今回は、ベヒーモス本体との戦闘にはまだ入りません。
黒い砂漠そのものが、バンの前に立ちはだかる回です。
第8話 黒い砂漠
黒い砂は、音を吸った。
一歩踏み込んだ瞬間、背後の世界が遠くなった気がした。
ハルファの集落。
砂栗船。
ラドの声。
ガラムの低い罵声。
ニロの震えた顔。
ラシードの押し殺した怒り。
咳き込む子ども。
それらが、黒い砂の向こうへ置き去りにされていく。
バンは振り返らなかった。
足元の砂は、普通の砂とは違った。
乾いているのに、重い。
踏むとさらさら崩れるのではなく、靴底にまとわりつく。まるで細かく砕いた炭と、腐った骨の粉を混ぜたような感触だった。
風が吹く。
黒い砂が地面を這う。
足首のあたりを舐めるように流れ、エンジ色のロングコートの裾を汚していく。
バンは鼻を鳴らした。
「……焦げてもねぇ。腐ってもねぇ。嫌な匂いだな」
燃えた匂いならまだいい。
腐った匂いならまだ分かる。
これは、そのどちらでもなかった。
命が命であることを諦めた後に残る匂い。
土も、水も、草も、虫も、獣も、人も、全部まとめて「生きるな」と言われたような匂い。
喉の奥がひりつく。
息を吸うたび、肺の内側を細い刃で撫でられるようだった。
目の端が痛む。皮膚がじわじわ熱を持つ。
バンは肩に担いでいた聖棍クレシューズを軽く回した。
「飯が不味くなる空気だぜ、まったく」
言葉は軽い。
だが、身体は確かに反応している。
黒い砂漠は、ただの悪路ではない。
そこにいるだけで、少しずつ削られる。
水を奪われるのではない。熱に焼かれるのでもない。もっと根の深いところから、身体の中の生きる力を削られていく。
普通の人間なら、数十歩で膝をつく。
普通の冒険者なら、魔石灯と薬と仲間をそろえて、それでも引き返す。
神の恩恵を持つ者でさえ、この空気の中では呼吸の仕方を忘れるかもしれない。
バンは歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
黒い砂が、靴の下で沈む。
「……煉獄ほどじゃねぇな」
低く呟く。
煉獄は、こんなものではなかった。
空気が牙を持ち、時間が肉を噛み、地面が魂を引きずり込むような場所だった。
熱も、寒さも、毒も、飢えも、痛みも、すべてが狂っていた。
それに比べれば、この黒い砂漠はまだ優しい。
少なくとも、歩ける。
少なくとも、息はできる。
少なくとも、腹は減る。
それなら問題ない。
バンは歩きながら、腰の袋を探った。
中には少しの干し肉と、砂杯亭の女店主にもらった香辛料がある。水は持っていない。ラシードに持たされそうになったが、ハルファに置いてきた。
水は命より重い。
なら、咳き込む子どもと、ハルファの連中のところに置いておいた方がいい。
バンは干し肉を一切れ取り出し、噛んだ。
硬い。
塩気はある。
だが、黒い砂の匂いが鼻にまとわりついて、味が鈍る。
バンの眉が寄った。
「……まずくしてんじゃねぇよ」
腹が立った。
干し肉に罪はない。
作ったやつにも罪はない。
それをまずくしているのは、この砂漠だ。
うまい飯をまずくする土地。
酒を腐らせる風。
水を濁らせる砂。
人を咳き込ませる空気。
なるほど。
これは、確かにどかす必要がある。
背後のハルファは、もう見えにくくなっていた。
黒い砂が低く舞い、薄い幕のように視界を遮っている。
その幕の外側で、二つの影が動いていた。
ディオスは低い岩の陰に身を伏せ、目を細めていた。
