他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です   作:きのこ大三元

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第9話「歯磨き勇者の噂が広まる」

噂というものは、思ったより早く広がる。

 

 魔物を倒した勇者。それだけなら普通だ。村を救った勇者。それもまだ王道である。

 

 だが、歯を磨かれると強くなる勇者。

 

 これは広まる。

 

 ものすごく広まる。

 

 ハルト村を出て三日後。俺たちは街道沿いの宿場町で夕食を取っていた。

 

 隣の席では、二人の商人が声を潜めている。

 

「聞いたか? 歯を磨かれると魔物を倒す勇者がいるらしいぞ」

 

 俺は豆のスープを吹きかけた。

 

 僧侶が布を差し出し、魔法使いが顔をしかめる。

 

「噂の広まり方がおかしい」

 

 完全に同意だった。

 

「俺が聞いた話だと、歯磨き前は弱いらしい」

「勇者なのに?」

「勇者なのに」

「でも、磨いたら牙猪を一撃だとか」

「歯ブラシで殴ったのか?」

「そこまでは知らん」

 

 俺は頭を抱えた。

 

「違います」

「何がだ」

 

 戦士が肉を切りながら聞く。

 

「歯ブラシで殴ってません」

「それ以外は合っている」

「だいたい間違っている扱いにしてください」

 

 僧侶は優しく微笑んだ。

 

「でも、歯磨きの大切さが広まるのは良いことです」

「俺の社会的な立場と引き換えですが」

 

 魔法使いは隣の席へ耳を傾ける。

 

「問題は、名前より条件だけ広まってることね」

「俺の名前、出してませんから」

「なら、あだ名がつくわよ」

 

 嫌な予言だった。

 

 その直後、商人が言った。

 

「王都から来た、歯磨き勇者らしい」

 

 来た。

 

 歯磨き勇者。

 

 俺はスプーンを持ったまま固まった。

 

「笑いました?」

「笑っていない」

 

 戦士の肩が揺れている。

 

「歯磨き勇者」

「繰り返さないでください」

 

 僧侶が真面目に頷く。

 

「分かりやすい呼び名ですね」

「味方が誰も守ってくれない」

 

 魔法使いは頬杖をついた。

 

「そのうち、歯磨き勇者の歯磨き粉とか売られそう」

「ありそうで怖いです」

 

 その日は、食事の味がよく分からなかった。

 

 翌朝、俺たちは街道の魔物退治へ向かった。

 

 門の前で、荷馬車の護衛が俺を見る。

 

「あんたが、歯を磨くと強くなる勇者か?」

「……はい」

 

 もう否定できない。

 

「堂々としろ」

 

 戦士が実戦用ブラシを取り出した。

 

「ここでやるんですか?」

「魔物がいる」

「人もいます」

「見られるのと死ぬの、どちらがいい」

「選択肢が重い」

 

 戦士の急速仕上げは、一分もかからなかった。

 

 前歯、犬歯、奥歯。必要な場所だけを一気に通す。

 

「すすげ」

 

 口をすすぐと、胸の奥で光が弾けた。

 

 レベル99。

 

 周囲の旅人がざわめく。

 

「本当に光った」

「歯磨きで?」

「歯磨きで」

 

 やめてほしい。

 

「行くぞ、歯磨き勇者」

「戦士さんまで!?」

 

 出てきたのは角兎とスライムの群れだった。

 

 俺が角兎の突進を止め、戦士が横から斬る。魔法使いの火球がスライムを焼き、僧侶の結界が荷馬車を守った。

 

 数分で戦闘は終わる。

 

 戻ると、護衛の男が感心したように頷いた。

 

「すげえな、歯磨き勇者」

 

 名前ではなかった。

 

 心に刺さった。

 

 噂は、次の村でさらに変化していた。

 

「歯を磨けば、誰でもレベル99になれるんですか?」

 

「なりません」

 

 俺より先に、僧侶が答えた。

 

 勇者の加護は特別なものであり、普通の人が磨いてもレベル99にはならない。ただし、歯を清潔に保つことは健康に良い。説明はすでに手慣れていた。

 

