第二十八階層へ足を踏み入れた途端、水の轟音が遠ざかった。
背後には、第二十七階層へ続く岩の通路がある。その奥からは絶え間なく水音が届いているが、目の前に広がる景色は、水の迷都とはまるで違っていた。
緩やかな草原。
地面の起伏に沿って咲く色とりどりの花。
青白い水晶の光を受け、葉の表面が淡く輝く木々。
遠くには、細い川と大きな池も見える。
第十八階層のような街はない。
宿も、酒場も、素材を買い取る店もなかった。
それでも、岩壁と水路に囲まれていた直前の階層と比べれば、ここは地上の野原に近い。
「確かに休むには良さそうだな」
周囲へ怪物の気配はない。
壁から生まれる気配も、水中を進む影もなかった。
バンはしばらく歩き、川から少し離れた場所に生えている大樹の下で鞄を下ろした。
赤い長衣からは、まだ水が滴っている。
裾を持ち上げて絞ると、大量の水が草の上へ落ちた。
「結構入ってんな」
肩に空いた裂け目も確認する。
アクア・サーペントの牙に裂かれた部分だ。バン自身の傷はすでに塞がっているが、布は元へ戻らない。
焦げた跡。
小さな穴。
肩から胸へ伸びる新しい裂け目。
長く着続けてきた赤い長衣は、少しずつ傷が増えていた。
「地上に戻ったら直すか」
すぐに戻るつもりはない。
それでも、これ以上裂ければ動くたびに邪魔になる。
バンは鞄を開け、調理用の針と糸を探した。食料袋の隙間へ入れていた小さな裁縫道具を取り出し、長衣を脱ぐ。
近くの枝へ掛け、まずは乾かすことにした。
続いて鞄の中身を草の上へ並べていく。
鍋と鉄板。
調理用のナイフ。
水袋。
酒瓶。
調味料。
保存食。
空の回収袋。
水の迷都で集めた魔石と素材。
外側に入れていた袋は濡れていたが、中央へ寄せていた物はほとんど無事だった。
硬いパンの表面だけが少し湿っている。
干し肉も、一部が水を吸って柔らかくなっていた。
「こっちは先に食った方がいいな」
濡れた保存食を分け、乾いた物とは別に置く。
魔石は水を拭くだけで問題なさそうだった。
ブルー・クラブの青い甲羅。アクア・サーペントの透明な鱗と牙。ヴォルティメリアの厚い鰭と鋸のような歯。魚人や鳥人型のモンスターから残った素材。
鞄の中身をすべて並べると、思っていた以上に多い。
「また半分以上埋まってんな」
第十八階層で一度売ったにもかかわらず、十階層分も進まないうちに鞄は再び膨らんでいた。
特に場所を取っているのは、ブルー・クラブの甲羅とヴォルティメリアの鰭だ。
どちらも状態は悪くない。
見た目だけなら高く売れそうだった。
「次に街があんのは、もっと下だったか?」
昨夜の酒場で聞いた話を思い返す。
第二十八階層は安全階層だが、リヴィラのような街はない。
さらに下にも安全階層はあるらしいが、どこに人の集まる場所があるのかまでは聞いていなかった。
しばらくは、自分で持って進むしかない。
バンは濡れた回収袋を枝へ掛けた。
その隣へ長衣を広げる。
水の迷都で集めた鱗や翼膜も、草の上へ一枚ずつ並べた。
乾くまで、少し時間がかかるだろう。
「なら、先に飯だな」
小鍋へ川の水を入れる。
匂いを嗅ぎ、濁りがないことを確かめた。
煉獄の毒に耐えた身体なら、多少の水質で腹を壊すことはない。それでも、食事へ使う水まで何でもいいわけではない。
枯れ枝を集め、石を並べて簡単な竈を作る。
火を起こし、小鍋を置いた。
湿った干し肉を細かく切り、残っていた豆と一緒に煮込む。
塩を少量。
乾燥させた香草も加える。
パンは薄く切り、鉄板の上で炙った。
水を吸っていた表面から湯気が上がり、少しずつ固さを取り戻していく。
「やっぱ持ってきて正解だったな」
防具を持たず、鍋と鉄板を鞄へ入れてきた。
