強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第70話 銀色の均衡

ベヒーモスの角芯を使った実験は、その後も繰り返された。

 

奪う量を変え。

 

対象とする範囲を狭め。

 

取り出した性質を、厚さの異なる金属板へ《贈与》する。

 

最初の一度を含め、五度。

 

結果はすべて同じだった。

 

単なる硬さを与えれば、金属は力を逃がせず砕ける。

 

衝撃を分散する性質だけを選び取れば、金属は大きくしなりながらも折れずに耐えた。

 

性質を抜かれた角芯の欠片は、使われた部分だけが白く乾き、細かな灰へ崩れている。

 

まだ本体へ手をつけてはいない。

 

ヘファイストスが切り分けた小さな欠片だけで、必要な性質と量の目安を調べていた。

 

「角芯については、これで十分ね」

 

ヘファイストスは、槌を作業台へ置いた。

 

最後に試した金属板には、深いへこみが残っている。

 

それでも亀裂はなく、曲がった部分も時間をかけて僅かに元の形へ戻ろうとしていた。

 

「本番で使う量も分かったのか?」

 

バンが尋ねる。

 

「おおよそはね。ただし、受け手は試験用の鉄板ではなくクレシューズよ。実際に渡す時は、反応を見ながら調整する必要があるわ」

 

「なら、次は結晶だな」

 

「嬉しそうに言うな」

 

アルフィアの声が飛ぶ。

 

「危険なものを前にして、なぜ笑っていられる」

 

「面白そうだからだろ」

 

「馬鹿の思考は理解できない」

 

「理解しなくていいぞ」

 

「理解する価値もない」

 

壁際に立つザルドが、二人のやり取りを無視して金属箱へ目を向ける。

 

作業台から少し離れた場所。

 

いくつもの術式と魔石器具に囲まれた箱の中に、アンタレスの結晶は封じられている。

 

黒紫色の力。

 

それを覆う銀色の光。

 

数日前と比べても、表面に変化はない。

 

だが、静かなのは力が弱まったからではなかった。

 

ヘファイストスが作った器具によって、外への漏出を押さえ込まれているだけだ。

 

「今日は観察だけにしてもいい」

 

ザルドが言った。

 

「今さら何言ってんだ?」

 

「角芯とは性質が違う。失敗すれば、欠片が灰になるだけでは済まん」

 

「分かってる」

 

「分かっている者は、そう簡単に手を伸ばさない」

 

「まだ伸ばしてねぇぞ」

 

バンは両手を上げる。

 

その足は、金属箱のすぐ前まで進んでいた。

 

「十分近い」

 

アルフィアが冷たく言う。

 

「下がれ」

 

「見えねぇだろ」

 

「私とヘファイストスが見ればいい」

 

「オレがやんのに、オレが見なくてどうすんだよ」

 

「見るだけで済まないから言っている」

 

「今日は勝手に触らないで」

 

ヘファイストスも釘を刺す。

 

「私が箱を開けるまで、一歩も動かないこと」

 

「子供じゃねぇぞ」

 

「子供の方が言うことを聞くわ」

 

「そこまでか?」

 

「そこまでよ」

 

バンは不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は進まなかった。

 

ヘファイストスが箱の前へ立つ。

 

四隅の魔石器具を順番に確認し、側面の留め具を外していく。

 

「前にも説明したけれど、銀色の力は黒紫色を押さえつけているだけではないわ」

 

「二つを一つの中に留めてるんだろ」

 

「ええ。反発する力の境目を調整し、どちらにも傾かない状態を保っている」

 

「その均衡だけを奪う」

 

「言葉にすれば簡単ね」

 

最後の留め具が外れる。

 

箱の蓋がゆっくりと開いた。

 

銀色の光が、工房の天井へ伸びる。

 

同時に、空気の温度が僅かに下がった。

 

肌を撫でる冷気ではない。

 

もっと内側。

 

心臓の周囲へ、細い針を差し込まれるような感覚。

 

ザルドの目が細くなる。

 

アルフィアはすでに結晶へ意識を集中させていた。

 

「以前より強くなってないか?」

 

バンが尋ねる。

 

「外へ漏れていなかっただけよ」

 

ヘファイストスは答える。

 

「器の中で力が循環していた。その分、開放された瞬間の反応が強く見える」

 

「結晶そのものが、力を溜めていたということか」

 

「そうね。ただ、増えたわけではないわ。閉じ込められていたものが一度に動いただけ」

 

黒紫色の力が結晶の奥で蠢く。

 

そのたびに銀色の膜が揺れ、押し戻す。

 

互いを食い潰そうとしているようにも。

 

互いがなければ形を保てないようにも見えた。

 

