第三十三階層へ続く階段を下りるにつれて、吹き上がってくる風の温度が高くなった。
密林の湿った熱とは違う。
水分を奪い、喉と肌を乾かす熱だ。
階段の先から細かな砂が入り込み、バンの靴底で音を立てる。周囲の岩壁も次第に赤みを帯び、埋め込まれた結晶が炎のような光を放っていた。
最後の段を下りる。
目の前に広がっていたのは、果ての見えない砂漠だった。
赤い砂丘。
地面から斜めに突き出した岩柱。
熱を放つ巨大な結晶。
遠くには黒い岩山らしき影も見えるが、熱気で輪郭が揺らいでいる。
頭上に太陽はない。
それでも、オルバ砂漠の昼と変わらないほど暑かった。
「地下にまで砂漠があんのか」
バンは階段の入口から離れ、砂の上へ足を踏み出した。
靴が僅かに沈む。
一歩進むごとに、乾いた砂が足首へまとわりついた。
振り返ると、すでに自分の足跡が風によって崩れ始めている。
密林では、遠征隊や冒険者の足跡を辿ることができた。だが、ここでは少し時間が経つだけで、誰がどちらへ進んだのか分からなくなるだろう。
「道探しは、また面倒になりそうだな」
バンは水袋を取り出し、一口だけ飲んだ。
第二十八階層で満たした物が二つある。
自分だけなら、しばらく水を飲まなくても動ける。だが、熱で水袋そのものが傷んだり、中身が蒸発したりすれば、料理へ使う水がなくなる。
酒を代わりに使うつもりはなかった。
水袋を鞄の中央近くへ戻す。
直射する熱を避けるため、周囲を保存食と布で囲んだ。
「これで少しはマシか」
鞄を背負い直し、砂丘の向こうへ進んだ。
◇
砂漠には、道と呼べるものがほとんどなかった。
足元には、ときおり人の足跡らしき窪みが残っている。
だが、数歩先で途切れていた。
遠征隊が残した目印も見つからない。
木々や岩壁へ傷を付けられた密林とは違い、目印になる物自体が少なかった。
バンは遠くに見える黒い岩山を目指して歩く。
ところが、いくら進んでも距離が縮まらない。
「動いてんのか?」
足を止める。
黒い岩山は、熱気の向こうで形を変えていた。
大きく見えたかと思えば、次の瞬間には低くなる。
左右へ揺れ、砂の中へ溶けるように消えた。
「偽物か」
オルバ砂漠でも蜃気楼は見たことがある。
水面や町のような景色が、何もない場所へ浮かぶこともあった。
ただ、この階層の蜃気楼はそれよりもはっきりしている。
近くにある岩柱まで、熱気の揺らぎに紛れて二つに見えた。
正しい方角を見極めるには、高い場所から周囲を見る必要がある。
バンはクレシューズを伸ばした。
先端を赤い結晶の突き出した岩柱へ巻きつけ、自分の身体を引き上げる。
岩柱の上へ立つと、砂丘の起伏が見渡せた。
遠くに、細い影が並んでいる。
蜃気楼かもしれない。
だが、その影の一部には、人工的に積まれた石のような形があった。
「人が通るなら、あっちか」
岩柱から下りようとした時、足元の砂が動いた。
一か所ではない。
周囲の砂丘へ、細長い筋がいくつも浮かんでいる。
何かが砂の中を進んでいた。
「下にいんのか」
砂の筋が岩柱の根元へ集まる。
次の瞬間、地面が弾けた。
砂の中から、平たい頭を持つ怪物が飛び出す。
全身を黄土色の硬い殻で覆い、左右へ大きく開く顎を持っている。胴は長く、何本もの短い脚が砂を掻いていた。
正式な名前は分からない。
怪物は岩柱を這い上がり、バンの足へ噛みつこうとする。
バンはクレシューズの先端を振り下ろした。
平たい頭が砂へ叩き戻される。
その直後、別の怪物が背後から飛び出した。
さらに左右からも砂が弾ける。
十体以上。
砂の色に近い外殻のため、地上へ出るまで姿が見えにくい。
「砂ん中から出てくる奴か」
バンは岩柱から飛び降りた。
落下する身体へ、怪物たちが一斉に群がる。
大きな顎。
硬い脚。
背中の鞄へ食らいつこうとする個体もいた。
「だから、そっちは駄目だって」
着地と同時にクレシューズを大きく振るう。
「乱獲《クレイジーハント》」
四節の神器が、砂の上へ広い弧を描いた。
地上へ出ていた個体。
半身を砂へ残した個体。
再び潜ろうとしていた個体。
