赤い旅人の続きになります。
リーヴァの朝は、川の音と魚の匂いで始まった。
窓の外では、水車がゆっくりと回っている。
川辺では、漁師たちが網を広げ、女たちが昨日干した魚を裏返していた。
酒場の一階からは、焼いたパンと魚の骨で取った汁の匂いが上がってくる。
バンは二階の小部屋で目を覚まし、しばらく天井を眺めていた。
肩が少し痛む。
マッドサーペントにかすめられた傷だ。
薬草のおかげで熱は引いている。
だが、傷そのものはまだ残っている。
不死身だった頃なら、目が覚める前に消えていたような傷。
今は違う。
痛みは痛みとして残る。
傷は傷として残る。
バンは肩を軽く回した。
「……ま、腕が動くなら問題ねぇか」
上体を起こし、寝台の脇に置いていた枝を手に取る。
昨日の戦いで使った枝は、マッドサーペントの喉を突いた時に折れた。
これは、町の子どもが「代わりに」と持ってきた少し太めの棒だ。
悪くはない。
だが、やはり違う。
手に馴染まない。
しなりも足りない。
重心も軽すぎる。
聖棍クレシューズ。
ただの武器ではない。
バンにとっては、長く使い込んだ相棒のようなものだった。
混沌の裂け目に飲まれた時、手から離れた。
あれがこの世界のどこかに落ちているのか、誰かに拾われたのか、それとも別の場所へ飛ばされたのか。
分からない。
ただ、バンはどこかで確信していた。
あれは壊れていない。
そして、どこかで妙なことになっている。
「変な奴に拾われてなきゃいいけどな」
そう言って、バンは立ち上がった。
一階へ下りると、店主が朝飯を用意していた。
黒だれを薄く塗った焼き魚。
硬いパン。
魚の骨と野菜を煮た汁。
それから、水で割った薄い濁り酒。
バンは席につき、当然のように杯を取る。
店主が眉を上げた。
「朝から飲むのか?」
「薄いだろ」
「酒は酒だ」
「なら、朝からいい酒が飲める町だな」
「物は言いようだな」
店主は呆れながらも、少し笑った。
バンは焼き魚をかじる。
昨日の少女が焼いた焦げた魚より、ずっと美味い。
皮は香ばしく、身はしっとりしている。
魚の汁も悪くない。
川魚特有の泥臭さを、香草と塩でうまく抑えている。
「飯はうまい。酒も悪くねぇ。いい町だ」
「それ、何回目だ」
「いい町は何回言ってもいいだろ」
店主は笑った。
その時、酒場の扉が開いた。
入ってきたのは、昨日リーヴァに来ていた行商人だった。
背負い袋を肩に掛け、腰には小さな帳面。
昨日、黒背狼の皮や牙を買った男とは別の者だが、同じように旅慣れた雰囲気がある。
行商人は店主に軽く挨拶し、バンの赤い姿を見て目を止めた。
「あんたが、昨日マッドサーペントを倒した赤い旅人かい?」
「飯食ってる赤い旅人だ」
「それは見れば分かる」
行商人は向かいの席に座った。
「名前は?」
「バン」
「俺はサイモン。砂漠方面とオラリオ周辺を行き来してる商人だ」
「砂漠?」
「ああ。カイオス砂漠の西側、リオードまで行く」
バンは魚を食べる手を止めた。
「リオードってのは?」
「イスラファンの北端にあるオアシス交易都市だよ。城壁があって、砂漠船の港もある。砂漠へ入る商人はよく寄る」
「へぇ」
砂漠。
オアシス。
交易都市。
飯と酒の匂いがする言葉だった。
だが、それだけなら、バンは聞き流していたかもしれない。
サイモンは水を飲んでから、続けた。
「そのリオードの古道具屋でな、妙な武器を見たんだ」
バンの目が少しだけ細くなる。
「妙な武器?」
