強欲の旅人は神の恩恵を受けない   作:ルクエリシオン

98 / 103
第94話 赤熱の境界

 赤い光が濃くなる通路の奥へ、バンは歩き始めた。

 

 第四十三階層の黒い岩壁には、細い亀裂が縦横に走っている。

 

 その奥から漏れる光は、松明や魔石灯のものではない。岩そのものが内側から熱を持ち、暗い通路を鈍い赤色に染めていた。

 

 進むほど、空気の温度が上がっていく。

 

 第四十一階層まで漂っていた乾いた冷気は、すでに残っていない。

 

 代わりに吹いてくるのは、焼けた石と金属に似た臭いを含んだ熱風だった。

 

「急に暑くなったな」

 

 バン自身にとっては、耐えられない熱ではない。

 

 煉獄の環境と比べれば、まだ穏やかな方だった。

 

 だが、背中の鞄は違う。

 

 バンは歩きながら手を後ろへ回し、鞄の表面へ触れた。

 

 革が温かい。

 

 日差しの下へ長時間置いたような熱を帯びている。

 

 中には二つの水袋と、残り半分ほどの酒瓶が入っていた。保存食も補充したばかりである。

 

「水が全部ぬるくなりそうだな」

 

 服や鞄が焼けても、バンは死なない。

 

 しかし、水や酒が駄目になれば、ここまで持ってきた意味がなかった。

 

 少し広くなった場所で足を止め、鞄を下ろす。

 

 紐を解き、中身を確認した。

 

 水袋はまだ破れていない。

 

 酒瓶にもひびはなかった。

 

 保存食の匂いも変わっていないが、鞄の外側へ近い場所に入れていた干し肉は、すでに温まり始めていた。

 

「置き方変えた方がいいか」

 

 バンは大型の魔石と素材を取り出した。

 

 強化種から奪った大きな魔石。

 

 バジリスクの鱗と毒牙。

 

 アルマロサウルスの棘。

 

 黒い爪。

 

 ペルーダの毒針。

 

 そして、深層で手に入れた複数の大型魔石。

 

 鞄の中央に水袋と酒瓶を移し、周囲を布と保存食で囲む。

 

 外側には、比較的熱へ強そうな魔石と素材を配置した。

 

 最後に、バジリスクの大きな鱗を一枚取り出す。

 

 鞄の背中側へ差し込み、熱を遮る板のように置いた。

 

「こいつが役に立つとはな」

 

 売るために持ってきた素材だったが、今は荷物を守る方が先だった。

 

 鞄を閉じ、背負い直す。

 

 先ほどより背中へ伝わる熱は弱くなった。

 

「悪くねぇな」

 

 バンは再び通路を進んだ。

 

 

        ◇

 

 

 しばらく進むと、壁に描かれた白い矢印が見つかった。

 

 赤い光に照らされ、塗料の端が薄く焦げている。

 

 矢印は通路の奥を指していた。

 

 近くには、岩壁を刃物で削った跡もある。

 

 先に深層へ向かった冒険者たちが残したものらしい。

 

 矢印の下には、数多くの靴跡が重なっていた。

 

 下へ向かうもの。

 

 上へ戻るもの。

 

 古い跡は熱と細かな灰に埋もれているが、上へ向かう靴跡の中には、まだ輪郭のはっきりしたものもある。

 

「先に行った奴ら、もう上がってきてんのか?」

 

 第三十九階層で聞いた話を思い出す。

 

 大規模な遠征隊が、遥か下の階層まで潜っている。

 

 予定どおりなら、すでに帰還を始めている頃だとも聞いていた。

 

 この足跡が、その遠征隊のものかは分からない。

 

 だが、大人数がここを往復したことだけは確かだった。

 

 バンは新しい靴跡と逆の方向へ進んだ。

 

 通路は少しずつ下り坂へ変わっていく。

 

 赤い亀裂の数も増えた。

 

 数歩先の床から、細い煙が立ち上っている。

 

 バンが近づいた直後、亀裂の奥で低い音が響いた。

 

「何だ?」

 

 次の瞬間、赤い蒸気が噴き出した。

 

 床から天井までを埋める熱風。

 

 バンは横へ動く。

 

 身体には当たらなかったが、赤い長衣の裾が熱風に巻き込まれた。

 

 布が大きく揺れ、焦げた臭いが広がる。

 

「また服かよ」

 

 補修布を当てた部分は燃えていない。

 

 第三十九階層で直してもらった箇所が、どうにか熱へ耐えていた。

 

 しかし、もともとの赤い布は少し黒く変色している。

 

