最初の実験から二日後。
バンは再び、ヘファイストスの奥工房へ呼び出されていた。
作業台の上には、前回よりも多くの道具が並んでいる。
折れた針。
欠けた小刀。
ひびの入った木製の柄。
使い込まれた槌。
錆びた鎖。
形も、素材も、使われてきた年月も異なる品々だった。
「今日は廃品回収か?」
「実験よ」
ヘファイストスは、並べた道具を一つずつ確認していた。
「昨日のナイフでは、《贈与》が物質へ届くことまでは分かった。でも、なぜ届いたのかはまだ分からないわ」
「長く使われてたからじゃねぇのか?」
「その可能性は高い。でも、それだけとは限らないでしょう」
ヘファイストスが、使い込まれた槌を持ち上げる。
柄には何年も握られた跡が残り、鉄の頭部は何度も打撃を重ねたことで僅かに変形している。
「これは、うちの鍛冶師が十五年使った槌よ」
「まだ使えんじゃねぇか?」
「本人が新しい槌へ替えたの。捨てるつもりはなかったそうだけれど、事情を説明して借りてきたわ」
「壊してもいいのか?」
「壊すなと言われたわ」
「実験に出すなよ」
「あなたが壊さなければいいのよ」
バンは槌を受け取った。
重さは普通。
だが、柄を握った瞬間、何度も同じ場所を掴まれてきたことが分かる。
持ち主の指の形に合わせ、木が僅かに削れていた。
「これに何を渡す?」
「前と同じ。ごく少量の力よ」
「また元気な槌にすんのか?」
「物へ元気という表現を使わないで」
「じゃあ、やる気」
「同じよ」
壁際で見ていたアルフィアが、冷たく口を挟む。
「黙ってやれ」
「お前、今日は機嫌悪ぃな」
「朝からお前の声を聞いた」
「いつもと同じだろ」
「だから悪い」
ザルドは二人を気にせず、作業台の横に立っている。
ゼウスは来ていなかった。
昨日、工房へ顔を出そうとしたところ、ヘファイストスから「検査の邪魔になる」と追い返されたらしい。
バンは槌を両手で持ち直す。
前回の調理用ナイフへ触れた時と同じように、内部へ続く道を探った。
鉄の頭部。
木製の柄。
楔。
三つの部品が長い年月をかけ、一つの道具として使われ続けている。
力を通せそうな感覚はある。
ただし、クレシューズのように明確なものではない。
「贈与《ギフト》」
バンの指先から、力が流れる。
槌の柄が僅かに震えた。
鉄の頭部まで力は届いたが、そこで広がらずに止まる。
「止めて」
ヘファイストスの声に従い、バンは《贈与》を解いた。
「どうだ?」
「通っているわ。昨日のナイフと同じね」
ヘファイストスは槌を受け取り、表面と接合部を確認する。
緩みかけていた楔が、ほんの僅かに締まっている。
しかし、鉄へ刻まれた傷や、柄の摩耗は変わっていなかった。
「直ってねぇな」
「当然よ」
「昨日はナイフのひびが短くなったぞ」
「あれも、完全に修復されたわけではないわ。ひびの周囲へ力が回り、一時的に締まっただけ」
「時間が経てば戻んのか?」
「おそらくね」
ヘファイストスは槌を作業台へ戻す。
「あなたの《贈与》は、物質を直接修理する技ではない」
「じゃあ、何してんだ?」
「足りない力を渡しているだけよ」
「同じじゃねぇのか?」
「違うわ」
ヘファイストスは、ひびの入った木製の柄を手に取る。
「折れかけた木へ力を与えても、木自身に傷を塞ぐ仕組みがなければ元には戻らない」
「人間は勝手に傷が塞がるから、体力を渡せば治りやすい」
ザルドが言った。
「そういうことよ」
ヘファイストスが頷く。
「生命には、本来の状態へ戻ろうとする働きがある。傷が塞がるのも、疲労が回復するのも、その力があるから」
「鉄にはねぇ」
「普通はね」
ヘファイストスは、作業台の端へ置かれたクレシューズを見る。
「でも、あれにはあるかもしれない」
バンの視線も、傷ついた四節棍へ向かう。
握っていないクレシューズは、静かに横たわっていた。
「それを確かめるためにも、まず《贈与》がどういう物へ通りやすいかを調べる必要があるわ」
「まだやんのか?」
「始めたばかりでしょう」
次にバンへ渡されたのは、錆びた鎖だった。
長い間、倉庫で眠っていたらしく、ところどころ赤茶色に変色している。
「これは?」
「十年以上使われていない鎖よ。昔は荷車の固定に使っていたそうだけれど、今は誰も触れていない」
「長く使われてたけど、長く放置されてたってことか」
「ええ。試しなさい」