 村の子供が手を上げる。

 

「じゃあ、歯を磨いても強くならないの?」

「健康にはなれます」

 

 僧侶が微笑む。

 

「じゃあ磨く!」

「奥歯も!」

 

 魔法使いが即座に付け加えた。

 

「奥歯は大事よ」

「そこだけ反応が速いですね」

「磨き残しやすいから」

 

 戦士が呆れたように言う。

 

「勇者の噂から、なぜ歯磨き指導になる」

「俺に聞かないでください」

 

 俺のあだ名は妙な方向へ広がっている。だが同時に、歯磨きの大切さも伝わっていた。

 

 悪いことではない。

 

 俺の精神的な犠牲を除けば。

 

 さらに次の宿場では、噂に余計な情報が加わった。

 

「歯磨き勇者は歯ブラシを十本持っている」

 

 持っていない。

 

「磨く相手によって強さが変わる」

 

 少し合っている。

 

「膝枕で磨かれると、さらに強くなる」

 

 そこは広まらないでほしかった。

 

「追加バフまで漏れてるじゃない」

 

 魔法使いが掲示板を見て呟く。

 

「王都の情報管理はどうなってるんですか」

「強敵戦では有用だ」

 

 戦士が言う。

 

「有用性の話ではありません」

「なら何だ」

「尊厳です」

「魔王軍には通じない」

 

 僧侶が困ったように微笑んだ。

 

「勇者様の精神的負担もあります。必要な時だけにしましょう」

「必要な時はやる前提なんですね」

 

 逃げ道はなかった。

 

 その日の依頼は、畑を荒らす土竜型魔物の退治だった。

 

 今回は僧侶の安定ケアを受ける。人前で磨かれる俺を村人たちが見守っていたが、もう細かく気にしている余裕はない。

 

「肩の力を抜いてください」

「見られてます」

「深呼吸を」

「普通の対処法」

 

 短い歯磨きが終わり、加護が発動する。

 

 レベル99。

 

 魔法使いが杖の光を確認した。

 

「安定してる。行けるわ」

 

 戦闘では、魔法使いが地中の反応を探り、戦士が魔物を飛び出させる。俺が一体ずつ倒し、僧侶の結界が畑への被害を防いだ。

 

 依頼主の老人が、何度も頭を下げる。

 

「ありがとう、歯磨き勇者様」

 

 様がついた。

 

 嬉しくない方向で丁寧になった。

 

 さらに数日後、俺たちは市場町へ入った。

 

 露店の前に、手書きの札が立っている。

 

『勇者様も大切にする歯磨き! 旅人用歯ブラシあります』

 

 俺は足を止めた。

 

 戦士も止まり、魔法使いも止まる。僧侶だけが嬉しそうだった。

 

「歯磨き用品が売られていますね」

「見れば分かります」

 

 露店には木製の歯ブラシ、獣毛ブラシ、携帯用コップが並んでいた。

 

「旅のお方、歯ブラシはいかがです? 最近は勇者様も歯を大切にしているそうで、よく売れるんですよ」

 

 勇者本人が目の前にいる。

 

 だが、商人は気づいていない。

 

「予備を買うぞ」

 

 戦士が一番丈夫な歯ブラシを選ぶ。

 

「普通に買うんですか」

「必要だ」

 

 魔法使いも毛先を確認する。

 

「これは粗い。緊急用ね」

「完全に管理側ですね」

「出力に関わるでしょ」

 

 僧侶はコップを手に取った。

 

「戦闘後用と分けても良さそうです」

「僧侶さんまで」

 

 商人は笑顔で銅貨を受け取る。

 

「最近は歯磨き勇者様のおかげで、よく売れまして」

 

「俺のあだ名が経済を動かし始めています」

「良いことだろ」

「良いことなんですか」

 

 その会話を聞いた商人が、首を傾げた。

 

「もしかして、あなた方は勇者様の一行で?」

 

 視線が俺の背中の箱へ向く。

 

 勇者用歯磨きセット。

 

