強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第7話です。
第一部の締めになります。
今回は、黒い砂漠そのものとの初遭遇。ベヒーモス本体との戦闘にはまだ入りません。
飯と酒を求める旅人が、なぜ災厄の入口へ踏み込むのか。その理由を描く回です。


第7話 黒い砂漠の入口

砂漠の朝は、音が少ない。

 

風が砂を撫でる音。

砂栗船の船底が軋む音。

帆布が乾いた空気を受けて鳴る音。

それ以外は、ほとんど何もない。

 

鳥の声もない。

川の音もない。

人の暮らしの匂いも、遠い。

 

バンは船首に腰を下ろし、肩に聖棍クレシューズを担いでいた。

 

リオードで取り戻した相棒は、相変わらず手によく馴染む。

砂栗船が砂丘を越えるたび、クレシューズの節がかすかに揺れた。

 

「なあ、ガラム」

 

「何だ、赤コート」

 

「砂漠ってのは、どこまで行っても砂なのか」

 

舵を握るガラムが、片目だけでバンを見た。

 

「そりゃ砂漠だからな」

 

「つまんねぇな」

 

「砂漠に面白さを求めるな。生きて抜けられりゃ、それで上等だ」

 

「飯は?」

 

「豆と干し肉」

 

「酒は?」

 

「夜まで待て」

 

「景色も飯も酒も代わり映えしねぇのは、ちょっとな」

 

ガラムは呆れたように笑った。

 

「お前、砂漠を何だと思ってる」

 

「酒の道」

 

「間違っちゃいねぇのが腹立つな」

 

船員たちが小さく笑った。

だが、その笑いは昨日よりも短い。

 

砂栗船は、サバハへ向かう街道筋から外れつつあった。

 

正確には、街道そのものが途切れていた。

 

砂に埋もれた古い標識。

倒れた道標。

半分だけ砂に沈んだ荷車の車輪。

風に裂かれた布切れ。

 

人が行き来していた跡はある。

だが最近ではない。

 

ラドは荷台の影で帳簿を閉じ、落ち着かない様子で周囲を見ていた。

 

「本来なら、この辺りからサバハ行きの商隊が増えるはずなのですが」

 

「見当たらねぇな」

 

「ええ。嫌な静けさです」

 

ラシードは船縁に立ち、遠くの砂丘を見ていた。

表情は硬い。

 

「サバハからこちらへ来る船もない。戻る船もない。噂より悪いかもしれん」

 

「黒い風か」

 

「ああ」

 

ラシードの声は低かった。

 

「黒い風が吹いた土地は、砂が変わる。水が腐る。獣が逃げる。人の喉が焼ける。ひどい時は、魔石灯さえ光を失う」

 

「魔石も使えねぇのか」

 

「そう聞いている」

 

「酒は?」

 

ラシードがバンを見た。

 

「……酒も駄目になる」

 

バンの目が細くなった。

 

「それはまずいな」

 

「そこか」

 

「酒が駄目になる土地なんざ、ろくでもねぇだろ」

 

ラシードは否定しなかった。

 

昼前、砂栗船は一度止まった。

 

前方の砂地に、半壊した小さな船があった。

砂栗船だ。船体の半分が砂に埋まり、帆は黒ずみ、砂蹴り板は折れている。周囲には荷物の残骸が散らばっていた。

 

ガラムが顔をしかめる。

 

「サバハの船だ」

 

船を降りたラシードが、黒ずんだ帆に触れる。

指先についた黒い粉を見て、さらに表情が険しくなった。

 

「焼けたのではないな。腐っている」

 

「布がか?」

 

「ああ。砂にやられた」

 

バンも近づき、黒ずんだ帆を摘んだ。

指の間で、布がぱらりと崩れる。

 

燃えた匂いはしない。

湿った腐敗臭でもない。

何か、もっと乾いた嫌な匂いだった。

 

命から水気を奪い、残った殻だけを砕いたような匂い。

 

「……飯が不味くなる匂いだな」

 

バンはそう言って、布を放した。

 

 ニロが船内を覗く。

 

「誰もいません。荷もほとんど残ってないです」

 

「逃げたか、連れて行かれたか」

 

ガラムは砂を見た。

 

足跡は残っていない。

砂漠では、風がすぐにすべてを消す。

 

ただ、船体の影に小さなものが落ちていた。

 

木の杯だ。

 

割れている。

内側に黒い染みがある。

 

ラシードがそれを見て、苦々しく呟いた。

 

「サバハの酒杯だ」

 

「酒は?」

 

バンが聞くと、ラシードは首を振った。

 

「ない。染みだけだ。……黒くなっている」

 

バンは割れた杯を見下ろした。

 

