他人に歯磨きしてもらわないとレベル99になれない勇者です【完結】 作:きのこ大三元
「なぜ余が。魔王たる余が、勇者の歯など磨かねばならんのだ……!」
魔王の間に、地の底から響くような低い声が広がった。ついさっきまでなら身構えていたと思うけれど、本人が右顎を押さえながら言っているせいで、どうにも締まらない。
「大声は控えてください」
「……分かっている」
僧侶に注意され、魔王が素直に声を落とした。
決着はもうついている。俺たちは魔王を倒し、魔王もこれ以上戦う意思は見せていない。そして戦闘中に発動していた勇者の加護も、とっくに時間切れを迎えていた。
現在、レベル5。
剣を持つくらいなら問題ないが、この状態でもう一度魔王と戦えと言われれば普通に無理である。
そんな俺は今、魔王の間に持ち込まれた椅子へ座らされている。その正面では、先ほどまで世界の命運を懸けて戦っていたドラゴン娘の魔王が、人間用の歯ブラシをものすごく嫌そうな顔で睨んでいた。
状況がおかしい。
「では、始める前に確認します」
僧侶が俺たちの間へ入った。
「勇者様本人の同意が必要です」
「はい」
「魔王様も、嫌であれば断って構いません」
魔王がこちらを見る。俺も魔王を見る。
「断ってよいのか」
「もちろんです」
「なら断る」
「そうですか。では今回は中止ですね」
「待て」
早かった。
僧侶が止める間もなく話を終わらせようとすると、今度は魔王の方から引き止めた。全員の視線が集まり、魔王はしばらく黙る。鱗に覆われた尻尾の先だけが、石床をゆっくり二度叩いた。
「……余が磨いた場合、本当に加護が発動するか確認できるのだな」
「たぶんね」
魔法使いがすぐ食いついた。
「今まで敵対していた相手が担当した例なんてないもの。条件の切り分けとしてはかなり重要よ」
「実験扱いしないでください」
「重要な確認でしょ」
完全に研究者の顔だった。
「つまり」
魔王の視線が俺へ戻る。
「余が勇者へ力を与える可能性があると」
「本人同士が納得して行うのであれば、そうなります」
僧侶が答える。
魔王は俺を見る。
俺も見る。
「……やります?」
「なぜ貴様がその言い方なのだ」
「俺もこの状況をどう扱えばいいのか分からないので」
魔王は深く息を吐いた。
「よい。敵味方に関係なく加護が発動するというなら、確認しておく価値はある。今後の交渉にも関わるからな」
ちゃんと理屈は通っている。
たぶん本人も、そういうことにして自分を納得させている。
「ただし」
魔王が歯ブラシを指さした。
「余は人間用の道具など知らんぞ」
「そこはこちらで確認します。まず手を洗ってください」
「もう始まるのか」
「衛生面は大事です」
世界を支配しようとしていた魔王が、僧侶に手洗いを指示されている。
ものすごい光景だった。
魔王が渋々洗い場へ向かうと、戦士が俺の隣へ立った。
「勇者」
「何ですか」
「魔王の力加減を見る」
「俺で?」
「お前以外に誰がいる」
正論だけど怖い。
「強かったら止めてくださいね」
「当然だ」
少し安心した。
反対側では魔法使いが杖を構え、すでに観察する気満々になっている。
「私は魔力反応を見る」
「なんか警戒してません?」
「当然でしょ。さっきまで敵だったのよ」
「もう決着はつきましたよ」
「それでも、変なことしたら止める」
「変なことって何ですか」
「知らない」
本人も分かっていなかった。
ただ警戒しているだけらしい。
やがて魔王が戻ってきた。濡れた手を布で拭きながら、まだ納得していない顔をしている。
「なぜ余がここまで」
「衛生管理です」
僧侶は強い。
「では、こちらを持ってください」
差し出されたのは、予備の人間用歯ブラシだった。魔王は柄を二本の指でつまみ上げ、表と裏を確認するように眺めてから、毛先へ軽く触れる。
「小さいな」
「人間用なので」
「牙獣将が長柄を欲しがる理由も分かる」
そう言いながら、今度は親指で毛先を少し押した。
「柔らかい」
「歯茎を傷めないためです」
「これで汚れが落ちるのか?」
「強く押しつける必要はありません。毛先をきちんと当てて、小さく動かした方が効率的です」