砂色の外套を頭から被り、口元を布で覆っている。それでも喉が痛む。ここはまだ黒い砂漠の外縁だというのに、息をするだけで胸が重い。
隣にはイリスがいた。
彼女も布で口元を覆い、片手に小型の魔石灯を持っている。灯りは頼りなく揺れていた。普段なら青白く安定して光るはずの魔石灯が、今は病人の呼吸のように弱々しい。
ディオスが小声で言う。
「なあ。あいつ、どこまで行く気だ」
「分かりません」
「止まらねぇぞ」
「止まる気がないのでしょう」
「恩恵なしで?」
「ええ」
イリスの声は冷静だった。
だが、その目は冷静ではいられなかった。
神の恩恵を持たない者が、黒い砂漠へ入った。
それだけでも異常だ。
しかも、倒れない。
膝をつかない。
魔石灯もなしに進んでいる。
防毒の薬も、護符も、砂漠用の面布すらまともに使っていない。
赤いロングコートを風に揺らし、ただ歩いている。
イリスは魔石灯を見る。
灯りは、バンが進む方向へ近づけるほど弱くなっていく。
黒い砂漠は魔石の力を削る。神の恩恵を持つ冒険者なら、身体の奥で違和感を覚えるほどの領域だ。
それなのに、あの男の背には神聖文字の気配がない。
「理屈に合いません」
イリスが呟く。
ディオスは苦笑した。
「さっきから全部そうだろ。黒い砂見て『酒があるんだろ、向こうに』だぞ。理屈を持ち出す方が負けだ」
「ですが、記録しなければなりません」
「書くのか? “恩恵なしの赤い男、黒い砂漠で干し肉を食い、まずいと文句を言う”って」
「事実です」
「報告書にしたら上官が頭抱えるぞ」
「それでも事実です」
イリスは目を細め、バンの背を追った。
その背中は、黒い砂の中で妙に浮いていた。
赤い。
あまりにも赤い。
死んだ砂の中で、そこだけが生きているようだった。
バンはしばらく歩き、低い砂丘を越えた。
その向こうには、さらに酷い光景が広がっていた。
枯れた草の跡。
いや、草だったもの。
黒く縮れ、地面に張りついている。触れれば粉になるだろう。
そのそばには、小さな獣の骨が転がっていた。骨は白くない。薄く黒ずみ、表面に細かな亀裂が入っている。
さらに先には、魔物の死骸があった。
体の半分が灰になり、半分だけが残っている。
狼型の低級モンスターに似ている。だが、魔石が残っているのに身体が崩れきっていない。普通なら魔石が壊れない限り、肉体は保たれるはずだ。
その魔石が、胸の中で黒く濁っていた。
バンはしゃがみ込む。
「へぇ」
魔物は死んでいる。
だが、灰になりきってもいない。
肉は腐ったというより、乾いて割れ、黒い砂と混ざり合っている。
バンは指で魔石をつついた。
ぴし、と小さな音がした。
魔石に亀裂が入る。
中の光は弱い。
酒代にもならないだろう。
「石までまずそうだな」
バンは立ち上がった。
この砂漠では、モンスターすらまともに死ねないらしい。
魔石を残して酒代になるだけ、普通の魔物の方がまだましだ。
風が強くなる。
黒い砂が渦を巻き、視界が少し狭まった。
風の中に、低い音が混じる。
唸り声。
いや、違う。
地鳴りかもしれない。
遠くで巨大なものが息を吐いているようにも聞こえる。
バンは耳を澄ました。
「……いるな」
まだ遠い。
だが、何かがいる。
黒い砂漠そのものが、その何かの吐息でできているようだった。
進むほど、空気は重くなる。
砂は黒くなる。
空は薄暗くなる。
太陽は出ているはずだ。
だが、光が届かない。
黒い砂が空中に細かく混じり、昼の景色を薄い夜に変えている。
バンはロングコートの襟を少し立てた。
喉が焼ける。
唇が乾く。
舌に苦みが残る。
目の奥が痛い。
