強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第83話 水の迷都

 第二十四階層の森から。

 

 第二十五階層へ続く階段を下りる。

 

 一段進むごとに。

 

 水の音が大きくなっていった。

 

 最初は遠くで響いていた音が。

 

 やがて。

 

 地面そのものを揺らす轟音へ変わる。

 

 湿った風が。

 

 階段の下から吹き上がってきた。

 

 冷たい。

 

 大樹の迷宮にも水はあったが。

 

 葉から落ちる雫や、小さな流れとはまるで違う。

 

 大量の水。

 

 それが。

 

 絶え間なく動き続けている。

 

「結構な量だな」

 

 バンは鞄を一度下ろした。

 

 口を縛っている紐を確かめる。

 

 保存食。

 

 調味料。

 

 水袋。

 

 酒瓶。

 

 小鍋。

 

 鉄板。

 

 調理用のナイフ。

 

 そして。

 

 十九階層から集めた魔石と素材。

 

 鞄そのものは丈夫だが。

 

 完全に水を通さないわけではない。

 

 浅い水へ入る程度ならともかく。

 

 長く沈めれば。

 

 硬いパンも。

 

 乾燥させた肉も。

 

 無事では済まないだろう。

 

 特に。

 

 酒瓶を岩へぶつけるわけにはいかない。

 

 バンは瓶を。

 

 鞄の外側から中央へ移した。

 

 周囲を。

 

 布に包まれた保存食と、予備の回収袋で囲む。

 

 鍋と鉄板は外側。

 

 重い魔石は底。

 

 濡れて困る物は中心近く。

 

「これでいいか」

 

 鞄を背負い直す。

 

 クレシューズを肩へ担ぎ。

 

 最後の段を下りた。

 

        ◇

 

 目の前に広がっていたのは。

 

 巨大な滝だった。

 

 天井近く。

 

 見上げても全体が分からないほど高い場所から。

 

 白い水が落ち続けている。

 

 滝壺から溢れた水は。

 

 何本もの流れに分かれ。

 

 青い岩壁の間を走っていた。

 

 川。

 

 水路。

 

 浅瀬。

 

 底の見えない淵。

 

 それらを区切るように。

 

 細い岩場や石橋が伸びている。

 

 第十八階層の湖とも違う。

 

 ここでは。

 

 階層全体が、水によって作られていた。

 

「これが水の迷都か」

 

 通路と呼べる場所はある。

 

 だが。

 

 乾いている部分の方が少ない。

 

 石床へ。

 

 薄く水が流れている。

 

 一歩踏み出せば。

 

 靴の周囲に水が跳ねた。

 

 足元は滑りやすい。

 

 落ちれば。

 

 どこへ流されるのか分からない。

 

 人の足跡も。

 

 水に消されて残っていなかった。

 

 壁へ付いた傷も。

 

 滝の飛沫に隠れて見つけにくい。

 

 水の音が大きすぎて。

 

 遠くの戦闘音や話し声も聞き取りづらい。

 

「また道探しが面倒そうだな」

 

 怪物より先に。

 

 地形を見た感想が出た。

 

 バンは。

 

 滝壺から離れる方向へ歩き始めた。

 

 岩場の幅は。

 

 二人が並べる程度。

 

 右側には水路。

 

 左側には。

 

 底の見えない青い淵が広がっている。

 

 その淵の中。

 

 何かが動いた。

 

 水面のすぐ下を。

 

 青い影が、岩場と並ぶように進んでくる。

 

 丸い身体。

 

 硬そうな甲羅。

 

 左右へ伸びる太い鋏。

 

「蟹か?」

 

 水面が弾けた。

 

 人間の胴ほどもある青い蟹が。

 

 岩場へ飛び上がる。

 

 八本の脚で石床へ着地し。

 

 片方の鋏を大きく開いた。

 

 バンの足ではない。

 

 背中の鞄を狙っている。

 

「そっちは駄目だ」

 

 鋏が閉じる直前。

 

 バンは身体を半歩横へ動かした。

 

