他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
第三の四天王、補佐官の部隊と別れてから数日。
俺たちは王都へ戻る予定を変更し、北方の村へ向かっていた。近くの森で魔物が騒ぎ、夜になると獣の咆哮まで聞こえるらしい。
そして何より気になるのが、補佐官から聞いた第四の四天王の話だった。
牙を誇りとする魔族。
そのくせ、牙の根元に問題を抱えている。
味方の健康情報を敵へ流していいのかと思ったが、補佐官本人が「一度負けた方が自覚するでしょう」と真顔で言っていた。
管理役、怖い。
「勇者、歯磨きセットは?」
隣を歩く戦士が聞いてくる。
「確認しました。歯ブラシ、歯磨き粉、コップ、予備の獣毛ブラシ。全部あります」
「残量は?」
「十分です」
「よし」
完全に出発前点検だった。
以前は歯ブラシを持ち歩いているだけでも恥ずかしかったのに、今では敵に奪われる可能性まで出てきたため、三人が毎朝確認している。
俺の神器、厳重管理された歯磨きセット。
聖剣より生活感がある。
「補佐官様からいただいた草稿もありますよ」
僧侶が一枚の紙を取り出した。
魔王軍式口腔管理案。
牙の根元の清掃、硬い保存食への注意、痛みや腫れの早期報告。さらに、魔族用長柄ブラシの案まで載っている。
「本当に作ったのね」
魔法使いが横から覗き込んだ。
「この角度だと、牙の裏側へ入りにくそう。柄を少し曲げた方が――」
「まだ協力する気ですか」
「乗ってない。構造が気になるだけ」
もう何度も聞いた言い訳だった。
北方の村へ着くと、住民のほとんどが家へ避難していた。
村長によれば、巨大な獣人型の魔族が森を占拠しているらしい。村へ直接襲ってくることはないが、夜になると咆哮と、何かを殴るような音が響いているという。
「怒っているのでしょうか」
僧侶が聞くと、村長は困った顔をした。
「分かりません。ただ、昨日は『痛くない』と何度も叫んでおりまして」
「誰に向かって?」
「一人でです」
全員が黙った。
「それ、たぶん痛いやつですね」
「間違いないわね」
俺と魔法使いの意見が一致した。
戦士だけは大剣へ手をかける。
「痛くても敵は敵だ。まず確認する」
正しい。
森へ入ると、すぐに大きな爪痕と足跡が見つかった。周囲に他の魔物はいない。どうやら本当に、近づく奴を片っ端から追い払っているらしい。
足跡の先には、岩に囲まれた広場。
そして、その中央で大木を殴っている女がいた。
「痛くない!」
拳が幹へめり込む。
「この程度、何でもない!」
もう一発。
「牙が少し疼くだけだ!」
完全に痛いやつだった。
大柄な獣人型の女性魔族だった。黒に近い灰色の髪、獣の耳と尾、腕や脚を覆う獣毛。腰には大きな斧を下げている。
何より目立つのが、口元から伸びた二本の牙。
長く、鋭く、いかにも強そうだ。
ただし、右側の根元だけ魔力の流れがおかしい。
視界の隅に文字が浮かんだ。
魔王軍四天王。
牙獣将。
レベル86。
第四の四天王。
そして今の俺はレベル5。
いつものことながら、差がひどい。
牙獣将はこちらへ気づくと、大木から拳を抜いた。
「来たか、人間ども」
低く鋭い声だった。
ただ、口の右側だけ少し動かしづらそうに見える。
「あなたが第四の四天王ですか」
「いかにも。我は魔王軍四天王、牙獣将。魔族最強の牙と膂力を持つ者だ!」
胸を張り、牙を見せる。
直後、顔がわずかに引きつった。
「今、痛みました?」
「痛くない!」
聞いただけなのに怒鳴られた。
「少し噛み合わせが気になるだけだ!」
「それ、たぶん痛いやつです」
「黙れ、歯磨き勇者!」
魔王軍でも、その呼び名だった。
俺の本名より浸透している気がする。
牙獣将は大斧を抜き、地面へ叩きつけた。土が弾け、空気まで震える。
「貴様の噂は聞いている。人間の軟弱な道具で歯を磨かれ、力を得る奇妙な勇者だとな!」
「間違ってはいませんが、言い方が嫌です」