身体の表面が、砂漠を拒絶している。
あるいは、砂漠の方がバンを拒絶している。
それでも、少しずつ慣れていく。
肺が、黒い空気の中で息の仕方を覚える。
皮膚が、毒の痛みを受け流す。
目が、黒い砂の揺れに慣れる。
煉獄で無理やり鍛えられた身体が、また一つ嫌な環境を記憶していく。
「ほんと、ろくでもねぇ経験ばっか役に立つな」
バンは笑った。
その笑いは、黒い砂漠に似合わなかった。
さらに先へ進むと、地面に奇妙な跡があった。
巨大な足跡。
ただし、輪郭は崩れている。
砂が死に、地面が腐り、足跡の縁が溶けたようになっている。
一つの窪みだけで、小さな家ほどの広さがあった。
バンはその縁に立つ。
「でけぇな」
足跡の底には、黒い水のようなものが溜まっていた。
だが水ではない。粘りがあり、表面に油のような膜が浮いている。
近づくだけで、鼻の奥が痛んだ。
バンはしゃがみ、指を伸ばしかけてやめた。
「触ると飯食う時に匂い残りそうだな」
そこでやめる理由がそれなのが、バンだった。
背後の岩陰で、ディオスが遠眼鏡を下ろした。
「あったぞ。足跡」
イリスの顔が強張る。
「大きさは」
「冗談みてぇだ。小屋が入る」
「ベヒーモス……」
名前を出すだけで、喉が重くなる。
三大クエスト。
陸の王者。
黒獣。
災厄の一角。
ゼウス・ファミリアもヘラ・ファミリアも、いずれ挑まねばならない相手。
だが、今ここにいるのは、恩恵を持たない一人の男だけだ。
ディオスは額の汗を拭った。
汗か、毒気による冷や汗か、自分でも分からない。
「あいつ、引き返さねぇかな」
「引き返すなら、最初から入りません」
「だよなぁ」
「この距離でこれほどの足跡。近くに本体がいる可能性があります」
「なら余計に止めた方がいいんじゃねぇの」
「止められると思いますか」
ディオスは黙った。
バンは、足跡の向こう側へ進んでいた。
そこから先は、砂だけではなかった。
黒い岩が突き出ている。
岩の表面はひび割れ、内側から黒い筋が走っている。まるで大地の血管が腐って浮き出たようだった。
いくつかの岩には、古い布や金具が引っかかっている。
壊れた荷台の一部。
千切れた縄。
割れた水壺。
人が通った痕跡。
戻れなかった痕跡。
バンは割れた水壺を拾った。
内側は黒く染まっている。鼻を近づけると、顔をしかめるほどの臭気があった。
「水をこんなにするのか」
壺を置く。
水を腐らせる。
酒を駄目にする。
肉もまずくする。
魔石まで鈍らせる。
「嫌われる要素しかねぇな、黒獣サマ」
その時、砂が動いた。
足元ではない。
少し先の岩陰。
黒い砂の下から、何かが這い出してきた。
それは獣の形をしていた。
狼のようでもあり、犬のようでもある。
だが、毛はほとんど抜け落ち、皮膚は黒くひび割れている。目は濁り、口からは黒い砂がこぼれていた。
生きているのか、死んでいるのか分からない。
魔物か。
黒砂にやられた獣か。
あるいは、ベヒーモスの瘴気に歪められた何かか。
バンはクレシューズを軽く構えた。
「食えそうにねぇな」
黒い獣が飛びかかる。
動きは鈍い。
だが、爪が通った場所の砂が黒く弾けた。触れれば毒が入りそうな爪だった。
バンは半歩横へずれ、クレシューズで頭を叩いた。
乾いた音がした。
獣の頭が砕ける。
身体は灰になるでもなく、黒い砂の塊のように崩れた。
魔石は残らない。
バンは崩れた砂を見下ろした。
「酒代にもならねぇのかよ」
不満そうに言ったその瞬間、周囲の砂が一斉に動いた。
同じような黒い獣が、三匹、四匹、五匹。
