強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第81話 冒険者街リヴィラ

第十七階層から続く坂を抜けた先。

 

バンは、しばらくその場から動かなかった。

 

視界いっぱいに広がるのは、地下とは思えない景色だった。

 

青白い光を放つ巨大な水晶が、遥か頭上に浮かんでいる。

 

太陽ほど眩しくはない。

 

それでも。

 

森を照らし。

 

湖の水面を輝かせ。

 

周囲の木々や草花に、淡い影を落としていた。

 

岩壁に囲まれた洞窟ではない。

 

天井は高すぎて。

 

一目では、どこまで続いているのか分からない。

 

遠くには大樹。

 

その根元を囲むように森が広がり。

 

さらに奥。

 

岩山の斜面へ張り付くように、いくつもの建物が並んでいた。

 

木造。

 

石造り。

 

岩壁へ直接穴を開けたもの。

 

屋根や壁の材料すら揃っていない。

 

それでも。

 

煙突から煙が上がり。

 

通りを人が歩き。

 

店先には看板が吊られている。

 

「本当に街があんのか」

 

地下迷宮の中。

 

地上から十八階層も離れた場所に。

 

人間が集まり。

 

眠り。

 

食事をし。

 

商売をする街がある。

 

バンは周囲を見回した。

 

第十七階層までとは違う。

 

壁が膨らむ気配がない。

 

地面の下から、モンスターが這い出してくる音も。

 

天井に怪物が張り付く羽音も聞こえない。

 

「静かだな」

 

完全な静寂ではない。

 

鳥の声。

 

風に揺れる葉。

 

水が流れる音。

 

遠くから届く冒険者たちの話し声。

 

だが。

 

怪物の気配だけがなかった。

 

酒場で聞いた、安全階層という言葉を思い出す。

 

通常のモンスターが生まれない場所。

 

それが。

 

この第十八階層らしい。

 

バンは坂を下り。

 

森の中へ入った。

 

道は整備されていた。

 

土の上に石が置かれ。

 

木々の幹には、街へ向かう方向を示す印が刻まれている。

 

地図を持たず。

 

何度も同じ場所へ戻った上層や中層とは違う。

 

ここでは。

 

誰かが残した道を歩くだけでいい。

 

「楽だな」

 

しばらく進むと。

 

木陰で休んでいる冒険者たちが見えた。

 

武器を横へ置き。

 

地面へ寝転がる者。

 

傷ついた鎧を外し、仲間に手当てを受ける者。

 

鍋を囲み。

 

湯気の上がる汁を食べている一団。

 

地上へ戻る途中なのか。

 

荷物の半分以上を魔石と素材で膨らませている者もいる。

 

その中を。

 

防具も着けず。

 

一人で大きな鞄を背負ったバンが歩く。

 

当然。

 

何人かが顔を向けた。

 

「あいつ、一人か?」

 

「第十七階層から下りてきたぞ」

 

「見ない顔だな」

 

「上で噂になってた赤い服の男じゃないか?」

 

声は聞こえている。

 

だが。

 

バンは振り返らなかった。

 

いちいち答えていたら。

 

街へ着くまでに時間がかかる。

 

森を抜ける。

 

岩場へ近づくほど。

 

人の数が増えた。

 

荷物を運ぶサポーター。

 

剣を研ぐ鍛冶師。

 

売り物を積んだ木箱を見張る商人。

 

地上のオラリオとは違う。

 

綺麗に区切られた通りはない。

 

岩の起伏を避けるように建物が並び。

 

狭い道が上下へ入り組んでいる。

 

入り口へ掲げられた看板も。

 

剣。

 

酒杯。

 

寝台。

 

袋。

 

文字が読めない者でも用途が分かるよう、簡単な絵で描かれていた。

 

「ここがリヴィラか」

 

街の中へ入った瞬間。

 

複数の声が飛んできた。

 

「宿ならこっちだ!」

 

「武器の修理は今なら半日で済むぞ!」

 

「魔石を買い取る!地上まで持ち帰るより楽だ!」

 

「薬が足りない奴はいないか!解毒薬、回復薬、何でもあるぞ!」

 

地上の市場と似ている。

 

だが。

 

声の勢いが強い。

 

