翌日。
ヘファイストスの奥工房には、前回までよりも重い空気が流れていた。
作業台の中央。
厚い布の上へ置かれているのは、ベヒーモスの角芯。
オラリオへ戻った日に、バンが一度その重みを確かめた、あの素材だった。
あの時、傷ついたクレシューズも、微かに反応を示している。
黒く硬質な表面。
角の中心部から切り出されたその一片には、巨獣が生きていた頃の圧が、いまだに残っている。
「今日は、これから何かを奪うんだったな」
バンは角芯を指先で軽く叩いた。
低く澄んだ音が返ってくる。
「ええ」
ヘファイストスは作業台の反対側に立っていた。
赤い髪を後ろへ流し。
眼帯に覆われていない左目で、角芯とバンを交互に見る。
「ただし、いきなり本体から奪うことは許さないわ」
「また試験か?」
「当然でしょう」
「昨日も同じこと言ってたな」
「今日も同じよ」
ザルドは作業台の横へ、別の小さな箱を置いた。
中には、角芯の表面を調べる際に生じた、ごく小さな欠片が入っている。
爪の先ほどの大きさ。
それでも、並の鉄片よりはるかに重く、硬い。
「本体から削ったのか?」
バンが尋ねる。
「表面を確認するために、ヘファイストスが最小限だけ切り離した」
「勝手に削ったのかよ」
「必要な検査よ」
ヘファイストスが言う。
「それに、本体へ影響が出るほどではないわ」
「ならいいけどな」
「随分と大切にするのだな」
ザルドが低く言った。
「クレシューズに使えるかもしれねぇんだろ」
「だからか」
「他に何があんだよ」
「ベヒーモスを討った証でもある」
「証なんて、別にいらねぇよ」
バンは小さく肩をすくめる。
「倒したことは、オレが覚えてる」
ザルドはそれ以上何も言わなかった。
壁際では、アルフィアが腕を組んでいる。
今日はゼウスの姿はない。
前日に工房へ来ようとしたらしいが、ヘファイストスから、
「今日は危険な実験をするから来ないで」
と明確に断られたという。
「じじい、相当へこんでたぞ」
バンが言う。
「知らないわ」
ヘファイストスは素っ気なく返した。
「大神たる儂が邪魔者扱いされた、とか騒いでた」
「実際、邪魔になるもの」
「言い切ったな」
「作業中に炉へ酒を入れようとする神を、どう扱えというの」
「酒入れたら火ぃ強くなんじゃねぇのか?」
「あなたも外へ出る?」
「冗談だよ」
ヘファイストスは深く息を吐いた。
「始める前に確認するわ」
彼女は小さな角芯の欠片を、金属製の台へ固定する。
「今日の目的は、角芯から必要な性質だけを取り出せるか確かめること」
「必要な性質って、衝撃に耐えるやつだろ」
「もっと正確に言いなさい」
「面倒だな」
「面倒でも必要よ」
ヘファイストスは、昨日使った二本の金属棒を作業台へ並べた。
硬さだけを追求した黒い棒。
しなり、衝撃を逃がす銀灰色の棒。
「角芯から欲しいのは、単純な硬さではない」
「衝撃を受けて、内部へ逃がして、壊れねぇ性質」
「そう」
「言えんじゃねぇか」
「最初から言いなさい」
アルフィアが冷たく口を挟む。
「話を聞け、馬鹿」
「聞いてるぞ」
「聞いている者は同じ質問を繰り返さない」
「確認だよ」
「言い訳だ」
「始める前から騒がないで」
ヘファイストスの声に、二人が黙る。
女神は続けた。
「《強奪》は、相手の力や物を奪う技なのね」
「ああ」
「対象を選べる?」
「ある程度はな」
「ある程度では困るわ」
「やってみねぇと分からん」
「だから試すのよ」
バンは小さな角芯の欠片へ手を伸ばした。
「触れなくても奪えるぞ」
「今日は触れて」
「何でだ?」
「力の流れを観察したいからよ。距離があると、どこから何を抜いたのか分かりにくい」
「注文多いな」
「慎重と言いなさい」
バンは欠片を指先でつまむ。
小さい。
だが、確かな密度がある。
ただの石でも。
金属でも。
骨でもない。
生前、巨獣の身体の一部として、数え切れないほどの衝撃を受けてきたもの。
バンは目を細める。
「まず何を奪う?」
「硬さではなく、衝撃を分散する性質よ」
「見えねぇもんを狙えってか」
「あなたは普段、相手の身体能力を目で見て奪っているの?」
「いや」
「なら同じでしょう」
「簡単に言うな」
「できない?」
ヘファイストスが挑むように尋ねる。
バンは口元を上げた。
「誰に言ってんだ?」
指先に意識を集中させる。
角芯の欠片。
その内部へ潜る。
硬さ。
重さ。
密度。
長い年月を経ても失われていない、巨獣の力。
多くのものが絡み合っている。
その中から一つだけを選び取る。
「強奪《スナッチ》」
目に見えない力が、欠片から引き抜かれた。
その瞬間。
