第67話 神器を直す条件
ヘファイストスの工房へ二つの素材を預けてから、三日が経った。
その間、バンは廃教会の地下室で眠り。
酒場を巡り。
屋台の料理を食べ。
時折ゼウス・ファミリアの本拠へ風呂を借りに行っては、ついでに食事まで済ませていた。
「風呂だけ借りると言っていなかったか」
「腹減ったんだから仕方ねぇだろ」
「食う前に一言聞け」
「聞いたら断んのか?」
「量による」
「なら聞かなくて正解だったな」
そんなやり取りをザルドと交わした翌朝。
廃教会の地上階へ、アルフィアが姿を現した。
バンは崩れかけた祭壇の前で、屋台から買ってきた串焼きを食べていた。
「何をしている」
「朝飯」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「祭壇の前で食べるな」
「触ってねぇぞ」
「そういう問題ではない」
アルフィアは眉間へ僅かに皺を寄せる。
バンは残っていた肉を一口で食べ、串を紙へ包んだ。
「で、何だ?」
「ヘファイストスから連絡が来た」
「もう調べ終わったのか?」
「完全には終わっていない。だが、次の段階へ進めるそうだ」
バンの目が僅かに細くなる。
「クレシューズ持ってくればいいんだな」
「ああ」
「ザルドは?」
「ゼウス・ファミリアの本拠で待っている」
「じじいも来んのか?」
「来ると言っていた」
「暇なんだな」
「本人の前で言え」
「言うぞ」
「知っている」
バンは地下室へ下り、棚から布に包まれたクレシューズを取った。
損傷した四節棍は、以前より状態が悪化したわけではない。
だが、良くなってもいなかった。
握れば僅かに力が整う。
手を離せば、再び弱く沈む。
「もう少し待ってろよ」
誰に聞かせるでもなく呟き、バンはクレシューズを肩へ担いだ。
◇
ヘファイストスの奥工房では、すでにザルドとゼウスが待っていた。
作業台の上には、ベヒーモスの角芯。
その隣には、以前とは異なる金属製の箱が置かれている。
箱の表面には細かな溝が刻まれ、四隅には魔石を利用した器具が取りつけられていた。
「遅いぞ、バン!」
「時間ぴったりだろ」
「大神を待たせるものではない!」
「オレが来る前に来てただけじゃねぇか」
「それを待たせたと言うのじゃ!」
「朝から元気だな、じじい」
「お主は相変わらず礼儀がないのう!」
「静かにしなさい」
ヘファイストスの一言で、二人の会話が止まった。
赤髪の女神は、右目の眼帯へ触れることもなく作業台の前へ立っている。
「ここは酒場ではないわ。騒ぐなら外へ出なさい」
「こいつに言ってくれ」
「両方よ」
「儂もか?」
「特にあなた」
「なぜじゃ!」
「声が一番大きいからよ」
ゼウスが不満そうに杖を握る。
ザルドは気にすることなく壁際へ立ち、アルフィアもその隣へ移った。
バンは作業台へ近づく。
「で、何が分かった?」
「まず、クレシューズを置きなさい」
バンは包みを開き、傷ついた四節棍を台の中央へ置いた。
ヘファイストスはクレシューズへ触れず、その隣の角芯を指す。
「ベヒーモスの角芯については、おおよその性質を確認できたわ」
「前に言ってた、衝撃に耐えるってやつか」
「正確には、衝撃を正面から受け止めるだけではない。内部へ分散し、局所へ負荷が集中しないようにする性質よ」
「丈夫なのとは違うのか?」
「違うわ」
ヘファイストスは机の端に置かれていた二本の細い金属棒を手に取った。
一方は太く、硬そうな黒い棒。
もう一方は、それより細く、僅かにしなる銀灰色の棒だった。
「こちらは硬さだけを追求した金属」
黒い棒を小さな台へ固定し、槌を振り下ろす。
一度目。
棒は動かない。
二度目。
表面へ僅かな傷が入る。
三度目。
硬い音とともに、棒が中央から折れた。
「硬ぇのに折れんのか」
「硬いからこそよ。力を逃がせないものは、限界を超えた瞬間に壊れる」
次に銀灰色の棒を同じ場所へ固定する。
槌が振り下ろされる。
棒は大きくしなり。
