他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です   作:きのこ大三元

13 / 13
第8.5話「村娘、勇者様の歯を磨く」

 村娘が持ってきた歯ブラシは、王都のものとは少し違っていた。

 

 木の柄に、動物の毛を束ねた素朴な歯ブラシ。柄には細かな傷があり、手作りらしい温かさがある。毛先は少し不揃いだが、よく洗われていて清潔だった。

 

 王女様が使った標準歯ブラシのような整った形ではない。僧侶の治療ブラシのような柔らかな金色の毛先でも、魔法使いの精密ブラシのような魔法陣もない。

 

 村で作られ、村で使われてきた、普通の歯ブラシだった。ただし今から、それで勇者の加護を発動させる。

 

 意味が分からないが、この世界では必要なことだった。

 

「あの……勇者様。本当に、これで大丈夫なんでしょうか」

 

 村娘は、手の中の歯ブラシを不安そうに見ていた。栗色の髪を後ろでまとめ、麻の服にエプロンを重ねた、どこにでもいそうな村の女性。王国を背負う王女様でも、治療や世話に慣れた僧侶でもない。

 

 ただ、自分の村を守りたい人だった。

 

「大丈夫です。神界製の歯磨き粉を使えば、道具が違っても発動するはずです」

「はず、なんですね」

「俺も全部分かっているわけではないので」

「勇者様でも?」

「一番分かってないのは、俺かもしれません」

 

 村娘は困ったように笑った。

 

 馬鹿にしているわけではない。理解が追いつかなくて困っているだけだ。俺が最初に女神様から説明された時と、だいたい同じ顔だった。

 

 広場の外では、戦士が牙猪を足止めしている。金属のぶつかる音、獣の唸り声、村人たちの不安そうなざわめき。魔法使いは森の奥にある魔力溜まりを抑え、僧侶は怪我人の治療から手を離せない。

 

 今この場で俺をレベル99にできる可能性があるのは、目の前の村娘だけだった。

 

 普通なら、初対面の人にこんなことは頼まない。頼めるわけがない。けれど、頼まなければ村を守れない。

 

「すみません。本当に、お願いします」

 

 俺は広場の端に置かれた椅子へ腰を下ろした。

 

 村娘は、ぎゅっと歯ブラシを握る。

 

「はい。私も頑張ります。村を助けてほしいので」

 

 まっすぐな言葉だった。だから、余計に断れなかった。

 

 村娘は小さな器に水を入れ、神界製の歯磨き粉をほんの少しだけ毛先に乗せた。白い歯磨き粉が、不揃いな獣毛の間にゆっくり沈む。王都の道具ほど整っていないからか、付き方も少し偏っていた。

 

「あ、つけすぎましたか?」

「大丈夫です」

「水は、このくらいで……?」

「はい」

「すみません。慣れていなくて」

「俺も、一般の人に頼むのは初めてなので」

 

 言った瞬間、自分で少し嫌になった。

 

 一般の人に頼むのは初めて。なぜ、そんな経験が増えているのか。勇者とは何なのか。

 

 世界を救う人だ。たぶん。

 

「勇者様、口を……開けてください」

 

 村娘の声は、少し震えていた。

 

 俺は観念して口を開ける。村娘が一歩近づいた。

 

 近い。

 

 歯を磨いてもらう距離には、何度経験しても慣れない。王女様も、僧侶も、魔法使いも近かった。だが、村娘は王国の関係者でも、パーティの仲間でもない。ついさっきまで、俺をただの「勇者様」として見ていた普通の村人だ。

 

 その人に、今から歯を磨いてもらう。

 

 かなり恥ずかしい。

 

 歯ブラシの毛先が、前歯に触れた。

 

 シャコ、シャコ。

 

 音は少しだけ粗い。

 

 王女様の標準歯ブラシには、ぎこちないながらも儀式のような緊張感があった。僧侶の治療ブラシは柔らかく、魔法使いの精密ブラシは磨き残しを許さない。

 

 村娘の獣毛ブラシは、そのどれとも違う。

 

 不慣れで、少し不器用。でも、真面目だった。

 

 村娘は前歯の表面を小さく磨きながら、何度も俺の表情を確認した。痛くないか。強すぎないか。口を開け続けるのが苦しくないか。歯ブラシを動かすより、こちらを見る回数の方が多いくらいだった。

 

「痛く、ないですか?」

「大丈夫です」

「強くないですか?」

「平気です」

「私、人の歯を磨くの、弟が小さい頃以来で」

「仕上げ磨きですか」

「はい。村だと、小さい子は家族が手伝うので」

 