「ああ。三つに分かれた棒みたいなやつだ。鎖でもないのに妙にしなる。持ち主は『ただの変わった護身具』だって言ってたが、俺にはどうにも普通の品には見えなかった」
バンは杯を置いた。
「色は?」
「深い色だったな。黒っぽいというか、赤みがあるというか。金属とも木ともつかない」
「古道具屋の名前は」
「え?」
「名前」
サイモンは少し驚いた顔をした。
「リオードの南門近くにある店だ。看板は『砂鼠の箱』だったかな。主人はギドって爺さんだ」
バンは立ち上がった。
店主が眉をひそめる。
「おい、飯は?」
「食う」
バンは魚を一気に平らげ、汁を飲み、薄い濁り酒を流し込む。
そして、サイモンの方を向いた。
「そのリオード、どう行く」
「いや、待て。あんた、オラリオに行くんじゃないのか?」
「オラリオは逃げねぇだろ」
「まあ、逃げはしないが」
「棒が先だ」
サイモンは数秒、考え込んだ。
そして、にやりと笑った。
「なるほど。あの妙な棒、あんたのか」
「たぶんな」
「たぶんで砂漠まで行くのか?」
「大事な棒だからな」
「棒って言い方でいいのか、それ」
「俺がいいならいいだろ」
サイモンは肩をすくめた。
「ちょうど俺もリオードへ戻るところだ。途中まで一緒に来るか?」
「飯は出るか」
「護衛代わりに来てくれるなら、道中の食事くらいは出す」
「酒は」
「少しなら」
「行く」
即答だった。
店主が呆れたように笑う。
「本当に飯と酒で動くんだな」
「分かりやすくていいだろ」
「否定はしない」
バンは旅支度を整えた。
といっても、大した荷物はない。
ミーネ村でもらった古い地図。
リーヴァの店主が持たせてくれた魚の干物。
硬いパン。
少量の塩。
薬師が押しつけてきた肩用の薬草。
そして、借り物の棒。
店主は袋を渡した。
「干し魚だ。道中で食え」
「いいのか」
「町を助けた礼だ」
「リーヴァはいい町だな」
「だから何回目だ、それ」
店主は笑いながら言った。
バンも少し笑って、袋を受け取る。
橋の近くでは、昨日助けた少女ミーナが母親と一緒に立っていた。
ミーナは小さな包みを差し出す。
「これ、焼いた魚です。焦げないようにしました」
「そうか」
バンは包みを開けて、一切れだけその場で食べた。
皮は少ししなびていたが、塩加減は悪くない。
「前よりうまい」
ミーナの顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「ああ。焦げてねぇ」
「そこだけ?」
「そこ、大事だろ」
母親が苦笑する。
バンは残りを袋に入れた。
「また焦がしたら、火から離せ」
「うん!」
ミーナは大きく頷いた。
バンは軽く手を振り、サイモンの荷馬車に並んで歩き出した。
リーヴァの町が少しずつ遠ざかる。
川の音が背後へ流れていく。
バンはちらりと振り返った。
魚と濁り酒の匂いがする町。
悪くない場所だった。
ただ、今はそれよりも気になるものがある。
迷子の神器。
聖棍クレシューズ。
もし本当にリオードにあるなら、迎えに行く必要がある。
「砂漠か」
バンは呟く。
「飯、うまいといいな」
サイモンが横で笑った。
「あんた、砂漠に何を期待してるんだ」
「うまい肉と酒」
「あるにはある。癖は強いがな」
「癖がある方が面白い」
サイモンの荷馬車は、川沿いの道を離れ、南西へ向かう交易路へ入った。
道は少しずつ乾いていった。
草は低くなり、土は硬く、風には砂の匂いが混じるようになる。
途中、宿場町をいくつか抜けた。
旅人。
行商人。
護衛。
砂漠へ向かう荷馬車。
オラリオへ向かう冒険者らしき若者たち。