バンは鎖を握った。
長く使われた痕跡はある。
だが、先ほどの槌よりも、内部へ続く感覚が薄い。
かつては人の手に馴染んでいた。
しかし、長い放置によって、その痕跡が遠くなっている。
「贈与《ギフト》」
力を流す。
鎖の表面が一瞬だけ震えた。
だが、ほとんど内部へ入らない。
「止めていいわ」
「さっきより通らねぇな」
「長く使われていたことだけが条件ではないみたいね」
「今も使われてるかどうかか?」
「それもあるでしょう。でも、もう一つ」
ヘファイストスはバンを見た。
「あなた自身とのつながりよ」
「オレ?」
「昨日の調理用ナイフも、今の槌も、持ち主とのつながりを残していた。けれど、それは他人とのつながりでしょう」
「ああ」
「それでも、あなたは残された道を借りて力を通すことができた」
「クレシューズなら、オレ自身の道がある」
「ええ。でも、どれほど違うのかを確認したいわ」
ヘファイストスは作業台の下から、新しい包みを取り出した。
中から現れたのは、何の変哲もない調理用の小刀だった。
新品ではない。
だが、先ほどまでの道具と比べれば、ほとんど傷もない。
「これを使いなさい」
「何切るんだ?」
「何でもいいわ」
「実験は?」
「まず、あなたの道具にするのよ」
バンは小刀を持ち上げた。
刃の重さ。
柄の太さ。
悪くはない。
ただし、手へ完全に馴染んでいるわけでもなかった。
「どれくらい使えばいい?」
「分からないわ」
「今日中に終わんねぇのか?」
「つながりが一日で生まれると思う?」
「料理なら一回使えば癖は分かるぞ」
「なら、証明してみなさい」
バンは小刀を指先で回した。
「食材あんのか?」
「なぜ工房に食材があると思うの」
「昼飯食うだろ」
「食堂へ行くわ」
「じゃあ、買ってくる」
「今から?」
「使えって言ったのお前だぞ」
バンは小刀を腰へ差し、そのまま工房の出口へ向かう。
「待ちなさい」
「何だ?」
「工房の中で料理はしないで」
「分かってるって」
「本当に分かっている?」
「信用ねぇな」
「昨日、炉で肉を焼けるか聞いた男をどう信用しろというの」
「火力は十分だろ」
「出ていきなさい」
ヘファイストスは片手で額を押さえた。
◇
その日の昼。
ヘファイストス・ファミリア本拠の中庭には、普段とは違う匂いが漂っていた。
焼いた肉。
香草。
炒めた根菜。
鍛冶師たちが食堂へ向かう途中で足を止め、中庭を覗き込んでいく。
石の台を借りたバンは、買ってきた食材を次々と切っていた。
渡された小刀で肉の筋を外し。
根菜の皮を薄く剥き。
香草を細かく刻む。
最初は僅かに手へ合わなかった柄も、使い続けるうちに握る位置が定まっていった。
何度も刃を返す。
力の入れ方。
抜き方。
切る角度。
小刀が、少しずつバンの動きへ馴染んでいく。
「何を作っている」
背後からザルドが尋ねた。
「肉と豆の煮込み」
「実験ではなかったのか」
「実験してんだろ」
「鍋まで買ってきているが」
「煮込みには鍋がいるだろ」
「食べたいだけではないのか」
「食いながら実験できんなら得だろ」
ザルドは反論しなかった。
鍋の中を一度覗き。
「塩が足りん」
「まだ入れてねぇよ」
「香草はもう少し遅く入れろ」
「分かってる」
「肉の焼き目が浅い」
「煮込む前だぞ」
「だからこそだ」
「うるせぇな。オレの料理だ」
「失敗させるわけにはいかん」
「何の実験だよ、これ」
少し離れた場所で見ていたアルフィアが、露骨に顔をしかめた。
「騒音が二人に増えた」
「なら、お前も味見するか?」
「なぜそうなる」
「口塞がるだろ」
「お前を消せば静かになる」
アルフィアが指を僅かに上げる。
「福――」
「料理中にやめろ!」
バンが即座に身を引いた。
「鍋がひっくり返るだろ!」
「心配するのは自分ではなく鍋か」
「煮込み始めたばっかなんだぞ」
「やはり馬鹿だな」
アルフィアは指を下ろした。
工房の入口から様子を見ていたヘファイストスが、深いため息をつく。
「私、物へ力を渡す実験を頼んだはずよね?」
「やってるぞ」
バンは小刀で最後の野菜を切る。
「こいつ、もう大体分かった」
「半日も使っていないでしょう」
「時間じゃねぇ。どう使ったかだろ」
バンは小刀の刃を布で拭き、ヘファイストスへ差し出した。
女神は受け取らず、作業台として使っていた石の上へ置かせる。
