他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
歯磨きは、自分でするものだ。
少なくとも、18歳にもなればそうだと思う。
洗面台の前に立つ。歯ブラシに歯磨き粉をつける。鏡を見ながら、前歯、奥歯、歯の裏、噛み合わせるところを順番に磨く。
それは、生活の中にある当たり前の作業だった。
自分の手で、自分の歯を磨く。
そこに恥ずかしさはない。多少面倒だと思うことはあっても、誰かに見られて困るようなことではない。
けれど、他人に歯を磨いてもらうとなると、話が変わる。
それは、急に作業ではなくなる。
自分の手ではない。
自分の力加減ではない。
次にどこを磨かれるのかも、自分では決められない。
歯ブラシを動かすのは、相手の手だ。
自分は、相手の指先に合わせて口を開け、顎の力を抜き、歯ブラシの毛先を受け入れるしかない。
その時点で、もう負けている気がした。
「では、勇者さん。口を開けてください」
白い空間で、女神様が言った。
その手には、神々しい歯ブラシがある。
白い柄。
金色の紋様。
淡く光る毛先。
どこからどう見ても神器のような雰囲気なのに、用途は歯磨きだった。
「……本当にやるんですか?」
「はい。やらなければ、あなたはレベル5のままです」
「その言い方、ずるいですよね」
「事実ですので」
女神様は悪びれもせずに言った。
俺は、目の前の歯ブラシを見る。
歯磨き前はレベル5。
歯磨き後はレベル99。
女神様の説明は、何度聞いてもおかしかった。おかしいのに、世界を救うためには必要らしい。
歯磨きしなければ勇者になれない。
それが、俺に授けられた加護だった。
「力を抜いてくださいね」
「無理です」
「抜かないと磨きにくいです」
「正論で追い詰めないでください」
俺は観念して、少しだけ口を開けた。
女神様が1歩近づく。
近い。
人に歯を磨いてもらう距離というのは、想像以上に近かった。
歯医者ならまだ分かる。あれは診察台があり、器具があり、白衣があり、治療という空気がある。
けれど、今は違う。
相手は女神様。
場所は謎の白い空間。
そして俺は、勇者になるために歯を磨いてもらおうとしている。
意味が分からない。
意味が分からないのに、妙に逃げられない。
「もう少し開けてください」
「……はい」
「そのままです」
歯ブラシの毛先が、前歯に触れた。
小さな毛先が、歯の表面をなぞる。
それだけで、自分で磨く時とはまるで違うと分かった。
自分で磨く時なら、歯ブラシがどこに当たるか分かっている。どのくらいの強さで動かすかも、どこで止めるかも、自分が決める。
でも、今は違う。
女神様の指先が、俺の呼吸に合わせるように動く。
前歯の表面を小さく往復した毛先が、少し角度を変え、歯と歯茎の境目に触れる。
くすぐったい。
反射的に口を閉じそうになる。
けれど閉じられない。
閉じたら、女神様の手を止めてしまう。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫、です」
「では、続けますね」
続けますね。
その一言が、なぜか妙に恥ずかしかった。
女神様の歯ブラシは丁寧だった。
急がない。
乱暴でもない。
こちらが逃げない程度の優しさで、けれど磨き残しを許さない確かさがある。
前歯。
犬歯。
奥歯の外側。
順番に、丁寧に。
歯ブラシが移動するたびに、俺は少しずつ女神様の手に合わせて口を開ける。顔の角度を変える。舌を引っ込める。顎の力を抜こうとする。
最初は、ただ恥ずかしかった。
歯ブラシが触れるたびに、肩が少し強張る。次にどこを磨かれるのか分からなくて、毛先が奥歯の方へ向かうだけで、無意識に舌が逃げようとする。
けれど、女神様の手つきは乱暴ではなかった。
小さく、ゆっくりと、こちらの呼吸に合わせて動く。
強すぎない。弱すぎない。逃げようとした舌を追い詰めるのではなく、待って、促して、こちらが力を抜くまで急がない。
そのうち、くすぐったさの奥に、別の感覚が混じり始めた。
気持ちいい。
そう思ってしまった瞬間、俺は自分の中で何かに負けた気がした。
歯の表面を毛先がなぞるたび、妙にすっきりする。歯と歯茎の境目を丁寧に磨かれると、自分では普段流していた場所まで整えられていくような感覚があった。
恥ずかしいのに、嫌ではない。
むしろ、体の奥から少しずつ力が抜けていく。