 バンは熱風の噴出口を見る。

 

 一度噴き出した後、赤い蒸気は弱くなった。

 

 完全に止まる。

 

 少し待つ。

 

 やがて、亀裂の奥から再び低い音が聞こえた。

 

「一定じゃねぇのか」

 

 最初の噴出から次の予兆までの間隔が短い。

 

 だが、完全に不規則というわけでもなさそうだった。

 

 バンは三度目まで待った。

 

 床の振動。

 

 亀裂の光。

 

 音が高くなった直後に、熱風が噴き出す。

 

「分かりやすいな」

 

 熱風が弱まった瞬間、バンは走った。

 

 いくつもの亀裂を飛び越え、狭い安全な岩場へ着地する。

 

 その直後、背後から再び赤い蒸気が噴き上がった。

 

 鞄の紐を確認する。

 

 中で瓶が割れる音はしない。

 

「飛んだ方が早ぇか」

 

 先の床にも同じ亀裂が続いている。

 

 今度は熱風が止まるのを待たず、クレシューズを伸ばした。

 

 先端を天井近くの岩へ巻きつける。

 

 身体を引き上げ、赤い蒸気の上を振り子のように渡った。

 

 足元では何本もの熱風が噴き出していた。

 

 赤い長衣の裾が浮く。

 

 バンは反対側の壁を蹴り、最後の亀裂を越えた。

 

 着地した場所には、人間が休んだ跡があった。

 

 黒い岩を並べて作った簡素な腰掛け。

 

 空になった水樽。

 

 折れた槍の柄。

 

 焦げた布。

 

 誰かが長時間滞在した場所ではない。

 

 熱風が弱まる時間を待つため、一時的に使われたのだろう。

 

 水樽へ近づく。

 

 中身は一滴も残っていなかった。

 

「やっぱ水使うんだな」

 

 バンは自分の水袋を取り出した。

 

 一口飲む。

 

 完全に冷たくはないが、先ほど鞄の配置を変えたおかげで、まだ飲める温度だった。

 

「酒は地上まで残しときてぇけどな」

 

 一瞬だけ酒瓶を出そうか迷い、やめた。

 

 この熱の中で飲めば、すぐに残りがなくなる。

 

 水袋を戻し、先へ進んだ。

 

 

        ◇

 

 

 下り坂の終わりには、黒い門のような岩が立っていた。

 

 人工的に作られた門ではない。

 

 二本の巨大な岩柱が左右へそびえ、その上部が途中で繋がっている。

 

 中央の岩肌へ、数字が刻まれていた。

 

 四十四。

 

「ここからか」

 

 門を抜ける。

 

 それまでの狭い通路が、一気に開けた。

 

 バンは足を止める。

 

 目の前には、巨大な山岳地帯が広がっていた。

 

 空はない。

 

 遥か上方にはダンジョンの天井があるはずだが、赤黒い煙と熱気に遮られ、姿は見えなかった。

 

 黒い山々が何層にも重なっている。

 

 山肌には赤熱した亀裂が走り、その隙間から炎のような光が漏れていた。

 

 谷底には、溶けた金属にも似た赤い流れがゆっくりと動いている。

 

 本物の溶岩なのか、熱せられたダンジョンの体液なのかは分からない。

 

 遠くでは、山の側面から赤い蒸気が噴き上がっていた。

 

 低い轟音が何度も響く。

 

 第四十四階層。

 

 〈紅蓮の山岳〉。

 

 その名のとおりの景色だった。

 

「山まであんのか」

 

 第三十三階層では砂漠。

 

 第二十九階層からは密林と峡谷。

 

 第三十七階層には白い迷宮。

 

 今度は、火山のような山岳地帯が地下に広がっている。

 

 ダンジョンの内部にいることを忘れそうなほど巨大だった。

 

 入口から続く道は、黒い山肌へ沿って細く伸びている。

 

 壁際には、白い塗料で矢印が描かれていた。

 

 第四十三階層で見たものと同じ印だ。

 

 バンは矢印を追って歩く。

 

 地面は熱い。

 

 靴底を通して熱が伝わってくる。

 

 バン自身は平気だが、普通の靴なら長く歩くうちに底が焼けるだろう。

 

 ときおり、赤く焼けた石が山の斜面から転がり落ちてくる。

 

 一つがバンの近くへ落ちた。

 

 石床へぶつかった瞬間、周囲へ火花が散る。

 

「これ全部避けながら行くのか?」

 

 バンが上を見る。

 

 山肌には、大小さまざまな赤い岩が張りついている。

 

 そのうちの一つが動いた。

 

