他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です 作:きのこ大三元
魔王軍の補給拠点に、奇妙な列ができていた。
武器でも食糧でもない。
歯と牙の相談を待つ列だった。
「次の方。症状は?」
補佐官が帳簿を開くと、二本の牙を持つ小型魔族が頬を押さえて座った。
「硬い肉を噛むと、右の牙が痛い」
「いつからですか」
「十日くらい前」
「手入れは?」
「水を飲んでいる」
「歯ブラシは?」
「使っていない」
「魔力菓子は?」
「毎日食べている」
補佐官の羽根ペンが止まった。
「原因候補が多すぎます」
補給拠点の一角には、試作歯ブラシ、洗浄用の水、刺激を抑えた歯磨き粉、小型の鏡が並んでいた。
人間側の王国式歯磨き講習会を参考に作られた、魔王軍臨時口腔管理所である。
「次は我が見る」
隣に立つ牙獣将の腰には、魔族用の長柄ブラシが下がっていた。
「牙獣将様も使っているのですか?」
「性能確認だ」
「毎日?」
「性能確認だ!」
補佐官は帳簿へ書き込む。
「長柄ブラシ使用十三日目。痛みは軽減。継続意思あり」
「余計なことを書くな!」
列に並ぶ魔族たちが少し笑った。
以前なら、牙の痛みを訴えることは弱さと見なされていた。だが、四天王本人が長柄ブラシを持ち、相談所に立っている。
痛みを隠さず話す者は、少しずつ増えていた。
牙獣将は小型魔族の口内を確認し、眉を寄せる。
「根元が腫れている。強く噛むな」
「牙獣将様も同じ痛みが?」
「ない」
「ありました」
補佐官が即座に訂正した。
「補佐官!」
「正確な情報が必要です」
小型魔族は安心したように笑う。
「牙獣将様でも痛くなるなら、俺だけじゃないんですね」
牙獣将は言い返しかけ、やがて腕を組み直した。
「強い牙ほど、手入れを怠るな」
「はい!」
返事は先ほどより明るかった。
補佐官は新しい掲示を広げる。
魔王軍式口腔管理心得。
一、歯や牙の痛みを隠さないこと。
一、食後は口内を清潔にすること。
一、牙の根元と裏側を忘れないこと。
一、痛みがある状態で無理に戦わないこと。
一、人間用の道具は、魔族の体質に合うか確認すること。
「最後は必要か?」
牙獣将が聞く。
「人間用歯磨き粉を大量に使い、口から泡を吹いた兵士がいました」
列の後ろで、一人の魔族が顔を伏せた。
「刺激が強い方が効くと思って……」
「量を増やしても効果は上がりません」
研究者が残した資料にも、適量を守るよう書かれていた。ただし原本は十二冊あり、勇者への観察希望と、自分が担当した場合の仮説が大半を占めていた。
補佐官が実用部分だけを十五ページに要約している。
「ほとんど削ったな」
「不要な部分が七割ありましたので」
「削って正解だ」
牙獣将は迷わなかった。
臨時口腔管理所が開設されてから、補給拠点にも変化が出ていた。
食堂には手入れ用の水場が増え、歯ブラシの保管棚には名前札がついた。硬い干し肉は少し柔らかく調理され、粘り気の強い魔力菓子には「食後の手入れ推奨」と書かれている。
魔族用の道具も増えた。
小型魔族用の細いブラシ。大きな牙へ届く長柄ブラシ。獣人型向けの幅広ブラシ。炎を吐く種族向けの耐熱ブラシ。
「耐熱まで必要なんですか?」
補給拠点を訪れた俺が聞くと、補佐官は真顔で頷いた。
「口を開けた時、無意識に火を吐く者がいます」
「使用中に燃えるのね」
魔法使いは試作品を手に取り、耐火術式を確認する。
「量産用なら、少し簡略化できそう」
「魔法使いさん、また協力していますね」
「構造が気になるだけよ」
いつもの言い訳だった。
俺たちがここへ来た目的は、魔王城までの経路と休戦交渉の確認である。
歯ブラシ開発会議ではない。
「こちらが魔王城までの補給経路です」
補佐官が地図を広げる。
「三つの中継地点に、水、食糧、休息場所、口腔ケア用品を用意します」
「最後は必要ですか?」
「勇者様には必要です」
即答だった。
「歯磨き粉が切れれば戦えない」
戦士も頷く。
「予備は三人で分けて持ちましょう。一つ奪われても、残りを使えます」
僧侶まで護送計画を立て始めた。
魔王城攻略の重要物資が、勇者用歯磨き粉である。
「城まで、戦闘を避けられるのですよね」
僧侶が確認する。
「可能な限りは」
補佐官の表情が少し硬くなった。
「私と牙獣将は対話を支持しています。武人も、無意味に兵を失うことは望んでいません。ただし、一般兵と魔王様が受け入れる保証はありません」
「当然だ。こちらも完全に信用されるとは思っていない」
