パンテオンを離れたバンは、そのまま教会へ戻らなかった。
中央広場から一本外れた通り。
武器屋。
防具屋。
薬屋。
食料品店。
大小さまざまな店が、石造りの建物へ隙間なく並んでいる。
表へ突き出した看板には、剣や盾、水袋、背負子などが描かれていた。
通りを歩く者のほとんどが冒険者だった。
装備を修理へ出す者。
買ったばかりの短剣を眺める者。
値札を見て頭を抱える新人。
大量の食料を荷車へ積み込ませる遠征隊。
パンテオンへ向かう者たちを見ていた時よりも、ここでは目的がはっきりしている。
地下へ入るための準備。
そして。
地下から生きて帰るための準備だ。
「食い物と水だったな」
バンは通りの左右を見渡した。
少し見るだけのつもりだったが、道に迷う可能性がある。
ダンジョンがどれほど深いのか。
一階層がどれほど広いのか。
何も知らない。
なら、腹が減った時に戻るより。
初めから食料を持っていた方がいい。
酒も同じだ。
最初に入ったのは、干した肉や果物を店先へ並べた食料品店だった。
扉のない間口の広い店。
天井からは腸詰め肉が吊られ。
木箱には硬く焼いたパン。
棚には乾燥させた豆や芋、木の実が並んでいる。
店の奥にいた太い腕の男が、バンへ顔を向けた。
「いらっしゃい。日帰りか、泊まりか?」
「まだ決めてねぇ」
「……行き先は?」
「それも決めてねぇな」
店主は黙った。
バンの肩にあるクレシューズ。
防具のない身体。
空の鞄。
そして赤い長衣を順に見る。
「初めて潜るのか?」
「ああ」
「所属は?」
「何で買い物するだけで、そこまで聞かれんだ?」
「死人に売ったと言われると寝覚めが悪い」
「死なねぇよ」
「新人は皆そう言う」
店主は大きく息を吐き。
店先に並べていた硬いパンを一つ持ち上げた。
「まず、これは日持ちする。硬いが、水かスープに浸せば食える」
「そのままでも食えんだろ」
「食えるか食えないかならな」
バンは受け取り、指で軽く押した。
確かに硬い。
石ほどではないが、普通のパンとは呼びにくい。
「何日持つ?」
「湿らせなければ十日は持つ」
「じゃあ十個」
「初めての探索で十日分?」
「余ったら持って帰る」
「……好きにしろ」
店主は木箱へパンを詰め始めた。
次に、塩と香草を擦り込んだ干し肉。
干した果物。
固く乾燥させた豆。
保存の利くチーズ。
バンは匂いを確かめながら選んでいく。
「その肉は脂が少ないな」
「保存用だからな」
「こっちは?」
「そっちは旨いが、少し傷みやすい」
「何日だ?」
「四日から五日」
「なら両方入れろ」
「料理でもするつもりか?」
「食うなら旨い方がいいだろ」
店主は僅かに眉を上げた。
冒険者が味を気にしないわけではない。
だが、初心者が最初に尋ねるのは値段か保存期間。
肉の脂や香りから聞く者は少ない。
「鍋は持っているのか?」
「これから買う」
「火は?」
「何とかすんだろ」
「何とかならない場所もあるぞ」
「そん時はそのまま食う」
「何のために鍋を買うんだ」
店主が呆れながら干し肉を包む。
バンは棚の奥に並んだ小瓶へ目を向けた。
「そっちは?」
「塩、胡椒、乾燥香草。これは辛味の強い実を粉にしたものだ」
「全部くれ」
「料理店でも開くのか?」
「少ねぇ材料ほど、味付けが大事なんだよ」
バンは小瓶の蓋を開き、一つずつ香りを嗅いだ。
塩は粗い。
胡椒はやや香りが弱い。
乾燥香草には、肉の臭みを消すものと、煮込みへ向いたものが混ざっている。
辛味の粉は、舌を刺すというより、喉へ残る種類だった。
「こっちの香草は別にしてくれ」
「違いが分かるのか?」
「肉に使うのと、汁に入れるのじゃ違ぇだろ」
「……あんた、料理人か?」
「酒場で厨房をやってたことはあるぞ」
「冒険者じゃないのか?」
「どっちでもねぇな」
店主はますます分からないという顔をした。
食料を選び終え。
次に水袋を見る。
小さなもの。
腰へ下げるもの。
背負子へ固定する大きなもの。
種類は多い。
バンは中型の水袋を二つ手に取った。
「それだけか?」
「足りなきゃ途中で汲む」
「ダンジョンの水を何でも飲めると思うな。毒やモンスターの体液が混じっていることもある」
