強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

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第90話 迷宮の灰橋

 王座の間から続く階段を下りるにつれて、周囲の色が変わっていった。

 

 第三十七階層を形作っていた白い岩が少しずつ濁り、灰色の筋が混ざり始める。

 

 規則正しく並んでいた柱や装飾も消えた。

 

 代わりに現れたのは、自然に割れたような岩壁と、上下左右へ複雑に伸びる亀裂だった。

 

「急に普通の洞窟みてぇになったな」

 

 最後の段を下りる。

 

 第三十八階層。

 

 バンの目の前には、巨大な縦穴のような空間が広がっていた。

 

 底は見えない。

 

 灰色の岩棚が何段にも重なり、壁から突き出した細い道が、空間の中を不規則に走っている。

 

 上からは細かな石の欠片が落ち続けていた。

 

 一つが暗闇へ消える。

 

 しばらく待っても、底へ当たる音は聞こえなかった。

 

「落ちたら、戻るのが面倒そうだな」

 

 バン自身は、落下した程度では死なない。

 

 だが、鞄の中身は別だ。

 

 魔石なら多少ぶつけても問題ないが、酒瓶や鍋、保存食まで岩壁へ叩きつけられれば無事では済まない。

 

 バンは背負った鞄の紐を引き、身体へ密着させた。

 

 道らしきものはある。

 

 ただし、これまでの階層のように案内板や人工的な目印は見当たらない。

 

 岩壁へ付いた武器傷も少なく、先行した遠征隊の痕跡らしきものは途中で途切れていた。

 

「どっちだ?」

 

 右へ伸びる岩棚。

 

 下へ続く狭い坂。

 

 正面には、クレシューズを使わなければ届かないほど離れた足場がある。

 

 バンはしばらく周囲を見た。

 

 下から、僅かに風が吹き上がってくる。

 

 冷たく、湿った風だ。

 

 その流れの中に、人間の焚き火や料理の匂いは混ざっていない。

 

 ただ、正面の岩棚には新しい靴跡が残っていた。

 

「向こうか」

 

 クレシューズを伸ばす。

 

 先端の一節を、離れた場所へ立つ灰色の岩柱へ巻きつけた。

 

 鞄を片手で押さえながら、身体を引き寄せる。

 

 底の見えない縦穴の上を横切り、反対側の岩棚へ着地した。

 

 灰色の石が靴の下で崩れる。

 

 バンは足元を確認しながら進んだ。

 

 道幅は一定ではない。

 

 二人並べる場所もあれば、壁へ身体を寄せなければ通れない場所もある。

 

 途中には、大きな爪で岩を削ったような跡が残っていた。

 

 人のものではない。

 

 何かが、垂直に近い壁を歩いたらしい。

 

「でけぇ奴も通んのか?」

 

 足元の岩が小さく揺れた。

 

 最初は、上から石が落ちた振動だと思った。

 

 だが、揺れは止まらない。

 

 一定の間隔で近づいてくる。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 岩壁の奥から、何かが歩いていた。

 

 バンが立ち止まる。

 

 正面の壁へ亀裂が走った。

 

 灰色の岩が外側へ膨らみ、一気に砕ける。

 

 破片と土煙の中から、巨大な頭部が現れた。

 

 平たく厚い頭。

 

 左右へ広がる大きな角。

 

 六本の脚。

 

 身体のほとんどを、灰色の岩に似た外殻が覆っている。

 

 壁の中を掘り進んできたらしい。

 

 怪物は細い岩棚へ身体を押し出し、黄色い目でバンを見た。

 

「岩と同じ色だな」

 

 正式な名前は分からない。

 

 怪物は口を大きく開いた。

 

 牙はない。

 

 代わりに、口の内側へ何列もの硬い突起が並んでいる。

 

 岩を噛み砕くためのものらしい。

 

 怪物が頭を振る。

 

 左右へ伸びた角が岩壁を削り、大量の破片を飛ばした。

 