「人間の歯磨きなど、我ら魔族の牙には不要だ! 強き牙は戦いの中で磨かれる!」
僧侶が小さく首を傾げた。
「物理的には、磨かれていないのでは?」
「僧侶さん。今は比喩です」
牙獣将の眉がぴくりと動く。
「我らの牙は武器であり、誇りだ。人間の小さな歯と一緒にするな!」
「でも右の牙、根元の魔力が乱れてるわよ」
魔法使いが容赦なく切り込んだ。
牙獣将の尾がぴたりと止まる。
「ない」
「ある」
「ない!」
「炎症に近い反応ね。噛むと痛いでしょ」
「痛まん!」
言い切った勢いで奥歯を噛み締める。
顔が引きつった。
「今、痛みましたね」
「痛くない!」
会話が成立していない。
戦士が大剣を構えた。
「治療を受ける気は?」
「ない!」
「なら、まず戦う」
話が早い。
牙獣将も斧を構える。
「よかろう! 歯磨きで得た力も、人間の口腔ケアとやらも、我が牙と斧で打ち砕く!」
「歯磨き文化まで戦闘対象なんですか」
返事代わりに、斧が振り下ろされた。
戦士が大剣で受ける。
森中に響くような金属音。戦士の足元が沈み、俺は言われる前に後ろへ下がった。
歯磨き前はレベル5。
こういう時だけは、自分の身の程をよく分かっている。
牙獣将は大柄なくせに速かった。斧を連続で叩き込み、戦士が受け、魔法使いが氷弾で牽制する。僧侶の結界が衝撃を押さえていたが、一撃一撃が重い。
ただ、やっぱり動きがおかしい。
斧へ力を込めるたび右顎が固まり、牙を噛み締めた瞬間だけ踏み込みが鈍る。
「痛みで動きが乱れてる!」
「黙れ!」
魔法使いへ怒鳴り返し、牙獣将が斧を横薙ぎに振るう。
戦士が受けたが、大きく押された。
「勇者、準備!」
「誰が担当します?」
「私だ。最速でやる」
戦士は牙獣将を押し返すと、すぐこちらへ戻ってきた。魔法使いの氷の鎖が牙獣将を捕らえ、僧侶も結界を重ねる。
「長くは持たないわよ!」
実戦用ブラシが取り出された。
「口を開けろ」
「敵が牙を見せてる前で?」
「お前も歯を見せろ」
「対抗方法がおかしい」
それでも口は開ける。
戦士の急速仕上げは、もう旅の序盤とは別物だった。余計な動きがなく、短時間でも必要な場所へ毛先が届く。
武人に指摘された奥歯も改善済み。
敵の助言で歯磨き技術が上がる前衛。
この旅、本当に何なんだろう。
「動くな」
「はい」
「噛むな」
「はい」
氷の鎖を引きちぎりながら、牙獣将がこちらを見る。
「本当に敵前で磨かれるのか!」
「必要なので!」
「軟弱な!」
「それは戦ってから言ってください!」
短い仕上げが終わり、口をすすぐ。
胸の奥で光が弾けた。
レベル99。
牙獣将の斧が迫る。
俺は剣を抜き、その一撃を真正面から受け止めた。
「なっ……」
「これが俺の戦い方です」
地面を蹴る。
牙獣将は強かった。
斧だけではない。爪、脚力、獣人特有の瞬発力。レベル99でも油断できる相手ではなく、まともに一撃を受ければ十分痛い。
ただし、牙の痛みだけは隠せていなかった。
「右!」
魔法使いの声で斧をかわす。
「踏み込みすぎるな!」
戦士の指示で距離を保つ。
「長引かせないでください。相手も痛みを抱えています」
僧侶の声に、俺は小さく頷いた。
勝つだけなら、力で押し切れる。
でも、それでは意味がない。
牙獣将が斧を振り上げた瞬間、右顎に力が入る。
顔が歪んだ。
そこへ踏み込む。
剣の腹で斧の柄を弾き、足を払う。崩れた胸当てへ柄を叩き込み、巨体を地面へ転がした。
斧が手から離れる。
「まだだ!」
起き上がろうとした牙獣将の前へ、剣先を向けた。
「終わりです」
牙獣将は荒い息を吐きながら、こちらを睨む。
「殺せ」
「殺しません」
「敵に情けをかけるか」
「牙が痛い相手を倒して、そのまま放置する方が嫌です」
「痛くない!」
「まだ言うんですか」
魔法使いが近づき、杖を口元へ向けた。
「右の根元、かなり乱れてる。これ以上放っておいたら悪化するわよ」
僧侶もそばへしゃがみ込む。
