他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
村娘が持ってきた歯ブラシは、王都のものとは少し違っていた。
木の柄に、動物の毛を束ねた素朴な歯ブラシ。柄には細かな傷があり、手作りらしい温かさがある。毛先は少し不揃いだが、よく洗われていて清潔だった。
王女様が使った標準歯ブラシのような整った形ではない。僧侶の治療ブラシのような柔らかな金色の毛先でも、魔法使いの精密ブラシのような魔法陣もない。
村で作られ、村で使われてきた、普通の歯ブラシだった。ただし今から、それで勇者の加護を発動させる。
意味が分からないが、この世界では必要なことだった。
「あの……勇者様。本当に、これで大丈夫なんでしょうか」
村娘は、手の中の歯ブラシを不安そうに見ていた。栗色の髪を後ろでまとめ、麻の服にエプロンを重ねた、どこにでもいそうな村の女性。王国を背負う王女様でも、治療や世話に慣れた僧侶でもない。
ただ、自分の村を守りたい人だった。
「大丈夫です。神界製の歯磨き粉を使えば、道具が違っても発動するはずです」
「はず、なんですね」
「俺も全部分かっているわけではないので」
「勇者様でも?」
「一番分かってないのは、俺かもしれません」
村娘は困ったように笑った。
馬鹿にしているわけではない。理解が追いつかなくて困っているだけだ。俺が最初に女神様から説明された時と、だいたい同じ顔だった。
広場の外では、戦士が牙猪を足止めしている。金属のぶつかる音、獣の唸り声、村人たちの不安そうなざわめき。魔法使いは森の奥にある魔力溜まりを抑え、僧侶は怪我人の治療から手を離せない。
今この場で俺をレベル99にできる可能性があるのは、目の前の村娘だけだった。
普通なら、初対面の人にこんなことは頼まない。頼めるわけがない。けれど、頼まなければ村を守れない。
「すみません。本当に、お願いします」
俺は広場の端に置かれた椅子へ腰を下ろした。
村娘は、ぎゅっと歯ブラシを握る。
「はい。私も頑張ります。村を助けてほしいので」
まっすぐな言葉だった。だから、余計に断れなかった。
村娘は小さな器に水を入れ、神界製の歯磨き粉をほんの少しだけ毛先に乗せた。白い歯磨き粉が、不揃いな獣毛の間にゆっくり沈む。王都の道具ほど整っていないからか、付き方も少し偏っていた。
「あ、つけすぎましたか?」
「大丈夫です」
「水は、このくらいで……?」
「はい」
「すみません。慣れていなくて」
「俺も、一般の人に頼むのは初めてなので」
言った瞬間、自分で少し嫌になった。
一般の人に頼むのは初めて。なぜ、そんな経験が増えているのか。勇者とは何なのか。
世界を救う人だ。たぶん。
「勇者様、口を……開けてください」
村娘の声は、少し震えていた。
俺は観念して口を開ける。村娘が一歩近づいた。
近い。
歯を磨いてもらう距離には、何度経験しても慣れない。王女様も、僧侶も、魔法使いも近かった。だが、村娘は王国の関係者でも、パーティの仲間でもない。ついさっきまで、俺をただの「勇者様」として見ていた普通の村人だ。
その人に、今から歯を磨いてもらう。
かなり恥ずかしい。
歯ブラシの毛先が、前歯に触れた。
シャコ、シャコ。
音は少しだけ粗い。
王女様の標準歯ブラシには、ぎこちないながらも儀式のような緊張感があった。僧侶の治療ブラシは柔らかく、魔法使いの精密ブラシは磨き残しを許さない。
村娘の獣毛ブラシは、そのどれとも違う。
不慣れで、少し不器用。でも、真面目だった。
村娘は前歯の表面を小さく磨きながら、何度も俺の表情を確認した。痛くないか。強すぎないか。口を開け続けるのが苦しくないか。歯ブラシを動かすより、こちらを見る回数の方が多いくらいだった。
「痛く、ないですか?」
「大丈夫です」
「強くないですか?」
「平気です」
「私、人の歯を磨くの、弟が小さい頃以来で」
「仕上げ磨きですか」
