強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第83話 水の迷都

 第二十四階層の森から、第二十五階層へ続く階段を下りる。

 

 一段進むごとに、水の音が大きくなっていった。

 

 最初は遠くで響いていた音が、やがて地面そのものを揺らす轟音へ変わる。

 

 湿った風が、階段の下から吹き上がってきた。

 

 冷たい。

 

 大樹の迷宮にも水はあったが、葉から落ちる雫や小さな流れとはまるで違う。

 

 大量の水が、絶え間なく動き続けている。

 

「結構な量だな」

 

 バンは鞄を一度下ろし、口を縛っている紐を確かめた。

 

 保存食、調味料、水袋、酒瓶、小鍋、鉄板、調理用のナイフ。そして、十九階層から集めた魔石と素材。

 

 鞄そのものは丈夫だが、完全に水を通さないわけではない。

 

 浅い水へ入る程度ならともかく、長く沈めれば、硬いパンも乾燥させた肉も無事では済まないだろう。

 

 特に、酒瓶を岩へぶつけるわけにはいかない。

 

 バンは瓶を鞄の外側から中央へ移し、周囲を布に包まれた保存食と予備の回収袋で囲んだ。

 

 鍋と鉄板は外側。重い魔石は底。濡れて困る物は中心近く。

 

「これでいいか」

 

 鞄を背負い直し、クレシューズを肩へ担ぐ。

 

 最後の段を下りた。

 

 

       ◇

 

 

 目の前に広がっていたのは、巨大な滝だった。

 

 天井近く、見上げても全体が分からないほど高い場所から、白い水が落ち続けている。

 

 滝壺から溢れた水は何本もの流れに分かれ、青い岩壁の間を走っていた。

 

 川。水路。浅瀬。底の見えない淵。

 

 それらを区切るように、細い岩場や石橋が伸びている。

 

 第十八階層の湖とも違う。

 

 ここでは、階層全体が水によって作られていた。

 

「これが水の迷都か」

 

 通路と呼べる場所はある。

 

 だが、乾いている部分の方が少ない。

 

 石床には薄く水が流れており、一歩踏み出せば靴の周囲へ水が跳ねた。

 

 足元は滑りやすい。落ちれば、どこへ流されるのか分からない。

 

 人の足跡も水に消され、残っていなかった。

 

 壁へ付いた傷も滝の飛沫に隠れ、見つけにくい。水の音が大きすぎて、遠くの戦闘音や話し声も聞き取りづらかった。

 

「また道探しが面倒そうだな」

 

 怪物より先に、地形を見た感想が出た。

 

 バンは滝壺から離れる方向へ歩き始めた。

 

 岩場の幅は、二人が並べる程度。

 

 右側には水路。左側には、底の見えない青い淵が広がっている。

 

 その淵の中で、何かが動いた。

 

 水面のすぐ下を、青い影が岩場と並ぶように進んでくる。

 

 丸い身体。硬そうな甲羅。左右へ伸びる太い鋏。

 

「蟹か?」

 

 水面が弾けた。

 

 人間の胴ほどもある青い蟹が岩場へ飛び上がり、八本の脚で石床へ着地する。

 

 片方の鋏を大きく開いた。

 

 狙っているのは、バンの足ではない。

 

 背中の鞄だ。

 

「そっちは駄目だ」

 

 鋏が閉じる直前、バンは身体を半歩横へ動かした。

 

 青い鋏が鞄の表面を掠める。

 

 避けなければ、バン自身に傷は付かなかったかもしれない。

 

 だが、中の酒瓶まで無事とは限らない。

 

 バンはクレシューズを伸ばした。

 

 先端の一節が蟹の鋏へ絡みつく。

 

「戻れ」

 

 軽く引く。

 

 巨大な蟹の身体が岩場から浮き上がり、そのまま背後へ投げ飛ばされた。

 

 青い甲羅が石床へ落ち、硬い音が響く。

 

 怪物はすぐに脚を動かし、身体を起こした。

 