これまでに出会った冒険者たちは、揃って理解できないという顔をしていた。
だが、こうして地下深くで温かい物を食べられる。
バンにとっては、鎧よりもよほど役に立っていた。
煮込みができるまでの間、長衣を手に取る。
まだ少し湿っているが、縫えないほどではない。
裂けた布を重ね、針を通す。
細かな作業は得意とは言えない。
それでも、旅の途中で何度も服を直してきた。見た目を気にしなければ、着られる状態には戻せる。
肩の裂け目を縫い終えた頃、鍋から肉と香草の匂いが立ち始めた。
バンは長衣を再び枝へ掛け、鍋を火から下ろした。
木の匙で一口すくう。
肉は柔らかくなっている。
豆にも塩味が染み、香草の苦味が僅かに残った。
「悪くねぇな」
焼いたパンを煮込みへ浸し、食べる。
宿の料理ほど塩は強くない。肉の量は少ないが、自分で作った分だけ好みに合わせられる。
酒瓶にも手を伸ばした。
栓を抜き、直接一口飲む。
水の迷都で岩へぶつけないよう守った酒だ。
割れていないことは確認していたが、中身にも問題はなかった。
「無事でよかったな」
自分の傷より、食料と酒。
第二十六階層から変わらない優先順位だった。
◇
食事を終えた頃、長衣と回収袋はほとんど乾いていた。
バンは鍋と鉄板を洗い、しばらく火の近くへ置いて水気を飛ばす。
その間に素材を選別した。
同じ種類の牙は、長く欠けていない方を残す。
鱗も、大きく透明度の高い物を優先する。
小さな魔石は一つの袋へまとめた。
水の迷都で拾った物は、大樹の迷宮の魔石より一回り大きい。
今後さらに大きな魔石が増えれば、小さい物を持ち続ける余裕はなくなるだろう。
「次は、こいつらからだな」
大樹の迷宮で手に入れた小型魔石の袋を、鞄の上側へ移す。
捨てる必要が出た時、すぐ取り出せる場所だ。
ヴォルティメリアの鰭は長い。
折らないよう、鞄の側面へ沿わせる。
ブルー・クラブの甲羅は底近くへ入れた。
酒瓶は中央。
周囲を保存食と空の袋で囲む。
鍋と鉄板は外側。
「こんなもんか」
荷物を戻し、鞄の口を縛る。
乾いた長衣を着る。
縫った肩の部分を動かしてみた。
少し布が引かれるが、戦う時に邪魔になるほどではない。
バンは火を消し、使った石を崩した。
休んだ跡を完全に隠す必要はない。それでも、火が残って他の冒険者の荷物や草を焼くのは面倒だ。
水をかけ、煙が消えたことを確かめる。
クレシューズを肩へ担いだ。
第二十九階層へ続く道は、草原の奥にある。
木々の幹には、これまでと同じように案内の印が刻まれていた。
道へ沿って進むうち、空気が少しずつ変わっていく。
花の甘い匂いが薄れ、代わりに濃い土と獣の臭いが混ざり始めた。
遠くから低い鳴き声が聞こえる。
水の迷都にいた怪物とは違う。
腹の底へ響く、太く長い声だった。
「次はでけぇ奴が多そうだな」
第二十九階層へ続く入口の前には、石の案内板が立っていた。
下層。
密林の峡谷。
恐竜種に注意。
中級冒険者の単独行動を禁ずる。
「恐竜か」
酒場でも名前だけは聞いていた。
大きな蜥蜴のような怪物。
地上にも似た魔獣は存在するが、ダンジョンの下層にいる個体は、上層や中層のモンスターとは基礎的な強さが違うらしい。
案内板の下には、古い傷がいくつも残っていた。
爪で引っ掻いたような跡。
巨大な牙で削ったような窪み。
赤黒く変色した部分は、冒険者か怪物の血だろう。
「見りゃ分かんだろ」
バンは入口へ足を踏み入れた。
◇
第二十九階層。
最初に目へ入ったのは、巨大な崖だった。
左右へ切り立った岩壁が伸び、その間を埋めるように密林が広がっている。
木々は大樹の迷宮ほど異様に太くはない。
それでも、地上の森と比べれば十分に巨大だった。
幹へ絡みつく蔓。
人の背丈を越える草。
岩壁から流れ落ちる細い滝。
