強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第81話 冒険者街リヴィラ

 第十七階層から続く坂を抜けた先で、バンはしばらくその場から動かなかった。

 

 視界いっぱいに広がっているのは、地下とは思えない景色だった。

 

 青白い光を放つ巨大な水晶が、遥か頭上に浮かんでいる。太陽ほど眩しくはないが、森を照らし、湖の水面を輝かせ、周囲の木々や草花へ淡い影を落としていた。

 

 岩壁に囲まれた洞窟ではない。

 

 天井は高すぎて、一目ではどこまで続いているのか分からなかった。

 

 遠くには大樹が立ち、その根元を囲むように森が広がっている。

 

 さらに奥。岩山の斜面へ張り付くように、いくつもの建物が並んでいた。

 

 木造、石造り、岩壁へ直接穴を開けたもの。屋根や壁の材料すら揃っていない。

 

 それでも煙突から煙が上がり、通りを人が歩き、店先には看板が吊られている。

 

「本当に街があんのか」

 

 地下迷宮の中。

 

 地上から十八階層も離れた場所に、人間が集まり、眠り、食事をし、商売をする街がある。

 

 バンは周囲を見回した。

 

 第十七階層までとは違い、壁が膨らむ気配はない。地面の下からモンスターが這い出してくる音も、天井へ怪物が張り付く羽音も聞こえなかった。

 

「静かだな」

 

 完全な静寂ではない。

 

 鳥の声。風に揺れる葉。水が流れる音。遠くから届く冒険者たちの話し声。

 

 ただ、怪物の気配だけがない。

 

 酒場で聞いた、安全階層という言葉を思い出す。

 

 通常のモンスターが生まれない場所。

 

 それが、この第十八階層らしい。

 

 バンは坂を下り、森の中へ入った。

 

 道は整備されていた。土の上には石が置かれ、木々の幹には街へ向かう方向を示す印が刻まれている。

 

 地図を持たず、何度も同じ場所へ戻った上層や中層とは違う。

 

 ここでは、誰かが残した道を歩くだけでいい。

 

「楽だな」

 

 しばらく進むと、木陰で休んでいる冒険者たちが見えた。

 

 武器を横へ置き、地面へ寝転がる者。傷ついた鎧を外し、仲間に手当てを受ける者。鍋を囲み、湯気の上がる汁を食べている一団。

 

 地上へ戻る途中なのか、荷物の半分以上を魔石と素材で膨らませている者もいる。

 

 その中を、防具も着けず、一人で大きな鞄を背負ったバンが歩いていく。

 

 当然、何人かが顔を向けた。

 

「あいつ、一人か?」

 

「第十七階層から下りてきたぞ」

 

「見ない顔だな」

 

「上で噂になってた赤い服の男じゃないか?」

 

 声は聞こえている。

 

 だが、バンは振り返らなかった。

 

 いちいち答えていたら、街へ着くまでに時間がかかる。

 

 森を抜け、岩場へ近づくほど人の数が増えた。

 

 荷物を運ぶサポーター。剣を研ぐ鍛冶師。売り物を積んだ木箱を見張る商人。

 

 地上のオラリオとは違い、綺麗に区切られた通りはない。岩の起伏を避けるように建物が並び、狭い道が上下へ入り組んでいる。

 

 入り口へ掲げられた看板も、剣、酒杯、寝台、袋と、文字が読めない者でも用途が分かるよう簡単な絵で描かれていた。

 

「ここがリヴィラか」

 

 街の中へ入った瞬間、複数の声が飛んでくる。

 

「宿ならこっちだ!」

 

「武器の修理は今なら半日で済むぞ!」

 

「魔石を買い取る! 地上まで持ち帰るより楽だ!」

 

「薬が足りない奴はいないか! 解毒薬、回復薬、何でもあるぞ!」

 

 地上の市場と似ている。

 

 だが、声の勢いが強かった。

 

 商品を必要とする者が、目の前で命を削っているからだろう。

 

