強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第9話です。
黒い砂漠の奥で、ついに黒獣ベヒーモス本体と対峙します。
今回は討伐ではなく、初接触と格の提示が中心です。


第9話 陸の王者

黒い砂漠の奥で、山が動いていた。

 

最初、バンはそれを影だと思った。

黒い砂嵐の向こうで、地平線の一部が盛り上がっているだけに見えた。

 

だが、違った。

 

影は呼吸していた。

影は歩いていた。

影は、大地を踏み潰していた。

 

一歩。

 

遠くで、黒い巨体が足を下ろす。

 

その瞬間、砂漠が沈んだ。

 

音は遅れて届いた。

空気を押し潰すような低い轟音。耳ではなく、腹の底に響く音。大地そのものが呻く音だった。

 

黒い砂が波のように持ち上がり、バンの足元まで広がってくる。

砂が靴にぶつかり、ロングコートの裾を叩いた。

 

バンは呟いた。

 

「……でけぇな」

 

目の前にいるのは、獣だった。

だが、獣という言葉では足りない。

 

巨大な胴体は、黒い岩山のようだった。

背中は隆起し、所々に骨とも外殻ともつかない硬質な突起が並んでいる。脚は太く、一本一本が塔のように地面へ突き刺さっていた。首は短く、頭部は大地を睨みつけるように低く構えられている。

 

そして、二本の角。

 

天を突くような黒い角が、頭部から伸びていた。

角の根元には、古い血のような赤黒い筋が走っている。角そのものが、この砂漠の毒を吸って成長したようだった。

 

ベヒーモス。

 

その名が、バンの中で形を持つ。

 

陸の王者。

黒獣。

歩くだけで大地を殺すもの。

 

ベヒーモスが息を吐いた。

 

ただの呼吸だった。

それだけで、前方の黒い砂が舞い上がり、風となって吹き荒れた。

 

バンは片腕で顔を庇った。

頬の傷がひりつく。口の中に苦い砂が入り、舌に嫌な味が広がる。

 

「口に入ると最悪だな、これ」

 

軽口を叩きながらも、バンの目は細くなっていた。

 

あれは、今までの魔物とは違う。

マッドサーペントのように川から引きずり出せる大きさではない。

サンドスキッパーのように棍で絡めて投げられる重さでもない。

 

あれは、地形だ。

災害だ。

そのまま歩いてくる黒い山だ。

 

バンはクレシューズを肩から下ろした。

 

「酒の道塞ぐには、ちょっと場所取りすぎだろ」

 

ベヒーモスの頭が、ゆっくりと動いた。

 

巨眼が開く。

 

黒い。

ただ黒いだけではない。奥に赤黒い光が沈んでいる。炎ではなく、腐った大地の熱のような光。

 

その眼が、バンを捉えた。

 

それだけで、周囲の空気が重くなる。

 

獣が人間を見た、というより。

山が小石を認識した、という方が近かった。

 

バンは笑った。

 

「見えてんじゃねぇか」

 

次の瞬間、ベヒーモスが動いた。

 

速い、という言葉は似合わない。

あれほどの巨体が、一歩を踏み出すだけで距離が消える。

 

前脚が持ち上がる。

黒い影が空を覆う。

 

バンは横へ跳んだ。

 

直後、前脚が地面を叩き潰した。

 

轟音。

 

黒い砂が爆発した。

地面が割れ、岩が砕け、砂の柱がいくつも立ち上がる。衝撃波が横へ走り、バンの身体を吹き飛ばした。

 

「ぐっ……!」

 

空中で体勢を崩す。

クレシューズを地面へ伸ばし、しならせ、無理やり軌道を変える。

それでも勢いは殺しきれない。

 

バンは黒い砂の上を転がり、背中から岩に叩きつけられた。

 

岩が割れる。

 

肺から息が抜けた。

肋骨が軋む。

口の中に鉄の味が広がる。

 

バンは数秒、動かなかった。

 

黒い砂が、倒れた身体へまとわりつく。

傷口から入り込もうとするように、赤い血へ群がる。

 

