他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です【完結】   作:きのこ大三元

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第17.5話「最終決戦前、勇者の歯磨き当番が揉める」

 魔王の間へ続く大扉を前に、俺たちは一度足を止めた。扉の向こうから流れてくる魔力は、これまで戦ってきた誰よりも重い。空気まで圧迫されているようで、息を吸うたび胸の奥が少し苦しくなる。

 

 魔王がいる。

 

 最後の敵になるかもしれない相手が、すぐ向こうに。

 

「勇者」

 

 戦士が大剣を下ろした。

 

「入る前に加護を発動させる」

「やっぱり必要ですよね」

「当然だ。レベル5で魔王の前に出すわけにはいかない」

 

 異論はない。話し合うにしても、こちらがあまりに弱ければ対等に見てもらえないし、戦闘になれば一撃で終わる可能性すらある。

 

 歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。

 

 最終決戦前でも、そこだけはいつも通りだった。

 

 俺は背中の箱を下ろした。

 

『勇者専用・加護発動用口腔ケア用品』

 

 補佐官が大きく書いた文字は、薄暗い魔王城の廊下でもよく目立つ。

 

「やっぱり消したかった」

「見やすくていい」

 

 戦士は気にせず箱を開けた。中には神界製の歯磨き粉、携帯用コップ、白い布。それから、戦士の実戦用ブラシ、僧侶の治療ブラシ、魔法使いの精密ブラシが並んでいる。

 

 三人が同時に、自分のブラシへ手を伸ばした。

 

 そして止まった。

 

「私がやる」

「待ってください」

 

 戦士の言葉を、僧侶がすぐに止める。

 

「何だ」

「最終決戦前ですよ。速さだけではなく、勇者様の精神状態も考えるべきです」

「時間をかけすぎれば、向こうに準備を与える」

「魔王様は、もう私たちが来ていることをご存じでしょう。数分の差で状況が変わるとは思えません」

 

 僧侶がこちらを見る。

 

「勇者様、緊張していますよね」

「かなり」

 

 素直に答えると、僧侶は小さく頷いた。

 

「でしたら安定ケアが適切です。呼吸を整え、顎や肩の力を抜いてから向かった方が、加護も安定します」

「だが、お前の仕上げは時間がかかる」

「以前より短くできるようになりました」

 

 二人の視線がぶつかる。

 

「ちょっと待ちなさい」

 

 今度は魔法使いが割って入った。

 

「二人とも、肝心なことを忘れてない?」

「何だ」

「磨き残しよ」

 

 精密ブラシを持ち上げる。

 

「魔王がどんな相手か分からないのよ。出力が少しでも不安定になる可能性は潰しておくべき。最終決戦前なら、精密仕上げが一番でしょ」

「時間がかかる」

「前より速くなったわよ!」

「僧侶より勇者を緊張させる」

「それは……」

 

 魔法使いが詰まった。

 

 僧侶が困ったように笑う。

 

「魔法使い様は、細かい指摘が多いですから」

「必要だから言ってるの! 舌の位置とか、顎の角度とか、奥歯の裏側とか!」

「今、その説明だけで少し緊張してきました」

「勇者は黙ってて」

「はい」

 

 三人とも言っていることは正しい。

 

 戦士は速さ。僧侶は安心感。魔法使いは精密さ。

 

 正しいせいで、余計に決まらない。

 

「最終決戦前なのに、歯磨き当番で揉めてる……」

「重要な問題だ」

「勇者様の命に関わります」

「磨き残しで出力が落ちたら、後悔しても遅いのよ」

 

 三人とも真剣だった。

 

 別に俺の歯を磨きたくて争っているわけではない。俺を万全で魔王の前へ送り出したいだけなのは分かっている。

 

 分かるけど、三方向から真顔で歯ブラシを向けられる勇者の気持ちも少し考えてほしい。

 

「勇者」

 

 戦士がこちらを見る。

 

「誰がいい」

 

 一番困る質問が来た。

 

「俺が決めるんですか」

「本人の同意が必要ですから」

 

 僧侶の言うことは正しい。

 

 ただ、ここで一人を選んだ場合の空気が怖い。

 

 戦士は気にしないかもしれない。僧侶も笑顔で受け入れるだろう。

 

 魔法使いはたぶん、「別に」と言いながら少し機嫌が悪くなる。

 

「何でこっちを見るのよ」

「見てません」

「見た」

「気のせいです」

 

 やっぱり危険だった。

 

「じゃあ、三人でやればいいんじゃないですか」

 

 思い切って言うと、全員が黙った。

 