衝撃が抜けると、元の形へ戻った。
「角芯にあるのは、こちらへ近い性質よ。ただし、比べものにならないほど強い」
「クレシューズには向いてんじゃねぇのか?」
「必要なのは確かね。でも、角芯そのものを削って打ち込めば、性質が強すぎる」
「全部が硬くなりすぎる」
ザルドが言った。
「そうよ。節は耐えても、接続部が動かなくなる。四節棍ではなく、一本の歪な棍になるでしょうね」
「じゃあ、前と同じで直接は使えねぇと」
「ええ」
ヘファイストスは、金属製の箱へ目を向けた。
「次は結晶よ」
箱の上部へ手を置き、留め具を外す。
蓋が開くと、内側から銀色の薄い光が漏れた。
アンタレスの結晶は、透明な器具の中央へ固定されている。
黒紫色の力。
それを包む銀色の力。
二つは以前より静かに見えた。
「大人しくなってんじゃねぇか」
「大人しく見えるように抑えているだけよ」
「何で封印を変えた」
アルフィアが尋ねる。
「以前の封蝋は、外へ力が漏れるのを防ぐものだった。でも、中の状態を調べるには向いていないの」
ヘファイストスは箱の四隅にある魔石器具を順番に指した。
「これは内部の揺らぎを読み取りながら、力が一定以上へ膨らめば押さえ込むためのものよ」
「壊れた場合は」
「工房の結界と炉を使って封じる。少なくとも、街へ影響は出さないわ」
「少なくとも?」
バンが聞き返す。
「工房は吹き飛ぶかもしれないわね」
「さらっと怖ぇこと言うなよ」
「だから勝手に触るなと言っているの」
アルフィアの声が冷たくなる。
「聞いたな、馬鹿」
「触ってねぇだろ」
「顔が触ろうとしていた」
「顔で触れんのか?」
「お前ならやりかねない」
「無茶言うな」
ヘファイストスは二人を無視して話を続ける。
「結晶の銀色の力は、単に黒紫色の力を押さえているわけではない」
「他に何してんだ?」
「相反する二つの性質を、一つの器の中で均衡させている」
「均衡?」
「どちらか一方を完全に消しているのではない。互いに反発する力を、崩れない位置へ留め続けているのよ」
「なら、その銀色をクレシューズへ入れれば安定するんじゃねぇか?」
「そのまま抜けば、結晶の均衡が崩れるわ」
「黒紫色が暴れる」
アルフィアが言った。
「ええ。そして銀色の力だけをクレシューズへ移そうとしても、受け入れる側が耐えられなければ意味がない」
「結局、二つとも直接は使えねぇ」
「そういうことよ」
バンは作業台に置かれたクレシューズへ目を落とす。
「じゃあ、何のために呼んだ?」
「条件を伝えるためよ」
ヘファイストスは、バンをまっすぐ見た。
「この修復には三つの条件があるわ」
工房の空気が僅かに変わった。
ゼウスも口を閉じ。
ザルドとアルフィアが、女神へ視線を向ける。
「一つ目。素材を直接クレシューズへ混ぜないこと」
「それは今聞いた」
「二つ目。角芯と結晶から、必要な性質だけを取り出すこと」
「《強奪》でか」
「できるかどうかは、これから確かめるわ」
「できると思って呼んだんじゃねぇのか?」
「可能性があるから呼んだの。成功すると断言した覚えはないわ」
「相変わらず慎重だな」
「鍛冶師が慎重でなければ、使い手が死ぬのよ」
ヘファイストスは三本目の指を立てる。
「そして三つ目」
視線が、傷ついたクレシューズへ落ちる。
「取り出した性質を、クレシューズ自身が受け入れること」
「オレが《贈与》で渡せば終わりじゃねぇのか?」
「渡したものを、相手が取り込めるとは限らないわ」
「人間なら受け取るぞ」
「これは人間ではない」
「神器だ」
「だからこそよ」
ヘファイストスはクレシューズの四つの節を順番に指でなぞる。
「普通の武器へ無理に力を押し込めば、内部から壊れる。クレシューズがあなたとの経路を使って、必要なものを自分の一部として取り込めなければ修復は成立しない」
「受け取るかどうかは、こいつ次第ってことか」
「ええ」
「拒まれたら?」
「そこで終わりよ」
答えは簡潔だった。
