第十七階層から続く坂を抜けた先で、バンはしばらくその場から動かなかった。
視界いっぱいに広がっているのは、地下とは思えない景色だった。
青白い光を放つ巨大な水晶が、遥か頭上に浮かんでいる。太陽ほど眩しくはないが、森を照らし、湖の水面を輝かせ、周囲の木々や草花へ淡い影を落としていた。
岩壁に囲まれた洞窟ではない。
天井は高すぎて、一目ではどこまで続いているのか分からなかった。
遠くには大樹が立ち、その根元を囲むように森が広がっている。
さらに奥。岩山の斜面へ張り付くように、いくつもの建物が並んでいた。
木造、石造り、岩壁へ直接穴を開けたもの。屋根や壁の材料すら揃っていない。
それでも煙突から煙が上がり、通りを人が歩き、店先には看板が吊られている。
「本当に街があんのか」
地下迷宮の中。
地上から十八階層も離れた場所に、人間が集まり、眠り、食事をし、商売をする街がある。
バンは周囲を見回した。
第十七階層までとは違い、壁が膨らむ気配はない。地面の下からモンスターが這い出してくる音も、天井へ怪物が張り付く羽音も聞こえなかった。
「静かだな」
完全な静寂ではない。
鳥の声。風に揺れる葉。水が流れる音。遠くから届く冒険者たちの話し声。
ただ、怪物の気配だけがない。
酒場で聞いた、安全階層という言葉を思い出す。
通常のモンスターが生まれない場所。
それが、この第十八階層らしい。
バンは坂を下り、森の中へ入った。
道は整備されていた。土の上には石が置かれ、木々の幹には街へ向かう方向を示す印が刻まれている。
地図を持たず、何度も同じ場所へ戻った上層や中層とは違う。
ここでは、誰かが残した道を歩くだけでいい。
「楽だな」
しばらく進むと、木陰で休んでいる冒険者たちが見えた。
武器を横へ置き、地面へ寝転がる者。傷ついた鎧を外し、仲間に手当てを受ける者。鍋を囲み、湯気の上がる汁を食べている一団。
地上へ戻る途中なのか、荷物の半分以上を魔石と素材で膨らませている者もいる。
その中を、防具も着けず、一人で大きな鞄を背負ったバンが歩いていく。
当然、何人かが顔を向けた。
「あいつ、一人か?」
「第十七階層から下りてきたぞ」
「見ない顔だな」
「上で噂になってた赤い服の男じゃないか?」
声は聞こえている。
だが、バンは振り返らなかった。
いちいち答えていたら、街へ着くまでに時間がかかる。
森を抜け、岩場へ近づくほど人の数が増えた。
荷物を運ぶサポーター。剣を研ぐ鍛冶師。売り物を積んだ木箱を見張る商人。
地上のオラリオとは違い、綺麗に区切られた通りはない。岩の起伏を避けるように建物が並び、狭い道が上下へ入り組んでいる。
入り口へ掲げられた看板も、剣、酒杯、寝台、袋と、文字が読めない者でも用途が分かるよう簡単な絵で描かれていた。
「ここがリヴィラか」
街の中へ入った瞬間、複数の声が飛んでくる。
「宿ならこっちだ!」
「武器の修理は今なら半日で済むぞ!」
「魔石を買い取る! 地上まで持ち帰るより楽だ!」
「薬が足りない奴はいないか! 解毒薬、回復薬、何でもあるぞ!」
地上の市場と似ている。
だが、声の勢いが強かった。
商品を必要とする者が、目の前で命を削っているからだろう。
武器が折れれば帰れない。薬がなければ傷や毒で死ぬ。食料が切れれば動けなくなる。
地上なら別の店を探せる。
ここでは、選べる店の数そのものが少ない。
バンは通りの途中で足を止めた。
鞄が肩へ食い込んでいるわけではない。重さも感じていない。
ただ、中身が増えすぎていた。
魔石袋が三つ。牙、角、爪、甲殻、翼膜、結晶片、ダンジョン・ワームの歯。名前も分からない素材。