乾いた木の杯。

飲み干される前に、何かに汚されたような黒い跡。

 

酒を飲もうとした誰かがいたのか。

飲めなかったのか。

それとも、飲む前に逃げたのか。

 

バンは何も言わず、杯を砂の上へ戻した。

 

午後になると、砂の色が変わり始めた。

 

最初は、ただ影が濃くなっただけに見えた。

砂丘の稜線の向こう、陽の当たり方が違う場所に、灰色の帯がある。

 

だが近づくほど、それが影ではないことが分かった。

 

砂そのものが、灰色に変わっている。

 

さらに先は、黒い。

 

金色の砂漠が、そこだけ病のように色を失っていた。

 

ガラムが舵を止めた。

 

「ここまでだ」

 

砂栗船が低く軋み、止まる。

 

前方に、小さな集落があった。

 

ハルファ。

 

サバハへ向かう最後の補給地。

あるいは、今となっては黒い砂漠の手前で踏みとどまるための限界地点。

 

集落は、半分壊れていた。

 

石と日干し煉瓦で作られた低い家々。

いくつかは屋根が落ち、いくつかは壁に黒い砂がこびりついている。井戸の周りには布が張られ、仮設の天幕が並んでいた。怪我人を寝かせるための場所らしい。

 

乾いた咳の音が聞こえた。

 

子どもの咳だ。

 

バンは船を降りた。

 

集落の入口には、壊れた交易看板が立っていた。

そこには、かすれた文字と葡萄の絵が描かれている。

おそらく、ローランの砂葡萄酒を運ぶ交易路を示す看板だったのだろう。

 

その絵の半分が、黒い砂に削られていた。

 

ハルファの人々は、バンたちを見ても大きく騒がなかった。

騒ぐ元気がないのかもしれない。

 

布を巻いた男が、ふらつく足で近づいてくる。頬はこけ、唇は乾いている。だが目だけは鋭かった。

 

「リオードからか」

 

ガラムが頷く。

 

「ああ。荷を持ってきた。水と豆と薬も少しある」

 

「助かる」

 

男はラシードを見る。

 

「サバハへ行くのか」

 

「行くつもりだった」

 

「やめておけ」

 

即答だった。

 

「道はもう道じゃない。黒い砂が広がっている。昼でも暗い。水袋は内側から腐る。獣も鳥も近づかない。サバハへ戻った者はいない」

 

ラシードの拳がわずかに握られた。

 

「サバハは」

 

「まだ生きているかもしれない。だが、分からん。伝令は途絶えた。最後に来た兵は、黒い砂を吐いて死んだ」

 

ニロが青ざめた。

 

ラドは何も言わず、水袋を抱え直した。

 

バンは集落の奥を見ていた。

 

天幕の下で、子どもが咳き込んでいる。

母親らしい女が背中をさすっているが、その手も細く震えていた。

 

近くの壺には水が入っている。

だが、誰も勢いよく飲まない。慎重に、少しずつ、口を湿らせるだけ。

 

バンは鼻を鳴らした。

 

「水が少ねぇな」

 

男がバンを見る。

 

「少ないんじゃない。使える水が減った。井戸の一つは黒く濁った。もう一つも、いつ駄目になるか分からん」

 

「飯は」

 

「豆と硬いパン。肉はほとんどない。家畜は逃がした。何頭かは黒い砂を吸って倒れた」

 

「酒は?」

 

男は苦く笑った。

 

「そんなもの、もうない。最後の砂葡萄酒も、病人に少し飲ませて終わった」

 

バンはしばらく黙った。

 

酒がない。

飯もない。

水も危うい。

 

笑い声もない。

 

つまらない場所だ。

 

それだけなら、通り過ぎてもよかったかもしれない。

だが、子どもの咳が耳に残った。

 

乾いた、細い音。

胸の奥に砂が詰まったような咳。

 

バンは天幕の方へ歩いた。

 

母親が警戒するように子どもを抱き寄せる。

 

「何だい」

 

「飯は食ったか」

 

突然の問いに、女は戸惑った。

 

「……少しだけ」

 

「肉は?」

 

「あるわけないだろう」

 

「そうか」

 

バンは腰の袋を探り、リオードでもらった香辛料と、残っていた干し肉を取り出した。

干し肉は多くない。だが、細かく刻んで豆に混ぜれば、多少は味が出る。

 

「鍋は?」

 

女は呆然とした。

 

「え?」

 

「鍋だよ。あるだろ」

 

少しして、集落の中央で小さな鍋が火にかけられた。

 

水は少ない。

豆も少ない。

干し肉もわずか。

香辛料もほんの少し。

 

それでも、バンは鍋をかき混ぜた。

 

