最初の巨人が崖から身体を剝がした。
黒い皮膚と白い腕を持つ巨体が谷へ踏み出し、その動きに巻き込まれた岩が大量に降り注ぐ。
反対側の崖でも、二体目の巨人が身体を起こしていた。
長い間、岩壁の一部として眠っていたらしい。背中や肩には黒い岩が何層にも張りつき、顔の半分まで覆っている。
一体。
二体。
さらに奥でも、白い腕が崖の中から抜け始めた。
「随分寝てたみてぇだな」
バンはクレシューズを肩から下ろす。
降ってきた岩が谷を埋める。
拳ほどの破片だけではない。人間の身体より大きな岩まで、赤い長衣と背中の鞄へ向かって落ちてきた。
バンが片手を上げる。
「強奪《スナッチ》」
頭上を埋めていた岩の動きが変わった。
落下していた破片が空中で止まり、バンの伸ばした手へ引き寄せられる。
大小さまざまな岩が一か所へ集まり、巨大な塊となった。
バンは腕を横へ払う。
奪い取った岩石が、崖から出ようとしていた巨人へ一斉に飛んだ。
頭。
胸。
肩。
黒い皮膚へ何十もの岩が衝突し、巨体が再び崖へ押し戻される。
表面を覆っていた岩の装甲が割れ、内側の皮膚が見えた。
「自分で落とした奴だぞ」
巨人に言葉は通じない。
岩壁へ埋まったまま、太い腕を横薙ぎに振るった。
腕が崖の表面を削り、今度は横から岩の波が押し寄せる。
バンはクレシューズを伸ばした。
一節を頭上の崖へ巻きつけ、鞄の紐を片手で押さえながら身体を持ち上げる。
岩の波が足元を通過した。
谷の地面へ何本もの亀裂が走り、道の一部が崩れる。
空中へ逃れたバンへ、反対側の巨人が腕を伸ばした。
白い手が大きく開く。
人間一人どころか、鞄ごと握り潰せる大きさだった。
「そっちは触んな」
バンはクレシューズの巻きついた場所を支点に身体を振った。
巨人の指の間を抜ける。
擦れ違う瞬間、伸ばしていた別の一節を白い手首へ巻きつけた。
そのまま引く。
崖から半身だけを出していた巨人の身体が、強引に岩壁から剝がされた。
黒い岩が大量に砕ける。
巨体が谷へ倒れ込み、先に地上へ出ていた巨人へ衝突した。
二体が折り重なって黒い地面へ落ちる。
谷全体が大きく揺れた。
「崖に埋まってる分、見た目よりでけぇな」
倒れた巨人は、上半身だけの怪物ではなかった。
岩壁の中には腰と脚まで隠れていたらしい。全身を出せば、第四十階層で戦った四本腕の巨人よりも背が高い。
最初の巨人が、上へ重なった個体を押し退ける。
黒い皮膚の腕がバンへ伸びた。
バンは空中から降り、巨人の手の甲へ着地する。
怪物が指を閉じようとした瞬間、腕の上を走った。
手首。
肘。
肩。
巨大な身体を道代わりにして、一気に頭部まで進む。
「もう少し寝てろ」
クレシューズを短く持ち、黒い額へ振り下ろした。
鈍い衝撃が響く。
巨人の頭が地面へ叩きつけられ、黒い岩盤が大きく陥没した。
頭部を覆っていた岩の殻が砕ける。
それでも怪物は灰へ変わらない。
魔石は胸の奥にあるらしい。
巨人が倒れたまま、片腕を背中側へ回した。
バンを頭から払い落とそうとする。
迫る手を避け、首から胸へ飛び降りた。
クレシューズを真っ直ぐに揃え、黒い皮膚へ突き出す。
一撃目。
表面を覆っていた岩が割れる。
二撃目。
厚い皮膚と骨を打ち砕く。
三撃目が、胸の奥にある硬い物へ届いた。
魔石が砕ける音がした。
巨人の腕から力が抜ける。
黒い皮膚と白い腕が灰へ変わり、巨大な身体の形を失っていった。
バンは崩れる灰の上から地面へ降りる。
残る巨人たちが咆哮した。
谷の両側から三体。
奥から、さらに一体。
崖へ埋まっていた身体を完全に外へ出し、道を塞ぐように並んでいる。
魔石を集める必要はない。
第三十九階層で食料は補充したが、鞄の空きが増えたわけではなかった。
「一体ずつ壊すのも面倒だな」
先頭の巨人が拳を振り下ろす。
バンは横へ動き、拳を避けた。
黒い地面が砕ける。
その腕へクレシューズを巻きつけ、前方へ強く引いた。
巨人の巨体が傾く。
バンは崩れた地面を蹴り、反対側の崖へ向かって走った。
腕を引かれた巨人も、抵抗するように足を踏ん張る。
だが、止められない。
