翌朝。
廃教会の地下室には、昨日までよりもわずかに生活の気配が増えていた。
棚の埃は拭き取られ、古い本や道具は端へまとめられている。
ぐらついていた木製の卓も、脚の下へ薄い板を挟んだことで多少は安定していた。
古びたソファベッドの上では、明るい銀色の短髪を乱したバンが横になっている。
赤い長衣を掛け布団代わりにして、片腕を頭の下へ入れていた。
床上から、重い足音が聞こえる。
続いて、石板が持ち上げられる音。
「起きろ」
狭い階段の上から、ザルドの声が落ちてきた。
「起きてるぞ」
「寝たまま答えるな」
「目ぇ開けたら起きてんだろ」
「身体を起こせ」
「朝から細けぇな」
バンは赤い長衣をどけ、ゆっくり上半身を起こした。
階段を下りてきたザルドの肩には、太い布で幾重にも包まれた長い物体が担がれている。
その後ろから、アルフィアも姿を現した。
灰色と翠色の瞳が、地下室の中を冷たく見回す。
「昨日よりはましになったな」
「褒めてんのか?」
「最低限、人を入れられる程度にはなったと言っている」
「十分だろ」
「床にまだ埃が残っている」
「お前、掃除しに来たのか?」
「メーテリアが来る場所だ。汚れたままにするな」
「分かってるって」
アルフィアは棚へ目を向ける。
傷ついた四節棍。
隣には、ガネーシャ・ファミリアの封蝋が残されたアンタレスの結晶。
どちらも、昨夜と同じ場所へ置かれている。
「勝手に封印を解いていないな」
「解いてねぇぞ」
「クレシューズは」
「こっちだ」
バンは立ち上がり、棚から四節棍を取った。
ひびの入った節。
傷ついた接続部。
全体を通っていた力の流れは弱まり、以前のように自在に動くことはできない。
それでも、バンが握ると、クレシューズは僅かに応えるように震えた。
「まだ死んじゃいねぇな」
「武器に死ぬという表現を使うのか」
ザルドが尋ねる。
「こいつは普通の武器じゃねぇからな」
バンはクレシューズを布で包み直す。
アルフィアはアンタレスの結晶を持ち上げ、封蝋と包みの状態を確かめた。
「行くぞ」
「飯は?」
「後だ」
「朝飯くらい食わせろよ」
「寝坊した者に合わせる理由はない」
「寝坊じゃねぇ。朝が早すぎんだよ」
「同じ意味だ」
ザルドは階段へ向かう。
「ゼウスの本拠で何か食えばいい」
「最初からそう言えよ」
「食料を目当てに来るな」
「風呂も借りるぞ」
「帰ってからにしろ」
「帰ったら酒も飲む」
「好きにしろ」
「随分と待遇がよくなったな」
「騒ぐなら置いていく」
「へいへい」
三人は地下室を出た。
◇
ゼウス・ファミリアの本拠では、ゼウスが玄関広間で待っていた。
杖をつきながら、落ち着きなく入口の方を見ている。
「遅いぞ!」
「誰のせいだと思っている」
ザルドが答えた。
「オレじゃねぇぞ」
「お前だ」
「じじいが早く来すぎなんじゃねぇのか?」
「今日は鍛冶神との約束があるのじゃ!大神たる儂が遅れるわけにはいかん!」
「普段からそのくらい真面目に仕事しろ」
「ザルドよ。朝から主神への敬意が足りんぞ」
「敬意を欲しければ、報告書を読め」
「今日は読んだ!」
「昨日の分は」
「……昨日は忙しかったのじゃ」
「酒を飲むのにか」
「親交を深めておった!」
「誰とだ」
「酒とじゃ!」
「それを一人酒と言う」
バンは二人のやり取りを横目に、広間の卓へ置かれたパンを取った。
「これ食っていいか?」
「儂の朝食じゃぞ!」
「まだあんだろ」
「勝手に食うでない!」
言いながらも、ゼウスは取り上げようとはしなかった。
バンがパンをかじっている間に、ザルドは担いできた包みを卓の上へ置いた。