肩の力が抜ける。
首の力が抜ける。
口を閉じようとしていた顎の力まで、少しずつ緩んでいく。
「勇者さん、先ほどより力が抜けています」
「……言わないでください」
「良いことです」
「良いことなのが嫌なんです」
女神様は真面目だった。
俺は、その真面目さに逆らえなかった。
歯ブラシがまた、前歯の裏側へ触れる。
体が小さく反応する。
でも、さっきほど逃げようとはしなかった。
気持ちいいと認めたくない。
認めたくないのに、呼吸はさっきより深くなっている。
舌も、顎も、肩も、だんだん女神様の手に合わせることを覚え始めていた。
「勇者さん」
「……はい」
「舌に力が入っています」
「言わないでください」
「歯ブラシを避けようとしています」
「それも言わないでください」
「自然な反応です。恥ずかしがることではありません」
「恥ずかしいんですよ」
舌は、自分の意思よりも先に動こうとする。
歯ブラシが奥へ来ると、避けようとする。
毛先が内側へ入ると、押し返そうとする。
けれど押し返せば、磨きにくくなる。
だから、女神様はそのたびに言う。
「力を抜いてください」
俺は、そのたびに従う。
舌の力を抜く。
口の中の逃げ道をなくす。
歯ブラシが入りやすいように、相手に任せる。
その感覚が、恥ずかしかった。
情けないほど、恥ずかしかった。
なのに、同時に、少し安心してしまう。
自分では見えない場所。
自分では雑に済ませていた場所。
自分では届いているつもりで、たぶん届いていなかった場所。
そこを、誰かが見てくれている。
自分のために、丁寧に手を動かしてくれている。
それは、子供扱いされているようで。
世話をされているようで。
ひどく落ち着かないのに、どこか温かかった。
「奥歯の内側を磨きます。少し大きく開けてください」
「……ん」
「はい、そのままです」
奥歯の内側。
自分で磨く時なら、つい雑になる場所だ。
届いているようで届いていない。磨いたつもりで済ませてしまう。
そこへ、歯ブラシの毛先がゆっくり入り込んだ。
細かい振動が伝わる。
毛先が歯の裏をなぞり、歯茎の近くを通り、噛み合わせの溝を小さく掃く。
くすぐったい。
変な声が出そうになる。
舌がまた逃げようとする。
「勇者さん」
「……はい」
「我慢しすぎなくて大丈夫です。ただ、動きすぎると危ないので、ゆっくり呼吸してください」
「歯磨きで呼吸の指導されるとは思いませんでした」
「勇者の儀式ですから」
「便利な言葉ですね、それ」
「実際、便利です」
女神様は少し笑った。
俺は口を開けたままなので、言い返せない。
この状況が、また悔しい。
喋れない。
動けない。
歯ブラシがどこへ行くかも分からない。
ただ、女神様の手に任せるしかない。
それは、弱さだった。
自分で何でもできると思っていた年齢の、自分ではどうにもならない姿だった。
それでも。
女神様の手は、俺を馬鹿にするために動いているわけではない。遊んでいるわけでもない。
本当に、勇者の加護を発動させるために、そして歯をきれいにするために動いている。
その真面目さが、逆に苦しかった。
「……女神様」
「はい」
「これ、歯磨きですよね?」
「はい。歯磨きです」
「歯磨きしてるだけですよね?」
「はい」
「なのに、なんでこんなに精神を削られるんですか」
「それは、勇者さんが意識しすぎているからでは?」
「正論をやめてください」
女神様は、今度は前歯の裏側を磨き始めた。
歯ブラシの角度が変わる。
毛先が裏側へ入り、細かく動く。
自分で磨く時とは違う。
自分なら、もっと早く終わらせる。もっと雑に済ませる。舌が邪魔なら、適当に逃がして終わりにする。
けれど、女神様は違った。
舌が少し動けば待つ。
力が入れば声をかける。
磨きにくい場所は、角度を変えて、丁寧にやり直す。
そのたびに、自分がどれだけ普段の歯磨きを適当にしていたか分かってしまう。
そして、どれだけ他人に任せることに慣れていないかも。
歯を磨かれているだけなのに。
気づけば、肩の力はさっきより抜けていた。
首も、顎も、最初よりずっと楽になっている。
呼吸も浅くない。
恥ずかしい。
けれど、心地いい。
そう認めてしまうのが一番恥ずかしかった。
「はい。通常の仕上げ磨きは、これで終わりです」
女神様が歯ブラシを離した。
俺は渡された携帯用コップで口をすすぐ。
神界製の水は、なぜか少し甘かった。
