強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第76話 絶気配

準備を整えた翌日。

 

バンは、ダンジョンへ入らなかった。

 

朝からパンテオンへ向かい。

 

中央広間には入らず、正面の広場に面した露店の脇へ立つ。

 

串に刺した肉を一本買い。

 

壁へ背を預けながら、冒険者たちの出入りを眺めていた。

 

昨日見た時と同じように。

 

地下へ向かう者。

 

地下から戻る者。

 

受付で職員と話す者。

 

顔を見ただけで通される者。

 

呼び止められる者。

 

時間によって、その数には大きな差がある。

 

朝早くは、少人数の冒険者が多い。

 

一日分の食料と水だけを持ち、上層へ向かう者たち。

 

日が少し昇ると。

 

背負子を担いだサポーターや、複数の馬車から荷物を下ろす大規模な集団が増え始める。

 

十人。

 

二十人。

 

中には、前衛や後衛だけでなく。

 

鍛冶師。

 

治療役。

 

大量の食料を運ぶ者まで含めた遠征隊もいる。

 

人数が増えるほど、確認には時間がかかる。

 

だが。

 

全員を一列に並べ。

 

一人ずつ背中を見せさせているわけではない。

 

代表者が職員へ書類を渡し。

 

所属と人数。

 

予定している到達階層。

 

帰還予定日。

 

それらを申告する。

 

その間にも、荷物の確認を終えた者から少しずつ階段の手前へ移動していた。

 

「十九名。サポーターを含めて十九名です」

 

「前回の届け出では十八名となっていますが」

 

「治療師を一名追加しました。こちらが所属証明です」

 

「確認します。帰還予定は八日後で変更ありませんか?」

 

「状況次第では第十八階層で一泊増やす可能性があります」

 

「変更する場合は、リヴィラの連絡員へ伝えてください」

 

バンは肉を噛みながら、その様子を見る。

 

全員の顔を見ている。

 

全員の所属を、個別に確認している。

 

そう見える時もあれば。

 

大きな荷物の陰へ隠れ、ほとんど姿を見られないまま通る者もいた。

 

ただし。

 

単に後ろへ付いていくだけでは駄目だ。

 

人数が合わなければ止められる。

 

代表者が仲間の顔を把握していれば、知らない者が混ざった時点で気づく。

 

衛兵は入口だけでなく。

 

大階段の途中にも立っている。

 

バンは串から最後の肉を外し。

 

噛みながら視線だけを動かした。

 

「結構見てんな」

 

力ずくなら。

 

あの場にいる全員を振り切ることは難しくない。

 

だが、それでは意味がない。

 

パンテオンの床を壊し。

 

ギルド職員や冒険者を巻き込み。

 

追われながら地下へ入る。

 

そんな面倒なことをする必要はなかった。

 

見つからなければいい。

 

ただし。

 

昨日の職員には顔を覚えられている可能性がある。

 

赤い長衣も。

 

クレシューズも。

 

人混みの中では、それなりに目立つ。

 

それでも。

 

隠す方法はある。

 

バンは昼まで広場に残った。

 

どの時間に人が増えるのか。

 

職員が交代する時間。

 

衛兵の視線が外れる瞬間。

 

帰還した負傷者が運び込まれた時、広間の流れがどう変わるのか。

 

それらを一つずつ見ていく。

 

そして。

 

この日は、教会へ戻った。

 

       ◇

 

さらに翌朝。

 

日の出から間もない時間。

 

教会の崩れた礼拝堂に。

 

バンは準備していた荷物を並べた。

 

硬いパン。

 

干し肉。

 

保存の利くチーズ。

 

乾燥させた豆と果物。

 

水袋が三つ。

 

酒瓶が二本。

 

調味料。

 

小鍋。

 

浅い鉄板。

 

調理用ナイフ。

 

大小の回収袋。

 

すべてを確認してから、普段使っている大きな鞄へ詰める。

 

昨日と同じ配置だ。

 

底に硬い食料。

 