「はい。村だと、小さい子は家族が手伝うので」
村娘は少し照れたように言った。
彼女にとって歯磨きは、王女様のような儀式ではない。僧侶のような治療でも、魔法使いのような分析でもない。
生活の中にあるものだ。
家族が子供にしてあげる、普通の世話。畑仕事のあとに井戸で手を洗い、食事を作り、子供へ「ちゃんと磨きなさい」と言う。そうした日々の延長に、この歯ブラシがある。
その普通さが、逆に恥ずかしかった。
俺は勇者なのに。村を救うために来たはずなのに、今は村娘に仕上げ磨きをされている。
「勇者様、少しだけ奥に行きます」
「……はい」
村娘の歯ブラシが、犬歯の横へ移動した。
毛先が不揃いだからか、触れる感覚も王都のものとは違う。均一ではなく、少しくすぐったい。けれど、不快ではなかった。丁寧に当てようとしているのが分かるせいで、余計に力を入れられない。
「すみません、動かしてしまいましたか?」
「大丈夫です」
「ここも磨いた方がいいんですよね?」
「はい。たぶん」
「たぶん」
「魔法使いさんなら、もっと細かく言うと思います」
少し離れた場所で結界陣を描いていた魔法使いが、こちらを見た。
「犬歯の横と奥歯の外側は大事よ。磨き残しやすいから」
「見てたんですか!?」
「見てないわよ! 聞こえただけ!」
絶対に見ていた。
村娘は少し慌てながら、犬歯の横を磨き直す。
「こ、ここですね」
「はい」
「奥歯は、この向きで?」
「たぶん」
「たぶんばかりですね」
「勇者なのに、自分の加護の説明があやふやですみません」
村娘が少しだけ笑った。さっきより柔らかい笑い方だった。緊張が少し抜けたのかもしれない。
「勇者様も、大変なんですね」
「大変です。主に精神が」
「でも、村を助けるために頼んでくださったんですよね」
「はい」
「なら、私もちゃんとやります」
村娘の手つきが、ほんの少し落ち着いた。
歯ブラシが奥歯の外側へ移る。
シャコ、シャコ。
少し粗い音が、広場の隅に響いた。遠くでは牙猪が唸り、戦士の大剣が地面を削っている。村人たちは直接こちらを見ないようにしているが、何をしているかは分かっているはずだ。
恥ずかしい。かなり恥ずかしい。
だが、村娘の手は止まらなかった。
怖いはずだ。村は襲われ、怪我人も出ている。そんな中で、よく分からない勇者の条件を聞かされ、初対面の相手の歯を磨くことになった。
困惑して当然だ。逃げてもおかしくない。それでも彼女は、村を救うために歯ブラシを握っている。
「勇者様」
「はい」
「私、うまくできているか分かりません」
「できています」
「本当ですか?」
「ちゃんと、助かっています」
村娘の指先が少し止まり、それからまた動き出す。
「なら、よかったです」
声は小さいが、少し嬉しそうだった。
奥歯の外側を磨き終えると、村娘は迷ったように歯ブラシを止めた。
「えっと……裏側も、磨いた方がいいんですよね?」
来た。
前歯の裏側。
何度磨かれても慣れない場所だ。王女様の時も、僧侶の時も、魔法使いの時も、ここで必ず精神を削られる。舌が反射的に動き、顎に力が入り、相手に指摘される。
村娘にまで、それをされるのか。
逃げたい。
しかし、柵の外で牙猪がまた唸った。
逃げられない。
「はい。できれば、お願いします」
「分かりました。痛かったら言ってください」
村娘は慎重に歯ブラシの角度を変える。毛先が前歯の裏側へ触れ、反射的に舌が動きそうになった。
何とか抑える。
シャコ、シャコ。
不揃いな毛先が、普段自分では雑に済ませてしまう場所を小さくなぞった。王都の歯ブラシほど滑らかではない。僧侶の治療ブラシほど柔らかくも、魔法使いの精密ブラシほど正確でもない。
それでも村娘は急がなかった。
少し磨き、俺の反応を見る。また少し磨く。不器用だけれど、丁寧だった。
「勇者様、苦しくないですか?」
「……大丈夫です」
「少し、舌が動きました」
「言わないでください」