峡谷の底を進む道は、植物と土に覆われている。
大樹の迷宮とは違い、壁そのものが木でできているわけではない。
岩と密林が同じ場所に存在していた。
青白い光は、遥か上の天井から差している。
だが、枝葉が厚く、地上まで届く光は少ない。
少し先までしか見通せない。
水の轟音は消えた。
代わりに聞こえるのは、虫の声、枝が軋む音、重い足音。
一歩。
また一歩。
何かが森の奥を進んでいる。
そのたびに地面が僅かに揺れた。
「近ぇな」
バンは足を止めた。
正面の茂みが大きく揺れる。
木の枝が折れ、葉が舞った。
最初に見えたのは、赤黒い鼻先だった。
続いて、鋭い牙が並ぶ大口。
太い首。
後ろ脚だけで立つ巨大な身体。
頭はバンより遥かに高い。
赤褐色の鱗に覆われ、長い尾を地面へ引きずっている。
怪物は茂みを押し分け、峡谷の道へ姿を現した。
鼻を鳴らす。
黄色い目が、バンを捉えた。
「こいつが恐竜か」
怪物は答える代わりに、大口を開いた。
「グォォォォォッ!」
咆哮が密林を揺らす。
木々から鳥に似た小型モンスターが飛び立ち、遠くでは別の何かが鳴き返した。
赤い恐竜は地面を蹴る。
巨体からは想像しにくい速さで、一気に距離を詰めてきた。
大口が開く。
バンの身体だけでなく、背中の鞄ごと噛み砕こうとしていた。
「また鞄狙いかよ」
バンは半歩前へ出た。
逃げるのではなく、怪物の口の内側へ入る。
閉じる直前、クレシューズを横に構えた。
上顎と下顎の間へ、短くした神器を挟む。
牙が棍へ食い込んだ。
恐竜が顎へ力を込める。
普通の武器なら、そのままへし折られていただろう。
だが、修復されたクレシューズは僅かにも歪まない。
バンも押し込まれなかった。
「上の魚より力あんな」
それでも、ベヒーモスと比べるほどではない。
バンは片手でクレシューズを押し上げた。
巨大な恐竜の顎が強引に開かれる。
怪物は首を振り、バンを棍ごと投げようとした。
バンは力に逆らわず、一度足を地面から離す。
身体が横へ流れた瞬間、クレシューズを伸ばした。
四つの節が恐竜の首へ巻きつく。
そのまま空中で身体を捻り、引いた。
赤い巨体が横倒しになる。
地面へ叩きつけられ、土と葉が大きく舞った。
近くの木が一本、背中に押されて折れる。
恐竜はすぐに起き上がろうとした。
「丈夫なのも増えてきたな」
バンは片手を向ける。
「獲物狩り《フォックスハント》」
胸の奥から魔石が抜けた。
これまでに得た物より、さらに大きい。
ヴォルティメリアの魔石と同じか、それ以上だった。
赤い恐竜の巨体が灰へ変わり、森の風に散っていく。
地上へ落ちた魔石を拾う。
片手で持てる大きさだが、上層の小さな魔石をいくつも合わせたほどの体積がある。
「こいつ一つで、上の石が結構入らなくなんな」
灰の中には、大きな牙が二本と、赤褐色の鱗が残っていた。
牙はバンの手首から肘ほどまである。
鱗も厚く、ブルー・クラブの甲羅とは違う硬さを持っていた。
「でけぇのばっかだな」
すべてを持つには場所を取る。
それでも、最初の一体だ。
何が高いのか分からない以上、ひとまず牙を一本と、状態の良い鱗を数枚回収した。
もう一本の牙は、その場へ残す。
大型魔石を袋へ入れた時、背後から足音が聞こえた。
複数。
人間の足音だ。
「止まれ!」
木々の間から、七人の冒険者が姿を現した。
全員が中層までに見た者より重い装備を身に着けている。
先頭は大盾を持つ男。
左右に槍使いと斧使い。
後方には弓、杖、二人のサポーターがいた。
彼らは武器を構えたまま、灰と折れた木を見る。
「ブラッドサウルスはどこだ?」
「さっきのでけぇ奴か?」
バンが尋ねる。
大盾の男が、鞄へ入れようとしている赤い鱗を見る。