鍋の中へ、布で包んだ酒瓶。

 

水袋は片側へ寄せる。

 

ナイフは外側の取り出しやすい場所。

 

回収袋は、一番上。

 

鞄を閉じ。

 

肩へ担ぐ。

 

クレシューズは短い状態で背中へ斜めに差した。

 

赤い長衣の内側へ入る部分が増えたため、昨日よりは目立ちにくい。

 

「こんなもんか」

 

誰にも声はかけなかった。

 

ザルドにも。

 

アルフィアにも。

 

ゼウスにも。

 

教会へ訪れることがあるメーテリアたちにも。

 

ダンジョンへ入ると伝えれば。

 

止められる。

 

あるいは。

 

面倒な説明を求められる。

 

少し見てくるだけだ。

 

帰ってから話せばいい。

 

教会を出る。

 

まだ人の少ない通りを歩き。

 

中央広場へ向かう。

 

バンが選んだのは、昨日より少し遅い時間だった。

 

朝一番の冒険者たちが地下へ下り。

 

次の集団が集まり始める頃。

 

パンテオンの前には。

 

すでに複数のパーティーが並んでいる。

 

革鎧を着た五人組。

 

長い杖を持つ魔導士を中心とした七人組。

 

大きな背負子を担いだ獣人たち。

 

さらに。

 

広場の端から、一際大きな集団が近づいてきた。

 

武器を持つ冒険者だけで十五人以上。

 

その後ろに。

 

食料や予備武器を積んだ荷車。

 

背負子を担ぐサポーター。

 

箱を抱える鍛冶師。

 

合わせれば三十人近い。

 

彼らがパンテオンへ入ると。

 

中央広間の職員たちが一斉に動いた。

 

「遠征申請を確認します!」

 

「サポーターは右側へ!荷物を降ろす必要はありませんが、危険物の申告を!」

 

「鍛冶用の燃料はこちらです!」

 

「帰還予定は十二日後です!変更の可能性あり!」

 

複数の声が重なる。

 

バンは集団の最後尾へは付かなかった。

 

後ろにいれば。

 

追加の一人として目立つ。

 

先頭へ行けば。

 

代表者と職員の間に入ることになる。

 

狙うのは中央。

 

荷物を運ぶサポーターと。

 

装備を確かめ合う冒険者の間。

 

誰もが、自分の前後にいる仲間より。

 

自分の荷物と役割へ意識を向けている場所だ。

 

バンは歩調を変えず。

 

集団の脇へ近づいた。

 

そのまま。

 

小さく息を吐く。

 

「絶気配《ゼロサイン》」

 

何かが爆発したわけではない。

 

風が起きたわけでも。

 

身体が消えたわけでもない。

 

赤い長衣も。

 

大きな鞄も。

 

背中のクレシューズも。

 

すべて、そこにある。

 

ただ。

 

バンという人間が持っていた気配だけが。

 

その場から消えた。

 

足音がなくなる。

 

呼吸の音が薄れる。

 

服が擦れる音さえ。

 

周囲のざわめきへ溶けていく。

 

視界へ入っているはずなのに。

 

意識が向かない。

 

目が合いそうになっても。

 

その視線は、バンの上を滑るように別の場所へ移っていく。

 

透明になったわけではない。

 

注意を向けられれば、見える。

 

身体へ触れれば、そこにいると分かる。

 

だが。

 

わざわざ注意を向ける理由そのものを失わせる。

 

それが、《絶気配》だった。

 

バンはサポーターの一人が担ぐ巨大な背負子の陰へ入った。

 

背負子には、折り畳んだ天幕。

 

鍋。

 

予備の槍。

 

複数の木箱が括り付けられている。

 

持ち主の獣人は。

 

自分の後ろにバンが歩いていることへ気づかない。

 

「前、詰めろ!」

 

「分かってる!」

 

「荷物がぶつかってるぞ!」

 

「お前の盾がでかすぎるんだ!」

 

怒鳴り合う声。

 

金属の音。

 

床を踏む無数の足音。

 

