他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です【完結】 作:きのこ大三元
魔王城へ向かう朝、俺の荷物だけ妙に厳重だった。
聖剣は腰。防具は装着済み。着替えや食糧は普通の旅袋に入っている。
問題は、背中の箱だった。
『勇者専用・加護発動用口腔ケア用品』
大きな文字で書かれている。
「消してください」
「取り違え防止です」
補佐官は羽根ペンをしまった。
「魔族用歯磨き粉と間違える可能性があります」
「ここまで大きく書かなくても分かります」
「戦場では一目で判別できる方が安全です」
正論だった。
だが、恥ずかしい。
箱の中には神界製の歯磨き粉、戦士の実戦用ブラシ、僧侶の治療ブラシ、魔法使いの精密ブラシ、携帯用コップ、白い布、予備の獣毛ブラシが収められている。
歯磨き粉は三つの小容器に分け、戦士、僧侶、魔法使いが一つずつ持った。一人が襲われても、残りの二人が発動させられるようにするためだ。
完全に戦略物資だった。
「全員、準備はいいな」
戦士が大剣を背負い直す。
「問題ありません」
僧侶は回復薬と交渉資料を確認した。
「魔力反応も安定。ブラシの破損もなし」
魔法使いは、俺の口内ではなく道具を確認している。
「決戦前なのに、俺の歯ブラシが一番細かく点検されてません?」
「ないとレベル5でしょ」
「はい」
「なら当然」
逃げ道はなかった。
王都から同行した王国兵は、魔王軍との境界手前で止まることになっていた。大部隊で進めば、休戦を望まない魔族を刺激する。
ここから先は、勇者一行の四人だけ。
ただし、完全な孤立ではない。
第一の四天王、研究者からは、魔王城周辺の魔力装置に関する資料が届いていた。
『城門の結界は三重構造。外側は破壊可能だが、解除した方が観察価値は高い。なお、魔王と勇者の同時魔力測定を強く希望する』
「最後はいらない」
魔法使いが紙を折った。
第二の四天王、武人からは、城までの警備配置と短い伝言。
『正門前の守備隊には、我から無用な交戦を避けるよう伝えた。勇者よ、儀式に時間をかけすぎるな』
「余計なお世話です」
「だが、正しい」
戦士は気にしていなかった。
第三の四天王、補佐官からは、通行経路、休息地点、魔王軍内の休戦支持者、反対派の情報。そして、勇者加護発動担当表の最新版。
「これは持っていきません」
俺は担当表だけ返した。
「緊急時に必要です」
「頭に入っています」
「候補者も?」
「元四天王は数えなくていいです」
補佐官は不満そうだったが、受け取った。
第四の四天王、牙獣将は、自ら城の手前まで案内することになっている。彼女の腰には、改良された魔族用長柄ブラシが下がっていた。
「見るな」
「見てません」
「今、見ただろう」
「武器より目立つので」
「これは牙を万全に保つための装備だ!」
もう歯磨きを否定してはいなかった。
魔王城へ続く道は、黒い岩山の間を縫うように伸びていた。空は厚い雲に覆われ、遠くには魔力の雷が走っている。
いかにも最後の城へ向かう道である。
その途中に、歯ブラシとコップを持った俺たちがいることを除けば。
「ここから先は、三つの関門がある」
牙獣将が地図を示す。
「第一は獣兵の谷。第二は瘴気の回廊。第三は城門前の魔導守護像だ。話は通してあるが、全員が従うとは限らん」
「必要なら戦います」
俺が答えると、牙獣将は視線を向けた。
「今はレベル5だろう」
「はい」
「自信満々に言うな」
自信はない。
事実を伝えただけである。
第一の関門、獣兵の谷には、牙や角を持つ魔族兵が並んでいた。