 村娘は少し照れたように言った。

 

 彼女にとって歯磨きは、王女様のような儀式ではない。僧侶のような治療でも、魔法使いのような分析でもない。

 

 生活の中にあるものだ。

 

 家族が子供にしてあげる、普通の世話。畑仕事のあとに井戸で手を洗い、食事を作り、子供へ「ちゃんと磨きなさい」と言う。そうした日々の延長に、この歯ブラシがある。

 

 その普通さが、逆に恥ずかしかった。

 

 俺は勇者なのに。村を救うために来たはずなのに、今は村娘に仕上げ磨きをされている。

 

「勇者様、少しだけ奥に行きます」

「……はい」

 

 村娘の歯ブラシが、犬歯の横へ移動した。

 

 毛先が不揃いだからか、触れる感覚も王都のものとは違う。均一ではなく、少しくすぐったい。けれど、不快ではなかった。丁寧に当てようとしているのが分かるせいで、余計に力を入れられない。

 

「すみません、動かしてしまいましたか?」

「大丈夫です」

「ここも磨いた方がいいんですよね?」

「はい。たぶん」

「たぶん」

「魔法使いさんなら、もっと細かく言うと思います」

 

 少し離れた場所で結界陣を描いていた魔法使いが、こちらを見た。

 

「犬歯の横と奥歯の外側は大事よ。磨き残しやすいから」

「見てたんですか!?」

「見てないわよ! 聞こえただけ!」

 

 絶対に見ていた。

 

 村娘は少し慌てながら、犬歯の横を磨き直す。

 

「こ、ここですね」

「はい」

「奥歯は、この向きで?」

「たぶん」

「たぶんばかりですね」

「勇者なのに、自分の加護の説明があやふやですみません」

 

 村娘が少しだけ笑った。さっきより柔らかい笑い方だった。緊張が少し抜けたのかもしれない。

 

「勇者様も、大変なんですね」

「大変です。主に精神が」

「でも、村を助けるために頼んでくださったんですよね」

「はい」

「なら、私もちゃんとやります」

 

 村娘の手つきが、ほんの少し落ち着いた。

 

 歯ブラシが奥歯の外側へ移る。

 

 シャコ、シャコ。

 

 少し粗い音が、広場の隅に響いた。遠くでは牙猪が唸り、戦士の大剣が地面を削っている。村人たちは直接こちらを見ないようにしているが、何をしているかは分かっているはずだ。

 

 恥ずかしい。かなり恥ずかしい。

 

 だが、村娘の手は止まらなかった。

 

 怖いはずだ。村は襲われ、怪我人も出ている。そんな中で、よく分からない勇者の条件を聞かされ、初対面の相手の歯を磨くことになった。

 

 困惑して当然だ。逃げてもおかしくない。それでも彼女は、村を救うために歯ブラシを握っている。

 

「勇者様」

「はい」

「私、うまくできているか分かりません」

「できています」

「本当ですか?」

「ちゃんと、助かっています」

 

 村娘の指先が少し止まり、それからまた動き出す。

 

「なら、よかったです」

 

 声は小さいが、少し嬉しそうだった。

 

 奥歯の外側を磨き終えると、村娘は迷ったように歯ブラシを止めた。

 

「えっと……裏側も、磨いた方がいいんですよね?」

 

 来た。

 

 前歯の裏側。

 

 何度磨かれても慣れない場所だ。王女様の時も、僧侶の時も、魔法使いの時も、ここで必ず精神を削られる。舌が反射的に動き、顎に力が入り、相手に指摘される。

 

 村娘にまで、それをされるのか。

 

 逃げたい。

 

 しかし、柵の外で牙猪がまた唸った。

 

 逃げられない。

 

「はい。できれば、お願いします」

「分かりました。痛かったら言ってください」

 

 村娘は慎重に歯ブラシの角度を変える。毛先が前歯の裏側へ触れ、反射的に舌が動きそうになった。

 

 何とか抑える。

 

 シャコ、シャコ。

 

 不揃いな毛先が、普段自分では雑に済ませてしまう場所を小さくなぞった。王都の歯ブラシほど滑らかではない。僧侶の治療ブラシほど柔らかくも、魔法使いの精密ブラシほど正確でもない。

 

 それでも村娘は急がなかった。

 

 少し磨き、俺の反応を見る。また少し磨く。不器用だけれど、丁寧だった。

 

「勇者様、苦しくないですか?」

「……大丈夫です」

「少し、舌が動きました」

「言わないでください」

「あっ、すみません」

「村娘さんは悪くないです」

 

