他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
噂というものは、思ったより早く広がる。
魔物を倒した勇者。それだけなら普通だ。村を救った勇者。それもまだ王道である。
だが、歯を磨かれると強くなる勇者。
これは広まる。
ものすごく広まる。
ハルト村を出て三日後。俺たちは街道沿いの宿場町で夕食を取っていた。
隣の席では、二人の商人が声を潜めている。
「聞いたか? 歯を磨かれると魔物を倒す勇者がいるらしいぞ」
俺は豆のスープを吹きかけた。
僧侶が布を差し出し、魔法使いが顔をしかめる。
「噂の広まり方がおかしい」
完全に同意だった。
「俺が聞いた話だと、歯磨き前は弱いらしい」
「勇者なのに?」
「勇者なのに」
「でも、磨いたら牙猪を一撃だとか」
「歯ブラシで殴ったのか?」
「そこまでは知らん」
俺は頭を抱えた。
「違います」
「何がだ」
戦士が肉を切りながら聞く。
「歯ブラシで殴ってません」
「それ以外は合っている」
「だいたい間違っている扱いにしてください」
僧侶は優しく微笑んだ。
「でも、歯磨きの大切さが広まるのは良いことです」
「俺の社会的な立場と引き換えですが」
魔法使いは隣の席へ耳を傾ける。
「問題は、名前より条件だけ広まってることね」
「俺の名前、出してませんから」
「なら、あだ名がつくわよ」
嫌な予言だった。
その直後、商人が言った。
「王都から来た、歯磨き勇者らしい」
来た。
歯磨き勇者。
俺はスプーンを持ったまま固まった。
「笑いました?」
「笑っていない」
戦士の肩が揺れている。
「歯磨き勇者」
「繰り返さないでください」
僧侶が真面目に頷く。
「分かりやすい呼び名ですね」
「味方が誰も守ってくれない」
魔法使いは頬杖をついた。
「そのうち、歯磨き勇者の歯磨き粉とか売られそう」
「ありそうで怖いです」
その日は、食事の味がよく分からなかった。
翌朝、俺たちは街道の魔物退治へ向かった。
門の前で、荷馬車の護衛が俺を見る。
「あんたが、歯を磨くと強くなる勇者か?」
「……はい」
もう否定できない。
「堂々としろ」
戦士が実戦用ブラシを取り出した。
「ここでやるんですか?」
「魔物がいる」
「人もいます」
「見られるのと死ぬの、どちらがいい」
「選択肢が重い」
戦士の急速仕上げは、一分もかからなかった。
前歯、犬歯、奥歯。必要な場所だけを一気に通す。
「すすげ」
口をすすぐと、胸の奥で光が弾けた。
レベル99。
周囲の旅人がざわめく。
「本当に光った」
「歯磨きで?」
「歯磨きで」
やめてほしい。
「行くぞ、歯磨き勇者」
「戦士さんまで!?」
出てきたのは角兎とスライムの群れだった。
俺が角兎の突進を止め、戦士が横から斬る。魔法使いの火球がスライムを焼き、僧侶の結界が荷馬車を守った。
数分で戦闘は終わる。
戻ると、護衛の男が感心したように頷いた。
「すげえな、歯磨き勇者」
名前ではなかった。
心に刺さった。
噂は、次の村でさらに変化していた。
「歯を磨けば、誰でもレベル99になれるんですか?」
「なりません」
俺より先に、僧侶が答えた。
勇者の加護は特別なものであり、普通の人が磨いてもレベル99にはならない。ただし、歯を清潔に保つことは健康に良い。説明はすでに手慣れていた。
村の子供が手を上げる。
「じゃあ、歯を磨いても強くならないの?」
「健康にはなれます」
僧侶が微笑む。
「じゃあ磨く!」
「奥歯も!」
魔法使いが即座に付け加えた。
「奥歯は大事よ」
「そこだけ反応が速いですね」
「磨き残しやすいから」
戦士が呆れたように言う。
「勇者の噂から、なぜ歯磨き指導になる」
「俺に聞かないでください」
俺のあだ名は妙な方向へ広がっている。だが同時に、歯磨きの大切さも伝わっていた。
悪いことではない。
俺の精神的な犠牲を除けば。
さらに次の宿場では、噂に余計な情報が加わった。
「歯磨き勇者は歯ブラシを十本持っている」
持っていない。
「磨く相手によって強さが変わる」
少し合っている。
「膝枕で磨かれると、さらに強くなる」
そこは広まらないでほしかった。
「追加バフまで漏れてるじゃない」
魔法使いが掲示板を見て呟く。
「王都の情報管理はどうなってるんですか」
「強敵戦では有用だ」
戦士が言う。
「有用性の話ではありません」
「なら何だ」
「尊厳です」
「魔王軍には通じない」
僧侶が困ったように微笑んだ。
「勇者様の精神的負担もあります。必要な時だけにしましょう」
「必要な時はやる前提なんですね」
逃げ道はなかった。
その日の依頼は、畑を荒らす土竜型魔物の退治だった。
今回は僧侶の安定ケアを受ける。人前で磨かれる俺を村人たちが見守っていたが、もう細かく気にしている余裕はない。
「肩の力を抜いてください」
「見られてます」
「深呼吸を」
「普通の対処法」
短い歯磨きが終わり、加護が発動する。
レベル99。
魔法使いが杖の光を確認した。
「安定してる。行けるわ」
