第74話 迷宮への入口
聖棍クレシューズの修復を終えてから、二日が過ぎた。
ヘファイストスに止められた通り、バンは丸一日、神器を本格的に振るわなかった。
時折、教会の地下で手に取り。
四つに分かれた棍を伸ばし。
曲げ。
元へ戻す。
それだけで終わらせた。
以前まで残っていた軋みはない。
節と節の繋がりも滑らかで、力を通した時の僅かな遅れも消えている。
ただし。
修復前とまったく同じかと聞かれれば、違う。
握った手から伝わる感触が、以前より僅かに深い。
バンが力を込めれば、それを受け止め。
逆に余計な力が加われば、棍の内側で散らしている。
神器自身が、持ち主の動きへ合わせて呼吸しているようだった。
「悪くねぇな」
クレシューズを短く戻し、肩へ担ぐ。
壊れた相棒は、確かに戻ってきた。
ならば次にすることは決まっている。
試す。
どこまで直ったのか。
どこまで以前と同じように動くのか。
そして。
どれほど変わったのか。
教会の地下に立ったまま、バンは天井を見上げた。
ゼウスが最後に指さした場所。
この都市の真下に存在する、生きた迷宮。
神々ですら正体を掴みきれていないという、世界唯一のダンジョン。
オラリオへ来てから何度も耳にした。
冒険者。
魔石。
階層。
階層主。
安全階層。
深層。
地上には存在しない怪物たちが、壁から生まれ続ける場所。
バンがこれまで歩いてきた荒野や砂漠、森とも違う。
自ら生き物を生み出し。
壊された場所を直し。
侵入者を飲み込もうとする巨大な穴。
「見に行ってみるか」
誰へ告げるでもなく、バンはそう言った。
地下から地上へ上がる。
崩れた礼拝堂には、朝の光が斜めに差し込んでいた。
壁は欠け。
天井の一部は落ちたまま。
それでも、以前より埃は減っている。
バンが寝床として使い始めてから、邪魔な瓦礫だけは端へ寄せていた。
長椅子の残骸に置いていた赤い長衣を羽織る。
普段使っている大きな鞄は、今日は持たない。
中身も空に近い。
どうせ、少し見て戻ってくるだけだ。
そう考え。
クレシューズを肩へ担いだまま、教会を出た。
◇
朝のオラリオは、すでに多くの人間で溢れていた。
武器を持った冒険者。
背負子を担ぐサポーター。
露店を開く商人。
荷車を引く獣人。
酒の匂いを残したまま宿から出てくる者。
これから仕事へ向かう者と。
夜を越えて戻ってきた者が。
同じ通りを逆方向へ歩いている。
その流れの多くは、都市の中央へ向かっていた。
バンも人波へ混ざる。
目印を探す必要はなかった。
遠くからでも分かる。
都市の中央。
周囲の建物より遥かに大きな施設。
冒険者たちが集まり。
その足元へ、絶えず人が吸い込まれている。
万神殿――パンテオン。
ギルドの本部であり。
ダンジョンへ続く正規の入口でもある場所。
近づくほど、周囲の空気が変わった。
街中を歩く冒険者には、まだどこか気の抜けた顔をした者もいる。
だが、入口へ向かう者たちは違う。
革紐を締め直し。
武器の刃を確かめ。
荷物の数を数え。
仲間同士で短く言葉を交わしている。
「水袋は三つで足りるか?」
「今日は十階層までだ。余裕を持って四つにしろ」
「回収袋は?」
「二つ追加した。昨日みたいに魔石を裸で詰めるなよ」
「分かってるって」
若い冒険者たちの会話を聞きながら、バンは歩く。
別の集団では、髭を生やした男が仲間を睨んでいた。
「帰還時刻を忘れるな。日が沈む前には戻るぞ」
「もう少し下まで行けるだろ」
「行けるかどうかじゃない。戻れるかどうかで決めろ」
その言葉に、隣の少女が何度も頷いている。
バンは横目で見ただけで、足を止めなかった。
パンテオンの正面には、何本もの太い柱が並んでいた。
大きく開かれた入口。
その奥には広い中央広間。
右手と左手には、ギルド職員が並ぶ受付。
正面奥。
地下へ向かって、大階段が口を開けている。
次々と冒険者が階段を下りていく。
上がってくる者もいた。
無傷の者。
泥まみれの者。
仲間に肩を借りている者。
血で染まった布を腕へ巻いている者。
壊れた剣だけを抱えて戻ってきた者。
その表情は様々だった。