 悪いのは、勇者の加護の条件である。もしくは、それを反映した俺の魂だ。

 

 前歯の裏側を磨かれながら、俺は遠い目になった。

 

 村娘は真剣だった。笑わず、からかわず、村を救うための手順として一生懸命に磨いてくれている。

 

 その真面目さが恥ずかしい。でも、ありがたい。

 

「次、奥歯をもう少しだけ……」

 

 村娘は少し慣れてきたらしい。さっきより落ち着いた手つきで、奥歯の外側から噛み合わせの溝へ移っていく。獣毛ブラシが歯の凹凸を小さくなぞり、少しくすぐったい。

 

 村の井戸水。木の柄。不揃いな毛先。神界製の歯磨き粉。

 

 それらが混ざり合い、王都では感じなかった生活の匂いがした。

 

 この村の人たちは、畑仕事のあと、食事のあと、眠る前に、この歯ブラシで歯を磨いているのだろう。勇者の加護とは関係なく、虫歯予防として、普通の生活として。

 

 その当たり前の中に、俺も少しだけ混ぜてもらっている気がした。

 

「勇者様」

「はい」

「村を、助けてください」

 

 歯ブラシを動かしながら、村娘が言った。声は震えていたが、目は逸らしていない。

 

「畑も、家畜小屋も、みんなで直せます。でも、これ以上怪我人が増えたら……怖いんです。子供たちも、夜になると眠れなくて」

 

 村娘の手が、ほんの少し止まる。

 

「だから、お願いします」

 

 それは歯磨きの手順ではなく、村を守ってほしいという、まっすぐな願いだった。

 

 俺は口を開けたまま、うまく返事ができない。だから、少しだけ頷いた。

 

 村娘は小さく息を吐く。

 

「ありがとうございます」

 

 礼を言われるのは、まだ早い。俺はまだ戦っていない。

 

 けれど、もう逃げる気はなかった。

 

 一般人に条件を知られ、村の広場で磨かれるのは、かなり恥ずかしい。それでも、この人が村を救ってほしいと願い、そのために俺を磨いてくれるなら。

 

 俺は、ちゃんとレベル99になって戦わなければならない。

 

「……これで、終わりです」

 

 村娘が歯ブラシを離した。少しだけ肩で息をしている。緊張していたのだろう。

 

 俺は携帯用コップを受け取り、村の井戸水で口をすすいだ。神界製の歯磨き粉の味に、井戸水の冷たさが混じる。王城の水とも神殿の水とも違う、土と木と生活の近くにある水だった。

 

 前歯も奥歯も、少し不器用だが丁寧に磨かれた感覚が残っている。

 

 その直後、胸の奥で光が弾けた。

 

 手足が軽くなる。視界が澄み、柵の外で暴れる牙猪の動きが、はっきりと見える。

 

 レベル99。

 

 村娘の歯磨きでも、勇者の加護は問題なく発動した。

 

「発動しました」

 

 俺が言うと、村娘は目を見開いた。

 

「本当に……?」

「本当です」

 

 村娘の顔に安堵が広がり、すぐに真剣な表情へ戻る。

 

「お願いします。村を、助けてください」

「はい」

 

 俺は椅子から立ち上がった。

 

 体の中に力が満ちている。村娘の素朴な歯磨きは、王女様や仲間たちとは違う感覚だった。力が激しく跳ね上がるというより、誰かの生活を守りたいという思いが、背中を押してくれる。

 

「勇者! 前へ出ろ!」

 

 戦士の声に応え、俺は剣を抜いて地面を蹴った。

 

 牙猪が柵へ突っ込む寸前、その前へ出る。レベル5なら吹き飛ばされる突進だが、今は違う。剣を横に払い、牙を弾き、体勢を崩したところへ一撃を入れた。

 

 一体目が倒れる。

 

 二体目は魔法使いの氷弾で足を止められ、三体目は戦士の大剣に進路を潰される。俺はさらに踏み込み、牙猪をまとめて柵から引き離した。

 

 地面を蹴るたびに体が軽い。剣を振るたび、牙猪たちの動きが遅く見える。

 

 村娘が磨いてくれたから。村を救ってほしいと、歯ブラシを握ってくれたから。

 

 俺は今、勇者として戦えている。

 

 数分後、牙猪はすべて地面に倒れていた。魔力溜まりも魔法使いが封じ、僧侶の結界が最後まで村人たちを守っていた。

 

「終わったな」

 

 戦士が剣を下ろした。

 

 効果時間はまだ残っている。だが、戦闘は終わり、村は守られた。

 

