他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
旅に出て分かったことがある。歯磨き後30分だけレベル99になる勇者というのは、強い。ただし、面倒くさい。
普通の勇者なら、魔物が出たら剣を抜けばいい。戦士なら前に出る。僧侶なら結界を張る。魔法使いなら魔法を撃つ。だが俺の場合は、まず誰かに歯を磨いてもらわなければならない。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。効果時間は、およそ30分。
旅の中で、そのルールは少しずつ日常になっていった。急ぎなら戦士。疲れていれば僧侶。強敵前や反応確認なら魔法使い。それぞれの担当が決まり、俺も必要な時にはちゃんと頼むようになった。恥ずかしさは消えていない。むしろ、慣れてきた自分に別の恥ずかしさがある。
そんな状態で、俺たちは山間の小さな村に立ち寄った。
村の名前は、ハルト村。
王都から馬車で数日ほど離れた場所にある、畑と井戸と木造の家が並ぶ小さな村だった。村の周囲には低い木の柵があり、畑の向こうには森が広がっている。旅人向けの宿もあるが、宿というよりは空き部屋を貸している民家に近い。
平和そうな村だった。ただし、村の入口には壊れた柵があり、地面には大きな爪痕が残っていた。
「魔物の襲撃跡だな」
戦士が爪痕を見て言った。
僧侶は近くの畑へ視線を向ける。踏み荒らされた土、折れた支柱、散らばった野菜。村人たちはこちらを見ているが、表情は明るくない。魔法使いが杖の先端に小さな光を灯す。
「獣型の魔物ね。数は多くないけど、何度も来てる。森の奥に巣でもできたのかも」
俺は剣の柄に手を置いた。歯磨き後なら、倒せる。歯磨き後なら。
その時、村の奥から一人の女性が走ってきた。年齢は俺たちと同じくらいか、少し上。成人している村娘らしく、動きやすい麻の服にエプロンを重ね、栗色の髪を後ろでまとめている。手には水汲み用の桶を持っていた。
「あ、あの! もしかして、王都から来た勇者様の一行ですか?」
女性は息を切らしながら頭を下げた。村娘、という言葉が一番しっくりくる人だった。
「そうだ。魔物被害の依頼を受けて来た」
戦士が答えると、村娘の顔が少し明るくなった。
「よかった……! 森から牙猪が出るんです。最初は畑を荒らすだけだったんですけど、昨日は家畜小屋まで壊されて、今朝は村の人が怪我をして……」
僧侶がすぐに反応した。
「怪我人がいるのですね。案内してください」
「はい、こちらです!」
村娘は俺たちを村の中央へ案内した。広場には、数人の村人が集まっていた。足に包帯を巻いた老人。腕を押さえている男。泣きそうな顔で母親にしがみつく子供。重傷ではないが、村全体が怯えているのはすぐに分かった。
僧侶はすぐに治療へ回った。戦士は村の柵と森の位置を確認しに行く。魔法使いは、牙猪が通った跡に残る魔力の残滓を調べ始めた。
俺は、広場に残された。
歯磨き前レベル5の状態で。
「勇者様」
村娘が、不安そうに俺を見る。
「魔物を、倒してくださるんですよね?」
「はい。そのために来ました」
そこまでは胸を張って言えた。ただし、その前に必要な説明がある。
俺は背負っていた箱を下ろした。勇者用歯磨きセット。白い歯ブラシ、神界製の歯磨き粉、携帯用コップ、説明書。戦闘前の希望であり、俺の羞恥心を削る箱である。
村娘が首を傾げた。
「それは……?」
来た。また説明しなければならない。王女様に説明した。戦士に説明した。僧侶に説明した。魔法使いに説明した。そして今度は、普通の村娘に説明する。
俺は深く息を吸った。
「大事なことなので、先に言います。俺は、歯磨きしてもらわないと戦えません」
村娘が固まった。桶を持ったまま、完全に動きが止まった。
「……はい?」
「歯磨き前の俺はレベル5です。でも、他人に歯を磨いてもらうと、約30分だけレベル99になります」
「えっと」
村娘は、俺を見た。勇者用歯磨きセットを見た。俺を見た。もう一度、歯磨きセットを見た。
「つまり……勇者様は、歯を磨いてもらわないと戦えないんですか?」
「はい」
口に出されると、やはり破壊力がある。
村娘は数秒黙った。そして、ものすごく困った顔をした。
「えっと……それは、冗談ではなく?」
「本当です」
「勇者様なのに?」
「勇者様なのにです」
「歯を?」
「歯を」
