緑色の小鬼が、錆びた短剣を振り上げる。
壁から生まれ落ちた直後とは思えない動きだった。
床を蹴り。
濁った声を上げながら、バンの腹へ刃を突き出す。
「ギィッ!」
バンは避けなかった。
短剣の切っ先が、赤い長衣へ触れる寸前。
空いていた左手で、小鬼の手首を掴む。
「遅ぇな」
「ギッ……!?」
細い腕が止まる。
小鬼は刃を押し込もうとするが、腕は僅かにも動かない。
反対の手でバンの指を引き剥がそうとし。
口を大きく開いて噛みつこうとする。
バンは、その姿を間近から眺めた。
尖った耳。
緑色の皮膚。
汚れた腰布。
地上で見かけた野生の魔物とは、少し違う。
身体の奥。
胸の辺りに、硬い何かがある。
命そのものとは異なる。
それでも。
この怪物を形作っている力が、そこへ集まっているのが分かった。
「これが魔石か」
小鬼の胸元へ視線を落とす。
目で見えるわけではない。
皮膚と肉の奥に埋まっている。
だが、《強奪》を使う時と同じように意識を伸ばせば、そこにある物の位置は捉えられた。
バンは小鬼の手首を放す。
突然自由になった怪物が、再び短剣を突き出した。
「獲物狩り《フォックスハント》」
小さく告げる。
次の瞬間。
小鬼の胸から、何かが勢いよく抜け出した。
皮膚も。
肉も。
傷ついてはいない。
それらをすり抜けるように現れたのは、小指の先ほどの黒紫色の石だった。
魔石が、バンの手の中へ収まる。
「ギ――」
短剣が床へ落ちた。
小鬼の身体から力が抜ける。
前へ倒れかけたその姿が、足元から灰へ変わり始めた。
皮膚が崩れ。
肉が消え。
骨すら残らない。
僅かな時間で。
先ほどまで動いていた怪物は、一山の灰になった。
「へぇ」
バンは手の中の魔石を見る。
軽い。
ベヒーモスの体内から取り出したものとは比べるまでもない。
アンタレスが残した結晶とも、性質がまるで違う。
それでも。
魔石を抜かれた瞬間に身体が崩れた。
ダンジョンのモンスターにとって。
この小さな石が、心臓以上に重要な部分なのだろう。
しゃがみ込み。
灰の中を指先で軽く探る。
残っているのは、錆びた短剣だけだった。
武器は怪物が壁から出てきた時から持っていた。
だが、魔石と違い。
手に取ると、ただの粗末な鉄にしか感じられない。
「こいつはいいか」
短剣をその場へ置く。
魔石だけを、鞄の上部へ入れていた小袋へ落とした。
一個。
袋はほとんど膨らまない。
バンは立ち上がり。
小鬼が生まれた壁へ近づいた。
裂け目は、すでに塞がっている。
指で触れる。
青白い表面は硬く。
先ほどまで柔らかく膨らんでいたとは思えなかった。
叩いてみても。
普通の岩壁に近い音が返ってくる。
「中にまだいんのか?」
壁は答えない。
だが。
奥深くで。
僅かに何かが蠢いたような感覚があった。
生きている。
少なくとも。
ただの洞窟ではない。
「面白ぇ場所だな」
バンは肩へクレシューズを担ぎ。
通路の奥へ進んだ。
◇
最初の階層は、青白い壁が続いていた。
天井は高くない。
通路も、数人が並んで歩ける程度。
枝分かれはあるが。
地上の街路ほど複雑には見えなかった。
ただし。
どの道が下へ続いているのかは分からない。
遠くから人の声が聞こえれば、そちらへ向かう。
だが。
出会った冒険者が、これから下りる者なのか。
地上へ戻る者なのか。
見ただけでは判断できない。
一度。
三人組の後ろをしばらく歩いた。
革鎧を着た若い男。
短い杖を持った少女。
大きな袋を背負った少年。
下へ向かっていると思っていたが。
彼らの進んだ先にあったのは、地上へ戻る大階段だった。
「逆か」
バンは足を止め。
来た道を戻る。
後ろから、三人の声が聞こえた。
「今の人、下へ行くんじゃなかったのか?」
「地図を見間違えたんじゃない?」
