ベヒーモスの角芯を使った実験は、その後も繰り返された。
奪う量を変え。
対象とする範囲を狭め。
取り出した性質を、厚さの異なる金属板へ《贈与》する。
最初の一度を含め、五度。
結果はすべて同じだった。
単なる硬さを与えれば、金属は力を逃がせず砕ける。
衝撃を分散する性質だけを選び取れば、金属は大きくしなりながらも折れずに耐えた。
性質を抜かれた角芯の欠片は、使われた部分だけが白く乾き、細かな灰へ崩れている。
まだ本体へ手をつけてはいない。
ヘファイストスが切り分けた小さな欠片だけで、必要な性質と量の目安を調べていた。
「角芯については、これで十分ね」
ヘファイストスは、槌を作業台へ置いた。
最後に試した金属板には、深いへこみが残っている。
それでも亀裂はなく、曲がった部分も時間をかけて僅かに元の形へ戻ろうとしていた。
「本番で使う量も分かったのか?」
バンが尋ねる。
「おおよそはね。ただし、受け手は試験用の鉄板ではなくクレシューズよ。実際に渡す時は、反応を見ながら調整する必要があるわ」
「なら、次は結晶だな」
「嬉しそうに言うな」
アルフィアの声が飛ぶ。
「危険なものを前にして、なぜ笑っていられる」
「面白そうだからだろ」
「馬鹿の思考は理解できない」
「理解しなくていいぞ」
「理解する価値もない」
壁際に立つザルドが、二人のやり取りを無視して金属箱へ目を向ける。
作業台から少し離れた場所。
いくつもの術式と魔石器具に囲まれた箱の中に、アンタレスの結晶は封じられている。
黒紫色の力。
それを覆う銀色の光。
数日前と比べても、表面に変化はない。
だが、静かなのは力が弱まったからではなかった。
ヘファイストスが作った器具によって、外への漏出を押さえ込まれているだけだ。
「今日は観察だけにしてもいい」
ザルドが言った。
「今さら何言ってんだ?」
「角芯とは性質が違う。失敗すれば、欠片が灰になるだけでは済まん」
「分かってる」
「分かっている者は、そう簡単に手を伸ばさない」
「まだ伸ばしてねぇぞ」
バンは両手を上げる。
その足は、金属箱のすぐ前まで進んでいた。
「十分近い」
アルフィアが冷たく言う。
「下がれ」
「見えねぇだろ」
「私とヘファイストスが見ればいい」
「オレがやんのに、オレが見なくてどうすんだよ」
「見るだけで済まないから言っている」
「今日は勝手に触らないで」
ヘファイストスも釘を刺す。
「私が箱を開けるまで、一歩も動かないこと」
「子供じゃねぇぞ」
「子供の方が言うことを聞くわ」
「そこまでか?」
「そこまでよ」
バンは不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は進まなかった。
ヘファイストスが箱の前へ立つ。
四隅の魔石器具を順番に確認し、側面の留め具を外していく。
「前にも説明したけれど、銀色の力は黒紫色を押さえつけているだけではないわ」
「二つを一つの中に留めてるんだろ」
「ええ。反発する力の境目を調整し、どちらにも傾かない状態を保っている」
「その均衡だけを奪う」
「言葉にすれば簡単ね」
最後の留め具が外れる。
箱の蓋がゆっくりと開いた。
銀色の光が、工房の天井へ伸びる。
同時に、空気の温度が僅かに下がった。
肌を撫でる冷気ではない。
もっと内側。
心臓の周囲へ、細い針を差し込まれるような感覚。
ザルドの目が細くなる。
アルフィアはすでに結晶へ意識を集中させていた。
「以前より強くなってないか?」
バンが尋ねる。
「外へ漏れていなかっただけよ」
ヘファイストスは答える。
「器の中で力が循環していた。その分、開放された瞬間の反応が強く見える」
「結晶そのものが、力を溜めていたということか」
「そうね。ただ、増えたわけではないわ。閉じ込められていたものが一度に動いただけ」