「少し腫れていますね。牙そのものというより、根元の歯茎でしょうか」
牙獣将が反射的に口元を隠した。
「見るな」
急に声が小さくなる。
「牙は魔族の誇りだ。弱っていると知られれば、部下に示しがつかない」
ようやく本音が出た。
俺は剣を下ろした。
「補佐官さんは知ってましたよ」
「なに?」
「牙の手入れを怠ってるって」
牙獣将の顔が引きつる。
「あの眼鏡……!」
管理役は怖い。
「歯や牙が痛むこと自体は、弱さではありませんよ」
僧侶が穏やかに言った。
「むしろ我慢して悪化させて、戦えなくなる方が困るでしょう?」
「人間の理屈だ」
「魔王軍の兵士たちも、同じような悩みを抱えていました」
牙獣将が黙る。
俺は荷物から、村でもらった獣毛ブラシを出した。
「これ、人間用ですけど。牙の隙間や根元にも応用できるかもしれません」
「その小さな道具を、我の牙に使うというのか」
「今日は使いません」
牙獣将が少し驚いた顔をした。
「嫌がる相手を押さえて磨くつもりはないです。本人が納得しないと意味がありませんから」
俺自身、誰かに歯を磨いてもらう加護を持っている。
だからこそ、その辺は大事だった。
歯磨きなんて、無理やりやるものじゃない。
「ただ、このまま放っておくのはおすすめしません。補佐官さんも、魔族用の長柄ブラシを考えてました」
「長柄ブラシ?」
魔法使いが草稿を広げた。
「牙の裏側や根元に届くよう、柄を長くして角度を変える。魔族の口に合わせれば、人間用をそのまま使う必要もないわ」
「歯磨き粉も、体質を確認した上で刺激の少ないものから試せると思います」
僧侶も続ける。
牙獣将は草稿と獣毛ブラシを見比べた。
「人間の道具で、魔族の牙を手入れする……」
「魔族用に変えればいいんじゃないですか」
俺が言う。
「牙を大切にするための手入れなら、別に誇りを捨てることにはならないでしょう」
しばらく沈黙が続いた。
森を風が抜ける。
やがて牙獣将は、小さく息を吐いた。
「……補佐官は、他に何と言っていた」
「一回負けた方が自覚するって」
「あの眼鏡……本当に……」
頭を抱えた拍子に顎へ響いたらしく、また顔をしかめた。
「痛いんですよね?」
「……少しだ」
初めて認めた。
「少し、噛むと痛む」
「最初から言ってください」
戦士が斧を拾い、手の届かない場所へ置く。
「治療中は大人しくしろ」
「敵に命令される筋合いはない」
「なら痛いまま帰るか?」
牙獣将は黙った。
戦士の正論は、魔族にも効くらしい。
僧侶が応急処置を始めた。根本的な原因まではどうにもできないが、腫れと痛みを一時的に抑えることはできる。
しばらくして、牙獣将が恐る恐る顎を動かした。
「……痛みが薄い」
「一時的ですよ。毎日のケアと、原因の確認は必要です」
「歯磨きもか」
「はい」
僧侶は笑顔だった。
逃がす気がない。
「人間の習慣を受け入れろというのか」
「魔族用に変えれば、人間の習慣じゃないですよ」
俺が答えると、牙獣将は少し考えた。
「魔族の牙を守るための、魔族の手入れ……」
「そうです」
「ならば、誇りには反しない」
納得する場所が、いかにも彼女らしかった。
「今日の勝負は我の敗北だ」
牙獣将は立ち上がる。
「歯磨きで得た力そのものを認めたわけではない。だが、人間の小さな道具にも利用価値があることは認めよう」
武人も似たようなことを言っていた。
魔王軍は、全部素直に認めると死ぬのだろうか。
「補佐官へ伝えろ。長柄ブラシの試作品は、我が直接確認する」
「自分から試すんですか?」
「牙を守るためだ。勘違いするな」
魔法使いが小さく笑った。
「魔王軍にもツンデレっているのね」
「誰がツンデレだ!」
牙獣将が吠え、すぐ右顎を押さえた。
「大声は控えてください」
「……分かった」
僧侶に注意され、素直に黙る。
少し面白かった。
「ところで」
俺は獣毛ブラシをしまいながら聞いた。
「魔王様にも牙ってあるんですか?」
牙獣将の表情が固まった。