戦士が答える。
補佐官は、口腔管理所へ視線を向けた。そこでは魔族兵たちが新しいブラシを受け取り、使い方を確認している。
「それでも、以前とは状況が違います。人間側の技術で痛みが減り、食事を取れるようになった兵士がいます」
「それ、敵の戦力を回復させてません?」
俺が指摘すると、全員が止まった。
「確かに」
魔法使いが今さら気づいた。
僧侶は困ったように微笑む。
「痛みのある方を放ってはおけませんから」
「だが、治した兵士が再び戦場へ出れば、戦争は続く」
戦士の言葉に、補佐官は帳簿を閉じた。
「その点は、私も考えています」
珍しく、すぐには答えなかった。
「兵士を健康にすることは、管理役として望ましい。ですが、痛みを治した直後に再び戦場へ送り、命を失わせる。それを繰り返すために、私は管理しているのではありません」
周囲の魔族兵たちも、黙って聞いていた。
「戦争より、歯の健康が大事だと?」
戦士が聞く。
「単純な比較はできません。しかし、痛みなく食べ、眠り、暮らすことは、人間にも魔族にも必要です。それを守るための戦争が、日常そのものを壊しているなら、見直すべきでしょう」
一人の若い魔族兵が手を上げた。
「俺、北の村を攻める部隊に入っています」
「命令は、まだ有効です」
「でも、そこには歯ブラシ職人がいるんですよね」
「そう聞いています」
「攻めたら、作れる人がいなくなるかもしれない」
魔族兵は、自分の牙へ触れた。
「人間が好きなわけではありません。でも、この前もらったブラシで痛みが減りました。作った人まで倒すのは、違う気がします」
別の魔族も続く。
「戦争が終われば、普通に買えるかもしれない」
「魔力菓子と交換できないか?」
「人間に売れるのか?」
「食後の注意書きをつければいい」
戦争の話が、いつの間にか交易案へ変わっていた。
「歯ブラシが和平の材料になってる」
魔法使いが呟く。
「世界を救う聖具だったんですかね」
「それは言いすぎ」
即座に否定された。
牙獣将は部下たちの声を聞き、腕を組み直した。
「人間の道具に利用価値があることは認める。我らの牙を守る技術を持つ者を、人間だからという理由だけで滅ぼすのは愚かだ」
「牙獣将様……」
「勘違いするな。降伏する気はない」
牙獣将は強く言った。
「だが、誇りとは不調を隠すことではない。強い牙を守るために話し合いが必要なら、その価値はある」
補佐官は羽根ペンを走らせる。
「魔王軍内での休戦支持意見、増加」
「勝手に正式記録へ入れるな」
「重要な変化です」
牙獣将は不満そうだったが、記録を止めなかった。
「勇者様」
補佐官が俺を見る。
「魔王城で、この拠点の変化を魔王様へ伝えてください」
「補佐官さんから話した方がよくないですか」
「私も話します。しかし、勇者であるあなたが、魔族を倒すだけでなく、痛みのある者を助けた事実には意味があります」
実際に治療したのは僧侶で、魔法使いが道具を改良し、戦士が実戦的な助言をした。補佐官と牙獣将が、それを魔王軍へ広めている。
俺は、歯磨きで強くなる勇者としてきっかけになっただけだ。
それでも、その条件がなければ、人間と魔族が歯や牙について話すこともなかっただろう。
「分かりました。戦いを避けられるなら、話します」
「魔王様が応じなければ?」
牙獣将が問う。
「その時は戦います。でも、勝ったあとに殺すかは別です」
「我の時と同じか」
「はい」
「甘いな」
「そうかもしれません」
「甘いだけではない。戦う時は戦う」
戦士の言葉に、牙獣将は少し笑った。
「だからこそ、魔王様へ会わせる価値がある」
交渉の方向性が決まりかけたところで、補佐官は黒い小瓶を机へ並べた。
「続いて、魔族用歯磨き粉の試作品です」
「急に戻りましたね」
「重要です」
魔族は種族差が大きい。人間用では刺激が強すぎる者もいれば、逆に弱すぎる者もいる。炎を吐く種族は泡を吸い込む危険があり、嗅覚の鋭い獣人型には強い香りが使えない。
「種類を分ける必要があるわね」
魔法使いが試作品の魔力反応を確認する。
「牙用、幼体用、炎を吐く種族用。勇者用とは完全に別管理」
「当然です」
補佐官も頷く。
「勇者様の歯磨き粉は戦略物資ですので」
「そこは変わらないんですね」
戦士は容器を確認した。
「戦場へ持たせるなら、割れない容器にしろ。重くなるなら小分けだ」
「次の試作へ反映します」
僧侶も成分表を見る。
「痛みや腫れがある場合、歯磨きだけで済ませず治療を受けるよう明記してください」
