黒い砂漠の奥で、ついに黒獣ベヒーモス本体と対峙します。
今回は討伐ではなく、初接触と格の提示が中心です。
黒い砂漠の奥で、山が動いていた。
最初、バンはそれを影だと思った。
黒い砂嵐の向こうで、地平線の一部が盛り上がっているだけに見えた。
だが、違った。
影は呼吸していた。
影は歩いていた。
影は、大地を踏み潰していた。
一歩。
遠くで、黒い巨体が足を下ろす。
その瞬間、砂漠が沈んだ。
音は遅れて届いた。
空気を押し潰すような低い轟音。耳ではなく、腹の底に響く音。大地そのものが呻く音だった。
黒い砂が波のように持ち上がり、バンの足元まで広がってくる。
砂が靴にぶつかり、ロングコートの裾を叩いた。
バンは呟いた。
「……でけぇな」
目の前にいるのは、獣だった。
だが、獣という言葉では足りない。
巨大な胴体は、黒い岩山のようだった。
背中は隆起し、所々に骨とも外殻ともつかない硬質な突起が並んでいる。脚は太く、一本一本が塔のように地面へ突き刺さっていた。首は短く、頭部は大地を睨みつけるように低く構えられている。
そして、二本の角。
天を突くような黒い角が、頭部から伸びていた。
角の根元には、古い血のような赤黒い筋が走っている。角そのものが、この砂漠の毒を吸って成長したようだった。
ベヒーモス。
その名が、バンの中で形を持つ。
陸の王者。
黒獣。
歩くだけで大地を殺すもの。
ベヒーモスが息を吐いた。
ただの呼吸だった。
それだけで、前方の黒い砂が舞い上がり、風となって吹き荒れた。
バンは片腕で顔を庇った。
頬の傷がひりつく。口の中に苦い砂が入り、舌に嫌な味が広がる。
「口に入ると最悪だな、これ」
軽口を叩きながらも、バンの目は細くなっていた。
あれは、今までの魔物とは違う。
マッドサーペントのように川から引きずり出せる大きさではない。
サンドスキッパーのように棍で絡めて投げられる重さでもない。
あれは、地形だ。
災害だ。
そのまま歩いてくる黒い山だ。
バンはクレシューズを肩から下ろした。
「酒の道塞ぐには、ちょっと場所取りすぎだろ」
ベヒーモスの頭が、ゆっくりと動いた。
巨眼が開く。
黒い。
ただ黒いだけではない。奥に赤黒い光が沈んでいる。炎ではなく、腐った大地の熱のような光。
その眼が、バンを捉えた。
それだけで、周囲の空気が重くなる。
獣が人間を見た、というより。
山が小石を認識した、という方が近かった。
バンは笑った。
「見えてんじゃねぇか」
次の瞬間、ベヒーモスが動いた。
速い、という言葉は似合わない。
あれほどの巨体が、一歩を踏み出すだけで距離が消える。
前脚が持ち上がる。
黒い影が空を覆う。
バンは横へ跳んだ。
直後、前脚が地面を叩き潰した。
轟音。
黒い砂が爆発した。
地面が割れ、岩が砕け、砂の柱がいくつも立ち上がる。衝撃波が横へ走り、バンの身体を吹き飛ばした。
「ぐっ……!」
空中で体勢を崩す。
クレシューズを地面へ伸ばし、しならせ、無理やり軌道を変える。
それでも勢いは殺しきれない。
バンは黒い砂の上を転がり、背中から岩に叩きつけられた。
岩が割れる。
肺から息が抜けた。
肋骨が軋む。
口の中に鉄の味が広がる。
バンは数秒、動かなかった。
黒い砂が、倒れた身体へまとわりつく。
傷口から入り込もうとするように、赤い血へ群がる。
遠くの岩陰で、ディオスが息を呑んだ。
「直撃じゃねぇのに、あれかよ……」
彼の手には遠眼鏡がある。
だが、手が少し震えていた。
イリスの魔石灯は、さらに弱くなっていた。
灯りが風に吹かれる蝋燭のように揺れている。
「衝撃波だけで、岩が砕けました」
「見りゃ分かる」
「あの距離で、あの威力です。正面から受ければ、上級冒険者でも」
「潰れるな」
ディオスは言い切った。
ベヒーモスはまだ本気ではない。
ただ足を下ろしただけだ。
それなのに、地形が変わった。
黒獣は、戦闘をしているのではない。
存在しているだけで、周囲を壊している。
イリスはバンが叩きつけられた岩を見つめる。
「赤い旅人は」
「……動かねぇ」
ディオスの声が低くなる。
黒い砂が舞う。
ベヒーモスが、ゆっくりと頭を下げる。
小石を踏んだかどうか確認するような動きだった。
その時。
岩陰で、赤い布が揺れた。
バンの指が動いた。
次に、肩。
肘。
膝。
黒い砂の中から、バンが上体を起こした。
「っ……は」
息を吐く。
喉の奥が焼ける。
