強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第69話 奪うべきもの

翌日。

 

ヘファイストスの奥工房には、前回までよりも重い空気が流れていた。

 

作業台の中央。

 

厚い布の上へ置かれているのは、ベヒーモスの角芯。

 

オラリオへ戻った日に、バンが一度その重みを確かめた、あの素材だった。

 

あの時、傷ついたクレシューズも、微かに反応を示している。

 

黒く硬質な表面。

 

角の中心部から切り出されたその一片には、巨獣が生きていた頃の圧が、いまだに残っている。

 

「今日は、これから何かを奪うんだったな」

 

バンは角芯を指先で軽く叩いた。

 

低く澄んだ音が返ってくる。

 

「ええ」

 

ヘファイストスは作業台の反対側に立っていた。

 

赤い髪を後ろへ流し。

 

眼帯に覆われていない左目で、角芯とバンを交互に見る。

 

「ただし、いきなり本体から奪うことは許さないわ」

 

「また試験か?」

 

「当然でしょう」

 

「昨日も同じこと言ってたな」

 

「今日も同じよ」

 

ザルドは作業台の横へ、別の小さな箱を置いた。

 

中には、角芯の表面を調べる際に生じた、ごく小さな欠片が入っている。

 

爪の先ほどの大きさ。

 

それでも、並の鉄片よりはるかに重く、硬い。

 

「本体から削ったのか?」

 

バンが尋ねる。

 

「表面を確認するために、ヘファイストスが最小限だけ切り離した」

 

「勝手に削ったのかよ」

 

「必要な検査よ」

 

ヘファイストスが言う。

 

「それに、本体へ影響が出るほどではないわ」

 

「ならいいけどな」

 

「随分と大切にするのだな」

 

ザルドが低く言った。

 

「クレシューズに使えるかもしれねぇんだろ」

 

「だからか」

 

「他に何があんだよ」

 

「ベヒーモスを討った証でもある」

 

「証なんて、別にいらねぇよ」

 

バンは小さく肩をすくめる。

 

「倒したことは、オレが覚えてる」

 

ザルドはそれ以上何も言わなかった。

 

壁際では、アルフィアが腕を組んでいる。

 

今日はゼウスの姿はない。

 

前日に工房へ来ようとしたらしいが、ヘファイストスから、

 

「今日は危険な実験をするから来ないで」

 

と明確に断られたという。

 

「じじい、相当へこんでたぞ」

 

バンが言う。

 

「知らないわ」

 

ヘファイストスは素っ気なく返した。

 

「大神たる儂が邪魔者扱いされた、とか騒いでた」

 

「実際、邪魔になるもの」

 

「言い切ったな」

 

「作業中に炉へ酒を入れようとする神を、どう扱えというの」

 

「酒入れたら火ぃ強くなんじゃねぇのか?」

 

「あなたも外へ出る?」

 

「冗談だよ」

 

ヘファイストスは深く息を吐いた。

 

「始める前に確認するわ」

 

彼女は小さな角芯の欠片を、金属製の台へ固定する。

 

「今日の目的は、角芯から必要な性質だけを取り出せるか確かめること」

 

「必要な性質って、衝撃に耐えるやつだろ」

 

「もっと正確に言いなさい」

 

「面倒だな」

 

「面倒でも必要よ」

 

ヘファイストスは、昨日使った二本の金属棒を作業台へ並べた。

 

硬さだけを追求した黒い棒。

 

しなり、衝撃を逃がす銀灰色の棒。

 

「角芯から欲しいのは、単純な硬さではない」

 

「衝撃を受けて、内部へ逃がして、壊れねぇ性質」

 

「そう」

 

「言えんじゃねぇか」

 

「最初から言いなさい」

 

アルフィアが冷たく口を挟む。

 

「話を聞け、馬鹿」

 

「聞いてるぞ」

 

「聞いている者は同じ質問を繰り返さない」

 

「確認だよ」

 

「言い訳だ」

 

「始める前から騒がないで」

 

ヘファイストスの声に、二人が黙る。

 

女神は続けた。

 

「《強奪》は、相手の力や物を奪う技なのね」

 

「ああ」

 

「対象を選べる?」

 

「ある程度はな」

 

「ある程度では困るわ」

 

「やってみねぇと分からん」

 

「だから試すのよ」

 