バンはその中で、神の恩恵を受けた者たちを何人か見た。
正確には、背中の文字を見たわけではない。
だが、身体の動きが普通とは違う。
力の流れが、地上の人間より整っている。
何か外側から形を与えられているような感覚がある。
神の恩恵。
この世界の人間が強くなるための仕組み。
バンはそれを面白そうに眺めた。
サイモンが聞く。
「冒険者が気になるのか?」
「変な流れしてんなと思ってな」
「流れ?」
「身体の中の力だよ。神様に整えられてる感じがする」
「そんなことまで分かるのか」
「なんとなくだ」
「やっぱり、あんた普通じゃないな」
「よく言われる」
夜には、小さな宿場で野営した。
サイモンの仲間たちは、乾いた豆と塩漬け肉を鍋に入れて煮た。
だが、味は単調だった。
バンは黙って見ていられず、途中から手を出した。
「肉、先に焼け」
「またか?」
「煮る前に焼いた方が匂いが出る。豆は潰すな。半分だけ潰せ。あと干し魚を少し入れろ」
「魚を?」
「塩気と旨味が出る」
商人たちは半信半疑だったが、従った。
結果、ただの豆と肉の煮込みは、ずいぶんましになった。
サイモンが目を丸くする。
「あんた、料理人か?」
「昔、酒場やってた」
「旅人で、盗賊で、料理人で、魔物を素手で倒すのか」
「肩書きが多いと面倒だな」
「面倒なのはこっちだ」
商人たちは笑った。
その夜、バンは星空の下で横になった。
砂混じりの風が吹く。
リーヴァの湿った川風とは違う。
乾いていて、肌から水分を奪う風。
バンは右手を開く。
強奪《スナッチ》の感覚は、まだ完全には戻らない。
だが、少しずつこの世界の流れに慣れてきた。
地上の獣。
黒背狼。
マッドサーペント。
神の恩恵を受けた冒険者。
魔石を持たない魔物。
肉体を残す魔物。
それぞれ、力の流れ方が違う。
なら、奪い方も変えればいい。
力を無理に根こそぎ盗るのではなく、必要なところだけを盗る。
勢い。
呼吸。
足運び。
尾の振り。
攻撃へ移る直前の一瞬。
今のバンには、その方が合っているのかもしれない。
「ま、取り戻すってより、盗み方を変えるってことか」
バンは小さく笑った。
砂漠へ近づくほど、魔物の気配も変わった。
湿った川の魔物とは違う。
乾いた土と熱を抱いた獣。
昼過ぎ、荷馬車の前方の砂地が盛り上がった。
サイモンが手綱を引く。
「止まれ!」
砂の中から、細長い影が飛び出した。
大きなトカゲのような魔物だった。
全身が砂色で、背中には小さな棘。
口は横に広く、目はぎょろりとしている。
四肢は短いが、砂の上を滑るように走る。
「サンドスキッパーだ!」
商人の一人が叫ぶ。
「荷の匂いにつられたか!」
二匹、三匹。
砂の中から次々に現れる。
地上の魔物だ。
これまで倒した地上の魔物とよく似た気配だ。
身体の奥に、村で聞いた魔石らしい硬い力の塊も感じない。
砂地でなければ大したことはないのかもしれない。
しかし、この足場では厄介だ。
バンは借り物の棒を構えた。
「食えるか?」
サイモンが叫ぶ。
「尻尾は焼けば食える!でも今はそれどころじゃない!」
「食えるなら十分だ」
サンドスキッパーが荷馬車の車輪へ向かう。
狙いは馬か、積み荷か。
バンは前へ出た。
一匹が低く跳ぶ。
足元を狙う動き。
バンは右手を伸ばす。
砂の上を滑る勢い。
腹の筋肉に乗った力。
着地から次の跳躍へ移る流れ。
その端を盗る。
「強奪《スナッチ》」
サンドスキッパーの身体が砂に引っかかったように鈍る。
バンは棒で頭部を叩いた。
骨が砕ける。
だが、棒もひび割れた。
