赤い光が濃くなる通路の奥へ、バンは歩き始めた。
第四十三階層の黒い岩壁には、細い亀裂が縦横に走っている。
その奥から漏れる光は、松明や魔石灯のものではない。岩そのものが内側から熱を持ち、暗い通路を鈍い赤色に染めていた。
進むほど、空気の温度が上がっていく。
第四十一階層まで漂っていた乾いた冷気は、すでに残っていない。
代わりに吹いてくるのは、焼けた石と金属に似た臭いを含んだ熱風だった。
「急に暑くなったな」
バン自身にとっては、耐えられない熱ではない。
煉獄の環境と比べれば、まだ穏やかな方だった。
だが、背中の鞄は違う。
バンは歩きながら手を後ろへ回し、鞄の表面へ触れた。
革が温かい。
日差しの下へ長時間置いたような熱を帯びている。
中には二つの水袋と、残り半分ほどの酒瓶が入っていた。保存食も補充したばかりである。
「水が全部ぬるくなりそうだな」
服や鞄が焼けても、バンは死なない。
しかし、水や酒が駄目になれば、ここまで持ってきた意味がなかった。
少し広くなった場所で足を止め、鞄を下ろす。
紐を解き、中身を確認した。
水袋はまだ破れていない。
酒瓶にもひびはなかった。
保存食の匂いも変わっていないが、鞄の外側へ近い場所に入れていた干し肉は、すでに温まり始めていた。
「置き方変えた方がいいか」
バンは大型の魔石と素材を取り出した。
強化種から奪った大きな魔石。
バジリスクの鱗と毒牙。
アルマロサウルスの棘。
黒い爪。
ペルーダの毒針。
そして、深層で手に入れた複数の大型魔石。
鞄の中央に水袋と酒瓶を移し、周囲を布と保存食で囲む。
外側には、比較的熱へ強そうな魔石と素材を配置した。
最後に、バジリスクの大きな鱗を一枚取り出す。
鞄の背中側へ差し込み、熱を遮る板のように置いた。
「こいつが役に立つとはな」
売るために持ってきた素材だったが、今は荷物を守る方が先だった。
鞄を閉じ、背負い直す。
先ほどより背中へ伝わる熱は弱くなった。
「悪くねぇな」
バンは再び通路を進んだ。
◇
しばらく進むと、壁に描かれた白い矢印が見つかった。
赤い光に照らされ、塗料の端が薄く焦げている。
矢印は通路の奥を指していた。
近くには、岩壁を刃物で削った跡もある。
先に深層へ向かった冒険者たちが残したものらしい。
矢印の下には、数多くの靴跡が重なっていた。
下へ向かうもの。
上へ戻るもの。
古い跡は熱と細かな灰に埋もれているが、上へ向かう靴跡の中には、まだ輪郭のはっきりしたものもある。
「先に行った奴ら、もう上がってきてんのか?」
第三十九階層で聞いた話を思い出す。
大規模な遠征隊が、遥か下の階層まで潜っている。
予定どおりなら、すでに帰還を始めている頃だとも聞いていた。
この足跡が、その遠征隊のものかは分からない。
だが、大人数がここを往復したことだけは確かだった。
バンは新しい靴跡と逆の方向へ進んだ。
通路は少しずつ下り坂へ変わっていく。
赤い亀裂の数も増えた。
数歩先の床から、細い煙が立ち上っている。
バンが近づいた直後、亀裂の奥で低い音が響いた。
「何だ?」
次の瞬間、赤い蒸気が噴き出した。
床から天井までを埋める熱風。
バンは横へ動く。
身体には当たらなかったが、赤い長衣の裾が熱風に巻き込まれた。
布が大きく揺れ、焦げた臭いが広がる。
「また服かよ」
補修布を当てた部分は燃えていない。
第三十九階層で直してもらった箇所が、どうにか熱へ耐えていた。
しかし、もともとの赤い布は少し黒く変色している。
バンは熱風の噴出口を見る。
一度噴き出した後、赤い蒸気は弱くなった。
完全に止まる。
少し待つ。