「奇妙だな」

 

ザルドが呟く。

 

「敵同士に見えるのに、片方だけでは存在できん」

 

「だから均衡なのよ」

 

ヘファイストスが答える。

 

「黒紫色の力だけを除けば安全になる、と最初は考えた。でも違ったわ」

 

「銀色だけじゃ結晶は保てねぇのか?」

 

「ええ。銀色は、抑える対象があるから今の形を取っている。黒紫色が消えれば、銀色も別の形へ変わるか、消える可能性がある」

 

「じゃあ、必要なのは銀色そのものじゃねぇ」

 

「二つを共存させている仕組みよ」

 

バンは結晶を見つめる。

 

「見えんのか?」

 

「見えていたら、こんなに時間はかけないわ」

 

「神様でも分かんねぇもんあるんだな」

 

「私たちは何でも知っているわけではないの」

 

「じじいは何でも知ってるような顔すんぞ」

 

「ゼウスの場合は、知らないことまで知っているふりをするだけよ」

 

「納得だな」

 

ヘファイストスは細い金属棒を取り出した。

 

先端には透明な小石が埋め込まれている。

 

棒を結晶へ近づけると、小石の内部に銀色と黒紫色の筋が浮かんだ。

 

「まず、あなたには触れずに《強奪》を使ってもらうわ」

 

「前は触れろって言ってたじゃねぇか」

 

「角芯は比較的安定していた。でも、これは触れた瞬間に何が起きるか分からない」

 

「離れたままなら、危なくなった時に切りやすい」

 

アルフィアが言う。

 

「私が止めろと言ったら、即座に切れ」

 

「ヘファイストスじゃなくて、お前が決めんのか?」

 

「結晶の変化は、旅の間から見ている」

 

「それに」

 

ヘファイストスが続ける。

 

「私は器具と封印を管理する。アルフィアには、あなたと結晶の反応を見てもらうわ」

 

「ザルドは?」

 

「お前が暴れた時に押さえる」

 

ザルドが答えた。

 

「オレが暴れる前提かよ」

 

「可能性はある」

 

「信用ねぇな」

 

「あるから、ここに立っている」

 

ザルドの返答に、バンは一瞬だけ黙った。

 

「……そうかよ」

 

それ以上は何も言わず、結晶へ右手を向ける。

 

「最初は何を狙う?」

 

「銀色の表面へ触れるだけ」

 

「奪わねぇのか?」

 

「いきなり奪わないで。どこまで狙いを絞れるか確かめるのよ」

 

「面倒だな」

 

「クレシューズを失ってもいいなら、好きにしなさい」

 

「それは困る」

 

「なら従うことね」

 

バンは息を吐いた。

 

結晶との距離は、腕を二本伸ばしても届かないほどある。

 

それでも《強奪》に距離は大きな問題ではない。

 

問題は、何を奪うか。

 

角芯の時とは違う。

 

硬さ。

 

重さ。

 

衝撃を逃がす性質。

 

そうした手触りのあるものではない。

 

銀色の光が何をしているのか。

 

黒紫色とどのようにつながっているのか。

 

まず、それを感じ取らなければならない。

 

「強奪《スナッチ》」

 

見えない手が、結晶へ伸びる。

 

触れた。

 

その瞬間。

 

銀色の膜が大きく波打った。

 

「止めるな」

 

アルフィアが言う。

 

「まだ奪ってねぇぞ」

 

「分かっている。触れただけで反応した」

 

黒紫色の力が、銀色の内側から浮かび上がる。

 

まるで、外から触れたバンの力を見つけたかのように。

 

「こいつ、オレに向かってきてんな」

 

「銀色だけを見ろ」

 

「見てるぞ」

 

「黒紫色へ意識を向けるな。引かれる」

 

「引かれちゃいねぇ」

 

「なら、なぜ笑っている」

 

バン自身、口元が上がっていることに気づいた。

 

「力が強ぇからだろ」

 

「馬鹿」

 

「集中しなさい!」

 

ヘファイストスの声が飛ぶ。

 

バンは笑みを消し、銀色だけへ意識を向ける。

 

黒紫色の力は、獣に近い。

 

触れたものへ食らいつき。

 

引き込み。

 

壊そうとする。

 

銀色は違う。

 

敵を押し潰しているのではない。

 

広がろうとする力を受け。

 

流れを変え。

 

元の位置へ戻している。

 

黒紫色が強く動けば。

 

銀色も強くなる。

 

弱まれば。

 

銀色もまた、必要以上には押さえ込まない。

 

「こいつ……力を測ってんのか」

 

「何が見えた?」

 

「黒い方が動いた分だけ、銀色も動く。ずっと同じ力で蓋してるんじゃねぇ」

 