「三人で?」

「はい。戦士さんが最初に全体を短く通して、僧侶さんが落ち着かせながら調整。最後に魔法使いさんが磨き残しを確認する、とか」

 

 自分で言っておいて、何を提案しているんだろうと思う。

 

 最終決戦前の共同歯磨き。

 

 普通の勇者なら、剣を重ねたり、拳を合わせたりする場面だろう。

 

 俺たちは歯ブラシを交代する。

 

「悪くない」

 

 最初に頷いたのは戦士だった。

 

「時間を区切れば、全体でも長くならない」

「勇者様の負担が大きくならなければ、可能ですね」

「最初に全体を通してあるなら、私は確認だけで済む……」

 

 三人とも普通に検討を始めた。

 

 採用されそうだった。

 

「では役割を決めましょう」

 

 僧侶がしゃがみ込み、箱の中を整理する。

 

「戦士様が最初に急速仕上げ。次に私が勇者様の呼吸と力加減を整え、最後に魔法使い様が魔力反応と磨き残しを確認する形で」

「分かった」

「いいわ」

 

「時間は?」

 

 戦士が聞く。

 

「全体で三分以内」

「長い」

「最終決戦前ですから」

「二分」

「二分半で」

「分かった」

 

 交渉成立。

 

 俺の口内を巡って。

 

 僧侶が壁際へ小さな結界を張り、外から流れ込む魔力と音を少し弱めた。その中で戦士が周囲を確認し、俺を石段へ座らせる。

 

「座る必要あります?」

「三人で交代するなら、動かない方がいい」

 

「膝枕ではないんですね」

 

 言ってから、余計なことを口にしたと気づいた。

 

 三人が止まる。

 

「必要ない」

「最終決戦前ですし、安定性を考えれば効果はありますが……」

「な、何を期待してるのよ!」

 

 魔法使いの顔が赤くなった。

 

「期待してません。確認しただけです」

「普通は確認しない!」

 

 黙って座り直す。

 

 やっぱり余計なことは言わない方がいい。

 

「始めるぞ」

 

 戦士が実戦用ブラシに神界製の歯磨き粉を乗せた。

 

「お願いします」

「口を開けろ」

 

 言われた通りに口を開くと、すぐ前歯へブラシが当たった。

 

 動きは速い。

 

 けれど、旅の序盤のような力任せの速さではない。毛先を小さく動かしながら角度を変え、前歯から犬歯、奥歯へと迷いなく進んでいく。

 

「顎を上げすぎるな」

「……はい」

「次、右。動くな」

 

 短い指示に従うだけで、必要な場所へブラシが入ってくる。

 

 最初の頃は、本当に戦闘準備そのものだった。速い、強い、必要最低限。多少気になるところがあっても、「我慢しろ」で済ませる感じだったと思う。

 

 今は違う。

 

 速さはそのままに、歯茎へ強く当たらない。武人に指摘された奥歯への入りも改善されている。

 

「前より、かなり上手くなりましたよね」

「喋るな」

「すみません」

「当然だ。何度担当したと思っている」

 

 戦士は少しだけ視線を逸らし、すぐブラシを戻した。

 

「お前を早く戦わせるのが、私の役目だ」

 

 急速仕上げは一分もかからず終わった。

 

「次」

 

 すぐ僧侶が前へ座る。

 

「勇者様、一度ゆっくり呼吸してください」

「口の中、泡だらけですけど」

「鼻からで大丈夫です」

 

 言われた通りに息を吸う。

 

 魔王の魔力は結界越しでも感じる。あと少しで最後の話し合いか、最後の戦いが始まる。

 

 やっぱり緊張していたらしい。

 

「肩が上がっていますね」

 

 僧侶の手が軽く肩へ触れた。

 

「大丈夫です。私たちはここにいます」

 

 治療ブラシの柔らかな毛先が、歯茎の近くへ当たる。

 

 戦士とはまったく違う。

 

 急がず、遅すぎず。こちらの呼吸を見ながら残った泡を広げ、少しでも力が入れば角度を変える。

 

「怖いですか?」

「……はい」

「話し合いが失敗することが?」

「それもあります。三人が傷つくのも、怖いです」

 

 僧侶の手は止まらない。

 

「私たちも怖いですよ」

 

 声はいつも通り穏やかだった。

 

「ですが、怖いからこそ一緒に行くのです。勇者様だけを魔王様の前へ立たせるつもりはありません」

「ありがとうございます」

「今は口を動かさないでください」

「はい」

 

