第二十四階層の森から、第二十五階層へ続く階段を下りる。
一段進むごとに、水の音が大きくなっていった。
最初は遠くで響いていた音が、やがて地面そのものを揺らす轟音へ変わる。
湿った風が、階段の下から吹き上がってきた。
冷たい。
大樹の迷宮にも水はあったが、葉から落ちる雫や小さな流れとはまるで違う。
大量の水が、絶え間なく動き続けている。
「結構な量だな」
バンは鞄を一度下ろし、口を縛っている紐を確かめた。
保存食、調味料、水袋、酒瓶、小鍋、鉄板、調理用のナイフ。そして、十九階層から集めた魔石と素材。
鞄そのものは丈夫だが、完全に水を通さないわけではない。
浅い水へ入る程度ならともかく、長く沈めれば、硬いパンも乾燥させた肉も無事では済まないだろう。
特に、酒瓶を岩へぶつけるわけにはいかない。
バンは瓶を鞄の外側から中央へ移し、周囲を布に包まれた保存食と予備の回収袋で囲んだ。
鍋と鉄板は外側。重い魔石は底。濡れて困る物は中心近く。
「これでいいか」
鞄を背負い直し、クレシューズを肩へ担ぐ。
最後の段を下りた。
◇
目の前に広がっていたのは、巨大な滝だった。
天井近く、見上げても全体が分からないほど高い場所から、白い水が落ち続けている。
滝壺から溢れた水は何本もの流れに分かれ、青い岩壁の間を走っていた。
川。水路。浅瀬。底の見えない淵。
それらを区切るように、細い岩場や石橋が伸びている。
第十八階層の湖とも違う。
ここでは、階層全体が水によって作られていた。
「これが水の迷都か」
通路と呼べる場所はある。
だが、乾いている部分の方が少ない。
石床には薄く水が流れており、一歩踏み出せば靴の周囲へ水が跳ねた。
足元は滑りやすい。落ちれば、どこへ流されるのか分からない。
人の足跡も水に消され、残っていなかった。
壁へ付いた傷も滝の飛沫に隠れ、見つけにくい。水の音が大きすぎて、遠くの戦闘音や話し声も聞き取りづらかった。
「また道探しが面倒そうだな」
怪物より先に、地形を見た感想が出た。
バンは滝壺から離れる方向へ歩き始めた。
岩場の幅は、二人が並べる程度。
右側には水路。左側には、底の見えない青い淵が広がっている。
その淵の中で、何かが動いた。
水面のすぐ下を、青い影が岩場と並ぶように進んでくる。
丸い身体。硬そうな甲羅。左右へ伸びる太い鋏。
「蟹か?」
水面が弾けた。
人間の胴ほどもある青い蟹が岩場へ飛び上がり、八本の脚で石床へ着地する。
片方の鋏を大きく開いた。
狙っているのは、バンの足ではない。
背中の鞄だ。
「そっちは駄目だ」
鋏が閉じる直前、バンは身体を半歩横へ動かした。
青い鋏が鞄の表面を掠める。
避けなければ、バン自身に傷は付かなかったかもしれない。
だが、中の酒瓶まで無事とは限らない。
バンはクレシューズを伸ばした。
先端の一節が蟹の鋏へ絡みつく。
「戻れ」
軽く引く。
巨大な蟹の身体が岩場から浮き上がり、そのまま背後へ投げ飛ばされた。
青い甲羅が石床へ落ち、硬い音が響く。
怪物はすぐに脚を動かし、身体を起こした。
甲羅には傷がない。
「見た目通り硬ぇな」
バンが片手を向ける。
「獲物狩り《フォックスハント》」
甲羅の奥、身体の中心にあった魔石が抜けた。
青い蟹は鋏を振り上げた姿勢のまま灰へ変わる。
水辺へ積もった灰は、すぐに流れへ呑まれていった。
魔石だけがバンの手元へ飛んでくる。
大樹の迷宮で得た物より、一回り大きい。
灰が流れ去ったあと、青い甲羅の一部が残っていた。
手の平よりも大きく、水の流れに押されて岩場の端へ動いていく。