商品を必要とする者が。

 

目の前で命を削っているからだろう。

 

武器が折れれば。

 

帰れない。

 

薬がなければ。

 

傷や毒で死ぬ。

 

食料が切れれば。

 

動けなくなる。

 

地上なら別の店を探せる。

 

ここでは。

 

選べる店の数そのものが少ない。

 

バンは通りの途中で足を止めた。

 

鞄が肩へ食い込んでいるわけではない。

 

重さも感じていない。

 

ただ。

 

中身が増えすぎていた。

 

魔石袋が三つ。

 

牙。

 

角。

 

爪。

 

甲殻。

 

翼膜。

 

結晶片。

 

ダンジョン・ワームの歯。

 

名前も分からない素材。

 

第十九階層より先へ進めば。

 

さらに増える。

 

一度売って、鞄を空けた方がいい。

 

「買取はどこだ?」

 

近くで声を張っていた男へ尋ねる。

 

頭に布を巻いた。

 

小柄な人間だった。

 

片目に古い傷がある。

 

「俺の店だ。魔石も素材もまとめて見るぞ」

 

「地上より安いんだろ?」

 

「その代わり、あんたが地上まで運ぶ必要がない」

 

「そういうもんか」

 

「納得したなら来な」

 

男は岩壁へ埋め込まれた建物へ入る。

 

バンも後へ続いた。

 

       ◇

 

店の中は狭かった。

 

奥には。

 

種類ごとに分けられた素材が積まれている。

 

魔石を入れる木箱。

 

牙や爪を並べた棚。

 

液体を満たした瓶。

 

何かの皮膜を重ねた束。

 

天井から吊られているのは。

 

大型モンスターの角らしい。

 

作業台の向こうで。

 

先ほどの男が両手を叩いた。

 

「全部出せ」

 

「食い物もか?」

 

「売りたいならな」

 

「そっちは売らねぇよ」

 

「なら、魔石と素材だけだ」

 

バンは鞄を床へ下ろす。

 

中から。

 

最初の魔石袋を取り出した。

 

作業台へ置く。

 

続いて二つ目。

 

三つ目。

 

袋を開くと。

 

小さな黒紫色の石が、台の上へ広がった。

 

男は一瞬。

 

バンを見る。

 

「随分集めたな」

 

「出てきた奴は、ほとんど倒したからな」

 

「何日潜ってた?」

 

「今日が初日だぞ」

 

「……今日?」

 

「ああ」

 

男は。

 

魔石の山とバンを見比べた。

 

「どこから来た」

 

「地上からだろ」

 

「どの階層まで潜ってきたか聞いてんだ」

 

「十七」

 

「一人で?」

 

「ああ」

 

「今日、初めて入って?」

 

「ああ」

 

男は。

 

しばらく何も言わなかった。

 

「嘘をつく理由は?」

 

「ねぇぞ」

 

「そうか」

 

信じたわけではなさそうだった。

 

だが。

 

深く追及する気もないらしい。

 

リヴィラでは。

 

商品さえ持ち込み。

 

金を受け取ることができれば。

 

客の事情まで気にしないのだろう。

 

男は魔石を大きさごとに分け始めた。

 

「こっちはゴブリン。これはコボルト。ニードルラビットに、キラーアント」

 

「石だけで分かんのか?」

 

「大きさ、形、魔力の色合い。毎日見てりゃ嫌でも覚える」

 

男は。

 

少し大きな魔石を別へ置く。

 

「オーク。ウォーシャドウ。こいつはアルミラージだな」

 

「上の兎と似てた奴か」

 

「似てるが別物だ」

 

「魔石も違うのか?」

 

「よく見ろ」

 

二つの石を並べられる。

 

一つは。

 

ニードルラビットから抜いたもの。

 

もう一つは。

 

アルミラージ。

 

大きさだけではない。

 

表面の筋。

 

内部で揺れる光。

 

確かに違いがあった。

 

「なるほどな」

 

「今まで全部、同じ袋に入れてたのか?」

 

「ああ」

 

「よく売りに来る気になったな」

 

「分けんのはそっちの仕事だろ」

 

「間違ってはいないが、少しくらい覚えろ」

 

男は文句を言いながらも。

 

手を止めなかった。

 