「見りゃ分かんだろ」
「分からないから死人が出る」
店主は三つ目の水袋を置いた。
「持っていけ」
「金は?」
「取るに決まってる」
「勝手に増やしたくせに」
「死なれて噂になるよりましだ」
バンは少し考え。
三つとも買うことにした。
水袋へ水を満たしてもらっている間、視線が別の棚へ移る。
酒瓶が並んでいた。
淡い黄金色の酒。
濃い褐色の酒。
無色透明の強い酒。
「こいつは?」
「麦酒じゃないぞ。火酒だ。度数が高い」
「飲ませろ」
「朝からか?」
「買う前に味を確かめるだけだ」
「一杯分は金を取る」
「構わねぇよ」
店主が小さな木杯へ注ぐ。
バンは香りを確かめ。
一口で飲んだ。
強い刺激。
雑味もある。
だが、地下へ持ち込むなら悪くない。
「二本」
「水より酒の方が多くなりそうだな」
「酒が切れた方が困る」
「初心者の言うことじゃない」
「初心者だとは言ってねぇだろ」
「初めて潜るなら初心者だ」
「そういうもんか?」
「そういうものだ」
食料と水、酒をまとめて代金を支払う。
かなりの量になった。
店主が店の奥から頑丈な木箱を出そうとしたが、バンは断った。
「鞄に入れる」
「その鞄で全部入るのか?」
「入らなきゃ押し込む」
「肉の包みを潰すなよ」
「味は変わらねぇだろ」
「食感が変わる」
「細けぇな」
「さっきまで香草の使い分けを語っていた奴が言うな」
バンは包みを受け取り。
まだ空いている鞄へひとまず詰めた。
すでに半分近くが埋まる。
これから鍋や袋も買う。
少し多かったかもしれない。
そう思ったが。
減らすつもりはなかった。
店を出ようとすると、店主が背中へ声をかける。
「随分買うな。遠出か?」
バンは振り返らず、片手だけを上げた。
「ちょっとダンジョンにな」
「初めての奴が、ちょっとで済む場所じゃないぞ」
返事はせず。
バンは次の店へ向かった。
◇
調理器具を扱う店は、食料品店から少し離れた場所にあった。
冒険者向けの店らしく。
家庭で使う大きな鍋より、持ち運びやすい小型の物が多い。
取っ手を折り畳める小鍋。
浅い鉄板。
金属製の杯。
厚手の串。
刃の短い調理用ナイフ。
バンは小鍋を持ち上げ、底を指で叩いた。
響きが軽い。
「そいつは安物だ」
店番の老人が椅子へ座ったまま言った。
「煮るだけなら十分だが、強い火に何度もかければ歪む」
「じゃあ、歪まねぇ奴は?」
「右から三つ目」
言われた鍋を持つ。
先ほどより重い。
底も厚く。
取っ手の付け根もしっかりしていた。
「これにする」
「値段を見なくていいのか?」
「壊れねぇならいい」
「金持ちの買い方だな」
「安いのを何度も買う方が面倒だろ」
浅い鉄板も同じように選ぶ。
肉を焼くなら、大きすぎない方がいい。
持ち運びを考え、片手で扱えるものにした。
最後に調理用ナイフ。
並んでいる刃を一つずつ見る。
指先で峰を押し。
重心を確かめ。
柄を握る。
「それは肉を切るには少し細いぞ」
「細かい処理に使う」
「なら、こっちは?」
「重心が前に寄りすぎてる」
「こっち」
「柄が滑る」
老人は椅子から立ち上がった。
棚の奥から、布に包まれた一本を取り出す。
「それならどうだ」
刃渡りは長すぎず。
厚みもある。
柄は木製だが、指が滑らないよう細い溝が彫られていた。
バンが軽く振る。
「悪くねぇな」
「冒険者が素材の解体にも使う品だ。骨へ無理に当てなければ長持ちする」
「骨くらいなら切れんだろ?」
「切るな。刃が欠ける」
「切れそうだけどな」
「切るな」
念を押され。
ナイフも購入した。
老人は品物を包みながら、バンの腰や背中を見る。
「戦闘用の短剣は?」
「いらねぇ」
「その棍だけで行くのか」
「ああ」
「防具は?」
「いらねぇ」
「薬は?」
「使わねぇ」
老人は手を止めた。
「死ぬ気か?」
「生きて帰る気しかねぇぞ」
「なら、せめて胸当てくらい買え」
「動きにくい」
「軽い革製もある」
「いらねぇ」
「頭を守る物は」
「邪魔だ」
「盾は」
「持つ手がもったいねぇ」
老人はバンの顔を見つめた。
「お前、客じゃなければ追い出しているところだぞ」
「買ってんだから客だろ」
「鍋と包丁しか買っていない」