それぞれの体内から、魔石が一斉に奪い取られる。
黒紫色の石が砂を突き破り、バンの周囲へ飛んできた。
怪物たちの身体は次々と灰へ変わる。
灰は乾いた風に巻き上げられ、砂漠の中へ消えていった。
「隠れるのは上手いけど、それだけだな」
魔石を拾う。
密林にいた恐竜種よりは小さい。
それでも、中層までのモンスターと比べれば十分に大きかった。
鞄には、ほとんど空きがない。
バンは手に入れた魔石と、すでに持っている物を比べた。
同じくらいの大きさなら、今までの物を置いていく理由はない。
最も大きな石を三つだけ残し、残りは岩柱の根元へ積んだ。
「帰りに残ってたら拾うか」
帰りも同じ道を通れるとは限らない。
本人も分かっているが、それ以上考えることはなかった。
◇
高い場所から見つけた石の列は、本当に人の手で作られた目印だった。
拳ほどの黒い石が、一定の間隔で砂の上へ置かれている。
風で半分ほど埋まっていたが、近づけば見つけられた。
バンは石の列に沿って進む。
しばらくすると、前方から金属のぶつかる音が聞こえた。
続いて、複数の叫び声。
「火が来るぞ!」
「散れ!」
「毒牙に触れるな!」
砂丘の向こうから、赤い炎が噴き上がった。
熱気が風を押し返し、大量の砂が宙を舞う。
バンは砂丘を上り、反対側を見下ろした。
八人の冒険者たちが、一体の巨大な怪物と戦っている。
蛇。
だが、水の迷都で見たアクア・サーペントとは大きさが違った。
全長は二十メートルを超えている。
太い胴を赤褐色と黒の鱗が覆い、頭部には角のような突起が伸びていた。
口を開くたび、長い牙から紫色の液体が滴る。
巨大な蛇は首を持ち上げ、再び炎を吐いた。
前衛の冒険者たちが左右へ飛ぶ。
炎が砂丘を走り、赤い結晶へ衝突する。砕けた結晶の破片が、溶けた砂と一緒に周囲へ散った。
「砂漠の蛇か」
バンが呟く。
冒険者の一人が、砂丘の上にいるバンへ気づいた。
「近づくな!」
「そいつ、強ぇのか?」
「バジリスクだ! 希少竜種だぞ!」
「バジリスク?」
「炎と麻痺毒を使う! 噛まれたら終わりだ!」
そこで初めて、巨大な蛇の正式名称を知った。
バジリスクは冒険者たちから視線を外し、砂丘の上に立つバンへ顔を向ける。
長い舌が口の間から伸びた。
新しい獲物を見つけたらしい。
巨大な身体をくねらせ、砂丘を上ってくる。
「こっちへ来るな!」
冒険者の制止を無視し、バンは砂丘を下りた。
バジリスクが大口を開く。
喉の奥が赤く光った。
「また火か」
炎が放たれる。
バンは鞄の肩紐を片手で掴み、身体から外した。
そのままクレシューズを伸ばし、離れた岩柱へ鞄を引っ掛ける。
鞄が宙へ持ち上がった直後、炎がバンを呑み込んだ。
「何をしている!」
冒険者たちの叫びが響く。
赤い炎が砂を焼き、足元の一部を硝子のように変えていく。
しばらくして炎が途切れた。
その中心に、バンは立っていた。
赤い長衣の裾と袖が僅かに焦げている。
皮膚には火傷らしき跡もない。
バンは長衣を見下ろした。
「また服かよ」
バジリスクが一瞬動きを止める。
炎で死ななかった獲物を理解できていないようだった。
バンは砂を蹴る。
一気に距離を詰め、クレシューズを短く持って横へ振った。
四節棍が巨大な蛇の顎へ直撃する。
頭部が横へ跳ね、長い身体が砂丘へ倒れた。
大量の砂が舞い上がる。
だが、バジリスクはすぐに身体を起こした。
太い尾を振り回し、バンの胴へ叩きつける。
衝撃とともに、バンの身体が砂の上を飛んだ。
着地する前に、巨大な蛇が追いつく。
大口が開き、長い牙が肩へ突き刺さった。
赤い長衣を貫き、紫色の毒が体内へ流れ込む。
「噛まれた!」
「麻痺毒だ! すぐに解毒薬を――」
冒険者たちが走り出そうとする。
バンは自分の肩へ食らいついたバジリスクの頭を見た。
痺れは感じない。
煉獄の毒気に満ちた空気や、数々の毒を受けてきた身体にとって、この程度は脅威にならなかった。
「これが毒か?」
バンは片手で上顎を掴み、もう片方の手で下顎を押さえた。
バジリスクが噛み締めようとする。
だが、顎は閉じなかった。