「やっぱ軽いな」
二匹目が横から来る。
バンは壊れかけの棒を投げる。
棒はサンドスキッパーの口に挟まり、動きを止めた。
その隙に踏み込み、首を蹴り折る。
三匹目は荷馬車の下へ潜り込もうとしていた。
バンは足元の砂を蹴り、視界を奪う。
そして、尾を掴んで引きずり出した。
「おらよ」
そのまま、地面へ叩きつける。
砂が舞う。
残った数匹は、バンの動きを見て逃げようとした。
だが、商人たちの護衛も遅れて動き出していた。
槍で牽制し、弓で追い払う。
数分後、砂地には倒れたサンドスキッパーが三匹残った。
どれも灰にはならない。
肉体が残っている。
サイモンが汗を拭う。
「助かった。車輪をやられたら、砂漠の手前で立ち往生だった」
「飯代だろ」
「あんたの飯代、高いな」
「尻尾は食えるんだろ」
「本気で食うのか?」
「食えるって言っただろ」
その日の夕食は、サンドスキッパーの尻尾焼きになった。
皮を剥ぐと、白っぽい肉が出てくる。
臭みは少ないが、乾いた匂いがある。
バンは塩を振り、強めの火で炙った。
脂は少ない。
だが、噛むと鶏肉に似た弾力があった。
「悪くねぇ」
サイモンも恐る恐る食べる。
「……意外とうまいな」
「火を入れすぎると硬くなる。早めに食え」
「本当に料理人だな」
「旅人だ」
「もう何でもいいよ」
商人たちは笑った。
さらに二日進むと、景色は完全に変わった。
草は消え、地面は乾き、空気は熱を帯びる。
遠くに砂の波が見えた。
カイオス砂漠。
その西部に広がる乾いた大地。
そして、その手前に、城壁を持つ町が見えた。
リオード。
三メートルほどの城壁に囲まれたオアシス交易都市。
南側には、砂漠船と呼ばれる平底の船のような乗り物が並ぶ港がある。
町の中心には、水をたたえたオアシス。
その周囲に、商館、酒場、宿屋、古道具屋、市場がひしめいていた。
砂漠の乾いた空気の中で、その町だけが水と人の匂いを放っている。
バンは城門の前で、口元を上げた。
「いい匂いがするな」
サイモンが笑う。
「水と香辛料と金の匂いだ」
「酒は?」
「もちろんある」
「いい町だな」
「まだ入ってもいないぞ」
「匂いで分かる」
城門を抜けると、リオードの熱気が押し寄せた。
市場には、色鮮やかな布。
乾燥果物。
香辛料。
焼いた肉。
壺に入った酒。
砂漠の民が使う水袋。
獣の皮。
骨細工。
奇妙な魔物素材。
バンはあちこちに目を向ける。
肉の焼ける匂い。
香辛料の刺激。
甘い果物酒。
酸っぱい乳酒。
砂漠の硬いパン。
全部気になる。
だが、まずは目的がある。
「砂鼠の箱、だっけか」
サイモンが頷く。
「南門の近くだ。案内する」
市場の喧騒を抜け、細い路地へ入る。
そこに、小さな古道具屋があった。
看板には、砂色の鼠が箱を抱えている絵。
店内は薄暗い。
壺、古びた短剣、割れた盾、異国の杯、古い楽器、折れた槍、魔物の骨らしきもの。
よく分からないものが所狭しと並んでいる。
奥には、白髭の老人が座っていた。
「いらっしゃい」
しわがれた声。
サイモンが声をかける。
「ギド爺さん、前に見せてもらった変な三節の棒、まだあるかい?」
老人――ギドは片目を細めた。
「ああ、あれか。売れてはおらんよ。誰も使い方が分からんからな」
バンは店の奥へ歩いた。
棚の隅。
布に巻かれ、他の古びた武器と一緒に置かれているもの。
見えた瞬間、バンの足が止まった。
深い赤みを帯びた、独特の質感。
三つに分かれた節。
手に馴染む重さを、見ただけで思い出す。
聖棍クレシューズ。