「倒したのか?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
「……まさか、リヴィラで噂になっていた赤い男か」
「下まで広がってんのか、その話」
「地図も持たず、一日で第十八階層へ下りた男がいると聞いた」
「今日は二日目だぞ」
「そういう問題ではない」
男は周囲を見回した。
「他のブラッドサウルスは?」
「一体しかいなかったぞ」
「咆哮を聞いた群れが寄ってくる。早く移動した方がいい」
「群れんのか?」
「通常は単独行動が多い。だが、戦闘音や血の臭いには他の恐竜種も集まる」
「灰になったから血はねぇぞ」
「音は残っている」
言葉を証明するように、森の奥から枝が折れる音が聞こえた。
一方向ではない。
左。
右。
さらに正面。
重い足音が、複数近づいてくる。
「陣形を組め!」
男が叫ぶ。
「右から二体! 正面にも大型!」
「退路を確保しろ!」
「サポーターは中央へ!」
冒険者たちは即座に動いた。
大盾を正面へ向け、斧使いが右側へ立つ。
槍使いは左。
弓使いと杖使いが、その後ろから木々の隙間を狙った。
「赤い男! こちらへ入れ!」
「いらねぇって何度も言ってんだけどな」
「ここは下層だ! 中層までと同じだと思うな!」
茂みが弾けた。
最初に現れたのは、先ほどと同じ赤い恐竜が二体。
左右から道へ飛び出し、咆哮を上げる。
正面からは別の怪物が現れた。
三つの頭。
全身を覆う太い棘。
地面を削る棍棒状の尾。
四本の脚で歩く巨体は、ブラッドサウルスより横幅がある。
三つの頭が別々の方向を向き、中央の頭だけが冒険者たちを見た。
「アルマロサウルスだ!」
大盾の男が叫ぶ。
「前から来るぞ! 尾にも気をつけろ!」
三つ首の恐竜が突進した。
木々を押し倒し、岩を踏み砕く。
右側のブラッドサウルスも同時に走り出した。
冒険者たちは盾を構える。
杖使いが詠唱を始め、弓使いが赤い恐竜の目を狙った。
バンはその陣形の外で、肩からクレシューズを下ろした。
「さっきより増えたな」
アルマロサウルスの棍棒状の尾が横から振るわれる。
正面の盾だけを見ていれば、避けられない角度だった。
バンはクレシューズを伸ばした。
一節が尾へ巻きつき、振るわれる勢いを途中で止める。
巨体が大きく傾いた。
三つの頭が同時にバンへ向く。
「グァァァァッ!」
左右の頭が噛みつき、中央の頭が角のような棘を突き出してきた。
バンはクレシューズを引いたまま、片足を踏み込む。
三つ首の怪物が、自分の尾に引かれて横へ動いた。
頭同士がぶつかり、噛みつきが空を切る。
その巨体が、突進してきたブラッドサウルスの進路へ入った。
二体が激突する。
赤い恐竜の頭がアルマロサウルスの棘へぶつかり、両方の動きが止まった。
「今だ! 攻撃を――」
「動かなくていいぞ」
大盾の男の声を遮り、バンは四節の神器を大きく振るった。
「乱獲《クレイジーハント》」
クレシューズが密林の中へ広い弧を描く。
正面のアルマロサウルス。
左右から迫っていた二体のブラッドサウルス。
さらに、木々の陰へ潜んでいた小型の恐竜種。
それぞれの体内から、魔石が一斉に奪い取られた。
大きな石。
細長い石。
小型のものでも、中層の魔石より明らかに大きい。
黒紫色の魔石が葉と枝の間を抜け、クレシューズの軌道へ沿うようにバンの周囲へ集まる。
恐竜たちの巨体が次々と灰へ変わった。
密林を埋めていた咆哮が消える。
残ったのは、折れた木々と、大量の灰。
そして、武器を構えたまま動かない冒険者たちだった。
「……全部、倒したのか?」
「ああ」
「ブラッドサウルス三体と、アルマロサウルスを?」
「ほかにも小せぇのがいたぞ」
「いたのは知っている」
