強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第80話 岩窟迷宮

 第十三階層へ続く坂を下り始めてすぐ、バンは上層との違いに気づいた。

 

 空気が重い。

 

 湿気を含み、岩と土が混ざった匂いの奥には、モンスターの獣臭が濃く残っている。

 

 青白かった壁も、ここでは灰色に近い岩盤へ変わっていた。凹凸が激しく、天井からは短い石柱が突き出し、床のあちこちには浅い亀裂が走っている。

 

 一本道ではない。

 

 前へ進む通路。斜め下へ落ち込む坂。頭上を横切る別の坑道。人が二人並べる程度の細い穴。

 

 それらが上下左右へ入り組んでいた。

 

「こっから中層だったな」

 

 案内板に書かれていた文字を思い出す。

 

 単独行動を避けること。物資と帰還経路を確認すること。

 

 バンは一人で、地図もない。帰還する日すら決めていなかった。

 

 注意書きのほとんどを守っていない。

 

「まあ、何とかなんだろ」

 

 鞄の紐を直し、クレシューズを肩へ担ぐ。

 

 坂の先へ足を踏み入れた直後、右側の岩壁が膨らんだ。

 

 続いて左の壁。さらに、少し先の天井までもが内側から動き始める。

 

「早ぇな」

 

 上層でもモンスターは壁から生まれていた。

 

 だが、ここではバンが階層へ入った直後から、複数の場所が同時に反応している。

 

 岩壁が裂け、白い毛に覆われた兎が床へ転がり落ちた。

 

 額には、ニードルラビットよりも太く長い一本角が生えている。

 

 一体、二体、三体。

 

 次々と生まれた兎たちは、着地すると同時に好戦的な鳴き声を上げた。

 

「また角兎か」

 

 上層で見た個体より大きく、毛の色も違う。

 

 それでも、戦い方は似ていた。

 

 四体が同時に床を蹴る。正面と左右から迫り、残る一体は壁を蹴って頭上へ回り込んだ。

 

 バンは肩からクレシューズを下ろし、片手で握った。

 

 四節の神器を横へ振るう。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 クレシューズが描いた軌道に合わせるように、四体の胸元から魔石が一斉に抜けた。

 

 兎たちは角をバンへ届かせることなく、そのまま灰となって崩れていく。

 

 上から降る灰を片手で払い、床へ落ちた魔石を拾った。

 

 第十二階層までに手に入れた物より、少し大きい。

 

「中層に入ったからか?」

 

 魔石を袋へ入れる。

 

 灰の中には、白い角が一本だけ残っていた。

 

 先端は鋭く、ニードルラビットから拾った物よりも長い。表面も滑らかだった。

 

 バンは二本を並べて見比べる。

 

「こっちの方が良さそうだな」

 

 まだ鞄には入る。

 

 小さい方も捨てず、新しく拾った角と一緒に袋へ収めた。

 

 その時、後方から複数の足音が坂を下りてきた。

 

「止まれ!」

 

「アルミラージがいるぞ!」

 

 六人ほどの冒険者だった。

 

 盾を構えた男が先頭に立ち、その後ろに剣士と槍使いが続く。弓と杖を持つ者、最後尾には大きな荷物を背負ったサポーターもいる。

 

 彼らはバンの足元に広がる灰を見ると、一斉に動きを止めた。

 

「……もう倒したのか?」

 

「ああ」

 

 バンは白い角を入れた袋へ目を向けた。

 

「こいつら、アルミラージってのか?」

 

「そうだが」

 

「上にいた角兎と似てんな」

 

「ニードルラビットのことか?」

 

「ああ。それだ」

 

 盾の男は、バンの背後に誰もいないことを確認した。

 

「一人で中層へ入ったのか?」

 

「ああ」

 

「仲間は後ろか?」

 

「いねぇぞ」

 

「サポーターは?」

 

「いねぇ」

 

「地図は?」

 

「持ってねぇ」

 

 男は、バンがこれまでに何度も見てきた表情を浮かべた。

 

 呆れと警戒。そして、どうしてこの男がここにいるのか理解できないという顔だ。

 

「上層とは違う。アルミラージも一体なら大したことはないが、群れになれば話が変わる」

 

