第十三階層へ続く坂を下り始めてすぐ、バンは上層との違いに気づいた。
空気が重い。
湿気を含み、岩と土が混ざった匂いの奥には、モンスターの獣臭が濃く残っている。
青白かった壁も、ここでは灰色に近い岩盤へ変わっていた。凹凸が激しく、天井からは短い石柱が突き出し、床のあちこちには浅い亀裂が走っている。
一本道ではない。
前へ進む通路。斜め下へ落ち込む坂。頭上を横切る別の坑道。人が二人並べる程度の細い穴。
それらが上下左右へ入り組んでいた。
「こっから中層だったな」
案内板に書かれていた文字を思い出す。
単独行動を避けること。物資と帰還経路を確認すること。
バンは一人で、地図もない。帰還する日すら決めていなかった。
注意書きのほとんどを守っていない。
「まあ、何とかなんだろ」
鞄の紐を直し、クレシューズを肩へ担ぐ。
坂の先へ足を踏み入れた直後、右側の岩壁が膨らんだ。
続いて左の壁。さらに、少し先の天井までもが内側から動き始める。
「早ぇな」
上層でもモンスターは壁から生まれていた。
だが、ここではバンが階層へ入った直後から、複数の場所が同時に反応している。
岩壁が裂け、白い毛に覆われた兎が床へ転がり落ちた。
額には、ニードルラビットよりも太く長い一本角が生えている。
一体、二体、三体。
次々と生まれた兎たちは、着地すると同時に好戦的な鳴き声を上げた。
「また角兎か」
上層で見た個体より大きく、毛の色も違う。
それでも、戦い方は似ていた。
四体が同時に床を蹴る。正面と左右から迫り、残る一体は壁を蹴って頭上へ回り込んだ。
バンは肩からクレシューズを下ろし、片手で握った。
四節の神器を横へ振るう。
「乱獲《クレイジーハント》」
クレシューズが描いた軌道に合わせるように、四体の胸元から魔石が一斉に抜けた。
兎たちは角をバンへ届かせることなく、そのまま灰となって崩れていく。
上から降る灰を片手で払い、床へ落ちた魔石を拾った。
第十二階層までに手に入れた物より、少し大きい。
「中層に入ったからか?」
魔石を袋へ入れる。
灰の中には、白い角が一本だけ残っていた。
先端は鋭く、ニードルラビットから拾った物よりも長い。表面も滑らかだった。
バンは二本を並べて見比べる。
「こっちの方が良さそうだな」
まだ鞄には入る。
小さい方も捨てず、新しく拾った角と一緒に袋へ収めた。
その時、後方から複数の足音が坂を下りてきた。
「止まれ!」
「アルミラージがいるぞ!」
六人ほどの冒険者だった。
盾を構えた男が先頭に立ち、その後ろに剣士と槍使いが続く。弓と杖を持つ者、最後尾には大きな荷物を背負ったサポーターもいる。
彼らはバンの足元に広がる灰を見ると、一斉に動きを止めた。
「……もう倒したのか?」
「ああ」
バンは白い角を入れた袋へ目を向けた。
「こいつら、アルミラージってのか?」
「そうだが」
「上にいた角兎と似てんな」
「ニードルラビットのことか?」
「ああ。それだ」
盾の男は、バンの背後に誰もいないことを確認した。
「一人で中層へ入ったのか?」
「ああ」
「仲間は後ろか?」
「いねぇぞ」
「サポーターは?」
「いねぇ」
「地図は?」
「持ってねぇ」
男は、バンがこれまでに何度も見てきた表情を浮かべた。
呆れと警戒。そして、どうしてこの男がここにいるのか理解できないという顔だ。
「上層とは違う。アルミラージも一体なら大したことはないが、群れになれば話が変わる」
「今、四体いたぞ」
「それを一瞬で倒したのは見れば分かる。だが、問題は強さだけじゃない」
男が周囲の岩壁を示す。
「中層はモンスターの発生が速い。戦闘音に寄ってくる個体もいる。目の前の敵を倒している間に、後ろから別の群れが生まれることもある」
「全部倒せばいいだろ」
「普通は、その前に体力が尽きるんだ」
「オレは平気だぞ」
「……そうだろうな」
男は足元の灰を見て、言い返すことを諦めた。