大盾の男は、バンの足元へ落ちた魔石を見る。
「どうやって一度に……」
「乱獲だぞ」
「それは魔法なのか?」
「技だって何度も言ってんだけどな」
バンは魔石を拾い始めた。
ブラッドサウルスの魔石が三つ。
アルマロサウルスの魔石は、それよりも少し横幅があった。
小型の恐竜種から抜けた物も複数ある。
すべてを袋へ入れると、鞄の空間が一気に減った。
「やっぱ、でけぇな」
灰の中には、恐竜の牙、棘、尾の硬い外殻が残っている。
どれも大きい。
全部を持つことはできない。
バンは鞄を開き、小型魔石の袋を取り出した。
大樹の迷宮で集めた魔石だ。
袋の中には、ガン・リベラや植物型モンスターから抜いた物が入っている。
「こいつらを置いてくか」
「待て」
大盾の男が声を上げた。
「それも魔石だろう?」
「ああ」
「捨てるのか?」
「入らねぇからな」
「地上まで持ち帰れば金になる」
「こっちの方がでけぇだろ」
バンは恐竜種の魔石を見せた。
「鞄に入んのが決まってんなら、でかい方を残す」
「理屈は分かるが……」
「欲しけりゃ持ってけ」
バンは小型魔石の袋を男へ投げた。
大盾を持ったまま、男が慌てて受け取る。
「全部か?」
「ああ」
「対価は?」
「下り道を教えろ」
「それだけでいいのか?」
「地図持ってねぇからな」
「本当に地図なしでここまで来たのか……」
男は小型魔石の袋とバンを見比べた。
やがてサポーターへ袋を渡し、密林の奥を指す。
「この先の峡谷を北へ進め。二つ目の滝を越えたあと、黒い岩壁の裂け目を右だ」
「左は?」
「同じ階層の奥へ戻る。ブラッドサウルスの縄張りが多い」
「右だな」
「待て。第三十階層へ行くつもりか?」
「ああ」
「今日はどこまで進む気だ?」
「決めてねぇ」
冒険者たちは揃って黙った。
大盾の男が深く息を吐く。
「この階層から先は、今までのように安全階層が近くにあるとは限らない。休む場所も、食料を補給する場所もない」
「まだ飯はあるぞ」
「そういう問題だけではない」
「酒も残ってる」
「さらに違う」
後ろにいた槍使いが苦笑した。
「もう止めても無駄だ。さっきの戦いを見ただろ」
「強さの問題ではない。迷えば帰還まで何日かかるか分からん」
「道は聞けばいいだろ」
バンが言う。
大盾の男は周囲を見る。
「この先で、都合よく人へ会えるとは限らない」
「なら自分で探す」
「……地図を渡そうか?」
「いらねぇぞ」
「なぜだ!」
「見た方が面白ぇだろ」
男は額を押さえた。
リヴィラから続いてきた反応と、ほとんど同じだった。
「せめて、この階層の地図だけでも持て」
「荷物が増えんだろ」
「紙一枚だ!」
「濡れたら使えねぇぞ」
「ここは水の迷都ではない!」
仲間の何人かが笑い始める。
大盾の男はしばらくバンを睨んだあと、諦めたように肩を落とした。
「好きにしろ。ただし、第三十階層へ下りる前に周囲を確認しろ。下層のモンスターは、上からも来る」
「空もか?」
「木々の上を走る小型種がいる。姿を隠して群れで襲う奴もいる」
「さっき小せぇのが混じってたな」
「シャドーラプトルかもしれん。茂みや影に紛れる。見失うな」
「分かった」
「本当に分かっているのか?」
「ああ。見つけたら倒す」
「注意しろという意味だ!」
バンは片手を上げた。
「魔石、助かった」
「こっちも道が分かったからな」
「……本当に妙な奴だ」
冒険者たちは、灰の中に残った素材を回収し始めた。
バンが置いていく牙や棘も、彼らにとっては十分な収入になるらしい。
バンは大型魔石を鞄へ詰め、代わりに空いた袋を畳んだ。
アルマロサウルスの棘を一本だけ選ぶ。
長いが、ヴォルティメリアの鰭の横へ差し込めば入った。
鞄の口を強く縛る。