乾いた豆を柔らかくし、刻んだ干し肉から塩気と脂を出す。香辛料は入れすぎない。弱った身体には強すぎるからだ。水を足したいところだが、無駄にはできない。鍋底が焦げないよう、火も小さくする。

 

集落の人々が、不思議そうに見ていた。

 

赤い服の旅人が、黒い砂漠の入口で豆を煮ている。

 

ラドが小声で言う。

 

「バンさんは、どこへ行ってもまず鍋なのですね」

 

「腹減ってる奴がいるなら、鍋だろ」

 

「あなたらしいです」

 

煮込みは豪華ではない。

リーヴァの大鱒のような華やかさも、リオードの黒だれ羊肉のような力強さもない。

 

だが、湯気が立つ。

肉と豆と香辛料の匂いが、乾いた集落に少しだけ広がる。

 

子どもに木の器で渡すと、母親はためらった。

 

「金はないよ」

 

「いらねぇ」

 

「何で」

 

「飯の前でそういう話すんな。不味くなる」

 

子どもは器を受け取り、少しずつ食べた。

最初は警戒していたが、やがて目を丸くする。

 

「……あったかい」

 

「そりゃ鍋だからな」

 

バンはそう言った。

 

子どもが、ほんの少しだけ笑った。

 

その笑いは小さかった。

すぐに咳に変わった。

それでも、笑った。

 

バンはそれを見て、鼻で息を吐いた。

 

「泣いてる奴の横で飲む酒は、うまくねぇんだよ」

 

誰に言ったのか分からない声だった。

 

夕方、ラシードは集落の外へバンを連れていった。

 

ハルファの先。

そこから、砂漠は完全に変わっていた。

 

白い砂。

灰色の砂。

そして黒い砂。

 

境目は、線のようにはっきりしているわけではない。

じわじわと染み込むように、金色の砂が色を失っていく。

その先は、夜でもないのに暗かった。

 

風が吹く。

 

黒い砂が、地面を這うように流れる。

 

バンは一歩、近づいた。

 

「……喉にくるな」

 

空気が違った。

 

乾いているだけではない。

喉の奥を引っかく。肺の中に細かい棘が入るような感覚。目の端が痛み、皮膚がひりつく。

 

毒。

瘴気。

腐敗。

 

言葉にすればそうなるのかもしれない。

だが、もっと嫌なものだった。

 

命そのものを拒む匂い。

 

足元に、小さな虫の死骸が転がっていた。

乾いている。干からびたというより、内側から黒く焼けたようだった。

 

ラシードが布で口元を覆う。

 

「ここから先は、普通の砂漠ではない」

 

バンは黒い砂を見た。

 

魔石灯を持ったハルファの男が、少し離れた場所に立っている。

その灯りは、黒い砂に近づくほど鈍くなっていた。青白い光が弱り、まるで息苦しそうに瞬いている。

 

「魔石も嫌がってんな」

 

「黒獣の影響だと言われている」

 

「黒獣?」

 

ラシードは低く答えた。

 

「山のような獣だ。二本の角を持ち、歩くだけで砂が腐る。水を毒にし、魔石を砕き、風を黒く染める。サバハの兵は、そう言い残した」

 

「名前は」

 

「ベヒーモス」

 

その名を聞いた瞬間、周囲の空気がほんの少し重くなった気がした。

 

ラドが後ろで息を呑む。

ガラムは黙って腕を組んでいる。

ニロは言葉を失っていた。

 

ベヒーモス。

 

黒い砂漠を生む獣。

交易路を潰し、水を毒にし、酒を途絶えさせ、人の笑いを奪うもの。

 

バンはその名を覚えた。

 

「そいつが酒の道を塞いでんのか」

 

ラシードはバンを見た。

 

「おそらくな」

 

「なら、どかせばいいだろ」

 

あまりにも軽い声だった。

 

ガラムが笑わなかった。

ラドも笑わなかった。

ラシードも、ニロも、ハルファの男も。

 

ただ、黒い風だけが足元を流れた。

 

「分かって言っているのか」

 

ラシードの声は硬い。

 

「あれは、砂賊でも魔物の群れでもない。災厄だ。町が逃げ、商隊が消え、井戸が死ぬ。戦うものではない。避けるものだ」

 

「避けて酒が戻んのか」

 

「……戻らない」

 

「飯は」

 

「戻らない」

 

「水は」

 

「分からない」

 

「なら、つまんねぇ話だ」

 

バンは黒い砂漠を見たまま言った。

 

「酒が飲めねぇ。飯が食えねぇ。ガキが咳してる。つまんねぇ場所だな」

 

誰も答えなかった。

 

バンは一歩踏み出した。

 

黒い砂が、靴の下でわずかに沈む。

 