「心得へ追加します」
魔族用長柄ブラシ、幅広ブラシ、耐熱ブラシ、種族別の歯磨き粉。
魔王軍の歯磨き文化は、すでに王国より細分化し始めていた。
「管理項目が増えすぎます」
補佐官は疲れた顔をした。
それでも、少し満足そうだった。
夕方には、相談の列も短くなっていた。痛みが和らいだ者は食堂へ向かい、新しいブラシを受け取った者は仲間と使い方を確認している。
食堂の前には、新しい掲示が貼られていた。
『食後は、牙と歯の確認を』
その下には、牙獣将の言葉が添えられている。
『強き牙ほど、手入れを怠るな』
「本当に言ったんですか?」
「先ほどの発言を分かりやすく編集しました」
「勝手に標語にするな!」
遠くから牙獣将の声が飛んできた。
だが、掲示を剥がしには来なかった。
その前で、魔族兵たちが話している。
「歯を磨いてから戦争か」
「まず飯だろ」
「飯のあとは歯磨きだ」
「そのあと戦争?」
「今日はもう遅い」
「明日はブラシの配給がある」
「明後日は口腔検査だ」
「戦争する時間ないな」
笑い声が起きた。
本気で戦争より歯磨きが大事になったわけではない。魔王軍はまだ敵で、命令があれば戦う者も多い。
それでも、痛みなく食べたい。牙を失いたくない。便利な道具を作る人間を、ただ敵だからと滅ぼしたくない。
そんな考えが、少しずつ生まれていた。
「勇者様」
補佐官は地図と書類をまとめ、俺へ渡した。
「魔王城への通行案、口腔管理所の記録、休戦支持意見です」
魔族兵たちの感想も添えられている。
『歯の痛みが減り、食事が取れるようになった』
『人間の道具にも使えるものがある』
『歯ブラシ職人のいる村は攻撃対象から外してほしい』
『戦争が終われば、魔力菓子と歯磨き粉を交換したい』
「交易案までありますね」
「需要があれば供給経路を考えるのが管理役です」
補佐官は当然のように答えた。
「魔王様には、我からも話す」
牙獣将も長柄ブラシを腰へ戻す。
「人間の文化を認めたと?」
「魔族用へ改良した技術を認めたのだ」
そこは譲らなかった。
「だが、人間と話す価値はある。その程度は認める」
十分だった。
俺は背中の歯磨きセットを持ち直した。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。
最初は、恥ずかしくて、不便で、意味の分からない加護だと思っていた。
その条件をきっかけに、王国では歯磨き講習会が開かれ、村の子供たちが歯を磨き、魔王軍では牙の痛みを隠さない者が増え始めた。
戦争を終わらせる力になるかは分からない。
それでも、人間と魔族が同じ悩みについて話せることは分かった。
歯が痛い。牙を失いたくない。食事をおいしく食べたい。
そこに、人間も魔族も大きな違いはない。
「勇者、行くぞ」
戦士が呼ぶ。
「魔王城へ出る前に、歯磨きセットを再確認する」
「今、良いことを考えていたんですが」
「切らしてからでは遅い」
正論だった。
「歯磨き粉は三人で分散して持ちます」
僧侶も準備を始める。
「魔族用と間違えないようにしないとね」
魔法使いは黒い小瓶と、神界製の容器を見比べた。
「取り違え防止のため、大きく『勇者専用』と書きます」
補佐官が羽根ペンを出す。
「恥ずかしいのでやめてください」
「安全を優先します」
「せめて小さく」
「大きい方が安全です」
俺の意見は通らなかった。
魔王軍の食堂前では、魔族兵たちが食後の手入れを始めている。
戦争より、歯の健康の方が大事なのではないか。
まだ冗談に近い。
だが、その冗談を笑って言える程度には、人間と魔族の距離が近づいていた。
次に向かうのは魔王城。
戦うことになるかもしれない。
それでも、話し合える可能性はある。
勇者一行は聖剣と魔法、交渉案、そして厳重に管理された歯磨きセットを抱え、魔王のもとへ向かうことになった。
できれば最後くらい、歯磨き以外の方法で世界を救いたい。
たぶん、無理な気がしている。
次回予告
戦士
「魔王城までの道は開いた」
僧侶
「戦う準備と、話し合う準備をしましょう」
魔法使い
「勇者用の歯磨き粉は、魔族用と分けて持って」
勇者
「決戦前にも歯磨き粉の心配」
補佐官
「『勇者専用』と大きく記載しました」
勇者
「消してください」
牙獣将
「魔王様の前で、無様な歯磨きを見せるなよ」
勇者
「やる前提なんですね」
次回、第17話
「歯磨きセットを抱えて、魔王城へ」
勇者一行、人間と魔族の交渉案を持って最後の城を目指す。