強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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修正版の第7話です。
赤い旅人の続きになります。


第7話 黒い砂漠の入口

砂漠船は、風に乗って進んでいた。

 

帆が乾いた音を立てる。

船底が砂を滑り、細かな粒が左右へ流れていく。

見渡す限り、砂と空だけの世界だった。

 

だが、その砂の色は少しずつ変わっていた。

 

リオードを出たばかりの頃は、白っぽい砂だった。

陽の光を強く弾き、目を細めなければ見ていられないほど明るい砂。

 

そこから少し進むと、砂は黄色みを帯びた。

さらに進むと、赤茶けた岩が混じり始めた。

 

そして今、遠くに見えている砂は黒かった。

 

燃えかすのような黒ではない。

夜を細かく砕いて撒いたような、深い黒。

砂丘の波がそこだけ暗く沈み、陽を浴びてもほとんど光を返さない。

 

バンは船の縁に座り、黒い砂の帯を眺めていた。

 

腰には聖棍クレシューズ。

手元には水袋。

足元には、昨日焼いたサンドホーンの硬い肉の残り。

 

噛むと顎が疲れるが、塩気と香辛料が強く、砂漠では悪くない保存食になっている。

 

バンは肉をかじりながら、目を細めた。

 

「……色だけじゃねぇな」

 

ジャミルが舵を取りながら振り返る。

 

「何がだ」

 

「あの黒い砂」

 

バンは顎で遠くを示した。

 

「重い」

 

ジャミルの顔から、いつもの軽口めいた笑みが消えた。

 

「そう感じるか」

 

「お前らも分かるのか?」

 

「砂漠で長く生きていればな」

 

ジャミルは帆の角度を少し変える。

 

船は黒い砂の帯へ真っ直ぐ向かわず、斜めに逸れるように進路を取った。

 

「あそこは黒砂の縁だ。さらに奥は、黒い砂漠と呼ばれている」

 

「そのまんまだな」

 

「名前は分かりやすい方がいい」

 

「それはそうだ」

 

サイモンが荷物の固定を確認しながら、会話に入る。

 

「黒い砂漠の奥には、古い戦場があるとか、魔物の巣があるとか、神代の呪いが残っているとか、色々言われてる」

 

「どれが本当なんだ」

 

「さあな。商人は近づかない。近づかない場所の噂は、だいたい大げさになる」

 

ジャミルは短く言った。

 

「だが、危険なのは本当だ」

 

「魔物が出るのか?」

 

「出る。普通の砂漠魔物とは違う。腹が減って襲うだけの獣じゃない。黒砂の奥にいるものは、何かに追われているように暴れる。あるいは、何かに従っているように動く」

 

「何かってのは?」

 

「知らん。知っている者は、戻らない」

 

船の上に、少しだけ重い沈黙が落ちた。

 

バンは黒い砂を見た。

 

確かに、そこには妙な気配がある。

 

ただの魔物の縄張りではない。

 

地面そのものの奥から、重たい息が漏れているような感覚。

 

村や旅人から聞いたダンジョンの魔物とも違う。

 

だが、完全に知らないものでもない。

 

バンは煉獄を思い出した。

 

まともな命がまともに生きられない場所。

生き物の常識が、最初からひっくり返っているような環境。

空気も、土も、水も、すべてがこちらを殺しにくる場所。

 

黒い砂漠には、それに似た嫌な圧があった。

 

もちろん、煉獄そのものとは違う。

あそこほど滅茶苦茶ではない。

 

だが、普通の人間が近づけば、体より先に心が削られる。

 

そんな気配がする。

 

「面倒そうな場所だな」

 

バンが言うと、ジャミルは頷いた。

 

「面倒で済むならいい方だ」

 

「飯は?」

 

「ない」

 

「酒は?」

 

「ない」

 

「じゃあ用はねぇな」

 

サイモンが苦笑した。

 

「本当にそれで判断するのか」

 

「飯も酒もねぇ場所に好き好んで行く奴は、よっぽど暇か馬鹿だろ」

 

ジャミルは少しだけ笑った。

 

「砂漠の民としては賢い答えだ」

 

だが、バンの目は黒い砂から離れていなかった。

 

行く理由はない。

 

少なくとも今は。

 