「相手へ合わせている」

 

ザルドが言った。

 

「ああ。押し返すんじゃなくて、暴れた力を元の流れへ戻してる」

 

ヘファイストスの目が鋭くなる。

 

「均衡の正体は、それかもしれないわ」

 

「なら、少し取ってみるぞ」

 

「待ちなさい」

 

「もう分かっただろ」

 

「触れることと奪うことは違う」

 

「少しだけだ」

 

「バン」

 

アルフィアの声が低くなる。

 

だが、バンは結晶から目を離さなかった。

 

「銀色の表面だけだ。黒い方には触らねぇ」

 

「私の合図で止めろ」

 

「ああ」

 

アルフィアは一瞬だけ黙り。

 

「やれ」

 

バンは銀色の膜へ狙いを絞った。

 

均衡を保つ力。

 

相手の動きを測り。

 

必要な分だけ受け。

 

崩れた流れを元へ戻す性質。

 

その端を。

 

ほんの僅かだけ引く。

 

「強奪《スナッチ》」

 

銀色の糸が、結晶から浮かび上がった。

 

細い。

 

髪よりも。

 

光の筋よりも細い流れ。

 

それがバンの指先へ伸びる。

 

同時に。

 

結晶の奥で、黒紫色が爆発するように膨らんだ。

 

「止めろ!」

 

アルフィアの声が響く。

 

バンは《強奪》を切ろうとした。

 

だが、銀色の糸へ黒紫色が絡みついていた。

 

「離れねぇ!」

 

「無理に引くな!」

 

ヘファイストスが箱の器具へ手を伸ばす。

 

四隅の魔石が強く光り、結晶の周囲へ透明な壁が重なる。

 

それでも、黒紫色はバンへ向かって伸び続ける。

 

「切れ、バン!」

 

「切ろうとしてんだよ!」

 

見えない流れが腕へ食いつく。

 

肉体ではない。

 

魔力とも違う。

 

もっと奥。

 

バンという存在そのものへ入り込もうとしている。

 

煉獄の毒気にも。

 

呪いにも。

 

魔神族の闇にも似ていない。

 

何かを侵すのではなく。

 

その形を別のものへ変えようとする力。

 

「面白ぇな」

 

「笑うな、馬鹿!」

 

アルフィアがバンの腕を掴む。

 

冷たい指。

 

鋭い魔力が、バンと結晶の間へ割り込む。

 

「手を離せ」

 

「まだ銀色が――」

 

「離せ!」

 

アルフィアの声と同時に、ザルドがバンの肩を掴んだ。

 

巨腕が、力任せに後方へ引く。

 

バンも《強奪》を完全に断ち切った。

 

銀色の糸が切れ。

 

黒紫色の力が結晶の内部へ叩き戻される。

 

直後。

 

結晶の表面に、一本の亀裂が走った。

 

黒紫色。

 

細い亀裂の奥から、禍々しい光が漏れる。

 

「全員下がって!」

 

ヘファイストスが箱の蓋を閉じる。

 

留め具。

 

術式。

 

魔石器具。

 

一つずつでは間に合わない。

 

彼女は両手で箱を押さえ、側面の機構を一度に作動させた。

 

重い金属音。

 

箱全体が銀白色の壁に包まれる。

 

内側から、何かが激しく叩く。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

工房の床まで揺れた。

 

それでも箱は開かなかった。

 

やがて。

 

内部の振動が、少しずつ弱まっていく。

 

完全に静まるまで、誰も口を開かなかった。

 

「……止まったか?」

 

バンが尋ねる。

 

「まだ近づかないで」

 

ヘファイストスは箱へ手を添えたまま、内部の器具を確認する。

 

「黒紫色の出力は下がっている。銀色の力も、亀裂の周囲へ集まっているわ」

 

「自分で塞ごうとしているのか」

 

ザルドが言った。

 

「おそらくね」

 

アルフィアはバンの腕を掴んだままだった。

 

「いつまで掴んでんだ?」

 

「黙れ」

 

「もう平気だぞ」

 

「誰が決めた」

 

「オレ」

 

「最も信用できない」

 

アルフィアは腕から手を離さず、バンの指先まで確認する。

 

皮膚。

 

血管。

 

魔力の流れ。

 

目に見える異常はない。

 

「黒紫色の力は入っていない」

 

「だから言っただろ」

 

「入る寸前だった」

 

「入ってねぇなら同じだ」

 

「同じではない」

 

アルフィアの指へ力が入る。

 

「痛ぇぞ」

 

「痛みがあるなら正常だ」

 

「確認の仕方が雑なんだよ」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

ザルドもバンの肩へ手を置いたまま、顔を覗き込む。

 