 砕けた岩が、バンと背中の鞄へ降り注ぐ。

 

「荷物に当てんなよ」

 

 バンが片手を伸ばした。

 

「強奪《スナッチ》」

 

 落下していた岩の軌道が変わる。

 

 大小の破片が空中で引き寄せられ、バンの伸ばした手の前へ集まった。

 

 そのまま腕を横へ払う。

 

 奪い取った岩石が、灰色の怪物へ向かって飛んだ。

 

 硬い外殻へ次々と衝突する。

 

 表面に傷は付いたが、割れてはいない。

 

「石じゃ無理か」

 

 怪物は六本の脚で岩棚を蹴った。

 

 大きな頭部を下げ、角を正面へ向けて突進してくる。

 

 道幅は狭い。

 

 避ければ、怪物はそのまま背後の壁へ突っ込むだろう。

 

 だが、擦れ違う際に鞄へ角が当たる可能性がある。

 

 バンは避けなかった。

 

 クレシューズを短く持ち、迫ってきた二本の角の間へ差し込む。

 

 重い衝撃が腕へ伝わった。

 

 足元の岩棚が大きく沈む。

 

 亀裂が走り、端の一部が縦穴へ崩れ落ちた。

 

「結構重ぇな」

 

 怪物は脚を動かし続けている。

 

 六本の爪が岩へ食い込み、バンを縦穴の端へ押そうとする。

 

 バンの靴底が僅かに滑った。

 

「でも、その程度だぞ」

 

 クレシューズを握った片腕を持ち上げる。

 

 巨大な怪物の前脚が、地面から離れた。

 

 身体が傾く。

 

 バンは角へクレシューズを引っ掛けたまま、怪物を横へ投げた。

 

 灰色の巨体が壁へ激突する。

 

 岩壁が大きく陥没し、六本の脚が宙でもがいた。

 

 怪物はすぐに身体を戻そうとした。

 

 バンはクレシューズを伸ばす。

 

 四つの節が外殻へ巻きついた。

 

「もう一回だ」

 

 引くと同時に身体を捻る。

 

 怪物の巨体が壁から剝がれ、今度は反対側へ叩きつけられた。

 

 外殻へ大きな亀裂が入る。

 

 灰色の破片が剝がれ落ち、その下から黒い皮膚が見えた。

 

 怪物が怒ったように身体を震わせる。

 

 六本の脚を岩へ突き立て、再び起き上がった。

 

「まだ動くのか」

 

 バンはクレシューズを縮め、一歩踏み込んだ。

 

 ひびの入った外殻へ、短く持った神器を突き出す。

 

 硬い殻が砕けた。

 

 その奥にあった魔石まで衝撃が届く。

 

 怪物の身体が止まった。

 

 灰色の外殻と黒い皮膚が、同時に灰へ変わっていく。

 

 狭い岩棚へ積もった灰は、下から吹き上がる風に運ばれ、縦穴の中へ消えていった。

 

 残った物は少ない。

 

 角の一部。

 

 外殻の欠片。

 

 魔石は砕いているため、残っていなかった。

 

 バンは灰色の外殻を一つ拾う。

 

 人の胸ほどの大きさがある。

 

 軽く叩くと、岩のような音がした。

 

「硬ぇけど、入らねぇな」

 

 鞄にはすでに空きがない。

 

 持ち帰るために何かを置いていくほど、珍しい物なのかも分からなかった。

 

 バンは外殻を元の場所へ戻した。

 

「拾わなくていいなら、戦うのも早いな」

 

 魔石を抜いて回収する必要もない。

 

 そのまま壊してしまえば、鞄の中身を整理する時間も減る。

 

 バンは先へ進んだ。

 

 

        ◇

 

 

 巨大な縦穴を半周ほど進んだところで、周囲の振動が再び強くなった。

 

 先ほどの六本脚とは違う。

 

 足音ではない。

 

 岩の奥を、何かが高速で掘り進んでいる。

 

 右側。

 

 次は下。

 

