アンタレスの結晶を使った実験から、二日が過ぎた。
その間、金属箱の封印は一度も解かれていない。
黒紫色の力が落ち着いているか。
銀色の均衡が亀裂をどこまで塞いだか。
ヘファイストスは器具越しに状態を確認し続けていたが、再び触れる許可は出さなかった。
バンの中に残っていた、ごく僅かな銀色の性質も。
小さな透明の鉱石へ一時的に移し、工房の奥へ隔離されている。
性質そのものに異常はなかった。
だが、どう扱えば安全にクレシューズへ渡せるのか。
まだ答えは出ていない。
そんな中。
バンは朝から、ヘファイストスの奥工房で椅子に座らされていた。
「いつまでこうしてりゃいいんだ?」
「動くなと言ったでしょう」
「もう半刻は座ってるぞ」
「まだ四半刻よ」
「大して変わんねぇだろ」
「変わるわ」
ヘファイストスは、作業台へ置かれたクレシューズから目を離さない。
四つの節。
それぞれをつなぐ鎖。
鋭く尖った先端。
表面に走る損傷。
特にアンタレスとの戦いで負荷が集中した接続部には、目では見えにくい細かなひびが残っていた。
クレシューズの下には、薄い金属板が敷かれている。
その板から伸びた細い線が、周囲に並べられた複数の魔石器具へつながっていた。
「これ、何見てんだ?」
「力の流れよ」
「何も流してねぇぞ」
「あなたが握っているでしょう」
バンの右手は、クレシューズの中央の節へ添えられている。
強く握ってはいない。
《贈与》も。
《強奪》も使っていない。
ただ触れているだけだった。
「それだけで変わんのか?」
「変わっているから調べているの」
ヘファイストスは一つの器具へ顔を近づける。
透明な魔石の内部。
細い光が、弱く明滅している。
バンがクレシューズへ触れている間だけ。
損傷した四つの節の間を、微かな流れが巡っていた。
手を離せば。
その光は弱まり。
やがて、ほとんど見えなくなる。
「離して」
バンが手を放す。
魔石の光が薄れる。
「もう一度」
「何回やんだよ」
「黙ってやりなさい」
再び握る。
消えかけていた光が戻った。
ただし、毎回まったく同じ動きをするわけではない。
中央の節から外側へ向かい。
傷の周囲を通り。
途切れた部分を避けながら、別の道を探している。
「おかしいわね」
ヘファイストスが呟いた。
「壊れてんだから、おかしくて普通だろ」
「そういう意味ではないわ」
壁際に立っていたアルフィアが、器具へ視線を向ける。
「同じ場所を流れていない」
「ええ」
ヘファイストスが頷く。
「途切れた箇所へ何度も戻ろうとしている。でも、通れないと分かると別の道を探している」
「ただ力が漏れているだけではないのか」
ザルドが尋ねた。
「漏れているなら、外へ散るはずよ」
ヘファイストスは細い針を取り、金属板の端に触れる。
「でも、外へ逃げる量はほとんどない。内部で循環している」
「どこへ向かってんだ?」
バンがクレシューズを持ち上げようとする。
「動かさないで」
「見えねぇから聞いてんだよ」
「傷の前後よ」
ヘファイストスは、接続部に残るひびを指した。
「途切れた流れが、両側から同じ場所へ集まっている」
「傷を塞ごうとしている」
アルフィアが言った。
「まだ断定はできないわ」
「だが、他に何がある」
「それを今から確かめるのよ」
ヘファイストスは作業台の横から、小さな金属片を取り出した。
前回の実験で使った、バンの手へ馴染ませた小刀。
刃先へ《贈与》を施したものの、時間が経つと再び傷が戻った品だった。
「これと比べるわ」
「また直すのか?」
「少量だけ力を渡して」
バンは小刀を握る。
すでに何度か使ったため、以前より手へ馴染んでいる。
刃先に残る小さな欠けへ意識を向けた。
「贈与《ギフト》」
僅かな力が、柄から刃へ流れる。
欠けた部分が微かに縮む。
「止めて」
バンが手を離す。
小刀の内部に、力は残っている。
だが、その流れは一定だった。
欠けを押さえ込むだけで。
自ら別の道を探すことも。
傷の両側から近づくこともない。
「やはり違うわ」
ヘファイストスは小刀を置いた。
「普通の道具は、渡された力を受け取ることはできても、それをどう使うかまでは決められない」
「クレシューズは決めてるってことか?」