「磨いてもらう?」
「はい」
村娘は桶を置き、両手で顔を覆った。
「すみません、理解が追いつきません」
「俺も最初そうでした」
むしろ今でも追いついていない。
そこへ、森の方から戦士が戻ってきた。表情が険しい。
「まずい。牙猪が近い。柵の外に三体、奥にさらに数体いる」
魔法使いも遅れて戻ってくる。
「森の奥に魔力溜まりがあるわ。たぶんそこから小型の牙猪が湧いてる。今すぐ止めないと、また村に入る」
僧侶は広場で怪我人の治療を続けていた。
「こちらはまだ手が離せません。骨にひびが入っている方がいます」
戦士は大剣を握り直す。
「私は柵の外で足止めする。勇者、準備しろ」
「はい。じゃあ、誰が」
俺は途中で止まった。戦士は前で足止め。僧侶は治療中。魔法使いは魔力溜まりの結界処理で手が塞がっている。三人とも、一時的に歯磨き担当ができない。
空気が止まった。
戦士が、村娘を見る。僧侶も、ちらりと村娘を見る。魔法使いは、嫌な予感がした顔で額を押さえた。
村娘は自分を指さした。
「……私、ですか?」
誰もすぐに答えなかった。答えないことが、答えだった。
「いや、待ってください」
俺は手を上げた。
「さすがに初対面の村の人に頼むのは」
「ならレベル5で牙猪の前に出るのか」
戦士が即座に言った。
「出ません」
「なら頼め」
「でも」
「村を守るんだろ」
重い。戦士の正論は、村でも重い。
僧侶が治療を続けながら、穏やかな声で言う。
「無理強いはできません。ですが、村を守るために必要なことです。もちろん、村娘さんが嫌なら別の方法を考えます」
魔法使いも、杖で結界陣を描きながら言った。
「時間がないわ。戦士が足止めできるのは数分。僧侶は治療中。私は魔力溜まりを抑えないと、追加で湧く。今この場で勇者をレベル99にできるのは、その人だけ」
村娘は、俺を見た。不安そうで、困惑していて、少し恥ずかしそうで。それでも、村の方を見た。
怪我人。壊れた柵。怯える子供。荒らされた畑。
村娘は、ぎゅっと手を握った。
「……私で、できるんですか?」
俺は答えに詰まった。すると、僧侶が言った。
「難しいことはありません。勇者様の同意を確認し、痛くないように、落ち着いて磨いてください。丁寧にやろうとする気持ちがあれば大丈夫です」
魔法使いが追加する。
「磨き残しは多少あっても、緊急時なら発動はするはず。前歯と奥歯の外側を通せば、最低限は行ける」
「お前、急に優しいな」
戦士が言うと、魔法使いは赤くなった。
「べ、別に優しくないわよ! 戦力維持の話!」
村娘は深く息を吸った。それから、俺に向き直る。
「勇者様」
「はい」
「村を助けてください。そのために必要なら……私が、歯を磨きます」
真剣な声だった。
俺は、恥ずかしさを飲み込んだ。この人は、村を救うために言っている。俺も、村を救うために頼まなければならない。
「お願いします」
俺は頭を下げた。
「俺の歯を、磨いてください」
村娘は、少し顔を赤くしながら頷いた。
「はい。が、頑張ります」
村娘が持ってきた歯ブラシは、王国の標準歯ブラシとは少し違った。
木の柄に、動物の毛を束ねた素朴なものだった。村で使われている手作りの歯ブラシらしい。毛先は少し不揃いだが、よく洗われていて清潔だった。勇者用の神界製歯磨き粉を少しだけ乗せると、村娘は緊張した手つきでそれを濡らした。
「すみません、王都のものみたいに立派じゃなくて」
「大丈夫です」
むしろ、初めて見る村の歯ブラシに少し驚いた。歯磨き文化は、この世界にもちゃんとある。ただ、場所によって道具が違う。
王女様は標準の歯ブラシ。戦士は実戦用。僧侶は治療ブラシ。魔法使いは精密ブラシ。そして村娘は、手作りの獣毛ブラシ。
同じ歯磨きでも、全然違う。
「勇者様、口を……開けてください」
「はい」
俺は村の広場の端に置かれた椅子に座った。戦士は柵の外で牙猪を牽制している。魔法使いは魔力溜まりを抑える結界を張っている。僧侶は怪我人の治療を続けながら、こちらを時々見ている。
村娘の手が近づく。
歯ブラシの毛先が、前歯に触れた。
シャコ、シャコ。
音は少しだけ粗い。王女様のような儀式感はない。僧侶のような安心感も、魔法使いのような精密さもない。戦士のような速さもない。
ただ、一生懸命だった。
村娘は恐る恐る歯ブラシを動かす。強すぎないか、痛くないか、俺の反応を見ながら前歯を磨いていく。毛先は少し不揃いだが、力は優しい。慣れていないからこそ、乱暴にならないよう必死に気をつけているのが分かった。