 武器が折れれば帰れない。薬がなければ傷や毒で死ぬ。食料が切れれば動けなくなる。

 

 地上なら別の店を探せる。

 

 ここでは、選べる店の数そのものが少ない。

 

 バンは通りの途中で足を止めた。

 

 鞄が肩へ食い込んでいるわけではない。重さも感じていない。

 

 ただ、中身が増えすぎていた。

 

 魔石袋が三つ。牙、角、爪、甲殻、翼膜、結晶片、ダンジョン・ワームの歯。名前も分からない素材。

 

 第十九階層より先へ進めば、さらに増える。

 

 一度売って、鞄を空けた方がいい。

 

「買取はどこだ?」

 

 近くで声を張っていた男へ尋ねる。

 

 頭に布を巻いた小柄な人間で、片目に古い傷があった。

 

「俺の店だ。魔石も素材もまとめて見るぞ」

 

「地上より安いんだろ?」

 

「その代わり、あんたが地上まで運ぶ必要がない」

 

「そういうもんか」

 

「納得したなら来な」

 

 男は岩壁へ埋め込まれた建物へ入り、バンもその後へ続いた。

 

 

       ◇

 

 

 店の中は狭かった。

 

 奥には種類ごとに分けられた素材が積まれている。

 

 魔石を入れる木箱。牙や爪を並べた棚。液体を満たした瓶。何かの皮膜を重ねた束。

 

 天井から吊られているのは、大型モンスターの角らしい。

 

 作業台の向こうで、先ほどの男が両手を叩いた。

 

「全部出せ」

 

「食い物もか?」

 

「売りたいならな」

 

「そっちは売らねぇよ」

 

「なら、魔石と素材だけだ」

 

 バンは鞄を床へ下ろし、中から最初の魔石袋を取り出して作業台へ置いた。

 

 続いて二つ目、三つ目。

 

 袋を開くと、小さな黒紫色の石が台の上へ広がる。

 

 男は一瞬、バンを見た。

 

「随分集めたな」

 

「出てきた奴は、ほとんど倒したからな」

 

「何日潜ってた?」

 

「今日が初日だ」

 

「……今日?」

 

「ああ」

 

 男は魔石の山とバンを見比べた。

 

「どこから来た」

 

「地上からだろ」

 

「どの階層まで潜ってきたか聞いてんだ」

 

「十七」

 

「一人で?」

 

「ああ」

 

「今日、初めて入って?」

 

「ああ」

 

 男はしばらく何も言わなかった。

 

「嘘をつく理由は?」

 

「ねぇぞ」

 

「そうか」

 

 信じたわけではなさそうだった。

 

 だが、深く追及する気もないらしい。

 

 リヴィラでは商品さえ持ち込み、金を受け取ることができれば、客の事情まで気にしないのだろう。

 

 男は魔石を大きさごとに分け始めた。

 

「こっちはゴブリン。これはコボルト。ニードルラビットに、キラーアント」

 

「石だけで分かんのか?」

 

「大きさ、形、魔力の色合い。毎日見てりゃ嫌でも覚える」

 

 男は少し大きな魔石を別へ置いた。

 

「オーク。ウォーシャドウ。こいつはアルミラージだな」

 

「上の兎と似てた奴か」

 

「似てるが別物だ」

 

「魔石も違うのか?」

 

「よく見ろ」

 

 二つの石を並べられる。

 

 一つはニードルラビットから抜いた物。もう一つはアルミラージ。

 

 大きさだけではない。表面の筋や、内部で揺れる光にも違いがあった。

 

「なるほどな」

 

「今まで全部、同じ袋に入れてたのか?」

 

「ああ」

 

「よく売りに来る気になったな」

 

「分けんのはそっちの仕事だろ」

 

「間違ってはいないが、少しくらい覚えろ」

 

 男は文句を言いながらも、手を止めなかった。

 

 ヘルハウンド。ダンジョン・ワーム。バッド・バット。クリスタル・マンティス。ミノタウロス。

 

