他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です【完結】 作:きのこ大三元
魔王の間へ続く大扉が、重い音を立てて開いた。
広い。
王城の謁見の間よりさらに大きく、天井は見上げるほど高い。黒い石柱の間には青白い炎が灯り、その奥、長い階段の先に玉座があった。
そこへ、一人の少女が座っている。
いや、少女と呼ぶには威圧感がありすぎた。
長い黒髪に、額から伸びる二本の角。背中には大きな翼が畳まれ、玉座の脇には鱗に覆われた太い尻尾が垂れている。赤い瞳は真っすぐこちらを射抜き、口元から覗く牙は、牙獣将のものより細い代わりに鋭かった。
見た目だけなら若い女性。
でも、魔力だけで分かる。
強い。
四天王とは、明らかに格が違う。
視界の隅に文字が浮かぶ。
魔王。
レベル――。
表示が揺れた。
「見えないんですけど」
「当然だ」
玉座から低い声が返ってきた。
魔王は頬杖をつきながら、こちらを見下ろしている。
「余の力を、貴様の浅い鑑定で測れると思うな」
「鑑定してたの、バレてました?」
「城へ入った時から見ている」
嫌なことを聞いた。
後ろで魔法使いが小さく息を呑む。
「ということは……」
「何だ」
「さっきの歯磨きも?」
「見ていた」
沈黙。
俺は少し天井を見た。
「最悪」
「魔法使いさん、俺より先に言わないでください」
魔王の眉がわずかに動いた。
「余の前へ来るため、三人がかりで歯を磨かれていたな」
「数えなくていいです」
「戦士、僧侶、魔法使い。役割分担までしていた」
「そこまで見てたんですか」
「城内のことは把握している」
魔王は堂々と言い切った。
威厳はある。
言っている内容は、勇者の歯磨き観察である。
ギャップがひどい。
「魔王様」
戦士が一歩前へ出た。
「私たちは戦うためだけに来たわけではない」
「知っている。補佐官から報告は受けている」
魔王の視線が戦士、僧侶、魔法使い、最後に俺へ移る。
「四天王たちが随分と世話になったようだな」
「世話というか……」
「研究者は捕まり、武人は敗れ、補佐官は人間と交渉し、牙獣将に至っては人間由来のブラシを持ち帰った」
声は低いままだった。
怒っているようにも聞こえる。
「魔王様は、そのことをどう思っているんですか」
俺が聞く。
魔王はしばらく黙っていた。
「愚かだと思っている」
「ですよね」
「だが」
言葉が続く。
「牙獣将の痛みが軽減したことも、兵たちの体調が改善していることも事実だ。補佐官から、魔族用の口腔管理案まで提出された」
そこまで届いていたらしい。
「余は人間の文化を称賛する気はない」
魔王は玉座から立ち上がった。
翼がわずかに広がる。
「だが、利用価値のある技術まで捨てるほど愚かではない」
牙獣将と似たことを言っていた。
魔王軍、そこは一貫している。
「それなら、話し合えるんじゃないですか」
俺が言うと、魔王の目が細くなった。
「人間と魔族の戦争を?」
「はい」
「簡単に言う」
階段を一段、ゆっくり下りる。
「人間は魔族を恐れ、魔族は人間を憎む。奪われた土地も、殺された者もいる。歯ブラシ一本で全て解決するとでも?」
「そこまで便利だとは思ってません」
さすがに。
「でも、少なくとも話すきっかけにはなりました」
魔王は足を止めた。
「牙が痛い。歯が痛い。飯を食うと疼く。そういう悩みなら、人間も魔族も似てるみたいですし」
「勇者様」
僧侶が少し笑った。
「もう少し言い方があるかと」
「でも事実ですよね」
「そうですが」
魔王の口元がわずかに動いた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
右側の牙を避けるような動きだった。
魔法使いの目が細くなる。
嫌な予感がした。
「魔王様」
「何だ」
「今、口元――」
「何でもない」
早い。
「まだ何も言ってないんですけど」
「何でもないと言っている」
明らかに何かある。
僧侶も気づいたらしく、魔王の口元を見ている。
魔王の尾が床を叩いた。
「見るな」
「見てません」
「見ている」
「医療的な確認です」
「なおさら見るな」
威厳あるドラゴン娘が、急に牙獣将と似たことを言い始めた。
嫌な既視感がある。
「魔王様」
魔法使いが杖を軽く持ち上げる。
「右側の魔力、少し乱れてない?」
「乱れていない」
「乱れてる」
「乱れていない」
「牙獣将と同じ反応」
「一緒にするな!」
魔王の声が響き、青い炎が一斉に揺れた。
すごい迫力だった。
直後。
魔王の顔がほんの少し引きつる。
「今、痛みました?」
「痛くない!」
完全に牙獣将と同じだった。
俺たちは黙った。
「何だ、その目は」
「いえ」
「言え」
「第四の四天王でも同じ会話をしたなって」