黒い巨体が谷を横切り、反対側から迫っていた二体へ衝突した。
三体が同じ場所へ崩れる。
最後の一体が、その上から両拳を振り下ろした。
バンはクレシューズを引き戻す。
四つの節が重なった巨人たちの間を走り、それぞれの首、腕、脚へ巻きついた。
互いの巨体が拘束となり、起き上がろうとする動きが止まる。
「力があっても、まとまってりゃ動けねぇだろ」
一体が腕を振りほどこうとする。
別の一体が立ち上がろうとし、その重みで下の巨人がさらに地面へ押し込まれた。
バンはクレシューズを握り直す。
魔石を奪うのではない。
四節の神器を短く縮めながら、重なった巨体の胸へ連続して打ち込んだ。
一体目の魔石が砕ける。
灰へ変わった身体が消え、残る巨人の拘束が僅かに緩んだ。
立ち上がる前に、二体目の胸へクレシューズを突き入れる。
硬い皮膚。
骨。
魔石。
すべてを一撃で打ち砕く。
残る二体も、起き上がる頃には遅かった。
神器の一節が胸へ巻きつき、もう一節が背中から回り込む。
前後から同じ場所を挟むように打ち抜いた。
二つの魔石が同時に砕ける。
谷を塞いでいた巨人たちが、次々と黒い灰へ変わった。
崖から剝がれた部分には、人型の大きな空洞が残っている。
「本当に壁と同じ色だったな」
バンは灰の中を見る。
白い指の一部や岩のような皮膚片が残っていたが、どれも巨大だった。
鞄へ入れるつもりはない。
クレシューズを肩へ戻し、巨人が崩した谷を進んだ。
◇
第四十一階層は、細長い谷が何本も交わっていた。
黒い崖の表面には、先ほどの巨人と同じ人型の跡が残っている。
すべてが怪物とは限らない。
本当に岩が人の形へ削れているだけの場所もあった。
だが、ときおり閉じていた目が開き、白い腕がゆっくりと動き始める。
バンはそのたびに足を止めた。
「これ全部、見分けんの面倒だな」
倒す必要はない。
自分へ気づく前なら、そのまま通り過ぎればいい。
バンは呼吸を浅くし、足音と存在感を消した。
完全な《絶気配》ではない。
すぐ近くを通れば気づかれる可能性はあるが、眠っている怪物をわざわざ起こさない程度には気配を抑える。
岩壁に埋まった巨人の前を進む。
一体の鼻先を横切る。
閉じていた瞼が僅かに動いた。
バンは足を止めず、そのまま距離を取る。
巨人は目を開かなかった。
「寝てる奴まで相手にする必要ねぇな」
谷の途中には、先行した冒険者が残した矢印があった。
黒い壁へ白い塗料で描かれている。
ただし、いくつかは崩落によって途中から消えていた。
別の道を探し、行き止まりへ戻る。
また違う谷へ入る。
何度か同じ人型の空洞を見かけた。
「ここ、さっき通ったな」
足元を見る。
自分の靴跡が残っている。
巨人の足跡とは大きさが違うため、見分けるのは簡単だった。
バンは崖の上を見上げる。
黒い岩の隙間に、白い杭が一本打ち込まれていた。
人間が付けた目印だ。
「上か?」
クレシューズを伸ばし、杭の近くにある岩へ先端を巻きつける。
身体を引き上げた。
崖の途中には、細い横穴があった。
入口へ白い塗料で、四十二の数字が書かれている。
「こんな所にあんのか」
正規の下り道ではない。
谷の底から一度上がり、岩壁の内部を抜けた先で、さらに深い階層へ下りる構造らしい。
バンは横穴へ入った。
◇
第四十二階層へ続く道は、急な下り坂だった。
周囲の黒い岩へ白い骨のような筋が走っている。
下るにつれて道幅が広くなり、天井も少しずつ高くなった。
やがて、遠くから岩が砕ける音が聞こえてくる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
誰かが戦っている音ではない。
もっと規則的で、硬い物が地中を掘り進んでいる音だった。
「この音、前にも聞いたな」
第三十八階層。
巨大な縦穴の岩壁を、水中のように泳いでいた青い大蛇。
三対の目と、大きな口を持つ怪物。
ラムトン。
第九十話で一度戦い、壁の中へ逃げられた相手だった。
バンは足を止める。
音は正面から聞こえていた。
次第に近づいてくる。
右の壁。
左の床。