「少なくとも、損傷する前の流れへ戻ろうとしている」
バンの表情から、いつもの軽さが少し消える。
「戻ろうとしてる」
「ええ」
ヘファイストスは、クレシューズの中央の節へ指先を近づけた。
直接は触れない。
鍛冶神の目で。
構造と。
力の動きだけを見つめる。
「この武器は、壊れたままでいようとしていないわ」
「どういう意味だ?」
「傷の周囲に残っている流れが、何度も元の位置へ戻ろうとしている。あなたが握るたびにね」
ヘファイストスは四つの節を順番に指した。
「最初は、持ち主の力が流れ込んでいるだけだと思った。でも違う」
「何が違う」
ザルドが尋ねる。
「バンの力を、そのまま巡らせているのではない。クレシューズ自身の中に残る流れが、彼をきっかけに動き出している」
「オレが握ると、こいつが目ぇ覚ますみてぇなもんか」
「ずいぶん大雑把だけれど、近いわね」
「なら、やっぱ生きてんじゃねぇか」
「生命があるとは言っていないわ」
「でも、戻ろうとしてんだろ?」
「構造として、よ」
ヘファイストスは慎重に言葉を選ぶ。
「ダブズが何を考えて、この仕組みを作ったのかは分からない。最初から修復を想定していたのか。それとも、持ち主の力へ応えるよう作った結果、こうなったのか」
「本人に聞けねぇからな」
「ええ。だから断定はしないわ」
ヘファイストスは僅かに目を細めた。
「でも、一つだけ言える」
工房の空気が静まる。
「巨人族の名工ダブズは、ただ壊れにくい武器を作ったのではない」
「じゃあ、何を作った?」
「持ち主と共にある限り、壊れても本来の姿へ戻ろうとする武器よ」
バンは何も言わなかった。
クレシューズを見下ろす。
バステ監獄で没収され。
長く離れ。
それでも戻ってきた神器。
煉獄を越えた後の自分が握り。
インデュラの幼体を一掃し。
異世界へ落ちても。
アンタレスとの戦いで傷ついても。
いまだ手の中にある相棒。
「……お前らしいな」
バンが小さく笑う。
「何がだ」
アルフィアが尋ねた。
「離れても戻ってきて、壊れても戻ろうとする」
「武器へ自分を重ねるな」
「いいだろ、別に」
「気色が悪い」
「容赦ねぇな」
ザルドが、クレシューズの損傷部へ目を向ける。
「戻ろうとするなら、なぜ今まで直らなかった」
「足りないものがあるからよ」
ヘファイストスが答えた。
「流れは戻ろうとしている。でも、傷を塞ぐための強度がない」
「だから角芯か」
「ええ。ベヒーモスの角芯から、衝撃を分散し、損傷へ耐える性質を補う」
「それだけでは硬くなりすぎる」
アルフィアが言う。
「そう。異なる性質を取り込めば、今度は内部の均衡が崩れる可能性がある」
「そこで結晶だな」
バンが言った。
「正確には、結晶が持つ均衡の性質よ」
ヘファイストスは作業台へ、二枚の薄い金属板を置いた。
一枚は、角芯の性質を与えられたもの。
もう一枚は、バンの中から取り出した銀色の性質を、ごく微量だけ移した試験片。
「角芯の性質は、外から受ける衝撃へ耐えるためのもの」
最初の板を指す。
「銀色の性質は、内部で異なる力が反発した時、流れを整えるためのもの」
二枚目を指す。
「どちらか一つだけでは足りない」
「二つを一緒に入れる」
「そうよ。ただし、直接混ぜるのではない」
「オレが奪って、オレが渡す」
「ええ」
ヘファイストスはクレシューズを見つめた。
「まず、角芯から必要な性質を取り出す」
「それを《贈与》でこいつへ渡す」
「受け取ったクレシューズが、自分の流れに合わせて傷を塞ぎ始める」
「でも、新しい性質が強すぎたら内部が乱れる」
ザルドが続ける。
「その乱れを、結晶の均衡で整える」
「それで終わりか?」
バンが尋ねた。
「成功すればね」
「失敗したら?」
「角芯の性質だけが一部へ偏れば、節の動きが止まる」
ヘファイストスの声に冗談はなかった。
「均衡が足りなければ、四つの節で力の流れが衝突する」
「壊れるのか」
「今より悪化する可能性もあるわ」
「結晶の黒紫色が混ざれば?」
「その時点で中止よ」
アルフィアが即座に言った。
「中止で済むのか?」
「済ませる」
「随分自信あんな」
「お前を殴ってでも止める」
「できんのか?」
「試すか」
「やめなさい」
ヘファイストスが二人を睨む。
