暗緑色の怪物が壁を蹴り、白い通路へ飛び降りた。
四本の脚が石床へ着地する。
蛇のように長い胴体が通路を塞ぎ、背中から伸びた無数の針が一斉にバンへ向いた。
「これ以上、服を壊すなよ」
バンはクレシューズを肩から下ろした。
怪物が背中を大きく震わせる。
直後、鋭い針が一斉に射出された。
白い通路を埋めるほどの数。
正面からだけではない。壁や天井へ突き刺さった針が跳ね返り、複数の角度からバンへ迫ってくる。
避けるだけなら難しくない。
だが、背中には鞄がある。
針が水袋や酒瓶へ刺されば、中身は無事では済まない。
バンは空いている手を前へ伸ばした。
「強奪《スナッチ》」
飛来していた毒針の動きが止まる。
数十本の針が空中で震え、その軌道を変えた。
バンの手元へ引き寄せられる途中で、怪物が再び背中を震わせる。
第二射。
さらに多くの毒針が放たれた。
「まだあんのか」
最初に奪った針を、後から飛んできた一団へ向けて放つ。
鋭い針同士が空中で衝突した。
硬い音が連続し、砕けた破片が白い床へ降り注ぐ。
何本かは打ち落としきれず、バンの身体へ届いた。
肩。
腕。
脇腹。
赤い長衣を貫き、針の先端が皮膚へ突き刺さる。
傷口から紫色の毒が流れ込んだ。
バンは腕に刺さった一本を抜く。
針の長さは短剣ほどあり、先端には粘り気のある液体が付着していた。
「また毒か」
身体に異変はない。
痺れも、痛みも感じなかった。
バジリスクの毒と同じく、煉獄で過ごしたバンの身体には通用しないらしい。
問題は別にある。
バンは長衣に空いた新しい穴を見た。
「服は駄目じゃねぇか」
怪物が大口を開く。
喉の奥へ赤い光が集まり、次の瞬間、炎が白い通路へ放たれた。
バンは正面から受けなかった。
クレシューズを伸ばし、先端を横に並ぶ白い柱へ巻きつける。
身体を引く。
炎が届く直前、バンの姿が横へ飛んだ。
赤い長衣の裾を熱気が掠める。
そのまま柱の側面へ足を着け、クレシューズを縮めながら怪物へ向かって跳んだ。
「今度は燃やさせねぇぞ」
怪物は壁へ爪を立て、一気に駆け上がる。
長い身体とは思えない速さだった。
天井まで移動し、逆さまになったまま毒針を放つ。
バンは空中でクレシューズを振るった。
四つの節が広がり、飛んできた針をまとめて弾き飛ばす。
先端の一節が怪物の後脚へ巻きついた。
「下りてこい」
引く。
白い壁へ爪を食い込ませていた怪物の身体が剝がれた。
天井の一部が砕け、大量の白い破片とともに巨体が落下する。
怪物は空中で身を捻り、長い尾をバンへ叩きつけた。
バンは片腕で受け止める。
鱗に覆われた尾が腕へ巻きつき、そのまま全身を締め上げようとした。
長い胴も続けて絡みつく。
肩。
胸。
腰。
怪物の巨体が、バンを包むように幾重にも巻きついた。
四本の脚が赤い長衣へ爪を立てる。
締めつける力が増し、バンの足元にある石床へ亀裂が走った。
一般の冒険者なら、鎧ごと身体を潰されていただろう。
バンは巻きついた胴を片手で掴んだ。
「蛇の奴は、これが好きなのか?」
力を込める。
怪物の身体が外側へ押し広げられた。
締めつける力よりも、バンが腕を動かす力の方が強い。
怪物は牙を剝き、首を伸ばしてバンの肩へ噛みつこうとする。
バンはもう一方の手で、その下顎を掴んだ。
牙が届く直前で止まる。
「針も邪魔だな」
怪物の背中には、まだ多くの毒針が残っている。
バンが指を僅かに動かした。
背中から何本もの針が抜け始める。
一度にすべてを奪うのではなく、巻きついた身体を押さえながら、使えそうな長い針だけを引き抜いた。
暗緑色の怪物が苦しそうに暴れる。
背中から紫色の液体が流れ、白い床へ落ちた。