「一人だったぞ」
「上層なら珍しくないだろ」
バンは振り返らなかった。
戦うことより。
下へ続く道を見つける方が時間がかかる。
それでも、焦る必要はない。
横道へ入り。
行き止まりなら戻る。
冒険者の足跡。
壁に付いた刃物の傷。
床へ落ちている灰。
人が頻繁に通る道ほど、それらが多い。
そうした痕跡を見ながら進むうちに。
下へ向かう緩やかな坂を見つけた。
坂の途中。
左右の壁が、ほぼ同時に膨らむ。
一体。
二体。
先ほどと同じ緑色の小鬼が、壁から押し出されるように現れた。
片方は短剣。
もう片方は、太い木の棒を持っている。
「ギャッ!」
「ギィィ!」
二体が左右から走る。
バンはクレシューズへ手を伸ばさなかった。
胸の奥。
魔石の位置へ意識を向ける。
一体目。
「獲物狩り《フォックスハント》」
短剣を持った小鬼の胸から、魔石が抜ける。
身体が灰へ崩れるより早く。
木の棒を振り上げたもう一体へ、バンは手を向けた。
「獲物狩り《フォックスハント》」
二つ目の魔石が手元へ飛ぶ。
木の棒が床を叩くこともなく。
持ち主の身体が崩れ落ちた。
二つの灰の山。
残った武器。
そして、魔石。
バンは袋へ魔石を入れたあと。
灰の中を軽く探った。
一体目には何もない。
二体目の灰の下から、短く黒ずんだ牙が一本だけ出てきた。
「こっちは残ったな」
指で摘まむ。
魔石とは違う。
力を宿しているようにも見えない。
ただ。
普通の動物の牙よりは硬く。
表面に細かな筋が走っている。
何に使えるのかは分からない。
価値があるのかも知らない。
「まあ、入れとくか」
魔石とは別の小袋へ牙を入れる。
袋は二種類に分けた。
魔石。
それ以外。
何が残るか分からない以上。
混ぜない方が、あとで確かめやすい。
バンは再び坂を下りた。
◇
次の階層へ着いたことは。
壁に刻まれた数字で分かった。
大きく二と書かれた案内板が、階段近くへ打ち付けられている。
誰が作ったのか。
ダンジョンそのものではなく。
人の手で置かれた物だった。
「二階層か」
ここまで。
思っていたより時間がかかった。
モンスターとの戦いは、一瞬。
だが。
道を間違え。
引き返し。
別の通路を探す。
繰り返していると。
距離以上に時間を使う。
第二階層も、景色そのものは大きく変わらなかった。
青白い壁。
曲がりくねった通路。
時折現れる広間。
そして。
壁から生まれる怪物。
緑色の小鬼が二体。
犬に似た頭を持つ小柄な怪物が一体。
犬頭の怪物は、低く唸り。
四つ足に近い姿勢で床を蹴った。
小鬼より速い。
それでも。
バンから見れば、差と呼べるほどではなかった。
「獲物狩り《フォックスハント》」
魔石を抜き取る。
犬頭の怪物は、バンの手前まで届くことなく灰になる。
続いて。
左右から来た小鬼の魔石を、一体ずつ奪う。
灰が床へ積もった。
今回。
魔石以外に残った物はない。
「毎回じゃねぇのか」
バンは三つの魔石を袋へ入れる。
ベヒーモスやアンタレスのように。
倒せば必ず何か大きな物が残るわけではない。
それとも。
残る確率が低いのか。
怪物の種類によって違うのか。
今のところ、判断できない。
分からないなら。
数を見ればいい。
そのまま進んでいると。
前方から武器のぶつかる音が聞こえた。
「右から来るぞ!」
「分かってる!」
「ゴブリン二体!」
「後ろはコボルトだ!」
広間の向こうで。
四人組の冒険者が怪物と戦っていた。
先ほどまでバンが倒してきた緑色の小鬼。
犬頭の怪物。
四人のうち。
剣を持った二人が前へ出て。
杖を持つ少女と、袋を背負った少年が後ろへ下がっている。
「ゴブリン」
バンは緑色の小鬼を見る。
「コボルト」
次に。
犬頭の怪物へ目を向けた。
ようやく名前が分かった。