やがて、亀裂の奥から再び低い音が聞こえた。
「一定じゃねぇのか」
最初の噴出から次の予兆までの間隔が短い。
だが、完全に不規則というわけでもなさそうだった。
バンは三度目まで待った。
床の振動。
亀裂の光。
音が高くなった直後に、熱風が噴き出す。
「分かりやすいな」
熱風が弱まった瞬間、バンは走った。
いくつもの亀裂を飛び越え、狭い安全な岩場へ着地する。
その直後、背後から再び赤い蒸気が噴き上がった。
鞄の紐を確認する。
中で瓶が割れる音はしない。
「飛んだ方が早ぇか」
先の床にも同じ亀裂が続いている。
今度は熱風が止まるのを待たず、クレシューズを伸ばした。
先端を天井近くの岩へ巻きつける。
身体を引き上げ、赤い蒸気の上を振り子のように渡った。
足元では何本もの熱風が噴き出していた。
赤い長衣の裾が浮く。
バンは反対側の壁を蹴り、最後の亀裂を越えた。
着地した場所には、人間が休んだ跡があった。
黒い岩を並べて作った簡素な腰掛け。
空になった水樽。
折れた槍の柄。
焦げた布。
誰かが長時間滞在した場所ではない。
熱風が弱まる時間を待つため、一時的に使われたのだろう。
水樽へ近づく。
中身は一滴も残っていなかった。
「やっぱ水使うんだな」
バンは自分の水袋を取り出した。
一口飲む。
完全に冷たくはないが、先ほど鞄の配置を変えたおかげで、まだ飲める温度だった。
「酒は地上まで残しときてぇけどな」
一瞬だけ酒瓶を出そうか迷い、やめた。
この熱の中で飲めば、すぐに残りがなくなる。
水袋を戻し、先へ進んだ。
◇
下り坂の終わりには、黒い門のような岩が立っていた。
人工的に作られた門ではない。
二本の巨大な岩柱が左右へそびえ、その上部が途中で繋がっている。
中央の岩肌へ、数字が刻まれていた。
四十四。
「ここからか」
門を抜ける。
それまでの狭い通路が、一気に開けた。
バンは足を止める。
目の前には、巨大な山岳地帯が広がっていた。
空はない。
遥か上方にはダンジョンの天井があるはずだが、赤黒い煙と熱気に遮られ、姿は見えなかった。
黒い山々が何層にも重なっている。
山肌には赤熱した亀裂が走り、その隙間から炎のような光が漏れていた。
谷底には、溶けた金属にも似た赤い流れがゆっくりと動いている。
本物の溶岩なのか、熱せられたダンジョンの体液なのかは分からない。
遠くでは、山の側面から赤い蒸気が噴き上がっていた。
低い轟音が何度も響く。
第四十四階層。
〈紅蓮の山岳〉。
その名のとおりの景色だった。
「山まであんのか」
第三十三階層では砂漠。
第二十九階層からは密林と峡谷。
第三十七階層には白い迷宮。
今度は、火山のような山岳地帯が地下に広がっている。
ダンジョンの内部にいることを忘れそうなほど巨大だった。
入口から続く道は、黒い山肌へ沿って細く伸びている。
壁際には、白い塗料で矢印が描かれていた。
第四十三階層で見たものと同じ印だ。
バンは矢印を追って歩く。
地面は熱い。
靴底を通して熱が伝わってくる。
バン自身は平気だが、普通の靴なら長く歩くうちに底が焼けるだろう。
ときおり、赤く焼けた石が山の斜面から転がり落ちてくる。
一つがバンの近くへ落ちた。
石床へぶつかった瞬間、周囲へ火花が散る。
「これ全部避けながら行くのか?」
バンが上を見る。
山肌には、大小さまざまな赤い岩が張りついている。
そのうちの一つが動いた。
「ん?」
岩ではない。
赤黒い石を何枚も重ねたような身体。
太く短い四本の脚。
頭部らしい場所は小さく、身体のほとんどが熱を帯びた岩の外殻に覆われている。