第十九階層より先へ進めば、さらに増える。
一度売って、鞄を空けた方がいい。
「買取はどこだ?」
近くで声を張っていた男へ尋ねる。
頭に布を巻いた小柄な人間で、片目に古い傷があった。
「俺の店だ。魔石も素材もまとめて見るぞ」
「地上より安いんだろ?」
「その代わり、あんたが地上まで運ぶ必要がない」
「そういうもんか」
「納得したなら来な」
男は岩壁へ埋め込まれた建物へ入り、バンもその後へ続いた。
◇
店の中は狭かった。
奥には種類ごとに分けられた素材が積まれている。
魔石を入れる木箱。牙や爪を並べた棚。液体を満たした瓶。何かの皮膜を重ねた束。
天井から吊られているのは、大型モンスターの角らしい。
作業台の向こうで、先ほどの男が両手を叩いた。
「全部出せ」
「食い物もか?」
「売りたいならな」
「そっちは売らねぇよ」
「なら、魔石と素材だけだ」
バンは鞄を床へ下ろし、中から最初の魔石袋を取り出して作業台へ置いた。
続いて二つ目、三つ目。
袋を開くと、小さな黒紫色の石が台の上へ広がる。
男は一瞬、バンを見た。
「随分集めたな」
「出てきた奴は、ほとんど倒したからな」
「何日潜ってた?」
「今日が初日だ」
「……今日?」
「ああ」
男は魔石の山とバンを見比べた。
「どこから来た」
「地上からだろ」
「どの階層まで潜ってきたか聞いてんだ」
「十七」
「一人で?」
「ああ」
「今日、初めて入って?」
「ああ」
男はしばらく何も言わなかった。
「嘘をつく理由は?」
「ねぇぞ」
「そうか」
信じたわけではなさそうだった。
だが、深く追及する気もないらしい。
リヴィラでは商品さえ持ち込み、金を受け取ることができれば、客の事情まで気にしないのだろう。
男は魔石を大きさごとに分け始めた。
「こっちはゴブリン。これはコボルト。ニードルラビットに、キラーアント」
「石だけで分かんのか?」
「大きさ、形、魔力の色合い。毎日見てりゃ嫌でも覚える」
男は少し大きな魔石を別へ置いた。
「オーク。ウォーシャドウ。こいつはアルミラージだな」
「上の兎と似てた奴か」
「似てるが別物だ」
「魔石も違うのか?」
「よく見ろ」
二つの石を並べられる。
一つはニードルラビットから抜いた物。もう一つはアルミラージ。
大きさだけではない。表面の筋や、内部で揺れる光にも違いがあった。
「なるほどな」
「今まで全部、同じ袋に入れてたのか?」
「ああ」
「よく売りに来る気になったな」
「分けんのはそっちの仕事だろ」
「間違ってはいないが、少しくらい覚えろ」
男は文句を言いながらも、手を止めなかった。
ヘルハウンド。ダンジョン・ワーム。バッド・バット。クリスタル・マンティス。ミノタウロス。
次々と魔石を見分け、小さな山へ分けていく。
「ミノタウロスが三体分」
「ああ」
「傷一つないな」
「魔石だけ抜いたからな」
「抜いた?」
「獲物狩りで」
男は顔を上げた。
「何だ、それは」
「技だ」
「魔石を体から抜く技?」
「ああ」
「傷つけずに?」
「ああ」
男はミノタウロスの魔石を光へかざした。
欠けていない。表面に傷もない。
普通ならモンスターを倒した時の衝撃や、解体時の刃が当たり、僅かに損傷することもある。
「便利な技だな」
「そうだろ」
「冒険者なら喉から手が出るほど欲しがる」
「冒険者じゃねぇ」
「……何?」
「ファミリアには入ってねぇ」
「無所属か」
「そう言ってるだろ」
男は再び魔石へ目を落とした。
「何でもいい。俺は買い取れる物を買うだけだ」
「話が早くて助かる」
次にバンはドロップアイテムの袋を開け、台へ牙、角、爪、甲殻、針、翼膜、結晶片を並べていく。