それだけ確認し。
戦闘へ加わることなく、広間の端を通ろうとする。
「そこの人!」
後衛の少女が声を上げた。
「危ないです!壁際から離れて!」
「何でだ?」
「そこから生まれるかもしれないからです!」
言われた直後。
バンのすぐ横にある壁が膨らんだ。
裂け目から。
新たなゴブリンが腕を突き出す。
「ほら!」
少女が杖を向けようとする。
だが。
ゴブリンが完全に壁から出るより早く。
バンは片手を上げた。
「獲物狩り《フォックスハント》」
壁から半身だけを出していたゴブリンの胸から、魔石が抜ける。
形を保てなくなった身体が。
壁の中と外で、同時に灰へ変わった。
黒紫色の魔石が。
バンの手の中へ収まる。
「……え?」
少女の声が止まる。
前衛の男たちも、一瞬だけこちらを見た。
その隙にコボルトが飛びかかる。
「前を見ろ!」
仲間の叫びで。
男は慌てて剣を振るった。
バンは魔石を袋へ入れ。
何事もなかったように歩き出す。
「今、何をしたんですか!?」
少女が背後から尋ねる。
「魔石を取っただけだ」
「触ってもいないのに!?」
「取れたからいいだろ」
「よくありません!何の魔法ですか!?」
「魔法じゃねぇぞ」
「じゃあ何なんですか!」
バンは片手を上げただけで。
そのまま広間を出た。
後ろでは。
残ったモンスターとの戦闘が続いている。
「何だったんだ、あの人……」
「喋ってる暇があったら手を動かせ!」
「ゴブリンが追加で来た!」
声が遠ざかる。
バンは聞こえないふりをして進んだ。
◇
第三階層。
第四階層。
下へ進むほど。
通路は少しずつ広くなった。
怪物の数も僅かに増える。
ゴブリン。
コボルト。
名前を知った二種類が中心だった。
時折。
地面近くを這う、小型の蜥蜴に似た怪物も現れる。
名前は知らない。
だが。
胸から少し外れた位置。
腹の奥に魔石がある。
「獲物狩り《フォックスハント》」
石を抜けば。
蜥蜴の怪物も、他と同じように灰になった。
残ったのは魔石だけ。
次の個体からは、硬く尖った鱗が一枚だけ残る。
バンは拾い。
光へかざした。
薄い。
それでも。
指で曲げても簡単には割れない。
「何かに使えそうだな」
価値は分からない。
鞄へ入れる。
魔石の袋には。
すでに二十個近い石が入っていた。
ただし。
一つ一つは小さい。
袋を持ち上げても、それほど重くない。
上層の怪物。
初心者が最初に戦う場所。
聞いていた通り。
魔石も小さいのだろう。
別の袋には。
牙が二本。
爪のような物が一つ。
薄い鱗が一枚。
何体倒したかを考えれば。
魔石以外の物が残る方が少なかった。
「運次第ってことか」
バンは袋の口を閉じる。
通路を曲がった先で。
六体のゴブリンが集まっていた。
一体が壁から生まれたばかりなのか。
床へ転がり。
残りの五体が、何かを奪い合うように騒いでいる。
人間の落とした食料袋だった。
乾いたパンを引き裂き。
互いに殴り合っている。
バンが通路へ姿を見せると。
全員が一斉に振り返った。
「ギィッ!」
「ギャアァ!」
食料を捨て。
刃物や棒を持って走り出す。
「今度は少し多いな」
六体。
それでも。
広範囲の技を使うほどではない。
バンはクレシューズを肩から下ろした。
短いまま。
一歩踏み込む。
先頭のゴブリンが短剣を突き出す。
棍の先で手首を軽く弾く。
短剣が天井近くまで飛んだ。
続けて。
横から棒を振るった個体の額を、反対側の端で打つ。
強くは振っていない。
それでもゴブリンの身体は宙を舞い。
後方の二体を巻き込んで床へ転がった。
残った二体が左右へ分かれる。
バンはクレシューズを伸ばした。
節が分かれ。
軌道を曲げる。
右から来た個体の足を払い。
そのまま左へ回して、もう一体の胸を打つ。