 次々と魔石を見分け、小さな山へ分けていく。

 

「ミノタウロスが三体分」

 

「ああ」

 

「傷一つないな」

 

「魔石だけ抜いたからな」

 

「抜いた?」

 

「獲物狩りで」

 

 男は顔を上げた。

 

「何だ、それは」

 

「技だ」

 

「魔石を体から抜く技?」

 

「ああ」

 

「傷つけずに?」

 

「ああ」

 

 男はミノタウロスの魔石を光へかざした。

 

 欠けていない。表面に傷もない。

 

 普通ならモンスターを倒した時の衝撃や、解体時の刃が当たり、僅かに損傷することもある。

 

「便利な技だな」

 

「そうだろ」

 

「冒険者なら喉から手が出るほど欲しがる」

 

「冒険者じゃねぇ」

 

「……何?」

 

「ファミリアには入ってねぇ」

 

「無所属か」

 

「そう言ってるだろ」

 

 男は再び魔石へ目を落とした。

 

「何でもいい。俺は買い取れる物を買うだけだ」

 

「話が早くて助かる」

 

 次にバンはドロップアイテムの袋を開け、台へ牙、角、爪、甲殻、針、翼膜、結晶片を並べていく。

 

 男は魔石の時よりも慎重に、一つずつ手に取った。

 

「ゴブリンの牙。これはコボルト。ニードルラビットの角」

 

「小せぇ方だな」

 

「こっちの白い方がアルミラージ」

 

「やっぱ、こっちの方が高いのか?」

 

「状態によるが、基本はな」

 

 次に赤黒い甲殻を手に取る。

 

「キラーアント。こっちは大顎の一部」

 

「何に使う?」

 

「甲殻は防具や盾の補強。顎は刃物や罠の材料。薬師が買うこともある」

 

「食えねぇのか?」

 

「食えるかどうか試す気か?」

 

「旨いならな」

 

「やめとけ。少なくとも、俺は食おうと思わん」

 

 男はヘルハウンドの牙を持ち上げた。

 

「こいつは火属性を持つ道具の素材になる。状態も悪くない」

 

「一回、火を食らったぞ」

 

「その服でか?」

 

「ああ」

 

「よく生きてるな」

 

「服が少し焦げただけだ」

 

「……そうか」

 

 男は余計なことを考えないことにしたらしい。

 

 クリスタル・マンティスの結晶片、ダンジョン・ワームの歯、バッド・バットの翼膜。

 

 一つずつ値を付けていく。

 

 ただし、素材は必ず残ったわけではない。同じモンスターを何体も倒して、ようやく一つ手に入った物もある。

 

 男は最後にすべての金額を紙へ書き、指で計算した。

 

 しばらくして、硬貨を袋へ詰める。

 

「これで全部だ」

 

 作業台へ置かれた袋を、バンは片手で持ち上げた。

 

 軽く揺らして音を聞き、中身を見る。

 

「……思ってたより少ねぇ気がすんな」

 

「相場を知ってるのか?」

 

「知らねぇぞ」

 

「なら何と比べた」

 

「量だな」

 

 作業台を埋めていた魔石と素材。そして今、手元にある硬貨袋。

 

 見た目だけなら、もう少し多くてもよさそうに感じた。

 

 男は鼻で笑う。

 

「ここは十八階層だ。買い取った物は、俺たちが地上まで運ぶ」

 

「自分で運べば、もっと高いのか?」

 

「当然だ。運搬用の人手、護衛、途中で失う危険、保管場所。全部ただじゃない」

 

「そういうもんか」

 

「嫌なら返すぞ」

 

「いや、売る」

 

 バンは迷わず硬貨袋を鞄へ入れた。

 

「鞄が空きゃ、それでいい」

 

「金を稼ぎに来たんじゃないのか?」

 

「中を見に来ただけだ」

 

「見物で十七階層まで下りる奴があるか」

 

「ここにいるだろ」

 

「もういい」

 

 男は買い取った魔石を木箱へ移し始めた。

 