 甲羅には傷がない。

 

「見た目通り硬ぇな」

 

 バンが片手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 甲羅の奥、身体の中心にあった魔石が抜けた。

 

 青い蟹は鋏を振り上げた姿勢のまま灰へ変わる。

 

 水辺へ積もった灰は、すぐに流れへ呑まれていった。

 

 魔石だけがバンの手元へ飛んでくる。

 

 大樹の迷宮で得た物より、一回り大きい。

 

 灰が流れ去ったあと、青い甲羅の一部が残っていた。

 

 手の平よりも大きく、水の流れに押されて岩場の端へ動いていく。

 

 バンは足で止め、拾い上げた。

 

「でけぇな」

 

 厚く、硬い。見た目も綺麗だった。

 

 ただ、鞄へ入れればかなりの場所を取る。

 

「まだ入るか」

 

 ひとまず大型素材用の袋へ収める。

 

 少し形を傾ければ、鞄の側面へ入った。

 

 蟹が現れた淵の奥から、別の青い影が二つ近づいてくる。

 

「まだいんのか」

 

 バンは今度は待たなかった。

 

 二体が水面から出る前に、水中の魔石へ意識を伸ばす。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 二つの魔石が水を突き破って飛び出した。

 

 水中で怪物の身体が灰へ変わる。

 

 灰は水へ溶けるように散り、すぐに見えなくなった。

 

 何か残ったとしても、淵の底へ沈んだらしい。

 

「水ん中だと、探すのが面倒だな」

 

 魔石を袋へ入れる。

 

 最初の一体から残った甲羅だけでも、運がよかったのだろう。

 

 バンは細い岩場を進んだ。

 

 

       ◇

 

 

 第二十五階層の道は、水路によって何度も分断されていた。

 

 浅い流れなら、そのまま歩いて渡る。

 

 足場になる岩があれば飛び移る。

 

 距離がある場所では、クレシューズを伸ばした。

 

 対岸の岩柱へ先端を巻きつけ、鞄が大きく揺れないように自分の身体を引き寄せる。

 

 四つの節は修復前と変わらず、バンの意識に従って曲がった。

 

 むしろ岩へ絡みついた時、節同士の重さが以前より均等に伝わってくる。引いた力が一か所へ偏らない。

 

 鞄を背負った身体が水路の上を滑るように渡り、対岸へ着地した。

 

「やっぱ、前より扱いやすくなってんな」

 

 大きな変化ではない。

 

 クレシューズが、別の神器になったわけでもなかった。

 

 ただ、手へ戻ってくる感覚が以前より滑らかだ。

 

 クレシューズを縮め、先へ進もうとした時、正面から複数の冒険者たちが走ってきた。

 

 七人。

 

 前衛の二人が大きな盾を持ち、後ろでは荷物を背負った小人族を槍使いが支えている。

 

「止まれ!」

 

 先頭の男が叫んだ。

 

 水の轟音に負けないよう、声を張り上げている。

 

「淵から離れろ!」

 

「何だ?」

 

「ブルー・クラブが出る!」

 

 バンは先ほど鞄へ入れた青い甲羅を見る。

 

「さっき倒したぞ」

 

「一体だけだと思うな!」

 

 男の声と同時に、右側の水面が盛り上がった。

 

 青い蟹。

 

 今度は五体。

 

 水中から岩場へ、次々と這い上がってくる。

 

 さらに冒険者たちの後方、細い水路からも三体が現れた。

 

「挟まれた!」

 

「前衛は両側を押さえろ!」

 

「サポーターを中央へ!」

 

 冒険者たちはすぐに陣形を組む。

 

 盾を前後へ向け、槍と剣を左右へ配置した。

 

 バンはその陣形の外にいた。

 

「そこの男、こっちへ入れ!」

 

「いらねぇぞ」

 

「一人で何を――」

 

 青い蟹たちが、左右から鋏を開いて迫る。

 