「……見つけた」
バンは布を解き、手に取った。
その瞬間、指先に馴染む感覚が戻る。
重さ。
しなり。
節の動き。
手首に返ってくるわずかな反動。
間違いない。
バンの口元がゆっくりと上がった。
「お前、こんなとこで何してんだよ」
クレシューズは答えない。
だが、手の中で静かに収まっている。
ようやく戻った。
ギドが興味深そうにバンを見る。
「ほう。持ち方が違うな。お前さん、こいつの使い方を知っておるのか」
「俺のだ」
「そうか」
老人は驚くでもなく、頷いた。
「なら、買っていけ」
バンはギドを見る。
「拾い物を売るのか」
「拾ったのは砂漠の商人だ。わしは買い取った。店に並べた。なら、ここでは商品だ」
「いくらだ」
ギドはにやりと笑った。
「銀貨五十枚」
サイモンが目をむいた。
「高い!誰も使えない棒に五十枚!?」
「使える者が来た。なら価値は上がる」
「商売が汚いな、爺さん」
「褒め言葉だ」
バンは懐を探った。
当然、そんな金はない。
リーヴァで持たされたものは、食料と薬草と少しの路銀だけ。
銀貨五十枚にはまるで足りない。
バンはクレシューズを手に持ったまま、考える。
盗ることはできる。
たぶん、簡単に。
今の《強奪》の感覚でも、目の前の老人から武器を奪って逃げるくらいなら問題ない。
だが、それは飯がまずくなる。
ギドは盗んだわけではない。
商売として買ったものを売っているだけだ。
バンは舌打ちした。
「面倒くせぇな」
ギドは笑った。
「盗らんのか」
「あ?」
「目が盗人のそれだった。だが、手は動かんかった」
「昔は盗賊だったんでな」
「今は?」
「旅人」
「ふむ。なら旅人らしく、働いて払え」
バンは眉を上げる。
「働く?」
ギドは店の裏手を指さした。
「ちょうど困っておる。夜になると、砂鼠が倉庫に入り込んで品をかじる。普通の鼠ではない。小さな地上魔物だ。数が多くてな。捕まえられるなら、代金をまけてやる」
「飯になるか?」
サイモンが顔をしかめた。
「砂鼠を食う気か?」
ギドは平然と言う。
「食えんことはない。だが、小さくて脂も少ない。干して粉にする地方もある」
「粉か」
バンは少し興味を持った。
そして、クレシューズを軽く回す。
空気を切る音がした。
手に馴染む。
やはり、枝とは違う。
「いいぜ。鼠退治で足りるならな」
「一匹につき銀貨一枚分まける」
「五十匹か」
「昨日は六十はいた」
「多いな」
「だから困っておる」
バンは笑った。
「いいじゃねぇか。久しぶりに、こいつの慣らしにちょうどいい」
その夜、バンは古道具屋の裏倉庫にいた。
倉庫には、壺や木箱、古い布、香辛料袋、骨細工などが積まれている。
床には小さな穴がいくつもあった。
やがて、かさかさと音がする。
砂鼠。
見た目は鼠だが、普通の鼠より大きい。
背には砂色の硬い毛。
前歯は異様に長く、木箱の角を簡単に削る。
目は赤い。
一匹、二匹、五匹。
あっという間に床が動き出した。
バンはクレシューズを肩に乗せる。
「悪いな。俺の棒代だ」
砂鼠たちが一斉に飛びかかる。
バンは笑った。
クレシューズがしなる。
一振り。
伸びた節が、三匹をまとめて弾き飛ばす。
二振り。
棚の上を走る二匹の足元を払い、床へ落とす。
三振り。
木箱の裏に隠れた個体を、角度を変えて叩き出す。
枝ではできない動きだった。
手首の返しだけで軌道を変え、遠い相手にも届き、近い相手には節を畳んで打つ。
バンの身体が、ようやく馴染んだ武器を思い出していく。
砂鼠が群れで散る。
普通なら面倒な数。