「鉄板も買ったぞ」
「地下へ料理をしに行くつもりか?」
「腹が減ったら作る」
「……もう好きにしろ」
老人は包みを差し出した。
バンは受け取り、鞄の中へ入れる。
鍋の中へ香辛料の小瓶。
鉄板とナイフは側面へ。
隙間には保存食。
適当に入れているように見えるが。
瓶同士がぶつからず。
刃が水袋へ触れず。
取り出す順番にも困らないよう収められている。
長く旅を続けてきた者の手つきだった。
老人はそれを見て。
追い出す代わりに、僅かに目を細めた。
「野宿には慣れているのか」
「長かったからな」
「どれくらいだ」
「覚えてねぇ」
「ダンジョンは地上と同じじゃない」
「さっきから何人にも言われてるぞ」
「それでも分かっていない顔をしている」
「入ったことねぇからな」
「なら、覚えて帰ってこい」
バンは少しだけ笑った。
「ああ」
◇
最後に向かったのは、回収袋や背負子を扱う店だった。
店内には、大小の袋が壁一面へ吊られている。
布製。
革製。
内側へ油を塗り、水を弾くもの。
鋭い牙や爪を入れても破れにくい厚手のもの。
バンは頑丈そうな袋を数枚選んだ。
「魔石用なら、こっちの小袋で十分だ」
店員の若い獣人が、小さな袋を示す。
「でけぇのはねぇのか?」
「初めてなら小さい魔石が中心だろ。大袋を持っていっても邪魔になる」
「他の物も拾うかもしれねぇ」
「ドロップアイテムか?」
「ああ」
「そう簡単には落ちないぞ」
「落ちた時に入らねぇ方が困るだろ」
「それはそうだが……」
バンは小袋を四つ。
中型の袋を三つ。
厚手の大袋を一つ選んだ。
普段使っている鞄の中へ畳んで入れる。
「そんなに持っていって、全部埋めるつもりか?」
「見つけたら拾う」
「何が出るか知っているのか?」
「知らねぇ」
「なら、価値のない物まで持って帰ることになるぞ」
「いらなきゃ捨てりゃいいだろ」
「最初から拾わなければいい」
「拾わなきゃ価値があるか分かんねぇだろ」
若い店員は口を閉じた。
理屈としては間違っていない。
ただ。
地上の相場も、モンスターの種類も知らない男が、それを言っているのが不安だった。
「魔石は大きさだけで価値が決まるわけじゃない」
「へぇ」
「種類や質もある。見た目だけで選ぶなよ」
「じゃあ、何で選ぶ?」
「ギルドの資料を読むか、経験者に聞け」
「面倒だな」
「それを面倒がるな」
店員は代金を受け取りながら、棚の端に置かれた冊子を指した。
「上層の簡単な地図なら売っている」
バンは冊子を見る。
階層ごとに通路が描かれ。
何かの印がいくつも付いている。
「正確なのか?」
「ある程度はな。ただしダンジョンは壊れた場所を修復する。地形の一部が変わることもあるし、書かれていない通路もある」
「なら、なくても同じだろ」
「同じではない。迷う確率を減らせる」
「誰かが歩いてる方に行けば下へ行けんだろ」
「上へ帰る奴も歩いているぞ」
「そん時は戻る」
「時間の無駄だ」
「急いでねぇからな」
「……本当に初めてなのか?」
「ああ」
「なのに地図を買わない?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
「所属は?」
「それ、今日何度目だ?」
店員は額へ手を当てた。
「少なくとも、帰る日だけは決めておけ」
「気が済んだら帰る」
「それを決めていないと言うんだ!」
店の奥から、別の客が笑った。
年季の入った革鎧を着た男だった。
「諦めろ。そいつ、聞く顔をしてねぇぞ」
「笑い事じゃありませんよ」
「初日に痛い目を見れば戻ってくるさ」
「戻れればいいですけどね」
革鎧の男がバンへ視線を向ける。
「兄ちゃん。下へ向かう道が分からなくなったら、無理に壁沿いを歩くな」
「何でだ?」
「壁から生まれるからだよ」
「怪物がか」
「ああ。休むなら壁から少し離れろ。ただ、通路の真ん中で寝るなよ。今度は冒険者に踏まれる」
「覚えとく」
「素直なのか、素直じゃないのか分からんな」
男は肩をすくめた。
バンは買った袋をすべて鞄へ収め。
店を出た。
◇
それからも、すぐには教会へ戻らなかった。
昼を過ぎ。
冒険者たちが多く集まる食堂へ入る。
酒と肉料理を頼み。