 さらに正面。

 

 気配が岩壁の内部を移動していた。

 

「また壁ん中か」

 

 バンがクレシューズを構えた直後、足元が大きく隆起した。

 

 岩棚が下から砕かれる。

 

 バンは鞄を押さえ、崩れる足場から跳んだ。

 

 空中でクレシューズを伸ばし、上方の岩柱へ先端を巻きつける。

 

 身体が縦穴の途中で止まった。

 

 直前まで立っていた場所から、青い巨大な頭が突き出した。

 

 三対の琥珀色の目。

 

 頭部には、小さな穴が無数に並んでいる。

 

 口は大きく開き、人間どころか、先ほどの怪物すら丸ごと呑み込めそうだった。

 

「今度はでけぇ蛇か?」

 

 青い怪物は岩棚を完全に破壊し、長い身体を縦穴へ現した。

 

 全長は十メートルを超えている。

 

 足はない。

 

 鱗に覆われた胴を岩壁へ擦りつけ、まるで水の中を泳ぐように動いていた。

 

 六つの目が、宙へぶら下がるバンへ向く。

 

 巨大な口が開いた。

 

「オレより鞄の方が食いやすそうに見えんのか?」

 

 怪物が壁を蹴るように身体を曲げ、一気に飛びかかった。

 

 バンはクレシューズの巻きついた場所を支点に、身体を横へ振る。

 

 巨大な口が僅かな差で空を噛んだ。

 

 青い怪物は勢いを止められず、反対側の岩壁へ頭から突っ込む。

 

 壁が砕け、新たな穴が空いた。

 

 バンはクレシューズを縮め、怪物の背中へ着地した。

 

 青い鱗は滑りやすい。

 

 怪物が全身を激しくくねらせ、バンを振り落とそうとする。

 

「暴れんな」

 

 クレシューズの一節を頭部へ巻きつける。

 

 バンは足を鱗の隙間へ掛け、そのまま強く引いた。

 

 巨大な頭が後ろへ反る。

 

 怪物はさらに身体を捻り、壁へ背中ごと衝突した。

 

 バンを岩へ押し潰すつもりらしい。

 

 背中と岩壁の間へ挟まれる直前、バンは怪物の身体を蹴って離れた。

 

 赤い長衣を岩の角が掠める。

 

 袖に新しい裂け目が入った。

 

「また服かよ」

 

 青い怪物が、空中のバンへ再び口を開く。

 

 今度は避けず、クレシューズの先端を上顎へ巻きつけた。

 

 閉じようとする口を、強引に横へ引く。

 

 怪物の進行方向が変わる。

 

 巨体が縦穴の中央で回転し、尾が岩棚を薙ぎ払った。

 

 灰色の道が何本も崩れ落ちる。

 

「道まで壊すな」

 

 バンは身体を一度回した。

 

 クレシューズで繋がった怪物の頭部が、その動きに引かれる。

 

 青い巨体が宙で大きく振られ、岩壁へ叩きつけられた。

 

 鈍い轟音。

 

 壁へ巨大な亀裂が走る。

 

 怪物の頭部から、何枚もの鱗が剝がれた。

 

 それでも、まだ動く。

 

 六つの目がバンを見た。

 

 だが、再び襲いかかってはこなかった。

 

 青い怪物は身体を岩の亀裂へ押し込む。

 

「逃げんのか?」

 

 バンがクレシューズを引いた。

 

 だが、怪物は自分の鱗を何枚も剝がしながら、強引に奥へ潜っていく。

 

 周囲の岩が崩れた。

 

 クレシューズの先端が外れ、青い巨体は壁の向こうへ消えた。

 

 気配が下へ移動していく。

 

 同じ階層の道を進んでいるのではない。

 

 岩盤を掘り抜き、さらに深い場所へ向かっていた。

 

「階段使わなくても下りられんのか」

 

 追おうと思えば追える。

 

 だが、怪物が作った穴の奥は崩れ続けている。

 