牙獣将の命令を受けているため、すぐには襲ってこない。だが、人間の勇者を通すことに納得していない者も多いらしく、険しい視線が集まっていた。
「本当に、この人間を魔王様の前へ通すのですか」
一人の獣兵が牙獣将へ問う。
「我が決めたのではない。補佐官と武人も同意している」
「しかし、勇者は魔王様を討つために来た者です」
「話し合うためにも来ました」
俺が言うと、獣兵は鼻を鳴らした。
「歯を磨かれなければ戦えない人間の言葉など、信用できるか」
知っていた。
ここでも条件が広まっている。
「なら、見せてもらおう」
獣兵が武器を構え、周囲の数人も続いた。
「魔王様を守るに足る相手か、確かめる」
牙獣将が止めようとしたが、戦士が前へ出る。
「短く済ませる。勇者、来い」
「ここでですか?」
「最終決戦前だ。最速で仕上げる」
戦士は実戦用ブラシを取り出した。
以前なら、道具を準備し、姿勢を整え、俺が恥ずかしさで固まる時間があった。
今は違う。
「口を開けろ」
「はい」
戦士の動きに迷いはなかった。
前歯から奥歯まで、発動に必要な範囲を正確に通す。かつて武人に粗いと言われた奥歯への入りも改善され、速さを落とさず毛先を届かせていた。
「すすげ」
「もう終わりですか?」
「終わりだ」
口をすすぐと、胸の奥で光が弾けた。
レベル99。
獣兵たちがざわめく。
「速い……」
「歯磨きが?」
「そこに驚かないでください」
俺は剣を抜いた。
獣兵たちとの勝負は、数分で終わった。
武器を弾き、足を止め、誰も殺さずに地面へ伏せる。レベル99なら力の差は大きいが、戦士の声を聞き、必要以上に傷つけないよう制御した。
「これで通してもらえますか」
獣兵たちは悔しそうだったが、武器を下ろした。
「認めたわけではない」
「四天王も、みんなそう言いますね」
魔王軍の文化なのかもしれない。
谷を抜けると、レベル99の効果が切れる前に次の区間へ進んだ。しかし、第二の関門である瘴気の回廊へ入る頃には、体から力が抜けていた。
再びレベル5。
回廊には黒い霧が漂い、気分を沈ませる魔力が満ちている。戦える相手はいないが、歩いているだけで胸が重くなった。
「勇者様、顔色がよくありません」
僧侶が俺の横へ来る。
「魔力の影響ですね。少し休みましょう」
「でも、先へ進まないと」
「焦っても良い結果にはなりません」
僧侶は静かな声で言い、治療ブラシを取り出した。
「次の戦闘に備えて、整えましょう」
「瘴気の中で歯磨きですか」
「安心してください。結界を張ります」
問題は場所ではなく、歯磨きそのものなのだが、もう言っても仕方がない。
僧侶の結界が瘴気を押し退け、小さな安全地帯を作った。
「肩の力を抜いてください」
「最終決戦が近いと思うと、難しいです」
「怖いですか?」
少し迷った。
「はい」
魔王は、これまでの四天王より強いはずだ。話し合いに応じる保証もない。失敗すれば、俺だけでなく仲間まで死ぬ。
「私たちも一緒です」
僧侶は穏やかに微笑んだ。
「勇者様一人に、世界を背負わせるつもりはありません」
柔らかな毛先が、緊張をほぐすように動く。手順は短い。それでも、以前より自然で、こちらの呼吸や顎の力までよく分かっている。
僧侶の安定ケアは、体だけでなく心を整えるものになっていた。
「終わりました。すすいでください」
再びレベル99へ上がる。
同時に、胸の重さも少し軽くなった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
僧侶はいつものように微笑んだ。
瘴気の回廊では、力任せに進まず、魔法使いが魔力の薄い道を探し、僧侶が結界を維持した。戦士は前方を警戒し、俺は後方から迫る影を追い払う。
