強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第二部「黒い砂漠の強欲」開幕です。
今回は、ベヒーモス本体との戦闘にはまだ入りません。
黒い砂漠そのものが、バンの前に立ちはだかる回です。


第2部 黒い砂漠の強欲
第8話 黒い砂漠


黒い砂は、音を吸った。

 

一歩踏み込んだ瞬間、背後の世界が遠くなった気がした。

 

ハルファの集落。

砂栗船。

ラドの声。

ガラムの低い罵声。

ニロの震えた顔。

ラシードの押し殺した怒り。

咳き込む子ども。

 

それらが、黒い砂の向こうへ置き去りにされていく。

 

バンは振り返らなかった。

 

足元の砂は、普通の砂とは違った。

乾いているのに、重い。

踏むとさらさら崩れるのではなく、靴底にまとわりつく。まるで細かく砕いた炭と、腐った骨の粉を混ぜたような感触だった。

 

風が吹く。

 

黒い砂が地面を這う。

足首のあたりを舐めるように流れ、エンジ色のロングコートの裾を汚していく。

 

バンは鼻を鳴らした。

 

「……焦げてもねぇ。腐ってもねぇ。嫌な匂いだな」

 

燃えた匂いならまだいい。

腐った匂いならまだ分かる。

 

これは、そのどちらでもなかった。

 

命が命であることを諦めた後に残る匂い。

土も、水も、草も、虫も、獣も、人も、全部まとめて「生きるな」と言われたような匂い。

 

喉の奥がひりつく。

息を吸うたび、肺の内側を細い刃で撫でられるようだった。

目の端が痛む。皮膚がじわじわ熱を持つ。

 

バンは肩に担いでいた聖棍クレシューズを軽く回した。

 

「飯が不味くなる空気だぜ、まったく」

 

言葉は軽い。

だが、身体は確かに反応している。

 

黒い砂漠は、ただの悪路ではない。

そこにいるだけで、少しずつ削られる。

水を奪われるのではない。熱に焼かれるのでもない。もっと根の深いところから、身体の中の生きる力を削られていく。

 

普通の人間なら、数十歩で膝をつく。

普通の冒険者なら、魔石灯と薬と仲間をそろえて、それでも引き返す。

神の恩恵を持つ者でさえ、この空気の中では呼吸の仕方を忘れるかもしれない。

 

バンは歩いた。

 

一歩。

二歩。

三歩。

 

黒い砂が、靴の下で沈む。

 

「……煉獄ほどじゃねぇな」

 

低く呟く。

 

煉獄は、こんなものではなかった。

空気が牙を持ち、時間が肉を噛み、地面が魂を引きずり込むような場所だった。

熱も、寒さも、毒も、飢えも、痛みも、すべてが狂っていた。

 

それに比べれば、この黒い砂漠はまだ優しい。

 

少なくとも、歩ける。

少なくとも、息はできる。

少なくとも、腹は減る。

 

それなら問題ない。

 

バンは歩きながら、腰の袋を探った。

中には少しの干し肉と、砂杯亭の女店主にもらった香辛料がある。水は持っていない。ラシードに持たされそうになったが、ハルファに置いてきた。

 

水は命より重い。

 

なら、咳き込む子どもと、ハルファの連中のところに置いておいた方がいい。

 

バンは干し肉を一切れ取り出し、噛んだ。

 

硬い。

塩気はある。

だが、黒い砂の匂いが鼻にまとわりついて、味が鈍る。

 

バンの眉が寄った。

 

「……まずくしてんじゃねぇよ」

 

腹が立った。

 

干し肉に罪はない。

作ったやつにも罪はない。

それをまずくしているのは、この砂漠だ。

 

うまい飯をまずくする土地。

酒を腐らせる風。

水を濁らせる砂。

人を咳き込ませる空気。

 

なるほど。

 

これは、確かにどかす必要がある。

 

背後のハルファは、もう見えにくくなっていた。

黒い砂が低く舞い、薄い幕のように視界を遮っている。

 

その幕の外側で、二つの影が動いていた。

 

ディオスは低い岩の陰に身を伏せ、目を細めていた。

砂色の外套を頭から被り、口元を布で覆っている。それでも喉が痛む。ここはまだ黒い砂漠の外縁だというのに、息をするだけで胸が重い。

 

