に言ったのか分からない声だった。
夕方、ラシードは集落の外へバンを連れていった。
ハルファの先。
そこから、砂漠は完全に変わっていた。
白い砂。
灰色の砂。
そして黒い砂。
境目は、線のようにはっきりしているわけではない。
じわじわと染み込むように、金色の砂が色を失っていく。
その先は、夜でもないのに暗かった。
風が吹く。
黒い砂が、地面を這うように流れる。
バンは一歩、近づいた。
「……喉にくるな」
空気が違った。
乾いているだけではない。
喉の奥を引っかく。肺の中に細かい棘が入るような感覚。目の端が痛み、皮膚がひりつく。
毒。
瘴気。
腐敗。
言葉にすればそうなるのかもしれない。
だが、もっと嫌なものだった。
命そのものを拒む匂い。
足元に、小さな虫の死骸が転がっていた。
乾いている。干からびたというより、内側から黒く焼けたようだった。
ラシードが布で口元を覆う。
「ここから先は、普通の砂漠ではない」
バンは黒い砂を見た。
魔石灯を持ったハルファの男が、少し離れた場所に立っている。
その灯りは、黒い砂に近づくほど鈍くなっていた。青白い光が弱り、まるで息苦しそうに瞬いている。
「魔石も嫌がってんな」
「黒獣の影響だと言われている」
「黒獣?」
ラシードは低く答えた。
「山のような獣だ。二本の角を持ち、歩くだけで砂が腐る。水を毒にし、魔石を砕き、風を黒く染める。サバハの兵は、そう言い残した」
「名前は」
「ベヒーモス」
その名を聞いた瞬間、周囲の空気がほんの少し重くなった気がした。
ラドが後ろで息を呑む。
ガラムは黙って腕を組んでいる。
ニロは言葉を失っていた。
ベヒーモス。
黒い砂漠を生む獣。
交易路を潰し、水を毒にし、酒を途絶えさせ、人の笑いを奪うもの。
バンはその名を覚えた。
「そいつが酒の道を塞いでんのか」
ラシードはバンを見た。
「おそらくな」
「なら、どかせばいいだろ」
あまりにも軽い声だった。
ガラムが笑わなかった。
ラドも笑わなかった。
ラシードも、ニロも、ハルファの男も。
ただ、黒い風だけが足元を流れた。
「分かって言っているのか」
ラシードの声は硬い。
「あれは、砂賊でも魔物の群れでもない。災厄だ。町が逃げ、商隊が消え、井戸が死ぬ。戦うものではない。避けるものだ」
「避けて酒が戻んのか」
「……戻らない」
「飯は」
「戻らない」
「水は」
「分からない」
「なら、つまんねぇ話だ」
バンは黒い砂漠を見たまま言った。
「酒が飲めねぇ。飯が食えねぇ。ガキが咳してる。つまんねぇ場所だな」
誰も答えなかった。
バンは一歩踏み出した。
黒い砂が、靴の下でわずかに沈む。
喉が焼ける。
肺が重い。
皮膚が痛む。
だが、バンは止まらなかった。
二歩。
三歩。
身体の奥が、昔の地獄を思い出す。
煉獄。
焼ける空気。
裂ける皮膚。
歪む時間。
生き物が生きることを許さない場所。
それに比べれば。
「……ま、煉獄ほどじゃねぇな」
ラシードが目を見開いた。
「れんごく……?」
「気にすんな。飯が不味くなる話だ」
バンは振り返らずに言った。
黒い砂漠の奥で、低い音がした気がした。
風か。
地鳴りか。
獣の息か。
遠すぎて分からない。
だが確かに、何かがいる。
バンはクレシューズを肩から下ろし、手に持った。
赤いロングコートが、黒い風に揺れる。
その背中を、少し離れた岩陰から二つの影が見ていた。
一人は男。軽装の斥候。
もう一人は女。砂色の外套をまとい、口元を布で覆っている。
男が小声で言う。
「止めるか?」
女は、黒い砂漠へ踏み込もうとする赤い背中を見て、首を横に振った。
「無駄でしょう。あの目は、止まる者の目ではありません」
「恩恵の気配は?」
「ありません。背に神聖文字の気配もない。ファミリアの者ではない」
「それで黒い砂に入るってか」
男は乾いた笑いを漏らした。
「報告しても信じてもらえねぇぞ、これ」
女は目を細める。
「それでも報告します。黒獣の領域へ、神の恩恵を持たぬ赤い旅人が入った、と」
「名前は?」
「まだ不明です」
男は肩をすくめた。
「変な奴だな」
女は小さく頷いた。
「ええ。あまりにも」
岩陰の二人を、バンは見ていなかった。
気づいていないわけではない。
ただ、今はどうでもよかった。
黒い砂漠の先。
サバハ。
ローラン。
砂葡萄酒。
それから、咳き込む子ども。
薄い豆の煮込みを食べて、少し笑った顔。
泣いている奴の横で飲む酒は、うまくない。
咳き込む子どもの横で飲む酒も、きっとうまくない。
なら、やることは一つだった。
ラドが声をかける。
「バンさん、本当に行くのですか」
「ああ」
「一人で?」
「大勢で行ったら飯が足りねぇだろ」
「そういう問題ではありません」
「分かってるよ」
バンは少しだけ振り返った。
「船と水、見とけ。戻ってくる」
ラドは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
ガラムが低く言う。
「戻らなかったら?」
「酒代、ツケにしとけ」
「馬鹿野郎」
ガラムはそう言ったが、止めなかった。
ラシードが一歩前に出る。
「俺も行く」
「足手まといだ」
即答だった。
ラシードの眉が動く。
「俺はサバハの護衛だ。故郷へ向かう道を、他所者一人に任せるわけには」
「じゃあ、ここの連中守っとけ」
バンはハルファを指した。
「黒い砂が広がるなら、ここも危ねぇんだろ。水と飯を守る奴がいる」
ラシードは黙った。
「俺は様子見てくる。食えるもんがあったら拾ってくる。酒があったら、まあ飲む」
「本気で言っているのか」
「だいたいな」
バンは笑った。
ニロが震える声で言う。
「赤コートさん……」
「何だ」
「死なないでください」
「まだ飲んでねぇ酒があるからな」
それが答えだった。
バンは黒い砂漠へ向き直る。
足元の砂は黒い。
風は冷たく、喉を焼く。
遠くで何かが低く唸っている。
普通なら、引き返す。
神の恩恵を持つ冒険者でさえ、準備を整え、仲間を集め、神に祈り、それでも足を止めるかもしれない。
だが、バンは神に祈らない。
背中に恩恵もない。
ステイタスもない。
ファミリアの旗もない。
あるのは、赤いロングコート。
手に戻った聖棍クレシューズ。
腹の奥に残る豆と干し肉の熱。
そして、まだ飲んでいない酒への強欲。
バンは口の端を上げた。
「酒があるんだろ、向こうに」
そう言って、強欲の旅人は黒い砂漠へ踏み込んだ。
第7話は第一部の締めでした。
黒い砂漠、ハルファ、咳き込む子ども、監視役の影、そしてベヒーモスの名。
次回から第二部「黒い砂漠の強欲」に入ります。