その全てに混ざり。

 

バンはパンテオンへ入った。

 

昨日。

 

バンを止めた女性職員がいた。

 

大階段の左側。

 

別の職員と並び、通過する冒険者の装備を確認している。

 

「後衛職は中央へ固まってください」

 

「サポーターの人数は九名で間違いありませんか?」

 

「十名です!一人は鍛冶師と一緒にいます!」

 

「では、合計人数を再確認します」

 

女性職員が顔を上げる。

 

その視線が。

 

集団の中央へ向いた。

 

バンの姿も、その中に入っている。

 

赤い長衣。

 

見覚えのある銀白色の髪。

 

昨日。

 

恩恵を持たないままダンジョンへ入ろうとした男。

 

彼女の視線が、僅かに止まりかけた。

 

バンは歩調を変えない。

 

目を逸らさず。

 

職員を見返すこともしない。

 

隣を歩くサポーターと同じ速度で。

 

同じ流れのまま進む。

 

女性職員の眉が、ほんの僅かに寄った。

 

何かを見落としたような。

 

思い出しかけたような表情。

 

だが、直後。

 

「すみません!こちらの荷箱が一つ多いのですが!」

 

別の職員が呼んだ。

 

女性職員はそちらへ顔を向ける。

 

「申請書を確認します。勝手に開けないでください!」

 

意識が外れた。

 

バンはその横を通り過ぎる。

 

大階段の手前。

 

武装した衛兵が二人。

 

一人は集団の先頭を見ている。

 

もう一人は、後方から入ってくる小規模なパーティーを止めていた。

 

「待て。そこの少年は誰だ」

 

「新しく加入したサポーターです」

 

「所属を確認できる物は?」

 

「今朝、ギルドへ届け出を――」

 

「こちらでは確認が取れていない。先に受付へ行け」

 

「時間がないんです!」

 

「なら、昨日までに済ませておけ」

 

衛兵の注意も、別の方向へ向いている。

 

バンは大階段へ足を乗せた。

 

一段。

 

二段。

 

石造りの広い階段。

 

下へ進むほど。

 

地上の光が少しずつ弱くなる。

 

集団の足音が。

 

高い天井と石壁に反響していた。

 

まだ気を抜かない。

 

大階段の途中にも。

 

数人の職員がいる。

 

帰還者と入場者がぶつからないよう、流れを分けている。

 

「入場者は右側を進んでください!」

 

「負傷者が通ります!中央を空けて!」

 

下から声が上がる。

 

担架を持った冒険者たちが現れた。

 

片腕を失った男。

 

血に濡れた鎧。

 

意識のない少女。

 

帰還者の姿に。

 

下りていた者たちが左右へ寄る。

 

大人数の遠征隊も足を止めた。

 

「通路を空けろ!」

 

「治療所へ連絡を!」

 

「この子を先に!」

 

人の流れが乱れる。

 

バンは壁際へ寄った。

 

担架が横を通る。

 

少女の顔は青白い。

 

胸元の革鎧には、大きな爪痕が残っている。

 

それでも。

 

息はある。

 

運んでいる仲間の一人が。

 

何度も名前を呼び続けていた。

 

「もうすぐ地上だ。聞こえるか」

 

返事はない。

 

「頼む。目を開けろ」

 

担架が階段を上がっていく。

 

バンは一度だけ振り返った。

 

昨日見た者とは違う。

 

この場所では。

 

毎日。

 

同じように傷つく者がいるのだろう。

 

それでも。

 

下りる者は止まらない。

 

担架が通り過ぎると。

 

職員が再び流れを整える。

 

「入場者は進んでください!」

 

遠征隊が動き始める。

 

バンも、その中へ戻った。

 

階段をさらに下る。

 

地上の声が遠くなる。

 

代わりに。

 

湿った空気が濃くなっていく。

 

壁から伝わる冷たさ。

 

僅かな土の匂い。

 

鉄に似た匂い。

 

そして。

 

何か、生き物の腹の中へ入っていくような感覚。

 