満足そうに笑う者もいれば。
何も言わず、床だけを見つめて歩く者もいる。
担架が一つ、バンの横を通った。
上に乗せられていたのは若い男だった。
胸は動いている。
生きてはいる。
だが、右脚は膝から下がなかった。
付き添っていた仲間の少女が、顔を伏せたまま歩いている。
バンはその姿を一度見送り。
正面へ向き直った。
「なるほどな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
死ぬ場所だ。
それでも。
これだけの人間が、毎日のように地下へ下りていく。
金のため。
名誉のため。
強くなるため。
それぞれ理由は違うのだろう。
ただ一つ。
誰も、無理やり連れていかれてはいない。
自分の足で。
あの階段を下りている。
バンは僅かに口元を上げた。
そのまま、大階段へ向かう。
周囲の冒険者たちは、特に彼を気にしなかった。
赤い長衣。
肩に担いだ奇妙な四節棍。
オラリオには、もっと派手な装備をした者がいくらでもいる。
一人で歩いている者も珍しくない。
階段の手前には、数人のギルド職員と武装した衛兵が立っていた。
全員を細かく止めているわけではない。
だが、見慣れない顔。
装備に不備のある者。
明らかに幼い者。
不自然な動きをする者には、声をかけている。
バンは構わず進んだ。
あと数歩で階段へ届く。
「そちらの方」
横から声が飛んできた。
バンは足を止める。
声をかけたのは、紺色の制服を着た女性職員だった。
年齢は二十代半ばほど。
茶色い髪を後ろで束ね。
胸元にはギルドの印章が付いている。
「少々よろしいでしょうか」
「何だ?」
「初めてお見かけします。所属ファミリアを確認させてください」
「入ってねぇぞ」
職員の手が止まった。
「……無所属ということでしょうか」
「ああ」
「現在、どの神の眷属でもない、と?」
「そう言ってんだろ」
女性職員は、一度バンの姿を上から下まで確認した。
武器は持っている。
防具はない。
鞄もない。
サポーターもいない。
同行者もいない。
「では、神の恩恵は授かっていないのですか?」
「ねぇな」
周囲の音が、僅かに遠ざかったように感じた。
職員の表情から、営業用の柔らかさが消える。
「申し訳ありませんが、ダンジョンへ入ることはできません」
「何でだ?」
「神の恩恵を受けていない方の入場は認められていません」
「見るだけだぞ」
「見るだけで済む場所ではありません」
「上の方なら弱ぇ奴しかいねぇんだろ?」
「それでもです」
職員は言葉を切り。
バンの後ろへ視線を向けた。
次々と冒険者たちが、二人の横を通り過ぎていく。
「ダンジョンでは、壁から突然モンスターが生まれます。安全だと思っていた通路が、次の瞬間には逃げ場のない戦場へ変わることもあります」
「へぇ」
「道に迷う者もいます。負傷して動けなくなる者もいます。帰還予定を過ぎれば、所属ファミリアやギルドが捜索を検討しなければなりません」
「オレを探しに来なくていいぞ」
「そういう問題ではありません」
職員の声が少しだけ強くなる。
「あなた一人が危険な目に遭うだけなら、自己責任という考え方もあるでしょう。しかし、遭難者が出れば、それを見つけた冒険者が助けようとします」
「助けなくていいって言えばいいだろ」
「瀕死の人間を前にして、その言葉を守れる者ばかりではありません」
バンは黙った。
「救助へ向かった者が負傷することもあります。予定を変更したことで、別の危険に巻き込まれることもある。無計画な侵入は、本人だけの問題では済まないのです」
職員はバンの目を正面から見た。
怯えてはいない。
怒っているわけでもない。
ただ。
何度も同じような者を止めてきた目だった。
「神の恩恵があれば、絶対に安全というわけではありません。それでも、最低限の力と、帰還できなかった場合に連絡を取る相手が必要です」
「オレにはいらねぇ」
「あなたが必要ないと判断することではありません」
「面倒だな」
「命に関わることですから」
バンは、職員の肩越しに階段を見た。
地下から。