「第十四階層へ向かうなら、右の坑道へ入れ。左は縦穴へ繋がっている」
「落ちりゃ下に行けんじゃねぇのか?」
「落ちた先が通路だとは限らない。戻れなくなるぞ」
「なるほどな」
「近道だと思って飛び込むなよ」
「考えとく」
「考えるな。やめろ」
後ろの杖使いが、盾の男の肩を軽く叩いた。
「もう行きましょう。この人、絶対聞きませんよ」
「聞いてるぞ」
「従うとは言ってませんよね?」
「ああ」
「ほら」
冒険者たちはバンを追い越し、右側の坑道へ向かった。
その途中、弓を持つ獣人が振り返る。
「さっきのアルミラージの魔石、全部回収したのか?」
「ああ」
「なら、袋の口はしっかり閉めておけ。ここからは地面の下にもいる」
「盗む奴がいんのか?」
「モンスターだよ」
獣人はそれだけ言い残して仲間を追った。
「地面の下?」
バンは足元を見た。
硬い岩盤だ。表面だけなら、何かが潜んでいるようには見えない。
それでも、少し先を歩く冒険者たちは、足元を確かめながら進んでいる。
バンも同じ坑道へ入った。
◇
男が言った通り、中層ではモンスターが生まれる間隔が短かった。
アルミラージ。上層にもいた暗色の蝙蝠。コボルトより一回り大きく、筋肉の付いた犬頭の怪物。鱗に覆われた人型の蜥蜴。
少数で現れることもあれば、異なる種類が同時に生まれることもある。
前方から犬頭が四体。
天井から蝙蝠が六体。
さらに壁を裂き、蜥蜴の人型が二体現れた。
「増えたな」
バンはクレシューズを伸ばした。
四つの節が分かれ、頭上から降下した蝙蝠を先端でまとめて打ち払う。
倒すためではない。
一か所へ集めるためだ。
節を返し、犬頭と蜥蜴人の足元を払う。すべての動きが一瞬だけ止まったところで、バンはクレシューズを大きく振るった。
「乱獲《クレイジーハント》」
四節の神器が描いた軌道に応じるように、魔石が一斉に抜けた。
蝙蝠、犬頭、蜥蜴人。
群れのすべてが灰へ崩れ、魔石だけが床へ落ちる。
上層よりも大きな物が増え始めていた。それでも、まだ手の平に収まる程度だ。
バンは一つずつ拾い、新しい袋へ入れる。
灰の中に残ったのは、黒い蝙蝠の牙が二本と、蜥蜴人の鱗らしき硬い板が一枚。
犬頭からは何も残らなかった。
「毎回は出ねぇな」
拾える物だけを拾う。
犬頭が持っていた粗末な斧や、蜥蜴人の石剣は置いていく。使う予定もなく、珍しくも見えなかった。
バンは歩き始めた。
先ほどの冒険者たちとは途中の分岐で別れ、人の少ない通路へ入ったため、周囲にはバンしかいない。
静かだった。
上層よりも岩壁が厚いためか、遠くの戦闘音も届きにくい。
聞こえるのは水滴と僅かな風、自分の足音。
そして、床の下から響く、何かが岩を削るような音だった。
「これか」
バンは立ち止まった。
右足の下。地面の奥で何かが蠢いている。
獣の足音ではない。
長い身体が、土と岩の間を擦りながら進んでいる。
バンが片足を上げた瞬間、床が大きく割れた。
丸い口。
その内側に並ぶ無数の歯。
目も鼻も見当たらない。
太い蛇か、巨大な蚯蚓に口だけを付けたような怪物が、真下から噛みついてきた。
バンは半歩横へ移動する。
牙が空を噛んだ。
地面から伸びた怪物は、そのまま身体を曲げ、横からもう一度口を開く。
「こいつが、地面の下にいる奴か」
鞄を噛まれる前に、片手を向ける。
「獲物狩り《フォックスハント》」
長い胴の中央近くから魔石が抜け出した。
怪物は口を開いた姿勢のまま灰となり、空いた穴へ流れ落ちていく。
魔石だけがバンの手元へ飛んできた。
アルミラージよりも少し大きい。
灰の中には、歯の一部が残っていた。
何本もの歯が並んだまま、弧を描く硬い板になっている。
「持ちにくいな」
そのまま入れれば、他の袋を破りそうだった。
バンは厚手の回収袋へ収め、鍋や水袋から離れた位置へ入れる。
穴の中を覗く。
暗く、底までは見えない。
先ほどの怪物が掘った道なのか、最初から存在していた穴なのかも分からなかった。