 優しいけど、歯磨き中の注意は容赦がない。

 

 奥歯の外側から歯茎の境目へ、柔らかい毛先が通る。少し表情が変わっただけでも手を緩め、無理のない角度へ調整してくれる。

 

「右側、少し疲れていますね」

「分かるんですか」

「噛み締める癖が出ています」

 

 最終決戦への緊張で、無意識に力が入っていたらしい。

 

「無理に力を入れなくて大丈夫です。必要な時は、私たちを頼ってください」

 

 誰かに頼る。

 

 旅の始まりには、それだけでも苦手だった。

 

 歯を磨いてほしいと頼むだけで毎回かなり恥ずかしかったし、できれば自分一人で何とかしたかった。

 

 今でも恥ずかしさは残っている。

 

 それでも、この三人になら任せられる。

 

「僧侶さん」

「何でしょう」

「いつもありがとうございます」

 

 僧侶は少し驚いたあと、柔らかく笑った。

 

「どういたしまして」

 

「だから動かないで」

 

 後ろから魔法使いの声が飛んできた。

 

「次に確認する場所がずれるでしょ」

「まだ交代前です」

「見て分かるの」

 

 もう観察されていた。

 

 僧侶の担当が終わる。

 

「はい。先ほどより、かなり力が抜けましたね」

 

 確かに胸の圧迫感も少し軽くなっていた。

 

 最後は魔法使いだ。

 

「私の番」

「お願いします」

「だから、改まって言わないで」

 

 少し顔が赤い。

 

 精密ブラシへ持ち替え、杖の先を俺の横に浮かべる。淡い青い光が口元を照らした。

 

「戦士の全体仕上げは問題なし。僧侶の調整で顎の力も抜けてる。でも、左の奥歯の裏側に少し残ってる」

「分かるんですね」

「私を誰だと思ってるの」

 

 細い毛先が口へ入る。

 

 戦士が大まかに整え、僧侶が負担を減らした後だからこそ、魔法使いは残った部分だけに集中できる。

 

「舌、少し下げて」

「……」

「そう。そのまま」

 

 青い光が揺れ、ブラシの角度がわずかに変わった。

 

「左奥、裏側。ここ」

 

 自分では見えないところへ正確に毛先が届く。

 

「最終決戦前に磨き残しなんて、絶対に許さないから」

 

 強い口調のあと、少し間があった。

 

「べ、別に私が担当したかったわけじゃないけど。他の二人だけで終わらせて、出力が不安定だったら困るでしょ。戦力として……仲間として」

 

 最後だけ少し小さい。

 

 俺は口を開けたまま魔法使いを見る。

 

「何」

「いえ」

「言いたいことがあるなら、終わってからにして」

 

 ブラシの動きが少しだけ速くなった。

 

 照れている。

 

 でも、手元は乱れない。

 

 奥歯の裏、噛み合わせ、前歯の裏。必要な場所だけを拾い、余計に長引かせず確認していく。

 

 初めて担当した頃は、正確さを優先するあまり指示も説明も多かった。少し動けば怒られ、魔力反応が乱れれば最初から確認し直す。

 

 今も細かいけど、俺の癖を覚えた分だけ無駄がない。

 

「右奥、問題なし。前歯も大丈夫。魔力反応も安定」

 

 最後に全体を確認し、ブラシを離した。

 

「終わり」

「ありがとうございます」

「……どういたしまして」

 

 小さな返事だった。

 

 僧侶がコップを渡し、戦士が白い布を準備する。その流れも、もう誰かが指示する必要はない。

 

 口をすすぐ。

 

 次の瞬間、胸の奥で光が弾けた。

 

 手足が軽くなり、視界が澄む。魔王の間から流れてくる巨大な魔力も、ただ圧倒されるだけではなく、その流れまで感じ取れるようになった。

 

 レベル99。

 

 しかも、いつもより安定している。

 

「発動確認」

 

 魔法使いが杖で魔力を測る。

 

「出力、安定性ともに問題なし。立ち上がりも早い」

「所要時間は?」

「二分二十一秒」

「長い」

「十分速いですよ」

 

 僧侶が笑った。

 

「三人で担当したのですから」

「次は二分を切る」

「次もやるんですか」

「必要ならな」

 

 戦士は当然のように答えた。

 

「勇者様の精神状態によっては、今回と同じ形もよいですね」

「磨き残し確認は絶対に必要よ」

 

 三人共同仕上げ。

 

 最終決戦前だけの特別な形だと思っていたけど、普通に今後も候補へ入りそうだった。

 