「今、四体いたぞ」

 

「それを一瞬で倒したのは見れば分かる。だが、問題は強さだけじゃない」

 

 男が周囲の岩壁を示す。

 

「中層はモンスターの発生が速い。戦闘音に寄ってくる個体もいる。目の前の敵を倒している間に、後ろから別の群れが生まれることもある」

 

「全部倒せばいいだろ」

 

「普通は、その前に体力が尽きるんだ」

 

「オレは平気だぞ」

 

「……そうだろうな」

 

 男は足元の灰を見て、言い返すことを諦めた。

 

「第十四階層へ向かうなら、右の坑道へ入れ。左は縦穴へ繋がっている」

 

「落ちりゃ下に行けんじゃねぇのか?」

 

「落ちた先が通路だとは限らない。戻れなくなるぞ」

 

「なるほどな」

 

「近道だと思って飛び込むなよ」

 

「考えとく」

 

「考えるな。やめろ」

 

 後ろの杖使いが、盾の男の肩を軽く叩いた。

 

「もう行きましょう。この人、絶対聞きませんよ」

 

「聞いてるぞ」

 

「従うとは言ってませんよね?」

 

「ああ」

 

「ほら」

 

 冒険者たちはバンを追い越し、右側の坑道へ向かった。

 

 その途中、弓を持つ獣人が振り返る。

 

「さっきのアルミラージの魔石、全部回収したのか?」

 

「ああ」

 

「なら、袋の口はしっかり閉めておけ。ここからは地面の下にもいる」

 

「盗む奴がいんのか?」

 

「モンスターだよ」

 

 獣人はそれだけ言い残して仲間を追った。

 

「地面の下?」

 

 バンは足元を見た。

 

 硬い岩盤だ。表面だけなら、何かが潜んでいるようには見えない。

 

 それでも、少し先を歩く冒険者たちは、足元を確かめながら進んでいる。

 

 バンも同じ坑道へ入った。

 

 

       ◇

 

 

 男が言った通り、中層ではモンスターが生まれる間隔が短かった。

 

 アルミラージ。上層にもいた暗色の蝙蝠。コボルトより一回り大きく、筋肉の付いた犬頭の怪物。鱗に覆われた人型の蜥蜴。

 

 少数で現れることもあれば、異なる種類が同時に生まれることもある。

 

 前方から犬頭が四体。

 

 天井から蝙蝠が六体。

 

 さらに壁を裂き、蜥蜴の人型が二体現れた。

 

「増えたな」

 

 バンはクレシューズを伸ばした。

 

 四つの節が分かれ、頭上から降下した蝙蝠を先端でまとめて打ち払う。

 

 倒すためではない。

 

 一か所へ集めるためだ。

 

 節を返し、犬頭と蜥蜴人の足元を払う。すべての動きが一瞬だけ止まったところで、バンはクレシューズを大きく振るった。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 四節の神器が描いた軌道に応じるように、魔石が一斉に抜けた。

 

 蝙蝠、犬頭、蜥蜴人。

 

 群れのすべてが灰へ崩れ、魔石だけが床へ落ちる。

 

 上層よりも大きな物が増え始めていた。それでも、まだ手の平に収まる程度だ。

 

 バンは一つずつ拾い、新しい袋へ入れる。

 

 灰の中に残ったのは、黒い蝙蝠の牙が二本と、蜥蜴人の鱗らしき硬い板が一枚。

 

 犬頭からは何も残らなかった。

 

「毎回は出ねぇな」

 

 拾える物だけを拾う。

 

 犬頭が持っていた粗末な斧や、蜥蜴人の石剣は置いていく。使う予定もなく、珍しくも見えなかった。

 

 バンは歩き始めた。

 

 先ほどの冒険者たちとは途中の分岐で別れ、人の少ない通路へ入ったため、周囲にはバンしかいない。

 

 静かだった。

 

 上層よりも岩壁が厚いためか、遠くの戦闘音も届きにくい。

 

 聞こえるのは水滴と僅かな風、自分の足音。

 

 そして、床の下から響く、何かが岩を削るような音だった。

 

「これか」

 

 バンは立ち止まった。

 

 右足の下。地面の奥で何かが蠢いている。

 

 獣の足音ではない。

 