「そろそろ、本当に余裕なくなってきたな」
次に大きな素材が出れば、ブルー・クラブの甲羅か、重複している牙を置いていくことになるだろう。
それでも、戻るつもりはなかった。
◇
教えられた道を進む。
峡谷の底は、奥へ行くほど狭くなった。
左右の岩壁が高くなり、頭上を木々が覆う。
光はさらに少ない。
足元には大きな爪痕と、恐竜種の足跡がいくつも残っていた。
水辺の階層とは違い、ここでは進んだ跡が消えにくい。
自分以外の冒険者が残した靴跡も確認できる。
「こっちは道が分かりやすいな」
足跡を追い、最初の滝を越える。
細い流れだった。
濡れるほどではない。
二つ目の滝へ着く前、頭上の枝が小さく揺れた。
バンは歩みを止める。
鳥ではない。
枝から枝へ移る、細い足音。
一体。
二体。
さらに後方。
地面の茂みにも気配がある。
「さっき言ってた奴か」
視線を上げる。
暗い葉の間に、細長い身体が一瞬だけ見えた。
黒に近い鱗。
前へ伸びた細い頭。
長い尾。
大型の恐竜種と比べれば小さいが、人間よりは大きい。
怪物は枝の影へ紛れ、再び見えなくなった。
気配だけが移動する。
バンの前後と頭上を囲むように、数が増えていく。
「隠れんのが得意なのか」
返事の代わりに、一体が背後から飛びかかった。
鋭い爪が鞄へ伸びる。
バンは振り返らず、クレシューズの一節を背後へ伸ばした。
怪物の腹へ棍が当たる。
黒い身体が茂みの中へ吹き飛んだ。
それを合図に、残る個体が一斉に動く。
頭上から三体。
左右の茂みから四体。
正面の岩陰から、さらに二体。
バンはクレシューズを握り直した。
伸びた四節が、峡谷の狭い空間へ広がる。
一節で頭上の個体を叩き落とす。
二節目が左右の茂みを薙ぎ、隠れていた怪物を道の中央へ押し出した。
残る節が正面から来た二体の足を払う。
黒い恐竜たちが一か所へ集まる。
「乱獲《クレイジーハント》」
クレシューズを横へ振るう。
神器が描いた軌道に合わせ、十体近い怪物の胸から魔石が一斉に抜けた。
黒い恐竜たちは、飛びかかる姿勢のまま灰へ変わる。
森の中へ黒い灰が散った。
残った魔石を拾う。
大型種よりは小さい。
それでも、大樹の迷宮で捨てた魔石よりは明らかに大きかった。
「小せぇ奴でも、下の方がでかいんだな」
灰の中には、黒い爪と細長い牙が残っていた。
爪は薄いが鋭い。
光の少ない場所では、黒い表面が周囲の影へ溶けるように見える。
「これも珍しそうだな」
同じ種類から残った中で、最も大きい爪だけを回収した。
その時、峡谷の奥からさらに低い咆哮が響いた。
先ほど倒した怪物より遥かに大きい。
足元の土が震える。
だが、姿は見えない。
木々の向こう。
もっと深い場所を、巨大な何かが歩いている。
バンの口元が僅かに上がった。
「下層ってのも、悪くねぇな」
二つ目の滝を越える。
その先には、冒険者から聞いた黒い岩壁があった。
中央へ大きな裂け目が走り、左右に道が分かれている。
バンは迷わず右へ進んだ。
しばらく下り坂が続く。
密林の匂いがさらに濃くなり、空気も重くなっていく。
やがて岩壁に、三十の数字が刻まれた案内板が見えた。
その奥からは、複数の恐竜種が鳴く声と、木々が倒れる音が絶え間なく届いている。
バンは鞄の紐を確かめた。
大型の魔石と素材で、すでに大きく膨らんでいる。
食料はまだある。
水も、酒も残っていた。
「もう少し行けんな」
クレシューズを肩へ担ぐ。
赤い旅人は、巨大な恐竜種が徘徊する第三十階層へ続く坂を下り始めた。
今回は第二十八階層で休息したあと、第二十九階層から始まる〈密林の峡谷〉へ入りました。
これまでの階層とは異なる恐竜種との戦いや、下層へ入ったことで魔石や素材がさらに大きくなっていく様子を書きました。