重い音が、玄関広間に響く。
布を解くと、第63話でバンが確認したベヒーモスの角芯が姿を現した。
角の中心部から切り出された、強度と衝撃への耐性が特に高い部分。
黒く硬質な表面には、いまだ巨獣の一部だった頃の圧が残っている。
「持ってきたか」
「ああ。修復に使うため、保管場所から運んだ」
バンは角芯へ手を伸ばし、以前と同じように片手で持ち上げた。
「相変わらず重てぇな」
「見た目以上にな」
「外側とは、硬さも違ったよな」
「ああ。ベヒーモスの角の中でも、最も強度と衝撃への耐性が高い中心部だ」
バンは角芯を軽く叩く。
低く澄んだ音が返ってきた。
「前に見た時も、クレシューズが反応してたな」
「だから修復用として確保した」
ザルドが答える。
「加工できれば、耐久性を補える可能性がある」
「加工できれば、じゃがのう」
ゼウスが顎へ手を当てた。
「昨日、ヘファイストスにはおおよその話をしておいた。異世界から来た男が、向こうの世界で神器と呼ばれる武器を直したがっておるとな」
「異世界まで話したのか?」
バンが尋ねる。
「中途半端に隠して、鍛冶神を相手にできると思うたか?」
「まあ、無理だな」
「ヘファイストスは口の軽い女神ではない。それに、この素材を持ち込む以上、普通の武器では通らん」
「ベヒーモスの角芯だからな」
「アンタレスの結晶については、詳しいことは伝えていない」
アルフィアが言った。
「実物を見せた方が早い」
「正体も分かってねぇしな」
「だからこそ、勝手に触るな」
「分かってるって」
ゼウスは卓の上に置かれたクレシューズへ目を向けた。
「これが、お主の神器か」
「詳しく見るのは初めてだったか?」
「遠征では遠目から見ておったが、こうして間近で見るのは初めてじゃ」
バンは包みを開き、傷ついた四節棍を見せる。
「聖棍クレシューズ。オレの相棒だ」
「四つの節からなる棍か」
「ああ。伸びるし、曲がるし、オレの意思で動く」
「それだけ聞けば便利な武器じゃな」
「使う奴が強けりゃな」
「お主が言うと、ただの自慢にしか聞こえんのう」
「事実だろ」
ゼウスが呆れたように笑う。
「ともあれ、行くぞ。ヘファイストスを待たせれば、儂まで炉へ放り込まれかねん」
「神を炉に入れていいのか?」
「よくないわ!」
◇
ヘファイストス・ファミリアの本拠に近づくにつれ、金属を打つ音が大きくなっていった。
いくつもの工房から、槌の音と熱気が絶え間なく漏れている。
炉から立ち上る煙。
運び込まれる鉱石。
仕上がった剣や槍を抱える団員。
武器を求める冒険者。
その中を、バンたちは進んだ。
入口付近にいた赤褐色の髪の鍛冶師が、ゼウスの姿へ気づいて手を止める。
「ゼウス様?」
「ヘファイストスに、昨日の件で来たと伝えてくれんかのう」
「承知しました。少々お待ちください」
団員は、バンたちの荷物へ一瞬だけ視線を向けた。
だが、中身を尋ねることなく建物の奥へ消える。
「すぐ入れねぇのか」
「鍛冶神は暇ではない」
アルフィアが言った。
「今、槌振ってたら止められねぇってことか?」
「神が鍛造へ集中している時に割り込めば、武器より先にお前が打たれる」
「面白そうだな」
「試すな」
しばらくして、先ほどの団員が戻ってきた。
「主神がお会いになります。皆様、奥の工房へお入りください」
案内された先は、団員たちが使う広い作業場ではなかった。
いくつもの扉を抜け。
さらに熱気の強い通路を進む。
突き当たりにある厚い鉄扉の前で、団員が足を止めた。
「こちらです。主神がお待ちです」
「案内ご苦労じゃった」
ゼウスが扉を開く。
内部は、思っていたよりも静かだった。