怪物は斜面へ爪を食い込ませ、ゆっくりとバンへ顔を向けた。
外殻の隙間から赤い光が漏れている。
「岩じゃなかったのか」
怪物が身体を丸めた。
四本の脚と頭部が外殻の内側へ引っ込み、完全な岩塊のような形になる。
そのまま斜面を転がり始めた。
赤熱した巨岩が、バンへ向かって速度を上げる。
「道ごと落とす気か?」
避ければ、怪物は背後にある細い道へ衝突する。
道が完全に崩れるかどうかは分からないが、落ちた鞄を回収するのは面倒だった。
バンはクレシューズを肩から下ろす。
赤い巨岩が迫った。
熱気が正面から押し寄せる。
バンは横へ一歩だけ動き、クレシューズを伸ばした。
四つの節が転がる怪物の周囲へ巻きつく。
強く引く。
巨岩の軌道が僅かに横へずれた。
バンのすぐ隣を通り過ぎ、道の端へ衝突する。
だが、怪物は落ちない。
岩へ身体をぶつけた反動で向きを変え、再びバンへ転がり始めた。
「硬ぇな」
正面から殴っても倒せるだろう。
しかし、外殻を砕けば高熱の破片が鞄へ飛んでくる。
バンは片手を伸ばした。
狙うのは、身体の奥にある魔石ではない。
怪物を覆っている赤黒い岩の外殻。
「強奪《スナッチ》」
転がっていた怪物の表面から、何枚もの岩板が浮き上がった。
外殻が、持ち主の身体から強引に引き剝がされる。
赤い岩板が宙を飛び、道の反対側へ落ちていく。
怪物の回転が崩れた。
四本の脚と小さな頭部が露出する。
外殻の下にあった身体は、黒く硬い皮膚に覆われていた。
「中は普通だな」
怪物は足をばたつかせ、体勢を戻そうとする。
バンはクレシューズを短く持った。
露出した胴の中心へ、神器の柄を突き込む。
一撃。
黒い皮膚と骨が砕け、その奥の魔石まで衝撃が届いた。
怪物の身体が止まる。
赤い光が消え、黒い灰へ変わった。
奪い取った外殻の一部だけが、道の上へ残る。
バンは赤黒い岩板を一枚拾った。
触れると、まだ強い熱を持っている。
炎は出ていないが、普通の人間なら素手で持つことも難しいだろう。
「これも売れそうだけどな」
鞄を見る。
空きはない。
水袋や酒瓶を守るため、配置も変えたばかりだった。
熱を持つ素材を入れれば、中の食料まで焼ける可能性がある。
「いらねぇか」
岩板を道の脇へ置く。
戦うたびに拾っていれば、どれだけ鞄があっても足りない。
バンは灰の上を越え、先へ進んだ。
◇
紅蓮の山岳の道は、平坦ではなかった。
細い山道を上る。
赤熱した谷を越える。
今度は急な斜面を下る。
下へ向かっているはずなのに、一時的に上へ進まなければならない場所も多い。
谷の反対側へ続く道が途中で途切れていた。
間には、赤い光を放つ深い亀裂がある。
幅は十メートルほど。
下から吹き上がる熱風によって、周囲の景色が揺れていた。
バンはクレシューズを伸ばし、向こう側の岩柱へ先端を巻きつける。
鞄の紐を確かめる。
「今度は酒落とさねぇぞ」
身体を引く。
亀裂の上を横切る。
下から熱風が吹き上がり、赤い長衣が大きく膨らんだ。
鞄も背中から浮きそうになる。
バンは片手で紐を掴み、そのまま反対側へ着地した。
靴底が熱い岩へ触れる。
すぐに足を離し、温度の低い黒い地面へ移動した。
「進むだけでも面倒だな」
敵を倒すより、荷物を守りながら地形を越える方が時間を使う。
しかし、未知の景色を歩くこと自体は嫌いではなかった。
バンは遠くの山を見る。
赤い稜線。
黒い岩。
噴き上がる熱風。
視界の端で、何かが動いた。
山肌に沿って、複数の小さな光が移動している。
怪物の目ではない。
一定の間隔で並んでいる。
魔石灯。
バンが進んでいる方向とは逆に、山道を上っていた。