隣にはイリスがいた。

彼女も布で口元を覆い、片手に小型の魔石灯を持っている。灯りは頼りなく揺れていた。普段なら青白く安定して光るはずの魔石灯が、今は病人の呼吸のように弱々しい。

 

ディオスが小声で言う。

 

「なあ。あいつ、どこまで行く気だ」

 

「分かりません」

 

「止まらねぇぞ」

 

「止まる気がないのでしょう」

 

「恩恵なしで?」

 

「ええ」

 

イリスの声は冷静だった。

だが、その目は冷静ではいられなかった。

 

神の恩恵を持たない者が、黒い砂漠へ入った。

それだけでも異常だ。

 

しかも、倒れない。

膝をつかない。

魔石灯もなしに進んでいる。

防毒の薬も、護符も、砂漠用の面布すらまともに使っていない。

 

赤いロングコートを風に揺らし、ただ歩いている。

 

イリスは魔石灯を見る。

 

灯りは、バンが進む方向へ近づけるほど弱くなっていく。

黒い砂漠は魔石の力を削る。神の恩恵を持つ冒険者なら、身体の奥で違和感を覚えるほどの領域だ。

 

それなのに、あの男の背には神聖文字の気配がない。

 

「理屈に合いません」

 

イリスが呟く。

 

ディオスは苦笑した。

 

「さっきから全部そうだろ。黒い砂見て『酒があるんだろ、向こうに』だぞ。理屈を持ち出す方が負けだ」

 

「ですが、記録しなければなりません」

 

「書くのか? “恩恵なしの赤い男、黒い砂漠で干し肉を食い、まずいと文句を言う”って」

 

「事実です」

 

「報告書にしたら上官が頭抱えるぞ」

 

「それでも事実です」

 

イリスは目を細め、バンの背を追った。

 

その背中は、黒い砂の中で妙に浮いていた。

赤い。

あまりにも赤い。

 

死んだ砂の中で、そこだけが生きているようだった。

 

バンはしばらく歩き、低い砂丘を越えた。

 

その向こうには、さらに酷い光景が広がっていた。

 

枯れた草の跡。

いや、草だったもの。

 

黒く縮れ、地面に張りついている。触れれば粉になるだろう。

そのそばには、小さな獣の骨が転がっていた。骨は白くない。薄く黒ずみ、表面に細かな亀裂が入っている。

 

さらに先には、魔物の死骸があった。

 

体の半分が灰になり、半分だけが残っている。

狼型の低級モンスターに似ている。だが、魔石が残っているのに身体が崩れきっていない。普通なら魔石が壊れない限り、肉体は保たれるはずだ。

 

その魔石が、胸の中で黒く濁っていた。

 

バンはしゃがみ込む。

 

「へぇ」

 

魔物は死んでいる。

だが、灰になりきってもいない。

肉は腐ったというより、乾いて割れ、黒い砂と混ざり合っている。

 

バンは指で魔石をつついた。

 

ぴし、と小さな音がした。

 

魔石に亀裂が入る。

 

中の光は弱い。

酒代にもならないだろう。

 

「石までまずそうだな」

 

バンは立ち上がった。

 

この砂漠では、モンスターすらまともに死ねないらしい。

魔石を残して酒代になるだけ、普通の魔物の方がまだましだ。

 

風が強くなる。

 

黒い砂が渦を巻き、視界が少し狭まった。

風の中に、低い音が混じる。

 

唸り声。

 

いや、違う。

地鳴りかもしれない。

遠くで巨大なものが息を吐いているようにも聞こえる。

 

バンは耳を澄ました。

 

「……いるな」

 

まだ遠い。

だが、何かがいる。

 

黒い砂漠そのものが、その何かの吐息でできているようだった。

 

進むほど、空気は重くなる。

砂は黒くなる。

空は薄暗くなる。

 

太陽は出ているはずだ。

だが、光が届かない。

黒い砂が空中に細かく混じり、昼の景色を薄い夜に変えている。

 

バンはロングコートの襟を少し立てた。

 

喉が焼ける。

唇が乾く。

舌に苦みが残る。

目の奥が痛い。

 

身体の表面が、砂漠を拒絶している。

あるいは、砂漠の方がバンを拒絶している。

 

それでも、少しずつ慣れていく。

 