中央に大きな作業台。
壁には形も用途も異なる槌や鑿が並び、奥には火を落とした特殊な炉がある。
床には金属粉一つ落ちていない。
作業台の向こうに、赤い髪の女神が立っていた。
右目を眼帯で覆い。
残る片目で、入ってきた四人を順番に見る。
「時間どおりね、ゼウス」
「儂は約束を守る男じゃからのう」
「昨日、約束の時間を三度聞き直したそうね」
「確認は大切じゃ!」
「忘れていただけでしょう」
ザルドが言った。
「余計なことを言うでない!」
ヘファイストスは小さく息を吐き、バンへ視線を向けた。
「あなたがバンね」
「ああ」
「ゼウスから話は聞いているわ。異世界の神器を直したいということね」
「そうだ」
「まず見せなさい。話はそれからよ」
バンは作業台へ近づき、包みを開いた。
傷ついた四節棍を、静かに台の上へ置く。
「これがオレの神器、聖棍クレシューズだ」
ヘファイストスは、すぐには手を触れなかった。
表面。
節。
接続部分。
刻まれた細かな傷。
ひび割れの方向。
目だけで、長い時間をかけて観察する。
「あなたたちの世界では、こうした武器を神器と呼ぶのね」
「ああ。仲間たちも一人に一つずつ持ってた」
「神が作ったものではないと聞いたわ」
「巨人族の名工ダブズが作った」
「ダブズ……」
ヘファイストスはその名を口の中で繰り返した。
「知らない名ね。でも、この仕事を見れば名工だということは分かるわ」
「触らなくても分かんのか?」
「鍛冶師の仕事は、完成品の形だけに残るものではないの。どこへ力を逃がし、どこへ負荷を集め、どう壊れないようにしたか。その癖が武器に残るわ」
ようやく、ヘファイストスが指先でクレシューズの表面へ触れる。
節の境目。
傷の縁。
ひびの奥。
指を滑らせるたび、女神の表情が僅かに険しくなっていった。
「これは……妙ね」
「何がだ?」
「四つの節は別々に見える。でも、構造としては一つの武器なのよ」
「そうだぞ」
「金属をつないだだけではないわ。それぞれの節を通る力が、途中で一度も途切れていない。内部に一本の流れがある」
ヘファイストスは細い鑿を取り出す。
だが、クレシューズへ当てる直前で止めた。
「削らねぇのか?」
「削れば戻せない可能性があるもの」
「少しくらい平気だろ」
「鍛冶師の前で、その言葉を二度と言わないことね」
「怖ぇな」
「当然でしょう」
ヘファイストスは工具を置き、クレシューズを作業台の上でゆっくり回転させる。
「この接続部を作り直すだけなら難しくないわ」
「なら、直せんのか?」
「最後まで聞きなさい」
女神の声が低くなる。
「同じ形へ戻すだけならできる。壊れた箇所を削り、別の素材を足し、鍛え直せばいい。でも、それをすれば内部の流れは確実に断たれる」
「どうなる?」
「クレシューズではなくなるわ」
工房の中が静かになった。
「似た形をした四節棍にはできる。丈夫で、切れ味もよく、使いやすい武器に仕上げることもできるでしょうね」
「でも、こいつじゃねぇ」
「ええ」
ヘファイストスは迷わず答えた。
「作り手が込めた構造も、あなたとの結びつきも、神器としての力も失われる可能性が高い」
「なら、やらなくていい」
バンの答えは早かった。
「迷わないのね」
「形だけ同じでも、こいつじゃねぇなら意味がない」
バンは傷ついたクレシューズを見る。
「それに、ダブズが作ったもんを、分かんねぇからって壊して別物にすんのも気に入らねぇ」
ヘファイストスの口元が、僅かに緩んだ。
「その考えには同意するわ」
「鍛冶神でもか?」
「鍛冶神だからよ」
ヘファイストスは作業台から一歩離れる。