バンは足で止め、拾い上げた。
「でけぇな」
厚く、硬い。見た目も綺麗だった。
ただ、鞄へ入れればかなりの場所を取る。
「まだ入るか」
ひとまず大型素材用の袋へ収める。
少し形を傾ければ、鞄の側面へ入った。
蟹が現れた淵の奥から、別の青い影が二つ近づいてくる。
「まだいんのか」
バンは今度は待たなかった。
二体が水面から出る前に、水中の魔石へ意識を伸ばす。
「獲物狩り《フォックスハント》」
二つの魔石が水を突き破って飛び出した。
水中で怪物の身体が灰へ変わる。
灰は水へ溶けるように散り、すぐに見えなくなった。
何か残ったとしても、淵の底へ沈んだらしい。
「水ん中だと、探すのが面倒だな」
魔石を袋へ入れる。
最初の一体から残った甲羅だけでも、運がよかったのだろう。
バンは細い岩場を進んだ。
◇
第二十五階層の道は、水路によって何度も分断されていた。
浅い流れなら、そのまま歩いて渡る。
足場になる岩があれば飛び移る。
距離がある場所では、クレシューズを伸ばした。
対岸の岩柱へ先端を巻きつけ、鞄が大きく揺れないように自分の身体を引き寄せる。
四つの節は修復前と変わらず、バンの意識に従って曲がった。
むしろ岩へ絡みついた時、節同士の重さが以前より均等に伝わってくる。引いた力が一か所へ偏らない。
鞄を背負った身体が水路の上を滑るように渡り、対岸へ着地した。
「やっぱ、前より扱いやすくなってんな」
大きな変化ではない。
クレシューズが、別の神器になったわけでもなかった。
ただ、手へ戻ってくる感覚が以前より滑らかだ。
クレシューズを縮め、先へ進もうとした時、正面から複数の冒険者たちが走ってきた。
七人。
前衛の二人が大きな盾を持ち、後ろでは荷物を背負った小人族を槍使いが支えている。
「止まれ!」
先頭の男が叫んだ。
水の轟音に負けないよう、声を張り上げている。
「淵から離れろ!」
「何だ?」
「ブルー・クラブが出る!」
バンは先ほど鞄へ入れた青い甲羅を見る。
「さっき倒したぞ」
「一体だけだと思うな!」
男の声と同時に、右側の水面が盛り上がった。
青い蟹。
今度は五体。
水中から岩場へ、次々と這い上がってくる。
さらに冒険者たちの後方、細い水路からも三体が現れた。
「挟まれた!」
「前衛は両側を押さえろ!」
「サポーターを中央へ!」
冒険者たちはすぐに陣形を組む。
盾を前後へ向け、槍と剣を左右へ配置した。
バンはその陣形の外にいた。
「そこの男、こっちへ入れ!」
「いらねぇぞ」
「一人で何を――」
青い蟹たちが、左右から鋏を開いて迫る。
バンはクレシューズを握り直し、四節の神器を横薙ぎに振るった。
「乱獲《クレイジーハント》」
八体。
クレシューズが描いた軌道に合わせるように、すべての甲羅の奥から魔石が一斉に奪い取られた。
水中に半身を残していた個体。岩場へ上がった個体。盾へ鋏を振り下ろそうとしていた個体。
黒紫色の石が、水飛沫を連れて宙を飛ぶ。
怪物たちの身体が同時に灰へ変わった。
岩場の上に残った灰は、流れる水によって運ばれていく。
冒険者たちは、盾を構えたまま動かなかった。
「……ブルー・クラブってのか」
バンが尋ねる。
先頭の男は数秒遅れて頷いた。
「あ、ああ」
「甲羅は高ぇのか?」
「状態が良ければ、防具の素材になる」
「でけぇ方がいいか?」
「基本的にはな」
「なら拾った奴は残しとくか」
バンは足元へ落ちた魔石を拾い始める。
「何をした?」
「魔石を取った」
「全部?」
「ああ」
「甲羅の上から?」