戦闘では、魔法使いが地中の反応を探り、戦士が魔物を飛び出させる。俺が一体ずつ倒し、僧侶の結界が畑への被害を防いだ。
依頼主の老人が、何度も頭を下げる。
「ありがとう、歯磨き勇者様」
様がついた。
嬉しくない方向で丁寧になった。
さらに数日後、俺たちは市場町へ入った。
露店の前に、手書きの札が立っている。
『勇者様も大切にする歯磨き! 旅人用歯ブラシあります』
俺は足を止めた。
戦士も止まり、魔法使いも止まる。僧侶だけが嬉しそうだった。
「歯磨き用品が売られていますね」
「見れば分かります」
露店には木製の歯ブラシ、獣毛ブラシ、携帯用コップが並んでいた。
「旅のお方、歯ブラシはいかがです? 最近は勇者様も歯を大切にしているそうで、よく売れるんですよ」
勇者本人が目の前にいる。
だが、商人は気づいていない。
「予備を買うぞ」
戦士が一番丈夫な歯ブラシを選ぶ。
「普通に買うんですか」
「必要だ」
魔法使いも毛先を確認する。
「これは粗い。緊急用ね」
「完全に管理側ですね」
「出力に関わるでしょ」
僧侶はコップを手に取った。
「戦闘後用と分けても良さそうです」
「僧侶さんまで」
商人は笑顔で銅貨を受け取る。
「最近は歯磨き勇者様のおかげで、よく売れまして」
「俺のあだ名が経済を動かし始めています」
「良いことだろ」
「良いことなんですか」
その会話を聞いた商人が、首を傾げた。
「もしかして、あなた方は勇者様の一行で?」
視線が俺の背中の箱へ向く。
勇者用歯磨きセット。
完全に目印だった。
「まさか……歯磨き勇者様!?」
市場中の人間が振り向いた。
俺は後ずさる。
戦士に肩を掴まれた。
「逃げるな」
「社会的に追われています」
「依頼がある」
その場で僧侶と魔法使いによる簡単な訂正が始まった。
歯磨きでレベル99になるのは勇者だけ。普通の人には健康効果しかない。硬すぎるブラシは歯茎を傷つける。奥歯は磨き残しやすい。
「なぜ講習会に?」
戦士は一言でまとめた。
「戦闘前に必要だから磨く。それだけだ」
簡潔すぎる。
その日の午後、市場町近くに石殻の魔物が現れた。
甲羅が硬く、正確に隙間を狙う必要がある。今回は魔法使いの精密仕上げになった。
「べ、別に見せるためじゃないから」
「はい」
「戦力維持よ」
「人前ですが」
「私だって恥ずかしいわよ!」
短い歯磨きの後、レベル99へ上がる。
周囲から歓声が上がった。
「本当に光った!」
「歯磨き勇者だ!」
魔物へ向かい、魔法使いが示した甲羅の隙間へ剣を入れる。戦士が体を押さえ、僧侶の結界が突進を止めた。
三撃目で、甲羅が砕ける。
「歯磨き勇者様、すげえ!」
やはり名前ではなかった。
その夜、市場町の宿で、俺は机へ突っ伏していた。
「名前より先に、歯磨き勇者が広まりました」
「覚えやすいからな」
戦士は武器を手入れしながら答えた。
「覚えてほしいわけではありません」
「噂が広まれば依頼も来る」
「それはそうですけど」
僧侶は今日買ったコップを洗っている。
「歯磨きの大切さも広まっています。歯ブラシを買っていた親子もいましたよ」
「そこだけ聞けば良い話ですね」
魔法使いは新しい歯ブラシの毛先を確認していた。
「ただ、噂は訂正した方がいいわ。誰でもレベル99になるとか、歯ブラシで殴るとか、膝枕で世界を救うとか」
「もう十分おかしいです」
「だから直すの」
戦士が言う。
「聞かれたら答えろ。歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。効果時間は30分。以上だ」
「簡潔すぎます」
「事実だ」
僧侶が続ける。
「歯磨きは健康にも大切です」
魔法使いも言う。
「奥歯は磨き残しやすい」
「俺の説明、歯磨き指導込みになってません?」
三人は否定しなかった。
窓の外では、市場町の灯りが揺れている。どこかの食堂から、旅人たちの笑い声が聞こえた。たぶん、そこでも俺の噂が話されている。
歯磨き勇者。
名前ではない。
でも、呼ばれれば俺だと分かる。
かなり恥ずかしい。
それでも、噂のおかげで助けを求める人が俺たちを見つけやすくなり、歯を磨く子供が少しでも増えるなら。
完全に悪いことではないのかもしれない。
そう思わないと、心が折れる。
「勇者」
戦士が言った。
「明日は北の村へ向かう。噂が先に届いている可能性がある」
「何を準備すれば?」
「説明と歯磨きだ」
僧侶が微笑む。
「正しい情報を伝えることも大切ですね」
魔法使いは肩をすくめた。
「変な噂が増える前にね」
これからの旅には、魔物退治だけでなく、噂の訂正も必要になるらしい。
勇者の名前は、まだほとんど知られていない。だが、歯磨き勇者というあだ名は確実に広がっている。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。効果時間は約30分。
そして、名前より先に条件が有名になる。
これが俺の勇者伝説の始まり方だった。
終わっている。
だが、たぶんもう止まらない。