準備を整えた翌日。
バンは、ダンジョンへ入らなかった。
朝からパンテオンへ向かい。
中央広間には入らず、正面の広場に面した露店の脇へ立つ。
串に刺した肉を一本買い。
壁へ背を預けながら、冒険者たちの出入りを眺めていた。
昨日見た時と同じように。
地下へ向かう者。
地下から戻る者。
受付で職員と話す者。
顔を見ただけで通される者。
呼び止められる者。
時間によって、その数には大きな差がある。
朝早くは、少人数の冒険者が多い。
一日分の食料と水だけを持ち、上層へ向かう者たち。
日が少し昇ると。
背負子を担いだサポーターや、複数の馬車から荷物を下ろす大規模な集団が増え始める。
十人。
二十人。
中には、前衛や後衛だけでなく。
鍛冶師。
治療役。
大量の食料を運ぶ者まで含めた遠征隊もいる。
人数が増えるほど、確認には時間がかかる。
だが。
全員を一列に並べ。
一人ずつ背中を見せさせているわけではない。
代表者が職員へ書類を渡し。
所属と人数。
予定している到達階層。
帰還予定日。
それらを申告する。
その間にも、荷物の確認を終えた者から少しずつ階段の手前へ移動していた。
「十九名。サポーターを含めて十九名です」
「前回の届け出では十八名となっていますが」
「治療師を一名追加しました。こちらが所属証明です」
「確認します。帰還予定は八日後で変更ありませんか?」
「状況次第では第十八階層で一泊増やす可能性があります」
「変更する場合は、リヴィラの連絡員へ伝えてください」
バンは肉を噛みながら、その様子を見る。
全員の顔を見ている。
全員の所属を、個別に確認している。
そう見える時もあれば。
大きな荷物の陰へ隠れ、ほとんど姿を見られないまま通る者もいた。
ただし。
単に後ろへ付いていくだけでは駄目だ。
人数が合わなければ止められる。
代表者が仲間の顔を把握していれば、知らない者が混ざった時点で気づく。
衛兵は入口だけでなく。
大階段の途中にも立っている。
バンは串から最後の肉を外し。
噛みながら視線だけを動かした。
「結構見てんな」
力ずくなら。
あの場にいる全員を振り切ることは難しくない。
だが、それでは意味がない。
パンテオンの床を壊し。
ギルド職員や冒険者を巻き込み。
追われながら地下へ入る。
そんな面倒なことをする必要はなかった。
見つからなければいい。
ただし。
昨日の職員には顔を覚えられている可能性がある。
赤い長衣も。
クレシューズも。
人混みの中では、それなりに目立つ。
それでも。
隠す方法はある。
バンは昼まで広場に残った。
どの時間に人が増えるのか。
職員が交代する時間。
衛兵の視線が外れる瞬間。
帰還した負傷者が運び込まれた時、広間の流れがどう変わるのか。
それらを一つずつ見ていく。
そして。
この日は、教会へ戻った。
◇
さらに翌朝。
日の出から間もない時間。
教会の崩れた礼拝堂に。
バンは準備していた荷物を並べた。
硬いパン。
干し肉。
保存の利くチーズ。
乾燥させた豆と果物。
水袋が三つ。
酒瓶が二本。
調味料。
小鍋。
浅い鉄板。
調理用ナイフ。
大小の回収袋。
すべてを確認してから、普段使っている大きな鞄へ詰める。
昨日と同じ配置だ。
底に硬い食料。
鍋の中へ、布で包んだ酒瓶。
水袋は片側へ寄せる。
ナイフは外側の取り出しやすい場所。
回収袋は、一番上。
鞄を閉じ。
肩へ担ぐ。
クレシューズは短い状態で背中へ斜めに差した。
赤い長衣の内側へ入る部分が増えたため、昨日よりは目立ちにくい。
「こんなもんか」
誰にも声はかけなかった。
ザルドにも。
アルフィアにも。
ゼウスにも。
教会へ訪れることがあるメーテリアたちにも。
ダンジョンへ入ると伝えれば。
止められる。
あるいは。
面倒な説明を求められる。
少し見てくるだけだ。
帰ってから話せばいい。
教会を出る。
まだ人の少ない通りを歩き。
中央広場へ向かう。
バンが選んだのは、昨日より少し遅い時間だった。
朝一番の冒険者たちが地下へ下り。
次の集団が集まり始める頃。
パンテオンの前には。
すでに複数のパーティーが並んでいる。
革鎧を着た五人組。
長い杖を持つ魔導士を中心とした七人組。
大きな背負子を担いだ獣人たち。
さらに。