湿った空気が上がってきている。
土とも。
石とも。
血とも違う匂い。
遠い場所で、何かが蠢いているような気配。
煉獄とは違う。
だが。
生きた場所だということだけは分かる。
「ファミリアに入ればいいのか?」
「最低限、それが必要です。主神から恩恵を授かり、ギルドへ所属を届け出たうえで、必要な説明を受けてください」
「恩恵なしじゃ駄目か」
「駄目です」
「例外は?」
「ありません」
即答だった。
バンは小さく息を吐く。
クレシューズを肩へ担ぎ直した。
その動きに、近くの衛兵が僅かに身構える。
バンはそれに気づいたが、何もしなかった。
「分かった」
「ご理解いただけましたか」
「ああ。今日は帰る」
女性職員の表情が僅かに緩む。
「ありがとうございます。ファミリアをお探しでしたら、ギルドでも一定の案内は――」
「いらねぇ」
バンは片手を上げ。
踵を返した。
職員と衛兵の前から離れる。
背後から、次の冒険者へ声をかける職員の声が聞こえてきた。
「所属を確認します」
「ディアナ・ファミリアです。今日は九階層まで」
「同行者は四名で間違いありませんか?」
「はい」
「帰還予定は夕刻ですね。お気をつけて」
バンは歩きながら、広間を見回す。
受付。
衛兵。
大階段。
冒険者の流れ。
入っていく者と。
戻ってくる者。
全員が一列に並び、細かく確認を受けているわけではない。
顔を覚えられている者は、短い挨拶だけで通る。
大人数の集団が来れば、職員の視線も分かれる。
荷物の確認へ意識が向く瞬間もある。
負傷者が運び込まれれば、衛兵の何人かがそちらへ動く。
広間の端まで進んだところで、バンは柱へ背を預けた。
帰るのではなく。
しばらく、その場から人の動きを眺める。
十人ほどのパーティーが入ってきた。
前衛。
魔導士。
弓使い。
大きな背負子を担いだサポーター。
職員が代表者と話している間、後ろの者たちは止まらず階段へ向かう。
別の場所では、若い冒険者が荷物を床へ広げ、年上の男に怒鳴られていた。
「何だ、この量は」
「一日なら十分だろ?」
「食料が足りん。水も少ない。回収袋も一つしかないじゃないか」
「魔石くらい、そのまま鞄に入れれば――」
「血と灰まみれにしたいなら好きにしろ。だが、途中で素材が出た時にどうする?」
「素材?」
「モンスターが魔石以外の物を残すことがある。運が良ければ、それだけで何日分もの稼ぎになる」
若い冒険者は慌てて荷物を見直す。
「じゃあ、袋を増やしてくる」
「ついでに食料と水も買え。戻るまでが探索だ」
「分かったよ」
二人は入口とは逆方向へ歩いていった。
バンは、その背中を目で追った。
「食い物と水か」
少し見るだけ。
そのつもりだった。
だが。
中がどれほど広いのかは分からない。
道に迷うとも聞いた。
モンスターが魔石以外の物を残すことがあるのは知っている。
ベヒーモスの角。
アンタレスの結晶。
あれらも、倒した後に残ったものだ。
ダンジョンの怪物が、何を残すのか。
それも少し気になった。
視線を大階段へ戻す。
職員はまだ入口に立っている。
衛兵もいる。
先ほどの女性職員と目が合った。
彼女は、バンがまだ帰っていないことに気づき。
僅かに眉を寄せた。
バンは片手を上げ。
今度こそパンテオンの出口へ向かった。
外へ出る。
朝よりも高くなった日差しが、石畳を照らしている。
人の流れは変わらず。
冒険者たちは次々と、バンの横を通り過ぎていく。
何人かが大きな鞄を背負い。
腰へ水袋を下げ。
食料を詰めた包みを抱えていた。
バンは足を止める。
振り返れば。
パンテオンの入口。
その奥に。
地下へ続く大階段が見えた。
「入れてくれねぇなら」
口元が、僅かに上がる。
「見つからずに入ればいいだけだな」
入る方法はある。
だが。
手ぶらで向かう必要もない。
バンは中央広場から離れ。
冒険者向けの店が並ぶ通りへ足を向けた。
第12部の始まりとなる、バンとダンジョンの最初の接触でした。力があっても、正式な資格がなければ入れないというオラリオ側の事情と、無理に突破せず人の動きを観察するバンを描いています。