ヘルハウンド。

 

ダンジョン・ワーム。

 

バッド・バット。

 

クリスタル・マンティス。

 

ミノタウロス。

 

次々と魔石を見分け。

 

小さな山へ分けていく。

 

「ミノタウロスが三体分」

 

「ああ」

 

「傷一つないな」

 

「魔石だけ抜いたからな」

 

「抜いた?」

 

「獲物狩りで」

 

男は顔を上げる。

 

「何だ、それは」

 

「技だぞ」

 

「魔石を体から抜く技?」

 

「ああ」

 

「傷つけずに?」

 

「ああ」

 

男はミノタウロスの魔石を光へかざした。

 

欠けていない。

 

表面に傷もない。

 

普通なら。

 

モンスターを倒した時の衝撃や。

 

解体時の刃が当たり。

 

僅かに損傷することもある。

 

「便利な技だな」

 

「そうだろ」

 

「冒険者なら喉から手が出るほど欲しがる」

 

「冒険者じゃねぇぞ」

 

「……何?」

 

「ファミリアには入ってねぇ」

 

「無所属か」

 

「そう言ってるだろ」

 

男は。

 

再び、魔石へ目を落とした。

 

「何でもいい。俺は買い取れる物を買うだけだ」

 

「話が早くて助かる」

 

次に。

 

バンはドロップアイテムの袋を開けた。

 

台へ。

 

牙。

 

角。

 

爪。

 

甲殻。

 

針。

 

翼膜。

 

結晶片を並べていく。

 

男は魔石の時より。

 

慎重に一つずつ手に取った。

 

「ゴブリンの牙。これはコボルト。ニードルラビットの角」

 

「小せぇ方だな」

 

「こっちの白い方がアルミラージ」

 

「やっぱ、こっちの方が高いのか?」

 

「状態によるが、基本はな」

 

次に。

 

赤黒い甲殻。

 

「キラーアント。こっちは大顎の一部」

 

「何に使う?」

 

「甲殻は防具や盾の補強。顎は刃物や罠の材料。薬師が買うこともある」

 

「食えねぇのか?」

 

「食えるかどうか試す気か?」

 

「旨いならな」

 

「やめとけ。少なくとも、俺は食おうと思わん」

 

男はヘルハウンドの牙を持ち上げる。

 

「こいつは火属性を持つ道具の素材になる。状態も悪くない」

 

「一回、火を食らったぞ」

 

「その服でか?」

 

「ああ」

 

「よく生きてるな」

 

「服が少し焦げただけだ」

 

「……そうか」

 

男は。

 

余計なことを考えないことにしたらしい。

 

クリスタル・マンティスの結晶片。

 

ダンジョン・ワームの歯。

 

バッド・バットの翼膜。

 

一つずつ値を付けていく。

 

ただし。

 

必ず残った物ではない。

 

同じモンスターを何体も倒して。

 

ようやく一つ手に入った素材もある。

 

男は最後に。

 

全ての金額を紙へ書き。

 

指で計算した。

 

しばらくして。

 

硬貨を袋へ詰める。

 

「これで全部だ」

 

作業台へ置かれた袋を。

 

バンは片手で持ち上げた。

 

軽く揺らす。

 

音を聞き。

 

中身を見る。

 

「……思ってたより少ねぇ気がすんな」

 

「相場を知ってるのか?」

 

「知らねぇぞ」

 

「なら何と比べた」

 

「量だな」

 

作業台を埋めていた魔石と素材。

 

今。

 

手元にある硬貨袋。

 

見た目だけなら。

 

もう少し多くてもよさそうに感じた。

 

男は鼻で笑う。

 

「ここは十八階層だ。買い取った物は、俺たちが地上まで運ぶ」

 

「自分で運べば、もっと高いのか?」

 

「当然だ。運搬用の人手。護衛。途中で失う危険。保管場所。全部ただじゃない」

 

「そういうもんか」

 

「嫌なら返すぞ」

 

「いや、売る」

 

バンは迷わず。

 

硬貨袋を鞄へ入れた。

 

「鞄が空きゃ、それでいい」

 

「金を稼ぎに来たんじゃないのか?」

 

「中を見に来ただけだぞ」

 