「私には、これを打てないわ」
「鍛造できないという意味か」
ザルドが尋ねる。
「いいえ。私の技術で作り直せないという意味よ。作った者が違えば、武器へ込めた理屈も違う。理解できないものを壊し、自分の技術で上書きすることを修復とは呼ばないわ」
「巨人族の名工への敬意か」
「顔も知らない鍛冶師だけれど、この武器を見れば仕事への執念は分かるもの」
ゼウスが腕を組み、クレシューズを眺めた。
「では、修復は不可能かのう」
「まだそうは言っていないわ」
ヘファイストスの視線が、ザルドの持つ包みへ移る。
「素材を見せなさい」
ザルドがベヒーモスの角芯を作業台へ置く。
重い音が工房へ響いた。
「ベヒーモスの角芯だ」
「随分と立派なものを持ち込んだわね」
「討伐した本人への報酬だ」
ゼウスが言う。
「バンが最も大きな功績を立てた。角の中でも、修復に使えそうな部分を選んだ」
ヘファイストスは手袋をはめ、角芯へ触れた。
指の関節で表面を軽く叩く。
低い音。
続けて、細い金属棒を当て、反響を確かめる。
「極端に硬いわね」
「使えそうか?」
「硬いだけなら、優れた素材とは言えないわ」
ヘファイストスは角芯の断面を見る。
「衝撃を正面から受け止め、内部へ分散している。ベヒーモスの巨大な身体と突進を支えていた部位だけあって、耐久性は異常よ」
「クレシューズへ混ぜれば、頑丈になるか」
「そのまま使えばね。でも、硬さが強すぎる」
「駄目なのか?」
「クレシューズは四節棍でしょう。強度だけを上げれば、節のしなやかさと可動性が死ぬわ。折れにくくはなる。でも、曲がらず、力を逃がせない武器になる」
「丈夫な棒になっちまうってことか」
「そういうことよ」
ヘファイストスは角芯から手を離し、アルフィアへ目を向けた。
「もう一つは?」
アルフィアは包みを作業台へ置いた。
封蝋を確認し。
慎重に布を開く。
内部から、黒紫色と銀色の光を宿した結晶が現れた。
工房の空気が僅かに震える。
ヘファイストスの表情が変わった。
「触らない方がいい」
アルフィアが言う。
「内部に異なる力がある。黒紫色のものは危険だ」
「銀色の方が抑えているのね」
「そう見える」
ヘファイストスは結晶へ顔を近づけるが、指先では触れない。
神の目で、その内部をじっと観察する。
「強いわね」
「使えるか?」
「簡単に聞かないで」
バンへ冷たい視線を向ける。
「こちらは角芯以上に扱いが難しい。二つの性質が内部で押し合っているわ。均衡が崩れれば、何が起きるか分からない」
「爆発すんのか?」
「それだけで済めば幸運でしょうね」
「物騒だな」
「持ってきたのはお前だ」
アルフィアが言った。
「捨てるよりマシだろ」
「それで街を吹き飛ばせば意味がない」
「だからここへ持ってきたんだろ」
ヘファイストスは結晶の周囲へ、いくつかの計測用具を並べる。
「この銀色の力には、黒紫色の力を抑えるだけでなく、均衡を保つ性質があるようね」
「クレシューズへ使えるか?」
「直接混ぜるのは無理よ」
「角芯も結晶も駄目か」
「素材が悪いのではないわ。使い方がないの」
ヘファイストスは、作業台の上に並ぶ三つを見る。
「角芯は強すぎる。結晶は危険すぎる。そしてクレシューズは、外から別の素材を打ち込める構造ではない」
「じゃあ、どうすんだ?」
「まだ調べることがあるわ」
ヘファイストスはバンへ手を伸ばした。
「クレシューズを持ってみなさい」
「こうか?」
バンが傷ついた四節棍を握る。
その瞬間。
弱く沈んでいた内部の力が、僅かに整った。
ひび割れの周囲で途切れかけていた流れが、完全ではないながらも一本につながろうとする。