だが、あの奥に何かがある。

 

ただの魔物ではない。

ただの危険地帯でもない。

 

何か、世界に深く食い込んだもの。

 

バンの指先が、わずかに疼いた。

 

盗ろうとしたわけでもないのに、《強奪》の感覚が反応する。

 

触れれば重い。

深く掴めば、こちらが引きずり込まれる。

 

そんな予感。

 

「今は、な」

 

バンが小さく呟く。

 

サイモンが聞き返した。

 

「何か言ったか?」

 

「何でもねぇ」

 

砂漠船は黒砂の縁を避けて進んだ。

 

だが、完全に離れられるわけではなかった。

 

風向きが変わった。

 

西から吹いていた風が弱まり、南から乾いた熱風が流れ込んでくる。

帆が鳴り、船体がわずかに横へ押された。

 

ジャミルが舌打ちする。

 

「嫌な風だ」

 

「砂嵐か?」

 

サイモンが不安そうに聞く。

 

「まだ分からん。だが、黒砂の方から来ている」

 

その言葉を聞いた直後、バンは立ち上がった。

 

砂の下。

 

何かがいる。

 

小さい。

 

数が多い。

 

船を追っているわけではない。

黒砂の方から、押し出されるように逃げてきている。

 

バンはクレシューズに手をかけた。

 

「来るぞ」

 

ジャミルが短く叫ぶ。

 

「帆を絞れ!」

 

サイモンたちが慌てて動く。

 

次の瞬間、砂が弾けた。

 

出てきたのは、細長い虫のような魔物だった。

 

腕ほどの太さ。

長さは一メートルほど。

身体は節だらけで、黒い砂をまとっている。

頭には丸い口があり、中には細かな歯が輪のように並んでいた。

 

一匹ではない。

 

五匹、十匹、二十匹。

 

砂の中から次々に湧き出す。

 

「ブラックサンドワームだ!」

 

ジャミルが叫ぶ。

 

「噛まれるな!肉を削られるぞ!」

 

「食えるか!?」

 

「食わん!」

 

「じゃあ邪魔だな」

 

バンは船の縁を蹴った。

 

砂へ降りる。

 

足が沈む。

 

黒砂の縁に近いせいか、普通の砂より重い。

 

足を取られる感覚がある。

 

ワームが一斉にバンへ向いた。

 

生き物の肉に反応したのか、それとも動くものに反応したのか。

 

数匹が跳ねた。

 

バンはクレシューズを横へ振る。

 

節が伸び、空気を切った。

 

ワームの身体がまとめて弾け飛ぶ。

 

だが、感触が妙だった。

 

軽いはずの小型魔物なのに、打った瞬間に嫌な重さが手首へ返る。

 

黒砂をまとった身体が、力を吸うように鈍い。

 

「気持ち悪ぃな」

 

バンは眉をひそめる。

 

別のワームが足元から飛び出した。

 

バンは足を上げ、踏み潰そうとする。

 

だが、砂が崩れた。

 

踏んだ力が逃げる。

 

ワームの口が、バンの足首へ迫った。

 

「強奪《スナッチ》」

 

跳ねる勢いを盗る。

 

そうしようとした。

 

だが、指先に引っかかったのは、ワームそのものの力だけではなかった。

 

黒い砂。

 

その奥にある重い気配。

 

ワームの身体にまとわりついている、薄い不快な流れ。

 

バンは即座に手を引いた。

 

「……っ」

 

奪うのをやめる。

 

代わりに、クレシューズの節でワームを叩き落とした。

 

ワームは砂の上で痙攣し、動かなくなる。

 

バンの右手に、わずかな痺れが残った。

 

サンドホーンやマッドサーペントとは違う。

 

こいつらは、ただの地上魔物ではない。

 

黒砂の何かに触れている。

 

深く盗るのは危ない。

 

バンは口元を歪めた。

 

「面倒くせぇのが出てきたな」

 

船の方では、ジャミルとサイモンたちが槍や棒でワームを追い払っている。

 

だが、数が多い。

 

一匹一匹は弱い。

しかし、船底や荷袋に取りつけば、穴を開けられる。

 

水袋をやられれば終わりだ。

 

「水を守れ!」

 