バンは小さな角芯の欠片へ手を伸ばした。

 

「触れなくても奪えるぞ」

 

「今日は触れて」

 

「何でだ?」

 

「力の流れを観察したいからよ。距離があると、どこから何を抜いたのか分かりにくい」

 

「注文多いな」

 

「慎重と言いなさい」

 

バンは欠片を指先でつまむ。

 

小さい。

 

だが、確かな密度がある。

 

ただの石でも。

 

金属でも。

 

骨でもない。

 

生前、巨獣の身体の一部として、数え切れないほどの衝撃を受けてきたもの。

 

バンは目を細める。

 

「まず何を奪う?」

 

「硬さではなく、衝撃を分散する性質よ」

 

「見えねぇもんを狙えってか」

 

「あなたは普段、相手の身体能力を目で見て奪っているの?」

 

「いや」

 

「なら同じでしょう」

 

「簡単に言うな」

 

「できない?」

 

ヘファイストスが挑むように尋ねる。

 

バンは口元を上げた。

 

「誰に言ってんだ?」

 

指先に意識を集中させる。

 

角芯の欠片。

 

その内部へ潜る。

 

硬さ。

 

重さ。

 

密度。

 

長い年月を経ても失われていない、巨獣の力。

 

多くのものが絡み合っている。

 

その中から一つだけを選び取る。

 

「強奪《スナッチ》」

 

目に見えない力が、欠片から引き抜かれた。

 

その瞬間。

 

バンの腕へ、重い感覚が流れ込む。

 

「止めなさい!」

 

ヘファイストスの声が響く。

 

バンは即座に《強奪》を解いた。

 

指先にあった角芯の欠片が、金属台へ落ちる。

 

乾いた音。

 

見た目はほとんど変わっていない。

 

だが、バンの右腕には、異様な重さが残っていた。

 

「何を奪った?」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「硬さだな」

 

「言ったでしょう!」

 

ヘファイストスが眉を吊り上げる。

 

「硬さは狙うなと!」

 

「分かってたけど、一番分かりやすかったんだよ」

 

「実験だからと、勝手なものを奪わないで!」

 

「でも、できたぞ」

 

「できたことと、正しいことは別よ」

 

ザルドが、角芯の欠片を指先で持ち上げる。

 

「変化している」

 

「どこが?」

 

「軽くなった」

 

バンも受け取る。

 

確かに。

 

先ほどまでより、僅かに軽い。

 

ヘファイストスは欠片を金属台へ戻し、細い槌を手に取った。

 

「叩くわよ」

 

一度。

 

乾いた音。

 

二度。

 

表面に薄い亀裂が入る。

 

三度目。

 

角芯の欠片は、硬い音を立てて砕けた。

 

「壊れたな」

 

「硬さを奪ったのだから当然でしょう」

 

ヘファイストスは、砕けた破片を確認する。

 

「ただし、全てを奪ったわけではない。中心にはまだ性質が残っている」

 

「じゃあ、もう一回取れるか?」

 

「試さないで」

 

「聞いただけだろ」

 

「顔がやる気だった」

 

「また顔かよ」

 

「お前は顔に出る」

 

アルフィアが言った。

 

「お前にだけは言われたくねぇな」

 

「何だと?」

 

「そこまで」

 

ヘファイストスは机を指先で叩いた。

 

「次は、奪った硬さを試験用の素材へ渡すわ」

 

「さっきの小刀か?」

 

「いいえ」

 

ヘファイストスは、細い鉄板を取り出した。

 

片側を固定し、反対側を押すと、わずかに曲がる程度の柔らかさを持っている。

 

「これに渡しなさい」

 

「《贈与》か」

 

「少量だけよ」

 

バンは鉄板へ手を置く。

 

自分の中へ取り込んだ、角芯の硬さ。

 

重く。

 

無機質で。

 

身体能力を奪った時とは違う感覚。

 

「贈与《ギフト》」

 

硬さが、鉄板へ流れ込む。

 

バンの手の下で、金属が僅かに震える。

 

「止めて」

 

ヘファイストスの声に従い、力を切る。

 

彼女は鉄板を固定台から外し、両手で曲げようとした。

 

「硬くなってんな」

 

「ええ」

 

「成功じゃねぇか」

 

「まだよ」

 

ヘファイストスは鉄板を台へ戻し、槌を振り下ろす。

 

一撃。

 