誰か一人が突出するのではない。
これまでの旅で身につけた役割を、それぞれが果たしていた。
回廊を抜けると、黒い城壁が見えた。
魔王城。
空へ突き刺さるような尖塔と、巨大な正門。その前には、人型の魔導守護像が二体立っている。
「最後の関門だ」
牙獣将が足を止めた。
「守護像は、魔王様の命令がなければ止まらん。補佐官が解除手順を用意しているが、失敗すれば動く」
補佐官の書類どおりに魔法使いが術式へ触れる。
光が一つ、二つと消えた。
最後の一つで、魔導守護像の目が赤く光る。
「研究者の資料、ここだけ式が古い!」
「捕まる前の情報だからな!」
牙獣将が叫ぶ。
二体の守護像が動き出した。
僧侶による加護は、回廊を抜ける頃には切れている。
またレベル5だった。
「勇者、下がれ!」
戦士が守護像の剣を受ける。
僧侶は結界を張り、牙獣将がもう一体へ斧を叩き込んだ。
「魔法使い、任せた!」
戦士の声に、魔法使いが俺を見る。
「分かってる!」
彼女は精密ブラシを取り出した。
「こっちへ来なさい。最終確認も兼ねるわ」
「今ですか?」
「今しかないでしょ!」
守護像の攻撃が結界を揺らす。
魔法使いは顔を赤くしながらも、俺の顎へ手を添えた。
「口を開けて」
「お願いします」
「改まって言わないで。恥ずかしくなるから」
「魔王城の前なので、俺もかなり恥ずかしいです」
「知ってるわよ」
魔法使いの動きは、初めて担当した頃より格段に速くなっていた。魔力で毛先の位置を確認し、短時間でも奥歯や歯の裏側を外さない。
「右の奥歯、少し力が入ってる」
「守護像が来ています」
「戦士が止めてる。今は動かない」
「信頼が重い」
「私たちを信じなさい」
照れ隠しのように強い言い方だった。
だが、手つきは乱れない。
磨き残しを許さない精密さと、実戦で使える速さ。その両方を身につけていた。
「終わり。すすいで」
口をすすぐ。
三度目の光が胸の奥で弾けた。
レベル99。
「行ってきなさい」
魔法使いは、少しだけ視線を逸らした。
「絶対に戻ってくること」
「はい」
守護像へ向かって走る。
一体目の剣をかわし、胸部の魔力核へ剣を入れる。牙獣将が体勢を崩した二体目は、魔法使いが示した術式の継ぎ目を断ち切った。
二体の守護像が停止する。
魔王城の正門が、低い音を立てて開き始めた。
戦士、僧侶、魔法使いが俺の隣へ並ぶ。
三人とも、出会った頃とは違っていた。
戦士は、ただ速いだけではなく、敵の攻撃下でも正確に発動させられるようになった。
僧侶は、歯を磨くだけでなく、俺の不安や疲労まで落ち着かせてくれる。
魔法使いは、照れながらも逃げず、短時間でも磨き残しを許さない。
俺も変わった。
最初は、誰かに歯を磨いてもらうことが恥ずかしくて仕方なかった。今も恥ずかしい。
それでも、必要なら頼める。
この三人になら、安心して任せられる。
「どうした?」
戦士が聞く。
「少し、旅のことを思い出していました」
「今は前を見ろ」
「はい」
僧侶が微笑む。
「帰り道で、ゆっくり振り返りましょう」
「勝ってからね」
魔法使いも前を向いた。
正門の向こうには、暗い城内と長い階段が続いている。
牙獣将は門の前で足を止めた。
「我が同行できるのはここまでだ。魔王様の前へ武器を持って進めば、たとえ我でも反逆と見なされる」
「案内、ありがとうございました」
「礼は不要だ。我は魔王様と魔族の未来のために動いただけだ」
牙獣将は俺の背中の箱を見る。
「その道具を、最後まで守れ」
「歯磨きセットですけど」
「貴様にとっては武器だろう」
戦士と同じことを言われた。
「それと、魔王様の前で無様な姿を見せるな」
「歯磨きはすると思います」