「見物で十七階層まで下りる奴があるか」

 

「ここにいるだろ」

 

「もういい」

 

男は。

 

買い取った魔石を木箱へ移し始めた。

 

「まだ下へ行くつもりか?」

 

「ああ」

 

「なら、回収袋をもう少し分けておけ。下へ行けば魔石も大きくなる。小さい石で場所を潰すな」

 

「入らなくなったら捨てるぞ」

 

男の手が止まった。

 

「捨てる?」

 

「ああ」

 

「魔石を?」

 

「小せぇのからな」

 

「……今ここで売ったのは正解だった」

 

「だろ?」

 

「褒めてはいない」

 

店を出ようとするバンへ。

 

男が声をかける。

 

「宿を探してるなら、この坂を上がった先にある」

 

「酒は?」

 

「宿の一階が酒場だ」

 

「飯は?」

 

「出る。ただし高い」

 

「宿もか?」

 

「地上と同じ値段を期待するな」

 

「今、金入ったから平気だろ」

 

「その金の半分が、一晩で消えても文句を言うなよ」

 

バンは。

 

受け取った袋を一度見る。

 

「それは高ぇな」

 

「ここは十八階層だ」

 

今日だけで。

 

何度も聞いた言葉だった。

 

       ◇

 

街の中を歩き。

 

教えられた宿を探す。

 

坂を上がる途中にも。

 

様々な店があった。

 

武器屋。

 

防具屋。

 

薬屋。

 

食料品店。

 

地図を売る露店。

 

地上より高い。

 

そう聞いていたが。

 

値札を見るだけでは。

 

バンには違いが分からない。

 

元の相場を知らないからだ。

 

通りの端では。

 

帰還途中の冒険者たちが。

 

壊れた盾を巡って、鍛冶師と言い争っている。

 

「この値段は高すぎる!」

 

「嫌なら折れた盾で地上まで帰れ!」

 

「少し穴が開いただけだ!」

 

「ヘルハウンドの火を受けた跡だろうが!金具まで歪んでる!」

 

「半額にしろ!」

 

「帰れ!」

 

別の場所では。

 

負傷した男が薬瓶を見て顔を青くしていた。

 

「一本でこの値段か?」

 

「地上から運んできた物だ」

 

「三本必要なんだぞ」

 

「命が三本分より安いなら買わなくていい」

 

乱暴な商売。

 

それでも。

 

客は立ち去れない。

 

必要だからだ。

 

「結構えげつねぇな」

 

バンは小さく笑い。

 

坂の上にある建物へ入った。

 

看板には。

 

寝台と酒杯が描かれていた。

 

       ◇

 

宿の中は。

 

外から見るより広かった。

 

岩壁へ穴を掘り。

 

木材で床と仕切りを作っている。

 

一階は酒場。

 

奥に厨房。

 

二階から上が客室らしい。

 

すでに。

 

何組もの冒険者が酒を飲んでいた。

 

昼なのか。

 

夜なのか。

 

地下では、空を見ても時間が分かりにくい。

 

巨大水晶の光は。

 

地上の太陽ほど大きく変わらない。

 

冒険者たちも。

 

自分たちの探索時間に合わせて休んでいるようだった。

 

カウンターの向こうにいる女主人が。

 

バンへ目を向けた。

 

背が高く。

 

太い腕。

 

右頬から顎へ、古い傷が走っている。

 

「泊まりか?」

 

「ああ。一晩」

 

「食事付き。水は別。湯を使うなら追加だ」

 

「酒は?」

 

「飲んだ分だけ払え」

 

「飯と酒でいい」

 

「身体を洗わないのか?」

 

「汚れてねぇぞ」

 

長衣には。

 

灰。

 

土。

 

ヘルハウンドの炎で焦げた跡。

 

どう見ても綺麗ではない。

 

女主人は。

 

何も言わず、片手を出した。

 

「先払い」

 

「いくらだ?」

 

金額を聞き。

 

バンは硬貨袋から代金を出す。

 

先ほど受け取った分が。

 

確かに大きく減った。

 

「本当に高ぇな」

 

「嫌なら森で寝ろ」

 

「怪物が出ねぇなら、それでもいいな」

 