「まだ下へ行くつもりか?」

 

「ああ」

 

「なら、回収袋をもう少し分けておけ。下へ行けば魔石も大きくなる。小さい石で場所を潰すな」

 

「入らなくなったら捨てるぞ」

 

 男の手が止まった。

 

「捨てる?」

 

「ああ」

 

「魔石を?」

 

「小せぇのからな」

 

「……今ここで売ったのは正解だった」

 

「だろ?」

 

「褒めてはいない」

 

 店を出ようとするバンへ、男が声をかける。

 

「宿を探してるなら、この坂を上がった先にある」

 

「酒は?」

 

「宿の一階が酒場だ」

 

「飯は?」

 

「出る。ただし高い」

 

「宿もか?」

 

「地上と同じ値段を期待するな」

 

「今、金入ったから平気だろ」

 

「その金の半分が、一晩で消えても文句を言うなよ」

 

 バンは受け取った袋を一度見た。

 

「それは高ぇな」

 

「ここは十八階層だ」

 

 今日だけで、何度も聞いた言葉だった。

 

 

       ◇

 

 

 街の中を歩き、教えられた宿を探す。

 

 坂を上がる途中にも、武器屋、防具屋、薬屋、食料品店、地図を売る露店と、様々な店が並んでいた。

 

 地上より高い。

 

 そう聞いていたが、値札を見るだけではバンには違いが分からない。

 

 元の相場を知らないからだ。

 

 通りの端では、帰還途中の冒険者たちが、壊れた盾を巡って鍛冶師と言い争っている。

 

「この値段は高すぎる!」

 

「嫌なら折れた盾で地上まで帰れ!」

 

「少し穴が開いただけだ!」

 

「ヘルハウンドの火を受けた跡だろうが! 金具まで歪んでる!」

 

「半額にしろ!」

 

「帰れ!」

 

 別の場所では、負傷した男が薬瓶を見て顔を青くしていた。

 

「一本でこの値段か?」

 

「地上から運んできた物だ」

 

「三本必要なんだぞ」

 

「命が三本分より安いなら買わなくていい」

 

 乱暴な商売。

 

 それでも、客は立ち去れない。

 

 必要だからだ。

 

「結構えげつねぇな」

 

 バンは小さく笑い、坂の上にある建物へ入った。

 

 看板には寝台と酒杯が描かれていた。

 

 

       ◇

 

 

 宿の中は、外から見るより広かった。

 

 岩壁へ穴を掘り、木材で床と仕切りを作っている。

 

 一階は酒場で、奥に厨房。二階から上が客室らしい。

 

 すでに何組もの冒険者が酒を飲んでいた。

 

 昼なのか、夜なのか。

 

 地下では空を見ても時間が分かりにくい。巨大水晶の光は、地上の太陽ほど大きく変わらなかった。

 

 冒険者たちも、自分たちの探索時間に合わせて休んでいるようだ。

 

 カウンターの向こうにいる女主人が、バンへ目を向けた。

 

 背が高く、太い腕。右頬から顎へ古い傷が走っている。

 

「泊まりか?」

 

「ああ。一晩」

 

「食事付き。水は別。湯を使うなら追加だ」

 

「酒は?」

 

「飲んだ分だけ払え」

 

「飯と酒でいい」

 

「身体を洗わないのか?」

 

「汚れてねぇぞ」

 

 長衣には灰、土、ヘルハウンドの炎で焦げた跡。

 

 どう見ても綺麗ではない。

 

 女主人は何も言わず、片手を出した。

 

「先払い」

 

「いくらだ?」

 

 金額を聞き、バンは硬貨袋から代金を出した。

 

 先ほど受け取った分が、確かに大きく減る。

 

「本当に高ぇな」

 

「嫌なら森で寝ろ」

 

「怪物が出ねぇなら、それでもいいな」

 

「上の階層から迷い込むことはある。盗人も出る。荷物を抱えて眠りたいなら好きにしな」

 