 完全に目印だった。

 

「まさか……歯磨き勇者様!?」

 

 市場中の人間が振り向いた。

 

 俺は後ずさる。

 

 戦士に肩を掴まれた。

 

「逃げるな」

「社会的に追われています」

「依頼がある」

 

 その場で僧侶と魔法使いによる簡単な訂正が始まった。

 

 歯磨きでレベル99になるのは勇者だけ。普通の人には健康効果しかない。硬すぎるブラシは歯茎を傷つける。奥歯は磨き残しやすい。

 

「なぜ講習会に?」

 

 戦士は一言でまとめた。

 

「戦闘前に必要だから磨く。それだけだ」

 

 簡潔すぎる。

 

 その日の午後、市場町近くに石殻の魔物が現れた。

 

 甲羅が硬く、正確に隙間を狙う必要がある。今回は魔法使いの精密仕上げになった。

 

「べ、別に見せるためじゃないから」

「はい」

「戦力維持よ」

「人前ですが」

「私だって恥ずかしいわよ!」

 

 短い歯磨きの後、レベル99へ上がる。

 

 周囲から歓声が上がった。

 

「本当に光った!」

「歯磨き勇者だ!」

 

 魔物へ向かい、魔法使いが示した甲羅の隙間へ剣を入れる。戦士が体を押さえ、僧侶の結界が突進を止めた。

 

 三撃目で、甲羅が砕ける。

 

「歯磨き勇者様、すげえ!」

 

 やはり名前ではなかった。

 

 その夜、市場町の宿で、俺は机へ突っ伏していた。

 

「名前より先に、歯磨き勇者が広まりました」

 

「覚えやすいからな」

 

 戦士は武器を手入れしながら答えた。

 

「覚えてほしいわけではありません」

「噂が広まれば依頼も来る」

「それはそうですけど」

 

 僧侶は今日買ったコップを洗っている。

 

「歯磨きの大切さも広まっています。歯ブラシを買っていた親子もいましたよ」

「そこだけ聞けば良い話ですね」

 

 魔法使いは新しい歯ブラシの毛先を確認していた。

 

「ただ、噂は訂正した方がいいわ。誰でもレベル99になるとか、歯ブラシで殴るとか、膝枕で世界を救うとか」

「もう十分おかしいです」

「だから直すの」

 

 戦士が言う。

 

「聞かれたら答えろ。歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。効果時間は30分。以上だ」

「簡潔すぎます」

「事実だ」

 

 僧侶が続ける。

 

「歯磨きは健康にも大切です」

 

 魔法使いも言う。

 

「奥歯は磨き残しやすい」

 

「俺の説明、歯磨き指導込みになってません?」

 

 三人は否定しなかった。

 

 窓の外では、市場町の灯りが揺れている。どこかの食堂から、旅人たちの笑い声が聞こえた。たぶん、そこでも俺の噂が話されている。

 

 歯磨き勇者。

 

 名前ではない。

 

 でも、呼ばれれば俺だと分かる。

 

 かなり恥ずかしい。

 

 それでも、噂のおかげで助けを求める人が俺たちを見つけやすくなり、歯を磨く子供が少しでも増えるなら。

 

 完全に悪いことではないのかもしれない。

 

 そう思わないと、心が折れる。

 

「勇者」

 

 戦士が言った。

 

「明日は北の村へ向かう。噂が先に届いている可能性がある」

「何を準備すれば?」

「説明と歯磨きだ」

 

 僧侶が微笑む。

 

「正しい情報を伝えることも大切ですね」

 

 魔法使いは肩をすくめた。

 

「変な噂が増える前にね」

 

 これからの旅には、魔物退治だけでなく、噂の訂正も必要になるらしい。

 

 勇者の名前は、まだほとんど知られていない。だが、歯磨き勇者というあだ名は確実に広がっている。

 

 歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。効果時間は約30分。

 

 そして、名前より先に条件が有名になる。

 

 これが俺の勇者伝説の始まり方だった。

 

 終わっている。

 

 だが、たぶんもう止まらない。

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