ヘファイストスの左目が鋭くなる。
「もう一度、作業台へ置いて」
バンが手を離す。
流れが弱まる。
「持って」
再び握る。
力が安定する。
「やはりね」
「何がだ?」
「この武器は、あなたが触れている時の方が状態が安定する。単に使い手へ反応しているだけではないわ」
「神器だからじゃねぇのか?」
「それだけでは説明できない。あなたと武器の間に、深い経路ができている」
ヘファイストスはバンの手とクレシューズを交互に見る。
「長く使ってきたのね」
「ああ」
「何度も?」
「数え切れねぇくらいな」
「壊れた時も、一緒だったのか」
「当たり前だろ」
ヘファイストスは考え込む。
その時、アルフィアが口を開いた。
「その結晶は、バンとクレシューズが揃った時に反応を強めた」
「いつ確認したの?」
「旅の途中だ」
「他にもあるかしら」
「バンが《贈与》を使おうとした時、さらに強く反応した」
ヘファイストスが顔を上げる。
「《贈与》?」
「オレの技だ」
バンが答えた。
「どんな技なの?」
「オレの中にある力を、別の奴へ渡す」
「魔力を?」
「魔力だけじゃねぇ。体力や生命力も渡せる。奪った力を、別の奴へやることもできるぞ」
ゼウスが目を丸くした。
「お主、奪うだけではなかったのか」
「強欲だからって、盗るだけじゃねぇぞ」
「何とも都合のよい強欲じゃのう」
「オレのもんを、誰に渡すかもオレが決める。それだけだ」
ヘファイストスは、バンをまっすぐ見る。
「人間以外に使ったことは?」
「消えかけた精霊みてぇな奴には使った」
「武器には?」
「ねぇな」
「物質へ力を移した経験もないのね」
「ああ」
「結晶から何かを奪うことはできる?」
「やってみねぇと分からん」
「角芯は?」
「同じだ」
「では、確認する必要があるわ」
バンはクレシューズを握ったまま、二つの素材を見る。
「必要なもんだけ奪って、こいつへ渡すってことか?」
「まだ断定はできない」
ヘファイストスは慎重に言った。
「でも、普通の鍛冶ができない理由は、外から無理に素材を足そうとしているからよ」
「外からが駄目なら、内側からってことか」
「そう」
ヘファイストスは角芯を指す。
「角芯から、硬さそのものではなく、衝撃へ耐える性質だけを取り出す」
次に、アンタレスの結晶へ視線を移す。
「結晶からは、黒紫色の危険な力を避け、銀色の安定した性質だけを選び出す」
「そんな器用なことできんのか?」
「私に聞かないで。あなたの技でしょう」
「雑だな」
「説明もせずに未知の技を持ち込んだ男へ言われたくないわ」
アルフィアが、クレシューズを見た。
「取り出した性質を《贈与》で渡す」
「ただ渡すだけでは駄目よ」
ヘファイストスが続ける。
「この武器が受け入れる必要がある。普通の武器なら、与えられた力に耐えられず壊れる可能性が高い。でもクレシューズは、あなたとつながっている」
「オレを通せば、こいつ自身が受け取れるかもしれねぇってことか」
「ええ」
ヘファイストスは、傷ついた四節棍へそっと手を添えた。
「外から作り直すのではない。必要なものをあなたが運び、この武器自身に吸収させる」
「それで傷が塞がるのか?」
「分からないわ」
「またそれか」
「未知の神器、未知の素材、未知の技。確実だと言う鍛冶師がいたら、そいつは詐欺師よ」
ヘファイストスは片目を細めた。
「でも、その技なら可能性があるわ」
バンがクレシューズを握り直す。
「《贈与》で直すのか?」
「正確には違う」
ヘファイストスは首を横へ振る。
「直すのは私じゃない。あなたと、その武器自身よ」
「こいつ自身が直る……」