ジャミルが叫ぶ。

 

バンは船へ向かって走る。

 

走りながら、考える。

 

広く奪うのは危険だ。

 

黒砂の流れまで引っかければ、身体に何が返るか分からない。

 

なら、盗らない。

 

叩く。

払う。

落とす。

流す。

 

クレシューズで十分だ。

 

バンは砂を蹴り、船の側面へ飛び乗った。

 

船底に群がるワームへ、クレシューズを振る。

 

節がしなり、複数のワームをまとめて弾き飛ばす。

 

だが、数が減らない。

 

砂の中から、次々に出てくる。

 

サイモンが叫ぶ。

 

「どこから湧いてるんだ!」

 

ジャミルが答える。

 

「黒砂から逃げてきている!何かに追われているんだ!」

 

「何に!?」

 

「知るか!」

 

バンは黒砂の方を見る。

 

遠くの砂丘が、わずかに揺れていた。

 

砂嵐ではない。

 

地面の奥から、何かが動いたような揺れ。

 

それに押し出され、ワームたちがこちらへ逃げてきている。

 

魔物の群れが襲っているのではない。

 

逃げ場を失った小さな魔物が、船に群がっているだけだ。

 

バンは舌打ちした。

 

「こいつらも逃げてんのかよ」

 

だからといって、船を食われるわけにはいかない。

 

バンはクレシューズを回した。

 

強奪は使わない。

 

ただし、気配は消す。

 

絶気配《ゼロサイン》。

 

バンの存在感が、ふっと薄れる。

 

ワームたちの反応が鈍った。

 

目がいいわけではない。

振動や気配に反応しているらしい。

 

なら、バンが消えれば狙いが散る。

 

ワームたちは一瞬迷い、船底や荷物へ向かおうとする。

 

そこを叩く。

 

一匹。

二匹。

三匹。

 

クレシューズが砂の上を走る。

 

船底に取りつく個体を剥がし、荷袋へ向かう個体を弾き、帆柱へ登ろうとするものを落とす。

 

ジャミルがその動きを見て叫んだ。

 

「すごいな!見失いそうだ!」

 

「味方まで見失うなよ!」

 

「努力する!」

 

サイモンたちは水袋を抱え、船の中央へ集める。

 

バンは船の周りを回りながら、ワームを叩き続けた。

 

だが、黒砂の揺れは近づいている。

 

ジャミルが顔を上げた。

 

「まずい。風が止まる」

 

帆が力を失う。

 

砂漠船の速度が落ちた。

 

黒砂の縁近くで、風が死ぬ。

 

船が止まれば、ワームに囲まれる。

 

それだけではない。

 

あの黒い砂の奥から来る何かに、追いつかれる。

 

バンは空を見る。

 

風はある。

 

上にはある。

 

だが、船の帆まで降りてきていない。

 

砂丘に遮られているのか、黒砂の熱で乱されているのか。

 

ジャミルが舵を握りしめる。

 

「押すしかない!」

 

「ワームに囲まれて押すのか?」

 

「他にない!」

 

「あるだろ」

 

バンはクレシューズを腰へ戻し、砂漠船の後ろへ回った。

 

船体に両手を当てる。

 

サイモンが目を見開く。

 

「まさか、押す気か!?」

 

「押すんだろ」

 

「一人で!?」

 

「お前らは水を守れ」

 

バンは足を砂に沈める。

 

重い。

 

船には荷が積まれている。

砂も柔らかい。

普通の人間一人で押せる重さではない。

 

だが、バンは普通の人間ではない。

 

神の恩恵はない。

ステイタスもない。

レベルもない。

 

それでも、煉獄を越えた肉体がある。

 

不死身ではなくなっても、積み重ねたものは消えていない。

 

バンは低く息を吐いた。

 

「おら、動け」

 

船が軋む。

 

最初はびくともしない。

 

砂が足元を滑る。

 

肩の傷が痛む。

 

それでも、バンは押した。

 

船体がわずかに動く。

 

ぎし、と木が鳴った。

 

ジャミルが叫ぶ。

 

「帆を少し開け!風が戻ったら拾う!」

 

サイモンたちが動く。

 

ワームが船の後方へ群がってくる。

 

バンの足元にも飛びかかった。

 