 バンはクレシューズを握り直し、四節の神器を横薙ぎに振るった。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 八体。

 

 クレシューズが描いた軌道に合わせるように、すべての甲羅の奥から魔石が一斉に奪い取られた。

 

 水中に半身を残していた個体。岩場へ上がった個体。盾へ鋏を振り下ろそうとしていた個体。

 

 黒紫色の石が、水飛沫を連れて宙を飛ぶ。

 

 怪物たちの身体が同時に灰へ変わった。

 

 岩場の上に残った灰は、流れる水によって運ばれていく。

 

 冒険者たちは、盾を構えたまま動かなかった。

 

「……ブルー・クラブってのか」

 

 バンが尋ねる。

 

 先頭の男は数秒遅れて頷いた。

 

「あ、ああ」

 

「甲羅は高ぇのか?」

 

「状態が良ければ、防具の素材になる」

 

「でけぇ方がいいか?」

 

「基本的にはな」

 

「なら拾った奴は残しとくか」

 

 バンは足元へ落ちた魔石を拾い始める。

 

「何をした?」

 

「魔石を取った」

 

「全部?」

 

「ああ」

 

「甲羅の上から?」

 

「ああ」

 

 後ろの冒険者が、バンの赤い長衣を見る。

 

「もしかして、リヴィラで噂になってた男か?」

 

「何の噂だ?」

 

「地図も持たず、一人で下りてきた赤い服の男」

 

「多分オレだな」

 

「多分じゃないだろ」

 

 先頭の男は盾を下ろした。

 

「この先へ行くのか?」

 

「ああ」

 

「第二十六階層へ向かうなら、滝の左側を回れ。右の水路は途中で行き止まりだ」

 

「水の中から行けねぇのか?」

 

「流れが強すぎる。奥へ進めても、下り口には出ない」

 

「そうか」

 

「それと」

 

 男がバンの鞄を指す。

 

「水面の近くへ立つ時は、荷物を狙われる。ブルー・クラブだけじゃない。アクア・サーペントは身体へ巻きついて、水中へ引き込む」

 

「蛇か?」

 

「長い水棲の蛇竜だ。水中では速い」

 

「覚えとく」

 

「泳げるのか?」

 

「ああ」

 

「鎧を着けていないだけマシだが、その荷物では沈むぞ」

 

「沈んでも泳げる」

 

「……そうか」

 

 男はそれ以上、何も言えなくなった。

 

 冒険者たちは第二十五階層側へ上がっていく。

 

 すれ違う時、負傷した小人族がバンへ頭を下げた。

 

「気をつけてください」

 

「ああ」

 

「本当にですよ」

 

「分かってる」

 

 彼らの姿が、水飛沫の向こうへ消えていく。

 

 バンは教えられた通り、巨大な滝の左側へ向かった。

 

 

       ◇

 

 

 第二十六階層へ下りると、水の量はさらに増えた。

 

 岩場より、水路の方が広い。

 

 通路の一部は完全に水へ沈んでおり、先へ進むには腰まで水へ入るか、壁際に残った細い足場を歩くしかない。

 

 バンは細い方を選んだ。

 

 水へ入ること自体は問題ない。

 

 だが、鞄の中身まで濡らす理由はなかった。

 

 足場の幅は片足分ほど。

 

 右肩は岩壁。左側には、暗い水面が広がっている。

 

 水音が反響し、どこから何が近づいているのか、耳だけでは分かりにくい。

 

 バンは水中へ意識を向けた。

 

 細長い気配が一体、足場と並ぶように深い場所から近づいてくる。

 

「さっき言ってた蛇か」

 

 水面が割れた。

 

 青緑色の長い身体。太い首。鰭のような突起。

 

 大きく開いた口には、内側へ曲がった牙が並んでいる。

 

 蛇竜はバンの上半身ではなく、足へ身体を巻きつけた。

 

 そのまま水中へ引きずり込もうとする。

 