長い階段の先に。

 

大きな石造りの空間が見えた。

 

床。

 

壁。

 

天井。

 

すべてが青白く。

 

地上の建物とは違う。

 

削った石を積み上げて作った場所ではない。

 

最初から。

 

その形で存在していたような空間。

 

遠征隊の先頭が。

 

地下の広間で一度止まる。

 

「ここで隊列を整える!」

 

「前衛は先頭へ!」

 

「サポーターは中央!」

 

「後衛は左右を確認しろ!」

 

冒険者たちが動く。

 

バンは、その隙に集団から離れた。

 

誰かへぶつからないよう。

 

誰かの進路を塞がないよう。

 

壁際へ移動する。

 

《絶気配》はまだ解かない。

 

集団の一人が、バンのすぐ横を通った。

 

顔を向けることなく。

 

仲間へ声をかける。

 

「全員いるか?」

 

「いる!」

 

「サポーターは?」

 

「十人揃ってる!」

 

「よし。行くぞ!」

 

人数は合っている。

 

最初から。

 

バンは、その数に含まれていなかった。

 

そこに姿があっても。

 

数える者の意識へ入っていない。

 

遠征隊は別の通路へ進んでいく。

 

金属音と足音が、少しずつ遠ざかった。

 

周囲に誰もいなくなったことを確かめ。

 

バンは息を吐く。

 

消していた気配が。

 

ゆっくりと元へ戻る。

 

音も。

 

存在感も。

 

再び、青白い空間へ現れる。

 

「入れたな」

 

鞄を担ぎ直す。

 

背中からクレシューズを抜き。

 

肩へ担いだ。

 

後ろを見れば。

 

地上へ続く長い階段。

 

前を見れば。

 

奥へ続く複数の通路。

 

地図はない。

 

案内する者もいない。

 

どれが正しい道なのかも分からない。

 

バンは少し考え。

 

先ほど遠征隊が進んだ通路とは、別の道へ目を向けた。

 

あれだけの人数と一緒に歩けば。

 

モンスターも。

 

ダンジョンそのものも。

 

よく見えない。

 

一人で入ったのだから。

 

一人で見た方がいい。

 

通路の奥から。

 

何かが壁を引っ掻くような音が聞こえた。

 

バンの口元が上がる。

 

「さて」

 

青白い壁へ手を触れる。

 

冷たい。

 

だが。

 

ただの岩とは違う。

 

僅かに。

 

奥で何かが動いている。

 

脈打つほど大きくはない。

 

それでも。

 

壁の向こうに、意思のようなものが存在している。

 

「本当に生きてんのか」

 

問いかけても。

 

当然、返事はない。

 

代わりに。

 

少し先の壁が膨らんだ。

 

柔らかい肉のように。

 

青白い表面が内側から押し上げられる。

 

裂け目が生まれ。

 

細い腕が突き出した。

 

続いて。

 

緑色の小さな頭。

 

尖った耳。

 

濁った目。

 

錆びた刃物を握った小鬼が。

 

壁の中から床へ落ちる。

 

小鬼は一度、身体を丸め。

 

すぐに立ち上がった。

 

バンへ顔を向ける。

 

歯を剥き。

 

喉の奥から濁った声を上げた。

 

「ギィィ……!」

 

バンは。

 

壁から生まれた怪物と。

 

その怪物を吐き出したあと、ゆっくりと閉じていく裂け目を見比べた。

 

「面白ぇな」

 

小鬼が短剣を振り上げる。

 

バンはクレシューズを肩へ担いだまま。

 

一歩も動かなかった。

 

世界唯一のダンジョンで。

 

最初の怪物が。

 

赤い旅人へ飛びかかった。




《絶気配《ゼロサイン》》で姿を消すのではなく、周囲の意識から気配を滑り落とし、大勢の遠征隊へ紛れてダンジョンへ潜入する回でした。職員たちの確認や人の流れを前日から観察し、力ずくではなく確実に抜けるバンらしさを意識しています。
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