湿った空気が下から上がってくる。
「こっから下に行けそうだけどな」
先ほどの忠告を思い出す。
落ちた先が通路とは限らない。戻れなくなる。
「やめとくか」
珍しく素直に穴から離れた。
少し先へ進むと、上の階層から来た冒険者たちの声が聞こえてくる。
「足元に気をつけろ!」
「ダンジョン・ワームだ!」
バンは振り返った。
「ワームってのか」
名前を一つ覚えた。
◇
第十四階層へ下りるまで、第十三階層だけでかなりの時間を使った。
戦闘ではない。
道だ。
上下へ交差する坑道。行き止まり。別の通路へ繋がる細い穴。下り坂に見えて、大きく回り込み元の場所へ戻る道。
一度通った場所へ置いた石も、別の冒険者に蹴られたのか位置が変わっていることがある。
壁へ付けた傷は、時間が経てば塞がってしまう。
「地図持ってても迷うってのは本当みてぇだな」
足跡を追う。
だが、足跡は上へ向かう者と下へ向かう者が重なっている。
声を頼りにしようとしても、岩窟の中で反響し、近いのか遠いのか分からない。
最後は、下から上がってきたパーティーに道を聞いた。
「第十四階層なら、この先を左です!」
負傷者を支えていた若い冒険者が、急ぎながら答える。
「右は行き止まり!」
「助かった」
「先に進むなら気をつけてください! ヘルハウンドの群れがいます!」
「ヘルハウンド?」
「黒い犬です! 炎を吐きます!」
「犬が火を吐くのか」
「見れば分かります!」
彼らは、そのまま上へ向かっていった。
先頭の男が持つ盾は半分ほど黒く焦げ、後衛の少女も腕に火傷を負っている。
「火か」
バンは教えられた道へ進んだ。
◇
第十四階層の岩壁は、第十三階層よりも暗い。
通路の一部には煤が付き、地面にも何かが焼けた跡が残っている。
炎への対策が必要なのだと、資料を持たないバンにも理解できた。
ただし、火そのものを警戒する気にはならない。
煉獄で過ごした年月。
熱。毒気。灼ける大地。
この階層の炎が、それを上回るとは思えなかった。
通路を進むと、黒い犬型の怪物が姿を現した。
一体。
その奥に二体。
さらに岩陰から四体。
黒い毛、赤い目。口の端からは火の粉が漏れている。
「こいつらがヘルハウンドか」
犬たちが一斉に口を開いた。
喉の奥が赤く光り、次の瞬間、複数の火球が通路を埋めるように放たれる。
逃げ場の少ない岩窟。
普通の冒険者なら盾を構え、耐火装備に頼り、陣形を崩さず受けるしかない。
バンは動かなかった。
火球が身体を直撃する。
赤い長衣が炎に包まれ、周囲の空気が一気に熱せられた。
ヘルハウンドたちは炎の向こうへ走り出す。
焼けた敵へ牙を突き立てるためだ。
だが、火の中からバンの声が聞こえた。
「確かに、少し熱ぃな」
炎を割り、クレシューズが伸びる。
先頭のヘルハウンドの頭を軽く打ち、軌道を横へ流して二体目と三体目の脚を払った。
炎が消える。
バンは長衣へ付いた火を片手で叩いた。
皮膚には傷一つない。
「服が焦げんだろ」
身体よりも、そちらの方が不満らしい。
バンはクレシューズを握り直し、残る犬たちを囲むように四節の神器を旋回させた。
「乱獲《クレイジーハント》」
クレシューズが描いた円に応じるように、七つの魔石が黒い犬たちの身体から一斉に抜けた。
ヘルハウンドの群れが灰へ変わる。
床へ散った魔石を拾い上げると、先ほどの火球を生んでいたためか、石の内側には赤い光が僅かに残っているように見えた。
バンは一つを光へかざした。
「同じ魔石でも違いあんのか?」
種類が違うからか。使っていた力が違うからか。
正確なことは分からない。
結局、他の魔石と分けずに同じ袋へ入れた。
灰の中には、黒く硬い牙が一本残っている。僅かに焦げたような匂いがした。
「こいつは分かりやすいな」
ヘルハウンドの牙。
名前を覚えたため、何から落ちた物なのかも分かる。
別の袋へ収め、先へ進んだ。