バンの腕へ、重い感覚が流れ込む。
「止めなさい!」
ヘファイストスの声が響く。
バンは即座に《強奪》を解いた。
指先にあった角芯の欠片が、金属台へ落ちる。
乾いた音。
見た目はほとんど変わっていない。
だが、バンの右腕には、異様な重さが残っていた。
「何を奪った?」
アルフィアが尋ねる。
「硬さだな」
「言ったでしょう!」
ヘファイストスが眉を吊り上げる。
「硬さは狙うなと!」
「分かってたけど、一番分かりやすかったんだよ」
「実験だからと、勝手なものを奪わないで!」
「でも、できたぞ」
「できたことと、正しいことは別よ」
ザルドが、角芯の欠片を指先で持ち上げる。
「変化している」
「どこが?」
「軽くなった」
バンも受け取る。
確かに。
先ほどまでより、僅かに軽い。
ヘファイストスは欠片を金属台へ戻し、細い槌を手に取った。
「叩くわよ」
一度。
乾いた音。
二度。
表面に薄い亀裂が入る。
三度目。
角芯の欠片は、硬い音を立てて砕けた。
「壊れたな」
「硬さを奪ったのだから当然でしょう」
ヘファイストスは、砕けた破片を確認する。
「ただし、全てを奪ったわけではない。中心にはまだ性質が残っている」
「じゃあ、もう一回取れるか?」
「試さないで」
「聞いただけだろ」
「顔がやる気だった」
「また顔かよ」
「お前は顔に出る」
アルフィアが言った。
「お前にだけは言われたくねぇな」
「何だと?」
「そこまで」
ヘファイストスは机を指先で叩いた。
「次は、奪った硬さを試験用の素材へ渡すわ」
「さっきの小刀か?」
「いいえ」
ヘファイストスは、細い鉄板を取り出した。
片側を固定し、反対側を押すと、わずかに曲がる程度の柔らかさを持っている。
「これに渡しなさい」
「《贈与》か」
「少量だけよ」
バンは鉄板へ手を置く。
自分の中へ取り込んだ、角芯の硬さ。
重く。
無機質で。
身体能力を奪った時とは違う感覚。
「贈与《ギフト》」
硬さが、鉄板へ流れ込む。
バンの手の下で、金属が僅かに震える。
「止めて」
ヘファイストスの声に従い、力を切る。
彼女は鉄板を固定台から外し、両手で曲げようとした。
「硬くなってんな」
「ええ」
「成功じゃねぇか」
「まだよ」
ヘファイストスは鉄板を台へ戻し、槌を振り下ろす。
一撃。
鉄板は耐えた。
二撃。
動かない。
三撃。
硬い音とともに、中央から真っ二つに割れた。
「……昨日と同じだな」
「硬さだけを与えた結果よ」
ヘファイストスは折れた断面をバンへ見せる。
「曲がる性質を失い、力を逃がせなくなった。だから限界へ達した瞬間に割れた」
「頑丈にはなっただろ」
「四節棍に必要なのは、動かない頑丈さではないわ」
「分かってる」
「本当に?」
「今、分かった」
「遅い」
アルフィアの声が飛ぶ。
「うるせぇな」
「事実だ」
ザルドが砕けた鉄板を見ながら言う。
「クレシューズへ硬さだけを与えれば、節か接続部のどちらかが壊れる」
「ああ」
バンも頷く。
「力を受け流せなくなる」
「だから必要なのは、角芯が持つ全体の性質の中から、衝撃を分散する部分だけだ」
「そういうことよ」
ヘファイストスは新しい角芯の欠片を一つだけ取り出す。
「もう一度試すわ」
「今度は間違えねぇ」
「最初からそうして」
バンは欠片を手に取る。
先ほどと同じ。
だが、今度は硬さを追わない。
表面の強度。
重さ。
密度。
それらを避ける。
探すのは、叩かれても砕けない理由。
衝撃を一か所へ溜めず。
内部へ流し。
全体で受け止める働き。
目を閉じる。
角芯の奥に、何度も何度も力が通った痕跡がある。
ベヒーモスが頭を振り。
地を砕き。
巨体ごと突進した。
その度に、角は正面から力を受けながら。
一点だけで耐えず、全体へ逃がしていた。
「これか」
バンが小さく呟く。
「分かるの?」
ヘファイストスが聞く。
「さっきよりはな」
「奪いすぎないで」
「分かってる」
呼吸を整える。
狙う。
硬さではない。
力を散らし。
受け止め。
折れずに戻す性質。
「強奪《スナッチ》」
欠片から、細い流れが引き抜かれる。
先ほどとは違う。
腕へ入ってきたのは重さではない。
衝撃が触れた瞬間、横へ逃げようとする奇妙な感覚。
「止めなさい」
ヘファイストスの声で、《強奪》を解く。
角芯の欠片は、先ほどほど軽くなっていない。
色も。
硬さも。
ほとんど変わっていない。
「取れたのか?」
ザルドが尋ねる。
「ああ。たぶんな」
「たぶんでは困るわ」
ヘファイストスが、別の鉄板を差し出す。
「渡して確認しましょう」
バンは新しい鉄板へ触れる。
今度は、力を押し込まない。
内部へ道を作り。