遠くの岩陰で、ディオスが息を呑んだ。

 

「直撃じゃねぇのに、あれかよ……」

 

彼の手には遠眼鏡がある。

だが、手が少し震えていた。

 

イリスの魔石灯は、さらに弱くなっていた。

灯りが風に吹かれる蝋燭のように揺れている。

 

「衝撃波だけで、岩が砕けました」

 

「見りゃ分かる」

 

「あの距離で、あの威力です。正面から受ければ、上級冒険者でも」

 

「潰れるな」

 

ディオスは言い切った。

 

ベヒーモスはまだ本気ではない。

ただ足を下ろしただけだ。

それなのに、地形が変わった。

 

黒獣は、戦闘をしているのではない。

存在しているだけで、周囲を壊している。

 

イリスはバンが叩きつけられた岩を見つめる。

 

「赤い旅人は」

 

「……動かねぇ」

 

ディオスの声が低くなる。

 

黒い砂が舞う。

ベヒーモスが、ゆっくりと頭を下げる。

小石を踏んだかどうか確認するような動きだった。

 

その時。

 

岩陰で、赤い布が揺れた。

 

バンの指が動いた。

 

次に、肩。

肘。

膝。

 

黒い砂の中から、バンが上体を起こした。

 

「っ……は」

 

息を吐く。

喉の奥が焼ける。

血の混じった唾を吐き捨てる。

 

「いってぇな」

 

バンはそう言って、笑った。

 

ゆっくり立ち上がる。

ロングコートは黒い砂に汚れ、頬には血が流れ、口元にも赤い筋がある。肋骨の辺りが痛む。肩も少しおかしい。

 

だが、立っている。

 

ディオスが遠眼鏡を下ろした。

 

「立ったぞ」

 

イリスが小さく息を呑む。

 

「ありえません」

 

「俺もそう思う」

 

「神の恩恵なしで、今の衝撃波を受けて立つなど」

 

「報告書に何て書く?」

 

ディオスは乾いた笑いを漏らした。

 

「“踏まれてないのに吹き飛ばされ、岩を割って、それでも文句を言いながら立った”か?」

 

「事実です」

 

「嫌な事実だな」

 

バンはクレシューズを拾い、肩を回した。

 

「ただの一歩でこれかよ。面白ぇじゃねぇか」

 

ベヒーモスが、また息を吐いた。

 

黒い風がバンへ向かって押し寄せる。

風というより、毒を含んだ砂の壁だった。

 

バンはクレシューズを構える。

四節の棍がしなり、円を描くように回転した。

 

迫る黒砂を、真正面から叩く。

 

散る。

 

だが、完全には防げない。

砂が腕を切り、頬を掠め、目元を焼く。

 

「細けぇ砂が、うぜぇな」

 

バンは踏み込んだ。

 

黒い砂漠を駆ける。

足が沈む。毒気が肺を削る。だが、動きを止めない。

ベヒーモスとの距離は遠い。近づいているはずなのに、まるで山へ向かって走っているようで、なかなか縮まらない。

 

ベヒーモスは前脚を引いた。

 

今度は薙ぎ払い。

 

巨大な脚が、地表ごと横へ払われる。

 

「おっと」

 

バンは跳んだ。

 

だが、脚そのものを避けても、衝撃は避けきれない。

地面ごと捲れ上がった黒い砂と岩が、波のように押し寄せる。

 

バンはクレシューズを伸ばし、近くの岩へ絡めた。

身体を引き寄せ、砂の波をぎりぎりで避ける。

 

背後で砂丘が崩れた。

 

「ははっ、雑だな」

 

笑う。

 

その笑い声が、ベヒーモスの耳に届いたのか。

 

黒獣の首が動いた。

 

低い唸りが響く。

 

それは怒りではない。

まだ、怒りではない。

虫が耳元を飛んだ時に、獣が不快そうに息を鳴らす程度の反応だった。

 

バンはそれを感じ取り、口元を歪めた。

 

「まだ虫扱いかよ」

 

ベヒーモスの足元へ、ようやく近づく。

 