一つや二つではない。
十を超える光が列になり、さらにその後ろにも続いている。
「人がいんのか」
かなり距離がある。
この位置から声を掛けても届かない。
光の列は、バンが立っている場所より低い道を通り、第四十三階層へ向かっているようだった。
先ほど見つけた新しい靴跡。
上へ戻る冒険者たち。
あの一団が残したものかもしれない。
バンは少し考え、クレシューズを肩へ戻した。
「追えば道聞けそうだな」
だが、光の列は上へ向かっている。
バンが進みたいのは下だった。
今さら引き返して追いつくほどでもない。
それに、一団が通ってきた道を逆に辿れば、下り道へ近づける可能性が高い。
バンは光の列が現れた方向を確かめる。
山道の途中に、白い布が結ばれた細い岩柱が見えた。
そこから下へ向かって、別の道が伸びている。
「こっちか」
バンは歩き出した。
◇
岩柱へ着いた頃には、周囲の熱がさらに強くなっていた。
白い布は一部が焦げている。
それでも、結び目はしっかり残っていた。
足元には新しい靴跡がいくつもある。
大きな荷物を引きずった跡。
傷ついた者を支えたような不揃いな足跡。
重い何かを担いで歩いた深い靴跡。
上へ向かう一団は、無傷ではなかったらしい。
バンは足跡の一つへしゃがみ込む。
黒い地面に、小さな血の跡が残っていた。
すでに乾いている。
近くには、包帯の切れ端も落ちていた。
「随分下から来たみてぇだな」
第四十四階層へ少し入っただけで、この消耗ではないだろう。
もっと深い場所で戦い、長い道を上ってきた者たちの痕跡だった。
バンは布が示す道へ入る。
そこは、山の側面を削ったような狭い通路だった。
片側は黒い壁。
反対側は赤い谷。
遠くの山道を移動する魔石灯が、ときおり岩の隙間から見えた。
道を進むにつれ、その光は少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、下方から別の音が聞こえ始めた。
怪物の咆哮ではない。
石へ金属を打ち込む音。
誰かが武器や防具を修理しているような硬い音だった。
一度。
二度。
少し間を置いて、また響く。
「まだ別の奴らもいんのか?」
音は下から聞こえている。
先ほど上っていた一団とは別に、紅蓮の山岳の中で休んでいる者たちがいるのかもしれない。
バンは足を止めず、赤く照らされた道を下っていく。
やがて山道の先に、岩壁へ囲まれた広い場所が見えてきた。
魔石灯。
複数の人影。
壁際へ並べられた荷物。
そして、巨大な楯を地面へ置き、その横で防具を直している冒険者たち。
遠征隊の一部らしい。
まだバンには気づいていない。
見張りはいるが、視線は谷の反対側へ向けられている。
バンは赤い長衣の襟を軽く直した。
「やっと道聞けんな」
膨らんだ鞄を背負い、クレシューズを肩へ担いだまま、冒険者たちの休息地点へ歩いていった。
第94話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は第四十三階層の赤熱した通路を抜け、第44階層〈紅蓮の山岳〉へ入るまでを描きました。
バン自身には高熱が大きな脅威にならなくても、水袋、保存食、酒瓶、赤い長衣には影響があるため、バジリスクの鱗を熱除けとして使い、荷物を守りながら進んでいます。
また、岩石型のモンスターに対しては魔石を直接抜くのではなく、《強奪》で外殻を剝がし、露出した身体の魔石をクレシューズで破壊しました。
引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。