「あっ、すみません」
「村娘さんは悪くないです」
悪いのは、勇者の加護の条件である。もしくは、それを反映した俺の魂だ。
前歯の裏側を磨かれながら、俺は遠い目になった。
村娘は真剣だった。笑わず、からかわず、村を救うための手順として一生懸命に磨いてくれている。
その真面目さが恥ずかしい。でも、ありがたい。
「次、奥歯をもう少しだけ……」
村娘は少し慣れてきたらしい。さっきより落ち着いた手つきで、奥歯の外側から噛み合わせの溝へ移っていく。獣毛ブラシが歯の凹凸を小さくなぞり、少しくすぐったい。
村の井戸水。木の柄。不揃いな毛先。神界製の歯磨き粉。
それらが混ざり合い、王都では感じなかった生活の匂いがした。
この村の人たちは、畑仕事のあと、食事のあと、眠る前に、この歯ブラシで歯を磨いているのだろう。勇者の加護とは関係なく、虫歯予防として、普通の生活として。
その当たり前の中に、俺も少しだけ混ぜてもらっている気がした。
「勇者様」
「はい」
「村を、助けてください」
歯ブラシを動かしながら、村娘が言った。声は震えていたが、目は逸らしていない。
「畑も、家畜小屋も、みんなで直せます。でも、これ以上怪我人が増えたら……怖いんです。子供たちも、夜になると眠れなくて」
村娘の手が、ほんの少し止まる。
「だから、お願いします」
それは歯磨きの手順ではなく、村を守ってほしいという、まっすぐな願いだった。
俺は口を開けたまま、うまく返事ができない。だから、少しだけ頷いた。
村娘は小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
礼を言われるのは、まだ早い。俺はまだ戦っていない。
けれど、もう逃げる気はなかった。
一般人に条件を知られ、村の広場で磨かれるのは、かなり恥ずかしい。それでも、この人が村を救ってほしいと願い、そのために俺を磨いてくれるなら。
俺は、ちゃんとレベル99になって戦わなければならない。
「……これで、終わりです」
村娘が歯ブラシを離した。少しだけ肩で息をしている。緊張していたのだろう。
俺は携帯用コップを受け取り、村の井戸水で口をすすいだ。神界製の歯磨き粉の味に、井戸水の冷たさが混じる。王城の水とも神殿の水とも違う、土と木と生活の近くにある水だった。
前歯も奥歯も、少し不器用だが丁寧に磨かれた感覚が残っている。
その直後、胸の奥で光が弾けた。
手足が軽くなる。視界が澄み、柵の外で暴れる牙猪の動きが、はっきりと見える。
レベル99。
村娘の歯磨きでも、勇者の加護は問題なく発動した。
「発動しました」
俺が言うと、村娘は目を見開いた。
「本当に……?」
「本当です」
村娘の顔に安堵が広がり、すぐに真剣な表情へ戻る。
「お願いします。村を、助けてください」
「はい」
俺は椅子から立ち上がった。
体の中に力が満ちている。村娘の素朴な歯磨きは、王女様や仲間たちとは違う感覚だった。力が激しく跳ね上がるというより、誰かの生活を守りたいという思いが、背中を押してくれる。
「勇者! 前へ出ろ!」
戦士の声に応え、俺は剣を抜いて地面を蹴った。
牙猪が柵へ突っ込む寸前、その前へ出る。レベル5なら吹き飛ばされる突進だが、今は違う。剣を横に払い、牙を弾き、体勢を崩したところへ一撃を入れた。
一体目が倒れる。
二体目は魔法使いの氷弾で足を止められ、三体目は戦士の大剣に進路を潰される。俺はさらに踏み込み、牙猪をまとめて柵から引き離した。
地面を蹴るたびに体が軽い。剣を振るたび、牙猪たちの動きが遅く見える。
村娘が磨いてくれたから。村を救ってほしいと、歯ブラシを握ってくれたから。
俺は今、勇者として戦えている。
数分後、牙猪はすべて地面に倒れていた。魔力溜まりも魔法使いが封じ、僧侶の結界が最後まで村人たちを守っていた。
「終わったな」
戦士が剣を下ろした。
効果時間はまだ残っている。だが、戦闘は終わり、村は守られた。