血の混じった唾を吐き捨てる。
「いってぇな」
バンはそう言って、笑った。
ゆっくり立ち上がる。
ロングコートは黒い砂に汚れ、頬には血が流れ、口元にも赤い筋がある。肋骨の辺りが痛む。肩も少しおかしい。
だが、立っている。
ディオスが遠眼鏡を下ろした。
「立ったぞ」
イリスが小さく息を呑む。
「ありえません」
「俺もそう思う」
「神の恩恵なしで、今の衝撃波を受けて立つなど」
「報告書に何て書く?」
ディオスは乾いた笑いを漏らした。
「“踏まれてないのに吹き飛ばされ、岩を割って、それでも文句を言いながら立った”か?」
「事実です」
「嫌な事実だな」
バンはクレシューズを拾い、肩を回した。
「ただの一歩でこれかよ。面白ぇじゃねぇか」
ベヒーモスが、また息を吐いた。
黒い風がバンへ向かって押し寄せる。
風というより、毒を含んだ砂の壁だった。
バンはクレシューズを構える。
四節の棍がしなり、円を描くように回転した。
迫る黒砂を、真正面から叩く。
散る。
だが、完全には防げない。
砂が腕を切り、頬を掠め、目元を焼く。
「細けぇ砂が、うぜぇな」
バンは踏み込んだ。
黒い砂漠を駆ける。
足が沈む。毒気が肺を削る。だが、動きを止めない。
ベヒーモスとの距離は遠い。近づいているはずなのに、まるで山へ向かって走っているようで、なかなか縮まらない。
ベヒーモスは前脚を引いた。
今度は薙ぎ払い。
巨大な脚が、地表ごと横へ払われる。
「おっと」
バンは跳んだ。
だが、脚そのものを避けても、衝撃は避けきれない。
地面ごと捲れ上がった黒い砂と岩が、波のように押し寄せる。
バンはクレシューズを伸ばし、近くの岩へ絡めた。
身体を引き寄せ、砂の波をぎりぎりで避ける。
背後で砂丘が崩れた。
「ははっ、雑だな」
笑う。
その笑い声が、ベヒーモスの耳に届いたのか。
黒獣の首が動いた。
低い唸りが響く。
それは怒りではない。
まだ、怒りではない。
虫が耳元を飛んだ時に、獣が不快そうに息を鳴らす程度の反応だった。
バンはそれを感じ取り、口元を歪めた。
「まだ虫扱いかよ」
ベヒーモスの足元へ、ようやく近づく。
巨木のような脚。
黒い外殻と分厚い皮膚。
表面には、黒い砂と毒の膜がこびりついている。近づくだけで鼻の奥が焼けるようだった。
バンはクレシューズを振るった。
しなる棍が、ベヒーモスの前脚へ叩き込まれる。
鈍い音。
手応えはあった。
だが、浅い。
まるで山肌を殴ったような感触だった。
皮膚の表面を砕き、黒い砂を散らしただけ。肉まで届いているかどうかも怪しい。
バンの腕にしびれが走る。
「硬ぇな」
もう一撃。
今度は同じ場所へ叩き込む。
外殻の一部が割れ、赤黒い液体がにじんだ。
血、なのかもしれない。だが、普通の血ではない。地面に落ちた瞬間、砂が黒く泡立った。
「うわ、まずそう」
バンが顔をしかめた。
その瞬間、ベヒーモスの脚が動いた。
蹴り、というには大雑把だった。
ただ、足の位置を変えただけ。
それだけで、バンの目の前に壁が迫る。
「ちっ」
クレシューズを交差させて受ける。
衝撃。
腕が軋んだ。
肩が外れかける。
足元の砂が爆ぜ、バンの身体が後方へ吹き飛ばされた。
今度は空中で回転し、クレシューズを地面へ突き立てる。
棍がしなり、勢いを殺す。
それでも数十歩分の距離を削られ、黒い砂を巻き上げながら止まった。
バンは片膝をついた。
すぐ立つ。
「重てぇな。肉もなさそうなのによ」
遠くのディオスが、額を押さえた。
「今、肉の話したか?」
「しました」
「ベヒーモス相手に?」
「しました」
「もう嫌だ、この報告」
イリスは真面目に記録していたが、筆先が少し迷っていた。
ベヒーモスの巨体が、バンの方へ向き直る。
それは初めて、明確な反応だった。
今までのベヒーモスは、進路上の石を踏み潰すように動いていた。
だが今、黒獣は足を止めた。
赤い旅人を見ている。
小さな傷。
前脚に刻まれた、わずかな亀裂。
普通なら意味のない傷。
だが、傷は傷だった。
災厄の表面に、確かに赤い男の一撃が届いた。
ベヒーモスの喉が鳴る。
低く、深く、長い音。
黒い砂漠全体がそれに応えるように震えた。
バンは口元の血を拭った。
「お、ようやくこっち見たか」
ベヒーモスが前脚を踏みしめる。
黒い砂が周囲から集まっていく。
足元の死んだ砂漠が、獣の意志に従うように盛り上がった。
イリスが目を見開く。