 青い鋏が。

 

 鞄の表面を掠める。

 

 避けなければ。

 

 バン自身に傷は付かなかったかもしれない。

 

 だが。

 

 中の酒瓶まで無事とは限らない。

 

 クレシューズを伸ばす。

 

 先端の一節が。

 

 蟹の鋏へ絡みついた。

 

「戻れ」

 

 軽く引く。

 

 巨大な蟹の身体が。

 

 岩場から浮き上がった。

 

 そのまま。

 

 背後へ投げる。

 

 青い甲羅が石床へ落ち。

 

 硬い音が響いた。

 

 怪物は。

 

 すぐに脚を動かし。

 

 身体を起こす。

 

 甲羅には傷がない。

 

「見た目通り硬ぇな」

 

 バンが片手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 甲羅の奥。

 

 身体の中心にあった魔石が抜ける。

 

 青い蟹は。

 

 鋏を振り上げた姿勢のまま灰へ変わった。

 

 水辺へ積もった灰が。

 

 すぐに流れへ呑まれていく。

 

 魔石だけは。

 

 バンの手元へ飛んできた。

 

 大樹の迷宮で得た物より。

 

 一回り大きい。

 

 灰が流れ去ったあと。

 

 青い甲羅の一部が残っていた。

 

 手の平より大きい。

 

 水の流れに押され。

 

 岩場の端へ動いていく。

 

 バンは足で止め。

 

 拾い上げた。

 

「でけぇな」

 

 厚い。

 

 硬い。

 

 見た目も綺麗だった。

 

 ただ。

 

 鞄へ入れれば。

 

 かなりの場所を取る。

 

「まだ入るか」

 

 ひとまず。

 

 大型素材用の袋へ収める。

 

 少し形を傾ければ。

 

 鞄の側面へ入った。

 

 蟹が生まれた淵の奥から。

 

 別の青い影が二つ近づいてくる。

 

「まだいんのか」

 

 バンは。

 

 今度は待たなかった。

 

 二体が水面から出る前に。

 

 水中の魔石へ意識を伸ばす。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 二つの魔石が。

 

 水を突き破って飛び出した。

 

 水中で。

 

 怪物の身体が灰へ変わる。

 

 灰は。

 

 水へ溶けるように散り。

 

 すぐに見えなくなった。

 

 何か残ったとしても。

 

 淵の底へ沈んだらしい。

 

「水ん中だと、探すのが面倒だな」

 

 魔石を袋へ入れる。

 

 最初の一体から残った甲羅だけでも。

 

 運がよかったのだろう。

 

 バンは。

 

 細い岩場を進んだ。

 

        ◇

 

 第二十五階層の道は。

 

 水路によって何度も分断されていた。

 

 浅い流れなら。

 

 そのまま歩いて渡る。

 

 足場になる岩があれば。

 

 飛び移る。

 

 距離がある場所では。

 

 クレシューズを伸ばした。

 

 対岸の岩柱へ先端を巻きつけ。

 

 鞄が大きく揺れないよう。

 

 自分の身体を引き寄せる。

 

 四つの節は。

 

 修復前と変わらず。

 

 バンの意識に従って曲がった。

 

 むしろ。

 

 岩へ絡みついた時。

 

 節同士の重さが以前より均等に伝わる。

 

 引いた力が。

 

 一か所へ偏らない。

 

 鞄を背負った身体が。

 

 水路の上を滑るように渡る。

 

 対岸へ着地する。

 

「やっぱ、前より扱いやすくなってんな」

 

 大きな変化ではない。

 

 クレシューズが。

 

 別の神器になったわけでもない。

 

 ただ。

 

 手へ戻ってくる感覚が。

 

 以前より滑らかだった。

 

 クレシューズを縮める。

 

 先へ進もうとした時。

 

 正面から。

 

 複数の冒険者たちが走ってきた。

 

 七人。

 

 前衛の二人が。

 

 大きな盾を持っている。

 

 後ろでは。

 

 荷物を背負った小人族を。

 