バンはしばらく何も言わず、クレシューズを見つめる。
「拒むわけねぇだろ」
「根拠は?」
「オレの相棒だからな」
「理屈になっていないわ」
「神器ってのは、そんなもんだろ」
ヘファイストスは片目を細めた。
「そういう答え、嫌いではないわ」
「褒めたか?」
「調子に乗らないで」
ゼウスが顎へ手を当てる。
「性質だけを取り出すとなると、素材の方はどうなるのじゃ?」
「それも試さなければ分からないわ」
ヘファイストスは角芯へ視線を向ける。
「ただ、物質が形を保っているのは、そこにある性質が互いを支えているから。根幹となるものを完全に奪えば、抜き取られた部分は形を維持できなくなる可能性が高い」
「崩れるってことか」
「ええ。色を失い、脆くなり、最後には灰になるかもしれない」
バンは角芯を軽く叩いた。
「全部なくなんのか?」
「必要な範囲だけを対象にできれば、角芯全体を失うことはないわ」
「結晶は?」
「こちらは難しいわね」
ヘファイストスの表情が険しくなる。
「結晶の均衡は全体で成り立っている。必要な性質を抜き取れば、残された部分だけでは形を保てない可能性がある」
「全部灰になるかもしれない」
アルフィアが言った。
「その可能性が高いわ」
「危険な力はどうする」
「銀色の性質を取り出す過程で、黒紫色の力を無害化する必要がある。失敗すれば、灰になる前に暴走する」
「やっぱ物騒じゃねぇか」
「今さら何を言っている」
アルフィアがバンを睨む。
「お前が持ち帰ったものだ」
「だから安全に使おうとしてんだろ」
「安全という言葉を、お前の口から聞くとは思わなかった」
「オレだって考える時は考えるぞ」
「いつだ」
「今」
「遅い」
ザルドが腕を組んだまま尋ねる。
「試験は、何を使う」
「まず《贈与》が物質へ作用するか確かめるわ」
ヘファイストスは作業台の下から、小さな木箱を取り出した。
中には、
欠けた鉄の短剣。
傷の入った銅板。
小さな鉱石。
使い古された調理用のナイフ。
いくつかの壊れても問題のない品が並んでいる。
「ずいぶん雑多だな」
「性質と状態が違うものを用意したのよ」
「何すんだ?」
「あなたの力を、これらへ渡してもらう」
「何の力を?」
「最初は少量の体力か、身体の強さに近いものね」
「鉄に体力渡すのか?」
「言い方は変だけれど、今の段階ではそれしかないわ」
「壊れた短剣が元気になんのか?」
「ならないでしょうね」
「じゃあ意味ねぇだろ」
「力が通ったかどうかを確認するの。修復はその後よ」
ヘファイストスは欠けた短剣を作業台へ置いた。
「今日は、クレシューズには使わない」
「何でだ?」
「失敗した時に失うものが大きすぎるから」
「こいつなら受け取るぞ」
「それを確認するための試験よ」
「遠回りだな」
「嫌なら帰りなさい」
バンは欠けた短剣を見る。
次に、傷ついたクレシューズへ目を向ける。
「……分かったよ」
「珍しく素直ね」
「クレシューズ壊されたら困るからな」
「壊すのは私ではなく、あなたの失敗だけれど」
「細けぇな」
「事実よ」
ヘファイストスは短剣をバンの前へ滑らせる。
「まず、触れてみなさい」
「これに《贈与》すればいいのか?」
「待ちなさい。まだ説明が終わっていないわ」
「注文多いな」
「未知の力を扱うのだから当然でしょう」
アルフィアが壁際から言う。
「話を聞け、馬鹿」
「聞いてるぞ」
「聞いていない顔をしている」
「顔は関係ねぇだろ」
「ある」
「ねぇよ」
「始める前から騒がないで」
ヘファイストスの低い声に、二人が同時に黙る。
ゼウスが小さく笑った。
「何じゃ。ヘファイストスには二人とも素直ではないか」
「じじいも黙ってろ」
「福――」
「悪かった」
アルフィアが一音を口にした瞬間、ゼウスはバンの背後へ隠れた。
「何でオレを盾にすんだよ」
「お主なら耐えるじゃろ!」
「発動したら工房ごと吹っ飛ぶぞ」
「アルフィア、ここで魔法は使わないで」
「使うつもりはない」
「本当かのう?」
