強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第71話 名工の残した道

アンタレスの結晶を使った実験から、二日が過ぎた。

 

その間、金属箱の封印は一度も解かれていない。

 

黒紫色の力が落ち着いているか。

 

銀色の均衡が亀裂をどこまで塞いだか。

 

ヘファイストスは器具越しに状態を確認し続けていたが、再び触れる許可は出さなかった。

 

バンの中に残っていた、ごく僅かな銀色の性質も。

 

小さな透明の鉱石へ一時的に移し、工房の奥へ隔離されている。

 

性質そのものに異常はなかった。

 

だが、どう扱えば安全にクレシューズへ渡せるのか。

 

まだ答えは出ていない。

 

そんな中。

 

バンは朝から、ヘファイストスの奥工房で椅子に座らされていた。

 

「いつまでこうしてりゃいいんだ?」

 

「動くなと言ったでしょう」

 

「もう半刻は座ってるぞ」

 

「まだ四半刻よ」

 

「大して変わんねぇだろ」

 

「変わるわ」

 

ヘファイストスは、作業台へ置かれたクレシューズから目を離さない。

 

四つの節。

 

それぞれをつなぐ鎖。

 

鋭く尖った先端。

 

表面に走る損傷。

 

特にアンタレスとの戦いで負荷が集中した接続部には、目では見えにくい細かなひびが残っていた。

 

クレシューズの下には、薄い金属板が敷かれている。

 

その板から伸びた細い線が、周囲に並べられた複数の魔石器具へつながっていた。

 

「これ、何見てんだ?」

 

「力の流れよ」

 

「何も流してねぇぞ」

 

「あなたが握っているでしょう」

 

バンの右手は、クレシューズの中央の節へ添えられている。

 

強く握ってはいない。

 

《贈与》も。

 

《強奪》も使っていない。

 

ただ触れているだけだった。

 

「それだけで変わんのか?」

 

「変わっているから調べているの」

 

ヘファイストスは一つの器具へ顔を近づける。

 

透明な魔石の内部。

 

細い光が、弱く明滅している。

 

バンがクレシューズへ触れている間だけ。

 

損傷した四つの節の間を、微かな流れが巡っていた。

 

手を離せば。

 

その光は弱まり。

 

やがて、ほとんど見えなくなる。

 

「離して」

 

バンが手を放す。

 

魔石の光が薄れる。

 

「もう一度」

 

「何回やんだよ」

 

「黙ってやりなさい」

 

再び握る。

 

消えかけていた光が戻った。

 

ただし、毎回まったく同じ動きをするわけではない。

 

中央の節から外側へ向かい。

 

傷の周囲を通り。

 

途切れた部分を避けながら、別の道を探している。

 

「おかしいわね」

 

ヘファイストスが呟いた。

 

「壊れてんだから、おかしくて普通だろ」

 

「そういう意味ではないわ」

 

壁際に立っていたアルフィアが、器具へ視線を向ける。

 

「同じ場所を流れていない」

 

「ええ」

 

ヘファイストスが頷く。

 

「途切れた箇所へ何度も戻ろうとしている。でも、通れないと分かると別の道を探している」

 

「ただ力が漏れているだけではないのか」

 

ザルドが尋ねた。

 

「漏れているなら、外へ散るはずよ」

 

ヘファイストスは細い針を取り、金属板の端に触れる。

 

「でも、外へ逃げる量はほとんどない。内部で循環している」

 

「どこへ向かってんだ?」

 

バンがクレシューズを持ち上げようとする。

 

「動かさないで」

 

「見えねぇから聞いてんだよ」

 

「傷の前後よ」

 

ヘファイストスは、接続部に残るひびを指した。

 

「途切れた流れが、両側から同じ場所へ集まっている」

 

「傷を塞ごうとしている」

 

アルフィアが言った。

 

「まだ断定はできないわ」

 

「だが、他に何がある」

 

「それを今から確かめるのよ」

 

ヘファイストスは作業台の横から、小さな金属片を取り出した。

 

前回の実験で使った、バンの手へ馴染ませた小刀。

 

刃先へ《贈与》を施したものの、時間が経つと再び傷が戻った品だった。

 

「これと比べるわ」

 

「また直すのか?」

 

「少量だけ力を渡して」

 

バンは小刀を握る。

 

すでに何度か使ったため、以前より手へ馴染んでいる。

 

刃先に残る小さな欠けへ意識を向けた。

 

「贈与《ギフト》」

 

僅かな力が、柄から刃へ流れる。

 

欠けた部分が微かに縮む。

 

「止めて」

 

バンが手を離す。

 

小刀の内部に、力は残っている。

 

だが、その流れは一定だった。

 

欠けを押さえ込むだけで。

 

自ら別の道を探すことも。

 

傷の両側から近づくこともない。

 

「やはり違うわ」

 

ヘファイストスは小刀を置いた。

 

「普通の道具は、渡された力を受け取ることはできても、それをどう使うかまでは決められない」

 

「クレシューズは決めてるってことか?」

 

「少なくとも、損傷する前の流れへ戻ろうとしている」

 

バンの表情から、いつもの軽さが少し消える。

 