僧侶の説明を聞き、魔王が少し考える。
「牙でも同じか?」
「基本は同じだと思います。ただし、牙の形や魔族の歯茎については種族差がありますから、一概には言えません」
「なるほど」
普通に勉強し始めた。
「魔王様、興味ありますよね」
「ない」
「さっきから質問多いですけど」
「軍務だ」
「便利ですね、その言葉」
「黙れ」
怒られた。
僧侶が俺の前へ小さな台を置き、その上にコップと水差し、布を並べる。
「勇者様、もう少し深く座ってください」
「はい」
姿勢を直す。
魔王が正面へ立った。
角。
大きな翼。
鱗の走る尻尾。
魔王軍を統べ、四天王を従え、ついさっきまで俺たちと本気で戦っていた存在。
その右手には歯ブラシが一本。
やっぱり何かがおかしい。
「……口を開けろ」
「言い方が怖い」
「では何と言えばよい」
「普通に『お願いします』とか」
「なぜ余が頼む側なのだ」
「俺が磨かれる側だからでは?」
魔王の眉間へ皺が寄った。
「勇者様」
僧侶が横から割って入る。
「あまり刺激しないでください」
「俺が悪いんですか」
たぶん少し悪かった。
魔王は歯磨き粉の蓋を開け、そのまま毛先へ乗せる。
「多すぎる」
魔法使いが即座に言った。
「これくらいではないのか」
「多い。勇者の口が泡だらけになるでしょ」
「余に指図するな」
「失敗されたら困るのはこっちなの」
二人の視線がぶつかった。
早くも嫌な空気である。
「少し減らしましょう」
僧侶が間へ入り、歯磨き粉を適量へ整えた。
さすがだった。
「では、お願いします」
俺は口を開ける。
魔王が歯ブラシを持ったまま止まった。心底嫌そうに俺の口と歯ブラシを交互に見る。
「……なぜ余が」
「まだ言います?」
「言わせろ」
諦めてはいなかった。
それでも魔王は一歩近づき、俺の顔を少し覗き込む。
「動くな」
「はい」
歯ブラシの毛先が、前歯の表面へ触れた。
思わず肩に力が入る。
魔王の力は嫌というほど知っている。爪の一撃で石床を砕き、剣を受け止め、翼の一振りだけで人間を吹き飛ばせる相手だ。その手に握られているものが今は歯ブラシだとしても、体の方は簡単には納得してくれない。
「力が入っているぞ」
「そりゃ入りますよ」
「抜け」
「魔王様が言います?」
「口を動かすな」
注意された。
ところが。
痛くない。
むしろ、驚くほど軽かった。
魔王は毛先を歯へ押しつけるのではなく、前歯の表面に触れさせる程度の圧で細かく動かしていた。一本ずつ形を確かめるように角度を変え、そのまま犬歯へ移る。歯の丸みに沿って柄がわずかに傾き、次は歯茎との境目へ毛先だけを滑り込ませた。
強い手なのに、動きが細かい。
思ったより上手い――どころではない。
かなり上手い。
「魔王様」
「喋るな」
「上手いですね」
ブラシが止まった。
魔王の赤い目が細くなる。
「馬鹿にしているのか」
「本当に言ってます」
「なぜ余が褒められねばならん」
「上手いからでは?」
「黙れ」
褒められて不機嫌になった。
難しい。
横で見ていた魔法使いも、少し意外そうな顔をする。
「……確かに上手い」
「何だ」
「力加減。毛先が潰れてないし、歯茎にもほとんど余計な圧がかかってない」
戦士も腕を組んだまま頷いた。
「無駄な動きも少ないな」
魔王の尻尾が、一度だけ床を叩く。
「当然だ」
ちょっと嬉しそうだった。
「魔王様、ご経験が?」
僧侶が尋ねる。
「他人を磨いたことなどない」
魔王は答えながら、俺の頬側へ歯ブラシを回した。口角に柄をぶつけないよう少し斜めへ入れ、奥歯の外側へ毛先を当てる。
「だが、竜種の牙は人間の歯より大きい。根元も深く、力任せに擦れば歯肉を傷める」
ブラシの角度が変わった。
奥歯の表面を横からなぞり、そのまま歯と歯茎の境目へ毛先を寄せる。大きく動かさず、一か所ずつ位置をずらすような手つきだった。
「牙を清める時は、先端ばかり見ても意味がない。汚れが残りやすいのは根元だ。硬い鱗と違い、歯肉は簡単に傷つくからな」
普通に詳しい。
「ドラゴン娘だからですか」
「その呼び方をやめろ」
「ドラゴンでは?」
「竜種ではある」
「娘では?」
「勇者」
低かった。