広場の端から、一際大きな集団が近づいてきた。
武器を持つ冒険者だけで十五人以上。
その後ろに。
食料や予備武器を積んだ荷車。
背負子を担ぐサポーター。
箱を抱える鍛冶師。
合わせれば三十人近い。
彼らがパンテオンへ入ると。
中央広間の職員たちが一斉に動いた。
「遠征申請を確認します!」
「サポーターは右側へ!荷物を降ろす必要はありませんが、危険物の申告を!」
「鍛冶用の燃料はこちらです!」
「帰還予定は十二日後です!変更の可能性あり!」
複数の声が重なる。
バンは集団の最後尾へは付かなかった。
後ろにいれば。
追加の一人として目立つ。
先頭へ行けば。
代表者と職員の間に入ることになる。
狙うのは中央。
荷物を運ぶサポーターと。
装備を確かめ合う冒険者の間。
誰もが、自分の前後にいる仲間より。
自分の荷物と役割へ意識を向けている場所だ。
バンは歩調を変えず。
集団の脇へ近づいた。
そのまま。
小さく息を吐く。
「絶気配《ゼロサイン》」
何かが爆発したわけではない。
風が起きたわけでも。
身体が消えたわけでもない。
赤い長衣も。
大きな鞄も。
背中のクレシューズも。
すべて、そこにある。
ただ。
バンという人間が持っていた気配だけが。
その場から消えた。
足音がなくなる。
呼吸の音が薄れる。
服が擦れる音さえ。
周囲のざわめきへ溶けていく。
視界へ入っているはずなのに。
意識が向かない。
目が合いそうになっても。
その視線は、バンの上を滑るように別の場所へ移っていく。
透明になったわけではない。
注意を向けられれば、見える。
身体へ触れれば、そこにいると分かる。
だが。
わざわざ注意を向ける理由そのものを失わせる。
それが、《絶気配》だった。
バンはサポーターの一人が担ぐ巨大な背負子の陰へ入った。
背負子には、折り畳んだ天幕。
鍋。
予備の槍。
複数の木箱が括り付けられている。
持ち主の獣人は。
自分の後ろにバンが歩いていることへ気づかない。
「前、詰めろ!」
「分かってる!」
「荷物がぶつかってるぞ!」
「お前の盾がでかすぎるんだ!」
怒鳴り合う声。
金属の音。
床を踏む無数の足音。
その全てに混ざり。
バンはパンテオンへ入った。
昨日。
バンを止めた女性職員がいた。
大階段の左側。
別の職員と並び、通過する冒険者の装備を確認している。
「後衛職は中央へ固まってください」
「サポーターの人数は九名で間違いありませんか?」
「十名です!一人は鍛冶師と一緒にいます!」
「では、合計人数を再確認します」
女性職員が顔を上げる。
その視線が。
集団の中央へ向いた。
バンの姿も、その中に入っている。
赤い長衣。
見覚えのある銀白色の髪。
昨日。
恩恵を持たないままダンジョンへ入ろうとした男。
彼女の視線が、僅かに止まりかけた。
バンは歩調を変えない。
目を逸らさず。
職員を見返すこともしない。
隣を歩くサポーターと同じ速度で。
同じ流れのまま進む。
女性職員の眉が、ほんの僅かに寄った。
何かを見落としたような。
思い出しかけたような表情。
だが、直後。
「すみません!こちらの荷箱が一つ多いのですが!」
別の職員が呼んだ。
女性職員はそちらへ顔を向ける。
「申請書を確認します。勝手に開けないでください!」
意識が外れた。
バンはその横を通り過ぎる。
大階段の手前。
武装した衛兵が二人。
一人は集団の先頭を見ている。
もう一人は、後方から入ってくる小規模なパーティーを止めていた。
「待て。そこの少年は誰だ」
「新しく加入したサポーターです」
「所属を確認できる物は?」
「今朝、ギルドへ届け出を――」
「こちらでは確認が取れていない。先に受付へ行け」
「時間がないんです!」
「なら、昨日までに済ませておけ」
衛兵の注意も、別の方向へ向いている。
バンは大階段へ足を乗せた。
一段。
二段。
石造りの広い階段。
下へ進むほど。
地上の光が少しずつ弱くなる。
集団の足音が。
高い天井と石壁に反響していた。
まだ気を抜かない。
大階段の途中にも。
数人の職員がいる。
帰還者と入場者がぶつからないよう、流れを分けている。
「入場者は右側を進んでください!」
「負傷者が通ります!中央を空けて!」
下から声が上がる。
担架を持った冒険者たちが現れた。