 槍使いが支えていた。

 

「止まれ!」

 

 先頭の男が叫ぶ。

 

 水の轟音に負けないよう。

 

 声を張り上げている。

 

「淵から離れろ!」

 

「何だ?」

 

「ブルー・クラブが出る!」

 

 バンは。

 

 先ほど入れた青い甲羅を見る。

 

「さっき倒したぞ」

 

「一体だけだと思うな!」

 

 男の声と同時に。

 

 右側の水面が盛り上がった。

 

 青い蟹。

 

 今度は五体。

 

 水中から。

 

 岩場へ次々と這い上がってくる。

 

 さらに。

 

 冒険者たちの後方。

 

 細い水路からも三体。

 

「挟まれた!」

 

「前衛は両側を押さえろ!」

 

「サポーターを中央へ!」

 

 冒険者たちは。

 

 すぐに陣形を組む。

 

 盾を前後へ向け。

 

 槍と剣を左右へ配置する。

 

 バンは。

 

 陣形の外にいた。

 

「そこの男、こっちへ入れ!」

 

「いらねぇぞ」

 

「一人で何を――」

 

 青い蟹たちが。

 

 左右から鋏を開いて迫る。

 

 バンはクレシューズを握り直し。

 

 四節の神器を横薙ぎに振るった。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 八体。

 

 クレシューズが描いた軌道に合わせるように。

 

 全ての甲羅の奥から、魔石が一斉に奪い取られた。

 

 水中に半身を残していた個体。

 

 岩場へ上がった個体。

 

 盾へ鋏を振り下ろそうとしていた個体。

 

 黒紫色の石が。

 

 水飛沫を連れて宙を飛ぶ。

 

 怪物たちの身体が。

 

 同時に灰へ変わった。

 

 岩場の上に残った灰は。

 

 流れる水によって運ばれていく。

 

 冒険者たちは。

 

 盾を構えたまま動かなかった。

 

「……ブルー・クラブってのか」

 

 バンが尋ねる。

 

 先頭の男は。

 

 数秒遅れて頷いた。

 

「あ、ああ」

 

「甲羅は高ぇのか?」

 

「状態が良ければ、防具の素材になる」

 

「でけぇ方がいいか?」

 

「基本的にはな」

 

「なら拾った奴は残しとくか」

 

 バンは。

 

 足元へ落ちた魔石を拾い始める。

 

「何をした?」

 

「魔石を取った」

 

「全部?」

 

「ああ」

 

「甲羅の上から?」

 

「ああ」

 

 後ろの冒険者が。

 

 バンの赤い長衣を見る。

 

「もしかして、リヴィラで噂になってた男か?」

 

「何の噂だ?」

 

「地図も持たず、一人で下りてきた赤い服の男」

 

「多分オレだな」

 

「多分じゃないだろ」

 

 先頭の男は。

 

 盾を下ろした。

 

「この先へ行くのか?」

 

「ああ」

 

「第二十六階層へ向かうなら、滝の左側を回れ。右の水路は途中で行き止まりだ」

 

「水の中から行けねぇのか?」

 

「流れが強すぎる。奥へ進めても、下り口には出ない」

 

「そうか」

 

「それと」

 

 男が。

 

 バンの鞄を指す。

 

「水面の近くへ立つ時は、荷物を狙われる。ブルー・クラブだけじゃない。アクア・サーペントは身体へ巻きついて、水中へ引き込む」

 

「蛇か?」

 

「長い水棲の蛇竜だ。水中では速い」

 

「覚えとく」

 

「泳げるのか?」

 

「ああ」

 

「鎧を着けていないだけマシだが、その荷物では沈むぞ」

 

「沈んでも泳げる」

 

「……そうか」

 

 男は。

 

 それ以上、何も言えなくなった。

 

 冒険者たちは。

 

 第二十五階層側へ上がっていく。

 

 すれ違う時。

 

 負傷した小人族が。

 

 バンへ頭を下げた。

 

「気をつけてください」

 