すると少し離れた分岐の陰から、四人の冒険者が顔を出した。
全員が盾か、耐火用の外套を身に着けている。
「……今、全部受けたよな?」
「受けたぞ」
バンが答える。
「火傷は?」
「ねぇな」
「耐火装備は?」
「着てねぇ」
「じゃあ、何で無事なんだ?」
「丈夫だからだろ」
「それで済むのか……?」
男たちはバンの焦げた長衣を見て、露出している皮膚に傷がないことを確かめた。
「赤い服の男って、こいつか?」
「一人で下りてる奴だろ」
「本当にいたのか」
「聞こえてんぞ」
バンが言うと、四人は揃って口を閉じた。
「下り道、どっちだ?」
「……右の坑道を真っ直ぐだ」
「途中で二つに分かれるが、左へ進め」
「右は?」
「ヘルハウンドの巣に近い」
「そっちでも下りられんのか?」
「遠回りだ。行くな」
「なら左にするか」
バンは歩き出す。
背後から小さな会話が聞こえてきた。
「ギルドに報告した方がいいか?」
「何を報告するんだ。一人で火を浴びて平気な男がいるって?」
「無所属らしいぞ」
「もっと意味が分からん」
バンは振り返らなかった。
◇
第十五階層へ入る頃には、鞄の中の魔石袋が三つに増えていた。
上層の小さな魔石が詰まった袋。中層へ入ってから手に入れた、少し大きな魔石の袋。途中で混ざってしまった物もある。
バンは通路脇の窪みへ腰を下ろし、中身を確認した。
「増えたな」
重量はバンにとって問題にならない。
だが、容量は別だ。
保存食、水、酒、鍋、鉄板、調味料、回収袋。
そこへ魔石とドロップアイテムが加わっている。
まだ入る。
ただし、最初ほど余裕はなかった。
小さな魔石も、今のところすべて残している。
「十八階層に街があんだったな」
酒場で聞いた情報を思い出す。
冒険者街リヴィラ。
そこで売れるなら、一度荷物を減らせる。
金額は分からない。それでも、地上まで持ち帰る必要はなくなる。
バンは硬いパンと干し肉を一切れずつ取り出し、水で流し込みながら食べた。
しばらく休んでいると、頭上から甲高い音が響いた。
耳へ直接刺さるような、細く強い音だ。
「うるせぇな」
見上げる。
天井には暗色の大きな蝙蝠が何体も張り付いていた。
上層で見た物よりも、身体も牙も大きい。
一体が翼を広げ、再び音を放つ。
音そのものに、冒険者の集中を乱す力があるらしい。
だが、煉獄で聞いた魔獣の咆哮やアンタレスの咆哮波と比べれば、耳障りなだけだった。
「飯の邪魔すんな」
パンを口へ入れたまま、クレシューズを手に取る。
座った姿勢のまま四節の神器を頭上へ振るった。
「乱獲《クレイジーハント》」
クレシューズの軌道に合わせ、天井にいた蝙蝠たちの魔石が一斉に抜けた。
身体が灰へ変わり、黒い灰がバンの周囲へ降ってくる。
「……最悪だな」
食べ物へ灰がかかる前に、バンは長衣でパンを覆った。
魔石だけが床へ落ちる。
少し離れた曲がり角の向こうから、冒険者の声がした。
「バッド・バットの音だ!」
「詠唱を止めるな!」
「もう聞こえないぞ!」
数人が走ってくる。
だが、そこに残っていたのは灰と、パンを持った赤い旅人だけだった。
「……倒したのか?」
「ああ」
「全部?」
「ああ」
「食事しながら?」
「ああ」
「何なんだ、あんた」
「バンだぞ」
名乗れば解決すると思ったらしい。
冒険者たちは、さらに困った顔になった。
そのうちの一人が、周囲へ視線を動かす。
「他にもいる。ここは発生が速い」
岩壁が一か所、二か所、三か所と、内側から膨らみ始めた。
バンは食べ残したパンを口へ放り込み、立ち上がる。
最初に現れたのは、全身を透明に近い結晶で覆った巨大な蟷螂だった。
鎌のような前脚と細長い胴。岩壁の光を反射し、身体の輪郭が複数あるように見える。
「クリスタル・マンティスだ!」
杖を持った冒険者が叫んだ。
「魔法は効きにくい! 前衛、関節を狙え!」
「これ、カマキリだったのか」
「今覚えることか!?」