「自分で持ってても、使えねぇなら意味ないだろ」
怪物の身体を掴んだまま持ち上げる。
巻きついていた胴が強引に引き剝がされ、長い身体が宙へ浮いた。
バンはそのままクレシューズを短く持つ。
身体を一度回し、怪物を白い壁へ叩きつけた。
轟音が通路を揺らす。
壁が大きく陥没し、暗緑色の巨体が白い岩の中へ埋まった。
それでも怪物は生きている。
砕けた壁から身体を引き抜き、再び炎を吐こうと口を開いた。
「丈夫なのは分かったぞ」
バンは一歩踏み込む。
クレシューズの四節を真っ直ぐに揃え、怪物の胸へ突き出した。
硬い鱗が割れる。
その奥へ神器が入り込み、身体の中心にあった魔石を正確に打ち砕いた。
怪物の喉へ集まっていた炎が消える。
暗緑色の身体は力を失い、白い壁の前で灰へ変わった。
残った毒針が石床へ落ち、細い音を立てる。
「抜かなくても、壊せば同じだな」
バンはクレシューズを引き戻した。
灰の中には、先ほど奪った物とは別に、何本かの毒針が残っている。
長い物。
先端が欠けていない物。
毒が残っている物。
バンは状態の良い一本だけを拾った。
鞄を開ける。
空いている場所はほとんどない。
毒針を二重の回収袋で包み、シャドーラプトルの爪と並べて入れようとする。
だが、鞄の口が閉まらなかった。
「また入らねぇか」
中身を確認する。
翼竜型の薄い翼膜。
アルマロサウルスの棘。
バジリスクの鱗と毒牙。
大型の魔石。
珍しそうな物ばかりだ。
バンは翼膜を取り出した。
大きい割に薄く、地上でどの程度の値になるのかも分からない。
「こっちと入れ替えるか」
翼膜を壁際へ置き、毒針を鞄へ収めた。
紐を強く引く。
今度はどうにか口が閉じた。
◇
先へ進もうとした時、通路の奥から複数の足音が聞こえた。
バンはクレシューズを肩へ戻さず、そのまま待つ。
現れたのはモンスターではなかった。
七人の冒険者。
先頭の大盾を持つ男を中心に、全員が周囲を警戒しながら歩いている。
武器や防具には新しい傷が多く、何人かは包帯を巻いていた。
第三十六階層のオアシスへ戻る途中らしい。
彼らは、通路に積もる灰と壁の大きな陥没を見た。
「戦闘の跡か?」
「毒がある。触るな」
後方にいた女魔導士が、床へ落ちた紫色の液体を見つけて声を上げる。
別の冒険者が、灰の中に残る針を確認した。
「ペルーダだ」
「この場所でか?」
「壁を移動してきたんだろう。まだ近くにいるかもしれない」
「もういねぇぞ」
バンが言う。
冒険者たちが一斉に顔を向けた。
「お前が倒したのか?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ」
大盾の男は、バンの赤い長衣へ空いた複数の穴を見る。
「毒針を受けたのか?」
「ああ」
「解毒はしたのか?」
「してねぇぞ」
「すぐに薬を使え。ペルーダの毒は、耐異常を持つ上級冒険者にも通る」
「ペルーダってのが、さっきの針の蛇か」
「名前も知らずに戦ったのか?」
「ああ。毒は効かなかったぞ」
「そんなわけがあるか」
男がバンの腕を見る。
針の刺さった傷は、すでに塞がり始めていた。
紫色に変色している場所もない。
呼吸や動きにも異常はなかった。
「本当に平気なのか……?」
「だから言ってんだろ」
バンは足元に残った毒針を指す。
「これ、高ぇのか?」
「ペルーダの毒針か?」
「ああ」
「状態が良ければ、毒を扱う薬師や鍛冶師が買い取る。だが、素手で触るな」
「さっき何本も抜いたぞ」
「抜いた?」
「背中から」
冒険者たちは灰とバンを交互に見る。
説明しても理解されそうにないため、バンはそれ以上話さなかった。
「王座の間へ行くなら、この先で合ってんのか?」