「ああ」

 

「本当にですよ」

 

「分かってる」

 

 彼らの姿が。

 

 水飛沫の向こうへ消える。

 

 バンは。

 

 教えられた通り。

 

 巨大な滝の左側へ向かった。

 

        ◇

 

 第二十六階層へ下りると。

 

 水の量はさらに増えた。

 

 岩場より。

 

 水路の方が広い。

 

 通路の一部は。

 

 完全に水へ沈んでいる。

 

 先へ進むには。

 

 腰まで水へ入るか。

 

 壁際に残った細い足場を歩くしかない。

 

 バンは。

 

 細い方を選んだ。

 

 水へ入ること自体は問題ない。

 

 だが。

 

 鞄の中身まで濡らす理由はない。

 

 足場の幅は。

 

 片足分ほど。

 

 右肩は岩壁。

 

 左側には。

 

 暗い水面が広がっている。

 

 水音が反響し。

 

 どこから何が近づいているのか。

 

 耳だけでは分かりにくい。

 

 バンは。

 

 水中へ意識を向けた。

 

 細長い気配がある。

 

 一体。

 

 足場と並ぶように。

 

 深い場所から近づいてくる。

 

「さっき言ってた蛇か」

 

 水面が割れた。

 

 青緑色の長い身体。

 

 太い首。

 

 鰭のような突起。

 

 大きく開いた口には。

 

 内側へ曲がった牙が並んでいる。

 

 蛇竜は。

 

 バンの上半身ではなく。

 

 足へ身体を巻きつけた。

 

 そのまま。

 

 水中へ引きずり込もうとする。

 

 足場の石が砕けた。

 

 バンの身体が。

 

 鞄ごと淵へ落ちる。

 

 大きな水飛沫。

 

 冷たい水が。

 

 全身を包んだ。

 

 蛇竜は。

 

 身体へ巻きついたまま。

 

 水底へ向かって泳ぎ始める。

 

 水中では。

 

 地上より動きが速い。

 

 長い尾で水を押し。

 

 岩場の下へ。

 

 バンを引き込もうとする。

 

 バンは。

 

 片手で蛇竜の胴を掴んだ。

 

 締めつける力は。

 

 一般の冒険者なら。

 

 鎧ごと骨を砕かれるほどだろう。

 

 だが。

 

 バンの身体には。

 

 大した圧力ではなかった。

 

「泳ぐのは、オレも得意だぞ」

 

 水中で。

 

 足を一度動かす。

 

 蛇竜が進んでいた方向とは逆へ。

 

 バンの身体が加速した。

 

 巻きついていた怪物の方が。

 

 強引に引きずられる。

 

 蛇竜が身体をくねらせる。

 

 牙を。

 

 バンの肩へ突き立てた。

 

 赤い長衣が裂け。

 

 牙の先が皮膚へ触れる。

 

 僅かな傷。

 

 細い血が。

 

 水中へ流れた。

 

 バンは。

 

 自分の肩ではなく。

 

 裂かれた服を見た。

 

「また服かよ」

 

 蛇竜の頭を掴む。

 

 そのまま。

 

 水底の岩へ叩きつけた。

 

 轟音は。

 

 水の中へ鈍く広がる。

 

 岩盤に亀裂が入る。

 

 蛇竜の身体から。

 

 巻きつく力が抜けた。

 

 それでも。

 

 まだ生きている。

 

 水中で。

 

 再び牙を開く。

 

「結構丈夫だな」

 

 バンが片手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 長い胴の奥から。

 

 魔石が抜け出す。

 

 蛇竜の身体が。

 

 水中で灰へ変わった。

 

 灰は。

 

 濁った煙のように広がり。

 

 流れへ消えていく。

 

 残った物が。

 

 二つ。

 

 長く透明な鱗。

 

 そして。

 

 太い牙。

 

 どちらも。

 

 ゆっくりと水底へ沈んでいく。

 

 バンは魔石を掴む。

 

 さらに潜り。

 

 沈む鱗へ手を伸ばした。

 