「それは面倒だな」

 

「なら払え」

 

「もう払っただろ」

 

 女主人は硬貨を数え、鍵を一つ投げた。

 

「三階の奥。夕食は好きな時に言え」

 

「今食う」

 

「今?」

 

「腹減ってんだよ」

 

「酒は?」

 

「強いの」

 

「種類は」

 

「旨い奴」

 

「一番困る注文をするな」

 

 バンは空いている席へ腰を下ろした。

 

 大きな鞄は足元へ置く。

 

 クレシューズだけは肩から外さず、椅子へ立てかけた。

 

 しばらくして、木杯と酒瓶、深い皿に入った煮込み料理、厚く切ったパンが運ばれてきた。

 

 煮込みには、地上から運ばれたらしい根菜、豆、塩漬け肉が入っている。

 

 匂いを嗅ぐ。

 

 悪くない。

 

 ただ、保存のために塩を強くしている。香草は少なかった。

 

「高いわりには普通だな」

 

 女主人が睨む。

 

「文句があるなら自分で作れ」

 

「鍋は持ってきてるぞ」

 

「厨房は貸さない」

 

「なら食う」

 

 肉を一口。

 

 硬い。

 

 煮込む時間が少し足りない。

 

 だが、地上から十八階層まで運んだ食材だと考えれば、贅沢な方なのだろう。

 

 酒を注ぐ。

 

 色は濃い褐色。樽香と、舌へ残る強い苦味。

 

 喉を通れば、身体の内側へ熱が落ちていく。

 

「こっちは悪くねぇな」

 

 女主人は返事をしなかった。

 

 バンは食事を続けながら、周囲の会話へ耳を傾ける。

 

 正面の大きな卓では、八人ほどの冒険者たちが地図を広げていた。

 

「十九階層から先は予定通り進める」

 

「本気か? 帰還した連中が、毒虫の群れを見たって言ってたぞ」

 

「だから解毒薬を増やす。大樹の迷宮で引き返してたら、いつまで経っても水の迷都へ届かん」

 

「二十五階層まで行く気か?」

 

「まずは二十四までだ」

 

「慎重で助かるよ」

 

 大樹の迷宮。

 

 水の迷都。

 

 昨日、地上の酒場でも聞いた名前だ。

 

 ここでは、より具体的な話が交わされている。

 

 別の席では、片腕へ包帯を巻いた男が酒を飲みながら笑っていた。

 

「今なら階層主に会う心配はねえぞ」

 

「ゴライアスだけだろ?」

 

「下もだ。二十七の奴も、三十七の奴も、四十九の化け物まで姿を消してる」

 

「倒されたのか?」

 

「ゼウスとヘラの合同遠征だよ」

 

 バンの手が、杯を持ったまま僅かに止まった。

 

 男たちは気づかない。

 

「両派閥の主力が、まとめて最深部へ向かってる。道中の階層主なんざ、残ってる方がおかしい」

 

「団長たちもか?」

 

「マキシムも女帝もいる。パァルも、ヘラの副団長もな。幹部と一級冒険者を山ほど連れてったらしいぞ」

 

「贅沢な話だ。俺たちはゴライアス一体で命懸けだってのに」

 

「同じ冒険者だと思うな。あいつらは神話の中を歩いてるような連中だ」

 

 バンは酒を飲む。

 

 マキシム。女帝。パァル。

 

 オラリオへ戻ってから、まだ会っていない者たち。

 

 やはり、ダンジョンへ潜っていたらしい。

 

「どこまで行ってるんだ?」

 

 別の男が尋ねる。

 

「知るか。六十より下って話もあれば、七十一階層の経路を調べ直してるって話もある」

 

「七十一……」

 

「俺たちが一生かけても見ない場所だ」

 

「帰ってくるのはいつだ?」

 

「予定通りなら、もう上がり始めてる頃じゃないか?」

 

「帰り道だけで何日かかると思ってる」

 

「違いない」

 

 七十一階層。

 

 聞いたことのない深さ。

 