大盾の男は一度息を吐き、通路の奥を指した。
「この道を進めば、第五円環へ入る。ただし、途中に大きな分岐がある」
「どっちだ?」
「壁に三本の縦傷がある方へ進め。一本だけの方は闘技場へ戻される」
「三本だな」
「王座の間には階層主が出るが、今は再出現していないはずだ」
「知ってる。大人数の奴らが倒したんだろ」
「ああ。だが、周囲のスパルトイまで消えたわけではない。王座の間へ近づくほど数が増える」
「魔石はいらねぇから、倒しても仕方ねぇな」
「普通は、倒して進めるかを心配するところだ」
「入んねぇんだよ」
バンが膨らんだ鞄を示す。
大盾の男は中身を知らないまま、呆れたように首を振った。
「無事に戻れると思うなよ」
「戻れんだろ」
「その自信はどこから来るんだ」
「今まで戻ってきたからな」
バンは壁際に置いた翼膜を見る。
「それ、欲しけりゃ持ってけ」
「ドロップアイテムか?」
「ああ。鞄に入らなかった」
「代金は?」
「道を教えてもらったから、それでいいぞ」
「それだけでいいのか?」
「ああ」
冒険者の一人が翼膜を回収する。
彼らは王座の間とは反対側へ歩き始めた。
すれ違う直前、大盾の男が振り返る。
「三本の傷を見落とすなよ」
「分かってる」
「一本の方へ行けば、本当に闘技場へ戻るぞ」
「今度は間違えねぇよ」
バンは片手を上げ、白い迷宮の奥へ進んだ。
◇
第五円環へ近づくほど、通路に残る戦闘跡が増えていった。
砕かれた黒い骨。
壁へ食い込んだ剣や槍。
大きく潰れた黒曜石の装甲。
灰はほとんど残っていないが、先行した遠征隊が数多くのモンスターを倒しながら進んだことは分かる。
バンは最初の分岐へ着いた。
左右の壁を確認する。
右側には一本。
左側には三本の縦傷が刻まれていた。
「こっちだな」
左へ進む。
今度は間違えなかった。
通路は少しずつ広くなり、天井も高くなっていく。
その先から、武器を打ち鳴らす音が聞こえた。
白い門を越えると、数十体のモンスターが通路を埋めていた。
スパルトイ。
リザードマン・エリート。
オブシディアン・ソルジャー。
バーバリアン。
闘技場にいたほどではないが、すべて倒して進めば時間がかかる数だった。
バンは鞄へ目を向ける。
「魔石はいらねぇんだけどな」
《絶気配》を使えば、今回も戦わずに通り抜けられる。
だが、通路の幅が狭い。
盾を並べたオブシディアン・ソルジャーが、道を完全に塞いでいる。
気配を消しても、身体まで消えるわけではない。
隙間を通るには、数体を動かす必要があった。
「仕方ねぇか」
バンはクレシューズを構えた。
怪物たちが一斉に反応する。
前列の盾兵が地面を踏み鳴らし、その後方でスパルトイが槍を構えた。
リザードマン・エリートが左右の壁を走り、バーバリアンが中央から突進してくる。
バンはその場から動かなかった。
四節の神器を長く伸ばす。
複数の節が白い通路へ広がり、クレシューズの先端が遠くの壁際まで届いた。
「まとめて退け」
神器を大きく振り抜く。
「死神の一薙ぎ《アサルトハント》」
四節のクレシューズが、白い通路を横断する巨大な軌道を描いた。
最初に盾が砕ける。
黒曜石の装甲が割れ、その内側の魔石まで破壊された。
後方にいたスパルトイも、構えていた槍ごと薙ぎ払われる。
壁を走っていたリザードマン・エリートは横から打ち抜かれ、白い柱へ叩きつけられた。
突進していたバーバリアンの巨体も止まらない。
クレシューズの一節を正面から受け、後ろにいた群れごと吹き飛んだ。
轟音が迷宮全体へ響く。
石床と白い壁へ、広い亀裂が走った。
怪物たちの魔石が次々と砕ける。
黒い骨。
鱗に覆われた身体。
筋肉質な巨体。