口の中がすっきりしている。歯の表面が、いつもより滑らかに感じる。
それだけなら、ただの丁寧な歯磨きだった。
けれど、次の瞬間。
胸の奥で、光が弾けた。
「……っ」
体が熱い。
いや、熱いのとは少し違う。
内側から、何かが満ちてくる。
手足が軽くなる。
呼吸が深くなる。
視界が澄む。
自分の体が、自分の知っているものではなくなっていく。
「勇者の加護が発動しました」
女神様が言った。
「通常歯磨きで、レベル99相当です」
「……本当に、強くなるんですね」
「はい」
冗談ではなかった。
羞恥でごまかせる話でもなかった。
他人に歯を磨いてもらう。
それだけで、俺は本当に勇者になる。
意味が分からない。
でも、力は本物だった。
「では、次に膝枕状態での追加バフを確認します」
「やっぱりやるんですね」
「はい。大切な確認です」
女神様は、どこからともなく白い長椅子を出した。
そして、静かに腰を下ろす。
「こちらへ」
俺は固まった。
通常の歯磨きでも、十分に恥ずかしかった。
それなのに、今度は膝枕だ。
「……女神様」
「はい」
「これは本当に勇者の儀式なんですよね?」
「はい」
「変な方向に進んでませんか?」
「進んでいません。追加バフの検証です」
「検証って言えば何でも許されると思ってません?」
「世界を救うためです」
「その言葉、本当に強いですね」
断れなかった。
世界を救うため。
加護を確認するため。
レベル5のまま送られないため。
理由はいくらでもある。
俺は、ぎこちなく女神様の前に座った。
そして、慎重に体を倒す。
後頭部が、女神様の膝に触れた。
柔らかい。
温かい。
近い。
その3つだけで、思考が少し止まった。
「力を抜いてください」
「無理です」
「先ほどより固くなっています」
「でしょうね!」
「この状態では、追加バフがうまく乗らない可能性があります」
「俺の精神状態に左右されるんですか?」
「はい。膝枕歯磨きは、精神安定が重要です」
「名前に対して効果が真面目すぎる」
女神様が、上から覗き込む。
逃げ場がなかった。
立っている時なら、まだ少し距離があった。
顔を逸らせば、多少は逃げられた。
でも、今は違う。
頭を預けている。
体を起こさない限り逃げられない。
そして、起き上がれば検証中止だ。
「勇者さん」
「……はい」
「恥ずかしいのは分かります。ですが、誰かに頼ることは悪いことではありません」
女神様の声は、穏やかだった。
「自分1人で何でもできる人だけが勇者ではありません。できないことを認めて、助けてほしいとお願いできることも、きっと勇気です」
「……歯磨きの話ですよね?」
「歯磨きの話です」
「なのに、なんで少し良い話っぽくなるんですか」
「勇者の儀式ですから」
やっぱり便利な言葉だった。
俺は、目を閉じかけて、慌てて開いた。
目を閉じると、余計に意識してしまう。
でも開けていると、女神様の顔が近い。
どちらにしても詰んでいる。
「……お願いします」
結局、俺はそう言った。
女神様は小さく頷く。
「はい。では、始めます」
2度目の歯ブラシが、前歯に触れた。
立っていた時と同じ歯ブラシ。
同じ女神様の手。
同じ歯磨き粉の香り。
なのに、感覚が違った。
膝枕の状態では、体の力を入れ続けることが難しい。頭を預けているから、首の力が抜ける。視線が上を向き、口を開けるしかなくなる。
恥ずかしさは、さっきより強い。
けれど、不安は少なかった。
女神様の膝に支えられている。
頭の位置が安定している。
歯ブラシの動きが、さっきよりも受け入れやすい。
逃げられないのに、落ち着く。
任せるしかないのに、安心する。
矛盾している。
でも、それが確かにあった。
膝枕になると、その感覚はさらに分かりやすくなった。
頭を預けているせいで、首に力を入れ続けることができない。
無理に体を固くしても、女神様の膝に支えられている感覚が、少しずつ緊張をほどいていく。
最初は、近さに意識が向いていた。
女神様の顔が近い。声が近い。歯ブラシを持つ手の動きまで、やけにはっきり分かる。
それが恥ずかしくて、どうにか平静を保とうとした。
けれど、歯ブラシが動き始めると、だんだん別のものに意識を奪われていく。
毛先が、歯の表面を優しく通る。
歯と歯の間を、細かく、丁寧に整えていく。
口の中に残っていた余計な力が、少しずつ溶けるように抜けていく。
気持ちいい。