片腕を失った男。
血に濡れた鎧。
意識のない少女。
帰還者の姿に。
下りていた者たちが左右へ寄る。
大人数の遠征隊も足を止めた。
「通路を空けろ!」
「治療所へ連絡を!」
「この子を先に!」
人の流れが乱れる。
バンは壁際へ寄った。
担架が横を通る。
少女の顔は青白い。
胸元の革鎧には、大きな爪痕が残っている。
それでも。
息はある。
運んでいる仲間の一人が。
何度も名前を呼び続けていた。
「もうすぐ地上だ。聞こえるか」
返事はない。
「頼む。目を開けろ」
担架が階段を上がっていく。
バンは一度だけ振り返った。
昨日見た者とは違う。
この場所では。
毎日。
同じように傷つく者がいるのだろう。
それでも。
下りる者は止まらない。
担架が通り過ぎると。
職員が再び流れを整える。
「入場者は進んでください!」
遠征隊が動き始める。
バンも、その中へ戻った。
階段をさらに下る。
地上の声が遠くなる。
代わりに。
湿った空気が濃くなっていく。
壁から伝わる冷たさ。
僅かな土の匂い。
鉄に似た匂い。
そして。
何か、生き物の腹の中へ入っていくような感覚。
長い階段の先に。
大きな石造りの空間が見えた。
床。
壁。
天井。
すべてが青白く。
地上の建物とは違う。
削った石を積み上げて作った場所ではない。
最初から。
その形で存在していたような空間。
遠征隊の先頭が。
地下の広間で一度止まる。
「ここで隊列を整える!」
「前衛は先頭へ!」
「サポーターは中央!」
「後衛は左右を確認しろ!」
冒険者たちが動く。
バンは、その隙に集団から離れた。
誰かへぶつからないよう。
誰かの進路を塞がないよう。
壁際へ移動する。
《絶気配》はまだ解かない。
集団の一人が、バンのすぐ横を通った。
顔を向けることなく。
仲間へ声をかける。
「全員いるか?」
「いる!」
「サポーターは?」
「十人揃ってる!」
「よし。行くぞ!」
人数は合っている。
最初から。
バンは、その数に含まれていなかった。
そこに姿があっても。
数える者の意識へ入っていない。
遠征隊は別の通路へ進んでいく。
金属音と足音が、少しずつ遠ざかった。
周囲に誰もいなくなったことを確かめ。
バンは息を吐く。
消していた気配が。
ゆっくりと元へ戻る。
音も。
存在感も。
再び、青白い空間へ現れる。
「入れたな」
鞄を担ぎ直す。
背中からクレシューズを抜き。
肩へ担いだ。
後ろを見れば。
地上へ続く長い階段。
前を見れば。
奥へ続く複数の通路。
地図はない。
案内する者もいない。
どれが正しい道なのかも分からない。
バンは少し考え。
先ほど遠征隊が進んだ通路とは、別の道へ目を向けた。
あれだけの人数と一緒に歩けば。
モンスターも。
ダンジョンそのものも。
よく見えない。
一人で入ったのだから。
一人で見た方がいい。
通路の奥から。
何かが壁を引っ掻くような音が聞こえた。
バンの口元が上がる。
「さて」
青白い壁へ手を触れる。
冷たい。
だが。
ただの岩とは違う。
僅かに。
奥で何かが動いている。
脈打つほど大きくはない。
それでも。
壁の向こうに、意思のようなものが存在している。
「本当に生きてんのか」
問いかけても。
当然、返事はない。
代わりに。
少し先の壁が膨らんだ。
柔らかい肉のように。
青白い表面が内側から押し上げられる。
裂け目が生まれ。
細い腕が突き出した。
続いて。
緑色の小さな頭。
尖った耳。
濁った目。
錆びた刃物を握った小鬼が。
壁の中から床へ落ちる。
小鬼は一度、身体を丸め。
すぐに立ち上がった。
バンへ顔を向ける。
歯を剥き。
喉の奥から濁った声を上げた。
「ギィィ……!」
バンは。
壁から生まれた怪物と。
その怪物を吐き出したあと、ゆっくりと閉じていく裂け目を見比べた。
「面白ぇな」
小鬼が短剣を振り上げる。
バンはクレシューズを肩へ担いだまま。
一歩も動かなかった。
世界唯一のダンジョンで。
最初の怪物が。
赤い旅人へ飛びかかった。
《絶気配《ゼロサイン》》で姿を消すのではなく、周囲の意識から気配を滑り落とし、大勢の遠征隊へ紛れてダンジョンへ潜入する回でした。職員たちの確認や人の流れを前日から観察し、力ずくではなく確実に抜けるバンらしさを意識しています。