 ここが十八。まだ五十三階層も下にある。

 

「結構深ぇな」

 

 バンが呟くと、近くの席にいた男が声を聞きつけ、こちらを見た。

 

「七十一階層がか?」

 

「ああ」

 

「結構どころじゃねえよ。俺たちにとっちゃ、三十階層でも十分に別世界だ」

 

「三十から何が違う?」

 

「何も知らずにここまで来たのか?」

 

「ああ」

 

 男は酒杯を持ったまま、バンを見た。

 

「どこのファミリアだ?」

 

「入ってねぇ」

 

「言いたくないなら、そう言えばいい」

 

「本当に入ってねぇぞ」

 

「無所属で十七階層を越えられるか」

 

「越えたから、ここにいんだろ」

 

 男はバンの無傷の姿、大きな鞄、クレシューズ、焦げた赤い長衣を見る。

 

「……上で噂になってる奴か」

 

「何の話だ?」

 

「赤い服の正体不明の男。一人で階層を下りて、群れを灰にしてるって」

 

「魔石を抜いてるだけだぞ」

 

「それが普通じゃないんだよ」

 

「そうか?」

 

「そうだ」

 

 男は空いている椅子へ移り、バンの正面へ座った。

 

「この先へ行くつもりか?」

 

「ああ」

 

「どこまで」

 

「決めてねぇ」

 

「悪いことは言わん。二十四階層までにしておけ」

 

「その先は?」

 

「二十五から水場だ。足場が悪い。水中から襲われる。逃げ道を間違えれば、泳げるかどうか以前の問題になる」

 

「泳ぎなら得意だぞ」

 

「荷物を背負ったままでもか?」

 

「ああ」

 

「……そうか」

 

 男はそこで言葉を失った。

 

 バンは煮込みを食べる。

 

「三十からは?」

 

「下層だ。モンスターの強さも、階層の広さも跳ね上がる」

 

「三十七から深層だったな」

 

「知ってるじゃないか」

 

「名前だけな」

 

「深層は、俺たちみたいな中級冒険者が行く場所じゃない。一級冒険者を揃えた遠征隊で進む領域だ」

 

「一人じゃ駄目か?」

 

「死ぬ」

 

 即答だった。

 

 バンは酒を一口飲む。

 

「見てから決めるか」

 

「何を聞いてたんだ?」

 

「危ねぇって話だろ」

 

「なら戻れ」

 

「危ねぇかどうかは、自分で見ねぇと分かんねぇだろ」

 

「今の話だけで分かれ」

 

 男は頭を抱えた。

 

 少し離れた席から、別の冒険者が笑う。

 

「諦めろ! そいつ、聞く気があるだけで従う気はねえぞ!」

 

「笑い事じゃない!」

 

「下へ行けば、本人が理解するさ!」

 

「理解した時には死んでる!」

 

 バンは気にせず煮込みを食べ終え、女主人へ追加の酒を頼んだ。

 

「もう一本」

 

「先に払え」

 

「疑い深ぇな」

 

「飲んでから金がないと言う奴を何人も見てる」

 

「さっき払っただろ」

 

「宿代と食事代だ」

 

 硬貨を渡す。

 

 新しい酒瓶が置かれた。

 

 今度は先ほどより透明に近く、香りも鋭い。飲めば一気に喉を焼く。

 

「こっちの方がいいな」

 

 周囲の会話はまだ続いていた。

 

「階層主がいないからって、下へ急ぐ奴が増えてる」

 

「通常種に殺されるだけだ」

 

「特に五十二階層から先は駄目だ。下から火が飛んでくる」

 

「下から?」

 

 バンが口を挟むと、話していた男たちが顔を向けた。

 

「何だ。あんた、そこまで行く気か?」

 

「まだ決めてねぇ。ただ、火が飛んでくるって何だ?」

 

「第五十八階層にいる砲竜だよ。岩盤をぶち抜いて、上の階層まで炎を吐く」

 

「階層を越えてか?」

 