 長い身体が、土と岩の間を擦りながら進んでいる。

 

 バンが片足を上げた瞬間、床が大きく割れた。

 

 丸い口。

 

 その内側に並ぶ無数の歯。

 

 目も鼻も見当たらない。

 

 太い蛇か、巨大な蚯蚓に口だけを付けたような怪物が、真下から噛みついてきた。

 

 バンは半歩横へ移動する。

 

 牙が空を噛んだ。

 

 地面から伸びた怪物は、そのまま身体を曲げ、横からもう一度口を開く。

 

「こいつが、地面の下にいる奴か」

 

 鞄を噛まれる前に、片手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 長い胴の中央近くから魔石が抜け出した。

 

 怪物は口を開いた姿勢のまま灰となり、空いた穴へ流れ落ちていく。

 

 魔石だけがバンの手元へ飛んできた。

 

 アルミラージよりも少し大きい。

 

 灰の中には、歯の一部が残っていた。

 

 何本もの歯が並んだまま、弧を描く硬い板になっている。

 

「持ちにくいな」

 

 そのまま入れれば、他の袋を破りそうだった。

 

 バンは厚手の回収袋へ収め、鍋や水袋から離れた位置へ入れる。

 

 穴の中を覗く。

 

 暗く、底までは見えない。

 

 先ほどの怪物が掘った道なのか、最初から存在していた穴なのかも分からなかった。

 

 湿った空気が下から上がってくる。

 

「こっから下に行けそうだけどな」

 

 先ほどの忠告を思い出す。

 

 落ちた先が通路とは限らない。戻れなくなる。

 

「やめとくか」

 

 珍しく素直に穴から離れた。

 

 少し先へ進むと、上の階層から来た冒険者たちの声が聞こえてくる。

 

「足元に気をつけろ!」

 

「ダンジョン・ワームだ!」

 

 バンは振り返った。

 

「ワームってのか」

 

 名前を一つ覚えた。

 

 

       ◇

 

 

 第十四階層へ下りるまで、第十三階層だけでかなりの時間を使った。

 

 戦闘ではない。

 

 道だ。

 

 上下へ交差する坑道。行き止まり。別の通路へ繋がる細い穴。下り坂に見えて、大きく回り込み元の場所へ戻る道。

 

 一度通った場所へ置いた石も、別の冒険者に蹴られたのか位置が変わっていることがある。

 

 壁へ付けた傷は、時間が経てば塞がってしまう。

 

「地図持ってても迷うってのは本当みてぇだな」

 

 足跡を追う。

 

 だが、足跡は上へ向かう者と下へ向かう者が重なっている。

 

 声を頼りにしようとしても、岩窟の中で反響し、近いのか遠いのか分からない。

 

 最後は、下から上がってきたパーティーに道を聞いた。

 

「第十四階層なら、この先を左です!」

 

 負傷者を支えていた若い冒険者が、急ぎながら答える。

 

「右は行き止まり!」

 

「助かった」

 

「先に進むなら気をつけてください! ヘルハウンドの群れがいます!」

 

「ヘルハウンド?」

 

「黒い犬です! 炎を吐きます!」

 

「犬が火を吐くのか」

 

「見れば分かります!」

 

 彼らは、そのまま上へ向かっていった。

 

 先頭の男が持つ盾は半分ほど黒く焦げ、後衛の少女も腕に火傷を負っている。

 

「火か」

 

 バンは教えられた道へ進んだ。

 

 

       ◇

 

 

 第十四階層の岩壁は、第十三階層よりも暗い。

 

 通路の一部には煤が付き、地面にも何かが焼けた跡が残っている。

 

 炎への対策が必要なのだと、資料を持たないバンにも理解できた。

 

 ただし、火そのものを警戒する気にはならない。

 

 煉獄で過ごした年月。

 

 熱。毒気。灼ける大地。

 

 この階層の炎が、それを上回るとは思えなかった。

 

 通路を進むと、黒い犬型の怪物が姿を現した。

 

 一体。

 

 その奥に二体。

 

 さらに岩陰から四体。

 

 黒い毛、赤い目。口の端からは火の粉が漏れている。

 

「こいつらがヘルハウンドか」

 