噛まれる直前、クレシューズの節が伸びた。

 

片手だけ船に当てたまま、もう片方の手でクレシューズを操る。

 

ワームを払い、船を押す。

 

押しながら戦う。

 

普通なら無茶だ。

 

だが、バンは笑っていた。

 

「飯前の運動にしちゃ、ちょいきついな」

 

船が動く。

 

少しずつ。

 

黒砂の縁から離れるように、砂漠船が進み始める。

 

その瞬間、上の風が帆を捕まえた。

 

帆が膨らむ。

 

船体がぐんと前へ引かれる。

 

「乗れ!」

 

ジャミルが叫ぶ。

 

バンは船尾を蹴り、飛び乗った。

 

クレシューズを伸ばし、最後に船へ取りついていたワームをまとめて弾き落とす。

 

砂漠船が速度を取り戻した。

 

黒砂の縁が少しずつ離れていく。

 

ワームたちは追ってこない。

 

むしろ、こちらを追う余裕もないように、砂の中へ潜り、ばらばらに逃げていった。

 

サイモンはその場に座り込んだ。

 

「助かった……」

 

ジャミルは汗を拭い、黒砂の方を睨む。

 

「運が良かった。あれ以上近づいていたら、船ごと飲まれていた」

 

バンは肩で息をしながら、黒い砂漠を見た。

 

遠くで、黒い砂丘が沈むように揺れている。

 

何かがいた。

 

姿は見えない。

 

だが、確かにいる。

 

地面の奥に、巨大なものが眠り、寝返りを打ったような気配。

 

ワームたちは、それから逃げていた。

 

バンは口元の砂を拭う。

 

「……でけぇな」

 

サイモンが青い顔で聞く。

 

「何が見えたんだ?」

 

「見えちゃいねぇよ」

 

「じゃあ、何が」

 

「いるんだよ。あの奥に」

 

ジャミルは無言だった。

 

砂漠の民である彼にも、分かったのだろう。

 

あそこには、何かがいる。

 

ただの魔物ではない何かが。

 

船は黒砂の縁を離れ、夕方には小さな岩場にたどり着いた。

 

そこには、砂漠の民が作った簡易の休憩地があった。

 

石を積んだ風除け。

浅い井戸。

古い木の柱に結ばれた布。

旅人が残していった灰の跡。

 

ジャミルは船を止め、まず井戸を確認した。

 

「水はある」

 

その一言で、全員が少しだけ息を吐いた。

 

ワームに水袋をやられていたら、ここへ来るまでにかなり危なかった。

 

バンも水を飲む。

 

ぬるい。

少し砂っぽい。

それでも、うまかった。

 

「酒じゃねぇのが残念だな」

 

ジャミルは笑う余裕を少し取り戻した。

 

「まだ生きているだけ感謝しろ」

 

「感謝はしてる」

 

「水にか?」

 

「水と、あと飯に」

 

「神には?」

 

「会ったら考える」

 

ジャミルは首を横に振った。

 

「変な男だ」

 

「よく言われる」

 

その夜の飯は、簡単なものだった。

 

硬いパン。

豆の煮込み。

サンドホーンの干しかけ肉。

少しだけ残っていた砂葡萄の干し実。

 

バンは疲れていたが、鍋の味付けには口を出した。

 

ジャミルが呆れる。

 

「その状態でも料理には口を出すのか」

 

「疲れてる時こそ、まずい飯は嫌だろ」

 

「まあ、それはそうだ」

 

バンは香辛料を少し加え、干し肉を薄く削って鍋に入れた。

 

水は少なめ。

 

豆は半分潰す。

 

砂葡萄の干し実を一つだけ潰し、甘みと酸味を足す。

 

できあがった煮込みは、いつもより少し濃かった。

 

疲れた身体には、それがよかった。

 

サイモンが椀を抱えて言う。

 

「今日の飯は、妙にうまいな」

 

「死にかけた後の飯はうまい」

 

バンが答える。

 

「そういうものか?」

 

「そういうもんだ」

 

ジャミルも静かに頷いた。

 

「それは分かる」

 

食事の後、バンは岩場の上に座り、遠くの黒い砂漠を見ていた。

 

夜になっても、黒砂の帯は分かった。

 