「忘れろ」
無理だと思う。
魔王は大きく息を吐いたあと、右手を上げた。
「話はここまでだ」
空気が変わる。
魔王の背中の翼が大きく開いた。
青黒い魔力が一気に広がり、床へ複雑な紋様が走る。
「余は魔王だ。人間の勇者がここまで来た以上、何もせず帰すわけにはいかん」
「戦うんですか」
「貴様が余と対等に話す資格を持つか、確かめる」
戦士が大剣を構え、僧侶は杖を握る。魔法使いも前へ出た。
俺は聖剣へ手をかける。
三人共同仕上げの効果は、まだ残っている。
レベル99。
やるしかない。
「一つだけ確認させてください」
「何だ」
「牙、大丈夫ですか」
「戦う前に聞くことか!」
魔王の魔力が爆発した。
床が揺れる。
次の瞬間には姿が消えていた。
「上!」
魔法使いの声。
反射的に剣を掲げる。
魔王が頭上から降ってきた。
爪と剣がぶつかり、腕に重い衝撃が走る。
「重っ!」
四天王とは違う。
速さも、力も、魔力量も一段上だった。
魔王はそのまま翼を打ち、空中で姿勢を変える。尻尾が横から迫り、俺は床を蹴ってかわした。
「止まるな!」
戦士の声が飛ぶ。
魔王の攻撃は休まない。
爪、尻尾、翼、魔力弾。
一つ一つが重い上に、間がない。
しかも本人が飛べる。
「ずるくないですか、それ!」
「魔王に何を求めている!」
正論だった。
魔王が翼を打つ。
青黒い炎が広がる。
「結界!」
僧侶の防御魔法が前へ出た。
炎がぶつかり、結界全体が震える。
「長くは持ちません!」
「右へ!」
魔法使いの指示で跳ぶ。
さっきまで俺がいた場所を、魔王の爪がえぐった。
床が割れる。
「話し合いに来たんじゃなかったんですか!」
「だから資格を確かめている!」
「確認方法が重い!」
魔王は容赦がない。
俺も剣を振るう。
魔王は爪で受け、体をひねってかわす。翼を畳んだ瞬間へ斬り込もうとしたが、今度は尻尾が飛んできた。
防ぐ。
押される。
強い。
ただ。
「また右」
魔法使いが呟いた。
俺も気づいていた。
魔王が本気で力を込める瞬間。
特に、炎を吐く前。
右の牙を噛み締めるように顎へ力が入る。
その直後だけ、動きが一瞬遅れる。
牙獣将と同じ。
「魔王様、やっぱり痛いんじゃ」
「戦闘中に余所見をするな!」
魔王の拳が飛ぶ。
慌てて剣で受けた。
「痛いか聞いただけです!」
「余は痛くない!」
「じゃあ今、何で左で噛みました?」
「知らん!」
知らんではないと思う。
魔法使いが笑いを堪えている。
「魔法使いさん!」
「だって……魔王まで同じなんだもの」
「笑うな!」
魔王の炎が飛んだ。
「笑ったのは俺じゃないです!」
理不尽だった。
戦士が横から斬り込む。
魔王は爪で受け止めたが、その隙に俺が距離を詰める。
「勇者、正面!」
「はい!」
聖剣を振るう。
魔王は片手で受けた。
凄まじい力比べになる。
床が軋む。
「なるほど」
魔王が低く笑った。
「確かに強い」
「ありがとうございます」
「歯を磨かれた後だけだが」
「そこは言わなくていいです」
魔王の口角が上がる。
その瞬間。
牙が触れたらしい。
「……っ」
ほんの少し。
でも確かに動きが止まった。
俺は剣を押し込まなかった。
そのまま力を抜き、一歩下がる。
魔王が目を見開いた。
「なぜ攻めぬ」
「痛いところ狙って勝っても、後味悪いので」
「戦いだぞ」
「だからです」
魔王はしばらく俺を見る。
戦士も剣を下げない。
僧侶も魔法使いも警戒したままだ。
ただ、空気だけが少し変わった。
「余を哀れんでいるのか」
「違います」
俺は首を振る。
「牙獣将の時もそうでしたけど、痛いなら痛いでちゃんと治した方がいいです。戦うなら、万全の相手と戦いたいですし」
「……」
「それに」
少し迷ってから続ける。
「魔王軍で歯とか牙の問題、かなり多いですよね」
「何?」
「補佐官さんからも聞きましたし、実際に兵士たちも困っていました。硬い保存食、甘い魔力菓子、牙の根元の腫れ、虫歯、噛み合わせ」
魔王の目が細くなる。
「貴様、随分と詳しいな」
「勇者になってから一番詳しくなった分野が口腔ケアなんです」
自分で言って悲しくなった。
魔法使いが肩を震わせている。
「笑わないでください」
「ごめん」
全然反省していない。
「魔王様」
僧侶が一歩前へ出た。
「痛みを抱えているのでしたら、一度見せていただけませんか」
魔王の翼がわずかに動く。
「断る」
「即答」
「敵に牙を見せるほど愚かではない」
それは分かる。
牙は魔族にとって武器であり、誇りでもある。
「なら、無理には見ません」
僧侶はあっさり引いた。
「ですが、痛みを我慢する必要もありません」
「我慢などしていない」
「してますよね」
「勇者は黙っていろ」
怒られた。
「魔王様」
魔法使いが杖を下げる。