鉄板は耐えた。

 

二撃。

 

動かない。

 

三撃。

 

硬い音とともに、中央から真っ二つに割れた。

 

「……昨日と同じだな」

 

「硬さだけを与えた結果よ」

 

ヘファイストスは折れた断面をバンへ見せる。

 

「曲がる性質を失い、力を逃がせなくなった。だから限界へ達した瞬間に割れた」

 

「頑丈にはなっただろ」

 

「四節棍に必要なのは、動かない頑丈さではないわ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「今、分かった」

 

「遅い」

 

アルフィアの声が飛ぶ。

 

「うるせぇな」

 

「事実だ」

 

ザルドが砕けた鉄板を見ながら言う。

 

「クレシューズへ硬さだけを与えれば、節か接続部のどちらかが壊れる」

 

「ああ」

 

バンも頷く。

 

「力を受け流せなくなる」

 

「だから必要なのは、角芯が持つ全体の性質の中から、衝撃を分散する部分だけだ」

 

「そういうことよ」

 

ヘファイストスは新しい角芯の欠片を一つだけ取り出す。

 

「もう一度試すわ」

 

「今度は間違えねぇ」

 

「最初からそうして」

 

バンは欠片を手に取る。

 

先ほどと同じ。

 

だが、今度は硬さを追わない。

 

表面の強度。

 

重さ。

 

密度。

 

それらを避ける。

 

探すのは、叩かれても砕けない理由。

 

衝撃を一か所へ溜めず。

 

内部へ流し。

 

全体で受け止める働き。

 

目を閉じる。

 

角芯の奥に、何度も何度も力が通った痕跡がある。

 

ベヒーモスが頭を振り。

 

地を砕き。

 

巨体ごと突進した。

 

その度に、角は正面から力を受けながら。

 

一点だけで耐えず、全体へ逃がしていた。

 

「これか」

 

バンが小さく呟く。

 

「分かるの?」

 

ヘファイストスが聞く。

 

「さっきよりはな」

 

「奪いすぎないで」

 

「分かってる」

 

呼吸を整える。

 

狙う。

 

硬さではない。

 

力を散らし。

 

受け止め。

 

折れずに戻す性質。

 

「強奪《スナッチ》」

 

欠片から、細い流れが引き抜かれる。

 

先ほどとは違う。

 

腕へ入ってきたのは重さではない。

 

衝撃が触れた瞬間、横へ逃げようとする奇妙な感覚。

 

「止めなさい」

 

ヘファイストスの声で、《強奪》を解く。

 

角芯の欠片は、先ほどほど軽くなっていない。

 

色も。

 

硬さも。

 

ほとんど変わっていない。

 

「取れたのか?」

 

ザルドが尋ねる。

 

「ああ。たぶんな」

 

「たぶんでは困るわ」

 

ヘファイストスが、別の鉄板を差し出す。

 

「渡して確認しましょう」

 

バンは新しい鉄板へ触れる。

 

今度は、力を押し込まない。

 

内部へ道を作り。

 

角芯から奪った性質を、少しだけ流す。

 

「贈与《ギフト》」

 

鉄板が震える。

 

硬さを与えた時とは違い、見た目には変化がない。

 

「止めて」

 

ヘファイストスが鉄板を固定する。

 

槌を振り下ろす。

 

一撃。

 

鉄板が大きくしなる。

 

二撃。

 

中央が沈むが、折れない。

 

三撃。

 

今度は槌の力が、鉄板全体へ波のように広がった。

 

固定台まで揺れたが。

 

鉄板は割れなかった。

 

「どうだ?」

 

バンが尋ねる。

 

ヘファイストスは鉄板を外し、表面と断面を何度も確かめる。

 

「成功よ」

 

「よし」

 

「少量だけれどね」

 

「成功は成功だろ」

 

「そうね」

 

女神は素直に頷いた。

 

「硬さそのものではなく、衝撃を内部へ分散する性質だけが移っている」

 

「じゃあ、これをクレシューズへ渡せばいい」

 

「まだよ」

 

「何でだ?」

 

「その性質を、必要な量だけ安定して取り出せるか確認していない」

 

「今できただろ」

 

「一度だけね」

 

「一度できたら次もできる」

 

「その自信はどこから来るの?」

 

「オレだから」

 

「最も信用できない根拠ね」

 