 鞄を背負ったまま入れば、酒瓶や食料まで岩に埋もれる可能性があった。

 

「まあ、また会ったら倒せばいいか」

 

 バンは追跡をやめた。

 

 怪物によって壊された道の代わりに、別の岩棚へクレシューズを伸ばす。

 

 縦穴を渡り、下へ続く通路を探した。

 

 

        ◇

 

 

 第三十九階層へ続く入口を見つけたのは、それからかなり歩いたあとだった。

 

 案内板はない。

 

 ただ、灰色の壁へ何本もの杭が打ち込まれ、その横に下へ続く緩やかな坂があった。

 

 人の靴跡も多い。

 

「今度は合ってそうだな」

 

 坂を下りる。

 

 周囲の岩は、さらに淡い灰色へ変わっていった。

 

 縦穴から吹いていた風も弱くなる。

 

 怪物の気配が消えた。

 

 壁から新しいモンスターが生まれる兆しもない。

 

 やがて、視界が大きく開けた。

 

 巨大な灰色の橋。

 

 幅は街の大通りほどあり、左右には低い石の欄干が続いている。

 

 橋の下には、底の見えない暗い空間が広がっていた。

 

 一本だけではない。

 

 大小さまざまな橋が何層にも重なり、遠くに見える巨大な岩山や足場を繋いでいる。

 

 天井から降り注ぐ灰色の光が、無数の橋を淡く照らしていた。

 

「ここが安全階層か」

 

 橋の向こうには、いくつもの焚き火が見える。

 

 天幕。

 

 荷物を積んだ台車。

 

 武器や防具を手入れする冒険者たち。

 

 第十八階層のような街はない。

 

 それでも、橋の一部が遠征隊の休息場所として使われているらしい。

 

 バンが近づくと、見張りをしていた女弓使いが弓を下ろした。

 

「第三十八階層から来たのか?」

 

「ああ」

 

「仲間は?」

 

「いねぇぞ」

 

 女弓使いは、バンの後ろへ広がる橋を確認した。

 

「本当に一人か?」

 

「ああ」

 

「どこのファミリアだ?」

 

「入ってねぇ」

 

「無所属でここまで?」

 

「それ、何回聞かれんだろうな」

 

「普通は何度でも聞く」

 

 女弓使いの視線が、膨らんだ鞄と破れた赤い長衣へ向く。

 

「負傷は?」

 

「服だけだぞ」

 

「服だけには見えないが……」

 

「針も毒も効かなかったからな」

 

「何と戦ってきたんだ?」

 

「色々だ」

 

 バンは橋の奥を見る。

 

「ここで休んでいいのか?」

 

「ああ。第三十九階層〈迷宮の灰橋〉は安全地帯だ。通常のモンスターは生まれない。ただし、第三十八階層や第四十階層から入り込むことはあるから、橋の端には近づきすぎるな」

 

「さっき、壁ん中を進む青い蛇がいたぞ」

 

 女弓使いの表情が変わった。

 

「どんな姿だ?」

 

「でかくて青い。目が六つあって、頭に穴がいっぱいあったな」

 

「ラムトンか」

 

「ラムトン?」

 

「階層を掘り抜いて移動する巨大な蛇だ。〈大蛇の井戸〉や〈ワーム・ウェール〉とも呼ばれている」

 

「階段使わねぇ奴で合ってんな」

 

「遭遇して逃げてきたのか?」

 

「あいつが逃げたぞ」

 

「……何?」

 

「壁に投げたら穴掘って下へ行った」

 

 女弓使いは、しばらく言葉を失った。

 

「ラムトンを投げたのか?」

 

「ああ」

 

「一人で?」

 

「ああ」

 

「もういい。聞いた私が悪かった」

 

 彼女は額を押さえながら、天幕の近くを指した。

 

「橋の中央なら休める。水は共同の樽から使っていいが、食料は自分で用意しろ」

 

「水があんのは助かる」

 

「第四十階層へ向かうつもりか?」

 

「ああ」

 