だが、クレシューズがあれば話が違う。
「乱獲《クレイジーハント》」
大きく踏み込む。
魔力を広げすぎない。
この世界では、広く深く奪おうとすると反動が来る。
だから、狭く、浅く、必要な分だけ。
砂鼠たちの跳ぶ勢い。
足に乗る力。
逃げるための一歩。
その端を、まとめて盗る。
動きが鈍った瞬間、クレシューズが倉庫の中を走った。
打つ。
払う。
落とす。
絡める。
弾く。
数分後、倉庫の床には動かなくなった砂鼠が山になっていた。
ギドが入口から覗く。
「……五十を越えたな」
「足りたか?」
「十分だ」
「じゃあ、こいつは返してもらうぞ」
「売った、だ。正確には」
「細けぇな」
「商売人なのでな」
ギドは小さな紙を渡した。
「領収書だ」
「いらねぇ」
「いる。後から盗品扱いされても困るだろう」
バンは少し考え、紙を受け取った。
「意外と親切だな」
「商売は信用が命だ」
「盗賊とは違うな」
「今は旅人なのだろう?」
ギドはにやりと笑った。
バンも笑った。
「そうだったな」
翌朝、バンはリオードの市場にいた。
腰には戻ってきたクレシューズ。
手に馴染む重みがあるだけで、旅の足取りが少し違う。
サイモンは市場で荷を売り、バンには礼として小さな革袋を渡した。
「少ないが、護衛代だ」
「飯代か」
「そう思ってくれ」
「ならもらう」
革袋には、銀貨と銅貨が少し。
それから、サイモンが勧めた砂葡萄の干し実。
市場の屋台では、砂漠の肉串が焼かれていた。
香辛料をまぶした羊肉。
薄い平焼きパン。
酸味のある乳酒。
砂葡萄を潰して作った甘い酒。
バンは肉串を買い、かじる。
強い香辛料。
脂の甘み。
乾いた風。
「悪くねぇ」
次に、砂葡萄酒を飲む。
甘い。
少し渋い。
喉に残る熱がある。
「これもいいな」
リオードの人々は忙しなく動いている。
商人が叫び、砂漠船の船頭が荷を積み、旅人が水袋を買い、異国の言葉が飛び交う。
リーヴァとは違う。
ミーネ村とも違う。
水と砂と金と香辛料の町。
バンはクレシューズを軽く叩いた。
「見つかったし、飯もうまい。悪くねぇ寄り道だったな」
サイモンが聞く。
「これからどうする?」
「オラリオ」
「今度こそ?」
「ああ。神様が歩いて、ダンジョンが口開けて、酒場が山ほどある街なんだろ」
「そうだな」
「なら行く」
「理由が軽いな」
「重い理由で歩くと疲れんだろ」
バンは笑い、肉串の最後を食べた。
クレシューズは戻った。
強奪《スナッチ》の感覚も、少しずつこの世界に馴染み始めている。
まだ完全ではない。
だが、武器が手に戻っただけで、盗り方の幅は大きく変わる。
遠くのものを盗る。
敵の核を抜く。
流れの端を引っかける。
数を相手に乱獲する。
ようやく、赤い旅人らしい戦い方が戻ってきた。
バンはリオードの南門近くで振り返る。
砂漠の町が朝日に照らされていた。
市場の匂い。
香辛料。
砂葡萄酒。
焼けた肉。
水の匂い。
「リオードも、いい町だな」
そう言って、バンは歩き出した。
次に目指すのは、迷宮都市オラリオ。
神の恩恵を受けない赤い旅人は、迷子の神器を腰に戻し、再び道へ出た。
第5話でした。
修正版では、リーヴァで得た手がかりから、バンが砂漠の交易都市リオードへ向かい、古道具屋で聖棍クレシューズを取り戻す流れにしました。
また、クレシューズを取り戻したことで、バンの戦い方が少し本来の形に近づく描写を入れました。
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