男は魔石の時よりも慎重に、一つずつ手に取った。
「ゴブリンの牙。これはコボルト。ニードルラビットの角」
「小せぇ方だな」
「こっちの白い方がアルミラージ」
「やっぱ、こっちの方が高いのか?」
「状態によるが、基本はな」
次に赤黒い甲殻を手に取る。
「キラーアント。こっちは大顎の一部」
「何に使う?」
「甲殻は防具や盾の補強。顎は刃物や罠の材料。薬師が買うこともある」
「食えねぇのか?」
「食えるかどうか試す気か?」
「旨いならな」
「やめとけ。少なくとも、俺は食おうと思わん」
男はヘルハウンドの牙を持ち上げた。
「こいつは火属性を持つ道具の素材になる。状態も悪くない」
「一回、火を食らったぞ」
「その服でか?」
「ああ」
「よく生きてるな」
「服が少し焦げただけだ」
「……そうか」
男は余計なことを考えないことにしたらしい。
クリスタル・マンティスの結晶片、ダンジョン・ワームの歯、バッド・バットの翼膜。
一つずつ値を付けていく。
ただし、素材は必ず残ったわけではない。同じモンスターを何体も倒して、ようやく一つ手に入った物もある。
男は最後にすべての金額を紙へ書き、指で計算した。
しばらくして、硬貨を袋へ詰める。
「これで全部だ」
作業台へ置かれた袋を、バンは片手で持ち上げた。
軽く揺らして音を聞き、中身を見る。
「……思ってたより少ねぇ気がすんな」
「相場を知ってるのか?」
「知らねぇぞ」
「なら何と比べた」
「量だな」
作業台を埋めていた魔石と素材。そして今、手元にある硬貨袋。
見た目だけなら、もう少し多くてもよさそうに感じた。
男は鼻で笑う。
「ここは十八階層だ。買い取った物は、俺たちが地上まで運ぶ」
「自分で運べば、もっと高いのか?」
「当然だ。運搬用の人手、護衛、途中で失う危険、保管場所。全部ただじゃない」
「そういうもんか」
「嫌なら返すぞ」
「いや、売る」
バンは迷わず硬貨袋を鞄へ入れた。
「鞄が空きゃ、それでいい」
「金を稼ぎに来たんじゃないのか?」
「中を見に来ただけだ」
「見物で十七階層まで下りる奴があるか」
「ここにいるだろ」
「もういい」
男は買い取った魔石を木箱へ移し始めた。
「まだ下へ行くつもりか?」
「ああ」
「なら、回収袋をもう少し分けておけ。下へ行けば魔石も大きくなる。小さい石で場所を潰すな」
「入らなくなったら捨てるぞ」
男の手が止まった。
「捨てる?」
「ああ」
「魔石を?」
「小せぇのからな」
「……今ここで売ったのは正解だった」
「だろ?」
「褒めてはいない」
店を出ようとするバンへ、男が声をかける。
「宿を探してるなら、この坂を上がった先にある」
「酒は?」
「宿の一階が酒場だ」
「飯は?」
「出る。ただし高い」
「宿もか?」
「地上と同じ値段を期待するな」
「今、金入ったから平気だろ」
「その金の半分が、一晩で消えても文句を言うなよ」
バンは受け取った袋を一度見た。
「それは高ぇな」
「ここは十八階層だ」
今日だけで、何度も聞いた言葉だった。
◇
街の中を歩き、教えられた宿を探す。
坂を上がる途中にも、武器屋、防具屋、薬屋、食料品店、地図を売る露店と、様々な店が並んでいた。
地上より高い。
そう聞いていたが、値札を見るだけではバンには違いが分からない。
元の相場を知らないからだ。
通りの端では、帰還途中の冒険者たちが、壊れた盾を巡って鍛冶師と言い争っている。
「この値段は高すぎる!」
「嫌なら折れた盾で地上まで帰れ!」
「少し穴が開いただけだ!」
「ヘルハウンドの火を受けた跡だろうが! 金具まで歪んでる!」
「半額にしろ!」
「帰れ!」