結晶の蟷螂が鎌を振るう。
冒険者たちが盾を構えるより早く、バンはクレシューズを伸ばした。
鎌の付け根へ棍を絡め、軽く引く。
巨大な身体が足元から浮き上がった。
「お」
上層の怪物より、少し重い。
それだけだった。
クレシューズを振るい、蟷螂を床へ叩き落とす。
結晶の外殻が石床へぶつかり、甲高い音を上げた。
ヒビは入らない。
「硬ぇな」
バンは感心したように言った。
「感心してる場合か!」
「魔石を抜きゃ同じだろ」
片手を向ける。
「獲物狩り《フォックスハント》」
結晶の外殻をすり抜け、魔石が飛び出した。
クリスタル・マンティスの身体が灰へ変わる。
残ったのは魔石と、前脚の結晶片が一つ。
「残ったな」
バンは拾い上げ、光へかざす。
完全な透明ではない。
僅かに青みがあり、内部には細かな筋が走っている。
「これは貴重そうだな」
「待て!」
冒険者の一人が声を上げた。
「まだ生まれてる!」
壁から黒いヘルハウンド。
天井からバッド・バット。
床の亀裂からダンジョン・ワーム。
複数種が同時に姿を現した。
冒険者たちは即座に陣形を組む。
盾役が前。槍が左右。杖使いを中央へ置き、サポーターを後方へ下げる。
「炎を防げ!」
「蝙蝠を先に落とせ!」
「足元にも来るぞ!」
慣れている。
声を掛け、役割を分け、互いの死角を補っていた。
バンは、その陣形の外に立っている。
「そこの人、こっちへ!」
「邪魔になるぞ」
「何を――」
ヘルハウンドが火を吐いた。
バンはクレシューズを握り、炎を放った犬と、頭上の蝙蝠、地面から伸びたワームをまとめて捉えるように四節の神器を振るった。
「乱獲《クレイジーハント》」
火球を放った犬。
頭上の蝙蝠。
地面から口を開いたワーム。
すべての身体から、魔石が同時に抜け出した。
ただし、すでに放たれた火球だけは勢いを失わず飛んでくる。
バンはクレシューズの一節を返し、火球を横の岩壁へ弾いた。
炎が爆ぜる。
その光の中で、モンスターたちが次々と灰へ変わっていった。
戦闘は、冒険者たちが一歩も動かないうちに終わった。
「……」
誰も声を出さない。
バンは床へ散った魔石を拾い始める。
「何してんだ?」
「いや」
盾役の男が、構えていた盾をゆっくり下ろした。
「こっちの台詞なんだが」
「倒しただけだぞ」
「それを、どうやって」
「見てただろ」
「見ても分からなかった」
バンは最後の魔石を拾う。
灰の中にはヘルハウンドの牙が一本、バッド・バットの翼膜らしい薄い膜、ダンジョン・ワームの歯、小さな結晶片が残っていた。
持っていない種類を優先して拾う。
同じ牙も、まだ鞄に余裕があるため二本目を入れた。
「第十六階層への道、知ってるか?」
バンが尋ねる。
盾役の男はしばらく黙ったあと、自分たちが来た道の奥を指した。
「この先の縦穴を、螺旋状の道に沿って下りろ」
「穴に飛び込んじゃ駄目か?」
「絶対にやめろ」
「また言われたな」
「何人にも言われるようなことをするな」
男は額へ手を当てた。
「第十五階層から下は、ミノタウロスも出る」
「牛頭か?」
「知ってるのか?」
「名前は聞いたことねぇけど、牛頭なら見りゃ分かるだろ」
「その理屈で進んできたのか……?」
「ああ」
冒険者たちは、もう何も言わなかった。
バンは教えられた方向へ歩き始める。
背後で小さな声が交わされた。
「ギルドへ報告するぞ」
「無所属って本当なのか?」
「あれが恩恵なしの動きに見えるか?」
「見えない」
「だが、ファミリアの印もない」
声が遠ざかる。
バンは気にせず、第十六階層へ続く道を探した。
◇
第十六階層。
そして、第十七階層。
下へ進むにつれて、怪物の身体は目に見えて大きくなった。
最初に現れた牛頭は、バンよりも遥かに背が高い。
筋肉に覆われた巨体。大きな角。手には、別の冒険者が落とした物なのか、幅広の斧を持っている。
「こいつがミノタウロスか」
牛頭が咆哮する。