黒紫色の力が結晶の奥で蠢く。
そのたびに銀色の膜が揺れ、押し戻す。
互いを食い潰そうとしているようにも。
互いがなければ形を保てないようにも見えた。
「奇妙だな」
ザルドが呟く。
「敵同士に見えるのに、片方だけでは存在できん」
「だから均衡なのよ」
ヘファイストスが答える。
「黒紫色の力だけを除けば安全になる、と最初は考えた。でも違ったわ」
「銀色だけじゃ結晶は保てねぇのか?」
「ええ。銀色は、抑える対象があるから今の形を取っている。黒紫色が消えれば、銀色も別の形へ変わるか、消える可能性がある」
「じゃあ、必要なのは銀色そのものじゃねぇ」
「二つを共存させている仕組みよ」
バンは結晶を見つめる。
「見えんのか?」
「見えていたら、こんなに時間はかけないわ」
「神様でも分かんねぇもんあるんだな」
「私たちは何でも知っているわけではないの」
「じじいは何でも知ってるような顔すんぞ」
「ゼウスの場合は、知らないことまで知っているふりをするだけよ」
「納得だな」
ヘファイストスは細い金属棒を取り出した。
先端には透明な小石が埋め込まれている。
棒を結晶へ近づけると、小石の内部に銀色と黒紫色の筋が浮かんだ。
「まず、あなたには触れずに《強奪》を使ってもらうわ」
「前は触れろって言ってたじゃねぇか」
「角芯は比較的安定していた。でも、これは触れた瞬間に何が起きるか分からない」
「離れたままなら、危なくなった時に切りやすい」
アルフィアが言う。
「私が止めろと言ったら、即座に切れ」
「ヘファイストスじゃなくて、お前が決めんのか?」
「結晶の変化は、旅の間から見ている」
「それに」
ヘファイストスが続ける。
「私は器具と封印を管理する。アルフィアには、あなたと結晶の反応を見てもらうわ」
「ザルドは?」
「お前が暴れた時に押さえる」
ザルドが答えた。
「オレが暴れる前提かよ」
「可能性はある」
「信用ねぇな」
「あるから、ここに立っている」
ザルドの返答に、バンは一瞬だけ黙った。
「……そうかよ」
それ以上は何も言わず、結晶へ右手を向ける。
「最初は何を狙う?」
「銀色の表面へ触れるだけ」
「奪わねぇのか?」
「いきなり奪わないで。どこまで狙いを絞れるか確かめるのよ」
「面倒だな」
「クレシューズを失ってもいいなら、好きにしなさい」
「それは困る」
「なら従うことね」
バンは息を吐いた。
結晶との距離は、腕を二本伸ばしても届かないほどある。
それでも《強奪》に距離は大きな問題ではない。
問題は、何を奪うか。
角芯の時とは違う。
硬さ。
重さ。
衝撃を逃がす性質。
そうした手触りのあるものではない。
銀色の光が何をしているのか。
黒紫色とどのようにつながっているのか。
まず、それを感じ取らなければならない。
「強奪《スナッチ》」
見えない手が、結晶へ伸びる。
触れた。
その瞬間。
銀色の膜が大きく波打った。
「止めるな」
アルフィアが言う。
「まだ奪ってねぇぞ」
「分かっている。触れただけで反応した」
黒紫色の力が、銀色の内側から浮かび上がる。
まるで、外から触れたバンの力を見つけたかのように。
「こいつ、オレに向かってきてんな」
「銀色だけを見ろ」
「見てるぞ」
「黒紫色へ意識を向けるな。引かれる」
「引かれちゃいねぇ」
「なら、なぜ笑っている」
バン自身、口元が上がっていることに気づいた。
「力が強ぇからだろ」
「馬鹿」
「集中しなさい!」
ヘファイストスの声が飛ぶ。
バンは笑みを消し、銀色だけへ意識を向ける。
黒紫色の力は、獣に近い。
触れたものへ食らいつき。
引き込み。
壊そうとする。
銀色は違う。
敵を押し潰しているのではない。
広がろうとする力を受け。
流れを変え。
元の位置へ戻している。
黒紫色が強く動けば。
銀色も強くなる。
弱まれば。