「戻ろうとしてる」

 

「ええ」

 

ヘファイストスは、クレシューズの中央の節へ指先を近づけた。

 

直接は触れない。

 

鍛冶神の目で。

 

構造と。

 

力の動きだけを見つめる。

 

「この武器は、壊れたままでいようとしていないわ」

 

「どういう意味だ?」

 

「傷の周囲に残っている流れが、何度も元の位置へ戻ろうとしている。あなたが握るたびにね」

 

ヘファイストスは四つの節を順番に指した。

 

「最初は、持ち主の力が流れ込んでいるだけだと思った。でも違う」

 

「何が違う」

 

ザルドが尋ねる。

 

「バンの力を、そのまま巡らせているのではない。クレシューズ自身の中に残る流れが、彼をきっかけに動き出している」

 

「オレが握ると、こいつが目ぇ覚ますみてぇなもんか」

 

「ずいぶん大雑把だけれど、近いわね」

 

「なら、やっぱ生きてんじゃねぇか」

 

「生命があるとは言っていないわ」

 

「でも、戻ろうとしてんだろ?」

 

「構造として、よ」

 

ヘファイストスは慎重に言葉を選ぶ。

 

「ダブズが何を考えて、この仕組みを作ったのかは分からない。最初から修復を想定していたのか。それとも、持ち主の力へ応えるよう作った結果、こうなったのか」

 

「本人に聞けねぇからな」

 

「ええ。だから断定はしないわ」

 

ヘファイストスは僅かに目を細めた。

 

「でも、一つだけ言える」

 

工房の空気が静まる。

 

「巨人族の名工ダブズは、ただ壊れにくい武器を作ったのではない」

 

「じゃあ、何を作った?」

 

「持ち主と共にある限り、壊れても本来の姿へ戻ろうとする武器よ」

 

バンは何も言わなかった。

 

クレシューズを見下ろす。

 

バステ監獄で没収され。

 

長く離れ。

 

それでも戻ってきた神器。

 

煉獄を越えた後の自分が握り。

 

インデュラの幼体を一掃し。

 

異世界へ落ちても。

 

アンタレスとの戦いで傷ついても。

 

いまだ手の中にある相棒。

 

「……お前らしいな」

 

バンが小さく笑う。

 

「何がだ」

 

アルフィアが尋ねた。

 

「離れても戻ってきて、壊れても戻ろうとする」

 

「武器へ自分を重ねるな」

 

「いいだろ、別に」

 

「気色が悪い」

 

「容赦ねぇな」

 

ザルドが、クレシューズの損傷部へ目を向ける。

 

「戻ろうとするなら、なぜ今まで直らなかった」

 

「足りないものがあるからよ」

 

ヘファイストスが答えた。

 

「流れは戻ろうとしている。でも、傷を塞ぐための強度がない」

 

「だから角芯か」

 

「ええ。ベヒーモスの角芯から、衝撃を分散し、損傷へ耐える性質を補う」

 

「それだけでは硬くなりすぎる」

 

アルフィアが言う。

 

「そう。異なる性質を取り込めば、今度は内部の均衡が崩れる可能性がある」

 

「そこで結晶だな」

 

バンが言った。

 

「正確には、結晶が持つ均衡の性質よ」

 

ヘファイストスは作業台へ、二枚の薄い金属板を置いた。

 

一枚は、角芯の性質を与えられたもの。

 

もう一枚は、バンの中から取り出した銀色の性質を、ごく微量だけ移した試験片。

 

「角芯の性質は、外から受ける衝撃へ耐えるためのもの」

 

最初の板を指す。

 

「銀色の性質は、内部で異なる力が反発した時、流れを整えるためのもの」

 

二枚目を指す。

 

「どちらか一つだけでは足りない」

 

「二つを一緒に入れる」

 

「そうよ。ただし、直接混ぜるのではない」

 

「オレが奪って、オレが渡す」

 

「ええ」

 

ヘファイストスはクレシューズを見つめた。

 

「まず、角芯から必要な性質を取り出す」

 

「それを《贈与》でこいつへ渡す」

 

「受け取ったクレシューズが、自分の流れに合わせて傷を塞ぎ始める」

 

「でも、新しい性質が強すぎたら内部が乱れる」

 

ザルドが続ける。

 

「その乱れを、結晶の均衡で整える」

 

「それで終わりか?」

 

バンが尋ねた。

 

「成功すればね」

 

「失敗したら?」

 

「角芯の性質だけが一部へ偏れば、節の動きが止まる」

 

ヘファイストスの声に冗談はなかった。

 

「均衡が足りなければ、四つの節で力の流れが衝突する」

 

「壊れるのか」

 

「今より悪化する可能性もあるわ」

 

「結晶の黒紫色が混ざれば?」

 

「その時点で中止よ」

 

アルフィアが即座に言った。

 

「中止で済むのか?」

 

「済ませる」

 

「随分自信あんな」

 

「お前を殴ってでも止める」

 

「できんのか?」

 

「試すか」

 

「やめなさい」

 

ヘファイストスが二人を睨む。

 

「今は方法を決めているの。喧嘩なら外でやって」

 