星明かりの下で、そこだけさらに深く沈んでいる。

 

風が通るたび、黒い砂がわずかに動く。

 

まるで、眠っている獣の背中のようだった。

 

バンは右手を開く。

 

さっき、ワームから何かを盗ろうとした時の痺れが、まだ少し残っている。

 

黒砂に触れた魔物。

 

その流れを深く掴むのは危険だった。

 

この世界に来てから、《強奪》はずっと盗りづらかった。

 

だが、今回はそれとは違う。

 

盗りづらいのではない。

 

盗ってはいけないものが混じっていた。

 

そういう感覚だった。

 

「やべぇのがいるな」

 

バンは呟く。

 

ジャミルが隣に来て、同じ方向を見た。

 

「黒い砂漠に興味を持つな」

 

「飯も酒もねぇんだろ」

 

「ああ」

 

「なら今は行かねぇよ」

 

「今は、か」

 

「向こうから来たら別だろ」

 

ジャミルは黙った。

 

しばらくして、低く言う。

 

「黒砂のさらに先に、ハルファという境界集落がある」

 

「集落?」

 

「ああ。黒い砂漠に近い最後の集落だ。砂漠の民、商人、調査隊、物好きな冒険者が立ち寄る。普通の交易路からは外れるが、黒砂を迂回する者はそこで水と情報を得る」

 

「飯は?」

 

「ある。粗いがな」

 

「酒は?」

 

「強い酒がある。黒砂の夜を越えるための酒だ」

 

バンの目が少しだけ動いた。

 

「いい集落だな」

 

「まだ見ていないだろう」

 

「酒があるならいい場所だ」

 

ジャミルは深くため息をついた。

 

「明日、風がよければハルファへ寄る。黒砂の様子がおかしい。情報を聞いた方がいい」

 

「決まりだな」

 

「ただし、黒砂へ入るな」

 

「飯と酒次第だ」

 

「入るな」

 

「分かったよ」

 

バンは笑った。

 

だが、その笑いはいつもより少しだけ薄かった。

 

遠くの黒い砂漠。

 

その奥にいる何か。

 

まだ名前も知らない。

 

姿も見ていない。

 

だが、あれはこの世界で初めて感じた、本当に大きな違和感だった。

 

ダンジョンとも違う。

神の恩恵とも違う。

地上の魔物とも違う。

 

大地に沈んだ災害。

 

そんな言葉が、なぜか頭に浮かんだ。

 

バンは立ち上がり、クレシューズを肩に担ぐ。

 

「ま、考えても腹は膨れねぇな」

 

岩場を降り、火のそばへ戻る。

 

サイモンはすでに横になっていた。

ジャミルは帆布を整えている。

砂漠船は風除けの影で静かに休んでいる。

 

バンは火の前に座り、残った煮込みを少しだけ食べた。

 

冷めている。

 

それでも、悪くない。

 

黒い砂漠の向こうから吹く風は、少しだけ重かった。

 

バンはそれを感じながら、空を見上げる。

 

星は綺麗だった。

 

不気味な場所のそばでも、空だけは呑気に光っている。

 

「神様が歩く世界、ねぇ」

 

バンは小さく笑った。

 

「神様も大変そうだな、こりゃ」

 

見知らぬ世界。

魔石を持つダンジョン。

神の恩恵を受ける冒険者。

地上に残る魔物たち。

そして、黒い砂漠の奥で眠る巨大な気配。

 

飯と酒を求めて歩くだけのつもりが、どうにも面倒なものが見えてきた。

 

だが、それでもバンは変わらない。

 

腹が減れば飯を食う。

喉が渇けば酒を飲む。

泣き声がすれば、飯がまずくなる前にどかしに行く。

 

それだけだ。

 

火が小さく揺れる。

 

黒い砂漠の入口は、すぐそこにある。

 

赤い旅人は、その夜、砂混じりの風の中で静かに目を閉じた。




第7話でした。
修正版では、黒い砂漠の異常さを早めに見せつつ、すぐに大きな戦いへ入らず、境界に近づく段階として描きました。

また、黒砂に触れた魔物からは安易に《強奪(スナッチ)》しないことで、バンの力が万能ではないことと、黒い砂漠の危険性を出しました。

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