「上の階層から迷い込むことはある。盗人も出る。荷物を抱えて眠りたいなら好きにしな」

 

「それは面倒だな」

 

「なら払え」

 

「もう払っただろ」

 

女主人は硬貨を数え。

 

鍵を一つ投げる。

 

「三階の奥。夕食は好きな時に言え」

 

「今食う」

 

「今?」

 

「腹減ってんだよ」

 

「酒は?」

 

「強いの」

 

「種類は」

 

「旨い奴」

 

「一番困る注文をするな」

 

バンは。

 

空いている席へ腰を下ろした。

 

大きな鞄は。

 

足元へ置く。

 

クレシューズだけは。

 

肩から外さず、椅子へ立てかけた。

 

しばらくして。

 

木杯と酒瓶。

 

深い皿に入った煮込み料理。

 

厚く切ったパンが運ばれてくる。

 

煮込みには。

 

地上から運ばれたらしい根菜。

 

豆。

 

塩漬け肉が入っていた。

 

匂いを嗅ぐ。

 

悪くない。

 

ただ。

 

保存のために塩を強くしている。

 

香草は少ない。

 

「高いわりには普通だな」

 

女主人が睨む。

 

「文句があるなら自分で作れ」

 

「鍋は持ってきてるぞ」

 

「厨房は貸さない」

 

「なら食う」

 

肉を一口。

 

硬い。

 

煮込む時間が少し足りない。

 

だが。

 

地上から十八階層まで運んだ食材だと考えれば。

 

贅沢な方なのだろう。

 

酒を注ぐ。

 

色は濃い褐色。

 

樽香。

 

舌へ残る強い苦味。

 

喉を通れば。

 

身体の内側へ熱が落ちる。

 

「こっちは悪くねぇな」

 

女主人は返事をしなかった。

 

バンは食事を続けながら。

 

周囲の会話へ耳を傾ける。

 

正面の大きな卓。

 

八人ほどの冒険者たちが。

 

地図を広げていた。

 

「十九階層から先は予定通り進める」

 

「本気か?帰還した連中が、毒虫の群れを見たって言ってたぞ」

 

「だから解毒薬を増やす。大樹の迷宮で引き返してたら、いつまで経っても水の迷都へ届かん」

 

「二十五階層まで行く気か?」

 

「まずは二十四までだ」

 

「慎重で助かるよ」

 

大樹の迷宮。

 

水の迷都。

 

昨日。

 

地上の酒場でも聞いた名前。

 

ここでは。

 

より具体的な話が交わされている。

 

別の席。

 

片腕へ包帯を巻いた男が。

 

酒を飲みながら笑っていた。

 

「今なら階層主に会う心配はねえぞ」

 

「ゴライアスだけだろ?」

 

「下もだ。二十七の奴も、三十七の奴も、四十九の化け物まで姿を消してる」

 

「倒されたのか?」

 

「ゼウスとヘラの合同遠征だよ」

 

バンの手が。

 

杯を持ったまま僅かに止まる。

 

男たちは気づかない。

 

「両派閥の主力が、まとめて最深部へ向かってる。道中の階層主なんざ、残ってる方がおかしい」

 

「団長たちもか?」

 

「マキシムも女帝もいる。パァルも、ヘラの副団長もな。幹部と一級冒険者を山ほど連れてったらしいぞ」

 

「贅沢な話だ。俺たちはゴライアス一体で命懸けだってのに」

 

「同じ冒険者だと思うな。あいつらは神話の中を歩いてるような連中だ」

 

バンは酒を飲む。

 

マキシム。

 

女帝。

 

パァル。

 

オラリオへ戻ってから。

 

まだ会っていない者たち。

 

やはり。

 

ダンジョンへ潜っていたらしい。

 

「どこまで行ってるんだ?」

 

別の男が尋ねた。

 

「知るか。六十より下って話もあれば、七十一階層の経路を調べ直してるって話もある」

 

「七十一……」

 

「俺たちが一生かけても見ない場所だ」

 

「帰ってくるのはいつだ?」

 

「予定通りなら、もう上がり始めてる頃じゃないか?」

 

「帰り道だけで何日かかると思ってる」

 

「違いない」

 

七十一階層。

 

聞いたことのない深さ。

 

ここが十八。

 