アルフィアが言った。

 

「同感だ」

 

ザルドも続ける。

 

「お前ら、少しは信じろよ」

 

「信じているから、止めている」

 

ザルドが答えた。

 

「失敗しても平気な男なら、放っておく」

 

バンは少しだけ目を細める。

 

「……そういう言い方すんのかよ」

 

「事実だ」

 

「気持ち悪ぃな」

 

「殴るぞ」

 

「褒めてんだよ」

 

「聞こえん」

 

ヘファイストスは、最初に硬さを奪われた角芯の欠片へ視線を戻す。

 

砕けた破片。

 

その一部が、僅かに白く変色していた。

 

「見なさい」

 

「何だ?」

 

「性質を多く奪われた場所が、色を失い始めている」

 

バンたちが覗き込む。

 

黒かった破片の縁。

 

そこだけが、乾いた骨のように白くなっている。

 

ヘファイストスが細い棒で触れた。

 

白い部分が。

 

音もなく崩れた。

 

細かな粉。

 

灰。

 

作業台の上へ落ちる。

 

「灰になったな」

 

「物質を支えていた性質を奪われた結果よ」

 

「全部奪えば、全部灰になる」

 

アルフィアが言った。

 

「おそらくね」

 

ヘファイストスは、バンを見る。

 

「覚えておきなさい。《強奪》で物質から性質を抜くということは、見えないものを借りることではない」

 

「その素材を削ってるのと同じか」

 

「それ以上よ。根幹を奪っている」

 

「戻せるのか?」

 

「《贈与》で同じ性質を戻せば、可能性はある。でも、完全に灰となった後では難しいでしょうね」

 

「なら、取りすぎなきゃいい」

 

「簡単に言わないで」

 

「難しく考えすぎだろ」

 

「命や武器がかかっている時は、難しく考えるものよ」

 

バンは角芯の本体へ目を向けた。

 

黒く。

 

重く。

 

圧倒的な存在感を残している。

 

「クレシューズに必要な分だけなら、全部なくならねぇんだろ?」

 

「そのつもりよ」

 

「使った部分だけ灰になる」

 

「ええ。必要量を見極めるのは私がする」

 

「奪うのはオレだ」

 

「だから、私の指示どおりに止めなさい」

 

「分かったよ」

 

「本当に?」

 

「何回聞くんだよ」

 

「あなたが毎回返事を軽くするからよ」

 

ヘファイストスは鉄板を手に取り、もう一度槌で叩く。

 

衝撃。

 

しなり。

 

分散。

 

割れずに戻る。

 

「角芯から欲しい性質は確認できたわ」

 

「次は結晶か?」

 

「まだ早い」

 

「またかよ」

 

「角芯で、同じ結果を何度か再現する。奪う量を変え、どこまでなら素材と受け手が耐えられるか調べるわ」

 

「地味だな」

 

「地味な積み重ねが、武器を壊さずに済ませるの」

 

アルフィアが、金属箱へ封じられたアンタレスの結晶を見る。

 

「結晶は、角芯ほど素直ではない」

 

「分かってる」

 

「本当に分かっているのか?」

 

「物騒なんだろ」

 

「その程度か」

 

「黒紫のやつが暴れて、銀色が押さえてる。片方だけ取ったら危ねぇ」

 

「なら忘れるな」

 

「忘れねぇよ」

 

ヘファイストスは作業台の上へ、新しい角芯の欠片と鉄板を並べる。

 

「今日は、あと三回試すわ」

 

「まだやんのか?」

 

「嫌なら帰ってもいいわよ」

 

バンは口元を上げた。

 

「誰が帰るかよ」

 

傷ついたクレシューズへ視線を向ける。

 

壊れた相棒を直すため。

 

必要なものだけを奪う。

 

強欲でありながら。

 

欲しいものすべてへ手を伸ばすのではなく。

 

一つを選び。

 

他を残す。

 

それは、バンにとって。

 

力を奪うことより、よほど難しい作業だった。




今回は、ベヒーモスの角芯から、単なる硬さではなく「衝撃を内部へ分散し、折れずに耐える性質」だけを選び取る実験を描きました。

性質を奪われた部分は色を失い、最後には灰へ崩れるため、《強奪》による修復にも明確な消費と代償があります。

次は、角芯よりもはるかに危険なアンタレスの結晶へ向き合います。
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