「ああ」
後ろの冒険者が、バンの赤い長衣を見る。
「もしかして、リヴィラで噂になってた男か?」
「何の噂だ?」
「地図も持たず、一人で下りてきた赤い服の男」
「多分オレだな」
「多分じゃないだろ」
先頭の男は盾を下ろした。
「この先へ行くのか?」
「ああ」
「第二十六階層へ向かうなら、滝の左側を回れ。右の水路は途中で行き止まりだ」
「水の中から行けねぇのか?」
「流れが強すぎる。奥へ進めても、下り口には出ない」
「そうか」
「それと」
男がバンの鞄を指す。
「水面の近くへ立つ時は、荷物を狙われる。ブルー・クラブだけじゃない。アクア・サーペントは身体へ巻きついて、水中へ引き込む」
「蛇か?」
「長い水棲の蛇竜だ。水中では速い」
「覚えとく」
「泳げるのか?」
「ああ」
「鎧を着けていないだけマシだが、その荷物では沈むぞ」
「沈んでも泳げる」
「……そうか」
男はそれ以上、何も言えなくなった。
冒険者たちは第二十五階層側へ上がっていく。
すれ違う時、負傷した小人族がバンへ頭を下げた。
「気をつけてください」
「ああ」
「本当にですよ」
「分かってる」
彼らの姿が、水飛沫の向こうへ消えていく。
バンは教えられた通り、巨大な滝の左側へ向かった。
◇
第二十六階層へ下りると、水の量はさらに増えた。
岩場より、水路の方が広い。
通路の一部は完全に水へ沈んでおり、先へ進むには腰まで水へ入るか、壁際に残った細い足場を歩くしかない。
バンは細い方を選んだ。
水へ入ること自体は問題ない。
だが、鞄の中身まで濡らす理由はなかった。
足場の幅は片足分ほど。
右肩は岩壁。左側には、暗い水面が広がっている。
水音が反響し、どこから何が近づいているのか、耳だけでは分かりにくい。
バンは水中へ意識を向けた。
細長い気配が一体、足場と並ぶように深い場所から近づいてくる。
「さっき言ってた蛇か」
水面が割れた。
青緑色の長い身体。太い首。鰭のような突起。
大きく開いた口には、内側へ曲がった牙が並んでいる。
蛇竜はバンの上半身ではなく、足へ身体を巻きつけた。
そのまま水中へ引きずり込もうとする。
足場の石が砕け、バンの身体が鞄ごと淵へ落ちた。
大きな水飛沫。
冷たい水が全身を包む。
蛇竜は身体へ巻きついたまま、水底へ向かって泳ぎ始めた。
水中では、地上よりも動きが速い。
長い尾で水を押し、岩場の下へバンを引き込もうとする。
バンは片手で蛇竜の胴を掴んだ。
締めつける力は、一般の冒険者なら鎧ごと骨を砕かれるほどだろう。
だが、バンの身体には大した圧力ではない。
「泳ぐのは、オレも得意だぞ」
水中で足を一度動かす。
蛇竜が進んでいた方向とは逆へ、バンの身体が加速した。
巻きついていた怪物の方が強引に引きずられる。
蛇竜が身体をくねらせ、牙をバンの肩へ突き立てた。
赤い長衣が裂け、牙の先が皮膚へ触れる。
僅かな傷。
細い血が水中へ流れた。
バンは自分の肩ではなく、裂かれた服を見る。
「また服かよ」
蛇竜の頭を掴み、そのまま水底の岩へ叩きつけた。
轟音が、水の中へ鈍く広がる。
岩盤に亀裂が入り、蛇竜の身体から巻きつく力が抜けた。
それでも、まだ生きている。
水中で再び牙を開いた。
「結構丈夫だな」
バンが片手を向ける。
「獲物狩り《フォックスハント》」
長い胴の奥から魔石が抜け出す。
蛇竜の身体は水中で灰へ変わり、濁った煙のように広がって流れへ消えていった。
残った物が二つ。
長く透明な鱗と、太い牙。
どちらもゆっくりと水底へ沈んでいく。