 犬たちが一斉に口を開いた。

 

 喉の奥が赤く光り、次の瞬間、複数の火球が通路を埋めるように放たれる。

 

 逃げ場の少ない岩窟。

 

 普通の冒険者なら盾を構え、耐火装備に頼り、陣形を崩さず受けるしかない。

 

 バンは動かなかった。

 

 火球が身体を直撃する。

 

 赤い長衣が炎に包まれ、周囲の空気が一気に熱せられた。

 

 ヘルハウンドたちは炎の向こうへ走り出す。

 

 焼けた敵へ牙を突き立てるためだ。

 

 だが、火の中からバンの声が聞こえた。

 

「確かに、少し熱ぃな」

 

 炎を割り、クレシューズが伸びる。

 

 先頭のヘルハウンドの頭を軽く打ち、軌道を横へ流して二体目と三体目の脚を払った。

 

 炎が消える。

 

 バンは長衣へ付いた火を片手で叩いた。

 

 皮膚には傷一つない。

 

「服が焦げんだろ」

 

 身体よりも、そちらの方が不満らしい。

 

 バンはクレシューズを握り直し、残る犬たちを囲むように四節の神器を旋回させた。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 クレシューズが描いた円に応じるように、七つの魔石が黒い犬たちの身体から一斉に抜けた。

 

 ヘルハウンドの群れが灰へ変わる。

 

 床へ散った魔石を拾い上げると、先ほどの火球を生んでいたためか、石の内側には赤い光が僅かに残っているように見えた。

 

 バンは一つを光へかざした。

 

「同じ魔石でも違いあんのか?」

 

 種類が違うからか。使っていた力が違うからか。

 

 正確なことは分からない。

 

 結局、他の魔石と分けずに同じ袋へ入れた。

 

 灰の中には、黒く硬い牙が一本残っている。僅かに焦げたような匂いがした。

 

「こいつは分かりやすいな」

 

 ヘルハウンドの牙。

 

 名前を覚えたため、何から落ちた物なのかも分かる。

 

 別の袋へ収め、先へ進んだ。

 

 すると少し離れた分岐の陰から、四人の冒険者が顔を出した。

 

 全員が盾か、耐火用の外套を身に着けている。

 

「……今、全部受けたよな?」

 

「受けたぞ」

 

 バンが答える。

 

「火傷は?」

 

「ねぇな」

 

「耐火装備は?」

 

「着てねぇ」

 

「じゃあ、何で無事なんだ?」

 

「丈夫だからだろ」

 

「それで済むのか……?」

 

 男たちはバンの焦げた長衣を見て、露出している皮膚に傷がないことを確かめた。

 

「赤い服の男って、こいつか?」

 

「一人で下りてる奴だろ」

 

「本当にいたのか」

 

「聞こえてんぞ」

 

 バンが言うと、四人は揃って口を閉じた。

 

「下り道、どっちだ?」

 

「……右の坑道を真っ直ぐだ」

 

「途中で二つに分かれるが、左へ進め」

 

「右は?」

 

「ヘルハウンドの巣に近い」

 

「そっちでも下りられんのか?」

 

「遠回りだ。行くな」

 

「なら左にするか」

 

 バンは歩き出す。

 

 背後から小さな会話が聞こえてきた。

 

「ギルドに報告した方がいいか?」

 

「何を報告するんだ。一人で火を浴びて平気な男がいるって?」

 

「無所属らしいぞ」

 

「もっと意味が分からん」

 

 バンは振り返らなかった。

 

 

       ◇

 

 

 第十五階層へ入る頃には、鞄の中の魔石袋が三つに増えていた。

 

 上層の小さな魔石が詰まった袋。中層へ入ってから手に入れた、少し大きな魔石の袋。途中で混ざってしまった物もある。

 

 バンは通路脇の窪みへ腰を下ろし、中身を確認した。

 

「増えたな」

 

 重量はバンにとって問題にならない。

 

 だが、容量は別だ。

 

 保存食、水、酒、鍋、鉄板、調味料、回収袋。

 

 そこへ魔石とドロップアイテムが加わっている。

 

 まだ入る。

 

 ただし、最初ほど余裕はなかった。

 

 小さな魔石も、今のところすべて残している。

 