「服に穴開けた分は返せよ」
両腕を左右へ開く。
バジリスクの口が、力任せに広げられた。
長い牙が肩から抜ける。
巨大な蛇が身体をくねらせ、逃れようと暴れた。
バンは頭部を掴んだまま持ち上げる。
そのまま砂の上へ叩きつけた。
砂丘が大きく崩れ、バジリスクの巨体が半分ほど埋まる。
それでも怪物は生きていた。
鱗の隙間から血を流しながら、再び炎を吐こうと喉を光らせる。
「丈夫だな」
バンが片手を向けた。
「獲物狩り《フォックスハント》」
太い胴の奥から、巨大な魔石が抜け出した。
バジリスクの身体が一度震える。
直後、二十メートルを超える巨体が灰へ変わった。
黒い灰が砂丘の上へ降り積もり、熱い風によって少しずつ運ばれていく。
残ったのは、大きな魔石と、何本かの牙。
さらに、赤黒い鱗の一部も砂の上へ落ちていた。
「この石もでけぇな」
バンは魔石を持ち上げる。
強化種のブラッドサウルスから抜いた物より、僅かに小さい。
だが、普通の恐竜種の魔石を上回っている。
「お前……平気なのか?」
冒険者たちが近づいてくる。
先頭の女剣士が、バンの肩を見る。
牙の刺さった傷から僅かに血が流れていた。
「ああ」
「毒を受けただろう」
「入ってきたけど、何ともねぇぞ」
「そんなはずが……バジリスクの毒だぞ?」
「大した毒じゃなかったな」
「普通は全身が麻痺して、呼吸すらできなくなる」
「そうなのか?」
バンは肩を軽く回す。
動きに問題はない。
傷も、すでに塞がり始めていた。
冒険者たちは揃って黙った。
「それより」
バンは魔石を示す。
「この先の道、分かるか?」
「命を助けられた直後に聞くことがそれなのか?」
「地図持ってねぇからな」
「……やはり、噂の赤い男か」
女剣士は額を押さえた。
◇
彼らは第三十五階層から上がってきた冒険者だった。
砂漠の迷園で数日間探索し、素材と魔石を集めて帰還している途中、希少竜種のバジリスクと遭遇したらしい。
「バジリスクは、この辺りで普通に現れる種じゃないのか?」
バンが尋ねる。
「希少種だ。長く潜っていても、一度も遭遇しない冒険者の方が多い」
「運がよかったな」
「悪かったの間違いだ」
「でけぇ魔石が取れたぞ」
「お前にとっては、そうなのだろうな」
冒険者たちは負傷者の手当てを始めた。
幸い、毒牙を受けた者はいない。
炎による火傷と、尾で打たれた傷が中心だった。
バンは岩柱へ引っ掛けていた鞄をクレシューズで回収する。
中身を確認した。
水袋も、保存食も、酒瓶も無事だった。
「こっちは問題ねぇな」
「自分の傷より先に、荷物を確認するのか?」
「毒は効かなかったからな」
鞄には、バジリスクの魔石を入れる空間がなかった。
バンは中身を一つずつ確認する。
密林で拾った硬い外殻。
アルマロサウルスの棘。
恐竜種の牙。
翼竜型の翼膜。
「この外殻を置いてくか」
人の頭ほどある硬い素材を取り出す。
代わりにバジリスクの魔石を袋へ収めた。
牙も一本だけ残す。
毒の付着した牙は、回収袋を二重にして包んだ。
鱗も珍しそうだったが、今の鞄には入らない。
「鱗は持っていかないのか?」
冒険者の小人族が尋ねた。
「入んねぇからな」
「希少竜種の鱗だぞ。高級な防具や耐火装備の素材になる」
「この石と、どっちが高ぇ?」
「魔石の方が高い可能性はあるが、鱗も滅多に手に入らない」
「なら一枚だけ持つか」
バンは最も大きく、傷の少ない鱗を一枚選んだ。
入れる場所を作るため、密林で拾った恐竜種の牙を一本取り出す。
残った素材を見て、小人族が何とも言えない表情を浮かべた。
「置いていくなら、私たちが回収してもいいか?」
「ああ」
「対価は?」
「道を教えろ」
「予想していた」
女剣士が小さく息を吐いた。
彼女たちは、第三十三階層から第三十五階層までの進み方を簡単に説明した。
砂の上に残された黒い石の列。
一定間隔で生えている赤い結晶。
蜃気楼に惑わされた時は、近くの高台から三本並んだ岩柱を探す。
第三十四階層へ続く下り道は、二本の結晶が交差した場所の近く。