「それは仕方ない」
仕方ない扱いになっていた。
牙獣将は少し考え、声を落とす。
「魔王様は強い。だが、話を聞かぬ方ではない」
「補佐官さんも、そう言っていました」
「ただし、弱い者の言葉は届かん」
牙獣将は真っすぐに俺を見る。
「戦えることを示し、その上で話せ」
「分かりました」
門の上から、黒い鳥が舞い降りた。足には補佐官からの小さな伝言が結ばれている。
『城内の非戦闘員は退避済み。休戦支持者は持ち場を離れています。ただし、魔王様の決定には従ってください』
さらに下には、小さな文字があった。
『勇者用歯磨き粉の残量を再確認してください』
「最後までそれですか」
戦士は箱を開ける。
「十分ある」
僧侶も確認する。
「予備も三つあります」
魔法使いは容器の表示を見た。
「魔族用との取り違えもなし」
「決戦前の最終確認が歯磨き粉」
俺は頭を抱えた。
だが、そのやり取りで少し緊張が抜けた。
魔王城へ入れば、何が起きるか分からない。
戦闘になる可能性は高い。魔王が話し合いを拒めば、世界を守るために剣を振るう必要がある。
それでも、以前とは違う。
魔王軍の中には、戦争を見直そうとする者がいる。四天王たちも、それぞれの理由で俺たちをここまで通した。
研究者は情報を残した。
武人は警備を抑えた。
補佐官は経路と交渉資料を整えた。
牙獣将は自ら案内した。
そして俺の隣には、旅を共にした三人がいる。
「行きましょう」
俺は言った。
「魔王を倒しに?」
魔法使いが聞く。
「まず、話をしに」
「話が通じなければ?」
戦士が続ける。
「戦います」
僧侶が静かに頷く。
「それでいいと思います」
俺たちは、開いた門をくぐった。
魔王城の中は静かだった。
石造りの長い廊下。壁に灯る青い炎。奥から流れてくる、これまで感じたことのない強大な魔力。
怖くないわけではない。
逃げたい気持ちも少しある。
だが、もう一人ではなかった。
戦士の最速仕上げ。
僧侶の安心できる安定ケア。
魔法使いの磨き残しを許さない精密仕上げ。
三人の歯磨きは、旅の始まりには存在しなかった。それぞれが俺の加護を理解し、失敗し、工夫し、戦場で使える形へ育ててきたものだ。
俺自身も、頼ることを覚えた。
歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。
その間を埋めるのは、歯ブラシだけではない。
仲間への信頼だった。
廊下の先に、大きな扉が見える。
魔王の間。
扉の向こうから、低い声が響いた。
「来たか、歯磨き勇者」
俺は足を止めた。
「魔王様にも、その名前で広まってる」
魔法使いが小さく吹き出す。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「肩が揺れてます」
戦士は大剣へ手をかけ、僧侶は杖を握る。
俺も聖剣の柄へ触れた。
そして、背中の歯磨きセットがあることを確認する。
最後の戦いになるかもしれない。
最後の話し合いになるかもしれない。
どちらにしても、準備はできている。
「行きます」
三人が頷いた。
魔王の間へ続く扉が、ゆっくりと開いた。
次回予告
魔王
「余の前へ来るため、三度も歯を磨かれたか」
勇者
「数えないでください」
戦士
「戦うのか、話すのか。決めろ」
僧侶
「人間も魔族も、痛みなく暮らせる道があるはずです」
魔法使い
「魔王の魔力反応……強い。でも、口元に妙な乱れがある」
魔王
「見るな」
勇者
「まさか、魔王様も歯が?」
魔王
「見るなと言っている!」
次回、第18話
「魔王様も、歯の悩みを抱えていた」
最後の敵にも、口腔ケア問題が発覚する。