バンは魔石を掴み、さらに潜って沈む鱗へ手を伸ばした。
牙も拾う。
その間、鞄が岩へぶつかりそうになった。
身体を捻り、背中ではなく肩で岩を受ける。
酒瓶の割れる音はしない。
「無事だな」
水面を見上げる。
かなり深い場所まで引き込まれていた。
それでも、息が苦しいとは感じない。
バンは水底を蹴り、一気に上昇した。
水面を突き破り、近くの岩場へ手を掛けて身体を引き上げる。
大量の水が、赤い長衣と鞄から流れ落ちた。
「濡れたな」
鞄を下ろし、すぐに口を開く。
外側に入れていた回収袋はかなり濡れていた。
鍋と鉄板は問題ない。
魔石も、水で傷むようには見えなかった。
中央の保存食、調味料、酒瓶。
完全に乾いてはいないが、水が染み込む前に上がれたらしい。
硬いパンの表面が、少し湿った程度だった。
「もう少し沈んでたら危なかったな」
自分の傷ではない。
食料の話だった。
肩を見る。
蛇竜の牙が触れた場所の細い傷は、すでに血が止まっている。
放っておけば、そのうち消える。
裂けた長衣だけが残った。
「服の方が治んの遅ぇんだよな」
以前、旅の途中で何度も直した赤い長衣。
アンタレスとの戦い。ヘルハウンドの炎。今回の牙。
バン自身に合わせるには、普通の布では足りない。
「丈夫な布でもあればいいんだけどな」
鞄を閉じる。
先ほど拾った透明な鱗と牙を見る。
鱗は水に濡れると、青緑色へ輝いていた。
薄いが、簡単には曲がらない。
「これは残すか」
青い蟹の甲羅より場所を取らない。
鱗と牙を袋へ入れ、濡れた長衣の裾を絞って立ち上がった。
◇
第二十六階層は、進む方向を見失いやすかった。
大量の水が上から下へ流れている。
ならば流れに沿えば、次の階層へ着く。
最初はそう考えた。
だが、水路は途中で二つに分かれ、別の滝へ落ち、地下の淵へ潜り、再び上から流れ出してくる。
水の向きだけを頼りに進んだ結果、同じ大瀑布の反対側へ戻ってきた。
「ここ、さっき見たな」
滝の横に立つ青い岩柱。
その根元には、バンが倒した怪物の灰が僅かに残っている。
水でほとんど消えているが、近くには拾わなかった割れた甲殻も落ちていた。
同じ場所だ。
「水を追うだけじゃ駄目か」
人の足跡はない。
落とした目印も流される可能性がある。壁へ傷を付けても、飛沫に隠れて見えづらい。
バンは岩壁の高さを見る。
上へ細い亀裂が続いていた。
クレシューズを伸ばし、先端を高い岩棚へ巻きつける。
身体を引き上げ、上から水路全体を見渡した。
複数の流れ。滝。岩場。
遠くには、下側へ伸びている人工的な石橋が見える。冒険者が歩くため、人の手で補修されたような跡もあった。
「あっちか」
岩棚から飛び降りる。
落下の途中、下の水面が大きく盛り上がった。
巨大な影。
青黒い背。
魚にも海獣にも見える。
大きな口は、バンの身体だけでなく、背中の鞄ごと呑み込めるほどだった。
「それは困るな」
空中でクレシューズを伸ばし、先端を怪物の上顎へ巻きつけた。
閉じかけた口を強引に引き上げる。
巨大な魚竜の頭が水面から持ち上がった。
そのままバンは身体を捻る。
自分より遥かに大きな怪物が水中から引きずり出され、巨体が岩場の上へ落ちた。
石橋が揺れ、水飛沫が周囲へ散る。
魚竜は尾を振り回した。
太い尾がバンの胴を横から打ち、赤い長衣の身体が隣の岩壁まで飛ぶ。
背中から岩へぶつかる直前、バンは鞄を庇うように身体を捻った。
肩から岩壁へ衝突し、岩が大きく砕ける。
魚竜は陸へ上げられても動きを止めなかった。
巨体を跳ねさせ、再び大口を開く。