「十八階層に街があんだったな」

 

 酒場で聞いた情報を思い出す。

 

 冒険者街リヴィラ。

 

 そこで売れるなら、一度荷物を減らせる。

 

 金額は分からない。それでも、地上まで持ち帰る必要はなくなる。

 

 バンは硬いパンと干し肉を一切れずつ取り出し、水で流し込みながら食べた。

 

 しばらく休んでいると、頭上から甲高い音が響いた。

 

 耳へ直接刺さるような、細く強い音だ。

 

「うるせぇな」

 

 見上げる。

 

 天井には暗色の大きな蝙蝠が何体も張り付いていた。

 

 上層で見た物よりも、身体も牙も大きい。

 

 一体が翼を広げ、再び音を放つ。

 

 音そのものに、冒険者の集中を乱す力があるらしい。

 

 だが、煉獄で聞いた魔獣の咆哮やアンタレスの咆哮波と比べれば、耳障りなだけだった。

 

「飯の邪魔すんな」

 

 パンを口へ入れたまま、クレシューズを手に取る。

 

 座った姿勢のまま四節の神器を頭上へ振るった。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 クレシューズの軌道に合わせ、天井にいた蝙蝠たちの魔石が一斉に抜けた。

 

 身体が灰へ変わり、黒い灰がバンの周囲へ降ってくる。

 

「……最悪だな」

 

 食べ物へ灰がかかる前に、バンは長衣でパンを覆った。

 

 魔石だけが床へ落ちる。

 

 少し離れた曲がり角の向こうから、冒険者の声がした。

 

「バッド・バットの音だ!」

 

「詠唱を止めるな!」

 

「もう聞こえないぞ!」

 

 数人が走ってくる。

 

 だが、そこに残っていたのは灰と、パンを持った赤い旅人だけだった。

 

「……倒したのか?」

 

「ああ」

 

「全部?」

 

「ああ」

 

「食事しながら?」

 

「ああ」

 

「何なんだ、あんた」

 

「バンだぞ」

 

 名乗れば解決すると思ったらしい。

 

 冒険者たちは、さらに困った顔になった。

 

 そのうちの一人が、周囲へ視線を動かす。

 

「他にもいる。ここは発生が速い」

 

 岩壁が一か所、二か所、三か所と、内側から膨らみ始めた。

 

 バンは食べ残したパンを口へ放り込み、立ち上がる。

 

 最初に現れたのは、全身を透明に近い結晶で覆った巨大な蟷螂だった。

 

 鎌のような前脚と細長い胴。岩壁の光を反射し、身体の輪郭が複数あるように見える。

 

「クリスタル・マンティスだ!」

 

 杖を持った冒険者が叫んだ。

 

「魔法は効きにくい! 前衛、関節を狙え!」

 

「これ、カマキリだったのか」

 

「今覚えることか!?」

 

 結晶の蟷螂が鎌を振るう。

 

 冒険者たちが盾を構えるより早く、バンはクレシューズを伸ばした。

 

 鎌の付け根へ棍を絡め、軽く引く。

 

 巨大な身体が足元から浮き上がった。

 

「お」

 

 上層の怪物より、少し重い。

 

 それだけだった。

 

 クレシューズを振るい、蟷螂を床へ叩き落とす。

 

 結晶の外殻が石床へぶつかり、甲高い音を上げた。

 

 ヒビは入らない。

 

「硬ぇな」

 

 バンは感心したように言った。

 

「感心してる場合か!」

 

「魔石を抜きゃ同じだろ」

 

 片手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 結晶の外殻をすり抜け、魔石が飛び出した。

 

 クリスタル・マンティスの身体が灰へ変わる。

 

 残ったのは魔石と、前脚の結晶片が一つ。

 

「残ったな」

 

 バンは拾い上げ、光へかざす。

 

 完全な透明ではない。

 

 僅かに青みがあり、内部には細かな筋が走っている。

 

「これは貴重そうだな」

 

「待て!」

 

 冒険者の一人が声を上げた。

 

「まだ生まれてる!」

 

 壁から黒いヘルハウンド。

 

 天井からバッド・バット。

 

 床の亀裂からダンジョン・ワーム。

 

 複数種が同時に姿を現した。

 