 牙も拾う。

 

 その間。

 

 鞄が岩へぶつかりそうになる。

 

 身体を捻り。

 

 背中ではなく。

 

 肩で岩を受けた。

 

 酒瓶の割れる音はしない。

 

「無事だな」

 

 水面を見上げる。

 

 かなり深い場所まで引き込まれていた。

 

 それでも。

 

 息が苦しいとは感じない。

 

 バンは水底を蹴った。

 

 一気に上昇する。

 

 水面を突き破り。

 

 近くの岩場へ手を掛けた。

 

 身体を引き上げる。

 

 大量の水が。

 

 赤い長衣と鞄から流れ落ちた。

 

「濡れたな」

 

 鞄を下ろす。

 

 すぐに口を開く。

 

 外側に入れていた回収袋は。

 

 かなり濡れている。

 

 鍋と鉄板は問題ない。

 

 魔石も。

 

 水で傷むようには見えない。

 

 中央の保存食。

 

 調味料。

 

 酒瓶。

 

 完全に乾いてはいないが。

 

 水が染み込む前に上がれたらしい。

 

 硬いパンの表面が。

 

 少し湿った程度だった。

 

「もう少し沈んでたら危なかったな」

 

 自分の傷ではない。

 

 食料の話だった。

 

 肩を見る。

 

 蛇竜の牙が触れた場所。

 

 細い傷は。

 

 すでに血が止まっている。

 

 放っておけば。

 

 そのうち消える。

 

 裂けた長衣だけが残った。

 

「服の方が治んの遅ぇんだよな」

 

 以前。

 

 旅の途中で何度も直した赤い長衣。

 

 アンタレスとの戦い。

 

 ヘルハウンドの炎。

 

 今回の牙。

 

 バン自身に合わせるには。

 

 普通の布では足りない。

 

「丈夫な布でもあればいいんだけどな」

 

 鞄を閉じる。

 

 先ほど拾った透明な鱗と牙を見る。

 

 鱗は。

 

 水に濡れると青緑色へ輝いた。

 

 薄いが。

 

 簡単には曲がらない。

 

「これは残すか」

 

 青い蟹の甲羅より。

 

 場所を取らない。

 

 鱗と牙を袋へ入れる。

 

 濡れた長衣の裾を絞り。

 

 立ち上がった。

 

        ◇

 

 第二十六階層は。

 

 進む方向を見失いやすかった。

 

 大量の水が。

 

 上から下へ流れている。

 

 なら。

 

 流れに沿えば、次の階層へ着く。

 

 最初は。

 

 そう考えた。

 

 だが。

 

 水路は途中で二つに分かれ。

 

 別の滝へ落ち。

 

 地下の淵へ潜り。

 

 再び上から流れ出してくる。

 

 水の向きだけを頼りに進むと。

 

 同じ大瀑布の反対側へ戻ってきた。

 

「ここ、さっき見たな」

 

 滝の横。

 

 青い岩柱。

 

 根元に。

 

 バンが倒した怪物の灰が僅かに残っている。

 

 水でほとんど消えているが。

 

 近くには。

 

 拾わなかった割れた甲殻が落ちていた。

 

 同じ場所だ。

 

「水を追うだけじゃ駄目か」

 

 人の足跡はない。

 

 落とした目印も。

 

 流される可能性がある。

 

 壁へ傷を付けても。

 

 飛沫に隠れて見えづらい。

 

 バンは。

 

 岩壁の高さを見る。

 

 上へ。

 

 細い亀裂が続いている。

 

 クレシューズを伸ばす。

 

 先端を。

 

 高い岩棚へ巻きつける。

 

 身体を引き上げた。

 

 上から。

 

 水路全体を見る。

 

 複数の流れ。

 

 滝。

 

 岩場。

 

 遠く。

 

 下側へ伸びている人工的な石橋。

 

 冒険者が歩くため。

 

 人の手で補修されたような跡がある。

 

「あっちか」

 

 岩棚から飛び降りる。

 