「今は方法を決めているの。喧嘩なら外でやって」
バンは肩をすくめた。
「で、次は何すんだ?」
「クレシューズが、どのくらいの量なら受け取れるかを調べる」
「角芯から本番用を奪うのか?」
「まだよ」
「またか」
「先に、あなた自身の力を使うわ」
「オレの?」
「昨日までの実験で、少量の《贈与》ならクレシューズへ通せる可能性は高いと分かった」
「なら、もう渡せばいいだろ」
「修復させるほどは渡さない」
ヘファイストスは中央の節を指す。
「力を受け取った時、どの傷へ流そうとするかを見るだけ」
「足りねぇ力でも動くのか?」
「戻ろうとしているなら、反応は出るはずよ」
「分かった」
バンはクレシューズを両手で持つ。
傷ついた四節棍。
手へ返る重さは、変わらない。
だが、先ほどまでとは違って感じられた。
壊れて止まっているのではない。
今も。
見えないところで。
元の形を探し続けている。
「少しだけよ」
「分かってる」
「私が止めるまで増やさないこと」
「ああ」
「返事が軽い」
「何て言や満足すんだよ」
「黙って始めなさい」
「へいへい」
バンは目を閉じた。
自分の中にある力を。
細く。
僅かに切り分ける。
「贈与《ギフト》」
力が、クレシューズへ流れる。
中央の節から。
鎖へ。
外側の節へ。
魔石器具の光が、一斉に明滅した。
「動いた」
ザルドが呟く。
これまで傷の前で止まっていた流れが。
力を受け取った瞬間。
複数の道へ分かれる。
一つは、損傷の浅い接続部へ。
一つは、鎖の内部へ。
そして最も強い流れが。
アンタレスとの戦いで深く傷ついた節へ集まった。
「止めて」
バンが《贈与》を解く。
それでも。
クレシューズの内部を巡る光は、すぐには消えなかった。
傷の両側から。
何度も。
何度も。
互いへ近づこうとしている。
届かない。
塞がらない。
だが。
諦めてもいなかった。
「間違いないわ」
ヘファイストスの声には、今までになかった確信があった。
「クレシューズ自身が、損傷した箇所を選んでいる」
「なら、こいつに必要なもん渡せば」
「自分で戻る」
アルフィアが言った。
「そうよ」
ヘファイストスはバンを見る。
「直すのは私じゃない」
赤髪の女神は、作業台へ置かれた二つの試験片。
角芯。
封じられた結晶。
そして傷ついた神器へ、順番に視線を向けた。
「あなたと、その武器自身よ」
バンは口元を上げる。
「最初から、そう言ってただろ」
「可能性の話だったわ」
「今は?」
「方法が見えた」
「なら、あとはやるだけだな」
「簡単に言わないで」
「難しい顔しても、やることは変わんねぇだろ」
「失敗しないために考えるのよ」
「失敗したら、もう一回やる」
「素材が灰になれば、次はない」
「なら、一回で決める」
ヘファイストスは、しばらくバンを見つめた。
軽い口調。
いつもの笑み。
だが。
クレシューズを握る手だけは、僅かにも揺れていない。
「本番は、明日ではないわ」
「何でだ?」
「結晶の亀裂が完全に安定していない。それに、手順をもっと細かく決める必要がある」
「何日だ?」
「早くても三日後」
「長ぇな」
「待てないなら修復は諦めなさい」
「誰が諦めるかよ」
バンはクレシューズを布へ戻す。
包みを閉じる直前。
指先で、中央の節を軽く叩いた。
「聞いたか?」
「誰に話している」
アルフィアが尋ねる。
「相棒に決まってんだろ」
「返事はあったのか」
「ああ」
「何と言った」
「さっさと直せってよ」
「お前の願望だ」
「同じだろ」
アルフィアは呆れたように目を細める。
ザルドは小さく息を吐き。
ヘファイストスは作業台の器具を片づけ始めた。
傷ついた神器。
巨獣の角芯。
災厄の結晶。
奪う力と。
与える力。
すべての道筋が。
ようやく、一つへつながった。
残るのは。
失敗の許されない修復だけだった。
今回は、クレシューズがバンをきっかけに、自ら損傷前の流れへ戻ろうとしていることが判明する回でした。
ダブズが修復まで意図していたとは断定せず、持ち主へ応える構造が結果として「壊れても本来の姿へ戻ろうとする力」になっている形です。
第66話で示された「直すのはバンとクレシューズ自身」という言葉が、ここで具体的な修復方法へつながりました。