黒曜石の装甲。
すべてが同時に灰へ変わり、白い通路を黒く染めた。
《乱獲》とは違う。
奪い取られた魔石がバンの手元へ集まることはない。
クレシューズの一薙ぎによって、モンスターの身体も魔石もまとめて打ち砕かれていた。
通路を塞いでいた群れが消える。
バンは神器を縮め、肩へ担いだ。
「こっちの方が早ぇな」
回収する物はない。
灰の間に武器や装甲の一部が残っているが、鞄へ入れる余裕もなかった。
バンは足を止めず、その上を進んだ。
◇
第五円環へ入ると、周囲の形が変わった。
細かく分かれていた通路が減り、一つの大きな道が中心へ向かって伸びている。
左右には、黒い骨で作られた巨大な柱が並んでいた。
白い壁の一部へ食い込むように、何本もの大剣も突き立っている。
天然武器。
通常の鍛冶師が作った物ではない。
ダンジョンから生まれた怪物が、自らの武器として使う物だとオアシスのドワーフから聞いていた。
一本だけでも、バンの身長を遥かに超える。
「これを使う奴が、ウダイオスだったか」
階層主はすでに倒されている。
周囲に残る大剣も、持ち主を失ったあとは動かなかった。
バンは一本へ近づき、柄を掴んでみる。
重い。
普通の冒険者なら、持ち上げるだけでも難しいだろう。
バンは片手で石床から引き抜いた。
巨大な刃を軽く振る。
空気が押され、近くに積もっていた灰が舞い上がった。
「悪くねぇけど、持って帰れねぇな」
鞄へ入る大きさではない。
クレシューズもある。
バンは大剣を元の場所へ突き立てた。
さらに奥へ進む。
やがて、白い迷宮の中心が見えた。
王座の間。
天井の高さは、それまでの通路とは比べものにならない。
広大な円形空間の中央に、巨大な黒い石の王座が置かれている。
その前には、深く抉れた石床が広がっていた。
黒い骨の破片。
砕かれた大剣。
魔法で焼かれた跡。
巨大な何かが壁へ叩きつけられた亀裂。
階層主との戦闘が、どれほど激しかったのかを示している。
だが、部屋の中に大きな気配はない。
「本当にいねぇな」
バンの声が広い空間へ響く。
第十七階層。
第二十七階層。
そして第三十七階層。
階層主と戦える場所へ着くたび、先に倒されていた。
「一体くらい残しとけよ」
誰へ向けた言葉でもない。
階層主が再び生まれるまで、この場所で待つつもりもなかった。
バンは王座の周囲を歩く。
黒い石の裏側に、下へ続く大きな階段があった。
入口の横には、三十八の数字が刻まれている。
第三十八階層。
その先について、具体的な話はほとんど聞いていない。
公開されている地図も少なく、階層の特徴やモンスターの情報も曖昧らしい。
「今度は、何がいんだろうな」
バンは鞄を一度下ろした。
紐を確認する。
水袋。
保存食。
酒瓶。
大型の魔石。
毒牙や毒針。
まだ持って進める。
長衣に増えた穴は気になるが、今すぐ動けなくなるほどではない。
「帰る理由もねぇか」
鞄を担ぎ直す。
クレシューズを肩へ乗せた。
王座の間を振り返る。
巨大な戦闘跡だけが残る場所に、バン以外の姿はなかった。
赤い旅人は黒い王座の裏へ回り、未知の深層域へ続く階段を下り始めた。
第89話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は毒針と火炎を扱う竜種ペルーダとの戦いから、〈白の迷宮〉の中心にある王座の間まで進みました。
鞄がすでに満杯で魔石を回収する必要がないため、モンスターの群れには《死神の一薙ぎ》を使い、《乱獲》とは異なる物理的な広範囲攻撃として描いています。
また、階層主ウダイオスが討伐されたあとの王座の間へ到達し、第三十七階層の探索を終えました。