肺が、黒い空気の中で息の仕方を覚える。

皮膚が、毒の痛みを受け流す。

目が、黒い砂の揺れに慣れる。

煉獄で無理やり鍛えられた身体が、また一つ嫌な環境を記憶していく。

 

「ほんと、ろくでもねぇ経験ばっか役に立つな」

 

バンは笑った。

 

その笑いは、黒い砂漠に似合わなかった。

 

さらに先へ進むと、地面に奇妙な跡があった。

 

巨大な足跡。

 

ただし、輪郭は崩れている。

砂が死に、地面が腐り、足跡の縁が溶けたようになっている。

一つの窪みだけで、小さな家ほどの広さがあった。

 

バンはその縁に立つ。

 

「でけぇな」

 

足跡の底には、黒い水のようなものが溜まっていた。

だが水ではない。粘りがあり、表面に油のような膜が浮いている。

近づくだけで、鼻の奥が痛んだ。

 

バンはしゃがみ、指を伸ばしかけてやめた。

 

「触ると飯食う時に匂い残りそうだな」

 

そこでやめる理由がそれなのが、バンだった。

 

背後の岩陰で、ディオスが遠眼鏡を下ろした。

 

「あったぞ。足跡」

 

イリスの顔が強張る。

 

「大きさは」

 

「冗談みてぇだ。小屋が入る」

 

「ベヒーモス……」

 

名前を出すだけで、喉が重くなる。

 

三大クエスト。

陸の王者。

黒獣。

災厄の一角。

 

ゼウス・ファミリアもヘラ・ファミリアも、いずれ挑まねばならない相手。

だが、今ここにいるのは、恩恵を持たない一人の男だけだ。

 

ディオスは額の汗を拭った。

汗か、毒気による冷や汗か、自分でも分からない。

 

「あいつ、引き返さねぇかな」

 

「引き返すなら、最初から入りません」

 

「だよなぁ」

 

「この距離でこれほどの足跡。近くに本体がいる可能性があります」

 

「なら余計に止めた方がいいんじゃねぇの」

 

「止められると思いますか」

 

ディオスは黙った。

 

バンは、足跡の向こう側へ進んでいた。

 

そこから先は、砂だけではなかった。

 

黒い岩が突き出ている。

岩の表面はひび割れ、内側から黒い筋が走っている。まるで大地の血管が腐って浮き出たようだった。

 

いくつかの岩には、古い布や金具が引っかかっている。

壊れた荷台の一部。

千切れた縄。

割れた水壺。

人が通った痕跡。

戻れなかった痕跡。

 

バンは割れた水壺を拾った。

内側は黒く染まっている。鼻を近づけると、顔をしかめるほどの臭気があった。

 

「水をこんなにするのか」

 

壺を置く。

 

水を腐らせる。

酒を駄目にする。

肉もまずくする。

魔石まで鈍らせる。

 

「嫌われる要素しかねぇな、黒獣サマ」

 

その時、砂が動いた。

 

足元ではない。

少し先の岩陰。

 

黒い砂の下から、何かが這い出してきた。

 

それは獣の形をしていた。

狼のようでもあり、犬のようでもある。

だが、毛はほとんど抜け落ち、皮膚は黒くひび割れている。目は濁り、口からは黒い砂がこぼれていた。

 

生きているのか、死んでいるのか分からない。

 

魔物か。

黒砂にやられた獣か。

あるいは、ベヒーモスの瘴気に歪められた何かか。

 

バンはクレシューズを軽く構えた。

 

「食えそうにねぇな」

 

黒い獣が飛びかかる。

 

動きは鈍い。

だが、爪が通った場所の砂が黒く弾けた。触れれば毒が入りそうな爪だった。

 

バンは半歩横へずれ、クレシューズで頭を叩いた。

 

乾いた音がした。

 

獣の頭が砕ける。

身体は灰になるでもなく、黒い砂の塊のように崩れた。

 

魔石は残らない。

 

バンは崩れた砂を見下ろした。

 

「酒代にもならねぇのかよ」

 

不満そうに言ったその瞬間、周囲の砂が一斉に動いた。

 

同じような黒い獣が、三匹、四匹、五匹。

岩陰から、砂の下から、壊れた荷台の影から、這い出してくる。

 