「はい」
大人しくした。
魔王は指先で俺へ少し大きく口を開けるよう示し、今度は歯ブラシを奥歯の内側へ入れた。柄を立てたり寝かせたりしながら、舌に触れないぎりぎりの位置を通していく。
自分で磨く時でも届きにくいところだ。
なのに、手つきに迷いがない。
歯そのものへ力をかけるのではなく、歯列の形に合わせて毛先の向きを少しずつ変え、届かない場所へだけ入れてくる。俺が舌を動かしそうになると、その前にブラシが一度離れ、落ち着いたところでまた戻ってきた。
魔法使いが杖を俺の口元へ向ける。
「磨き残し、かなり減ってる」
「本当ですか」
「今喋らないで」
魔王と魔法使いから同時に注意された。
「はい」
二人とも細かい。
「人間は歯列が小さいな」
魔王が呟く。
「竜種より曲線も緩い。だが、奥は狭い」
歯ブラシの柄が少し寝る。毛先だけが、一番奥の歯の内側へ入り込んだ。
「この辺りは、大きな牙の裏を磨くより面倒だ」
そう言いながら、ちゃんと届いている。
僧侶が感心したように頷いた。
「ご自身の牙を手入れしてきた経験が、そのまま活きていますね」
その瞬間。
魔王の手が止まった。
「……何だ」
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「魔王様も、昔からきちんと牙を磨いていたのですね」
沈黙。
「当然だ」
一拍置いて。
「昔はな」
今度は、俺たち全員が止まった。
右牙。
腫れた顎。
戦闘中にも何度か見せていた痛み。
そこまで来れば、さすがに話は繋がる。
「最近は?」
俺が聞く。
「勇者は黙って口を開けていろ」
答えなかった。
たぶん、理由はいくらでもあったのだと思う。
戦争。軍の管理。四天王への指示。各地の戦況。魔王としての立場。
どれだけ牙の手入れに詳しくても、自分自身のことを後回しにする理由なら簡単に積み上がる。
僧侶も、それ以上は追及しなかった。
ただ静かに、魔王の手元を見ている。
魔王は再び歯ブラシを動かし、前歯の裏側へ毛先を通した。最初はあれだけ不満を並べていたのに、いざ始めてからの仕事は妙に丁寧だった。歯列を一通り確認し、磨いた場所へ重ねて無駄に擦ることもない。
「……これでよいか」
やがて魔王が歯ブラシを離した。
魔法使いがすぐ杖を向ける。
「待って。右奥に少しだけ残ってる」
「どこだ」
魔王が即座に聞いた。
「この辺」
杖の先から出た淡い光が、頬越しに位置を示す。
「なるほど」
魔王は迷わずブラシを戻した。さっきより柄を少し寝かせ、奥歯の一角へ毛先を入れる。
「そこ」
「分かっている」
「強くしないで」
「分かっていると言っている」
「二人とも怖いんですけど」
「黙ってて」
「黙っていろ」
息ぴったりだった。
俺だけつらい。
数秒後、魔王が今度こそ歯ブラシを離した。
「終わりだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「なんでですか」
「屈辱が増す」
複雑だった。
僧侶からコップを受け取り、口をすすぐ。水と一緒に歯磨き粉の泡を吐き出すと、舌で触れた歯の表面が妙に滑らかだった。少なくとも磨き方そのものについては、文句のつけようがない。
魔王は腕を組み、少し離れたところからこちらを見ている。魔法使いは杖を向けたまま。戦士も、まだ完全には警戒を解いていなかった。
誰も喋らない。
一瞬だけ。
本当に何も起こらないのではないかと思った。
「……失敗?」
魔法使いが呟く。
次の瞬間。
胸の奥で、光が弾けた。
「っ――」
熱が心臓から一気に全身へ走った。さっきまで少し重かった腕から余計な感覚が消え、指先まで力が通る。視界が澄み、音が遠くまで拾えるようになり、空になっていたはずの体内へ魔力が一気に満ちていった。
知っている感覚だ。
レベル99。
「発動した!」
魔法使いが杖を見て声を上げる。
「本当に?」
俺も拳を握る。
間違いない。
「レベル99です」
魔王の目が、わずかに見開かれた。
「……余でも発動するのか」
「みたいですね」
戦士が俺の肩へ手を置き、軽く押して状態を確かめる。
「先ほどと同じだ」