「魔力だけなら、外からでも少し分かる。右上の牙の根元。そこに偏りがある」
「……」
「牙そのものか、歯茎か、魔力経路かまでは見ないと分からない。でも、戦闘中に噛み締めるたび乱れてる」
魔王は答えない。
その沈黙が答えみたいなものだった。
戦士が俺を見る。
「勇者」
「はい」
「どうする」
「話したいです」
迷いはなかった。
「戦って勝つことはできるかもしれません。でも、それだけだと今までと同じなので」
魔王の赤い目を見る。
「四天王たちとは、戦った後に話せました。魔王様とも、そうしたいです」
「余は魔王だぞ」
「知ってます」
「人間の敵だ」
「それも知ってます」
「それでもか」
「それでもです」
魔王は黙った。
青い炎だけが揺れている。
長い沈黙だった。
やがて魔王はゆっくり翼を畳んだ。
「……一つ、聞こう」
「はい」
「もし余が、人間との戦をやめぬと言えば?」
「戦います」
「余を倒すか」
「止めるためなら」
「殺すか」
少しだけ考える。
「できれば、殺したくないです」
魔王の目が細くなる。
「甘いな」
「よく言われます」
「四天王にもか」
「だいたい全員に」
魔王の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
そしてまた右の牙に触れたらしい。
「……っ」
「今の、痛みましたよね」
「黙れ」
「はい」
もう隠し切れていない。
魔王は片手で口元を押さえ、しばらく黙ったあと、玉座へ視線を向けた。
「余の牙は、魔王の象徴だ」
「はい」
「弱っていると知られれば、兵の士気にも関わる。四天王にも、詳しくは話していない」
やっぱり。
「でも、補佐官さんは知ってそうですよね」
「……あれは何でも記録する」
「やっぱり」
管理役、怖い。
「牙獣将から、長柄ブラシの報告も来ている」
魔王は不機嫌そうに続ける。
「『人間由来の技術だが、魔族の牙にも有効。魔王様も検討されたし』とな」
「かなり踏み込んでますね」
「余計なことを」
でも、捨ててはいないらしい。
「魔王様」
僧侶が柔らかく言う。
「まずは痛みだけでも抑えましょうか」
「……」
「治療するかどうかは、その後に決めても構いません」
魔王はしばらく迷っていた。
威厳ある魔王。
ドラゴンの角、翼、尻尾、鋭い牙。
その全部を持ちながら、今は少しだけ口元を気にしている。
ギャップがすごい。
「笑うな」
「笑ってません」
「顔に出ている」
「すみません」
魔王はため息をついた。
「今日は、ここまでだ」
「戦いもですか」
「余も、貴様の力は見た」
こちらをまっすぐ見る。
「歯を磨かれなければ弱い。だが、仲間を頼り、その力を恥じずに使う」
少し間があった。
「そこは認めよう」
「ありがとうございます」
「調子に乗るな」
すぐ釘を刺された。
魔王は玉座へ戻り、座る。
「戦争については、まだ答えを出さぬ。だが、補佐官たちが持ち帰った報告も、貴様らの話も、無視はしない」
それだけでも十分だった。
「では、次に」
僧侶が一歩前へ出る。
「牙の状態を――」
「待て」
魔王が手を上げた。
「何ですか?」
「一つ条件がある」
嫌な予感がする。
「勇者」
「はい」
「貴様が先に口を開けろ」
「なぜですか」
「余ばかり見られるのは不公平だ」
全員が黙った。
「俺、さっき三人に磨かれましたけど」
「知っている」
「見てたんですよね」
「見ていた」
魔王は真顔だった。
「ならば、もう一度見せろ」
「何を?」
「人間式の歯磨きとやらを」
魔法使いが吹き出した。
戦士は額を押さえ、僧侶は少し楽しそうに笑っている。
俺だけ笑えない。
魔王軍の頂点まで、歯磨きに巻き込まれ始めている。
「魔王様」
俺は聞いた。
「もしかして、興味あるんですか?」
「ない」
「即答」
「比較のためだ」
「牙獣将と同じこと言ってます」
「一緒にするな!」
魔王の声が響く。
直後、また右顎を押さえた。
「だから大声は控えてください」
僧侶に注意される。
魔王は黙った。
四天王に続き。
魔王まで患者扱いされ始めていた。
世界を救う最終決戦。
その入口で。
俺たちは、魔王の牙について話し合っていた。
やっぱり何かがおかしい。
### 次回予告
僧侶
「では、右側の牙を少し見せてください」
魔王
「断る」
魔法使い
「さっきより腫れてるわよ」
魔王
「見ていないと言っただろう!」
勇者
「魔王様、口を開けないと分かりませんよ」
魔王
「先に貴様が開けろ」
勇者
「なんで俺まで」
戦士
「比較したいらしい」
魔王
「そうだ。比較だ」
牙獣将
「性能確認と同じだな!」
魔王
「貴様は黙れ!」
次回、第18.5話
「魔王様、人間式の歯磨きを観察する」
魔王、ついに人間式口腔ケアへ踏み込む。