「ん?」

 

 岩ではない。

 

 赤黒い石を何枚も重ねたような身体。

 

 太く短い四本の脚。

 

 頭部らしい場所は小さく、身体のほとんどが熱を帯びた岩の外殻に覆われている。

 

 怪物は斜面へ爪を食い込ませ、ゆっくりとバンへ顔を向けた。

 

 外殻の隙間から赤い光が漏れている。

 

「岩じゃなかったのか」

 

 怪物が身体を丸めた。

 

 四本の脚と頭部が外殻の内側へ引っ込み、完全な岩塊のような形になる。

 

 そのまま斜面を転がり始めた。

 

 赤熱した巨岩が、バンへ向かって速度を上げる。

 

「道ごと落とす気か?」

 

 避ければ、怪物は背後にある細い道へ衝突する。

 

 道が完全に崩れるかどうかは分からないが、落ちた鞄を回収するのは面倒だった。

 

 バンはクレシューズを肩から下ろす。

 

 赤い巨岩が迫った。

 

 熱気が正面から押し寄せる。

 

 バンは横へ一歩だけ動き、クレシューズを伸ばした。

 

 四つの節が転がる怪物の周囲へ巻きつく。

 

 強く引く。

 

 巨岩の軌道が僅かに横へずれた。

 

 バンのすぐ隣を通り過ぎ、道の端へ衝突する。

 

 だが、怪物は落ちない。

 

 岩へ身体をぶつけた反動で向きを変え、再びバンへ転がり始めた。

 

「硬ぇな」

 

 正面から殴っても倒せるだろう。

 

 しかし、外殻を砕けば高熱の破片が鞄へ飛んでくる。

 

 バンは片手を伸ばした。

 

 狙うのは、身体の奥にある魔石ではない。

 

 怪物を覆っている赤黒い岩の外殻。

 

「強奪《スナッチ》」

 

 転がっていた怪物の表面から、何枚もの岩板が浮き上がった。

 

 外殻が、持ち主の身体から強引に引き剝がされる。

 

 赤い岩板が宙を飛び、道の反対側へ落ちていく。

 

 怪物の回転が崩れた。

 

 四本の脚と小さな頭部が露出する。

 

 外殻の下にあった身体は、黒く硬い皮膚に覆われていた。

 

「中は普通だな」

 

 怪物は足をばたつかせ、体勢を戻そうとする。

 

 バンはクレシューズを短く持った。

 

 露出した胴の中心へ、神器の柄を突き込む。

 

 一撃。

 

 黒い皮膚と骨が砕け、その奥の魔石まで衝撃が届いた。

 

 怪物の身体が止まる。

 

 赤い光が消え、黒い灰へ変わった。

 

 奪い取った外殻の一部だけが、道の上へ残る。

 

 バンは赤黒い岩板を一枚拾った。

 

 触れると、まだ強い熱を持っている。

 

 炎は出ていないが、普通の人間なら素手で持つことも難しいだろう。

 

「これも売れそうだけどな」

 

 鞄を見る。

 

 空きはない。

 

 水袋や酒瓶を守るため、配置も変えたばかりだった。

 

 熱を持つ素材を入れれば、中の食料まで焼ける可能性がある。

 

「いらねぇか」

 

 岩板を道の脇へ置く。

 

 戦うたびに拾っていれば、どれだけ鞄があっても足りない。

 

 バンは灰の上を越え、先へ進んだ。

 

 

        ◇

 

 

 紅蓮の山岳の道は、平坦ではなかった。

 

 細い山道を上る。

 

 赤熱した谷を越える。

 

 今度は急な斜面を下る。

 

 下へ向かっているはずなのに、一時的に上へ進まなければならない場所も多い。

 

 谷の反対側へ続く道が途中で途切れていた。

 

 間には、赤い光を放つ深い亀裂がある。

 

 幅は十メートルほど。

 

 下から吹き上がる熱風によって、周囲の景色が揺れていた。

 

 バンはクレシューズを伸ばし、向こう側の岩柱へ先端を巻きつける。

 

 鞄の紐を確かめる。

 

「今度は酒落とさねぇぞ」

 

 身体を引く。

 

 亀裂の上を横切る。

 

 下から熱風が吹き上がり、赤い長衣が大きく膨らんだ。

 

 鞄も背中から浮きそうになる。

 

 バンは片手で紐を掴み、そのまま反対側へ着地した。

 

 靴底が熱い岩へ触れる。

 

 すぐに足を離し、温度の低い黒い地面へ移動した。

 

「進むだけでも面倒だな」

 