「次に喋れば使う」
ゼウスは口を閉じた。
ヘファイストスは深く息を吐き、欠けた短剣を指先で示す。
「いい? 今日は、物へ力を渡せるかを確かめるだけ」
「分かった」
「少量よ。壊すほど押し込まない」
「ああ」
「何か異常を感じたら、すぐに止める」
「へいへい」
「返事は一度」
「分かったよ」
バンは短剣の柄を握る。
冷たい鉄。
意思も。
命も。
呼吸もない。
これまで《贈与》を使った相手とは、何もかもが違っていた。
「始めなさい」
ヘファイストスの声が響く。
バンは目を細める。
自分の中にある力を、細く。
ほんの僅かだけ切り分ける。
そして、握った短剣へ流そうとした。
「贈与《ギフト》」
力が、指先から動く。
だが。
短剣へ触れた瞬間、その流れは行き場を失った。
「……硬ぇな」
「鉄だからではないわ」
ヘファイストスが短剣を観察する。
「受け取るための道がないのよ」
バンはもう一度、短剣へ力を押し込もうとする。
だが、鉄は何も返さない。
拒絶すらしない。
ただ、そこにあるだけだった。
「渡したぞ」
「何も変わっていないわ」
「受け取り方が悪ぃんじゃねぇか?」
「鉄に文句を言わないで」
バンは短剣を作業台へ戻す。
「じゃあ失敗か」
「最初から成功するとは思っていないわ」
「オレは思ってたぞ」
「だから慎重さが足りないのよ」
ヘファイストスは次に、使い古された調理用ナイフを取り出した。
「次はこれ」
「何が違うんだ?」
「長く一人の職人が使っていた道具よ」
「それだけか?」
「道具は使われ方によって癖を持つ。持ち主の手へ馴染み、力の流れを覚える」
バンはナイフを受け取る。
鉄の短剣とは違う。
柄には何年も握られた跡があり。
刃には何度も研がれた痕跡があった。
「クレシューズほどではない。でも、ただの鉄よりは人とのつながりがある」
「これなら受け取るかもしれねぇってことか」
「試しなさい」
バンは古いナイフを握る。
今度は力を押し込まず。
刃の中に残った、持ち主の手の癖を探る。
何度も食材を切り。
骨へ当たり。
研がれ。
再び使われた道具。
ほんの僅か。
力を通せそうな細い隙間があった。
「贈与《ギフト》」
バンの指先から流れた力が、今度は止まらなかった。
ごく少量。
ほんの一瞬。
古びた刃が、僅かに震えた。
ヘファイストスの目が鋭くなる。
「止めなさい」
バンが手を離す。
作業台の上へ置かれたナイフは、先ほどとほとんど変わっていない。
だが。
刃の中央にあった細いひびが、僅かに短くなっていた。
「通ったな」
「ええ」
ヘファイストスは慎重にナイフを持ち上げる。
「完全ではない。でも、力は内部へ届いた」
「なら、クレシューズにも使える」
「焦らないで」
「今ので分かっただろ」
「分かったのは、つながりのある道具なら力が通る可能性があるということだけ」
ヘファイストスは、傷ついたクレシューズへ視線を移す。
「でも――」
その声には、先ほどまでとは違う確信が僅かに混じっていた。
「あなたとクレシューズほど深く結びついた武器なら、受け取れる可能性は高いわ」
バンは口元を上げる。
「言っただろ。オレの相棒だって」
「まだ入口へ立っただけよ」
「入口まで来りゃ、あとは進むだけだろ」
「途中で落ちる可能性もある」
「そん時は這い上がる」
「本当に、あなたは――」
ヘファイストスは呆れたように息を吐いた。
だが、その口元には僅かな笑みがあった。
作業台の上。
傷ついた神器。
二つの素材。
そして、初めて物へ届いた《贈与》。
修復への道は、まだ細く。
危険で。
成功の保証もない。
それでも。
閉ざされていた道に、最初の隙間が生まれていた。
第11部の始まりとなる今回は、クレシューズを修復するための三つの条件と、《贈与》が物質へ届くのかを確かめる最初の実験を描きました。
普通の鉄には通らなかった力が、長く人に使われた道具には僅かに届く。クレシューズとバンの結びつきが、修復の鍵になっていきます。