「魔王様の御姿について、敵に話すつもりはない」
「口腔ケアの話です」
「なおさらだ」
強く拒否された。
ただし、視線が少し泳いだ。
魔法使いが見逃さない。
「あるのね。歯か牙の悩み」
「知らん」
「補佐官は魔王様の健康管理もしてるんでしょ?」
「知らん!」
また大声を出し、右顎を押さえる。
「だから、大声は控えてください」
第四の四天王は完全に患者扱いされていた。
牙獣将は斧を拾い、森の奥へ向かう。
「今日は退く。次に会う時は、万全の牙と力で勝負する」
「また戦うんですか」
「当然だ。我の誇りは折れていない」
数歩進んでから、こちらを振り返った。
「だが、その獣毛ブラシとやらは悪くない。必ず魔族用へ改良しろ」
「補佐官さんへ伝えておきます」
「それと、歯磨き粉は刺激の少ないものを用意しろ」
「もう使う気じゃないですか」
牙獣将の顔が少し赤くなる。
「性能確認だ!」
どこかで聞いたような言い訳を残し、そのまま森の奥へ消えていった。
戦士が大剣を背負い直す。
「四天王は全員、妙な方向へ歯磨きに関わるな」
「一人くらい普通に倒しに来てもよかったですよね」
魔法使いが指を折る。
「研究者は研究。武人は評価。補佐官は管理。牙獣将は治療」
「そして次は魔王様ですね」
僧侶の一言で、全員が黙った。
四天王全員と接触した。
研究者は捕虜。武人とは再戦の約束。補佐官とは一時休戦。牙獣将は魔族用歯ブラシの試作品を待つことになった。
敵と戦っているはずなのに、歯磨き文化だけは着実に魔王軍へ侵攻している。
「これ、魔王様とも歯の話になると思います?」
「ありそうね」
「牙や歯の悩みがあるなら、治療は必要です」
「まずは敵だ。そこを忘れるな」
戦士が釘を刺す。
もちろん、その通りだった。
魔王軍は敵だ。村を襲い、人を苦しめるなら戦わなければならない。
それでも、今日の牙獣将とは話ができた。
敵だから殺す。魔族だから分かり合えない。
それだけではないのかもしれない。
歯が痛い。
牙の手入れに困っている。
そんな程度の共通点でも、話すきっかけにはなる。
世界を救うというのも、魔王を倒して終わりではないのかもしれなかった。
「勇者」
「はい?」
「ぼうっとするな。村へ戻るぞ」
戦士が歩き始める。
「それと、戻ったら急速仕上げの確認をする」
「今日かなり速かったですよね?」
「武人に指摘された部分は改善した。次は敵の攻撃中でも安定させる」
「敵の攻撃中に磨く前提をやめてください」
「でも、妨害対策は必要ね」
「安全な姿勢も確認しましょう」
魔法使いと僧侶まで乗ってきた。
三人は、もう次の歯磨き対策を考えている。
俺の意見は、たぶん今回も通らない。
異世界の空は、今日も綺麗だった。
その下で、人間用の歯ブラシが魔族の牙へ応用されようとしている。
第四の四天王は、人間の歯磨き文化を軽く見ていた。
けれど牙の痛みには勝てず、人間の道具にも使い道があると認めた。
そして俺たちは、倒した敵を殺さずに話した。
小さな変化だ。
でも、いつか魔王と向き合う時、その小さな変化が必要になるのかもしれない。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。
人間の歯も、魔族の牙も、放っておけば痛くなる。
たぶん、分かり合う入口なんて、そのくらいしょうもないものでもいいのだろう。
できれば俺としては、もう少しかっこいい入口がよかった。
次回予告
王女
「四天王全員との接触を確認しました」
戦士
「次は魔王だ」
僧侶
「ですが、話し合える可能性もあります」
魔法使い
「研究者、武人、補佐官、牙獣将。全員、歯磨きに巻き込まれたわね」
勇者
「魔王様まで巻き込まれる前提ですか?」
研究者
「当然だ。魔王の牙と勇者の加護反応を比較すれば――」
勇者
「まだいたんですか」
次回、第15話
「四天王を越えて、魔王城へ」
勇者一行、歯磨きセットを抱えて魔王城を目指す。