「痛く、ないですか?」
「大丈夫です」
「このくらいで……いいんでしょうか」
「はい。助かります」
村娘の顔が、さらに赤くなる。
「す、すみません。人の歯を磨くのは、子供の頃に弟の仕上げ磨きを手伝った時以来で」
「俺、勇者なんですけどね」
「はい……勇者様なのに」
そこは言わないでほしい。けれど、村娘は笑わなかった。困惑はしている。緊張もしている。それでも、俺を馬鹿にするような目ではなかった。
村を救うために必要なこととして、真面目に向き合ってくれている。
「次、奥歯の方を……えっと、少し開けてください」
「……はい」
村娘の獣毛ブラシが、奥歯の外側へ移動する。毛先が歯の表面をなぞる。少しだけくすぐったい。王都のブラシより素朴で、感触も柔らかすぎず、どこか生活の匂いがあった。
畑。井戸。村の水。手作りの道具。
そういうものが、歯ブラシの毛先から伝わってくるようだった。変な話だが、勇者としてではなく、ただ村の人に助けられている感じがした。
「勇者様」
「はい」
「これで、本当に強くなるんですよね?」
「なります」
「なら、ちゃんと磨きます」
村娘の手に、少しだけ力が入った。ただし、強すぎない。一生懸命で、不器用で、でも丁寧。その磨き方に、胸の奥が少し温かくなった。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
村の広場で、一般人の女性に歯を磨いてもらっている。しかも周囲には村人もいる。皆、直接見ないようにしてくれているが、状況は分かっている。
それでも、逃げたいとは思わなかった。この村を救いたい。そのために、頼んだ。頼んだからには、ちゃんと戦う。
「終わり、です」
村娘が歯ブラシを離した。
俺は携帯用コップで口をすすぐ。神界製の歯磨き粉の味に、村の井戸水の冷たさが混じった。
その直後、胸の奥で光が弾けた。
手足が軽くなる。視界が澄む。柵の外で暴れる牙猪の動きが、はっきりと見える。
レベル99。
「発動しました」
俺が言うと、村娘は目を見開いた。
「本当に……?」
「本当です」
戦士が叫ぶ。
「勇者! 前へ出ろ!」
俺は剣を抜き、地面を蹴った。
柵の外では、戦士が牙猪三体を引きつけていた。
牙猪は、普通の猪より大きい。黒い毛並み、曲がった牙、土を削る蹄。突進を受ければ、レベル5の俺なら一発で吹き飛ばされるだろう。
だが、今は違う。
歯磨き後レベル99。
俺は戦士の横を抜け、一体目の牙猪の突進に合わせて剣を振った。牙を斬り、体勢を崩し、横へ回って一撃を入れる。牙猪が地面を転がり、二体目が横から突っ込んでくる。
魔法使いの氷弾が、その足元を凍らせた。
「足、止めたわ!」
俺は氷に引っかかった牙猪へ踏み込み、剣の腹で叩き伏せる。三体目が村の柵へ向かう。そこへ、僧侶の結界が間に合った。透明な壁が張られ、牙猪の突進が弾かれる。
「勇者様!」
僧侶の声。
俺は地面を蹴り、最後の一体の前に出た。剣を振る。牙猪が吹き飛び、地面に転がった。
さらに森の奥から二体出てきたが、魔法使いの結界で勢いを削がれ、戦士の大剣と俺の剣であっという間に片付いた。魔力溜まりは、魔法使いが最後に杖を突き立てて封じた。
「これで、しばらくは湧かないはず」
戦士が剣を下ろす。
「村の周辺も確認する。残りがいないか見るぞ」
俺たちは村の周囲を一回りし、隠れていた小型の牙猪を二体倒した。効果時間が切れる前に、村の安全はひとまず確保できた。
戦闘が終わると、村人たちが広場に集まってきた。最初に声を上げたのは、怪我をしていた老人だった。
「勇者様、ありがとうございます……!」
他の村人たちも頭を下げる。子供たちは、少し怖がりながらも俺を見ていた。剣を持った勇者として。村を救った人として。そして、たぶん、戦う前に村娘に歯を磨かれていた人として。
最後の要素だけ消してほしい。
村娘は、広場の端で獣毛ブラシを洗っていた。俺が近づくと、彼女は慌てて頭を下げる。
「ゆ、勇者様! あの、ちゃんとできていましたか?」
「はい。おかげで戦えました」
村娘は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった……本当に、歯磨きで強くなるんですね」
「はい」
「すごいです。いえ、変ですけど、すごいです」
「正直で助かります」