低い音が岩窟全体を揺らした。
少し離れた通路で、新人らしい冒険者が悲鳴を上げる。
「ミノタウロスだ!」
「逃げろ!」
牛頭は逃げる者ではなく、正面に立つバンへ斧を振り下ろした。
バンはクレシューズの短い柄で受ける。
岩床へ衝撃が伝わり、斧を振ったミノタウロスの腕が、逆に大きく弾かれた。
「上よりは力あんな」
感想は、それだけだった。
バンは空いている手を向ける。
「獲物狩り《フォックスハント》」
牛頭の胸から、拳に近い大きさの魔石が抜け出した。
これまでの物よりも明らかに大きい。
ミノタウロスの巨体が灰へ変わり、斧だけが重い音を立てて落ちた。
「やっと少しでけぇのが出たな」
魔石を持ち上げる。
鞄の容量を考えれば、小さな魔石を何個も入れるより、こちら一つを残した方がよさそうだった。
だが、今はまだ捨てる必要はない。
バンは大きな魔石用に、中型の回収袋を一つ取り出した。
灰の中には角の一部が残っている。
一本丸ごとではなく、根元から短く折れたような黒い角片だった。
「これも入れとくか」
角片も回収する。
先ほど逃げていた冒険者たちが、遠くから様子を見ていた。
「倒した……?」
「一撃も入れてないぞ」
「魔石が勝手に抜けた」
「赤い服の男だ」
「上で噂になってた奴か?」
バンは無視した。
その後も、大型の猫科に似た牙獣、ヘルハウンドの群れ、複数のミノタウロスが途切れず現れた。
少数なら《獲物狩り》。
群れなら、クレシューズを振るって《乱獲》。
広い場所へ散っていれば、クレシューズを伸ばし、一度動きを止めてから魔石を奪った。
苦戦はしない。
ただし、魔石を拾う時間、何かが残っていないか灰を確かめる時間、迷った道を戻る時間。それらが積み重なっていく。
鞄も最初より大きく膨らんでいた。
中層へ入ってからの魔石は上層より大きい。ミノタウロスの魔石も、すでに三つある。
ドロップアイテムも増えた。
結晶片、牙、翼膜、角、硬い皮膜。
名前も使い道も知らない素材ばかりだった。
「十八で売らねぇと入らなくなりそうだな」
バンは鞄を担ぎ直す。
第十七階層へ入ってから、さらに長い時間を使って下へ続く道を探した。
やがて広い空間へ出る。
何本もの柱。
壁と天井に残る大きな傷。
これまでよりも遥かに巨大な何かが暴れたような痕跡があった。
だが、その空間には何もいない。
モンスターの声も、足音もなかった。
ただ、広い岩窟にバンの足音だけが響いている。
「静かだな」
少し立ち止まり、周囲を見る。
柱の一部は砕け、床は大きく抉れている。
壁には、人間の武器だけでは作れないような巨大な亀裂が走っていた。
何がいたのか、バンは知らない。
今はいない。
それだけを確認し、先へ進んだ。
広い空間の奥に、細い通路がある。
緩やかな坂を進んだ先から、今までとは違う風が流れてきた。
湿っている。
だが、岩窟の重い空気ではない。
草と水。
地上の森に近い匂いだった。
「地下に森があんだったか」
酒場で聞いた話を思い出す。
第十八階層。
安全階層。
冒険者街リヴィラ。
バンは坂を下る。
岩の通路が少しずつ明るくなった。
青白い光。
天井から差しているように見えるが、太陽の光ではない。
最後の曲がり角を抜ける。
バンは、そこで初めて足を止めた。
目の前に広がっていたのは、岩壁ではなかった。
深い森。
青い水晶の光。
遠くに見える大きな湖。
そして遥か頭上には、空のように広がる天井がある。
「……すげぇな」
世界唯一の迷宮の中。
地上から遠く離れた地下に、一つの世界が広がっていた。
第13階層から第17階層までの岩窟迷宮を進み、バンがアルミラージ、ダンジョン・ワーム、ヘルハウンド、クリスタル・マンティス、ミノタウロスなどの名前を、周囲の冒険者の声から知っていく回でした。モンスターの強さには苦戦せず、発生速度や複雑な立体構造、増えていく荷物の方を探索上の問題として描いています。