別の場所では、負傷した男が薬瓶を見て顔を青くしていた。
「一本でこの値段か?」
「地上から運んできた物だ」
「三本必要なんだぞ」
「命が三本分より安いなら買わなくていい」
乱暴な商売。
それでも、客は立ち去れない。
必要だからだ。
「結構えげつねぇな」
バンは小さく笑い、坂の上にある建物へ入った。
看板には寝台と酒杯が描かれていた。
◇
宿の中は、外から見るより広かった。
岩壁へ穴を掘り、木材で床と仕切りを作っている。
一階は酒場で、奥に厨房。二階から上が客室らしい。
すでに何組もの冒険者が酒を飲んでいた。
昼なのか、夜なのか。
地下では空を見ても時間が分かりにくい。巨大水晶の光は、地上の太陽ほど大きく変わらなかった。
冒険者たちも、自分たちの探索時間に合わせて休んでいるようだ。
カウンターの向こうにいる女主人が、バンへ目を向けた。
背が高く、太い腕。右頬から顎へ古い傷が走っている。
「泊まりか?」
「ああ。一晩」
「食事付き。水は別。湯を使うなら追加だ」
「酒は?」
「飲んだ分だけ払え」
「飯と酒でいい」
「身体を洗わないのか?」
「汚れてねぇぞ」
長衣には灰、土、ヘルハウンドの炎で焦げた跡。
どう見ても綺麗ではない。
女主人は何も言わず、片手を出した。
「先払い」
「いくらだ?」
金額を聞き、バンは硬貨袋から代金を出した。
先ほど受け取った分が、確かに大きく減る。
「本当に高ぇな」
「嫌なら森で寝ろ」
「怪物が出ねぇなら、それでもいいな」
「上の階層から迷い込むことはある。盗人も出る。荷物を抱えて眠りたいなら好きにしな」
「それは面倒だな」
「なら払え」
「もう払っただろ」
女主人は硬貨を数え、鍵を一つ投げた。
「三階の奥。夕食は好きな時に言え」
「今食う」
「今?」
「腹減ってんだよ」
「酒は?」
「強いの」
「種類は」
「旨い奴」
「一番困る注文をするな」
バンは空いている席へ腰を下ろした。
大きな鞄は足元へ置く。
クレシューズだけは肩から外さず、椅子へ立てかけた。
しばらくして、木杯と酒瓶、深い皿に入った煮込み料理、厚く切ったパンが運ばれてきた。
煮込みには、地上から運ばれたらしい根菜、豆、塩漬け肉が入っている。
匂いを嗅ぐ。
悪くない。
ただ、保存のために塩を強くしている。香草は少なかった。
「高いわりには普通だな」
女主人が睨む。
「文句があるなら自分で作れ」
「鍋は持ってきてるぞ」
「厨房は貸さない」
「なら食う」
肉を一口。
硬い。
煮込む時間が少し足りない。
だが、地上から十八階層まで運んだ食材だと考えれば、贅沢な方なのだろう。
酒を注ぐ。
色は濃い褐色。樽香と、舌へ残る強い苦味。
喉を通れば、身体の内側へ熱が落ちていく。
「こっちは悪くねぇな」
女主人は返事をしなかった。
バンは食事を続けながら、周囲の会話へ耳を傾ける。
正面の大きな卓では、八人ほどの冒険者たちが地図を広げていた。
「十九階層から先は予定通り進める」
「本気か? 帰還した連中が、毒虫の群れを見たって言ってたぞ」
「だから解毒薬を増やす。大樹の迷宮で引き返してたら、いつまで経っても水の迷都へ届かん」
「二十五階層まで行く気か?」
「まずは二十四までだ」
「慎重で助かるよ」
大樹の迷宮。
水の迷都。
昨日、地上の酒場でも聞いた名前だ。
ここでは、より具体的な話が交わされている。
別の席では、片腕へ包帯を巻いた男が酒を飲みながら笑っていた。
「今なら階層主に会う心配はねえぞ」
「ゴライアスだけだろ?」
「下もだ。二十七の奴も、三十七の奴も、四十九の化け物まで姿を消してる」
「倒されたのか?」
「ゼウスとヘラの合同遠征だよ」