壁際の席へ座った。
店内では、あちこちからダンジョンの話が聞こえてくる。
「今日は七階層までにするぞ」
「昨日も七階層だったじゃないか」
「キラーアントの群れに囲まれたのを忘れたのか?」
「今日は大丈夫だって」
「何を根拠に言っている」
キラーアント。
名前だけは聞いた。
どういう姿かは分からない。
別の席では、三人の冒険者が地図を広げている。
「十二階層を越えるなら、五人は欲しい」
「十三階層から中層だろ?」
「ああ。上層と同じつもりで行くな。魔物の強さが一段変わる」
「第十八階層まで行ければ休めるんだよな」
「行ければ、だ。リヴィラを宿代の安い観光地だと思うなよ」
「街があるんだろ?」
「冒険者街だ。酒も食事も宿もある。ただし、地上より何でも高い」
「地下に街か」
バンが杯を傾けながら呟く。
世界唯一の迷宮。
その中に、人間が住み着いて作った街まである。
少し見て戻る。
そのつもりだったが。
第十八階層という場所にも興味が湧いた。
隣の席では、深く潜ってきたらしい一団が声を潜めている。
「今朝も大人数が下へ向かったぞ」
「どこの遠征隊だ?」
「知らん。装備に印はあったが、遠くて見えなかった」
「最近はゼウスとヘラの主力も潜ってるだろ」
「俺たちには関係ない。あいつらが行く場所なんて、同じダンジョンとは思わない方がいい」
「それもそうだ」
バンの手が、一瞬だけ止まった。
「ゼウスとヘラ?」
小さく口にする。
ザルドとアルフィアは地上にいる。
ゼウスもいた。
ヘラ本人とも、まだ顔を合わせていないわけではない。
だが、マキシムや女帝。
パァル。
ベヒーモス討伐へ向かった時に会った者たちは、オラリオへ戻ってから姿を見ていない。
下へ潜っているなら、それも当然だった。
「相変わらず働いてんな」
バンは再び酒を飲んだ。
どこまで潜っているのかは知らない。
会いに行くつもりも、今のところはない。
ただ。
同じ場所の下にいると知っただけだ。
食事を終え。
日が傾く頃、ようやく教会へ戻った。
◇
崩れた礼拝堂の床へ、買ってきた物を並べる。
保存食。
水袋。
酒。
香辛料。
小鍋。
鉄板。
調理用ナイフ。
回収袋。
普段使っている大きな鞄。
空だった鞄は、食料だけですでにかなり埋まっている。
バンは一度すべてを出し。
入れ直した。
底には硬いパンと豆。
その上へ干し肉と果物。
水袋は片側。
酒瓶は鍋の中へ入れ、布代わりの包み紙を間へ挟む。
調味料の瓶は、鉄板と肉の間。
ナイフは鞘へ収め、外側の取り出しやすい位置へ。
回収袋は折り畳み、鞄の上部へ置く。
全部詰め終えると。
鞄は出発前の旅荷物と変わらないほど膨らんでいた。
「少し見るだけにしちゃ、多いな」
そう言いながら。
減らす物は一つもなかった。
鞄を肩へ持ち上げる。
普通の人間なら、背負った瞬間に腰へ負担を感じる重さ。
バンにとっては、何も入っていないのと大差ない。
数歩歩き。
身体を捻り。
クレシューズを振るう動作を試す。
鞄は邪魔にならない。
紐も外れない。
「こんなもんか」
荷物を床へ下ろす。
今すぐ向かうこともできる。
だが。
昼に見たパンテオンは、多くの冒険者が出入りしていた。
職員の目も。
衛兵の位置も。
一度見ただけで、通れる瞬間は分かっている。
焦る理由はない。
先ほど聞いた店員の言葉を思い出す。
地図を持っていても、変わることがある。
壁から怪物が生まれる。
第十八階層には、冒険者の街がある。
ゼウスとヘラの主力は、そのさらに下へ潜っている。
バンはクレシューズを鞄の横へ置き。
地下へ続く階段を下りた。
寝床にしているソファへ腰を下ろす。
明日は。
パンテオンへ入る集団の数を、もう一度確かめる。
それからでいい。
入れてもらえないなら。
気づかれなければいい。
バンは両腕を頭の後ろへ回し。
暗い天井を見上げた。
「どこまで続いてんだろうな」
返事はない。
地下の静かな部屋に。
楽しそうな声だけが残った。
ダンジョンへ向かうため、食料や酒、調理器具、回収袋を揃える準備回でした。特に、料理道具だけは真剣に選びながら、防具や薬を一切買おうとしないバンと店主たちのやり取りがお気に入りです。