銀色もまた、必要以上には押さえ込まない。
「こいつ……力を測ってんのか」
「何が見えた?」
「黒い方が動いた分だけ、銀色も動く。ずっと同じ力で蓋してるんじゃねぇ」
「相手へ合わせている」
ザルドが言った。
「ああ。押し返すんじゃなくて、暴れた力を元の流れへ戻してる」
ヘファイストスの目が鋭くなる。
「均衡の正体は、それかもしれないわ」
「なら、少し取ってみるぞ」
「待ちなさい」
「もう分かっただろ」
「触れることと奪うことは違う」
「少しだけだ」
「バン」
アルフィアの声が低くなる。
だが、バンは結晶から目を離さなかった。
「銀色の表面だけだ。黒い方には触らねぇ」
「私の合図で止めろ」
「ああ」
アルフィアは一瞬だけ黙り。
「やれ」
バンは銀色の膜へ狙いを絞った。
均衡を保つ力。
相手の動きを測り。
必要な分だけ受け。
崩れた流れを元へ戻す性質。
その端を。
ほんの僅かだけ引く。
「強奪《スナッチ》」
銀色の糸が、結晶から浮かび上がった。
細い。
髪よりも。
光の筋よりも細い流れ。
それがバンの指先へ伸びる。
同時に。
結晶の奥で、黒紫色が爆発するように膨らんだ。
「止めろ!」
アルフィアの声が響く。
バンは《強奪》を切ろうとした。
だが、銀色の糸へ黒紫色が絡みついていた。
「離れねぇ!」
「無理に引くな!」
ヘファイストスが箱の器具へ手を伸ばす。
四隅の魔石が強く光り、結晶の周囲へ透明な壁が重なる。
それでも、黒紫色はバンへ向かって伸び続ける。
「切れ、バン!」
「切ろうとしてんだよ!」
見えない流れが腕へ食いつく。
肉体ではない。
魔力とも違う。
もっと奥。
バンという存在そのものへ入り込もうとしている。
煉獄の毒気にも。
呪いにも。
魔神族の闇にも似ていない。
何かを侵すのではなく。
その形を別のものへ変えようとする力。
「面白ぇな」
「笑うな、馬鹿!」
アルフィアがバンの腕を掴む。
冷たい指。
鋭い魔力が、バンと結晶の間へ割り込む。
「手を離せ」
「まだ銀色が――」
「離せ!」
アルフィアの声と同時に、ザルドがバンの肩を掴んだ。
巨腕が、力任せに後方へ引く。
バンも《強奪》を完全に断ち切った。
銀色の糸が切れ。
黒紫色の力が結晶の内部へ叩き戻される。
直後。
結晶の表面に、一本の亀裂が走った。
黒紫色。
細い亀裂の奥から、禍々しい光が漏れる。
「全員下がって!」
ヘファイストスが箱の蓋を閉じる。
留め具。
術式。
魔石器具。
一つずつでは間に合わない。
彼女は両手で箱を押さえ、側面の機構を一度に作動させた。
重い金属音。
箱全体が銀白色の壁に包まれる。
内側から、何かが激しく叩く。
一度。
二度。
三度。
工房の床まで揺れた。
それでも箱は開かなかった。
やがて。
内部の振動が、少しずつ弱まっていく。
完全に静まるまで、誰も口を開かなかった。
「……止まったか?」
バンが尋ねる。
「まだ近づかないで」
ヘファイストスは箱へ手を添えたまま、内部の器具を確認する。
「黒紫色の出力は下がっている。銀色の力も、亀裂の周囲へ集まっているわ」
「自分で塞ごうとしているのか」
ザルドが言った。
「おそらくね」
アルフィアはバンの腕を掴んだままだった。
「いつまで掴んでんだ?」
「黙れ」
「もう平気だぞ」
「誰が決めた」
「オレ」
「最も信用できない」
アルフィアは腕から手を離さず、バンの指先まで確認する。
皮膚。
血管。
魔力の流れ。
目に見える異常はない。
「黒紫色の力は入っていない」
「だから言っただろ」
「入る寸前だった」
「入ってねぇなら同じだ」
「同じではない」
アルフィアの指へ力が入る。
「痛ぇぞ」
「痛みがあるなら正常だ」
「確認の仕方が雑なんだよ」
「お前にだけは言われたくない」
ザルドもバンの肩へ手を置いたまま、顔を覗き込む。
「気分は」