また、そう思ってしまった。
恥ずかしさは消えない。
むしろ、膝枕の分だけ強くなっている。
けれど、その恥ずかしさごと包み込まれるような安心感があった。
自分で磨く時には、絶対に得られない感覚だった。
自分で磨く歯磨きは、手を動かす作業だ。
けれど、他人に磨いてもらう歯磨きは、相手に任せる時間だった。
口を開ける。
力を抜く。
舌を引っ込める。
相手の手を信じる。
たったそれだけのことなのに、体の奥から緊張がほどけていく。
「勇者さん」
「……はい」
「かなり力が抜けてきましたね」
「言わないでください」
「先ほどより、加護の流れも安定しています」
「歯磨きでリラックスしたら、勇者の加護が安定するんですか」
「はい」
「嫌な仕様ですね」
「ですが、効果的です」
言い返したい。
けれど、口を開けているせいで、うまく言い返せない。
その間にも、女神様の歯ブラシは丁寧に動く。
奥歯の内側をなぞられた時、思わず舌が逃げかけた。
けれど今度は、逃げる前に力が抜けた。
避けなくても大丈夫だと、体が少しずつ覚えてしまっている。
それが一番、恥ずかしかった。
「先ほどより、力が抜けています」
「……言わないでください」
「良いことですよ」
「良いことなのが嫌なんです」
歯ブラシが奥へ進む。
舌が少し動く。
けれど、さっきより抵抗は小さい。
女神様が言う前に、俺は力を抜こうとした。
歯ブラシを避けないように、口の中の余計な力を抜く。
その瞬間、自分が本当に委ねているのだと分かってしまった。
自分で磨く歯磨きは、管理だ。
自分の体を、自分で整える行為だ。
他人に磨いてもらう歯磨きは、管理される時間だった。
相手を信じて、任せて、整えてもらう時間だった。
それは、恥ずかしい。
情けない。
でも、悪くない。
そう思ってしまったことが、一番恥ずかしかった。
「勇者さん」
「……はい」
「嬉しそうですね」
「言わないでください」
「すみません」
「謝るくらいなら言わないでください」
女神様は少しだけ笑った。
それでも、手つきは変わらない。
丁寧に、静かに、磨き残しがないように。
歯磨きしているだけだ。
ただ、歯を磨いてもらっているだけだ。
それなのに、俺は何度も心の中で言い訳をした。
これは勇者の儀式。
これは加護の発動条件。
これは世界を救うため。
これはただの口腔ケア。
ただの歯磨き。
ただの歯磨きのはずだった。
「はい。終わりました」
女神様が歯ブラシを離す。
俺はゆっくり起き上がり、携帯用コップで口をすすいだ。
その直後、先ほどよりも静かな力が全身に満ちた。
通常の歯磨きの時は、光が一気に弾けるような感覚だった。
だが、今回は違う。
深く、安定している。
体の中に満ちる力が暴れない。
心臓の鼓動が落ち着いている。
強くなった。
それも、さっきより扱いやすい強さだ。
通常の歯磨き後に湧き上がった力は、強くて、明るくて、少し扱いづらいものだった。
けれど今の力は、静かに体の奥へ沈んでいく。
呼吸が整っている。
肩に余計な力が入っていない。
頭の中が、妙に澄んでいる。
歯を磨かれただけなのに。
膝枕で仕上げ磨きをされただけなのに。
俺は、戦う前よりもリラックスしていた。
それがまた、認めたくないくらい気持ちよかった。
女神様が説明書に何かを書き込む。
「確認できました。膝枕歯磨きには、精神安定、加護出力上昇、効果時間延長の追加効果があります」
「……認めたくないのに、効果が分かります」
「良いことです」
「良いことなのが嫌なんですよ」
「ですが、これで魔王軍との戦いでは選択肢が増えました」
「選択肢の名前が膝枕歯磨きなの、嫌すぎません?」
「強いですよ」
「強いのがまた嫌なんです」
女神様は真面目だった。
俺も、もう笑うしかなかった。
勇者の加護。
他人による歯磨き。
膝枕追加バフ。
どれも意味が分からない。
けれど、それが本当に世界を救う力になるのなら。
俺は、これから何度も言わなければならないのだろう。
恥ずかしさを飲み込んで。
情けなさを隠しきれないまま。
少しだけ嬉しい自分を必死に誤魔化しながら。
お願いします。
俺の歯を、磨いてください。
そう言える勇気が、きっと俺には必要になる。
基本的にはこの路線で0.5話で歯磨き回を詳細に描写する感じになります。
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