喉が焼ける。

肺が重い。

皮膚が痛む。

 

だが、バンは止まらなかった。

 

二歩。

三歩。

 

身体の奥が、昔の地獄を思い出す。

 

煉獄。

焼ける空気。

裂ける皮膚。

歪む時間。

生き物が生きることを許さない場所。

 

それに比べれば。

 

「……ま、煉獄ほどじゃねぇな」

 

ラシードが目を見開いた。

 

「れんごく……?」

 

「気にすんな。飯が不味くなる話だ」

 

バンは振り返らずに言った。

 

黒い砂漠の奥で、低い音がした気がした。

 

風か。

地鳴りか。

獣の息か。

 

遠すぎて分からない。

だが確かに、何かがいる。

 

バンはクレシューズを肩から下ろし、手に持った。

 

赤いロングコートが、黒い風に揺れる。

 

その背中を、少し離れた岩陰から二つの影が見ていた。

 

一人は男。軽装の斥候。

もう一人は女。砂色の外套をまとい、口元を布で覆っている。

 

男が小声で言う。

 

「止めるか?」

 

女は、黒い砂漠へ踏み込もうとする赤い背中を見て、首を横に振った。

 

「無駄でしょう。あの目は、止まる者の目ではありません」

 

「恩恵の気配は?」

 

「ありません。背に神聖文字の気配もない。ファミリアの者ではない」

 

「それで黒い砂に入るってか」

 

男は乾いた笑いを漏らした。

 

「報告しても信じてもらえねぇぞ、これ」

 

女は目を細める。

 

「それでも報告します。黒獣の領域へ、神の恩恵を持たぬ赤い旅人が入った、と」

 

「名前は?」

 

「まだ不明です」

 

男は肩をすくめた。

 

「変な奴だな」

 

女は小さく頷いた。

 

「ええ。あまりにも」

 

岩陰の二人を、バンは見ていなかった。

気づいていないわけではない。

ただ、今はどうでもよかった。

 

黒い砂漠の先。

サバハ。

ローラン。

砂葡萄酒。

 

それから、咳き込む子ども。

薄い豆の煮込みを食べて、少し笑った顔。

 

泣いている奴の横で飲む酒は、うまくない。

咳き込む子どもの横で飲む酒も、きっとうまくない。

 

なら、やることは一つだった。

 

ラドが声をかける。

 

「バンさん、本当に行くのですか」

 

「ああ」

 

「一人で?」

 

「大勢で行ったら飯が足りねぇだろ」

 

「そういう問題ではありません」

 

「分かってるよ」

 

バンは少しだけ振り返った。

 

「船と水、見とけ。戻ってくる」

 

ラドは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 

ガラムが低く言う。

 

「戻らなかったら?」

 

「酒代、ツケにしとけ」

 

「馬鹿野郎」

 

ガラムはそう言ったが、止めなかった。

 

ラシードが一歩前に出る。

 

「俺も行く」

 

「足手まといだ」

 

即答だった。

 

ラシードの眉が動く。

 

「俺はサバハの護衛だ。故郷へ向かう道を、他所者一人に任せるわけには」

 

「じゃあ、ここの連中守っとけ」

 

バンはハルファを指した。

 

「黒い砂が広がるなら、ここも危ねぇんだろ。水と飯を守る奴がいる」

 

ラシードは黙った。

 

「俺は様子見てくる。食えるもんがあったら拾ってくる。酒があったら、まあ飲む」

 

「本気で言っているのか」

 

「だいたいな」

 

バンは笑った。

 

ニロが震える声で言う。

 

「赤コートさん……」

 

「何だ」

 

「死なないでください」

 

「まだ飲んでねぇ酒があるからな」

 

それが答えだった。

 

バンは黒い砂漠へ向き直る。

 

足元の砂は黒い。

風は冷たく、喉を焼く。

遠くで何かが低く唸っている。

 

普通なら、引き返す。

神の恩恵を持つ冒険者でさえ、準備を整え、仲間を集め、神に祈り、それでも足を止めるかもしれない。

 

だが、バンは神に祈らない。

背中に恩恵もない。

ステイタスもない。

ファミリアの旗もない。

 

あるのは、赤いロングコート。

手に戻った聖棍クレシューズ。

腹の奥に残る豆と干し肉の熱。

そして、まだ飲んでいない酒への強欲。

 

バンは口の端を上げた。

 

「酒があるんだろ、向こうに」

 

そう言って、強欲の旅人は黒い砂漠へ踏み込んだ。




第7話は第一部の締めでした。
黒い砂漠、ハルファ、咳き込む子ども、監視役の影、そしてベヒーモスの名。
次回から第二部「黒い砂漠の強欲」に入ります。
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