再び正面。
岩の中を高速で移動していた。
「本当にまた会ったな」
正面の岩壁が大きく膨らむ。
亀裂が走った。
バンは鞄の紐を片手で押さえる。
次の瞬間、黒い壁が内側から弾け飛んだ。
青い巨大な頭部が通路へ突き出す。
三対の琥珀色の目。
頭部へ並ぶ無数の穴。
口を開けば、バンと鞄をまとめて呑み込める大きさがある。
間違いなく、第三十八階層で逃げたラムトンだった。
頭の一部には、以前岩壁へ叩きつけた傷が残っている。
剝がれた鱗も生え直していなかった。
「まだ傷残ってんぞ」
ラムトンの六つの目が一斉にバンへ向く。
怪物も、以前の相手を覚えているのかもしれない。
巨大な口を開き、激しい咆哮を上げた。
通路の天井から、細かな石が降り注ぐ。
「今度は逃がさねぇぞ」
ラムトンが壁を蹴るように長い身体を曲げ、一気に飛びかかった。
バンは正面から走る。
巨大な口が閉じる直前、地面へ身体を滑らせた。
下顎の真下を通り抜ける。
すれ違いながらクレシューズを伸ばし、大蛇の首へ二つの節を巻きつけた。
残る節は、近くの岩柱へ絡ませる。
ラムトンの巨体が前へ進む。
クレシューズが伸びきる。
首を固定された大蛇の身体が、通路の途中で強引に止められた。
勢いだけが残り、長い尾が前方へ流れる。
巨体が横へ折れ曲がり、黒い壁へ衝突した。
岩盤が大きく砕ける。
ラムトンはすぐに身体をくねらせ、首の拘束を外そうとした。
青い鱗がクレシューズへ擦れ、火花が散る。
「前は鱗を剝がして逃げたな」
バンは神器を引く。
今度は首だけではない。
別の一節を長い胴へ伸ばし、何重にも巻きつけた。
ラムトンが岩壁へ潜ろうと頭を向ける。
大口の周囲にある硬い突起が回転するように動き、黒い岩を噛み砕き始めた。
「また穴掘る気か?」
バンが空いている手を伸ばす。
狙うのは、ラムトンの身体ではない。
怪物の前方で崩れ始めていた岩。
「強奪《スナッチ》」
噛み砕かれた岩が、ラムトンの口元から一斉に奪い取られた。
怪物が掘った穴の中からも、細かな破片が引きずり出される。
岩はバンの手元へ集まらず、大蛇の左右へ飛ばされた。
潜ろうとしていた穴の輪郭が露出する。
ラムトンの頭部も、岩の中へ隠れることができない。
「自分で掘った所に入れねぇな」
大蛇は逃げるのを諦め、六つの目をバンへ向けた。
長い尾が振るわれる。
通路全体を埋めるほど太い尾だった。
バンはクレシューズの拘束を緩めず、片腕で受け止めた。
衝撃で足元の岩が沈む。
補強された赤い長衣が風圧で揺れた。
「前より力入ってんな」
傷が残っている一方で、第三十八階層で戦った時より動きは激しい。
さらに深い階層へ移動し、何かを食べたのかもしれない。
それでも、バンを動かすほどではなかった。
尾を掴む。
ラムトンが身体を前へ伸ばし、尾を取り戻そうとする。
バンは反対に引いた。
首はクレシューズによって固定され、尾はバンに掴まれている。
長い胴体が真っ直ぐに伸びきった。
「今度は投げるだけじゃ終わらせねぇぞ」
バンは尾を持ったまま走り出した。
壁際。
通路の中央。
再び壁際。
巨体を横へ振り回し、頭と胴を何度も黒い岩へ叩きつける。
一度目で鱗が剝がれる。
二度目で岩壁へ亀裂が入る。
三度目には、ラムトンの頭部から黒い血が流れ始めた。
それでも怪物は口を開く。
近くの岩柱へ噛みつき、身体を固定しようとした。
「それも邪魔だな」
バンが指を動かす。
ラムトンが噛んでいた岩柱の先端が砕け、口から引き抜かれた。
支えを失った大蛇の身体が再び振られる。
今度は天井へ叩きつけた。
黒い岩が崩れ、大量の破片がラムトンの背中へ降り注ぐ。
大蛇はまだ灰へ変わらない。
バンはクレシューズを縮めながら、一気に怪物の頭部へ近づいた。
六つの目のうち二つが、流れた血によって閉じている。
残る四つが、近づいてくるバンを捉えた。
口が開く。
バンは上顎へ足を乗せ、そのまま頭部へ跳び上がった。
「でけぇ分、魔石も奥か」
以前戦った時は、倒す前に逃げられた。
魔石がどこにあるのかまでは確かめていない。
バンは足元の鱗を見た。