巨木のような脚。

黒い外殻と分厚い皮膚。

表面には、黒い砂と毒の膜がこびりついている。近づくだけで鼻の奥が焼けるようだった。

 

バンはクレシューズを振るった。

 

しなる棍が、ベヒーモスの前脚へ叩き込まれる。

 

鈍い音。

 

手応えはあった。

だが、浅い。

 

まるで山肌を殴ったような感触だった。

皮膚の表面を砕き、黒い砂を散らしただけ。肉まで届いているかどうかも怪しい。

 

バンの腕にしびれが走る。

 

「硬ぇな」

 

もう一撃。

 

今度は同じ場所へ叩き込む。

 

外殻の一部が割れ、赤黒い液体がにじんだ。

血、なのかもしれない。だが、普通の血ではない。地面に落ちた瞬間、砂が黒く泡立った。

 

「うわ、まずそう」

 

バンが顔をしかめた。

 

その瞬間、ベヒーモスの脚が動いた。

 

蹴り、というには大雑把だった。

ただ、足の位置を変えただけ。

 

それだけで、バンの目の前に壁が迫る。

 

「ちっ」

 

クレシューズを交差させて受ける。

 

衝撃。

 

腕が軋んだ。

肩が外れかける。

足元の砂が爆ぜ、バンの身体が後方へ吹き飛ばされた。

 

今度は空中で回転し、クレシューズを地面へ突き立てる。

棍がしなり、勢いを殺す。

それでも数十歩分の距離を削られ、黒い砂を巻き上げながら止まった。

 

バンは片膝をついた。

 

すぐ立つ。

 

「重てぇな。肉もなさそうなのによ」

 

遠くのディオスが、額を押さえた。

 

「今、肉の話したか?」

 

「しました」

 

「ベヒーモス相手に?」

 

「しました」

 

「もう嫌だ、この報告」

 

イリスは真面目に記録していたが、筆先が少し迷っていた。

 

ベヒーモスの巨体が、バンの方へ向き直る。

 

それは初めて、明確な反応だった。

 

今までのベヒーモスは、進路上の石を踏み潰すように動いていた。

だが今、黒獣は足を止めた。

 

赤い旅人を見ている。

 

小さな傷。

前脚に刻まれた、わずかな亀裂。

普通なら意味のない傷。

 

だが、傷は傷だった。

 

災厄の表面に、確かに赤い男の一撃が届いた。

 

ベヒーモスの喉が鳴る。

 

低く、深く、長い音。

黒い砂漠全体がそれに応えるように震えた。

 

バンは口元の血を拭った。

 

「お、ようやくこっち見たか」

 

ベヒーモスが前脚を踏みしめる。

 

黒い砂が周囲から集まっていく。

足元の死んだ砂漠が、獣の意志に従うように盛り上がった。

 

イリスが目を見開く。

 

「砂が……」

 

ディオスが呻く。

 

「大地ごと動かしてやがる」

 

ベヒーモスが咆哮した。

 

音が、来た。

 

ただの鳴き声ではない。

空気を潰し、砂を砕き、岩を震わせる暴力そのものだった。

 

バンはクレシューズを地面へ突き立て、身体を低くした。

 

それでも吹き飛ばされる。

 

耳の奥が痛む。

視界が歪む。

全身の骨が震える。

 

咆哮が過ぎた後、周囲の岩は砕け、黒い砂丘は形を変えていた。

 

バンは片手で耳を押さえた。

 

「うるせぇな。酒場でやったら出禁だぞ」

 

自分でも、声が少し掠れているのが分かった。

 

ベヒーモスの足元で、黒い砂が槍のように盛り上がった。

 

一本。

二本。

三本。

 

砂と岩が混ざった黒い突起が、地面から突き出す。

それらが、バンへ向かって走った。

 

「そういうのもできんのかよ」

 

バンは横へ跳び、一本目を避ける。

二本目をクレシューズで叩き折る。

三本目が脇腹を掠め、ロングコートを裂いた。

 

熱い痛み。

血が流れる。

そこへ黒い砂がまとわりつく。

 