 足場の石が砕け、バンの身体が鞄ごと淵へ落ちた。

 

 大きな水飛沫。

 

 冷たい水が全身を包む。

 

 蛇竜は身体へ巻きついたまま、水底へ向かって泳ぎ始めた。

 

 水中では、地上よりも動きが速い。

 

 長い尾で水を押し、岩場の下へバンを引き込もうとする。

 

 バンは片手で蛇竜の胴を掴んだ。

 

 締めつける力は、一般の冒険者なら鎧ごと骨を砕かれるほどだろう。

 

 だが、バンの身体には大した圧力ではない。

 

「泳ぐのは、オレも得意だぞ」

 

 水中で足を一度動かす。

 

 蛇竜が進んでいた方向とは逆へ、バンの身体が加速した。

 

 巻きついていた怪物の方が強引に引きずられる。

 

 蛇竜が身体をくねらせ、牙をバンの肩へ突き立てた。

 

 赤い長衣が裂け、牙の先が皮膚へ触れる。

 

 僅かな傷。

 

 細い血が水中へ流れた。

 

 バンは自分の肩ではなく、裂かれた服を見る。

 

「また服かよ」

 

 蛇竜の頭を掴み、そのまま水底の岩へ叩きつけた。

 

 轟音が、水の中へ鈍く広がる。

 

 岩盤に亀裂が入り、蛇竜の身体から巻きつく力が抜けた。

 

 それでも、まだ生きている。

 

 水中で再び牙を開いた。

 

「結構丈夫だな」

 

 バンが片手を向ける。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 長い胴の奥から魔石が抜け出す。

 

 蛇竜の身体は水中で灰へ変わり、濁った煙のように広がって流れへ消えていった。

 

 残った物が二つ。

 

 長く透明な鱗と、太い牙。

 

 どちらもゆっくりと水底へ沈んでいく。

 

 バンは魔石を掴み、さらに潜って沈む鱗へ手を伸ばした。

 

 牙も拾う。

 

 その間、鞄が岩へぶつかりそうになった。

 

 身体を捻り、背中ではなく肩で岩を受ける。

 

 酒瓶の割れる音はしない。

 

「無事だな」

 

 水面を見上げる。

 

 かなり深い場所まで引き込まれていた。

 

 それでも、息が苦しいとは感じない。

 

 バンは水底を蹴り、一気に上昇した。

 

 水面を突き破り、近くの岩場へ手を掛けて身体を引き上げる。

 

 大量の水が、赤い長衣と鞄から流れ落ちた。

 

「濡れたな」

 

 鞄を下ろし、すぐに口を開く。

 

 外側に入れていた回収袋はかなり濡れていた。

 

 鍋と鉄板は問題ない。

 

 魔石も、水で傷むようには見えなかった。

 

 中央の保存食、調味料、酒瓶。

 

 完全に乾いてはいないが、水が染み込む前に上がれたらしい。

 

 硬いパンの表面が、少し湿った程度だった。

 

「もう少し沈んでたら危なかったな」

 

 自分の傷ではない。

 

 食料の話だった。

 

 肩を見る。

 

 蛇竜の牙が触れた場所の細い傷は、すでに血が止まっている。

 

 放っておけば、そのうち消える。

 

 裂けた長衣だけが残った。

 

「服の方が治んの遅ぇんだよな」

 

 以前、旅の途中で何度も直した赤い長衣。

 

 アンタレスとの戦い。ヘルハウンドの炎。今回の牙。

 

 バン自身に合わせるには、普通の布では足りない。

 

「丈夫な布でもあればいいんだけどな」

 

 鞄を閉じる。

 

 先ほど拾った透明な鱗と牙を見る。

 

 鱗は水に濡れると、青緑色へ輝いていた。

 

 薄いが、簡単には曲がらない。

 

「これは残すか」

 

 青い蟹の甲羅より場所を取らない。

 

 鱗と牙を袋へ入れ、濡れた長衣の裾を絞って立ち上がった。

 

 