「魔力反応も問題なし」
魔法使いも杖の光を確認する。
「むしろ安定してる」
「むしろ?」
魔王がすぐ反応した。
「初回なのに」
「……当然だ」
また少し嬉しそうだった。
「魔王様、上手かったですからね」
「だから褒めるな」
怒られた。
僧侶が俺と魔王を交互に見てから、静かに口を開く。
「これで、加護の条件について一つ分かりましたね」
「条件?」
「敵か味方かは、直接関係していないのだと思います」
僧侶は、今度は俺へ視線を向ける。
「勇者様が受け入れていること。そして、磨く側も自分の意思で行っていること。少なくとも今回、その二つが成立した状態で加護は発動しました」
魔法使いも頷いた。
「一回だけだから断定はできないけど、今までの結果とも矛盾しないわね」
魔王が自分の右手を見る。
「余は、先ほどまで貴様の敵だった」
「はい」
「それでも余の手で、貴様は強くなる」
「みたいです」
不思議な話だった。
敵だった相手に歯を磨いてもらって、その結果またレベル99になる。
勇者の加護としては、かなりどうかと思う。
でも。
悪くない気もした。
「敵味方より、本人たちの意思ですか」
「おそらくは」
僧侶が微笑む。
魔王はしばらく黙っていた。
やがて、まだ手に持っていた人間用の歯ブラシへ目を落とす。
「……人間式の手入れにも、利用価値はある」
認めた。
「魔王様が認めましたね」
「調子に乗るな」
「でも認めましたよね」
「利用価値があると言っただけだ」
魔法使いが、にやりと笑う。
「じゃあ、魔王軍でも人間式歯磨きを採用する?」
「しない」
即答だった。
「え?」
「そのまま使う気はない」
魔王は歯ブラシを目の高さまで持ち上げた。
「人間用は小さすぎる。魔族には牙の長い種もいれば、口腔そのものが大きい獣人型もいる。炎を吐く種族なら、毛材や柄に耐熱性も必要だ」
止まらなくなった。
「長い牙には根元まで届く形状が必要になる。大型種なら柄の長さだけでなく強度も要る。歯肉の硬さも種族ごとに違う以上、毛先の柔らかさまで同じにする理由はない」
完全に詳しい。
補佐官と牙獣将が聞いたら、たぶんものすごく喜ぶ。
「つまり」
僧侶が確認する。
「魔族用に改良するのですね」
「そうだ」
魔王は当然のように頷いた。
「補佐官へ命じる。牙獣将が出していた試作案も再検討させろ。兵種と種族ごとに道具を分け、使用法も整理する」
「かなり本格的ですね」
「軍全体へ導入するなら当然だ」
戦士が眉を上げる。
「軍全体へ導入するのか」
魔王が止まった。
ほんの少しだけ。
「……必要な範囲でだ」
「今、全体って言いましたよね」
俺が言う。
「黙れ」
ばれていた。
魔法使いが笑う。
「人間の歯磨き、気に入ってるじゃない」
「違う!」
魔王が声を上げた。
そして。
「っ……」
すぐ右顎を押さえる。
「大声は控えてください」
僧侶にまた怒られた。
「……分かっている」
魔王は不機嫌そうに歯ブラシを睨んだ。
それから少し考え、低い声で言う。
「これは」
「何ですか?」
「これは、人間の歯磨きではない」
俺たち全員が魔王を見る。
魔王は歯ブラシを掲げたまま、妙に堂々と言い切った。
「魔王軍式だ」
沈黙。
「名前変えただけでは?」
「黙れ」
怒られた。
けれど、魔王の尻尾はさっきより少しだけ機嫌よく揺れていた。
こうして。
人間と魔族の戦争が正式に終わるより、ほんの少しだけ先に。
人間式を参考にしながら、人間式ではないと言い張る新しい口腔ケア――魔王軍式歯磨きが誕生した。
これが後世の歴史書にどう記されるのかは。
考えないことにした。
次回予告
補佐官
「魔王様、こちらが和平交渉の議題一覧です」
魔王
「多いな」
王女
「長く続いた戦争ですから」
研究者
「その前に、魔王による勇者の歯磨きデータを――」
魔王
「なぜ知っている」
牙獣将
「我も見たかったぞ!」
魔王
「なぜ広まっている!」
勇者
「たぶん補佐官さんです」
補佐官
「記録は必要ですので」
魔王
「消せ!」
次回、第20話
「人間と魔族、歯磨きから和平を始める」
世界を救う最後の仕事は、歯磨きではなく話し合い。
たぶん。