頭部から首。
さらに胴の中央へ意識を伸ばす。
強い気配がある。
胸と呼べる部分の奥。
黒い岩のような硬い骨に守られ、大きな魔石が埋まっていた。
「そこか」
バンは大蛇の背中を走る。
ラムトンが全身を捻り、振り落とそうとする。
足元が大きく傾く。
バンはクレシューズの一節を鱗へ食い込ませ、身体を固定した。
魔石のある位置まで進む。
四つの節を真っ直ぐに揃えた。
両手でクレシューズを握り、青い鱗へ突き立てる。
一撃。
鱗が割れる。
二撃。
分厚い皮膚と骨に亀裂が入る。
ラムトンが激しく暴れ、長い身体を壁へ何度もぶつけた。
バンは離れない。
三撃目を、同じ場所へ振り下ろす。
クレシューズの先端が硬い骨を貫き、その奥にあった魔石へ届いた。
黒紫色の石が砕ける。
ラムトンの全身から力が抜けた。
青い巨体が通路へ落ちる。
六つの目から光が消え、長い身体が灰へ変わり始めた。
大蛇が作った穴と黒い岩の間へ、灰が吸い込まれていく。
「今度は逃げなかったな」
バンは灰の上へ降りた。
魔石は砕いたため残っていない。
青い鱗が何枚か、灰の中から現れた。
以前剝がれた物より大きく、厚い。
頭部にあった穴の周辺からは、岩を砕くための硬い突起も一本残っている。
どちらも珍しそうだった。
バンは鞄を見る。
「入んねぇな」
迷う時間は短かった。
鱗も突起も、その場へ残す。
鞄に入っているバジリスクの魔石や強化種の魔石と交換するほど高いのか分からない。
今は、下へ進む方が先だった。
◇
ラムトンが開けた穴の奥から、冷たい風が吹いていた。
壁の中には、怪物が掘り進んだ長い空洞が続いている。
階段や正規の通路ではない。
穴は斜め下へ向かっていた。
「こいつ、どこから来たんだ?」
正規の道を探すこともできる。
だが、ラムトンは複数の階層を掘り抜いて移動する怪物だ。
この穴が第四十三階層へ続いている可能性もある。
逆に、第四十階層へ戻る穴かもしれない。
バンは風の匂いを確かめた。
第三十九階層の焚き火や食事の匂いはない。
第四十一階層の乾いた土とも違う。
僅かに熱を含んでいた。
「下っぽいな」
バンはクレシューズの先端を穴の奥へ伸ばす。
崩れそうな場所を確認しながら進んだ。
鞄が岩へ当たらないよう、身体の前へ抱える。
穴の途中には、ラムトンの鱗が何枚も落ちていた。
怪物が狭い場所を通るたび、岩へ擦れて剝がれたらしい。
しばらく下ると、前方から赤い光が見えた。
まだ炎と呼べるほど強くはない。
黒い岩の亀裂から、淡い赤色が漏れている。
「次は暑くなんのか?」
穴の出口へ近づく。
最後の岩を押し退け、外へ出た。
そこは、黒い岩に囲まれた広い通路だった。
壁には白い骨の筋が残っている。
ただし、第四十一階層より数は少ない。
代わりに、赤く光る細い亀裂が何本も走っていた。
足元へ落ちている白い石片の一つに、冒険者が刻んだ数字がある。
四十三。
「一階層、抜けてきたみてぇだな」
ラムトンの掘った穴によって、第四十二階層の一部を短縮できたらしい。
正規の入口から出たわけではないため、現在地は分からない。
だが、遠くの壁には人の手で付けられた白い矢印が見える。
バンはそれを追って歩き始めた。
赤い亀裂から、熱を帯びた風が流れてくる。
下へ進むほど、その温度が高くなっていた。
第四十四階層から始まる地域について、第三十九階層で聞いた言葉を思い出す。
紅蓮の山岳。
燃えるような岩盤と、高熱に満ちた深層域。
「また服が燃えそうだな」
補強された赤い長衣の袖を見る。
毒針や巨人の拳には耐えた。
だが、竜の炎や高熱にどこまで耐えられるかは分からない。
バン自身は問題ない。
問題になるのは、いつも服と鞄の中身だった。
「先に四十三を抜けるか」
クレシューズを肩へ担ぎ直す。
赤い光が濃くなる通路の奥へ、バンは歩き始めた。
第93話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は第四十一階層の岩壁へ擬態していた巨人たちとの戦いから、第四十二階層でラムトンと再会する流れを描きました。