戦士が横で頷く。
「変だが、強い」
僧侶も微笑む。
「歯磨きは大切ですから」
魔法使いが小さく言う。
「そこにまとめるのは雑じゃない?」
村娘は、洗った歯ブラシを布で拭きながら、少し考え込んだ。
「でも……勇者様が強くなるかどうかは別として、歯を磨くのって大事なんですね。弟にも、ちゃんと磨くように言います」
広場の子供が、母親の後ろに隠れながら言った。
「歯を磨くと、勇者様みたいに強くなるの?」
村人たちが少し笑った。
俺は答えに困る。
僧侶が優しく言った。
「勇者様のようにレベル99にはなりませんが、歯を大切にすることは体を大切にすることです。虫歯にならないためにも、毎日磨くのは良いことですよ」
子供は真剣に頷いた。
「じゃあ、ちゃんと磨く」
村娘も頷く。
「私も、村の子たちに教えます。奥歯までちゃんと磨くように」
魔法使いが、なぜか満足そうに頷いた。
「奥歯は大事よ。磨き残しやすいから」
「魔法使いさん、そこ反応するんですね」
「当然でしょ」
戦士が呆れたように言う。
「勇者のせいで、村に歯磨き指導が始まりそうだな」
「俺のせいですか?」
「だいたいお前のせいだ」
否定しきれなかった。
その夜、俺たちは村の空き家に泊めてもらうことになった。
村人たちは、簡単な夕食を用意してくれた。固めのパン、野菜のスープ、焼いた芋、少しだけ干し肉。豪華ではないが、温かい食事だった。
村娘は、食後に小さな布袋を差し出してきた。
「勇者様。これ、よかったら持っていってください」
中に入っていたのは、予備の獣毛ブラシだった。木の柄に、丁寧に束ねられた毛先。今日使ったものより少し小さく、旅でも使いやすそうだった。
「村で作っている歯ブラシです。王都のものほど立派ではありませんけど、旅の途中で何かあった時に使えるかもしれません」
「ありがとうございます」
俺は素直に受け取った。
村娘は、少し照れくさそうに笑った。
「勇者様が戦うために必要なら、歯ブラシも大事な道具なんですよね」
俺は手の中の獣毛ブラシを見る。聖剣ではない。魔導具でもない。村で作られた、素朴な歯ブラシ。けれど今日、それが村を救うための力になった。
「はい。大事な道具です」
そう言うと、村娘は嬉しそうに頷いた。
その横で、魔法使いがじっと獣毛ブラシを見ている。
「毛先は不揃いだけど、緊急用には悪くないわね。あとで確認する」
「確認?」
「磨き残しが出やすいかどうか」
「やめてください」
僧侶が微笑む。
「村娘さんの歯磨きは、一生懸命でとても良かったと思います」
戦士も短く言う。
「発動した。なら十分だ」
村娘は、また顔を赤くした。
「あ、ありがとうございます」
こうして、ハルト村の騒動は終わった。
村は救われた。牙猪は退治された。魔力溜まりも封じられた。そして、勇者の条件は、ついに王国や仲間以外の一般人にも知られ始めた。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。
その事実を知った村娘は、最初こそ固まった。けれど最後には、自分の村を救うために歯ブラシを握ってくれた。
素朴で、不慣れで、一生懸命な歯磨き。
王女様とも、戦士とも、僧侶とも、魔法使いとも違う。
村の生活の中にあるような、温かい磨き方だった。
翌朝、村を出る時、村の子供たちが手を振ってくれた。
「勇者様、ありがとう!」
「歯磨きするねー!」
「奥歯も磨くー!」
俺は手を振り返した。
隣で戦士が呟く。
「妙な方向で尊敬されているな」
僧侶が微笑む。
「良いことです。歯磨きの大切さが広まっています」
魔法使いが肩をすくめる。
「勇者の噂、絶対おかしな広まり方するわよ」
俺は何も言い返せなかった。なぜなら、その予感はたぶん当たる。
俺たちは、朝の街道を歩き出した。背中には、勇者用歯磨きセット。荷物の中には、村娘からもらった獣毛ブラシ。
世界を救う旅は、少しずつ進んでいる。
そして同時に、歯磨き勇者の噂も、少しずつ広がり始めていた。
次回予告
村娘
「痛く、ないですか?」
勇者
「大丈夫です」
村娘
「すみません、慣れてなくて……でも、ちゃんと磨きます。村を助けてほしいので」
勇者
「その言い方、断れないですね」
村娘
「えっと……奥歯も、磨いた方がいいんですよね?」
魔法使い
「そこは大事よ」
勇者
「見てたんですか!?」
次回、第8.5話
「村娘、勇者様の歯を磨く」