       ◇

 

 

 第二十六階層は、進む方向を見失いやすかった。

 

 大量の水が上から下へ流れている。

 

 ならば流れに沿えば、次の階層へ着く。

 

 最初はそう考えた。

 

 だが、水路は途中で二つに分かれ、別の滝へ落ち、地下の淵へ潜り、再び上から流れ出してくる。

 

 水の向きだけを頼りに進んだ結果、同じ大瀑布の反対側へ戻ってきた。

 

「ここ、さっき見たな」

 

 滝の横に立つ青い岩柱。

 

 その根元には、バンが倒した怪物の灰が僅かに残っている。

 

 水でほとんど消えているが、近くには拾わなかった割れた甲殻も落ちていた。

 

 同じ場所だ。

 

「水を追うだけじゃ駄目か」

 

 人の足跡はない。

 

 落とした目印も流される可能性がある。壁へ傷を付けても、飛沫に隠れて見えづらい。

 

 バンは岩壁の高さを見る。

 

 上へ細い亀裂が続いていた。

 

 クレシューズを伸ばし、先端を高い岩棚へ巻きつける。

 

 身体を引き上げ、上から水路全体を見渡した。

 

 複数の流れ。滝。岩場。

 

 遠くには、下側へ伸びている人工的な石橋が見える。冒険者が歩くため、人の手で補修されたような跡もあった。

 

「あっちか」

 

 岩棚から飛び降りる。

 

 落下の途中、下の水面が大きく盛り上がった。

 

 巨大な影。

 

 青黒い背。

 

 魚にも海獣にも見える。

 

 大きな口は、バンの身体だけでなく、背中の鞄ごと呑み込めるほどだった。

 

「それは困るな」

 

 空中でクレシューズを伸ばし、先端を怪物の上顎へ巻きつけた。

 

 閉じかけた口を強引に引き上げる。

 

 巨大な魚竜の頭が水面から持ち上がった。

 

 そのままバンは身体を捻る。

 

 自分より遥かに大きな怪物が水中から引きずり出され、巨体が岩場の上へ落ちた。

 

 石橋が揺れ、水飛沫が周囲へ散る。

 

 魚竜は尾を振り回した。

 

 太い尾がバンの胴を横から打ち、赤い長衣の身体が隣の岩壁まで飛ぶ。

 

 背中から岩へぶつかる直前、バンは鞄を庇うように身体を捻った。

 

 肩から岩壁へ衝突し、岩が大きく砕ける。

 

 魚竜は陸へ上げられても動きを止めなかった。

 

 巨体を跳ねさせ、再び大口を開く。

 

 バンは砕けた岩の中から立ち上がり、肩を軽く回した。

 

「さっきの蛇より重ぇな」

 

 怪物の強さに焦った様子はない。

 

 魚竜が飛びかかる。

 

 バンはクレシューズを短く持ち、開いた下顎へ振り上げた。

 

 鈍い衝撃音。

 

 魚竜の巨大な頭が真上へ跳ね上がり、巨体が一度岩場へ落ちる。

 

 まだ動く。

 

 尾を使い、水へ戻ろうとしていた。

 

「逃げんのか?」

 

 バンが片手を伸ばす。

 

「獲物狩り《フォックスハント》」

 

 魚竜の腹の奥から、大きな魔石が抜けた。

 

 これまで手に入れた物より明らかに大きい。

 

 両手で持つ必要はないが、片手を広げるほどの大きさがある。

 

 魚竜の身体が岩場の上で灰へ変わり、流れる水へ押し流されていく。

 

 残ったのは、厚い鰭の一部、鋸のような歯、そして大きな魔石。

 

「こいつは良さそうだな」

 

 魔石を大型用の袋へ入れる。

 

 鰭と歯も拾った。

 

 ただし鰭は長く、かなり場所を取る。

 

 バンは鞄の中を見た。

 

 青い蟹の甲羅。大樹の迷宮で拾った羽。重複している爪。小さな魔石。

 