 落下の途中。

 

 下の水面が大きく盛り上がった。

 

 巨大な影。

 

 青黒い背。

 

 魚にも。

 

 海獣にも見える。

 

 大きな口。

 

 バンの身体だけではなく。

 

 背中の鞄ごと呑み込めるほどだった。

 

「それは困るな」

 

 空中で。

 

 クレシューズを伸ばす。

 

 先端を。

 

 怪物の上顎へ巻きつけた。

 

 閉じかけた口を。

 

 強引に引き上げる。

 

 巨大な魚竜の頭が。

 

 水面から持ち上がった。

 

 そのまま。

 

 バンは身体を捻る。

 

 自分より遥かに大きな怪物が。

 

 水中から引きずり出された。

 

 巨体が。

 

 岩場の上へ落ちる。

 

 石橋が揺れ。

 

 水飛沫が周囲へ散った。

 

 魚竜は。

 

 尾を振り回す。

 

 太い尾が。

 

 バンの胴を横から打った。

 

 赤い長衣の身体が。

 

 隣の岩壁まで飛ぶ。

 

 背中から。

 

 岩へぶつかる直前。

 

 バンは鞄を庇うように身体を捻った。

 

 肩から岩壁へ衝突する。

 

 岩が大きく砕けた。

 

 魚竜は。

 

 陸へ上げられても動きを止めない。

 

 巨体を跳ねさせ。

 

 再び大口を開く。

 

 バンは。

 

 砕けた岩の中から立ち上がった。

 

 肩を軽く回す。

 

「さっきの蛇より重ぇな」

 

 怪物の強さに。

 

 焦った様子はない。

 

 魚竜が飛びかかる。

 

 バンは。

 

 クレシューズを短く持ち。

 

 開いた下顎へ振り上げた。

 

 鈍い衝撃音。

 

 魚竜の巨大な頭が。

 

 真上へ跳ね上がる。

 

 巨体が一度。

 

 岩場へ落ちた。

 

 まだ動く。

 

 尾を使い。

 

 水へ戻ろうとする。

 

「逃げんのか?」

 

 バンが片手を伸ばす。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 魚竜の腹の奥から。

 

 大きな魔石が抜けた。

 

 これまで手に入れた物より。

 

 明らかに大きい。

 

 両手で持つ必要はないが。

 

 片手を広げるほどの大きさがある。

 

 魚竜の身体が。

 

 岩場の上で灰へ変わった。

 

 灰は。

 

 水へ押し流されていく。

 

 残ったのは。

 

 厚い鰭の一部。

 

 鋸のような歯。

 

 そして。

 

 大きな魔石。

 

「こいつは良さそうだな」

 

 魔石を。

 

 大型用の袋へ入れる。

 

 鰭と歯も拾う。

 

 ただし。

 

 鰭は長く。

 

 かなり場所を取る。

 

 バンは鞄の中を見る。

 

 青い蟹の甲羅。

 

 大樹の迷宮で拾った羽。

 

 重複している爪。

 

 小さな魔石。

 

「少し入れ替えるか」

 

 まず。

 

 状態の悪い羽を一枚取り出す。

 

 小さな爪も二つ。

 

 同じ種類の素材で。

 

 より大きく綺麗な物が残っている。

 

 それらを岩場の端へ置く。

 

 できた空間へ。

 

 魚竜の鰭を折らないよう収めた。

 

 まだ。

 

 小型魔石を捨てるほどではない。

 

 だが。

 

 大きな素材が増えれば。

 

 すぐに選ぶ必要が出るだろう。

 

 バンは。

 

 鞄の口を閉じる。

 

 その時。

 

 石橋の向こうから声が聞こえた。

 

「ヴォルティメリアがいるぞ!」

 

「どこだ!」

 

 五人組の冒険者が。

 

 武器を構えて走ってくる。

 

 彼らは。

 

 魚竜がいたはずの場所。

 

 流されていく灰。

 

 バンの鞄へ収められた鰭を見た。

 

「……倒したのか?」

 