バンは肩をすくめた。

 

「で、次は何すんだ?」

 

「クレシューズが、どのくらいの量なら受け取れるかを調べる」

 

「角芯から本番用を奪うのか?」

 

「まだよ」

 

「またか」

 

「先に、あなた自身の力を使うわ」

 

「オレの?」

 

「昨日までの実験で、少量の《贈与》ならクレシューズへ通せる可能性は高いと分かった」

 

「なら、もう渡せばいいだろ」

 

「修復させるほどは渡さない」

 

ヘファイストスは中央の節を指す。

 

「力を受け取った時、どの傷へ流そうとするかを見るだけ」

 

「足りねぇ力でも動くのか?」

 

「戻ろうとしているなら、反応は出るはずよ」

 

「分かった」

 

バンはクレシューズを両手で持つ。

 

傷ついた四節棍。

 

手へ返る重さは、変わらない。

 

だが、先ほどまでとは違って感じられた。

 

壊れて止まっているのではない。

 

今も。

 

見えないところで。

 

元の形を探し続けている。

 

「少しだけよ」

 

「分かってる」

 

「私が止めるまで増やさないこと」

 

「ああ」

 

「返事が軽い」

 

「何て言や満足すんだよ」

 

「黙って始めなさい」

 

「へいへい」

 

バンは目を閉じた。

 

自分の中にある力を。

 

細く。

 

僅かに切り分ける。

 

「贈与《ギフト》」

 

力が、クレシューズへ流れる。

 

中央の節から。

 

鎖へ。

 

外側の節へ。

 

魔石器具の光が、一斉に明滅した。

 

「動いた」

 

ザルドが呟く。

 

これまで傷の前で止まっていた流れが。

 

力を受け取った瞬間。

 

複数の道へ分かれる。

 

一つは、損傷の浅い接続部へ。

 

一つは、鎖の内部へ。

 

そして最も強い流れが。

 

アンタレスとの戦いで深く傷ついた節へ集まった。

 

「止めて」

 

バンが《贈与》を解く。

 

それでも。

 

クレシューズの内部を巡る光は、すぐには消えなかった。

 

傷の両側から。

 

何度も。

 

何度も。

 

互いへ近づこうとしている。

 

届かない。

 

塞がらない。

 

だが。

 

諦めてもいなかった。

 

「間違いないわ」

 

ヘファイストスの声には、今までになかった確信があった。

 

「クレシューズ自身が、損傷した箇所を選んでいる」

 

「なら、こいつに必要なもん渡せば」

 

「自分で戻る」

 

アルフィアが言った。

 

「そうよ」

 

ヘファイストスはバンを見る。

 

「直すのは私じゃない」

 

赤髪の女神は、作業台へ置かれた二つの試験片。

 

角芯。

 

封じられた結晶。

 

そして傷ついた神器へ、順番に視線を向けた。

 

「あなたと、その武器自身よ」

 

バンは口元を上げる。

 

「最初から、そう言ってただろ」

 

「可能性の話だったわ」

 

「今は?」

 

「方法が見えた」

 

「なら、あとはやるだけだな」

 

「簡単に言わないで」

 

「難しい顔しても、やることは変わんねぇだろ」

 

「失敗しないために考えるのよ」

 

「失敗したら、もう一回やる」

 

「素材が灰になれば、次はない」

 

「なら、一回で決める」

 

ヘファイストスは、しばらくバンを見つめた。

 

軽い口調。

 

いつもの笑み。

 

だが。

 

クレシューズを握る手だけは、僅かにも揺れていない。

 

「本番は、明日ではないわ」

 

「何でだ?」

 

「結晶の亀裂が完全に安定していない。それに、手順をもっと細かく決める必要がある」

 

「何日だ?」

 

「早くても三日後」

 

「長ぇな」

 

「待てないなら修復は諦めなさい」

 

「誰が諦めるかよ」

 

バンはクレシューズを布へ戻す。

 

包みを閉じる直前。

 

指先で、中央の節を軽く叩いた。

 

「聞いたか?」

 

「誰に話している」

 

アルフィアが尋ねる。

 

「相棒に決まってんだろ」

 

「返事はあったのか」

 

「ああ」

 

「何と言った」

 

「さっさと直せってよ」

 

「お前の願望だ」

 

「同じだろ」

 

アルフィアは呆れたように目を細める。

 

ザルドは小さく息を吐き。

 

ヘファイストスは作業台の器具を片づけ始めた。

 

傷ついた神器。

 

巨獣の角芯。

 

災厄の結晶。

 

奪う力と。

 

与える力。

 

すべての道筋が。

 

ようやく、一つへつながった。

 

残るのは。

 

失敗の許されない修復だけだった。




今回は、クレシューズがバンをきっかけに、自ら損傷前の流れへ戻ろうとしていることが判明する回でした。

ダブズが修復まで意図していたとは断定せず、持ち主へ応える構造が結果として「壊れても本来の姿へ戻ろうとする力」になっている形です。

第66話で示された「直すのはバンとクレシューズ自身」という言葉が、ここで具体的な修復方法へつながりました。
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