 冒険者たちは即座に陣形を組む。

 

 盾役が前。槍が左右。杖使いを中央へ置き、サポーターを後方へ下げる。

 

「炎を防げ!」

 

「蝙蝠を先に落とせ!」

 

「足元にも来るぞ!」

 

 慣れている。

 

 声を掛け、役割を分け、互いの死角を補っていた。

 

 バンは、その陣形の外に立っている。

 

「そこの人、こっちへ!」

 

「邪魔になるぞ」

 

「何を――」

 

 ヘルハウンドが火を吐いた。

 

 バンはクレシューズを握り、炎を放った犬と、頭上の蝙蝠、地面から伸びたワームをまとめて捉えるように四節の神器を振るった。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 火球を放った犬。

 

 頭上の蝙蝠。

 

 地面から口を開いたワーム。

 

 すべての身体から、魔石が同時に抜け出した。

 

 ただし、すでに放たれた火球だけは勢いを失わず飛んでくる。

 

 バンはクレシューズの一節を返し、火球を横の岩壁へ弾いた。

 

 炎が爆ぜる。

 

 その光の中で、モンスターたちが次々と灰へ変わっていった。

 

 戦闘は、冒険者たちが一歩も動かないうちに終わった。

 

「……」

 

 誰も声を出さない。

 

 バンは床へ散った魔石を拾い始める。

 

「何してんだ?」

 

「いや」

 

 盾役の男が、構えていた盾をゆっくり下ろした。

 

「こっちの台詞なんだが」

 

「倒しただけだぞ」

 

「それを、どうやって」

 

「見てただろ」

 

「見ても分からなかった」

 

 バンは最後の魔石を拾う。

 

 灰の中にはヘルハウンドの牙が一本、バッド・バットの翼膜らしい薄い膜、ダンジョン・ワームの歯、小さな結晶片が残っていた。

 

 持っていない種類を優先して拾う。

 

 同じ牙も、まだ鞄に余裕があるため二本目を入れた。

 

「第十六階層への道、知ってるか?」

 

 バンが尋ねる。

 

 盾役の男はしばらく黙ったあと、自分たちが来た道の奥を指した。

 

「この先の縦穴を、螺旋状の道に沿って下りろ」

 

「穴に飛び込んじゃ駄目か?」

 

「絶対にやめろ」

 

「また言われたな」

 

「何人にも言われるようなことをするな」

 

 男は額へ手を当てた。

 

「第十五階層から下は、ミノタウロスも出る」

 

「牛頭か?」

 

「知ってるのか?」

 

「名前は聞いたことねぇけど、牛頭なら見りゃ分かるだろ」

 

「その理屈で進んできたのか……?」

 

「ああ」

 

 冒険者たちは、もう何も言わなかった。

 

 バンは教えられた方向へ歩き始める。

 

 背後で小さな声が交わされた。

 

「ギルドへ報告するぞ」

 

「無所属って本当なのか?」

 

「あれが恩恵なしの動きに見えるか?」

 

「見えない」

 

「だが、ファミリアの印もない」

 

 声が遠ざかる。

 

 バンは気にせず、第十六階層へ続く道を探した。

 

 

       ◇

 

 

 第十六階層。

 

 そして、第十七階層。

 

 下へ進むにつれて、怪物の身体は目に見えて大きくなった。

 

 最初に現れた牛頭は、バンよりも遥かに背が高い。

 

 筋肉に覆われた巨体。大きな角。手には、別の冒険者が落とした物なのか、幅広の斧を持っている。

 

「こいつがミノタウロスか」

 

 牛頭が咆哮する。

 

 低い音が岩窟全体を揺らした。

 

 少し離れた通路で、新人らしい冒険者が悲鳴を上げる。

 

「ミノタウロスだ!」

 

「逃げろ!」

 

 牛頭は逃げる者ではなく、正面に立つバンへ斧を振り下ろした。

 

 バンはクレシューズの短い柄で受ける。

 

 岩床へ衝撃が伝わり、斧を振ったミノタウロスの腕が、逆に大きく弾かれた。

 

「上よりは力あんな」

 

 感想は、それだけだった。

 

 バンは空いている手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 牛頭の胸から、拳に近い大きさの魔石が抜け出した。