バンは顔をしかめ、傷口を手で払った。

 

「染みるっつってんだろ」

 

ベヒーモスが再び動く。

 

今度は突進ではない。

ただ、体を前へ押し出す。

 

だが、それだけで黒い山が迫る。

 

バンは地面を蹴った。

クレシューズを伸ばし、ベヒーモスの角の根元へ向ける。

 

届くか。

 

届かない。

 

巨体が動いた瞬間、風圧で身体が弾かれる。

バンは空中で体勢を崩し、ベヒーモスの肩口へ叩きつけられた。

 

硬い。

 

岩壁にぶつかったような衝撃。

そのまま弾かれ、地面へ落ちる。

 

ベヒーモスの影が覆いかぶさる。

 

前脚が持ち上がった。

 

今度は直撃する。

 

ディオスが叫びかけた。

 

「まずい!」

 

イリスの顔から血の気が引く。

 

バンは地面に片手をつき、迫る脚を見上げた。

 

巨大な足裏。

黒い外殻。

付着した毒砂。

落ちれば、身体ごと地面に埋まる。

 

バンは笑った。

 

「ちょいと借りるぜ」

 

強奪《スナッチ》。

 

狙ったのは、力そのものではない。

全部を奪えるはずがない。ベヒーモスの脚力を丸ごと奪えば、バンの身体の方が壊れる。

 

だから、一瞬だけ。

ほんの一部だけ。

 

落ちてくる脚の勢い。

地面を潰す重さの流れ。

その端を、指先で引っかけるように奪う。

 

バンの全身に負荷が走った。

 

筋肉が悲鳴を上げる。

骨が軋む。

血管が浮き、口から血が漏れる。

 

「っ……重っ」

 

だが、その一瞬でいい。

 

ベヒーモスの前脚の落下が、わずかに鈍った。

ほんのわずか。

普通なら意味のない遅れ。

 

だが、バンには十分だった。

 

クレシューズを地面へ突き立て、しならせる。

身体を横へ飛ばす。

 

直後、前脚が地面を叩き潰した。

 

黒い砂が爆発する。

衝撃波がバンを横から襲い、また吹き飛ばす。

 

今度は受け身が間に合わなかった。

 

バンは砂の上を跳ね、岩に背中を打ちつけ、さらに転がった。

 

クレシューズが手から離れかける。

だが、握りは緩めない。

 

ようやく止まった時、バンはしばらく動かなかった。

 

黒い砂が降る。

視界が赤黒くにじむ。

胸の奥が痛い。

右腕がしびれている。

 

それでも、指は動く。

 

クレシューズを握る。

 

バンは、ゆっくりと笑った。

 

「……さすがに、重てぇな」

 

立ち上がる。

 

今度は少し遅かった。

膝が一度揺れた。

だが、立った。

 

遠くで、ディオスが乾いた声を漏らす。

 

「また立った」

 

イリスは言葉を失っていた。

 

神の恩恵なし。

ステイタスなし。

ファミリアなし。

 

それでも、黒獣の前で立っている。

 

ベヒーモスが、完全にバンを見た。

 

もう小石ではない。

もう虫ではない。

 

まだ脅威と呼ぶには小さい。

だが、無視していいものではなくなった。

 

黒獣の眼に、赤い旅人が映る。

 

バンは血を吐き捨てた。

 

「陸の王者ねぇ」

 

息を吸う。

喉が焼ける。

肺が軋む。

 

それでも、笑う。

 

「王様なら、酒の道くらい空けろよ」

 

ベヒーモスが低く唸った。

 

黒い砂漠が震える。

 

その日、黒獣は初めて、赤い旅人を敵として見た。




第9話は、ベヒーモス本体との初接触回でした。
討伐ではなく、陸の王者としての格と、バンが初撃で吹き飛ばされても立ち上がる異常性を描いています。
次回、第10話「喰えない男」では、ベヒーモスの魔力捕食《マナ・グラトニー》と、神の恩恵を持たないバンの相性が本格的に見えてきます。
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