バンは砕けた岩の中から立ち上がり、肩を軽く回した。
「さっきの蛇より重ぇな」
怪物の強さに焦った様子はない。
魚竜が飛びかかる。
バンはクレシューズを短く持ち、開いた下顎へ振り上げた。
鈍い衝撃音。
魚竜の巨大な頭が真上へ跳ね上がり、巨体が一度岩場へ落ちる。
まだ動く。
尾を使い、水へ戻ろうとしていた。
「逃げんのか?」
バンが片手を伸ばす。
「獲物狩り《フォックスハント》」
魚竜の腹の奥から、大きな魔石が抜けた。
これまで手に入れた物より明らかに大きい。
両手で持つ必要はないが、片手を広げるほどの大きさがある。
魚竜の身体が岩場の上で灰へ変わり、流れる水へ押し流されていく。
残ったのは、厚い鰭の一部、鋸のような歯、そして大きな魔石。
「こいつは良さそうだな」
魔石を大型用の袋へ入れる。
鰭と歯も拾った。
ただし鰭は長く、かなり場所を取る。
バンは鞄の中を見た。
青い蟹の甲羅。大樹の迷宮で拾った羽。重複している爪。小さな魔石。
「少し入れ替えるか」
まず状態の悪い羽を一枚取り出す。
小さな爪も二つ。
同じ種類の素材で、より大きく綺麗な物が残っている。
それらを岩場の端へ置き、できた空間へ魚竜の鰭を折らないように収めた。
まだ、小型魔石を捨てるほどではない。
だが、大きな素材が増えれば、すぐに選ぶ必要が出るだろう。
バンは鞄の口を閉じた。
その時、石橋の向こうから声が聞こえた。
「ヴォルティメリアがいるぞ!」
「どこだ!」
五人組の冒険者が、武器を構えて走ってくる。
彼らは魚竜がいたはずの場所と、流されていく灰、バンの鞄へ収められた鰭を見た。
「……倒したのか?」
「ああ」
「ヴォルティメリアを、一人で?」
「さっきの魚ならな」
先頭の女槍使いがバンを見る。
「水中から引き上げたのか?」
「ああ」
「どうやって」
「クレシューズで」
肩へ担いだ四節棍を示す。
「それで、あの巨体を?」
「ああ」
「……そうか」
理解したのではなく、理解することを諦めた声だった。
「下り道は、あっちで合ってんのか?」
バンが石橋の先を指す。
女槍使いは頷いた。
「橋を渡ったあと、右側の滝の裏だ。左は第二十五階層へ戻る」
「滝の裏?」
「水の向こうに洞穴がある。見逃すな」
「分かった」
「待て」
女槍使いが、バンの濡れた鞄を見る。
「水中へ落ちたのか?」
「ああ」
「食料は無事か?」
「少し湿った」
「先へ行くなら、第二十八階層で乾かした方がいい。あそこは安全階層だ」
「街はあんのか?」
「ない。広い草地と水場があるだけだ」
「飯作るには良さそうだな」
「……飯?」
「鍋持ってきたからな」
女槍使いはバンの鞄を見る。
「その大きさの荷物に、鍋まで入れているのか?」
「鉄板もあるぞ」
「防具も持たずに?」
「ああ」
「何を優先しているんだ」
「飯だろ」
答えに迷いはなかった。
冒険者たちは言葉を失う。
バンは彼らの横を通り、石橋へ向かった。
◇
第二十七階層へ続く洞穴は、本当に滝の裏へ隠れていた。
正面から見れば、ただの岩壁。
大量の水を突っ切り、奥へ入って初めて、下へ向かう通路が見える。
バンは頭上へ鞄を持ち上げ、滝を抜けた。
濡れていた服が、さらに重くなる。
「もう同じだな」
鞄だけは、なるべく水へ当てなかった。
通路を下りる。
第二十七階層には、これまで以上に大きな水の空間が広がっていた。
湖。巨大な滝壺。滝を挟んで伸びる岩棚。
天井には青い水晶が無数に光っている。
その中央に、周囲を水に囲まれた巨大な島のような足場があった。