バンの手が、杯を持ったまま僅かに止まった。
男たちは気づかない。
「両派閥の主力が、まとめて最深部へ向かってる。道中の階層主なんざ、残ってる方がおかしい」
「団長たちもか?」
「マキシムも女帝もいる。パァルも、ヘラの副団長もな。幹部と一級冒険者を山ほど連れてったらしいぞ」
「贅沢な話だ。俺たちはゴライアス一体で命懸けだってのに」
「同じ冒険者だと思うな。あいつらは神話の中を歩いてるような連中だ」
バンは酒を飲む。
マキシム。女帝。パァル。
オラリオへ戻ってから、まだ会っていない者たち。
やはり、ダンジョンへ潜っていたらしい。
「どこまで行ってるんだ?」
別の男が尋ねる。
「知るか。六十より下って話もあれば、七十一階層の経路を調べ直してるって話もある」
「七十一……」
「俺たちが一生かけても見ない場所だ」
「帰ってくるのはいつだ?」
「予定通りなら、もう上がり始めてる頃じゃないか?」
「帰り道だけで何日かかると思ってる」
「違いない」
七十一階層。
聞いたことのない深さ。
ここが十八。まだ五十三階層も下にある。
「結構深ぇな」
バンが呟くと、近くの席にいた男が声を聞きつけ、こちらを見た。
「七十一階層がか?」
「ああ」
「結構どころじゃねえよ。俺たちにとっちゃ、三十階層でも十分に別世界だ」
「三十から何が違う?」
「何も知らずにここまで来たのか?」
「ああ」
男は酒杯を持ったまま、バンを見た。
「どこのファミリアだ?」
「入ってねぇ」
「言いたくないなら、そう言えばいい」
「本当に入ってねぇぞ」
「無所属で十七階層を越えられるか」
「越えたから、ここにいんだろ」
男はバンの無傷の姿、大きな鞄、クレシューズ、焦げた赤い長衣を見る。
「……上で噂になってる奴か」
「何の話だ?」
「赤い服の正体不明の男。一人で階層を下りて、群れを灰にしてるって」
「魔石を抜いてるだけだぞ」
「それが普通じゃないんだよ」
「そうか?」
「そうだ」
男は空いている椅子へ移り、バンの正面へ座った。
「この先へ行くつもりか?」
「ああ」
「どこまで」
「決めてねぇ」
「悪いことは言わん。二十四階層までにしておけ」
「その先は?」
「二十五から水場だ。足場が悪い。水中から襲われる。逃げ道を間違えれば、泳げるかどうか以前の問題になる」
「泳ぎなら得意だぞ」
「荷物を背負ったままでもか?」
「ああ」
「……そうか」
男はそこで言葉を失った。
バンは煮込みを食べる。
「三十からは?」
「下層だ。モンスターの強さも、階層の広さも跳ね上がる」
「三十七から深層だったな」
「知ってるじゃないか」
「名前だけな」
「深層は、俺たちみたいな中級冒険者が行く場所じゃない。一級冒険者を揃えた遠征隊で進む領域だ」
「一人じゃ駄目か?」
「死ぬ」
即答だった。
バンは酒を一口飲む。
「見てから決めるか」
「何を聞いてたんだ?」
「危ねぇって話だろ」
「なら戻れ」
「危ねぇかどうかは、自分で見ねぇと分かんねぇだろ」
「今の話だけで分かれ」
男は頭を抱えた。
少し離れた席から、別の冒険者が笑う。
「諦めろ! そいつ、聞く気があるだけで従う気はねえぞ!」
「笑い事じゃない!」
「下へ行けば、本人が理解するさ!」
「理解した時には死んでる!」
バンは気にせず煮込みを食べ終え、女主人へ追加の酒を頼んだ。
「もう一本」
「先に払え」
「疑い深ぇな」
「飲んでから金がないと言う奴を何人も見てる」
「さっき払っただろ」
「宿代と食事代だ」
硬貨を渡す。
新しい酒瓶が置かれた。
今度は先ほどより透明に近く、香りも鋭い。飲めば一気に喉を焼く。
「こっちの方がいいな」