「その格好のまま?」

 

 赤い長衣には、バジリスクの牙による穴。

 

 炎で焦げた跡。

 

 ペルーダの毒針に開けられた穴。

 

 先ほど岩へ擦った新しい裂け目。

 

 縫った部分より、傷んでいる部分の方が増え始めていた。

 

「休んでる間に直すぞ」

 

「直すという段階を過ぎているように見えるが……」

 

 バンは気にせず、焚き火の空いている場所へ向かった。

 

 

        ◇

 

 

 第三十九階層には、三つの遠征隊が休んでいた。

 

 第四十階層以降へ向かう一団。

 

 深層から帰還してきた一団。

 

 そして、物資を第三十九階層まで運んできた補給隊。

 

 補給隊の荷物には、保存食、水袋、予備の武器、防具の部品、薬などが積まれている。

 

 バンは鞄を下ろした。

 

 中身を並べる。

 

 保存食はまだ残っている。

 

 だが、最初に持ってきた量と比べればかなり減っていた。

 

 水袋は二つ。

 

 酒瓶は一本。

 

 魔石と素材は、鞄の大半を埋めている。

 

「そりゃ閉まらねぇわけだ」

 

 近くで荷物を整理していた小人族が、並べられた魔石を見て声を上げた。

 

「これを全部、一人で集めたんですか?」

 

「ああ」

 

「強化種の魔石……こっちはバジリスクですか?」

 

「ああ。でかい方から残したぞ」

 

「普通は種類や希少性も考えるんですけど」

 

「でかい方が高ぇって聞いたからな」

 

「だいたいは合っていますが、全部ではありません」

 

 小人族は魔石と素材を一つずつ確認した。

 

 バジリスクの毒牙。

 

 鱗。

 

 ペルーダの毒針。

 

 アルマロサウルスの棘。

 

 黒い爪。

 

 深層モンスターの魔石。

 

「この毒針と毒牙なら、食料や布と交換できます」

 

「布あんのか?」

 

「深層用の補修布があります。鎧の下へ使う厚手の物なので、普通の服よりは丈夫ですよ」

 

「赤いのは?」

 

「ありません」

 

「ならいらねぇ」

 

「色を気にする状態ですか?」

 

「ああ」

 

 迷いのない返事だった。

 

 小人族は破れた長衣を見る。

 

「赤い布そのものはありませんが、裏から灰色の補修布を当てれば、外側の色はほとんど変わりません」

 

「それならいいぞ」

 

「本当に赤へこだわるんですね」

 

「気に入ってんだよ」

 

 バンはペルーダの毒針を一本渡した。

 

 その代わりに、補修布、太い糸、針、三日分ほどの保存食を受け取る。

 

「毒針一本で、こんなにいいのか?」

 

「むしろこちらが少し得をしています。状態が良く、毒も十分に残っていますから」

 

「なら酒もくれ」

 

「酒は積んでいません」

 

「使えねぇな」

 

「補給隊へ最初に求める物ではありませんよ」

 

 小人族が苦笑した。

 

 バンは長衣を脱ぎ、焚き火の近くへ座る。

 

 補修布を穴の内側へ当て、太い糸を通していった。

 

 上手くはない。

 

 縫い目も揃っていない。

 

 それでも、これまで使っていた細い糸よりは丈夫だった。

 

 途中、近くにいたドワーフの女が見かねて手を伸ばした。

 

「貸せ」

 

「何だ?」

 

「その縫い方では、動いた瞬間に布ごと裂ける」

 

「着られりゃいいぞ」

 

「第四十階層以降で服を失いたくなければ、黙って渡せ」

 

 バンは針と長衣を差し出した。

 

 ドワーフの女は手際よく補修布を切り、肩、袖、脇腹へ当てていく。

 

 外側から見える赤い布は残したまま、内側だけを厚く補強した。

 

「これなら、多少の爪や刃は防げる」

 

「炎は?」

 

「普通の布よりは燃えにくい。だが、竜の炎を受ければ焼ける」

 