「ああ。五十二から五十七まで、どこにいても狙われると思え」

 

「面白ぇな」

 

 男たちは一斉に顔をしかめた。

 

「今の話を聞いて、何でそうなる」

 

「竜が岩を抜いて火を吐くんだろ?」

 

「当たれば、普通の冒険者は炭も残らん」

 

「服は焦げそうだな」

 

「服で済むと思うな」

 

 バンはすでに焦げている長衣の裾を見た。

 

「替えは持ってくりゃよかったか」

 

「心配する場所がおかしい」

 

 酒場の何人かが笑った。

 

 最初、正体の分からない男へ向けられていた警戒は、少しずつ呆れへ変わっている。

 

 バンは新しい酒を飲みながら、聞こえてくる話を拾い続けた。

 

 第十九階層からは壁や天井が木に変わる。毒虫、怪鳥、植物に擬態するモンスター。

 

 第二十五階層からは巨大な滝と水路。水中からの奇襲。

 

 第二十八階層は次の安全階層。

 

 さらに下には、密林、砂漠、白い迷宮、紅蓮の山岳、灰色の森林。

 

 話す者によって、知っている場所は違う。

 

 自分で見た者。仲間から聞いた者。噂だけを繰り返す者。

 

 どこまで本当なのか、バンには判断できない。

 

 だが、一つだけ分かった。

 

 下へ行くほど、景色も環境も、まるで違う場所へ変わっていく。

 

「飽きなさそうだな」

 

 杯を空にした。

 

 

       ◇

 

 

 食事と酒を終えたあと、バンは三階の部屋へ向かった。

 

 廊下は狭く、床板は歩くたびに軋む。

 

 渡された鍵で一番奥の扉を開ける。

 

 部屋にあるのは、寝台、小さな机、椅子、水の入っていない桶。

 

 窓はなく、壁の半分が岩のまま残っていた。

 

「教会より狭ぇな」

 

 それでも、寝るだけなら十分だった。

 

 鞄を床へ置き、中身を改めて確認する。

 

 魔石と素材を売ったため、かなり余裕が戻っていた。

 

 保存食、水袋、酒瓶、調味料、鍋、鉄板、調理用ナイフ、空になった回収袋。

 

 受け取った硬貨は宿と食事で大きく減ったが、それでもまだ残っている。

 

「地上まで持ってきゃ、もう少し高かったのか」

 

 今さら惜しいとは思わない。

 

 鞄が空いた。酒も飲めた。寝る場所も手に入った。

 

 それで十分だった。

 

 クレシューズを寝台の脇へ置き、靴だけを脱いで、そのまま横になる。

 

 硬い寝台。薄い敷布。

 

 長く旅を続けてきたバンには、気にするほどのものではない。

 

 天井を見る。

 

 今日、初めてダンジョンへ入り、第十八階層まで来た。

 

 壁から生まれる怪物。魔石を抜かれ、灰になる身体。必ずは残らないドロップアイテム。

 

 地図を持たなければ、戦うよりも時間のかかる道探し。

 

 そして、地下に作られた冒険者街。

 

 マキシムたちは、さらに下にいる。

 

 会いに行くために潜ったわけではない。

 

 だが、同じ迷宮のもっと深い場所から、こちらへ上がってきている。

 

「どっかで会うかもな」

 

 目を閉じる。

 

 酒の熱が、まだ身体の中に残っている。

 

 周囲の部屋からは、冒険者たちのいびき、笑い声、誰かが床へ何かを落とす音、酒場から響く歌が聞こえてきた。

 

 地下十八階層。

 

 地上から遠く離れた宿の中。

 

 バンはいつもと変わらず、すぐに眠りへ落ちた。




第十八階層の冒険者街リヴィラで、魔石とドロップアイテムの売却、食事、宿泊をする日常回でした。特に、相場を知らないまま「思ってたより少ねぇ気がすんな」と感じつつ、鞄が空けば十分だとあっさり売るバンがお気に入りです。
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