周囲の会話はまだ続いていた。
「階層主がいないからって、下へ急ぐ奴が増えてる」
「通常種に殺されるだけだ」
「特に五十二階層から先は駄目だ。下から火が飛んでくる」
「下から?」
バンが口を挟むと、話していた男たちが顔を向けた。
「何だ。あんた、そこまで行く気か?」
「まだ決めてねぇ。ただ、火が飛んでくるって何だ?」
「第五十八階層にいる砲竜だよ。岩盤をぶち抜いて、上の階層まで炎を吐く」
「階層を越えてか?」
「ああ。五十二から五十七まで、どこにいても狙われると思え」
「面白ぇな」
男たちは一斉に顔をしかめた。
「今の話を聞いて、何でそうなる」
「竜が岩を抜いて火を吐くんだろ?」
「当たれば、普通の冒険者は炭も残らん」
「服は焦げそうだな」
「服で済むと思うな」
バンはすでに焦げている長衣の裾を見た。
「替えは持ってくりゃよかったか」
「心配する場所がおかしい」
酒場の何人かが笑った。
最初、正体の分からない男へ向けられていた警戒は、少しずつ呆れへ変わっている。
バンは新しい酒を飲みながら、聞こえてくる話を拾い続けた。
第十九階層からは壁や天井が木に変わる。毒虫、怪鳥、植物に擬態するモンスター。
第二十五階層からは巨大な滝と水路。水中からの奇襲。
第二十八階層は次の安全階層。
さらに下には、密林、砂漠、白い迷宮、紅蓮の山岳、灰色の森林。
話す者によって、知っている場所は違う。
自分で見た者。仲間から聞いた者。噂だけを繰り返す者。
どこまで本当なのか、バンには判断できない。
だが、一つだけ分かった。
下へ行くほど、景色も環境も、まるで違う場所へ変わっていく。
「飽きなさそうだな」
杯を空にした。
◇
食事と酒を終えたあと、バンは三階の部屋へ向かった。
廊下は狭く、床板は歩くたびに軋む。
渡された鍵で一番奥の扉を開ける。
部屋にあるのは、寝台、小さな机、椅子、水の入っていない桶。
窓はなく、壁の半分が岩のまま残っていた。
「教会より狭ぇな」
それでも、寝るだけなら十分だった。
鞄を床へ置き、中身を改めて確認する。
魔石と素材を売ったため、かなり余裕が戻っていた。
保存食、水袋、酒瓶、調味料、鍋、鉄板、調理用ナイフ、空になった回収袋。
受け取った硬貨は宿と食事で大きく減ったが、それでもまだ残っている。
「地上まで持ってきゃ、もう少し高かったのか」
今さら惜しいとは思わない。
鞄が空いた。酒も飲めた。寝る場所も手に入った。
それで十分だった。
クレシューズを寝台の脇へ置き、靴だけを脱いで、そのまま横になる。
硬い寝台。薄い敷布。
長く旅を続けてきたバンには、気にするほどのものではない。
天井を見る。
今日、初めてダンジョンへ入り、第十八階層まで来た。
壁から生まれる怪物。魔石を抜かれ、灰になる身体。必ずは残らないドロップアイテム。
地図を持たなければ、戦うよりも時間のかかる道探し。
そして、地下に作られた冒険者街。
マキシムたちは、さらに下にいる。
会いに行くために潜ったわけではない。
だが、同じ迷宮のもっと深い場所から、こちらへ上がってきている。
「どっかで会うかもな」
目を閉じる。
酒の熱が、まだ身体の中に残っている。
周囲の部屋からは、冒険者たちのいびき、笑い声、誰かが床へ何かを落とす音、酒場から響く歌が聞こえてきた。
地下十八階層。
地上から遠く離れた宿の中。
バンはいつもと変わらず、すぐに眠りへ落ちた。
第十八階層の冒険者街リヴィラで、魔石とドロップアイテムの売却、食事、宿泊をする日常回でした。特に、相場を知らないまま「思ってたより少ねぇ気がすんな」と感じつつ、鞄が空けば十分だとあっさり売るバンがお気に入りです。