岩陰から、砂の下から、壊れた荷台の影から、這い出してくる。
目は濁り、口から黒い砂をこぼし、息の代わりに乾いた音を立てていた。
バンは首を鳴らした。
「飯にも酒にもならねぇ連中が、ぞろぞろと」
黒い獣たちが一斉に跳ぶ。
クレシューズがしなった。
一匹目の首を横から砕く。
二匹目の胴を絡めて、三匹目へ叩きつける。
四匹目の爪がバンの頬を掠め、赤い線が走る。
血が出た瞬間、黒い砂が傷口へ入り込もうとした。
バンは指で血を拭い、舌打ちする。
「染みるな」
クレシューズを地面へ叩きつける。
黒い砂が爆ぜ、獣たちの足場が崩れた。
そこへ踏み込む。
棍が弧を描く。
骨が砕ける音。砂が散る音。濁った目が潰れる音。
すぐに静かになった。
黒い獣たちは、すべて砂の塊になって崩れていた。
バンは肩を回す。
「しけてんな。せめて石くらい残せ」
その様子を遠くから見ていたディオスは、乾いた声で言った。
「黒砂に汚染された獣を、愚痴りながら片付けたぞ」
「記録します」
「するのかよ」
「必要です。黒砂に汚染された生物は、通常の魔物と異なり魔石を残さない可能性あり。赤い旅人はそれを酒代にならないと判断し、不満を示す」
「報告書の文章じゃねぇ」
「事実です」
イリスは書き留めながらも、内心では別のことを考えていた。
黒砂に汚染された獣。
それは普通なら、触れることすら危険な存在だ。
倒せたとしても、毒を浴びる。傷を負えば、黒砂が入り込む。
だが、バンは頬を掠められただけで済ませた。
それも、痛みより味への不満を優先している。
異常。
その言葉では足りない。
バンはさらに進む。
黒い砂漠は、深くなるほど地形を変えていった。
砂丘は低くなり、代わりに黒い岩とひび割れた大地が増える。ところどころから黒い蒸気のようなものが立ち上り、風に流れていく。
空はますます暗い。
太陽は黒い幕の向こうでぼんやり滲んでいるだけだった。
その中で、バンは一度足を止めた。
風が止んだ。
完全な静寂。
次の瞬間、大地が震えた。
遠くで、何かが地面を踏んだ。
一度。
間を置いて、もう一度。
重い。
あまりにも重い音。
ただの足音ではない。
大地そのものが、その重さに耐えかねて呻いているようだった。
黒い砂が、足元で波打つ。
バンはゆっくりと顔を上げた。
遠く。
黒い砂嵐の向こう。
霧のような黒砂の中に、影が見えた。
山のような背。
地平線を塞ぐ巨体。
そして、その上に突き出す二本の角。
まだ遠い。
輪郭もはっきりしない。
だが、それだけで分かった。
あれが、この砂漠を黒くしている。
あれが、水を腐らせ、魔石を鈍らせ、酒の道を塞ぎ、子どもを咳き込ませている。
黒獣。
ベヒーモス。
影が、ゆっくりと動いた。
それだけで、風が鳴る。
黒い砂が舞う。
足元の死んだ砂漠が、まるで主を迎えるように震えた。
バンはクレシューズを肩に担ぎ直した。
「でけぇな」
口元が、わずかに上がる。
「食えねぇんだろうな、あれ」
冗談のような声。
だが、目は笑っていなかった。
遠くの黒い影が、こちらを見たような気がした。
バンは一歩、前へ出る。
喉は焼けている。
肺は重い。
頬の傷はひりつく。
黒い砂は靴底にまとわりつく。
だが、足は止まらない。
「酒の道、返してもらうぜ」
黒い砂漠の奥で、二本角の影がまた一歩動いた。
第二部の幕が、静かに上がった。
第二部開幕回でした。
今回はベヒーモス本体との戦闘ではなく、黒い砂漠そのものの異常性を描く回です。
次回、第9話「陸の王者」で、黒獣ベヒーモス本体と本格的に対峙します。