広場へ戻ると、村娘がさっきの獣毛ブラシを手に立っていた。俺を見るなり、深く頭を下げる。
「ありがとうございました、勇者様」
「こちらこそ。磨いてくれて、ありがとうございました」
村娘は一瞬きょとんとし、それから顔を真っ赤にした。
「い、いえ! 私は、村を助けてほしくて……」
「はい」
「勇者様のためというより、村のためで」
「はい」
「でも、少しでも役に立てたなら、よかったです」
魔法使いの「別にあんたのためじゃないから」と少し似ていた。ただ、村娘の場合は照れ隠しというより、本当に村のためだった。
戦士が獣毛ブラシを見て、短く言う。
「発動した。十分だ」
僧侶も微笑んだ。
「とても丁寧でした。勇者様も落ち着いていましたよ」
「言わないでください」
魔法使いは獣毛ブラシを見つめる。
「毛先は不揃いだけど、緊急時には悪くないわね。前歯と奥歯の外側は通ってた」
「本当に見てたんですね」
「見てない。魔力反応を見てただけ」
それは見ているのではないか。
村娘が恐る恐る聞いた。
「あの……歯磨きは、もっと奥までした方がいいんでしょうか」
「奥歯の内側は大事よ。自分で磨く時も雑になりやすいから」
魔法使いが即答し、僧侶も頷く。
「歯茎を傷つけないよう、優しく磨くことも大切です」
戦士は腕を組んだ。
「戦闘前なら時間も考えろ。長すぎると効果時間が削れる」
村娘は真剣に聞いている。
なぜか、歯磨き講習が始まりかけていた。
「村の子供たちにも教えた方がいいですよね」
「はい。歯磨きは大切ですから」
僧侶が嬉しそうに答え、魔法使いも続ける。
「特に奥歯」
戦士が肩をすくめた。
「勇者の戦いから、なぜ村の歯磨き指導に繋がるんだ」
「俺に聞かないでください」
だが、悪いことではないのかもしれない。
俺が歯を磨いてもらわないと戦えない事実は、相変わらず恥ずかしい。できれば広まってほしくない。いや、絶対に広まってほしくない。
それでも今日、村娘が歯ブラシを握ったことで村が救われた。その結果、村の子供たちが歯磨きの大切さを知るなら、少しだけ意味はあるのかもしれない。
本当に少しだけ。
「勇者様」
村娘が、洗った獣毛ブラシを布で拭きながら言った。
「私、今日のこと、忘れません」
「できれば、あまり詳しくは広めないでいただけると」
「勇者様は、歯を磨いてもらうと強くなるんですよね」
「はい」
「村を救った勇者様は、歯を大切にしていたんですよね」
「大切にはしています」
「なら、子供たちにも伝えます。歯を磨くのは大事だって」
完全には止められない流れだった。
「お願いします。ただ、俺の話は控えめで」
「はい。できるだけ」
できるだけ。
不安な返事だった。
こうして、村娘による初めての歯磨きは終わった。
加護発動、成功。
牙猪討伐、成功。
村の安全、確保。
村娘の理解、少し進展。
村の歯磨き意識、なぜか上昇。
勇者の羞恥心、かなり大きめ。
ただ、悪くはなかった。
王女様とも、戦士とも、僧侶とも、魔法使いとも違う。素朴で、一生懸命で、少し不器用な歯磨き。
それは、村の生活の中にある温かさで、俺を勇者にしてくれた。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。
その条件が、王国や仲間以外にも少しずつ知られていく。
とても恥ずかしい。
だが今日だけは、その恥ずかしさで一つの村を守れたのだと思うことにした。
次回予告
旅人
「聞いたか? 歯を磨かれると魔物を倒す勇者がいるらしいぞ」
商人
「いや、歯磨き前は弱いらしい」
村人
「でも歯を磨いたら、牙猪を一撃だったぞ」
勇者
「噂の広まり方がおかしい」
戦士
「だいたい合っている」
僧侶
「歯磨きの大切さが広まるのは良いことです」
魔法使い
「問題は、勇者の名前より先に歯磨きが広まってることね」
次回、第9話
「歯磨き勇者の噂が広まる」
勇者、名前より先に条件が有名になる。