六体全てが。
数秒のうちに床へ倒れた。
まだ生きている。
動こうとはしているが。
立ち上がれる状態ではない。
バンは空いた手を向けた。
「獲物狩り《フォックスハント》」
一体目の魔石。
二体目。
三体目。
順に抜き取る。
魔石を失った個体から、灰へ変わっていく。
六つの石が。
バンの足元へ転がった。
「一気にやるなら、別の技の方が楽か」
今回は。
数が少ない。
それに。
密集していた。
だが。
これより多くなれば。
一体ずつ狙うより、まとめて奪った方が早い。
魔石を拾う。
灰の中には。
短い牙が一つ残っていた。
六体で一つ。
「やっぱ、あんまり出ねぇな」
牙も袋へ入れる。
怪物たちが奪い合っていた食料袋を見る。
中身はほとんど食べられている。
残っていたパンも。
牙の跡と泥が付き。
持ち帰る気にはならなかった。
「誰のだ?」
近くに持ち主はいない。
血の跡も見当たらない。
逃げる途中で落としたのか。
不要になって捨てたのか。
バンには分からない。
袋だけを端へ寄せ。
先へ進んだ。
◇
第四階層の奥。
バンは、同じ広間へ三度戻ってきた。
壁に走る大きな亀裂。
床に落ちた壊れた矢。
自分が少し前に倒したコボルトの灰。
間違いない。
「またここか」
三つある通路のうち。
左へ行けば行き止まり。
正面へ進むと。
何度か曲がったあと、右側の通路へ繋がる。
右へ進んでも。
別の坂から、この広間へ戻ってくる。
下へ続く道が見つからない。
バンは広間の中央へ立ち。
周囲を見回した。
地図はない。
道案内もいない。
先ほどから。
他の冒険者とも出会っていない。
「どうなってんだ?」
天井。
壁。
床。
どこも似た色をしている。
しばらく眺め。
今度は耳を澄ませた。
遠くで。
金属音がする。
一度。
二度。
冒険者が戦っている音かもしれない。
だが。
どの通路から響いているのか。
反響して分かりにくい。
バンは目を閉じた。
音ではなく。
空気の流れを探る。
地上へ続く方向からは、僅かに乾いた風が来る。
それとは別に。
広間の隅。
壁と壁の境目に近い場所から。
湿った空気が上がっていた。
近づく。
そこには。
通路と呼べるほど大きくない、細い裂け目がある。
身体を横へ向ければ通れる幅。
奥は暗く。
緩やかに下っている。
「こんなとこにあったのか」
地図があれば。
迷わず見つけられたのだろう。
だが。
知らなかったからこそ。
一度目も。
二度目も。
ただの壁の割れ目だと思って通り過ぎた。
バンは鞄が引っかからないよう肩から外し。
片手で持って裂け目へ入る。
しばらく進むと。
道幅が広がった。
その先に。
下へ続く石段が見えた。
壁に打ち付けられた案内板。
大きく記された数字は、五。
「やっと見つけたな」
鞄を担ぎ直す。
第四階層まで進んだだけで。
思っていた以上に時間を使っていた。
怪物を倒すのは簡単だ。
魔石を抜く方法も分かった。
魔石以外の物は。
必ず残るわけではない。
名前を知らなかった怪物も。
冒険者の声を聞けば、少しずつ分かる。
だが。
道だけは。
強さとは関係がない。
殴っても。
奪っても。
正しい方向は出てこない。
「こっちの方が面倒だな」
そう言いながら。
声は楽しそうだった。
階段の下から。
硬い何かが、何度も地面を叩く音が聞こえる。
一体ではない。
複数。
細かな足音が重なり。
近づいてくる。
バンはクレシューズを肩へ担ぎ。
第五階層へ続く石段を下り始めた。
ダンジョンの最初の四階層で、バンが《獲物狩り《フォックスハント》》による魔石の回収、灰へ崩れるモンスター、確実には残らないドロップアイテムを確認する回でした。戦闘そのものではなく、地図を持たないため下り道を探すことに時間を使う探索として描いています。