「少し入れ替えるか」

 

 まず状態の悪い羽を一枚取り出す。

 

 小さな爪も二つ。

 

 同じ種類の素材で、より大きく綺麗な物が残っている。

 

 それらを岩場の端へ置き、できた空間へ魚竜の鰭を折らないように収めた。

 

 まだ、小型魔石を捨てるほどではない。

 

 だが、大きな素材が増えれば、すぐに選ぶ必要が出るだろう。

 

 バンは鞄の口を閉じた。

 

 その時、石橋の向こうから声が聞こえた。

 

「ヴォルティメリアがいるぞ!」

 

「どこだ!」

 

 五人組の冒険者が、武器を構えて走ってくる。

 

 彼らは魚竜がいたはずの場所と、流されていく灰、バンの鞄へ収められた鰭を見た。

 

「……倒したのか?」

 

「ああ」

 

「ヴォルティメリアを、一人で?」

 

「さっきの魚ならな」

 

 先頭の女槍使いがバンを見る。

 

「水中から引き上げたのか?」

 

「ああ」

 

「どうやって」

 

「クレシューズで」

 

 肩へ担いだ四節棍を示す。

 

「それで、あの巨体を?」

 

「ああ」

 

「……そうか」

 

 理解したのではなく、理解することを諦めた声だった。

 

「下り道は、あっちで合ってんのか?」

 

 バンが石橋の先を指す。

 

 女槍使いは頷いた。

 

「橋を渡ったあと、右側の滝の裏だ。左は第二十五階層へ戻る」

 

「滝の裏?」

 

「水の向こうに洞穴がある。見逃すな」

 

「分かった」

 

「待て」

 

 女槍使いが、バンの濡れた鞄を見る。

 

「水中へ落ちたのか?」

 

「ああ」

 

「食料は無事か?」

 

「少し湿った」

 

「先へ行くなら、第二十八階層で乾かした方がいい。あそこは安全階層だ」

 

「街はあんのか?」

 

「ない。広い草地と水場があるだけだ」

 

「飯作るには良さそうだな」

 

「……飯?」

 

「鍋持ってきたからな」

 

 女槍使いはバンの鞄を見る。

 

「その大きさの荷物に、鍋まで入れているのか?」

 

「鉄板もあるぞ」

 

「防具も持たずに?」

 

「ああ」

 

「何を優先しているんだ」

 

「飯だろ」

 

 答えに迷いはなかった。

 

 冒険者たちは言葉を失う。

 

 バンは彼らの横を通り、石橋へ向かった。

 

 

       ◇

 

 

 第二十七階層へ続く洞穴は、本当に滝の裏へ隠れていた。

 

 正面から見れば、ただの岩壁。

 

 大量の水を突っ切り、奥へ入って初めて、下へ向かう通路が見える。

 

 バンは頭上へ鞄を持ち上げ、滝を抜けた。

 

 濡れていた服が、さらに重くなる。

 

「もう同じだな」

 

 鞄だけは、なるべく水へ当てなかった。

 

 通路を下りる。

 

 第二十七階層には、これまで以上に大きな水の空間が広がっていた。

 

 湖。巨大な滝壺。滝を挟んで伸びる岩棚。

 

 天井には青い水晶が無数に光っている。

 

 その中央に、周囲を水に囲まれた巨大な島のような足場があった。

 

 広い。

 

 リヴィラの酒場どころか、街の一部が入るほどだった。

 

 中央の岩床には無数の亀裂、焼け焦げた跡、水流に削られた溝が残っている。

 

 巨大な何かが、何度も暴れたような痕跡だ。

 

 だが、そこには何もいなかった。

 

 水面にも、島の上にも、大きな気配はない。

 

「また空か」

 

 第十七階層にも、巨大な戦闘跡だけが残る空間があった。

 

 ここも同じだった。

 

 バンは島状の足場へ飛び移る。

 

 足音が広い空間へ響いた。

 