第三十五階層では、砂に半分埋まった巨大な竜の骨が目印になるらしい。
「足跡は追うな。風向きも途中で変わる」
「遠くに見える物も、ほとんど偽物だと思った方がいい」
「分かった」
「本当に分かったのか?」
「ああ。高い所から見りゃいいんだろ」
「大まかには間違っていないが……」
女剣士はバンのクレシューズを見る。
岩柱へ簡単に上れるなら、それだけでも普通の冒険者より迷いにくい。
「第三十六階層へ下りるなら、防寒具を出しておけ」
「寒いんだったな」
「第三十五階層までとは正反対だ。階段を抜けた瞬間に気温が落ちる」
「オルバ砂漠にも夜はあったぞ」
「地下の寒さを地上と同じだと思うな。水が凍るほど冷える」
「水袋が凍んのは困るな」
「心配するところはそこなのか?」
「飯も作れなくなるだろ」
冒険者たちは、もう何も言わなかった。
◇
彼らと別れ、バンは第三十四階層へ向かった。
教えられた目印があっても、砂漠を進むのは簡単ではなかった。
赤い結晶が二本に見える。
三本並んだ岩柱が、別の場所にも現れる。
近づけば、何もない砂丘へ変わった。
何度か同じ場所へ戻りながら、バンはクレシューズで高台へ上り、周囲を確かめる。
砂中から現れるモンスターも増えた。
先ほどと同じ殻を持つ怪物。
大きな角を突き出し、砂の中を泳ぐ四足の怪物。
細長い身体で足へ巻きつく蛇のような種。
正式名称はどれも分からない。
一体なら《獲物狩り》で魔石を抜き、群れが現れればクレシューズを振るって《乱獲》を使った。
だが、魔石の大半は拾わなかった。
バジリスクの魔石より小さい物を入れる余裕はない。
第三十四階層から第三十五階層へ進む頃には、二つあった水袋の片方が半分ほどになっていた。
バン自身が飲んだ量は少ない。
熱で温くなり、料理へ使うには早めに消費した方がよさそうだった。
「今日の飯で使うか」
問題は、休める場所がないことだ。
砂は熱を持ち、岩陰にもモンスターの気配がある。
火を使わなくても、鉄板を砂の上へ置くだけで肉が焼けそうだった。
「それはそれで楽そうだな」
試すことも考えたが、第三十六階層にはオアシスがあると聞いている。
食事はそこまで我慢することにした。
第三十五階層の奥。
砂に半分埋まった巨大な竜の骨を見つける。
頭部だけでも、小さな家ほどの大きさがあった。
折れた牙。
砂から突き出した肋骨。
何年前からここにあるのか分からない。
骨の横には、下へ続く石段があった。
「やっと着いたか」
階段へ入る。
数段下りたところで、熱い風が止まった。
代わりに、冷たい空気が足元から這い上がってくる。
さらに進む。
赤い光が消え、周囲の岩壁が濃い青へ変わった。
息を吐くと、白い煙が見える。
「本当に寒くなったな」
最後の段を下りた。
第三十六階層。
そこには、夜の砂漠が広がっていた。
天井では、青白い結晶が星のように輝いている。
砂丘は月明かりを浴びたように淡く光り、遠くには黒い岩山が並んでいた。
第三十五階層までの灼熱が嘘のように、空気は冷たい。
砂の表面には薄く霜が降りている。
そして、階段からそれほど離れていない場所に、広い水面が見えた。
蜃気楼ではない。
水辺には低い木々と草が生え、何人かの冒険者が焚き火を囲んでいる。
「オアシスか」
バンは水袋を取り出した。
温くなっていたはずの水が、すでに冷え始めている。
放っておけば、本当に凍るかもしれない。
「飯作るには、ちょうどよさそうだな」
灼熱の砂漠を抜け、今度は極寒の砂漠。
それでも、バンが最初に考えたのは環境の危険ではなかった。
鞄の中に残っている肉と調味料。
そして、温かい料理に合う酒のことだった。
赤い長衣の襟を軽く整え、バンは青白い光に照らされたオアシスへ歩き始めた。
第86話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は第三十三階層から始まる〈砂漠の迷園〉を進み、希少竜種のバジリスクと戦いました。
灼熱や蜃気楼、砂中からの奇襲など、モンスターだけでなく環境そのものが探索を妨げる階層として描いています。