 

 これまでの物よりも明らかに大きい。

 

 ミノタウロスの巨体が灰へ変わり、斧だけが重い音を立てて落ちた。

 

「やっと少しでけぇのが出たな」

 

 魔石を持ち上げる。

 

 鞄の容量を考えれば、小さな魔石を何個も入れるより、こちら一つを残した方がよさそうだった。

 

 だが、今はまだ捨てる必要はない。

 

 バンは大きな魔石用に、中型の回収袋を一つ取り出した。

 

 灰の中には角の一部が残っている。

 

 一本丸ごとではなく、根元から短く折れたような黒い角片だった。

 

「これも入れとくか」

 

 角片も回収する。

 

 先ほど逃げていた冒険者たちが、遠くから様子を見ていた。

 

「倒した……?」

 

「一撃も入れてないぞ」

 

「魔石が勝手に抜けた」

 

「赤い服の男だ」

 

「上で噂になってた奴か?」

 

 バンは無視した。

 

 その後も、大型の猫科に似た牙獣、ヘルハウンドの群れ、複数のミノタウロスが途切れず現れた。

 

 少数なら《獲物狩り》。

 

 群れなら、クレシューズを振るって《乱獲》。

 

 広い場所へ散っていれば、クレシューズを伸ばし、一度動きを止めてから魔石を奪った。

 

 苦戦はしない。

 

 ただし、魔石を拾う時間、何かが残っていないか灰を確かめる時間、迷った道を戻る時間。それらが積み重なっていく。

 

 鞄も最初より大きく膨らんでいた。

 

 中層へ入ってからの魔石は上層より大きい。ミノタウロスの魔石も、すでに三つある。

 

 ドロップアイテムも増えた。

 

 結晶片、牙、翼膜、角、硬い皮膜。

 

 名前も使い道も知らない素材ばかりだった。

 

「十八で売らねぇと入らなくなりそうだな」

 

 バンは鞄を担ぎ直す。

 

 第十七階層へ入ってから、さらに長い時間を使って下へ続く道を探した。

 

 やがて広い空間へ出る。

 

 何本もの柱。

 

 壁と天井に残る大きな傷。

 

 これまでよりも遥かに巨大な何かが暴れたような痕跡があった。

 

 だが、その空間には何もいない。

 

 モンスターの声も、足音もなかった。

 

 ただ、広い岩窟にバンの足音だけが響いている。

 

「静かだな」

 

 少し立ち止まり、周囲を見る。

 

 柱の一部は砕け、床は大きく抉れている。

 

 壁には、人間の武器だけでは作れないような巨大な亀裂が走っていた。

 

 何がいたのか、バンは知らない。

 

 今はいない。

 

 それだけを確認し、先へ進んだ。

 

 広い空間の奥に、細い通路がある。

 

 緩やかな坂を進んだ先から、今までとは違う風が流れてきた。

 

 湿っている。

 

 だが、岩窟の重い空気ではない。

 

 草と水。

 

 地上の森に近い匂いだった。

 

「地下に森があんだったか」

 

 酒場で聞いた話を思い出す。

 

 第十八階層。

 

 安全階層。

 

 冒険者街リヴィラ。

 

 バンは坂を下る。

 

 岩の通路が少しずつ明るくなった。

 

 青白い光。

 

 天井から差しているように見えるが、太陽の光ではない。

 

 最後の曲がり角を抜ける。

 

 バンは、そこで初めて足を止めた。

 

 目の前に広がっていたのは、岩壁ではなかった。

 

 深い森。

 

 青い水晶の光。

 

 遠くに見える大きな湖。

 

 そして遥か頭上には、空のように広がる天井がある。

 

「……すげぇな」

 

 世界唯一の迷宮の中。

 

 地上から遠く離れた地下に、一つの世界が広がっていた。




第13階層から第17階層までの岩窟迷宮を進み、バンがアルミラージ、ダンジョン・ワーム、ヘルハウンド、クリスタル・マンティス、ミノタウロスなどの名前を、周囲の冒険者の声から知っていく回でした。モンスターの強さには苦戦せず、発生速度や複雑な立体構造、増えていく荷物の方を探索上の問題として描いています。
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