目は濁り、口から黒い砂をこぼし、息の代わりに乾いた音を立てていた。

 

バンは首を鳴らした。

 

「飯にも酒にもならねぇ連中が、ぞろぞろと」

 

黒い獣たちが一斉に跳ぶ。

 

クレシューズがしなった。

 

一匹目の首を横から砕く。

二匹目の胴を絡めて、三匹目へ叩きつける。

四匹目の爪がバンの頬を掠め、赤い線が走る。

血が出た瞬間、黒い砂が傷口へ入り込もうとした。

 

バンは指で血を拭い、舌打ちする。

 

「染みるな」

 

クレシューズを地面へ叩きつける。

黒い砂が爆ぜ、獣たちの足場が崩れた。

 

そこへ踏み込む。

棍が弧を描く。

骨が砕ける音。砂が散る音。濁った目が潰れる音。

 

すぐに静かになった。

 

黒い獣たちは、すべて砂の塊になって崩れていた。

 

バンは肩を回す。

 

「しけてんな。せめて石くらい残せ」

 

その様子を遠くから見ていたディオスは、乾いた声で言った。

 

「黒砂に汚染された獣を、愚痴りながら片付けたぞ」

 

「記録します」

 

「するのかよ」

 

「必要です。黒砂に汚染された生物は、通常の魔物と異なり魔石を残さない可能性あり。赤い旅人はそれを酒代にならないと判断し、不満を示す」

 

「報告書の文章じゃねぇ」

 

「事実です」

 

イリスは書き留めながらも、内心では別のことを考えていた。

 

黒砂に汚染された獣。

それは普通なら、触れることすら危険な存在だ。

倒せたとしても、毒を浴びる。傷を負えば、黒砂が入り込む。

 

だが、バンは頬を掠められただけで済ませた。

それも、痛みより味への不満を優先している。

 

異常。

 

その言葉では足りない。

 

バンはさらに進む。

 

黒い砂漠は、深くなるほど地形を変えていった。

砂丘は低くなり、代わりに黒い岩とひび割れた大地が増える。ところどころから黒い蒸気のようなものが立ち上り、風に流れていく。

 

空はますます暗い。

太陽は黒い幕の向こうでぼんやり滲んでいるだけだった。

 

その中で、バンは一度足を止めた。

 

風が止んだ。

 

完全な静寂。

 

次の瞬間、大地が震えた。

 

遠くで、何かが地面を踏んだ。

 

一度。

間を置いて、もう一度。

 

重い。

あまりにも重い音。

 

ただの足音ではない。

大地そのものが、その重さに耐えかねて呻いているようだった。

 

黒い砂が、足元で波打つ。

 

バンはゆっくりと顔を上げた。

 

遠く。

黒い砂嵐の向こう。

 

霧のような黒砂の中に、影が見えた。

 

山のような背。

地平線を塞ぐ巨体。

そして、その上に突き出す二本の角。

 

まだ遠い。

輪郭もはっきりしない。

 

だが、それだけで分かった。

 

あれが、この砂漠を黒くしている。

 

あれが、水を腐らせ、魔石を鈍らせ、酒の道を塞ぎ、子どもを咳き込ませている。

 

黒獣。

 

ベヒーモス。

 

影が、ゆっくりと動いた。

 

それだけで、風が鳴る。

黒い砂が舞う。

足元の死んだ砂漠が、まるで主を迎えるように震えた。

 

バンはクレシューズを肩に担ぎ直した。

 

「でけぇな」

 

口元が、わずかに上がる。

 

「食えねぇんだろうな、あれ」

 

冗談のような声。

だが、目は笑っていなかった。

 

遠くの黒い影が、こちらを見たような気がした。

 

バンは一歩、前へ出る。

 

喉は焼けている。

肺は重い。

頬の傷はひりつく。

黒い砂は靴底にまとわりつく。

 

だが、足は止まらない。

 

「酒の道、返してもらうぜ」

 

黒い砂漠の奥で、二本角の影がまた一歩動いた。

 

第二部の幕が、静かに上がった。




第二部開幕回でした。
今回はベヒーモス本体との戦闘ではなく、黒い砂漠そのものの異常性を描く回です。
次回、第9話「陸の王者」で、黒獣ベヒーモス本体と本格的に対峙します。
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