 敵を倒すより、荷物を守りながら地形を越える方が時間を使う。

 

 しかし、未知の景色を歩くこと自体は嫌いではなかった。

 

 バンは遠くの山を見る。

 

 赤い稜線。

 

 黒い岩。

 

 噴き上がる熱風。

 

 視界の端で、何かが動いた。

 

 山肌に沿って、複数の小さな光が移動している。

 

 怪物の目ではない。

 

 一定の間隔で並んでいる。

 

 魔石灯。

 

 バンが進んでいる方向とは逆に、山道を上っていた。

 

 一つや二つではない。

 

 十を超える光が列になり、さらにその後ろにも続いている。

 

「人がいんのか」

 

 かなり距離がある。

 

 この位置から声を掛けても届かない。

 

 光の列は、バンが立っている場所より低い道を通り、第四十三階層へ向かっているようだった。

 

 先ほど見つけた新しい靴跡。

 

 上へ戻る冒険者たち。

 

 あの一団が残したものかもしれない。

 

 バンは少し考え、クレシューズを肩へ戻した。

 

「追えば道聞けそうだな」

 

 だが、光の列は上へ向かっている。

 

 バンが進みたいのは下だった。

 

 今さら引き返して追いつくほどでもない。

 

 それに、一団が通ってきた道を逆に辿れば、下り道へ近づける可能性が高い。

 

 バンは光の列が現れた方向を確かめる。

 

 山道の途中に、白い布が結ばれた細い岩柱が見えた。

 

 そこから下へ向かって、別の道が伸びている。

 

「こっちか」

 

 バンは歩き出した。

 

 

        ◇

 

 

 岩柱へ着いた頃には、周囲の熱がさらに強くなっていた。

 

 白い布は一部が焦げている。

 

 それでも、結び目はしっかり残っていた。

 

 足元には新しい靴跡がいくつもある。

 

 大きな荷物を引きずった跡。

 

 傷ついた者を支えたような不揃いな足跡。

 

 重い何かを担いで歩いた深い靴跡。

 

 上へ向かう一団は、無傷ではなかったらしい。

 

 バンは足跡の一つへしゃがみ込む。

 

 黒い地面に、小さな血の跡が残っていた。

 

 すでに乾いている。

 

 近くには、包帯の切れ端も落ちていた。

 

「随分下から来たみてぇだな」

 

 第四十四階層へ少し入っただけで、この消耗ではないだろう。

 

 もっと深い場所で戦い、長い道を上ってきた者たちの痕跡だった。

 

 バンは布が示す道へ入る。

 

 そこは、山の側面を削ったような狭い通路だった。

 

 片側は黒い壁。

 

 反対側は赤い谷。

 

 遠くの山道を移動する魔石灯が、ときおり岩の隙間から見えた。

 

 道を進むにつれ、その光は少しずつ遠ざかっていく。

 

 代わりに、下方から別の音が聞こえ始めた。

 

 怪物の咆哮ではない。

 

 石へ金属を打ち込む音。

 

 誰かが武器や防具を修理しているような硬い音だった。

 

 一度。

 

 二度。

 

 少し間を置いて、また響く。

 

「まだ別の奴らもいんのか?」

 

 音は下から聞こえている。

 

 先ほど上っていた一団とは別に、紅蓮の山岳の中で休んでいる者たちがいるのかもしれない。

 

 バンは足を止めず、赤く照らされた道を下っていく。

 

 やがて山道の先に、岩壁へ囲まれた広い場所が見えてきた。

 

 魔石灯。

 

 複数の人影。

 

 壁際へ並べられた荷物。

 

 そして、巨大な楯を地面へ置き、その横で防具を直している冒険者たち。

 

 遠征隊の一部らしい。

 

 まだバンには気づいていない。

 

 見張りはいるが、視線は谷の反対側へ向けられている。

 

 バンは赤い長衣の襟を軽く直した。

 

「やっと道聞けんな」

 

 膨らんだ鞄を背負い、クレシューズを肩へ担いだまま、冒険者たちの休息地点へ歩いていった。




第94話までお読みいただき、ありがとうございます。

今回は第四十三階層の赤熱した通路を抜け、第44階層〈紅蓮の山岳〉へ入るまでを描きました。

バン自身には高熱が大きな脅威にならなくても、水袋、保存食、酒瓶、赤い長衣には影響があるため、バジリスクの鱗を熱除けとして使い、荷物を守りながら進んでいます。

また、岩石型のモンスターに対しては魔石を直接抜くのではなく、《強奪》で外殻を剝がし、露出した身体の魔石をクレシューズで破壊しました。

引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。