広い。
リヴィラの酒場どころか、街の一部が入るほどだった。
中央の岩床には無数の亀裂、焼け焦げた跡、水流に削られた溝が残っている。
巨大な何かが、何度も暴れたような痕跡だ。
だが、そこには何もいなかった。
水面にも、島の上にも、大きな気配はない。
「また空か」
第十七階層にも、巨大な戦闘跡だけが残る空間があった。
ここも同じだった。
バンは島状の足場へ飛び移る。
足音が広い空間へ響いた。
何かが現れる様子はない。
島の反対側には、細い岩橋が上へ向かう道へ続いている。
「あっちか」
中央を横切る。
途中、水中から細長い蛇竜が三体現れた。
さらに青い蟹、魚人のような人型、水面近くを飛ぶ鳥人型の怪物。
複数種が島を囲むように姿を見せる。
「ここは数が多いな」
蛇竜が水面から跳び、魚人が石の槍を投げる。
鳥人型が上から爪を向け、青い蟹は岩橋を塞ぐように這い上がってきた。
バンはクレシューズを伸ばす。
飛んできた槍を一節で弾き、そのまま鳥人型の翼を打って島の中央へ落とす。
別の節が蛇竜の首へ巻きつき、水中から引き上げた。
青い蟹の鋏を短い柄で受け止める。
硬い甲羅の巨体が押し込んでくるが、バンは一歩も動かない。
「力は、この魚の奴より弱ぇな」
柄を返す。
青い蟹の身体が後ろへ転がった。
蛇竜も、魚人も、鳥人型も、青い蟹も、島の上とその周囲へ集まっている。
バンはクレシューズを大きく振るった。
「乱獲《クレイジーハント》」
四節の神器が、島の上へ大きな弧を描く。
水中、空中、岩床。
異なる場所にいるモンスターたちの体内から、魔石が一斉に奪い取られた。
蛇竜。魚人。鳥人。青い蟹。
黒紫色の石が、水飛沫とともにバンの周囲へ集まる。
怪物の身体が灰へ変わった。
水中の灰は流れへ消え、島の上の灰だけが残る。
「数は多くても、やることは同じだな」
魔石を拾う。
中には、ヴォルティメリアほどではないが大きな石も混じっていた。
灰の中には、鳥人型の羽、魚人の鱗、青い甲羅、蛇竜の牙が残っている。
全部は持てない。
バンは手に入れた物と、鞄の中身を比べた。
同じ青い甲羅。今拾った方は小さい。
残さない。
蛇竜の牙は、すでに一つ持っている。新しい方が長く、欠けていなかった。
古い方を取り出し、入れ替える。
鳥人の羽は初めて見る。
残す。
魚人の鱗も透明に近い色をしている。
これも残す。
「だんだん入らなくなってきたな」
鞄の紐を締める。
まだ閉じる。
だが、次に大きな魔石が増えれば、大樹の迷宮で集めた小さな魔石から置いていくことになるだろう。
バンは島の反対側へ進み、岩橋を渡って上へ続く坂へ入った。
水の轟音が少しずつ遠ざかる。
代わりに、草と土の匂いが強くなった。
「二十八が安全階層だったな」
通路の先には青い光と、広い緑の空間が見える。
第二十八階層。
水の迷都を抜けた先にある、人の街が存在しない安全階層。
バンは濡れた長衣と鞄を見る。
肩の小さな傷は、すでに塞がり始めていた。
だが、湿った保存食は放っておけば悪くなるかもしれない。
「まず乾かして、飯だな」
水棲モンスターの魔石と素材を詰めた鞄を担ぎ直す。
バンは、緑の光が差す第二十八階層へ足を踏み入れた。
第25階層から第27階層の水の迷都を進みました。水棲モンスターとの戦闘では優位を崩さず、足場や水流、濡らしたくない食料と酒、流されるドロップアイテムを探索上の問題として描いています。次の第28階層では、持ち込んだ鍋と鉄板を使った休息を挟み、第29階層から大型モンスターとの戦闘へ入ります。