「それで、《贈与》が通ると思うの?」
「さっきよりはな」
「根拠は?」
「手に馴染んだ」
「また感覚だけね」
「鍛冶師だって、最後は手の感覚だろ」
「否定はしないわ」
ヘファイストスは小刀の状態を確認する。
料理へ使っただけなので、大きな傷はない。
ただし、刃先には硬い骨へ当たったことで、小さな欠けが生まれていた。
「ちょうどいいわ。この欠けがどうなるか確認しましょう」
「直れば成功か?」
「いいえ。まず力がどこまで届くかよ」
バンは小刀を握る。
朝に受け取った時とは、感覚が違った。
使う前は、ただの道具だった。
今は、どの位置を握れば最も刃が走るか分かる。
どこへ力を入れれば、肉を潰さず切れるかも。
刃先の小さな欠けさえ、指先の感覚へ返ってきた。
「いくぞ」
「少量よ」
「分かってる」
バンは自分の力を細く切り分ける。
「贈与《ギフト》」
力が柄へ流れる。
今度は止まらない。
朝の槌よりも。
昨日の調理用ナイフよりも。
明確に、刃の先まで届いた。
小刀が小さく震える。
欠けた部分へ力が集まり。
刃先が僅かに軋んだ。
「止めなさい」
ヘファイストスの声に、バンはすぐ《贈与》を解いた。
小刀を石の上へ置く。
全員の視線が、刃先へ集まった。
「欠けが」
ザルドが呟く。
「少し戻ってんな」
完全に塞がったわけではない。
だが、欠けの幅が明らかに狭くなっていた。
まるで金属そのものが、失った形を思い出そうとしたかのように。
「成功だろ?」
「力が通ったことはね」
ヘファイストスは小刀を手に取り、刃先を光へかざす。
「でも、この小刀は自分で直ったわけではない」
「直ってるぞ」
「あなたが、使っていた時の形へ無理に押し戻しただけよ」
「何が違う?」
「手を離した後も、その形を保てるかどうか」
ヘファイストスは小刀を作業台へ置いた。
「しばらく待ちましょう」
「冷めるぞ」
「何が?」
「煮込み」
「そっちではないわ!」
バンは鍋へ向かい、蓋を開けた。
立ち上る湯気。
ザルドも隣へ立つ。
「塩を入れろ」
「今やろうとしてた」
「香草もだ」
「分かってるって」
アルフィアは二人から距離を取る。
「私は食べない」
「メーテリアに持って帰るか?」
バンの言葉に、アルフィアの足が止まった。
「……毒見はする」
「素直に食いたいって言えよ」
「福――」
「悪かった!」
中庭に、ヘファイストスのため息と、鍛冶師たちの笑い声が広がった。
◇
食事を終えた後。
四人は再び奥工房へ戻った。
作業台へ置かれていた小刀を、ヘファイストスが確認する。
刃先の欠けは。
完全ではないが、先ほどより僅かに広がっていた。
「戻ってるな」
「ええ。あなたの力が抜けるにつれて、元の傷へ戻ろうとしている」
「じゃあ失敗か」
「いいえ。大きな前進よ」
ヘファイストスは小刀を置き、傷ついたクレシューズへ目を向ける。
「この小刀には、元の形へ戻り続ける力がない。だから、あなたが押さえている間しか形を保てなかった」
「クレシューズにはあるかもしれねぇ」
「そうよ」
ヘファイストスは四つの節を見つめる。
「あなたの《贈与》は、物を直す力ではない。物が自分で戻ろうとするために必要な力を渡すもの」
「こいつが戻ろうとしてんなら」
「力を与えれば、自分で傷を塞げる可能性がある」
バンはクレシューズを手に取った。
握った瞬間。
弱かった内部の流れが、僅かに整う。
「やっぱ、相棒次第ってことか」
「そして、あなた次第よ」
「面白くなってきたな」
「まだ喜ぶ段階ではないわ」
「今日は一歩進んだだろ」
「一歩だけね」
「一歩進みゃ十分だ」
バンは傷ついた四節棍を肩へ乗せる。
「明日は何すんだ?」
「与えるだけでは足りないでしょう」
ヘファイストスの視線が、作業台の奥へ置かれたベヒーモスの角芯へ向かう。
「次は、奪う実験よ」
黒く硬い角芯。
巨獣の突進と巨体を支え続けた素材。
そこから必要な性質だけを選び取れるか。
それが、次の条件だった。
今回は、バン自身が半日使った小刀を通して、《贈与》が物質へ届く条件を確かめる回でした。
《贈与》そのものが武器を修理するのではなく、武器が本来の形へ戻ろうとするための力を渡す。この違いが、クレシューズ再生の重要な鍵になります。
特に、実験のために料理を始めたはずが、途中からバンとザルドの料理談議になっていく場面がお気に入りです。