「砂が……」
ディオスが呻く。
「大地ごと動かしてやがる」
ベヒーモスが咆哮した。
音が、来た。
ただの鳴き声ではない。
空気を潰し、砂を砕き、岩を震わせる暴力そのものだった。
バンはクレシューズを地面へ突き立て、身体を低くした。
それでも吹き飛ばされる。
耳の奥が痛む。
視界が歪む。
全身の骨が震える。
咆哮が過ぎた後、周囲の岩は砕け、黒い砂丘は形を変えていた。
バンは片手で耳を押さえた。
「うるせぇな。酒場でやったら出禁だぞ」
自分でも、声が少し掠れているのが分かった。
ベヒーモスの足元で、黒い砂が槍のように盛り上がった。
一本。
二本。
三本。
砂と岩が混ざった黒い突起が、地面から突き出す。
それらが、バンへ向かって走った。
「そういうのもできんのかよ」
バンは横へ跳び、一本目を避ける。
二本目をクレシューズで叩き折る。
三本目が脇腹を掠め、ロングコートを裂いた。
熱い痛み。
血が流れる。
そこへ黒い砂がまとわりつく。
バンは顔をしかめ、傷口を手で払った。
「染みるっつってんだろ」
ベヒーモスが再び動く。
今度は突進ではない。
ただ、体を前へ押し出す。
だが、それだけで黒い山が迫る。
バンは地面を蹴った。
クレシューズを伸ばし、ベヒーモスの角の根元へ向ける。
届くか。
届かない。
巨体が動いた瞬間、風圧で身体が弾かれる。
バンは空中で体勢を崩し、ベヒーモスの肩口へ叩きつけられた。
硬い。
岩壁にぶつかったような衝撃。
そのまま弾かれ、地面へ落ちる。
ベヒーモスの影が覆いかぶさる。
前脚が持ち上がった。
今度は直撃する。
ディオスが叫びかけた。
「まずい!」
イリスの顔から血の気が引く。
バンは地面に片手をつき、迫る脚を見上げた。
巨大な足裏。
黒い外殻。
付着した毒砂。
落ちれば、身体ごと地面に埋まる。
バンは笑った。
「ちょいと借りるぜ」
強奪《スナッチ》。
狙ったのは、力そのものではない。
全部を奪えるはずがない。ベヒーモスの脚力を丸ごと奪えば、バンの身体の方が壊れる。
だから、一瞬だけ。
ほんの一部だけ。
落ちてくる脚の勢い。
地面を潰す重さの流れ。
その端を、指先で引っかけるように奪う。
バンの全身に負荷が走った。
筋肉が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
血管が浮き、口から血が漏れる。
「っ……重っ」
だが、その一瞬でいい。
ベヒーモスの前脚の落下が、わずかに鈍った。
ほんのわずか。
普通なら意味のない遅れ。
だが、バンには十分だった。
クレシューズを地面へ突き立て、しならせる。
身体を横へ飛ばす。
直後、前脚が地面を叩き潰した。
黒い砂が爆発する。
衝撃波がバンを横から襲い、また吹き飛ばす。
今度は受け身が間に合わなかった。
バンは砂の上を跳ね、岩に背中を打ちつけ、さらに転がった。
クレシューズが手から離れかける。
だが、握りは緩めない。
ようやく止まった時、バンはしばらく動かなかった。
黒い砂が降る。
視界が赤黒くにじむ。
胸の奥が痛い。
右腕がしびれている。
それでも、指は動く。
クレシューズを握る。
バンは、ゆっくりと笑った。
「……さすがに、重てぇな」
立ち上がる。
今度は少し遅かった。
膝が一度揺れた。
だが、立った。
遠くで、ディオスが乾いた声を漏らす。
「また立った」
イリスは言葉を失っていた。
神の恩恵なし。
ステイタスなし。
ファミリアなし。
それでも、黒獣の前で立っている。
ベヒーモスが、完全にバンを見た。
もう小石ではない。
もう虫ではない。
まだ脅威と呼ぶには小さい。
だが、無視していいものではなくなった。
黒獣の眼に、赤い旅人が映る。
バンは血を吐き捨てた。
「陸の王者ねぇ」
息を吸う。
喉が焼ける。
肺が軋む。
それでも、笑う。
「王様なら、酒の道くらい空けろよ」
ベヒーモスが低く唸った。
黒い砂漠が震える。
その日、黒獣は初めて、赤い旅人を敵として見た。
第9話は、ベヒーモス本体との初接触回でした。
討伐ではなく、陸の王者としての格と、バンが初撃で吹き飛ばされても立ち上がる異常性を描いています。
次回、第10話「喰えない男」では、ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》と、神の恩恵を持たないバンの相性が本格的に見えてきます。