「オレは平気なのにな」

 

「お前と同じ耐久力を服へ求めるな」

 

 補修を終えた長衣を受け取る。

 

 着直し、腕を回す。

 

 少し厚くなったが、動きにくくはない。

 

 外から見れば、縫い目が増えただけで赤い色もほとんど変わっていなかった。

 

「悪くねぇな」

 

「代金は?」

 

「さっき渡した針じゃ足りねぇのか?」

 

「あれは補給隊との交換だ。私は別だぞ」

 

 バンは鞄の中を見る。

 

「魔石はでかすぎるな」

 

「飯を一杯でいい」

 

「それでいいのか?」

 

「さっきから鍋を持っているのが見えている。深層で自炊する妙な男の料理が、少し気になっただけだ」

 

「なら作るか」

 

 バンは小鍋を取り出した。

 

 

        ◇

 

 

 食事を終えたあと、バンは橋の欄干へ背中を預けた。

 

 干し肉と豆の煮込み。

 

 補給隊から受け取った乾燥野菜。

 

 硬いパン。

 

 食料を少し使ったが、交換した分を考えれば、鞄の中身は出発前より増えている。

 

 ドワーフの女も約束通り一杯だけ食べ、満足そうに自分の天幕へ戻っていった。

 

 バンは酒瓶を取り出す。

 

 一口飲む。

 

 第三十六階層から大切に持ってきた酒は、残り半分ほどになっていた。

 

「これも補給できりゃよかったんだけどな」

 

 橋の下には、暗い空間が広がっている。

 

 遠くでは、別の橋を歩く冒険者の魔石灯が小さく動いていた。

 

 怪物の鳴き声は聞こえない。

 

 壁から何かが生まれる音もなかった。

 

 久しぶりの静けさだった。

 

 バンは鞄を枕代わりにする。

 

 酒瓶だけは中へ戻し、割れない位置へ置いた。

 

 クレシューズを手の届く場所へ寝かせる。

 

 眠る必要を強く感じていたわけではない。

 

 それでも、ここまで長く歩き続けている。

 

 食料や水を補充できる安全階層へ着いた以上、急いで進む理由もなかった。

 

「少し寝るか」

 

 赤い長衣の襟を閉じる。

 

 灰色の光が降り注ぐ橋の上で、バンは目を閉じた。

 

        ◇

 

 目を開けた時、周囲の景色は変わっていなかった。

 

 太陽も月もないため、どれほど眠っていたのかは分からない。

 

 ただ、別の遠征隊が出発の準備を始めている。

 

 身体の疲れは消えていた。

 

 バンは起き上がり、鞄の中身を確認した。

 

 水袋。

 

 補充した保存食。

 

 酒瓶。

 

 大型の魔石と素材。

 

 鞄は相変わらず重いが、必要な物は揃っている。

 

 補強された赤い長衣も問題ない。

 

 クレシューズを肩へ担ぐ。

 

 橋の先には、下へ向かう大きな坂があった。

 

 入口の横へ、四十の数字が刻まれている。

 

 第四十階層。

 

 橋の近くにいた冒険者から聞いた名は、〈巨人の墓場〉。

 

 詳しい地形も、出現するモンスターの名前も分からない。

 

 ただ、大型の怪物が多い場所だという。

 

「でかい奴なら、見失うこともねぇな」

 

 バンは鞄の紐を締め直した。

 

 安全地帯〈迷宮の灰橋〉を離れ、第四十階層へ続く坂へ足を踏み入れた。




第90話までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は公開情報の少ない第三十八階層を抜け、深層の安全地帯である第三十九階層〈迷宮の灰橋〉へ到着しました。

第三十八階層では階層間を掘り進む巨大な蛇と遭遇し、第三十九階層で冒険者から《ラムトン》という正式名称を知る流れにしています。

また、満杯になっていた鞄の中身や食料を整理し、傷み続けていた赤い長衣も補強しました。

引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。
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