「ああ」

 

「ヴォルティメリアを、一人で?」

 

「さっきの魚ならな」

 

 先頭の女槍使いが。

 

 バンを見る。

 

「水中から引き上げたのか?」

 

「ああ」

 

「どうやって」

 

「クレシューズで」

 

 肩へ担いだ四節棍を示す。

 

「それで、あの巨体を?」

 

「ああ」

 

「……そうか」

 

 理解したのではなく。

 

 理解することを諦めた声だった。

 

「下り道は、あっちで合ってんのか?」

 

 バンが石橋の先を指す。

 

 女槍使いは頷いた。

 

「橋を渡ったあと、右側の滝の裏だ。左は第二十五階層へ戻る」

 

「滝の裏?」

 

「水の向こうに洞穴がある。見逃すな」

 

「分かった」

 

「待て」

 

 女槍使いが。

 

 バンの濡れた鞄を見る。

 

「水中へ落ちたのか?」

 

「ああ」

 

「食料は無事か?」

 

「少し湿った」

 

「先へ行くなら、第二十八階層で乾かした方がいい。あそこは安全階層だ」

 

「街はあんのか?」

 

「ない。広い草地と水場があるだけだ」

 

「飯作るには良さそうだな」

 

「……飯?」

 

「鍋持ってきたからな」

 

 女槍使いは。

 

 バンの鞄を見る。

 

「その大きさの荷物に、鍋まで入れているのか?」

 

「鉄板もあるぞ」

 

「防具も持たずに?」

 

「ああ」

 

「何を優先しているんだ」

 

「飯だろ」

 

 答えに迷いはなかった。

 

 冒険者たちは。

 

 言葉を失う。

 

 バンは彼らの横を通り。

 

 石橋へ向かった。

 

        ◇

 

 第二十七階層へ続く洞穴は。

 

 本当に滝の裏に隠れていた。

 

 正面から見れば。

 

 ただの岩壁。

 

 大量の水を突っ切り。

 

 奥へ入って初めて。

 

 下へ向かう通路が見える。

 

 バンは。

 

 頭上へ鞄を持ち上げ。

 

 滝を抜けた。

 

 濡れていた服が。

 

 さらに重くなる。

 

「もう同じだな」

 

 鞄だけは。

 

 なるべく水へ当てなかった。

 

 通路を下りる。

 

 第二十七階層。

 

 これまで以上に。

 

 大きな水の空間が広がっていた。

 

 湖。

 

 巨大な滝壺。

 

 滝を挟んで伸びる岩棚。

 

 天井には。

 

 青い水晶が無数に光っている。

 

 その中央。

 

 周囲を水に囲まれた、巨大な島のような足場があった。

 

 広い。

 

 リヴィラの酒場どころか。

 

 街の一部が入るほど。

 

 中央の岩床には。

 

 無数の亀裂。

 

 焼け焦げた跡。

 

 水流に削られた溝。

 

 巨大な何かが。

 

 何度も暴れたような痕跡が残っている。

 

 だが。

 

 そこには何もいなかった。

 

 水面にも。

 

 島の上にも。

 

 大きな気配はない。

 

「また空か」

 

 第十七階層にも。

 

 巨大な戦闘跡だけが残る空間があった。

 

 ここも同じだった。

 

 バンは。

 

 島状の足場へ飛び移る。

 

 足音が。

 

 広い空間へ響いた。

 

 何かが現れる様子はない。

 

 島の反対側。

 

 細い岩橋が。

 

 上へ向かう道へ続いている。

 

「あっちか」

 

 中央を横切る。

 

 途中。

 

 水中から。

 

 細長い蛇竜が三体現れた。

 

 さらに。

 

 青い蟹。

 

 魚人のような人型。

 

 水面近くを飛ぶ鳥人型の怪物。

 

 複数種が。

 

 島を囲むように姿を見せる。

 

「ここは数が多いな」

 

 蛇竜が水面から跳ぶ。

 

 魚人が。

 

 石の槍を投げる。

 