まだ。

 

五十三階層も下にある。

 

「結構深ぇな」

 

バンが呟く。

 

近くの席にいた男が。

 

声を聞きつけ、こちらを見た。

 

「七十一階層がか?」

 

「ああ」

 

「結構どころじゃねえよ。俺たちにとっちゃ、三十階層でも十分に別世界だ」

 

「三十から何が違う?」

 

「何も知らずにここまで来たのか?」

 

「ああ」

 

男は。

 

酒杯を持ったまま、バンを見た。

 

「どこのファミリアだ?」

 

「入ってねぇ」

 

「言いたくないなら、そう言えばいい」

 

「本当に入ってねぇぞ」

 

「無所属で十七階層を越えられるか」

 

「越えたから、ここにいんだろ」

 

男は。

 

バンの無傷の姿。

 

大きな鞄。

 

クレシューズ。

 

焦げた赤い長衣を見る。

 

「……上で噂になってる奴か」

 

「何の話だ?」

 

「赤い服の正体不明の男。一人で階層を下りて、群れを灰にしてるって」

 

「魔石を抜いてるだけだぞ」

 

「それが普通じゃないんだよ」

 

「そうか?」

 

「そうだ」

 

男は空いている椅子へ移り。

 

バンの正面へ座った。

 

「この先へ行くつもりか?」

 

「ああ」

 

「どこまで」

 

「決めてねぇ」

 

「悪いことは言わん。二十四階層までにしておけ」

 

「その先は?」

 

「二十五から水場だ。足場が悪い。水中から襲われる。逃げ道を間違えれば、泳げるかどうか以前の問題になる」

 

「泳ぎなら得意だぞ」

 

「荷物を背負ったままでもか?」

 

「ああ」

 

「……そうか」

 

男は。

 

そこで言葉を失った。

 

バンは煮込みを食べる。

 

「三十からは?」

 

「下層だ。モンスターの強さも、階層の広さも跳ね上がる」

 

「三十七から深層だったな」

 

「知ってるじゃないか」

 

「名前だけな」

 

「深層は、俺たちみたいな中級冒険者が行く場所じゃない。一級冒険者を揃えた遠征隊で進む領域だ」

 

「一人じゃ駄目か?」

 

「死ぬ」

 

即答だった。

 

バンは酒を一口飲む。

 

「見てから決めるか」

 

「何を聞いてたんだ?」

 

「危ねぇって話だろ」

 

「なら戻れ」

 

「危ねぇかどうかは、自分で見ねぇと分かんねぇだろ」

 

「今の話だけで分かれ」

 

男は頭を抱えた。

 

少し離れた席から。

 

別の冒険者が笑う。

 

「諦めろ!そいつ、聞く気があるだけで従う気はねえぞ!」

 

「笑い事じゃない!」

 

「下へ行けば、本人が理解するさ!」

 

「理解した時には死んでる!」

 

バンは。

 

気にせず煮込みを食べ終えた。

 

女主人へ。

 

追加の酒を頼む。

 

「もう一本」

 

「先に払え」

 

「疑い深ぇな」

 

「飲んでから金がないと言う奴を何人も見てる」

 

「さっき払っただろ」

 

「宿代と食事代だ」

 

硬貨を渡す。

 

新しい酒瓶が置かれた。

 

今度は。

 

先ほどより透明に近い。

 

香りも鋭い。

 

飲めば。

 

一気に喉を焼く。

 

「こっちの方がいいな」

 

周囲の会話は。

 

まだ続いていた。

 

「階層主がいないからって、下へ急ぐ奴が増えてる」

 

「通常種に殺されるだけだ」

 

「特に五十二階層から先は駄目だ。下から火が飛んでくる」

 

「下から?」

 

バンが口を挟む。

 

話していた男たちが顔を向ける。

 

「何だ。あんた、そこまで行く気か?」

 

「まだ決めてねぇ。ただ、火が飛んでくるって何だ?」

 

「第五十八階層にいる砲竜だよ。岩盤をぶち抜いて、上の階層まで炎を吐く」

 

「階層を越えてか?」

 

「ああ。五十二から五十七まで、どこにいても狙われると思え」

 

「面白ぇな」

 

男たちは。

 