 何かが現れる様子はない。

 

 島の反対側には、細い岩橋が上へ向かう道へ続いている。

 

「あっちか」

 

 中央を横切る。

 

 途中、水中から細長い蛇竜が三体現れた。

 

 さらに青い蟹、魚人のような人型、水面近くを飛ぶ鳥人型の怪物。

 

 複数種が島を囲むように姿を見せる。

 

「ここは数が多いな」

 

 蛇竜が水面から跳び、魚人が石の槍を投げる。

 

 鳥人型が上から爪を向け、青い蟹は岩橋を塞ぐように這い上がってきた。

 

 バンはクレシューズを伸ばす。

 

 飛んできた槍を一節で弾き、そのまま鳥人型の翼を打って島の中央へ落とす。

 

 別の節が蛇竜の首へ巻きつき、水中から引き上げた。

 

 青い蟹の鋏を短い柄で受け止める。

 

 硬い甲羅の巨体が押し込んでくるが、バンは一歩も動かない。

 

「力は、この魚の奴より弱ぇな」

 

 柄を返す。

 

 青い蟹の身体が後ろへ転がった。

 

 蛇竜も、魚人も、鳥人型も、青い蟹も、島の上とその周囲へ集まっている。

 

 バンはクレシューズを大きく振るった。

 

「乱獲《クレイジーハント》」

 

 四節の神器が、島の上へ大きな弧を描く。

 

 水中、空中、岩床。

 

 異なる場所にいるモンスターたちの体内から、魔石が一斉に奪い取られた。

 

 蛇竜。魚人。鳥人。青い蟹。

 

 黒紫色の石が、水飛沫とともにバンの周囲へ集まる。

 

 怪物の身体が灰へ変わった。

 

 水中の灰は流れへ消え、島の上の灰だけが残る。

 

「数は多くても、やることは同じだな」

 

 魔石を拾う。

 

 中には、ヴォルティメリアほどではないが大きな石も混じっていた。

 

 灰の中には、鳥人型の羽、魚人の鱗、青い甲羅、蛇竜の牙が残っている。

 

 全部は持てない。

 

 バンは手に入れた物と、鞄の中身を比べた。

 

 同じ青い甲羅。今拾った方は小さい。

 

 残さない。

 

 蛇竜の牙は、すでに一つ持っている。新しい方が長く、欠けていなかった。

 

 古い方を取り出し、入れ替える。

 

 鳥人の羽は初めて見る。

 

 残す。

 

 魚人の鱗も透明に近い色をしている。

 

 これも残す。

 

「だんだん入らなくなってきたな」

 

 鞄の紐を締める。

 

 まだ閉じる。

 

 だが、次に大きな魔石が増えれば、大樹の迷宮で集めた小さな魔石から置いていくことになるだろう。

 

 バンは島の反対側へ進み、岩橋を渡って上へ続く坂へ入った。

 

 水の轟音が少しずつ遠ざかる。

 

 代わりに、草と土の匂いが強くなった。

 

「二十八が安全階層だったな」

 

 通路の先には青い光と、広い緑の空間が見える。

 

 第二十八階層。

 

 水の迷都を抜けた先にある、人の街が存在しない安全階層。

 

 バンは濡れた長衣と鞄を見る。

 

 肩の小さな傷は、すでに塞がり始めていた。

 

 だが、湿った保存食は放っておけば悪くなるかもしれない。

 

「まず乾かして、飯だな」

 

 水棲モンスターの魔石と素材を詰めた鞄を担ぎ直す。

 

 バンは、緑の光が差す第二十八階層へ足を踏み入れた。




第25階層から第27階層の水の迷都を進みました。水棲モンスターとの戦闘では優位を崩さず、足場や水流、濡らしたくない食料と酒、流されるドロップアイテムを探索上の問題として描いています。次の第28階層では、持ち込んだ鍋と鉄板を使った休息を挟み、第29階層から大型モンスターとの戦闘へ入ります。
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