「気分は」

 

「腹減った」

 

「正常だな」

 

「それで決めんのかよ」

 

「お前の場合はな」

 

ヘファイストスがゆっくり箱から手を離した。

 

「今日はここまでよ」

 

「もう一回やれば、今度はうまく――」

 

「駄目よ」

 

「でも、銀色は少し取れたぞ」

 

「何ですって?」

 

バンは右手を開く。

 

掌の上。

 

目には見えないほど薄い。

 

だが、確かに何かが残っている。

 

触れた力へ合わせ。

 

流れを変え。

 

暴れようとするものを、元の位置へ戻す感覚。

 

「黒紫色は混ざっていない」

 

アルフィアが言った。

 

「銀色の性質だけだ」

 

「危なかったけど、成功だろ?」

 

「成功とは呼ばないわ」

 

ヘファイストスは厳しい顔で答える。

 

「結晶に亀裂が入った。あなたも黒紫色の力へ引き込まれかけた」

 

「でも、取れた」

 

「結果だけを見ないこと」

 

「じゃあ捨てんのか?」

 

「捨てろとは言っていないわ」

 

ヘファイストスは、バンの掌へ手を近づける。

 

直接は触れず、そこに残る性質を慎重に観察した。

 

「本当に、均衡を保つ性質だけが抜けている」

 

「クレシューズへ使えるか?」

 

「量が少なすぎるわ。それに、まだ安定して取り出せたとは言えない」

 

「次はどうすんだ?」

 

「方法を変える」

 

「どんな?」

 

「銀色だけを引こうとするから、黒紫色が食いついてきた」

 

「なら、黒紫色も一緒に奪うのか?」

 

「それではあなたが危険よ」

 

ヘファイストスは金属箱を見る。

 

「二つを切り離すのではなく、均衡した状態のまま、ごく小さな一組として取り出す方法を考える」

 

「危険な方もクレシューズへ入れるのか」

 

ザルドの声が低くなる。

 

「そのままでは入れないわ」

 

「銀色が押さえ込める量だけ、黒紫色も一緒に抜く」

 

アルフィアが言った。

 

「そうよ。完全に敵を消すのではなく、制御できる形にしてからクレシューズへ渡す」

 

「危険じゃねぇのか?」

 

バンが聞く。

 

「危険よ」

 

「即答か」

 

「だから今日は終わり」

 

ヘファイストスは作業台の道具を片づけ始める。

 

「あなたの中にある銀色の性質も、こちらで確認するわ。勝手にクレシューズへ渡さないこと」

 

「少しくらい――」

 

「駄目よ」

 

「まだ何も言ってねぇぞ」

 

「言う顔をしている」

 

「お前ら、顔で判断しすぎじゃねぇか?」

 

「日頃の行いだ」

 

ザルドが答える。

 

アルフィアもようやくバンの腕を放した。

 

「次に止めろと言った時は、即座に切れ」

 

「切ろうとはしたぞ」

 

「遅い」

 

「銀色が取れそうだったからな」

 

「そのために黒紫色を取り込めば、クレシューズを直す前にお前が壊れる」

 

「オレはそう簡単に壊れねぇよ」

 

「不死ではない」

 

アルフィアの短い言葉に。

 

バンは返事を止めた。

 

以前なら。

 

どれほど危険な力でも、肉体で受け止めればよかった。

 

壊れても。

 

裂けても。

 

死んでも。

 

何度でも戻った。

 

今は違う。

 

不死を失ったことを後悔したことはない。

 

だが、無茶の先に何があるかは、以前より理解している。

 

「……分かったよ」

 

「本当に分かったのか」

 

「ああ。次はもう少し早く切る」

 

「もう少しではない。即座にだ」

 

「細けぇな」

 

「生き残るための最低条件だ」

 

アルフィアはそう言い、金属箱へ背を向けた。

 

バンは掌に残る銀色の性質を見る。

 

敵を押し潰す力ではない。

 

相手に合わせ。

 

暴れた流れを受け止め。

 

本来あるべき位置へ戻す力。

 

傷ついたクレシューズに必要なのは。

 

強さだけではなかった。

 

異なるものを受け入れながら。

 

それでも、自分自身であり続けるための均衡。

 

その答えが。

 

危険な結晶の中に、確かに存在していた。




今回は、アンタレスの結晶から「銀色の均衡」を取り出す最初の実験を描きました。

銀色の力だけを奪おうとすると、結びついた黒紫色の力までバンへ食いついてくるため、角芯とはまったく異なる危険性があります。

次は、クレシューズの内部に残る流れと、巨人族の名工ダブズが神器へ込めた構造へ迫ります。
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