一斉に顔をしかめた。

 

「今の話を聞いて、何でそうなる」

 

「竜が岩を抜いて火を吐くんだろ?」

 

「当たれば、普通の冒険者は炭も残らん」

 

「服は焦げそうだな」

 

「服で済むと思うな」

 

バンは。

 

すでに焦げている長衣の裾を見た。

 

「替えは持ってくりゃよかったか」

 

「心配する場所がおかしい」

 

酒場の何人かが笑った。

 

最初。

 

正体の分からない男へ向けられていた警戒は。

 

少しずつ呆れへ変わっている。

 

バンは。

 

新しい酒を飲みながら。

 

聞こえてくる話を拾い続けた。

 

第十九階層から。

 

壁や天井が木に変わる。

 

毒虫。

 

怪鳥。

 

植物に擬態するモンスター。

 

第二十五階層から。

 

巨大な滝と水路。

 

水中からの奇襲。

 

第二十八階層。

 

次の安全階層。

 

さらに下。

 

密林。

 

砂漠。

 

白い迷宮。

 

紅蓮の山岳。

 

灰色の森林。

 

話す者によって。

 

知っている場所は違う。

 

自分で見た者。

 

仲間から聞いた者。

 

噂だけを繰り返す者。

 

どこまで本当なのか。

 

バンには判断できない。

 

だが。

 

一つだけ分かった。

 

下へ行くほど。

 

景色も。

 

環境も。

 

まるで違う場所へ変わっていく。

 

「飽きなさそうだな」

 

杯を空にする。

 

       ◇

 

食事と酒を終えたあと。

 

バンは三階の部屋へ向かった。

 

廊下は狭い。

 

床板は歩くたびに軋む。

 

渡された鍵で。

 

一番奥の扉を開けた。

 

部屋にあるのは。

 

寝台。

 

小さな机。

 

椅子。

 

水の入っていない桶。

 

窓はない。

 

壁の半分が岩のまま残っている。

 

「教会より狭ぇな」

 

それでも。

 

寝るだけなら十分だった。

 

鞄を床へ置く。

 

中身を改めて確認する。

 

魔石と素材を売ったため。

 

かなり余裕が戻っていた。

 

保存食。

 

水袋。

 

酒瓶。

 

調味料。

 

鍋。

 

鉄板。

 

調理用ナイフ。

 

空になった回収袋。

 

受け取った硬貨は。

 

宿と食事で大きく減った。

 

それでも。

 

まだ残っている。

 

「地上まで持ってきゃ、もう少し高かったのか」

 

今さら惜しいとは思わない。

 

鞄が空いた。

 

酒も飲めた。

 

寝る場所も手に入った。

 

それで十分だった。

 

クレシューズを寝台の脇へ置く。

 

靴だけを脱ぎ。

 

そのまま横になる。

 

硬い寝台。

 

薄い敷布。

 

長く旅を続けてきたバンには。

 

気にするほどのものではない。

 

天井を見る。

 

今日。

 

初めてダンジョンへ入り。

 

第十八階層まで来た。

 

壁から生まれる怪物。

 

魔石を抜かれ、灰になる身体。

 

必ずは残らないドロップアイテム。

 

地図を持たなければ。

 

戦うよりも時間のかかる道探し。

 

そして。

 

地下に作られた冒険者街。

 

マキシムたちは。

 

さらに下にいる。

 

会いに行くために潜ったわけではない。

 

だが。

 

同じ迷宮の中を。

 

もっと深い場所から上がってきている。

 

「どっかで会うかもな」

 

目を閉じる。

 

酒の熱が。

 

まだ身体の中に残っている。

 

周囲の部屋からは。

 

冒険者たちのいびき。

 

笑い声。

 

誰かが床へ何かを落とす音。

 

酒場から響く歌。

 

地下十八階層。

 

地上から遠く離れた宿の中。

 

バンは。

 

いつもと変わらず。

 

すぐに眠りへ落ちた。




第十八階層の冒険者街リヴィラで、魔石とドロップアイテムの売却、食事、宿泊をする日常回でした。特に、相場を知らないまま「思ってたより少ねぇ気がすんな」と感じつつ、鞄が空けば十分だとあっさり売るバンがお気に入りです。
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