「揉めた結果、担当者が減るどころか一度に三人になった」

「何か問題があるか?」

「効果は安定しています」

「文句があるなら次は私だけでやるけど」

「なぜそうなるんですか」

「他の二人より正確だから」

「速さなら私だ」

「安心感も必要ですよ」

 

 また始まりそうだった。

 

「三人でいいです」

 

 即座に止める。

 

「今回の形で問題ありません」

 

 三人が黙った。

 

 少し照れくさいけど、ここはちゃんと伝えておいた方がいい。

 

「戦士さんは速くて、敵が近くても安心して任せられます。僧侶さんは、怖い時や疲れている時に落ち着かせてくれる。魔法使いさんは、最後まで確認してくれるから安心できます」

 

 一人ずつ見て言う。

 

「三人とも必要です」

 

 戦士は短く頷いた。

 

「分かった」

 

 僧侶は柔らかく微笑む。

 

「ありがとうございます」

 

 魔法使いは顔を赤くし、視線を逸らした。

 

「最初からそう言えばいいのよ」

「揉め始めたのは皆さんです」

「細かいことはいいの」

 

 三人が使った道具を片付けていく。

 

 戦士は実戦用ブラシを拭き、僧侶はコップや布をまとめ、魔法使いは精密ブラシをケースへ戻す。

 

 その光景は、もう特別なものには見えなかった。

 

 戦闘前に武器を確認する。防具を整える。魔力を確かめる。

 

 その中へ、俺の歯磨きまで完全に組み込まれている。

 

 旅の始まりには、全員が困惑していた。

 

 戦士は「なぜ私が」と嫌そうな顔をし、僧侶も戸惑いながら受け入れ、魔法使いは何度も理屈が分からないと首をひねっていた。

 

 今では、誰がどんな状況に向いているかを本気で話し合い、道具を管理し、技術まで上げている。

 

 俺の恥ずかしい加護は、いつの間にかパーティの日常になっていた。

 

「勇者様」

 

 布を畳んでいた僧侶が、こちらを見る。

 

「少し笑っていますね」

「そうですか?」

「はい」

 

 自分では気づかなかった。

 

 最終決戦前なのに、少しだけ安心している。

 

 この三人がいる。

 

 なら、魔王がどれだけ強くても、まだできることはある。

 

「準備は終わった。行くぞ」

 

 戦士が大剣を背負い直す。

 

「話し合えるとよいですね」

「話が通じなければ戦うだけよ。でも、絶対に勝って戻ること」

 

 魔法使いも杖を構えた。

 

「はい」

 

 俺も聖剣へ手をかける。

 

 口の中には、三人それぞれの仕上げの感覚がまだ少し残っていた。

 

 戦士の速さ。僧侶の安心感。魔法使いの正確さ。

 

 それぞれ違うからこそ、三つが重なると心強い。

 

 歯磨き前はレベル5。歯磨き後はレベル99。

 

 そして今回、その間にいたのは一人ではなかった。

 

 三人の仲間だった。

 

「開けます」

 

 魔王の間へ続く扉へ手をかける。

 

「待て」

 

 戦士に止められた。

 

「何ですか?」

「歯磨き粉、少し残っている」

 

 僧侶が白い布で口元を拭う。

 

「これで大丈夫です」

「磨き残しもなし」

 

 魔法使いも魔力で確認した。

 

 三人が頷く。

 

「今度こそ行け」

「最終決戦前の最後の確認が、口元」

 

 小さく息を吐く。

 

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 魔王の間へ続く大扉を押す。

 

 重い音とともに扉が開き、奥の玉座から強大な魔力が流れ込んでくる。

 

「来たか」

 

 低い声が響いた。

 

「歯磨き勇者よ」

 

「最後まで、その名前なんですね」

 

 背後で魔法使いが小さく笑う。

 

 戦士が大剣へ手をかけ、僧侶が杖を構える。俺も聖剣を抜いた。

 

 三人共同仕上げによるレベル99。

 

 最終決戦の準備は整った。




次回予告

魔王
「余の前へ来るため、三人がかりで歯を磨かれたか」

勇者
「見ていたんですか」

魔王
「城内のことは把握している」

魔法使い
「最悪」

戦士
「戦うのか、話すのか。決めろ」

僧侶
「その前に、魔王様。口元を気にしていませんか?」

魔王
「気にしていない」

勇者
「まさか、魔王様も歯が?」

魔王
「気にしていないと言っている!」

次回、第18話
「魔王様も、歯の悩みを抱えていた」

最後の敵にも、口腔ケア問題が発覚する。
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