「私は、必要な性質を選び、危険な反応を抑え、受け入れられる状態を整えるだけ。実際に力を渡すのはあなた。そして、それを自分の一部として取り込むのはクレシューズよ」
工房の中に、炉の残り火が弾ける音が響く。
バンはしばらく何も言わず、傷ついた相棒を見つめていた。
「やってみようぜ」
「今日は駄目よ」
「何でだ?」
「今の話を聞いて、すぐ始められると思ったの?」
ヘファイストスは呆れたように息を吐いた。
「角芯と結晶の性質を、さらに詳しく調べる必要があるわ。《贈与》が物質へ作用するかも、安全な物で試さなければならない」
「安全な物って?」
「普通の鉱石や、壊れても困らない武器よ」
「クレシューズで試せば早ぇだろ」
「失敗したら二度と戻らないと言ったでしょう」
「……それは困るな」
「珍しく理解が早いわね」
「こいつのことだからな」
バンは素直にクレシューズを作業台へ戻した。
「どれくらいかかる?」
「まだ分からない。数日で済むかもしれないし、もっと長くなるかもしれないわ」
「ここに置いてくのか?」
「クレシューズは持ち帰りなさい」
「いいのか?」
「あなたから離す方が不安定になる。角芯と結晶は預かるわ」
アルフィアが口を開く。
「結晶の封印は」
「私の工房に合わせて作り直す。今の封蝋も悪くはないけれど、長期間の検査には向かないわ」
「危険があれば、すぐに呼べ」
「そのつもりよ」
ゼウスが咳払いをする。
「それと、この件は秘密にしてもらいたい」
「分かっているわ」
ヘファイストスはゼウスを見る。
「異世界の神器、神の恩恵を持たない所有者、ベヒーモスの角芯に未知の結晶。公にすれば、鍛冶師も神々も群がるでしょうね」
「バンは見世物ではない」
アルフィアが冷たく言った。
「神器も同じだ」
「心配しなくても、私の許可なく団員へ触らせるつもりはないわ。今日ここで見たことも、必要な者以外には話さない」
「助かるぞ、ヘファイストス」
「その代わり、ゼウス」
「何じゃ?」
「貸し一つよ」
「ぬっ」
「嫌なら、今すぐ持ち帰っても構わないけれど?」
「大神同士、助け合いは大切じゃな!」
「都合のいい時だけ大神を名乗るな」
ザルドが言った。
「主神への敬意!」
「今日はそればかりだな」
ヘファイストスは二人を無視し、バンへ視線を戻した。
「あなたも勝手なことをしないで」
「何もしてねぇぞ」
「これからの話よ。私が許可するまで、結晶や角芯から何かを奪おうとしない。クレシューズへ《贈与》を使わない」
「分かったよ」
「返事が軽いわね」
「みんな同じこと言うな」
「普段の行いでしょう」
バンは包み直したクレシューズを肩へ担ぐ。
作業台には、二つの素材が残された。
ベヒーモスの角芯。
アンタレスの結晶。
一方は、あらゆる衝撃へ耐え抜く強さ。
もう一方は、相反する力を内側で均衡させる性質。
どちらも、この世界でバンが討ち、出会った災害の名残だった。
「じゃあ、任せたぞ」
「任されたわ。でも、勘違いしないことね」
「何をだ?」
「私は修復方法を探すだけ。最後にその武器を救えるかどうかは、あなた次第よ」
バンは肩のクレシューズへ手を添える。
「それで十分だ」
工房の炉へ、ヘファイストスが火を入れる。
赤い炎が立ち上がり。
黒い角芯と銀色を宿す結晶を照らした。
二つの災害が残した素材。
異世界の名工が作った神器。
それらをつなぐ可能性を持つのは、神でも鍛冶師でもない。
神の恩恵を受けていない、一人の強欲な男だった。
第10部の最終話となる今回は、クレシューズと二つの素材をヘファイストスが鑑定し、通常の鍛冶では修復できないことが判明する回でした。