 広場へ戻ると、村娘がさっきの獣毛ブラシを手に立っていた。俺を見るなり、深く頭を下げる。

 

「ありがとうございました、勇者様」

「こちらこそ。磨いてくれて、ありがとうございました」

 

 村娘は一瞬きょとんとし、それから顔を真っ赤にした。

 

「い、いえ! 私は、村を助けてほしくて……」

「はい」

「勇者様のためというより、村のためで」

「はい」

「でも、少しでも役に立てたなら、よかったです」

 

 魔法使いの「別にあんたのためじゃないから」と少し似ていた。ただ、村娘の場合は照れ隠しというより、本当に村のためだった。

 

 戦士が獣毛ブラシを見て、短く言う。

 

「発動した。十分だ」

 

 僧侶も微笑んだ。

 

「とても丁寧でした。勇者様も落ち着いていましたよ」

「言わないでください」

 

 魔法使いは獣毛ブラシを見つめる。

 

「毛先は不揃いだけど、緊急時には悪くないわね。前歯と奥歯の外側は通ってた」

「本当に見てたんですね」

「見てない。魔力反応を見てただけ」

 

 それは見ているのではないか。

 

 村娘が恐る恐る聞いた。

 

「あの……歯磨きは、もっと奥までした方がいいんでしょうか」

「奥歯の内側は大事よ。自分で磨く時も雑になりやすいから」

 

 魔法使いが即答し、僧侶も頷く。

 

「歯茎を傷つけないよう、優しく磨くことも大切です」

 

 戦士は腕を組んだ。

 

「戦闘前なら時間も考えろ。長すぎると効果時間が削れる」

 

 村娘は真剣に聞いている。

 

 なぜか、歯磨き講習が始まりかけていた。

 

「村の子供たちにも教えた方がいいですよね」

「はい。歯磨きは大切ですから」

 

 僧侶が嬉しそうに答え、魔法使いも続ける。

 

「特に奥歯」

 

 戦士が肩をすくめた。

 

「勇者の戦いから、なぜ村の歯磨き指導に繋がるんだ」

「俺に聞かないでください」

 

 だが、悪いことではないのかもしれない。

 

 俺が歯を磨いてもらわないと戦えない事実は、相変わらず恥ずかしい。できれば広まってほしくない。いや、絶対に広まってほしくない。

 

 それでも今日、村娘が歯ブラシを握ったことで村が救われた。その結果、村の子供たちが歯磨きの大切さを知るなら、少しだけ意味はあるのかもしれない。

 

 本当に少しだけ。

 

「勇者様」

 

 村娘が、洗った獣毛ブラシを布で拭きながら言った。

 

「私、今日のこと、忘れません」

「できれば、あまり詳しくは広めないでいただけると」

「勇者様は、歯を磨いてもらうと強くなるんですよね」

「はい」

「村を救った勇者様は、歯を大切にしていたんですよね」

「大切にはしています」

「なら、子供たちにも伝えます。歯を磨くのは大事だって」

 

 完全には止められない流れだった。

 

「お願いします。ただ、俺の話は控えめで」

「はい。できるだけ」

 

 できるだけ。

 

 不安な返事だった。

 

 こうして、村娘による初めての歯磨きは終わった。

 

 加護発動、成功。

 牙猪討伐、成功。

 村の安全、確保。

 村娘の理解、少し進展。

 村の歯磨き意識、なぜか上昇。

 勇者の羞恥心、かなり大きめ。

 

 ただ、悪くはなかった。

 

 王女様とも、戦士とも、僧侶とも、魔法使いとも違う。素朴で、一生懸命で、少し不器用な歯磨き。

 

 それは、村の生活の中にある温かさで、俺を勇者にしてくれた。

 

 歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。

 

 その条件が、王国や仲間以外にも少しずつ知られていく。

 

 とても恥ずかしい。

 

 だが今日だけは、その恥ずかしさで一つの村を守れたのだと思うことにした。




次回予告
 
旅人
「聞いたか? 歯を磨かれると魔物を倒す勇者がいるらしいぞ」
 
商人
「いや、歯磨き前は弱いらしい」
 
村人
「でも歯を磨いたら、牙猪を一撃だったぞ」
 
勇者
「噂の広まり方がおかしい」
 
戦士
「だいたい合っている」
 
僧侶
「歯磨きの大切さが広まるのは良いことです」
 
魔法使い
「問題は、勇者の名前より先に歯磨きが広まってることね」
 
次回、第9話
「歯磨き勇者の噂が広まる」
 
勇者、名前より先に条件が有名になる。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。