角芯から奪った性質を、少しだけ流す。
「贈与《ギフト》」
鉄板が震える。
硬さを与えた時とは違い、見た目には変化がない。
「止めて」
ヘファイストスが鉄板を固定する。
槌を振り下ろす。
一撃。
鉄板が大きくしなる。
二撃。
中央が沈むが、折れない。
三撃。
今度は槌の力が、鉄板全体へ波のように広がった。
固定台まで揺れたが。
鉄板は割れなかった。
「どうだ?」
バンが尋ねる。
ヘファイストスは鉄板を外し、表面と断面を何度も確かめる。
「成功よ」
「よし」
「少量だけれどね」
「成功は成功だろ」
「そうね」
女神は素直に頷いた。
「硬さそのものではなく、衝撃を内部へ分散する性質だけが移っている」
「じゃあ、これをクレシューズへ渡せばいい」
「まだよ」
「何でだ?」
「その性質を、必要な量だけ安定して取り出せるか確認していない」
「今できただろ」
「一度だけね」
「一度できたら次もできる」
「その自信はどこから来るの?」
「オレだから」
「最も信用できない根拠ね」
アルフィアが言った。
「同感だ」
ザルドも続ける。
「お前ら、少しは信じろよ」
「信じているから、止めている」
ザルドが答えた。
「失敗しても平気な男なら、放っておく」
バンは少しだけ目を細める。
「……そういう言い方すんのかよ」
「事実だ」
「気持ち悪ぃな」
「殴るぞ」
「褒めてんだよ」
「聞こえん」
ヘファイストスは、最初に硬さを奪われた角芯の欠片へ視線を戻す。
砕けた破片。
その一部が、僅かに白く変色していた。
「見なさい」
「何だ?」
「性質を多く奪われた場所が、色を失い始めている」
バンたちが覗き込む。
黒かった破片の縁。
そこだけが、乾いた骨のように白くなっている。
ヘファイストスが細い棒で触れた。
白い部分が。
音もなく崩れた。
細かな粉。
灰。
作業台の上へ落ちる。
「灰になったな」
「物質を支えていた性質を奪われた結果よ」
「全部奪えば、全部灰になる」
アルフィアが言った。
「おそらくね」
ヘファイストスは、バンを見る。
「覚えておきなさい。《強奪》で物質から性質を抜くということは、見えないものを借りることではない」
「その素材を削ってるのと同じか」
「それ以上よ。根幹を奪っている」
「戻せるのか?」
「《贈与》で同じ性質を戻せば、可能性はある。でも、完全に灰となった後では難しいでしょうね」
「なら、取りすぎなきゃいい」
「簡単に言わないで」
「難しく考えすぎだろ」
「命や武器がかかっている時は、難しく考えるものよ」
バンは角芯の本体へ目を向けた。
黒く。
重く。
圧倒的な存在感を残している。
「クレシューズに必要な分だけなら、全部なくならねぇんだろ?」
「そのつもりよ」
「使った部分だけ灰になる」
「ええ。必要量を見極めるのは私がする」
「奪うのはオレだ」
「だから、私の指示どおりに止めなさい」
「分かったよ」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「あなたが毎回返事を軽くするからよ」
ヘファイストスは鉄板を手に取り、もう一度槌で叩く。
衝撃。
しなり。
分散。
割れずに戻る。
「角芯から欲しい性質は確認できたわ」
「次は結晶か?」
「まだ早い」
「またかよ」
「角芯で、同じ結果を何度か再現する。奪う量を変え、どこまでなら素材と受け手が耐えられるか調べるわ」
「地味だな」
「地味な積み重ねが、武器を壊さずに済ませるの」
アルフィアが、金属箱へ封じられたアンタレスの結晶を見る。
「結晶は、角芯ほど素直ではない」
「分かってる」
「本当に分かっているのか?」
「物騒なんだろ」
「その程度か」
「黒紫のやつが暴れて、銀色が押さえてる。片方だけ取ったら危ねぇ」
「なら忘れるな」
「忘れねぇよ」
ヘファイストスは作業台の上へ、新しい角芯の欠片と鉄板を並べる。
「今日は、あと三回試すわ」
「まだやんのか?」
「嫌なら帰ってもいいわよ」
バンは口元を上げた。
「誰が帰るかよ」
傷ついたクレシューズへ視線を向ける。
壊れた相棒を直すため。
必要なものだけを奪う。
強欲でありながら。
欲しいものすべてへ手を伸ばすのではなく。
一つを選び。
他を残す。
それは、バンにとって。
力を奪うことより、よほど難しい作業だった。
今回は、ベヒーモスの角芯から、単なる硬さではなく「衝撃を内部へ分散し、折れずに耐える性質」だけを選び取る実験を描きました。
性質を奪われた部分は色を失い、最後には灰へ崩れるため、《強奪》による修復にも明確な消費と代償があります。
次は、角芯よりもはるかに危険なアンタレスの結晶へ向き合います。