 鳥人型が上から爪を向ける。

 

 青い蟹は。

 

 岩橋を塞ぐように這い上がってきた。

 

 バンはクレシューズを伸ばす。

 

 飛んできた槍を。

 

 一節で弾く。

 

 そのまま。

 

 鳥人型の翼を打ち。

 

 島の中央へ落とす。

 

 別の節が。

 

 蛇竜の首へ巻きつき。

 

 水中から引き上げる。

 

 青い蟹の鋏を。

 

 短い柄で受け止めた。

 

 硬い甲羅の巨体が押し込んでくる。

 

 バンは一歩も動かない。

 

「力は、この魚の奴より弱ぇな」

 

 柄を返す。

 

 青い蟹の身体が。

 

 後ろへ転がった。

 

 蛇竜も。

 

 魚人も。

 

 鳥人型も。

 

 青い蟹も。

 

 島の上と、その周囲へ集まっていた。

 

 バンはクレシューズを大きく振るう。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 四節の神器が、島の上へ大きな弧を描く。

 

 水中。

 

 空中。

 

 岩床。

 

 異なる場所にいるモンスターたちの体内から。

 

 魔石が一斉に奪い取られた。

 

 蛇竜。

 

 魚人。

 

 鳥人。

 

 青い蟹。

 

 黒紫色の石が。

 

 水飛沫とともにバンの周囲へ集まる。

 

 怪物の身体が灰へ変わる。

 

 水中の灰は流れへ消え。

 

 島の上の灰だけが残った。

 

「数は多くても、やることは同じだな」

 

 魔石を拾う。

 

 中には。

 

 ヴォルティメリアほどではないが。

 

 大きな石も混じっていた。

 

 灰の中には。

 

 鳥人型の羽。

 

 魚人の鱗。

 

 青い甲羅。

 

 蛇竜の牙が残る。

 

 全部は持てない。

 

 バンは。

 

 手に入れた物と。

 

 鞄の中身を比べた。

 

 同じ青い甲羅。

 

 今拾った方は小さい。

 

 残さない。

 

 蛇竜の牙。

 

 すでに一つ持っている。

 

 新しい方が長く。

 

 欠けていない。

 

 古い方を取り出し。

 

 入れ替える。

 

 鳥人の羽は。

 

 初めて見る。

 

 残す。

 

 魚人の鱗も。

 

 透明に近い色をしている。

 

 残す。

 

「だんだん入らなくなってきたな」

 

 鞄の紐を締める。

 

 まだ閉じる。

 

 だが。

 

 次に大きな魔石が増えれば。

 

 大樹の迷宮で集めた小さな魔石から。

 

 置いていくことになるだろう。

 

 バンは。

 

 島の反対側へ進んだ。

 

 岩橋を渡り。

 

 上へ続く坂へ入る。

 

 水の轟音が。

 

 少しずつ遠ざかる。

 

 代わりに。

 

 草と土の匂いが強くなった。

 

「二十八が安全階層だったな」

 

 通路の先。

 

 青い光。

 

 さらに。

 

 広い緑の空間が見える。

 

 第二十八階層。

 

 水の迷都を抜けた先にある。

 

 人の街が存在しない安全階層。

 

 バンは。

 

 濡れた長衣と鞄を見た。

 

 肩の小さな傷は。

 

 すでに塞がり始めている。

 

 だが。

 

 湿った保存食は。

 

 放っておけば悪くなるかもしれない。

 

「まず乾かして、飯だな」

 

 水棲モンスターの魔石と素材を詰めた鞄を担ぎ直し。

 

 バンは。

 

 緑の光が差す第二十八階層へ足を踏み入れた。




第25階層から第27階層の水の迷都を進みました。水棲モンスターとの戦闘では優位を崩さず、足場や水流、濡らしたくない食料と酒、流されるドロップアイテムを探索上の問題として描いています。次の第28階層では、持ち込んだ鍋と鉄板を使った休息を挟み、第29階層から大型モンスターとの戦闘へ入ります。
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