「腹減った」
「正常だな」
「それで決めんのかよ」
「お前の場合はな」
ヘファイストスがゆっくり箱から手を離した。
「今日はここまでよ」
「もう一回やれば、今度はうまく――」
「駄目よ」
「でも、銀色は少し取れたぞ」
「何ですって?」
バンは右手を開く。
掌の上。
目には見えないほど薄い。
だが、確かに何かが残っている。
触れた力へ合わせ。
流れを変え。
暴れようとするものを、元の位置へ戻す感覚。
「黒紫色は混ざっていない」
アルフィアが言った。
「銀色の性質だけだ」
「危なかったけど、成功だろ?」
「成功とは呼ばないわ」
ヘファイストスは厳しい顔で答える。
「結晶に亀裂が入った。あなたも黒紫色の力へ引き込まれかけた」
「でも、取れた」
「結果だけを見ないこと」
「じゃあ捨てんのか?」
「捨てろとは言っていないわ」
ヘファイストスは、バンの掌へ手を近づける。
直接は触れず、そこに残る性質を慎重に観察した。
「本当に、均衡を保つ性質だけが抜けている」
「クレシューズへ使えるか?」
「量が少なすぎるわ。それに、まだ安定して取り出せたとは言えない」
「次はどうすんだ?」
「方法を変える」
「どんな?」
「銀色だけを引こうとするから、黒紫色が食いついてきた」
「なら、黒紫色も一緒に奪うのか?」
「それではあなたが危険よ」
ヘファイストスは金属箱を見る。
「二つを切り離すのではなく、均衡した状態のまま、ごく小さな一組として取り出す方法を考える」
「危険な方もクレシューズへ入れるのか」
ザルドの声が低くなる。
「そのままでは入れないわ」
「銀色が押さえ込める量だけ、黒紫色も一緒に抜く」
アルフィアが言った。
「そうよ。完全に敵を消すのではなく、制御できる形にしてからクレシューズへ渡す」
「危険じゃねぇのか?」
バンが聞く。
「危険よ」
「即答か」
「だから今日は終わり」
ヘファイストスは作業台の道具を片づけ始める。
「あなたの中にある銀色の性質も、こちらで確認するわ。勝手にクレシューズへ渡さないこと」
「少しくらい――」
「駄目よ」
「まだ何も言ってねぇぞ」
「言う顔をしている」
「お前ら、顔で判断しすぎじゃねぇか?」
「日頃の行いだ」
ザルドが答える。
アルフィアもようやくバンの腕を放した。
「次に止めろと言った時は、即座に切れ」
「切ろうとはしたぞ」
「遅い」
「銀色が取れそうだったからな」
「そのために黒紫色を取り込めば、クレシューズを直す前にお前が壊れる」
「オレはそう簡単に壊れねぇよ」
「不死ではない」
アルフィアの短い言葉に。
バンは返事を止めた。
以前なら。
どれほど危険な力でも、肉体で受け止めればよかった。
壊れても。
裂けても。
死んでも。
何度でも戻った。
今は違う。
不死を失ったことを後悔したことはない。
だが、無茶の先に何があるかは、以前より理解している。
「……分かったよ」
「本当に分かったのか」
「ああ。次はもう少し早く切る」
「もう少しではない。即座にだ」
「細けぇな」
「生き残るための最低条件だ」
アルフィアはそう言い、金属箱へ背を向けた。
バンは掌に残る銀色の性質を見る。
敵を押し潰す力ではない。
相手に合わせ。
暴れた流れを受け止め。
本来あるべき位置へ戻す力。
傷ついたクレシューズに必要なのは。
強さだけではなかった。
異なるものを受け入れながら。
それでも、自分自身であり続けるための均衡。
その答えが。
危険な結晶の中に、確かに存在していた。
今回は、アンタレスの結晶から「銀色の均衡」を取り出す最初の実験を描きました。
銀色の力だけを奪おうとすると、結びついた黒紫色の力までバンへ食いついてくるため、角芯とはまったく異なる危険性があります。
次は、クレシューズの内部に残る流れと、巨人族の名工ダブズが神器へ込めた構造へ迫ります。